ヴェニスの休日

新宿私塾塾生の、修了後の活動を気軽に書ける場所をつくりたい、と片塩さんから相談を受けたのはずいぶんと前のことです。
面白そうですね、と話を聞く分には何ら問題ありませんが、じゃあウェブサイトを作って最初の文章も書いてくれないか、となると普段は文章を書かないヒヨッコタイポグラファには荷が重い話です。そうは言いつつも、せっかく頂いたお話を無駄にするわけにはいきません

幸か不幸か、この話を頂く少し前にタイポグラフィにまつわる貴重な体験に恵まれることがありました。今回はそのときの話を少しだけ書かせて頂くことにします。

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昨年、ヴェネツィア・ビエンナーレと書体の研究のためにイタリアを訪れる機会がありました。ローマは過去に何度か訪れたことがありましたが、ヴェネツィアに訪れるのは今回が初めてです。
初めてのヴェネツィアとなれば、タイポグラファの端くれとして「あれ」を忘れてはいけません。迷路のような細道を行ったり来たり「2311, San Polo, rio terrà secondo」という暗号を頼りに目的地を探しました。石畳を駆け回ること小一時間、ようやく見つけることができました。そう、アルダス・マヌティウスの工房跡地です。

アルダス工房跡地

アルダス工房跡地

話に聞いていた通り、外壁はそのままで、いまはヴェネツィアン・グラスの工房や住居として使われていました。建物の入口には1876年にパドヴァ大学の学生によって設置されたプレートが残されています。

1876年に設置されたプレート ※この写真はパースを調整し再現したものです

1876年に設置されたプレート ※この写真はパースを調整し再現したものです

アルダスのことをヴェネツィアン・グラス工房の従業員に訪ねると、詳しくはないものの「あぁ、彼ね」というような反応です。ヴェネツィアではこのような場所の使い方が当たり前のようで、新しい建築物はあまり見かけませんでした。
それぞれの建物にそれぞれの歴史があり、それを当然のように今の住民が支え、この街の姿が残っているのかと思うと頭が上がりません。ここの住民は、かすかに残るインキの香りを感じながら日々暮らしているのでしょう。

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それから数日後、ヴェネツィアを離れローマを訪れたときのことです。この日は資料を探すためにいくつも書店をまわっていました。専門的な古書店ばかりではつまらないので、何の変哲もなさそうな今風の書店に立ち寄ってみたところ、なにやら怪しげなコーナーが奥のほうに見えます。近寄ってみると、そこには唐突に貴重書コーナーがありました。

新書ばかりの棚の一角、大したものはないだろうと思いつつもショーケースを覗き込むと、どこかで見たことがあるようなイルカと錨のマーク。目を凝らして見ると、それを横断するように刻まれた「ALDVS」の字。何のご縁か、そこにはアルダスによって作られた書物が置かれていたのです。

突然のことに動揺しながらもガラス越しに隅々まで見渡したところ、それはアルダス工房でつくられたルクレティウスの「De rerum natura (物の本質について)」でした。De rerum natura と言えば、ブックハンターでありローマン体活字の手本を創出したとされる、ポッジョ・ブラッチョリーニによって見出された書物であり、ルネサンスの引き金になったとも言われるほどの非常に重要なものです。かつての人文主義者たちが、この書物を通してその思想を学んだのかと思うと感慨深いものがあります。
どうしても写真におさめておきたい気持ちを抑えきれず、恐る恐る店員に訪ねると、なんということでしょう、ガラスケースからそれを取り出し、そのままの姿で丁寧に、しかも素手で渡してくれたのです

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手にすっぽり納まる八折判。紛れもなくアルダス工房のものであろう商標とサイン。あまりの想定外の事態に高揚する気持ちを抑えきれず、食い付くように見入ってしまいました。そっとページをめくると、チャンセリー・カーシブによって組まれたラテン語の美しい紙面。はじめは判型や活字など物質としての側面に圧倒されましたが、手に取ってじっくり見ているうちに、それは物質としての美しい書物を目的としたものではなく、綴られたテクストそのもの、著者の思想への驚きや愛情、出来る限りの敬意の現れであろうということを感じずにはいられませんでした

理想の書物というものがどのようなものか、それをを断定することは私には出来ませんが、少なくともこの書物はその理想というようなものを纏っているように思えました。

アルダスの痕跡に触れることはこの旅の目的ではありませんでしたが、思いもよらぬところで出会い、多くを学ぶことができたように思います。

アルダスが紀元前の思想に触れ、伝え、残そうとしたときの心持ちとでもいうのでしょうか。
私もそのような精神を持ったタイポグラファでありたいものです。

神村 誠 (かみむら・まこと)

朗文堂新宿私塾16期修了。タイポグラフィを主体とした認知心理学の研究を専門とし, 国内外のデザイン・アートプロジェクトにおいて研究を展開する。

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