Type review

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ライノタイプ・ライブラリー


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02

Sabon Next
サボン−改刻の歩みやまず

(組版工学研究会 河野三男)



1. ギャラモン書体からサボン書体までの歩み


 このたびライノタイプ・ライブラリー社から発売されたライノタイプ・プラチナ・コレクションのサボン・ネクスト書体を語るには、まず欧文活字書体の歴史から関連する出来事を抜き出す必要があります。つまりクロード・ギャラモンとロベール・グランジョンという、フランス・ルネサンスを代表するふたりのタイポグラファとその書体をめぐる史実と、それらをもとにした20世紀の書体開発の事情を知らなければ、ギャラモンの活字をモデルに設計されたサボン書体と、それをさらに改刻・拡充したサボン・ネクスト書体の真の価値が理解できないからです。その歴史はやや複雑ですが、すこし覗いてみなければなりません。

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「王のギリシャ語」を彫る父型彫刻師として16世紀フランスの印刷業界に名をとどろかせていたクロード・ギャラモン(1500−1561)が死去したあと、その未亡人は夫ギャラモンの弟子だったル・ベT世とアンドレ・ウェッチェルを財産管理人に指名して、ギャラモンがのこした大量の活字父型や活字母型の処分を依頼しました。ル・ベT世はギャラモンがのこした活字父型の大部分をネーデルランドのアントワープにあって、当時ヨーロッパ最大の規模を誇っていたプランタン印刷所に売却しました。そのほかのギャラモンの残りの活字父型と活字はウェチェルによってフランクフルトに運ばれました。

 クリストファ・プランタン(1520?−89)が経営するプランタン印刷所に移されたギャラモン活字は、1563年ころにフランクフルトから出向いていたジャック・サボン(?−1580)によって整理されました。サボンは未完成のまま残されていたギャラモンの活字父型を仕上げたり、活字母型の製作を任されたり、印刷所にある活字類の在庫調査などをしてプランタンを助けました。ちなみにプランタンは自分が経営に当っていた1555年から89年の35年間に、活字父型の数量と活字父型彫刻者の名前の特定、活字母型の数量などを記録する10回の徹底した棚卸を行ったそうです。またプランタンのところには、フランスからロベール・グランジョン(1513−1589)が 1563年ころから7年間ほど通っていたことがわかっています。

 サボンはプランタン印刷所に出向いたこともありましたが、もともとはフランクフルトのクリスチャン・エゲノルフが経営する印刷所で働いていました。エゲノルフが1555年に死去したあとはその印刷所を引き継いでいました。アントワープから戻ったときのサボンは、プランタン印刷所から複製原型としてのギャラモンの活字母型を持ち帰っていたようで、そののちのエゲノルフ印刷所で印刷された書物には、それまで見られなかったギャラモンの活字が見られます。

 サボンはやがて1575年にエゲノルフの娘と結婚しましたが その5年後に世を去り、残された婦人は印刷者のコンラッド・バーナーと再婚して、印刷所の名前をエゲノルフ・バーナー印刷所および活字鋳造所としました。この印刷所は1592年に発行した活字見本帳を残しています。これこそ「エゲノルフとバーナーの活字見本帳」として有名な大判の活字見本帳です。ここには一度パリからバラバラになって拡散したギャラモンの活字が再結集していました。つまりパリからウェッチェルが、アントワープからはサボンがそれぞれ持ち込んだギャラモン活字書体が「エゲノルフとバーナーの活字見本帳」となって誇らしげに掲載されていました。すなわちここには七つのギャラモン活字と、グランジョンのローマン体とイタリック体の全てが見られます。

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 さきほど名前のでた、ギャラモンの弟子で遺産執行人のひとりだったル・ベT世とは、1539−40年にかけてパリのロベール・エティエンヌの印刷所に弟子入りして、活字父型彫刻と活字鋳造を学んでいたギュローム・ル・ベ(1525−98)のことです。1545−50年の間にはヴェネツィアへ旅立って、ヘブライ語の活字を彫り、活字母型を作る経験を積んでいました。またル・ベT世は自身でもギャラモンの活字をモデルにして模刻をしており、その活字は息子のル・ベU世によって引き継がれました。ル・ベV世が他界してその未亡人も世を去った1698年には、ジャン・クロード・フールニエがル・ベ活字鋳造所を買収しています。ジャン・クロード・フールニエは、フランス印刷史上に名高いピエール・シモン・フールニエの父親です。
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 さて20世紀に入ると、1922年にギャラモン活字の復刻書体がアメリカのライノタイプ社から発売されて、1924年にはドイツのステンペル社から、1925年にはアメリカのルドロー・タイポグラフ社からとギャラモン活字が続々と世に出まわりました。

 ところがこれ以外のギャラモン活字、たとえば1922年にイギリスのモノタイプ社が発売したギャラモン書体でも、そのほとんどはたとえ書体名にギャラモンの名が冠せられたとしても、実際にはギャラモンの系譜をひくものではありません。これらの「誤ってギャラモンと呼ばれた活字書体」とは、17世紀になってギャラモン活字を模して製造されたジャン・ジャノンの活字にもとづいています。

 1960年代になるとドイツではようやく第二次世界大戦の戦禍からの回復が見られるようになりました。また金属活字にかわって光学式写真植字機が開発されて、タイポグラフィの周辺にも慌ただしい動きが見られました。

 そこでおもには公版書籍印刷を担っていたドイツ高等印刷組合は、欧州の歴史と伝統を誇るギャラモン活字をモデルにして、さらには20世紀後半の時代の好みと需要に合致する新しい活字書体の開発計画を企画しました。その計画とは当時の書物印刷の主流を占めていたふたつの活字自動鋳植機、すなわち行別活字鋳植機(ライノタイプ機)用と、文字単位鋳植機(モノタイプ機)用のメーカー間の規格の障壁を乗り越える活字の開発でした。そのほかにもさらに、小規模出版や端物印刷に向けてステンペル社の手組み用活字の開発も同一の企画として発想されました。

 このような三つの異なる活字組版システムに共通する活字書体の開発とは、いうにやすくとも、実際にはセット(字幅)を一定のユニットに等分化して統一させる必要がありました。したがってこれだけでも当時の活字・組版業界では画期的なことでした。ところがギルドの歴史を継承して、マイスター資格を有する誇り高いタイポグラファの会員によって構成されるドイツ高等印刷組合では、さらにさらに困難な条件を用意していました。それはほかの言語にくらべて、個々の単語のスペルが長いといったドイツ語の特徴を意識して、その可読性を維持する文字組版にむけた改良というテーマでした。

 つまりドイツ高等印刷組合が付与した条件のなかには、あらたにつくられる新書体とは、モノタイプ社版の「ギャラモン書体」のエックス・ハイトとウェイトに近づけて、字幅はおよそ 5パーセント狭めるという条項がありました。そのほかにも新興勢力の写真植字機にむけて、金属活字と同等の写植活字のデータを供給するという、より一層困難な条件もありました。

 こうしたドイツ高等印刷組合の企画には、四つの異なった機械システム上の制約や規格の壁が立ちはだかっていました。ですから当時からこの新書体の実現を危ぶむ声も聞かれましたし、会員自身も実現には半信半疑といったかたむきもみられました。ドイツ高等印刷組合は慎重な議論を繰り返した結果、この困難なプロジェクトの設計者として、ヤン・チヒョルト(1902−74)を選択しました。

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 大任を帯びたチヒョルトは、まず最初に「エゲノルフとバーナーの活字見本帳」を検証する作業に着手しました。アップライト・ローマン体ではギャラモン活字のセント・オーガスティン(13ポイント)とパラゴン(18.5ポイント)、イタリック体ではグランジョン作といわれる活字書体に注目しました。つぎには出典はどの見本帳のものかは不明ですが、ル・ベT世が新たに活字父型を彫って、その息子のル・ベU世に引き継がれたギャラモン・モデルの復刻書体プティ・カノン(28−30ポイント)という大きなサイズを精査して、自らの手で新しい書体の設計に着手しました。

 このように検証作業がおもには大きな活字サイズに集中したのは、オリジナルのギャラモンは、現代の技術とくらべると劣っていた印刷技術と、また粗悪な用紙に刷られていたために、活字書体の細部にわたる正確な姿がつかめなかったからでした。それからのチヒョルトはあまりにも困難な制約と勇気をもって闘いました。またちいさな妥協も避けることができませんでした。

 結局のところチヒョルトは、アップライト・ローマン体もイタリック体も、アセンダーを不本意ながら短くするという選択をしています。またイタリック体の字幅を五パーセント狭くできたとはいえ、それは十分な成果を得たとはいえないものでした。ユニットの制限でどうしても丸くつぶれたイタリック体が、テキストのなかでまとまりのない不調和を醸しだしてしまうのです。ただしアップライト・ローマン体とイタリック体との調和という点では見事な処理というほかはありません。

 したがってチヒョルトによって設計されたサボン書体は、オリジナルなギャラモン活字と、それをもとにして設計されたル・ベT世が彫った書体をともに比較検証しながら改刻したものだといえます。また同時に、16世紀の活字を検証して20世紀の技術環境のなかで再生させた改刻であり、あるいはほとんどチヒョルトによる新刻にちかい活字書体だったといえるでしょう。

 このときチヒョルトは、あたらしい書体にギャラモンでもル・ベT世でもグランジョンでもない、サボンという名称を与えたのはなぜだったのでしょう。その理由は、

 A 複刻版のギャラモン書体だと名乗るには畏れおおいことと思われた。

 B ギャラモン書体と名乗るには、技術上の制約から原字にかなり手を入れており、モデルの良さがそのままにはいかされなかったので、ギャラモンと名づけにくいと思われた。

 C ギャラモンという重い名をもつフランスのクラシック書体をドイツに持ち込んだ人物のひとりとしてサボンの名前を再評価するべきだとの考えが重なった。ということでしょうか。
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 ヤン・チヒョルトが『エレメンターレ・テイポグラフィ』の論文をひっさげて華々しく登場したのは23歳のときでした。チヒョルトがかりにエレメンターレ・ティポグラフィの考えを終生捨てなかったなら、あるいはまたその論点の中核たる、忙しい時代にあわせて、書物も商業広告のように文字情報の切れ端を視覚的に訴求するタイポグラフィに変革せよといいつづけたならば、チヒョルトの名はもはや歴史の記憶から消え去っていたことでしょう。

 おそらくチヒョルトは早熟な若者だったのでしょう。賢明なチヒョルトは後半生にもタイポグラフィの真摯な実践と勉強をつづけ、若き日の自分の考えを勇気をもって否定して、あらたなタイポグラフィのパラダイムを再提案しました。そのあらたなる提案とは壮大なるタイポグラフィへの実践論でした。

 この脱皮のときにチヒョルトはタイポグラフィの役割を定義しています。それによると広告印刷物、あるいは一種のビジュアル・ショックを狙いながら書物の体裁をとった印刷物はタイポグラフィの範疇には入らないとしました。後半生のチヒョルトはタイポグラフィの役割を、書物による読書(文章を連綿と読みつづける行為)を支援する技芸にあるとしました。それに気づいたことで活字の真の価値を理解することができました。そのために後半生のチヒョルトほど活字書体の研究と学習を推奨したデザイナーはいなかったのです。それはまた同時に自らの若き日の過ちを勇気をもって正すことでもあったのです。

 このようなチヒョルトの姿勢がドイツ高等印刷組合といった、実践派のタイポグラファの集団であり、かつまたグーテンベルクに根源を発する誇り高いマイスター集団からの評価を得て、はじめからおおきな困難が予測されたプロジェクトの全権を委任される結果となりました。またサボンと自ら名づけた書体に、期待を裏切ることなく希有の才能を発揮して鋭敏な空間把握の才を存分に発揮しました。

 つまり天与の視覚感性が鋭かったチヒョルトは、サボン書体の設計にさいしてはギャラモン活字をモデルにしながらも、また個々の文字におけるプロポーションの面では妥協しながらも、ギャラモン活字から普遍性を読み取り、それを巧みに受け継ぐことに成功しました。サボン書体はやがて写植用の活字にほぼそのまま移されて、ついではデジタル化された電子活字として現在にいたっています。そのためにチヒョルトの名前は、活字と印刷と書物に携わるひとびとの記憶にしっかりと植えつけられたのです。

2. サボン・ネクストについて

 定評ある欧文の本文用活字書体に共通する条件とはなんでしょうか。優れていると評価の高い書体に共通する特徴を思いつくままにあげてみましょう。

1. 意匠の様式化に調和があること。

奇異な感じを与える要素がなく、意匠として様式化された点画の造形の面で突出した部分がなく、適度な抑制があります。

2. 文字形象に調和があること。

よく見慣れた文字形象によってアップライト・ローマン体、イタリック体、数字、記号類、約物類などに総体としての調和があり、点画の濃度が均一です。

3. 視覚の馴致を誘うこと。

組版全体のテクスチュアにおいて、他の書体との違いが十分に見分けがつく個性や特徴を有していますが、読みはじめるとすぐに目が慣れて、活字としての存在感が消え入ります。

4. 判別性が高いこと。

アルファベットの個々の文字形象が一定の様式にもとづく明確な違いを有していて、見分けがつきやすい。

5. 可読性が高いこと。

各文字が集まって成立する単語の(つづりが形づくる)姿と、単語の集合である文章としての姿が、瞬時にしかも視線の流暢な動きを妨げずに捉えられるように読めます。

6. 普遍性と共時代性が並存すること。

「流行」とも呼ぶべき時代の要求や思潮と、地域の特質を内包しながらも、「不易」ともいえる普遍的な点画ないしは形象を調和裏に共存させています。

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 先にのべたように、サボンという書体は成熟期にあったヤン・チヒョルト(1902−74)が設計して1967年に発売された書体です。今回2003年にこのサボン書体が再設計されサボン・ネクストとして改刻されましたが、フランスを代表するギャラモン活字をモデルとしたチヒョルトの改刻版をさらに再改刻したということで、「リヴァイヴァル版をリヴァイヴァルした」といわれています。

 もともとチヒョルトによるサボン書体の優れた特徴はその国際性にありました。サボン書体はタイムズ・ニュー・ローマン体とおなじように、ラテン・アルファベット圏のどの言語にも対応できる柔軟性を備えている、と評価できます。

 サボン・ネクスト書体の設計者ジャン・フランソワ・ポルシェは、1964年生まれの気鋭の書体設計者です。また20代のころにはモリサワが主催していた国際書体コンテストに応募・入選するほどの意欲的な若者でした。現在のポルシェはフランスの大衆紙「ル・モンド」用に設計した新書体をはじめとして、パリの公営交通、フランス・テレコム社、プジョー社などの制定書体を設計しています。 現在はAtypI(国際タイポグラフィ協会)の副会長を務めていますし、活字書体の設計について教鞭をとるかたわら、フランス教育省の新しい手書き書法とそのシステムを提案する審査委員会の会長もかねています。

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 ジャン・フランソワ・ポルシェによるサボン書体改刻の一番の目的は、ひとことでいえば、チヒョルトがサボン書体を設計した当時の書物印刷に盛んに用いられていたモノタイプとライノタイプの二種類の活字自動鋳植機と、手組み用植字という、三つの異なる組み版システムに合わせて設計されたことによる制約からの解放にあります。

 その後モノタイプとライノタイプ版のサボンはそのままデジタル化されて電子活字としても販売されましたが、その開発姿勢と速度は、どうしても慌ただしいコンピュータ業界に向けて拙速のそしりは避けがたいものがありました。したがって今回の改刻は、デジタル版のサボン書体の改刻を目指したものともいえます。ただしポルシェが改刻にあたってもっともよく精査したのは、もともとは手組み用の金属活字であったステンペル版の金属活字だったとするのは、なにかの皮肉かもしれません。

 そのポルシェの姿勢は、とりもなおさずオリジナルのギャラモン活字を相当に意識したということでしょう。ポルシェはフランス人ですので、フランスを代表するギャラモン書を、フランス人の自分が新しい時代に対応できる姿で復活させたいという思いがあったはずです。その意味ではサボン・ネクストとは呼ぶものの、ギャラモンの改刻にたずさわるという責務と使命感を感じていたことでしょう。

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 ジャン・フランソワ・ポルシェはサボン・ネクスト書体の設計者として「巨人の肩の上に」と題する短い文章を、発表にあわせて寄せています。この題にはギャラモン、ル・ベT世、それにチヒョルトという、偉大な先人の業績の上に自分の仕事があるのだという心理を表しています。先人の仕事に加わる責任の重さを感じながらの謙虚な姿勢がうかがえます。その姿勢はまるで国宝級の芸術品の修復に携わる職人が、価値の重さゆえに失敗は許されないという重圧を一身に背負いながら働く姿に似ています。ただし活字書体の場合には、遺作を忠実に再現する「修復」よりも、書体の改刻は新たな解釈を加えながら、時代の技術の要請や地域文化上の特質を避けがたくにじみださせてしまう宿命のもとに、微細な「修整」または「改訂」をほどこすという別の責任が課せられているのです。

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 それではジャン・フランソワ・ポルシェの改刻を具体的に眺めてみましょう。ポルシェの改刻では、基本的には3つの修整が試みられていると判断できます。

1. ファミリー構成では、ディスプレイ、レギュラー、デミ・ボールド、エクストラ・ボールド、ブラックと6種類のウェイトの展開がある。

2. ディセンダーが長めになってオリジナルのギャラモン書体に近づき、スモール・キャップはいくぶんちいさく、ほとんどのウェイトにスモール・キャップとオールド・フィギュアー(ノン・ライニングまたはハンギングとも呼ばれる様式の数字)が用意されています。またfリガチュアではデジタルの旧版を残しつつ新 しいリガチュアも供給しています。

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 以上の2点を中心に、以下ではサボン・ネクスト書体についての特徴を検証してみましょう。主に気になる点を中心に眺めてゆきます。

 まずファミリー構成については6種類に及ぶ多彩な展開がなされています。ここでいうディスプレイとは、設計者の意図としては、目安として11ポイント以上のおおきいサイズでの使用のことです。ディスプレイよりわずかにふとめのレギュラー・ウェイトをちいさいサイズ用として用意しています。書体の画線部の印刷が鮮明に再現されている現在の技術環境では、判別性と可読性を考慮している点で必要な手段選択ともいえましょう。ここでのポルシェはリニアー・スケーリングによってサイズ間のウェイトの視覚補整を試みているのです。

 これはキャプションや脚注・欄外注など本文よりもちいさいサイズで組まれるときに、サイズを下げても本文よりかぼそく貧弱に見えないようにほどこす工夫です。欲をいえば、サイズ別における可読性という見地からはオプティカル・スケーリングによる設計のほうが有効です。

 またボールド・ウェイトまでの設計には必要性は認められますが、エクストラ・ボールドやブラックというウェイトが、はたしてサボン書体という本文組版を基調にした書体に不可欠なものかという疑問も浮かびます。設計者がいうように、手書きスケッチをもとに設計するよりも、デジタル技術を活用したインターポレーションによって製作したほうが、黒白のスペースの均合いを生じさせる点で満足するウェイト調整が得られるとはいえ、有効性の観点から疑問があります。

 つまり現代の需要に応えるからといって、ギャラモン書体という優雅で洗練された書体の現代版を目指している書体の、その最大の長所であるストロークの繊細さと優雅なプロポーションを犠牲にしてまで、ふといウェイトを用意する必要性があるのだろうか、と考えます。そのように機能性と審美性の両面から難があるのではないかと指摘します。

 もっともそれほど純粋にタイポグラフィの厳格さを主張しなくとも、活字書体の販売という営業戦略からみて、そのようなファミリーの豊富さをうたい文句にすることも理解はできます。数あるウェイトのなかから選ぶのはデザイナーやタイポグラファであるとして、選択肢を可能な限り用意するのも、タイポグラフィの多様性を保証するはずだという見解もありうるのですが。活字書体をとりまく現実の一面にはそのような商業上の要求がつきまとうのは、また避けられない事実として認めねばならないのでしょう。

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 金属活字における物理的な制約から解放されて、サボン・ネクスト書体のイタリック体はfのディセンダーが左下にのびのびと描かれています。傾きも従来のデジタル版サボン書体よりはいくぶん大きくなり、字幅の短縮とあいまって、書き文字の傾きにより近づいて親しみやすくなっています。

 ただし、イタリック体の小文字に見る弓形のhは、終筆部が外側へ連ならずにベースラインの上で内側に入り込んでとどまっています。これはギャラモンやグランジョンの時代の特徴であり、またオールド・フェイス系のひとつのイアー・マーク(書体識別のための際立った特徴)となっています。とはいえ、ちいさいサイズでは小文字のbと一瞬でも見まちがえられかねないので、現代の文字組版ではそろそろ踏襲しなくてもよい形象だと思っています。たしかに既存のデジタル版サボン書体よりは終筆部のストロークはわずかながら開き気味に修整されてはいますが、それでも古風すぎると見ます。

 この弓形のhの形象はひとつの論文にでもまとまりそうなほど複雑な事柄です。5−6世紀の手書きの時代におけるハーフ・アンシャル、8−9世紀以降のカロリング・ミナスキュール、13世紀ころからのブラック・レター系ではhはほとんど弓形です。しかもブラック・レターのhは第2ストロークは直線と曲線に二分されますが、ベースラインの下に出るものも出現しています。

 ですからこの形象は伝統的で、ルネサンス期のヒューマニストの手書き書法でも残しており定着をみていました。ですからコンラッド・スヴァインハイムとアーノルド・パナルツが生み出したゴシコ・アンティカ書体と、スピラ兄弟によるプレ・ローマン体にも弓形のhが使われています。ただしニコラ・ジェンソンだけは大胆にも弓形のhを脱していました。

 その後に登場したアルダス・マヌティウスがチャンセリー系の書法をもとにイタリック体を活字化したときにも、弓形のhは残されていましたし、時代がさがって18世紀にもキャズロンのイタリック体にまで引き継がれています。それほどまでに伝統的で安定した形象として、弓形のhのイタリック体は印刷者にとっては疑いもないものだったのです。

 トランジショナル・ローマン系のバスカヴィルからモダン・ローマン系に移行するのにつれて、イタリック体の弓形のhはいわゆる近代化して、現在の一般的なhに変化して定着をみています。ですからオールド・ローマン体をモデルにしているとはいえ、ギャラモン書体と名乗らない以上は、もはや例外的な形象である弓形のhではなくて見慣れた形象を選択しても良いのではと考えます。それは謙虚さにキズをつけるものではなく、むしろ讃えられるべき勇気といえます。

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 その他ではベースライン・セリフがわずかに短くされている点が挙げられます。ギャラモン書体が15世紀イタリアのニコラ・ジェンソンやアルダス・マヌティウスのローマン体を受け継いではいても、ベースライン・セリフを短めに設定したのはフランス人の美意識の表れともいえます。

 機能性あるいは有効性の観点からすると、ベースライン・セリフはしっかりと力強く描かれても視覚の邪魔にはならず、むしろ読み手に行を意識させて、しかも組まれた表情にもメリハリがあるのです。ドイツ人のチヒョルトはやや長めで、今回のサボン・ネクスト書体でフランス人の手にかかるとギャラモンと同じくまた短めに戻っているので、揺り戻し現象がみられて面白く感じます。

 まだまだ細かい点でもサボン・ネクストの特徴はあるのですが、このへんで締めます。総じてサボン・ネクスト書体は一段とオリジナルのギャラモン書体に近づきながらも、高度な美意識に支えられたギャラモン書体の優雅さだけに流されることなく、可読性という機能面からの洗練された完成度を示しています。進化した伝統、あるいは進化したクラシックスといえます。

 またオールド・フィギュアやスモール・キャップをきちんと位置づけて、それぞれのウェイトで揃えていることをみても、このサボン・ネクストがそれらを臨機応変に使いこなせるプロ用の書体として売りだされたことを物語っています。

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 さてここで、先ほどふれた優れた活字書体の条件の話で最後に残された条件に戻りますと、それは時代をこえて、何度もモデルとして設定されて、複刻や改刻が試みられる書体ということです。

 時代を経ても普遍性がしっかりと認められる書体には、文字形象に奇異な点がなく、また設計者の「親指の指紋」のような個人的な表現意欲も制御されているということです。解釈の多様性が生み出される余地が残されていて、しかも書体設計家のインスピレーションをいつまでも刺激する書体のことをいうのです。優れた活字書体とは先に挙げた六つの条件と最後の条件をほぼ満たしているのではないか、と判断できるでしょう。

 しかしながら活字書体の評価とは、実際には長文の本文組版で使われ続けて定まるもので、年数を要することは確かです。ですから今後とも、源流をギャラモン活字に発し、ヤン・チヒョルトの改刻をへて、さらにジャン・フランソワ・ポルシェの再改刻をへて誕生した「ライノタイプ・プラチナ・コレクション サボン・ネクスト」に熱い視線を送り続けるつもりです。




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