半世紀にわたり篋底(きょうてい)にひめられた本書の原稿
平成8年(1996)七月編集子が取材のために 名古屋「津田三省堂」の後継会社「ナプス」を訪れたさいに、同社の「大奥さん」津田幸子氏より拝受したのが島屋政一による「近代印刷の開祖 本木昌造翁伝」と題された未発表の自筆原稿でした。
島屋政一は大阪出版社の社長として『印刷文明史』『印刷美術大観』『近世印刷文化史考』などの編著書をのこした人物としてしられます。
「大奥さん」の津田幸子氏は津田三省堂初代津田伊三郎の姪にあたり、二代津田太郎の養女となって津田家三代目を継承されたかたで、大正13年(1924)うまれのかたです。
拝受した原稿は裸のままだったわけではなくて、厚表紙に黒いクロスの装本がほどこされて、針金の平とじながらいわゆる上製本風の三分冊の仕立てになっていました。
「例言」の最後には「昭和24年10月20日 著者しるす」とあり、原稿の最後には「昭和24年爽秋にしるす」とありますから、太平洋戦争の敗戦からまもなくのときにしるされたことがわかります。したがってほぼ半世紀にわたってこの貴重な原稿は津田家の篋底ふかくねむりつづけたことになります。
各巻の見返しや表題ページには「島屋蔵書」の印鑑がみられますし「津田」とも筆でしるされています。原稿そのものはきわめて明快な筆使いによる整然としたもので、加除添削のあとや、いわゆる「風船書き込み」がすくないものでした。
さらに特徴的だったのは図版の指示でした。几帳面に和紙風の薄紙に図版の概略をトレースするとともにそれぞれの出典を付記して、原稿のおおよその挿入箇所に糊づけされていました。
そうはいいながら敗戦後まもなくの原稿用紙ですからすっかり赤茶色に変色していて、扱いを乱暴にしますと破れるというよりは崩れ落ちるという状態になります。
津田幸子氏によるとこの未発表原稿が津田家の篋底ふかくしまわれたいきさつはつぎのようだったとされます。
「父が島屋政一さんからこの原稿をあずかったのは昭和25-30年ころだとおもいます。そのときからこれはとても貴重な未発表原稿だとされてきました。父は活字業者でしたが出版が好きでしたので、なんらかの書物にするように島屋政一さんから依頼をうけていたようです」
「ウチにこの原稿がきたときにはすでにこうした書物のかたちになっていたように記憶しています。それでもなにぶん戦後すぐで、津田三省堂もすべてを空襲でうしなっていましたから、父は気にしながらもついつい会社の再建に手をとられていたのでしょう。そうこうしているうちに島屋政一さんが亡くなられて、せめて原稿の散逸をふせぐためにと父が文箱に丁寧にしまっていたのがこの未発表原稿です。もしいまでもお役にたつようならこの原稿を世の中にだしてあげてください」
正直なところまことにおもい宿題をいただいた気分でした。
さりながら一読再読をかさねるうちに、この原稿はいたずらな本木昌造活字創始礼賛の書ではなくて、その事業を営利活動というよりはむしろ育英のことととらえている姿勢は新鮮なものがありました。また崎陽新塾をはじめとする施設を事業所というよりは「まなびの門」とする島屋政一の姿勢に共感をおぼえるようになりました。
もちろん歴史に「もし」は禁句でしょうが 本木昌造が明治2年(1869)に活字版製造の量産に成功してからわずかに6年後の明治8年(1875)に逝去することがなく、もしその命をながからしめていたら、新街私塾とはどんな姿になっていたのだろうと想像するだけでも蠱惑的なものがありました。
したがってこの未発表原稿はいまなお貴重なものであり十分上木に値するものだとかんがえるようになりました。
そこで著作権関係の調査をはじめたのですが、いくらしらべても著者としての島屋政一のことは手掛かり難でした。また昭和55年(1980)に島屋政一による『印刷文明史』の複製版を刊行された五月社でも前もって相当の調査をしたものの手掛かりがなく、また刊行後も島屋政一の親族などからの連絡はないとのことでした。
編集子はかつても印刷史におおくの記録をのこした三谷幸吉を調査したことがありました。三谷幸吉は『本木昌造平野富二詳伝』『本邦活版開拓者の苦心』などの書物をのこしました。そこでは記録対象者の生没年、出生地、家系図、事績調査、墓所の所在地、戒名などときわめて微細のことまで調査記録しているにもかかわらず、みずからのことはなにも記録していなくて途方にくれたことがありました。
島屋政一も「有り余る材料と、奔騰する筆端は説いて尽くさざるをえず、説けばつまびらかにせねば措かぬ」と評されたほどのひとでありながら、自分自身のことはほとんどなにも記録していません。
そのために小社のインターネットにほぼ 5年間にわたって「たずねびと」のコーナーをもうけて島屋政一と大阪出版社にかんする情報の提供を呼び掛けました。そこでは関西地区のすべての島屋姓の電話名簿の提供などのうれしい反響はいただいたものの、めぼしい情報をえることはできませんでした。
わずかにのこされた記録から判明した資料をしるしますと、島屋政一は愛媛県松山市にうまれて生石@しようせき@尋常高等小学校(現愛媛県松山市高岡町生石小学校)を卒業したことがわかりました。その後は新聞記者となり宮武外骨@みやたけがいこつ@(亀四郎 1867-1955)に師事したことがわかっています。
この宮武外骨とは讃岐(香川県)にうまれて『滑稽新聞』を発刊して政府批判や風刺をくりかえしたために再三筆禍にあった人物でした。またのちには東京大学法学部の「明治新聞雑誌文庫」の主任となり、著書として『筆禍史』『私刑類纂』『賭博史』などのおおくの書物をのこしました。
宮武外骨と島屋政一との交際の親密さは 全5巻のうちの唯一の寄稿者として『印刷文明史』第四巻に「日本新聞紙印刷の変遷発達 形式、活字、用紙、印刷、絵画、付録」として、ただ「外骨」とだけしるした24ページにわたる寄稿からもうかがうことができます。
島屋政一が妻帯したかどうかも判然としませんが「胸を病んだ、病弱な子供」がいて、その子息とつれだって箱根や日光での転地療養に再々でかけていたようです。
国会図書館の資料などをのぞきますと、その執筆期間は大正初期から昭和28年ころまでの40年をこえる長いものとなっています。
大正期には宮武外骨にしたがうことがおおくて「宮武外骨のスタッフ」だったとする記録をみます。また大正の末ころに大阪出版社を設立して社長に就任するとともに、大阪毎日新聞社社長 本山彦一(1853-1932)の支援をうけることがおおくなったようです。
島屋政一が設立した大阪出版社とは名前のわりにちいさなものだったようで『印刷美術年鑑』をはじめとする印刷技術や印刷史にかんする専門出版社だったとみられます。ですからむしろ社主にして主著者の島屋政一の個人会社であり、その支援者だったのが本山彦一翁だったとみられます。
島屋政一が編者、著者となった書物と、大阪出版社の刊行物を国会図書館のデータと編集子の蔵書とを刊行年順にあげると以下のようになります。
◎製本術
島屋政一著 大正11年 余田製本印刷機械製造出張所
◎現代活版術
島屋政一著 大正13年 大阪出版社
◎印刷美術大観
昭和
7年 大阪出版社
◎印刷文明史全5巻別巻1巻
島屋政一著 昭和
8年 印刷文明史刊行会
◎印刷美術年鑑
昭和11年 大阪出版社
◎近世印刷文化史考
島屋政一編 昭和13年 大阪出版社
◎日本版画変遷史
島屋政一著 昭和14年 大阪出版社
◎大東亜戦争記録画報
昭和18年 大阪出版社
◎英文大阪毎日学習号編
昭和18年 大阪出版社
◎聖山中田先生伝
島屋政一著 昭和28年 聖山会(非売品)
『本木昌造伝』のさきがけとなった『印刷文明史』
『印刷文明史』全5巻別巻1は島屋政一の畢生の書ともいうべき大著で、B5判で5巻の通算ページ数が3433ページという厖大なものです。また別刷り差し込み図版
202点、図版2600点という詳細をきわめたものでした。
『印刷文明史』は『印刷時報』をはじめとする印刷関連業界紙誌に20年ほどにわたって連載や単発で寄稿をかさねたものをまとめたものとされます。そのうちの別巻はほとんが索引であり刊行記念祝賀会の記録となっています。
しかしながらその執筆は驚異的ともいうべきスピードであり、組版、印刷、製本をになった合資会社谷口印刷所(大阪活版製造所の後継会社)の作業の速度もまた眼をみはるようなものがありました。
つまり島屋政一は各巻750ページほどの大著をまるで月刊誌のように、第1巻を昭和8年4月25日に発行して第5巻を昭和8年11月20日に発行するという、とても信じられないほどの速度でなしとげています。
『印刷文明史』は大阪毎日新聞社社長・本山彦一を刊行会会長、大阪府立図書館館長・今井貫一を副会長として、京都大学教授・新村出らを発起人とするいわば購買会のような予約出版方式によって刊行されました。
ところが本山彦一は同書の完成をみることはなく、その刊行を目前にして
昭和7年(1932)12月25日79歳にして逝去したようです。
刊行会としての当初の予約募集の数を100部とする記録をみます。ところが第1巻の奥付には「弐百部限定版」としるされました。
その実際は予約が予定をうわまわったために
320部を刊行して、著者島屋政一への献呈分が30部
のこりの290部を刊行会が会員への販売に付したと別巻にしるされています。
「印刷文明史刊行祝賀会」に出席した大阪の有力新聞の記者は口をそろえて、「『印刷文明史』はウエルズの『世界文化史大系』に比肩するものだ」としています。
ところが実際のところは一巻から三巻までは相当な部分を、近代アメリカの印刷史研究家、活版印刷業者、活字書体設計者のテオドール・デ・ビネ(Theodore
Low De Vinne
1828-1914)の論文「印刷術の発明」におうところがおおいものとみられます。
テオドール・デ・ヴィネはおおくの書物をのこしましたが、図版指示書などをみてもおそらく島屋政一はブルース活字鋳造所の有名な『Specimens
of Printing Types』(Bruce's New-York
Type-Foundry 1878)を所有していたものとみられます。
そこにはテオドール・デ・ヴィネによる大論文「Invention of
Printing」が200ページほどにわたって詳細に紹介されています。
このブルース活字鋳造所とはわが国にはおもに「ブルース活字鋳造機」のメーカーとしてしられています。本書でも島屋政一が触れているとおり本木昌造はウィリアム・ガンブルから長崎製鉄所付属の「活版伝習所」において、最初は「ハンド・モールド」の提供をうけ、まもなく上海経由によって「ブルース活字鋳造機」を導入したものとみられます。
「ブルース活字鋳造機」とは
2代目デヴィット・ブルースによって最初に実用化された手回し式活字鋳造機で、グーテンベルク以来の「ハンド・モールド」にかえて1838年にアメリカの特許が取得されて活字鋳造技術に新紀元をもたらしたとされるものです。その後1909年にシカゴのトムソン社によってアメリカの特許が取得された「自動活字鋳造機」が登場するまでは圧倒的に世界の活字鋳造現場でもちいられた機械でした。
したがって長崎製鉄所から勧工寮活字局へ移管された設備器材のリスト(『大蔵省印刷局百年史』)のうち「カスチング・マシーネ」とされているものがこれに相当するものとみられています。
これらのすでにあらかた消えていった鋳造式活字製造法の詳細を記述するのは困難がともないますが、さいわいなことに近年東京小石川に「印刷博物館」が設立されました。そこでは「ハンド・モールド Hand
mold」や、手回し鋳造機の「ブルース活 字鋳造機 Bruce pivotal
type caster」や、国産活字鋳造機の原型となった自動活
字鋳造機の「トムソン活字鋳造機 Thompson type
caster」などが展示されていますし、操作状況の詳細な実演がヴィデオテープによる解説つきでなされていますのでその実際をしることができます。
いずれにしても1892年におおくの活字鋳造所の企業統合によって誕生した「アメリカ活字鋳造会社 American
Type
Founders」の発足までは、ブルース活字鋳造所は全米第一の活字開発会社であり鋳造所でした。同書はブルース活字鋳造所の活字見本帳としての大著ですが、その組見本と印刷見本をかねて後半に紹介されたのがテオドール・デ・ヴィネによる「Invention
of Printing」でした。
『印刷文明史』第1-3巻は
その内容といい図版といい、おおくをこのテオドール・デ・ヴィネによっています。ところが『Specimens
of Printing Types』の巻頭には「Sizes of Printing
Types」つまりブルース式活字ボディのサイズ表が掲載されています。
このブルース式の活字ボディサイズとは一八八六年に全米の活字鋳造業者によって決定された活字や込めものなどのおおきさの単位、いわゆるアメリカン・ポイント制につらなった重要なものであり、アメリカン・ポイント制の制定をみるまでは圧倒的に全米でもちいられていた活字ボディサイズでした。
「例言」で著者島屋政一が述べているように、どうやら『印刷文明史』ではこの記述を看過していたことに若干の不満があったものとみられます。大阪を基盤とした島屋政一にとっては鋳造活字における「大阪サイズ」と「東京サイズ」の寸法の差異にも関心があったでしょう。とりわけ本書がしるされた昭和24年ころとは鋳造活字がとりあえず戦禍からの復興がなって、それだけに鋳造活字のおおきさとたかさの統一に議論があったころでした。
つまりわが国の鋳造活字はまたもとの本木式の号数体系によるのか、あるいは連合諸国の占領軍の駐留にあわせてアメリカ活字との整合性にとんだアングロ・アメリカン・ポイント制によるのか、あるいはまた昭和六年ころから東京築地活版製造所が提唱したメートル法にもとづく活字ボディサイズにするのかなどがさまざまに検討されていたころでした。
そのためもあって島屋政一はいささかこだわりをもって鋳造活字のボディサイズにかんして論及をかさねたものとおもわれます。こうしたさまざまな議論をへて昭和37年(1962)にようやく「日本工業規格(JIS
Z
8305)」の制定をみて、わが国の鋳造活字のボディサイズの高さを23.45ミリメートル、1ポイントを0.3514ミリメートルとして、それぞれに許容差をさだめるなどしたことによってようやく一定の基準をえることができたのです。
*
島屋政一がこの未発表原稿をのこした昭和24年(1849)には印刷学会出版部から注目すべき好著が2冊刊行されました。
ひとつは川田久長による『活版印刷史』(印刷学会出版部)でありいまなお研究者を中心として読みつがれています。
もうひとつは三省堂専務取締役にして印刷研究家の今井直一@なおいち@(1896-1963)による『書物と活字』(印刷学会出版部)でした。
『書物と活字』の評価はいまなおきわめてたかいものがあります。また今井直一は昭和26年(1951)三省堂社長に就任したばかりではなくて、文部省国語審議会委員、日本印刷学会会長をつとめるなど印刷研究家としての名をのこしたひとです。
ところがその主著『書物と活字』は機械式活字父型(母型)彫刻機(ベントン)の紹介をふくめて大半を『Typographical
Printing-Surfaces』(Lucien Alphonse Legros, John Cameron
Grant Longmans Green and
Co. 1916)によったことはあきらかです。
もちろんわが国の近代印刷術そのものがほとんど欧米からの移入型技術であり、島屋政一にしろ今井直一にしろその著述が翻訳型にならざるをえない側面があったとみられます。またこうした出版でも当時の風潮としてはとりたてて疑問視するようなことではなかったのでしょう。
いずれにしても島屋政一は『印刷文明史』のうち西洋編ともいえる
第1-3巻まではほぼ1巻1ヶ月のスピードでまとめています。ところが東洋編と日本編ともいえる第4-5巻とのあいだには眼病をわずらったためもあって、およそ2ヶ月の空白期間がみられました。その最終刊の校正のときには片目の眼帯を離せなかったといいますから相当の苦心のあげくの記述だったと想像されます。
『印刷文明史』の刊行をみて、昭和8年の暮れから昭和9年の初頭にかけて『関西日報』『夕刊大阪新聞』『東京時事新報』『大阪朝日新聞』『大阪毎日新聞』『帝国大学新聞』などが一斉に書評を展開しました。
とりわけ『大阪朝日新聞』は昭和8年(1932)の大晦日
12月31日付け「天聲人語」において以下のように『印刷文明史』を評しています。
昭和8年度において大阪人の事業の誇るべき一ツとして島屋政一氏の『印刷文明史』5巻、3500頁の著述完成がある▼筆を人類の発生より起こす。人間の歴史は人類の発
生にはじまるは言をまたず。そこまで遡らぬと気のすまぬ著者の潔癖に微笑をそそられるが▼古代エジプト、メソポタミアの文明を説き、アッシリアの楔形文字、フェニキアの音標文字を説くあたり、さながら古代史家の態度であり▼支那、朝鮮における印刷発達の経緯から、日本における大陸将来の古版はもちろん、幕末、明治初年の東西文化混淆におよび、諸新聞紙の簇出より▼超高速度の印刷機械の輸入、斯業先賢の苦心と発明と、豊富、丁寧な挿し絵図版で如実に示すところ、積年の収集にまつとはいえその絶倫の精力に敬意を表しなくてはならぬ▼氏が学究的態度をとったなら、款項節目に分析して、なお疎慢に語りえたかも知らぬが▼有り余る材料と、奔騰する筆端は説いて尽くさざるをえず、説けばつまびらかにせねば措かぬ。後日の研究者に至大の便宜を与えるや必定で▼絶賛に値す。
つづいて昭和9年(1934)1月23日『帝国大学新聞』において中川慎一はつぎのように紹介しています(部分)。
『印刷文明史』は大阪の島屋政一氏の筆になり、7ヶ月にして
四六倍判通頁3433頁、別刷挿し絵202葉、図版2600図の厖著全5巻に完成せられた。
著者は明治新聞雑誌文庫の外骨翁とともに『滑稽新聞』を営んだ人。故山本彦一翁の援けをうけ20余年の蘊蓄を傾けて苦汁半年、また病床失明の危機にも臨む。
……本書は文化沈滞期におけるわが国文化史の集大成である。そしてそれについてもっとも興味ぶかいのはそれがアカデミーの領域の産物ではなくしてジャーナリズムの領域の産物であり、文化の中心としての東京ではなくして、商売の中心としての大阪の出版であるということである。
そこに本書の長所があるとともに短所がひそんでいるともいえよう。だからその構成に章節がなくして、またその不統一をもってしても責めるべきではない。
このように『印刷文明史』は学術書というよりはもともと新聞記者出身の島屋政一によるジャーナリズムの書であり、それだけに記述のあちこちに長所と短所がひそんでいると両者ともそれとなくしるしています。
これは同時に本書の長所でもあり短所でもあるのかもしれません。つまりほとんどの引用にたいしてその出典が明確にはしるされていませんし、企業名の変遷にもきわめて無頓着のようです。
本書はそのおおくを既著としての『印刷文明史 第四巻』によっていますし、それはさらに『大阪印刷界』「本木号」(大阪印刷界社 1912)によっています。
したがって図版の指示書のおおくは『印刷文明史』『大阪印刷界』からのものですが後者の図版は石版印刷によるものもあり、いかにほとんどが最近では未紹介のものがおおいとはいえ原著そのものが不鮮明であり引用をためらわせるものがありました。
また島屋政一は厖大な蔵書のなかから縦横に引用をかさねていますが、その出典をしるすことはほとんどなく、また相当大胆な意訳をくわえていますし明治初期の「候文」「カタ仮名混じり文」は島屋政一によってほとんどが新仮名づかい、ひら仮名混じり文にあらためられていました。
したがって島屋政一が眼をとおしたであろう以下の書物にあたって、できるだけ引用や仮名づかいを検証することにしました。それでも出典にたどりつけないものもあり、さらには著者校正をへていないために誤字誤植のおそれをかかえています。その点にかんしては読者のご寛容をねがうばかりとなりました。
◎印刷雑誌
第1巻 明治24年 秀英舎
◎佐久間貞一小伝
豊原又男 明治37年 秀英舎庭契会
◎明治事物起原
石井研堂 明治41年 橋南堂
◎大阪印刷界本木号
明治45年 大阪印刷界社
◎大日本人名辞書[首・上・下]
大島秀雄 大正15年 同書刊行会
◎印刷美術大観
昭和
7年 大阪出版社
◎本木昌造平野富二詳伝
著者三谷幸吉 昭和
8年 同書頒布刊行会
◎印刷文明史全五巻別巻一巻
著者島屋政一 昭和
8年 印刷文明史刊行会
◎本邦活版開拓者の苦心
編者小糸正焼● 昭和
9年 津田三省堂
◎印刷美術年鑑
昭和11年 大阪出版社
◎近世印刷文化史考
編集島屋政一 昭和13年 大阪出版社
◎日本印刷大鑑
編集東京印刷同業組合 昭和13年 東京印刷同業組合
◎内閣印刷局七十年史
編纂内閣印刷局 昭和18年 内閣印刷局
さらに図版の引用先は島屋政一の付箋にしたがって『印刷文明史』『大阪印刷界』をもっぱらとしましたが、ほかにも前述の書目のほかに以下の書目からの引用を実施しました。
◎日本印刷年鑑
松永潤治 昭和28年 日本印刷工業会
◎日本印刷人名鑑
沢田辰三郎 昭和30年 日本印刷新聞社
◎印刷同友会二〇年史
市村道徳他 昭和36年 印刷同友会
◎長崎印刷百年史
田栗奎作 昭和45年 長崎県印刷工業組合
◎京都印刷一千年史
同書編集委員会 昭和45年 京都府印刷工業協同組合
◎新版印刷辞典
日本印刷学会 昭和49年 大蔵省印刷局
◎日本全史
宇野俊一他 平成 3年 講談社
◎東京の印刷組合百年史
百年史刊行委員会 平成
3年 東京都印刷工業組合
◎Manual Typographique
1764年 Pierre Simon
Fournier
◎Specimens of Printing Types
188年 Bruce's
Type-Foundry
◎Typographical Printing-Surfaces
Lucien Alphonse Legros, John Cameron Grant
1916年 Longmans
Green and Co.
◎Printing 1770-1970
Michael Twyman 1970年 Eyre &
Spottiswoode
◎Production for the Graphic Designers
James Craig
1974年 Watson-Guptill
なにしろ複雑多岐にわたる著述であり多様な図版引用でした。また組版上の誤字誤植のチェック、さらには誤伝、訛伝にわたるおそれがある部分では著者との相談ができない状態にあり、おおきな不安をかかえながらの編集となりました。
つまり本書の原稿が篋底にねむっていた半世紀ほどのあいだに、わが国の印刷史や活字史の研究はそうとうの進捗をみせたために誤伝や訛伝とおもわれる箇所がなくはなかったのです。したがいまして現在の研究との齟齬やへだたりのみられるものの一部には丸括弧つきでその相違をしるしました。
そういう意味では本書は近年の印刷史と活字史研究の時計の針をいささか逆回転させるおそれをなきとしません。それは編集子ののぞむところではなく本書はあくまでもノンフィクションであり本木昌造研究におおくの示唆をあたえる書物であってほしいとかんがえます。
そのためにここに本書の著述後のめぼしい研究書をあげて読者の参考にしていただきたいとぞんじます。
◎活版印刷史
川田久長 昭和24年 印刷学会出版部
◎書物と活字
今井直一 昭和24年 印刷学会出版部
◎矢野道也伝記並論文集
大蔵省印刷局編 昭和31年 大蔵省印刷局
◎長崎洋学史[上巻・下巻・続編]
古賀十二郎 昭和41年 長崎文献社
◎明朝活字
矢作勝美 昭和51年 平凡社
◎活字=表現・記録・伝達する
矢作勝美 昭和61年 出版ニュース社
◎組版原論 タイポグラフィと活字・写真植字・DTP
府川充男 平成 8年 太田出版
◎歴史の文字−−記載・活字・活版
西野嘉章編 平成
8年 東京大学総合研究博物館
◎佐久間貞一全集[全]
矢作勝美 平成10年 大日本図書
◎日本印刷技術史
中根 勝 平成11年 八木書店
◎本と活字の歴史事典
大内田貞郎他 平成12年 柏書房
また近年中国や韓国でも印刷工業史の研究が進捗しています。そのうちのいくつかもあわせてご紹介しておきましょう。
◎中国印刷史
張 秀民 1989年 上海人民出版社
◎上海近代工業史
徐 新吾 1998年 新華書店上海発行所
◎中国活字印刷史
張秀民他 1998年 中国書籍出版社
ふたたび本木昌造の「まなびの門」につどう
編集がふかまるのにつれて図版に不足や鮮明さを欠いたものがおおいことが判明して、おおくの先賢、友人の協力をあおぐことになりました。
矢作勝美氏、櫻井孝三氏、板倉雅宣氏、山本太郎氏、春田ゆかり氏、木村雅彦氏、白井敬尚氏、郡淳一郎氏、印刷図書館からはたくさんの資料や写真を拝借しました。
また印刷博物館においては貴重な蔵書の複写撮影を許可していただいて本書の巻頭をかざることができました。
とくにしるして深甚なる感謝の念をあらわしたいとぞんじます。
本書の扉ページなどにもちいた「新街私塾」「長崎港新町活版所」「長崎活版製造会社之印」などはいずれも島屋政一の『印刷文明史』所収のものをデジタル技法によって再現したものです。
また三谷幸吉『本木昌造・平野富二詳伝』からは左記の図版をやはりデジタル技法によっておこしました。三谷幸吉はこれを大略以下のように紹介しています。
本木家の家紋は
代々「丸に本」(第1図)だったが、本木昌造先生の代になってひら仮名の「も」の字を連結して第2図のようにした。
「M」を横にしたというのは誤りであろう。
大阪活版製造所(現谷口印刷所)の商標は本木昌造先生の家紋たる
第2図をもちいている。
一方東京の方(現東京築地活版製造所)は平野富二氏との関係があって
最初は第3図のように「二重丸にH」のものだったが、明治13年からは本木昌造先生の家紋とHをあわせた第4図となった。としています。
また本書に使用した電子活字はさまざまなものをもちいていますが、本文用には森川龍文堂森川健市の開発による「新体四号明朝体」をもとにモリサワ株式会社が電子情報化した電子活字「リュウミン
R-KL」をもちいました。
森川健市は「例言」にも登場する人物であり、森川龍文堂はその源流をたどると大阪活版製造所になり本木昌造につらなることを秘かな誇りとしていた人物でした。
また「例言」にもちいた電子活字書体は、札幌の深宮活版製造所の仮名書体をもととしてリョービ株式会社が再設計して電子活字として発売している「本明朝−M新小仮名」です。
同様にタイトルにもちいた『本木昌造伝』の書体も深宮活版製造所の初号明朝体活字からデジタル技法によって再現したものを使用しました。
本書にも記載されているとおり深宮活版製造所は明治時代からのふるい歴史を有しており、その活字のおおくは東京築地活版製造所からの供給をうけていたとされます。
*
ところでいつもは比較的高踏的な編集をつづけているスイスの「TM誌 Revue
suisse de l'imprimerie」が
1994年3号において突如全ヨーロッパのグーテンベルク像、肖像画、コインなどを収集して24ページにわたる大特集を組んで読者をおどろかせたことがあります。
その一方さきに紹介したテオドール・デ・ヴィネはおそらくネーデルランドなどの低地帯地方の出身者とみられ『印刷術の発明
Invention of
Printing』においてもオランダの活字版創始者とされるローレンス・コスター(Lawrence
Janszoon Coster 1370-1410)のことをいくつもの図版を駆使して
40ページ以上にわたって紹介したあとに、ようやくヨハン・グーテンベルクをいかにも渋々といった調子で
4ページで簡単に紹介しています。
わが国においても本木昌造を近代活字版製造と近代印刷術の始祖、鼻祖、発明者、創始者としてあまりに過大評価するかたむきがみられなかったわけではありません。
拙著『活字に憑かれた男たち』でもしるしましたように、三谷幸吉と川田久長のあいだではかなり熾烈な論争がかわされたのもそうした風潮を背景としたものでした。どうも洋の東西をとわずに日頃は冷静な書物形成法の研究者たちもことその始祖のことになると幼児性をあらわにしてムキになってしまうなにものかがあるようです。
さりながら冒頭にしるしたように、この書物はいたずらな本木昌造活字創始礼賛の書ではなくてその事業をむしろ育英のことととらえて、本木昌造とその一連の施設、すなわち新街私塾、長崎活版製造会社、大阪活版製造所、東京築地活版製造所を「まなびの門」としるすことたびたびでした。
いまふたたび読者とともに本書をつうじて「まなびの門」にあいつどい、活字版製造と活字版印刷のことをかんがえるよききっかけとなれれば幸いこれにまさるものはありません。
平成12年 首 夏
東京にて 編集子しるす