*平野富二の題字は『BOOK OF SPECIMENS』(活版製造所 平野富二 明治10年 平野ホール所蔵)の奥付にある電気版図版から採取して補整しました。




ありがとうございました。
皆様のご協力をいただきまして
列席者115名の多数のご参列いただきまして
無事終了いたしました。




平野富二没後百十年記念出版
ヴィネット07.08号




近代日本の創建に貢献したひと
金属活字製造・活字版印刷・機械製造・造船・航海・海運・土木
平野富二没後百十年記念祭
平野富二碑移築除幕式


平野富二
(弘化3年8月14日−明治25年12月3日)
(1846.8.14 ─ 1892.12.3)


◎平野富二没後110年記念祭 平野富二碑除幕式
主 催  平野家一同
日 時  2002年12月1日 正午より
場 所  平野家墓苑(谷中霊園乙11号14側)
                (雨天決行)




平野富二碑



【平野富二碑について】

 平野富二の顕彰碑は谷中霊園甲1号1側に、発起人総代として東京築地活版製造所専務取締役・名村泰蔵、石川島造船所専務取締役・平沢道次、そのほか1261名の有志の醵金を得て
明治37年に建立された『平野富二君碑』がしられてきました。この碑は海軍中将正二位一等子爵榎本武揚が篆額をしるし、衆議院議員福地源一郎(櫻痴)が撰ならびに書にあたった豪壮なものです。ここには平野富二の孫にして著名な法学者、平野義太郎の『平和に生きる権利』の碑も建立されています。

 それにたいして、このたび東京への移築をみた
『平野富二碑』は、若くして逝ったわが子平野富二を悼んで、母親の矢次美祢(やつぐみね)の発願により、当時長崎一の言論人とされた西道仙の撰、平野幾み(碑文では次女喜美子)の書を得て、明治31年初冬に長崎・禅林寺の矢次家塋域に建立されたものです。それだけに、自慢の息子を、自慢の父を、近親の女性が心をこめて祖廟に建立した清楚なものです。

 その後長崎の
『平野富二碑』の存在は、わずかな文書記録によって紹介されたばかりで長年忘却されてきました。また矢次家の墓地はすでに棄縁されているとの風聞もありました。それが2001年11月24日に平野義和・正一父子の現地調査の結果、矢次家の墓苑はすでに破却されていたものの、無縁塔のなかからこの貴重な碑が発見されました。このたび平野富二没後110年記念祭を機縁として、平野家墓苑(谷中霊園乙11号14側)に移築され、除幕・披露のはこびとなったものです。

 


【平野富二碑 碑文紹介】
[正面]
平野富二碑
[正面向かって左]
              賜琴石斎西道仙撰
平野富二長崎人舊姓矢次興其始祖平野勘左右衛門
之後改今姓家世為町司考豊三郎母神邊氏生二子君
其次男甫三歳喪父又家貧不能支母竭力育之年
十三為御司番師本木昌造乗機船業航海将于魚腹葬
不可勝數遂漂流八丈嶋居于半季其難若可想矣
明治元年昌造陞飽浦製鐵所頭取也君補一等機関師
[裏 面]
三年昌造辭頭取君以權大屬任製鐵所及小菅造船
所主事是時立神船渠未竣工亦監其工事不幾為
工部省所管君罷職先此昌造製活字創活版所于
長崎新町世稱新町活版所此本邦鉛字之嚆矢也奮□
服從其業昌造嘗曰富二在吾復何憂既而設支社于
大坂横濱及東京欲大利於世五年君赴東京従事其社時文
運未盛以故利用活字者甚尠資金殆薄□矣君百折
不撓久之而業日盛旁起造船之業又開土木鐵道
社遂貲巨萬天下稱其達材惜哉年四十七病歿實明
[正面向かって右]
治二十五年十二月三日也葬東京谷中佛諡曰修善院
廣徳雪江居士妻安田氏生二女君性頴敏孝于親
篤于師其逸事載在商海英傑傳母在郷承終身
俸而安居養老者亦君之遺言云母働哭之餘為建碑
於先塋之側請余為之銘次女喜美子善書法而書之其銘曰
  貧而不屈 富而不驕 興家報国 遺績昭昭
 明治三十一年 初冬      平野君女史 敬書


[意訳と補遺をともなった読み下し紹介]
              賜琴石斎西道仙撰(しきんせきさいにしどうせん)

 平野富二君は長崎のひとで旧姓は矢次(やつぐ)氏なり。その始祖は平野勘左右衛門[三谷幸吉は大村藩士平野勘太夫とする]なり。のちにこれを改めて今の矢次の姓となす。家職は町司なり。
 父は矢次豊三郎、母は神辺氏の出で峯[美祢・峰・ミネとも]なり。二子あり。長男は重平、平野富二君はその次男で幼名は富次郎なり。齢三歳にして父を失い、母は力をつくしてふたりを育てた。齢13歳にして御司番[福地櫻痴は長崎奉行所隠密方御用所番とする]となる。
 師は本木昌造なり。汽船に乗り航海を業とする。暴風雨にあい、まさに魚腹に屠られようとする艱難をかさねて、ついに八丈島に漂着、半年ほどそこにとどまる。その難儀君おもうべし。
 明治元年[1868]本木昌造は飽浦製鉄所の頭取に昇進した。平野富二君は一等機関士に補された。
 明治3年[1870]本木昌造が飽浦製鉄所を辞したとき、平野富二君は長崎県権大属となって飽浦製鉄所および小菅造船所主事に任ぜられた。このとき立神船渠(ドツグ)はいまだ竣工しておらず、君はその工事を監督した。幾ならずしてこれらは工部省の所管となり、平野富二君はこれに先んじて職を辞す。
 本木昌造は活字を製して活版所を長崎新町に創設した。これ世に新町活版所として本邦鉛字の嚆矢(こうし)なり。平野富二君もまた奮起してその業務に従事した。
 かつて本木昌造曰く「平野富二が吾にある。またなにを憂うべきや」すでにして支社を大阪、横浜、東京に設け、世の中のためにおおきな利便となることを欲す。
 明治5年[1872]平野富二君は東京におもむきその社に従事す。ときに未だ文運盛んならずして活字を利用するものはなはだ少なし。そのために資金はほとんど底をつくありさまなれど、平野富二君は百折すれどもまだ倦まずという意気込みなり。
 ようやく活字版製造の業は日を追って盛んとなり、平野富二君は造船の業をおこし、また土木鉄道の社をひらいて、ついに巨万の富をなすにいたれり。天下は平野富二君を達材と称するにいたれり。
 惜しいかな齢47歳で病没せり。実に明治25年[1892]12月3日のことなり。東京谷中霊園に葬る。仏諡に曰く「修善院廣徳雪江居士」。
 君の妻駒子[コマとも]は長崎市外茂木の安田氏の出身で、ふたりの子女[長女は夭逝した琴、次女は婿に堺勇造をむかえて家督を相続した津類、三女は山口家に嫁した幾みの三女があった]をなす。平野富二君は性格が鋭敏で、親には孝行を尽くし、師にたいしては篤かった。その逸事は『商海英傑伝』[瀬川光行編著 三益社印刷部版行 明治26年4月1日]に記録されている。
 母峯は郷里にあって、平野富二君は終身母にたいして俸禄を贈った。母がやすらかに養老を安居できたのはまた平野富二君の遺言なり。母はこれを慟哭(どうこく)するあまり先塋(右せんえい左せんぞはか)のかたわらにこの碑を建立す。母の依頼によって余[西道仙]がこの碑銘をなす。次女喜美子[平野富二の三女幾み。君、キミとも]は書を善くするためにこの碑文を書す。その銘に曰く、

 貧にして屈せず 富んで驕らず 家をおこして国にむくい 遺績はあきらかである


 明治31年  初 冬              平 野 君 女 史  敬 書



【平野富二略年譜】

弘化 3年(1846) 1歳
8月14日長崎の矢次(やつぐ)豊三郎、美祢(みね)の次男として誕生。幼名は富次郎。
安政 4年(1857) 12歳
長崎奉行所番を仰せ付けられる。
文久 1年(1861) 16歳
長崎製鉄所機関手見習いを任命され機械学の伝習をうけた。翌年機関手となり、本木昌造に師事して汽船ヴィクトリヤ号(長崎丸1番 94トン)、チャールス号(長崎丸 138トン)の乗組み員となる。
文久 3年(1863) 18歳
吉村庄之助の養子となる。
元治 1年(1864) 19歳
11月ヴィクトリヤ号にて航海中に嵐のために難破漂流して、八丈島藍ヶ浦に漂着。半年余を同島にてすごした。
慶応 2年(1866) 21歳
徳川幕府海軍軍艦回天丸の一等機関手として下ノ関海戦に参軍する。養家をでて始祖の平野家を再興する。
慶応 3年(1867) 22歳
土佐藩雇用となり汽船夕顔、若紫、空蝉号などの一等機関手となる。坂本竜馬らの海援隊々士との親交がふかまる。
明治 1年(1868) 23歳
ふたたび長崎製鉄所にもどり、軍艦朝陽の一等機関手を勤めた。
明治 2年(1869) 24歳
長崎製鉄所付属の小菅修船所所長となる。
明治 3年(1870) 25歳
長崎県権大属に任じられ長崎製鉄所所長兼小菅船渠掛を命じられた。
明治 4年(1871) 26歳
工部省の設置にともない、長崎県権大属と長崎製鉄所所長・小菅船渠掛の職を辞す。
本木昌造の三顧の礼により長崎新塾活版所の事業一切を継承する。9月大阪・東京に上り左院ほかに活字を販売する。
明治 5年(1872) 27歳
7月東京に本格進出する。神田佐久間町(和泉町とも 現在の三井記念病院のあたり)に金属活字製造工場をもうける。
明治 6年(1873) 28歳
築地2丁目に工場を新築して金属活字の製造と販売に努力する。
長女琴(古登・コトとも 1873─1875.7.7)誕生。
明治 8年(1875) 30歳
松田源五郎・本木昌造ほかの出資者からの借財の一切を返還する。
明治 9年(1876) 31歳
一時期内務省所轄横浜製鉄所の借用人として加わって印刷機械などを製造。海軍省所轄石川島造船所の跡地を借用して石川島平野造船所を創業する。
次女津類(鶴・ツルとも 1876.9.30─1941.2.14)誕生。
明治11年(1878) 33歳
福沢諭吉を招いて貨客運送用小型蒸気船第一通快丸の進水式を挙行。この船は創業より7隻目となった。
明治12年(1879) 34歳
曲田成を上海に派遣して明朝体の改刻に着手する。横浜製鉄所を個人で借り受け石川口製鉄所とした。以後つぎつぎと新造船が完成する。また新潟・佐渡間の航海事業、函館器械製作所の設立などに着手する。
明治14年(1881) 36歳
三女幾み(喜美子・君・キミとも 1881.6.9─1937.11.28)誕生。
明治16年(1883) 38歳
中国への活字販売のために松野直之助ほかを派遣して修文館を開設する。石版印刷部を開設し、翌年には活字版印刷部も開設して、活字製造から印刷までの一貫態勢をひく。
明治17年(1884) 39歳
石川口製鉄所の設備を石川島に移転する。平野土木組を設立。穏田(渋谷)−目黒川の鉄道線路を請け負う。
明治18年(1885) 40歳
活字・印刷関連の組織を整理統合して株式会社東京築地活版製造所を設立する。一等砲艦鳥海の建造に着手する。翌年東京平野汽船組合を設立。
明治19年(1886) 41歳
日本鉄道などの鉄道敷設工事や横浜市水道管陸揚げ・敷設工事などで多忙をきわめた。脳充血の発作により右半身の自由をうしなう。以後療養につとめる。
明治20年(1887) 42歳
隅田川に架かるはじめての近代的鉄製大橋である吾妻橋を完成させた。
明治22年(1889) 44歳
東京平野汽船組合など4社が合併統合して有限責任東京湾汽船会社(東海汽船株式会社の前身)となった。
明治23年(1890) 45歳
鉱山事業に着手したが、出資者と意見があわず取り止めとなった。
明治25年(1892) 47歳
12月2日夜、東京市の上水道鉄管問題について日本橋小舟町田口亭にて演説中に卒中にて倒れる。翌3日没す。谷中霊園乙11号14側に葬る。法名修善院広徳雪江居士。大正7年11月18日従5位を追贈される。



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