「逆行にかざしたドイツの近代造形運動」  より

 たまたま二度にわたって、ヤン・チヒョルト(1920−74)にかんする書物の翻訳出版にかかわりました。それはある意味では偶然であり、ある意味では必然だったのかもしれません。

 チヒョルトはなんとなく気になるひとでした。どうということもなく、その存在がおもくのしかかるひとでした。

 それだけではなくて、これもたまたま担当した、アメリカのグラフィックデザイナー、ポール・ランド(1914−96)の『ポールランド・A・デザイナーズアート』(朗文堂 1986 原題 Paul Rand : A Designer's Art 1985)は、それこそ随所にわたって、前期チヒョルトからの影響が顕著でした。ましてランド自身が、

「ヤン・チヒョルトが、ノイエ・ティポグラフィで成しとげた以上のことは、その後にはなにもない」

 とまで、あっけらかんとかたっていたのには、とても驚きましたし、デザインとアートを同列にかたろうとする、そのいささか強引な姿勢とあいまって、印象ぶかくのこりました。

 そんな書物づくりにかかわったことが契機になったのでしょうか……。

 それまで素朴に信じていた近代主義や、産業合理主義、あるいは機能主義のようなものに、またその信条にもとづいた造形にたいして、ボンヤリとした疑問が芽生えはじめました。

 もしかするとこの疑問には、結論をえることができないという、おおきな不安があります。またいま現在も正直なところ、みなくてすむものなら、知らなくてもすむのなら、このままのほうがいいのではないか……、といった気持ちもあります。

 なにもドイツ通だったり、ドイツ語につよいわけではありません。毎日毎日、辞書をひきひき、たどたどしい歩みを繰り返しているだけなのです。

 稿をすすめるにあたって、こうした漠然とした逡巡や葛藤が、どんどんおおきくなっています。

 さりながら事の本質に、できるだけ迫ったみたいという欲もあります。そのためには、あえて慎みをすてて、誤解や誤謬をおそれずに、蛮勇を発揮してのぞむ必要もありそうです。

 こうした理由から、もしかしたら本書では、結論をえることができないかもしれません。もしかすると、現代デザインが抱えている問題の所在を、読者のみなさんに提示することにおわってしまうのかもしれません……。

    *

 そもそもわたしの近代主義ごのみとは、たいした理由があったわけではありません。

 チヒョルトもまた、そうふるい時代のひとではありません。このひとはわたしたちとおなじように、20世紀にうまれました。

 そしてふたつの不幸な世界大戦を経験して、ナチが勃興したドイツからスイスにのがれ、20世紀をいっさんに駆けぬけたひとです。

 このひとはその人生において、おおくの矛盾をかかえながらいきたようです。そしてすべての妥協をこばんで、正しいものと邪悪なものを峻別して、それを善と悪とみなしました。

 チヒョルトは悪とみなしたものには、けっして妥協や無視をすることがなく、あらゆる手段をもちいて、はげしい糾弾をつづけました。

 その結果いつもまわりに波風がたって、孤立しがちでしたが、それをむしろバネとして、あまりにもはげしいデザイン人生をいきたひとでもありました……。

 また書籍形成法としてのタイポグラフィを、こよなく愛しながらも、むしろグラフィックデザインという、あたらしい職能に魅入られて、その可能性を開拓して、その新旧あい矛盾する価値観のなかで、悩み苦しんだひとでもありました。

 そして結果としては、所詮グラフィイクデザインとは広告を担うものでしかない……と悟って、あざやかなタイポグラフィの軌跡を、書物と活字にきざみさったひとです。

    *

 二〇世紀の初頭、一九〇二年うまれのチヒョルトは、日本の年号では明治三五年うまれになります。つまりせいぜいわたしたちの祖父や、父親の年齢にちかいひとです。しかもその逝去は一九七四年ですから、昭和四九年まで存命していたことになります。

 チヒョルトは、ナチからのがれて、一九三三年からはスイスに住んでいました。もちろんドイツやスイスと日本とは、とおくはなれているとはいえ、このひとほどまた、よく名前がしられている外国人デザイナーも、めずらしい存在かもしれません。

 その晩年には、スイスのオンセローネに住む、穏やかな老人となって、訪れるひとをまちかまえては、熱心にデザイン論議をしていたと伝わります。

 エディット・チヒョルト・クラマー夫人によれば、晩年には日本の手ぬぐいのコレクションにこだわっていたそうで、そのコレクションがのこっています。

 手ぬぐいの木綿だけのオーガニックな素材感、濃紺一色で染め上げられた、みごとなまでの抽象形態の展開を絶賛していたとも伝わります。

「いまなお非対象の概念と、抽象形態が、生き生きと躍動しているのは日本だ……」

 とその憧れをかたり、日本への旅行も望んでいたそうです。

 チヒョルトの日本への旅は、結局実現しませんでした。また知名度が高いわりに、チヒョルトと面談した、日本人の記録をまったくみないのは、とても不思議なことでした。

 ポール・ランドにおいても、チヒョルトの存在とは、その前半生の『ノイエ・ティポグラフィ』の提唱者としての紹介にとどまり、その主要な関心は、広告技法としての『ノイエ・ティポグラフィ』の実践にとどまるようにみられます。

 それはおそらく、新興勢力としてのグラフィックデザインが、興隆期をむかえていたアメリカやわが国にあっては、チヒョルトの後半生の、書籍形成者タイポグラファ としてのチヒョルトの存在は、難解であるがゆえに、どこか煙たがられ、すこしばかりの抵抗があり、また敬遠される存在でもあったとみられます。

 むしろその後半生を「転向」と決めつけて、「広告には有効だ」とした、前半生のチヒョルトの造形にだけ惹かれていたのが、意識の潜在下としての、デザイナーの本音だったのではないでしょうか。

 それだけにこのひとほどまた、勝手な解釈が蔓延して、おおくの伝説と神話につつまれているひとも、めずらしいひとでしょう。

 それはまたおおくの誤解者をうみ、同時にまた、おおくの信奉者もうみました。

 わたしが編集にかかわったヤン・チヒョルト関連の書物とは、ひとつはハンス・シュモーラーの抑制がきいた筆によるもので、ジョバンニ・マーダシュタイク(一八九二−一九七七)と、ヤン・チヒョルトとの比較人物論としての、『二人のタイポグラファ』(朗文堂 一九九四・二〇〇〇 原題 TWO TITANS Hans Schmoller 1990)でした。

 もうひとつはチヒョルトの自著としての『書物と活字』(朗文堂 一九九八 原題 MEISTERBUCH DER SCHRIFT Jan Tschichold 1952)でした。

 そこで、いままでの紹介で欠けることがおおかった、チヒョルトの波乱にみちた、そしてみじかい青春時代を中心に、しばらくドイツ南東部をみてみましょう。

 






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