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台湾活版印刷文化保存協会 柯 志杰(カ-シケツ)さん 新刊 『 字型散歩 』 を上梓。

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台湾の友人にしてタイポグラファ、柯 志杰(
カ-シケツ)さんが、蘇 煒翔(ソ-イショウ)さんとの共著で、新刊 『 字型散歩 』 (臉符ケンプ出版  ISBN978-986-235-401-8 ) を刊行されました。

<字> を形象の変化(字形)としてとらえがちな昨今のわが国ですが、同書では <字型> として、活字である以上当然とはいえ、明瞭な <型> のさだまった字画から <字> を紹介しています。
同書 p.120 – 121 では<正調明朝体 金陵>を、「今田欣一的投下的震撼弾」としてとりあげ、<正調明朝体 金陵>は、刻本からまなび、それを現代に再生したという意味で、書体開発に新領域を拓いたものとして好意的にご紹介いただきました。

《 活版凸凹フェスタ 2012 》 会場にて ── 2012年05月05日
左) 台湾の活字製造所/日星鋳字行  張 介冠(チョウ-カイカン)代表
右) 台湾活版印刷文化保存協会  柯 志杰(カ-シケツ)さん

【 関連情報 : 活版カレッジ有志、台湾で活字彫刻・活字鋳造体験会 2012. 10. 19 】
【 関連情報 : 台湾でつくったCAD方式活字母型と初号活字 2012. 11.03 】

【書体使用例紹介】 <正調明朝体 金陵> 鹿児島市立美術館 海老原喜之助展

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《 紙メディアが元気なまちでした ―― 鹿児島市の公共施設のフライヤー、ポスター 》

活版礼讃-<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> のために鹿児島にでかけました。県都 : 鹿児島市は人口60余万のまちです。
イベントの前後に このまちに五日ほど滞在しましたが、おどろいたことに、このまちではまだまだ、フライヤー、チラシ、ポスターなどの紙メディアが有効なことでした。

おもへらく、東京、大阪などの巨大都市はもとより、人口100万人見当の政令指定都市にあっては、良かれ悪しかれ、あまりに情報が錯綜し、情報過多になっている現状があります。
かててくわえて、あたらしいデジタルメディアの氾濫によって、印刷 ・ 紙メディアのフライヤーなどをせっかく製作しても、たれも持ち帰らないし、がんばってポスターを製作しても、掲示する場所が無いといった惨状がみられます。

もちろん鹿児島でもご多分に漏れず、喫緊の課題として、少子化による人口減少の歯止めが急務とされ、また総体としての印刷業はやはり逆風下にあるということでした。
それでも書店をのぞくと、図書と雑誌の陳列のほかに、郷土誌コーナーとタウン誌コーナーがもうけられ、そこには公共施設のイベント告知を中心に、さまざまな印刷物がところ狭しと置かれていました。
すなわちこのまちの[もちろん一部とはいえ]書店は、「 売らんかな ― いざ」 という、たんなる図書と雑誌の展示販売所に堕すことはなく、いまだに文化と情報の良き発信拠点であることが、嬉しくもあり、おどろきでもありました。
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鹿児島では、ここにご紹介した <鹿児島市立美術館 海老原喜之助展> のポスターが掲出されているのをあちこちでみましたし、フライヤーも、書店だけでなく、カフェやレストランなどにもさりげなく置かれていました。

< 鹿児島市立美術館 海老原喜之助展 > の企画展の平面設計士(グラフィックデザイナー) のお名前は知りませんが、とても丁寧に製作されており、好感をもちました。
またデジタルタイプも、ありきたりな書体ではなく、主要書体として 「 秀英体 」 をもちい、見出し部に 「 正調明朝体 金陵 」 を配していました。
というわけで、ここに鹿児島で偶然であったデジタルタイプの使用例をご紹介しました。

【 関連情報 : 鹿児島市立美術館 企画展

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《 明治維新から150年、鹿児島市の観光施設は記念イベントで賑わっていました 》
鹿児島市の中央部に、歴代の薩摩藩主の居城であった鶴丸城があります。
この鶴丸城の背後には 「 城山 」 と呼ばれる急峻な丘があり、現在は観光地のひとつになっていますが、そこには 砦 程度の施設がつくられただけで、居城は平地にある鶴丸城でした。

むしろ薩摩藩主 : 島津家歴代には <薩摩は人をもって城となす> とする考えがあって、おおきな城郭や天守閣をかまえることは無く、さほど高くない石垣と、わずかな濠にかこまれた平ヒラ城を 「 鶴丸城 」 と呼んで居城としていました。

鶴丸城は、薩英戦争、西南の役、第二次世界大戦の空襲など、多くの戦乱に巻きこまれ、現在はそれらの戦乱の弾痕を留めた、さして高くない石垣がのこるだけになっています。
その鶴丸城の主要部、二の丸の跡地の一画に、「 城山 」方向に向かって左から順に、鹿児島県立博物館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立図書館、鹿児島県立歴史資料センター 黎明館 などの大型公共施設があります。

この一画にある、鹿児島市立美術館で <鹿児島市立美術館 海老原喜之助展> が開催されていました。観光業者のはりきりをよそに、これらの公共施設は淡淡と日常業務を展開していました。
できたら参観し、図録があれば購入したかったのですが、イベントのスケジュールに追われてそれは叶いませんでした。

正調明朝体 正調明朝体B 大明南京國史監 南齋書
まだ 四角四面が お好きですか?
robundo type cosmique  正調明朝体 金陵 Combination 3

「 正調明朝体 金陵 」 とはすこしおおげさな名前かもしれません。 このあたらしい書体はべつに古拙感を演出した筆写体でも、奇をてらった装飾体でもありません。
「正調明朝体 金陵 」 は中国 ・ 南京の雅称から名づけられ、その金陵にあった大明南京国子監コクシカン刊行の木版刊本 『 南斉書 』 にみられる端正な明朝体字様を現代に再生したものです。

明王朝(1368-1644)は漢民族の朱元璋 ・ 太祖が、蒙古族の元王朝をたおして南京に建朝しましたが、四代目の皇帝 ・ 成祖のときから都を北京に移しました。
また国子監コクシカンとは、もともとは隋王朝のころに設立された大学ですが、明王朝になってからは中央官僚を養成する大学の機能とともに、国家によるすべての学問を統括する中央官庁となりました。

都が北方の北京に移転してからも、王朝による出版活動は 「 南監本 」 とされて、文化の集積が厚い南京を中心に展開されました。 その明王朝によるもっとも典型的な官刊本、すなわち正調明朝体字様がうかがえる書物のひとつが 『 南斉書 』 といってよいでしょう。

「 現代活字明朝体 」 には、近代化の名のもとに、機械メスや電子メスが自在にはいって、直線化がすすみ、水平線と垂直線ばかりが目立って、すっかり四角四面の、硬直した活字書体になってしまいました。
そんな 「 現代活字明朝体 」 から人間味をとりもどしたいあなたに、あるいは奇形や媚態をみせる一過性のデザイン書体にはすでに飽いたとおっしゃるあなたのために、明朝体の端正にしてもっとも原型にちかい、木版字様を復刻した 「 正調明朝体 金陵 」 をおすすめします。
「 正調明朝体金陵 」 には伝統のたかみにある和字書体(平仮名と片仮名。あおい金陵 きざはし金陵 さおとめ金陵)三書体が標準でセットされており、用途に応じた選択ができます。

[ パッケージ平面設計 : 白井敬尚形成事務所 ]
【 詳細情報 : 朗文堂タイプコスミイク 正調明朝体 金陵 Combination 3
【 詳細情報 : 朗文堂タイプコスミイク 正調明朝体 金陵 B Combination 3

Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 09 活版礼讃イベントが終了いたしました。

adana トップページ

 【 名 称 】 Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO
【 会 期 】 2014年11月1日[土], 2日[日], 3日[月 ・ 祝] 3 日間
【 時  間 】   開場 8 : 30 ― 閉場 17 : 30
【 会 場 】 仙巌園〔磯庭園〕  尚古集成館本館 展示室
鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1

【 主  催 】 朗文堂  アダナ ・ プレス倶楽部

たくさんのご来場者をお迎えして
Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO は
終了いたしました。
ご来場、ご協力ありがとうございました。
ご報告はおもに<活版 à la carte>にていたします。

<主会場 重要文化財 尚古集成館> 左方は「重要文化財 木村嘉平活字資料」が11月いっぱい特別展示されている別館。
DSCN1269 DSCN1286【 お 知 ら せ 】
◆ 尚古集成館 館長 : 田村 省三氏による
特別講演 と ギャラリー ・ トークの 開催が開催されました。
<尚古集成館所蔵/重要文化財 『木村嘉平活字』 と 薩摩藩集成事業について>

◯ 『木村嘉平活字』 研究の第一人者 : 田村省三館長に、講演とギャラリー ・ トークを担当いただきます。
◯ 11月02日[日] 14:00-17:00 仙巌園会議室
◯ またとない機会ですが、会場の都合で受講者 限定20名様 となります。
◯ お申し込みが定員に達しました。 ありがとうございました。
◯ 満席のお客さまを迎えて、意義深いご講演でした。

<特別展示 重要文化財 「木村嘉平活字資料」>
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<鹿児島県立図書館所蔵 いわゆる「薩摩辞書」> タイポグラフィの見地からの研究に着手しています。DSCN1464 DSCN1504 DSCN1531 DSCN7654 DSCN7653 DSCN1413uu DSCN1411uu DSCN7662 DSCN7672 DSCN7671 DSCN7679

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<活版おじさん 以下、作品 ・ 備品が段ボールで20数個出荷されました>

10月10-16日にかけて、出展者の皆さまが次次と出展作品をご持参になりました。いずれも、ほんとうに力作揃いでした。
造形者としてやりとげた達成感と、遠い鹿児島での開催にわずかによぎる不安。
それでもアダナ ・ プレス倶楽部の会員同士、おおいに会話がはずみ、開催地 : 鹿児島に向けて意気軒昂、盛りあがっていきました。

鹿児島のアダナ ・ プレス倶楽部会員に頑張っていただき、<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> 開催の話題は、まず南九州から火がつき、次第に九州一円にひろがっていきました。
またここまでの予習で、鹿児島における初期活版印刷術の開拓が、ひとり木村嘉平の起用にとどまらず、まったく予想以上の規模で展開され、それが五代友厚らによる献策を容れた、島津斉彬公主導の 「集成事業」 として、長崎と呼応していたことがあきらかになりました。

朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部は、小なりとはいえ全国組織です。 文字通り全国から、多くの会員が鹿児島入りされ、地元の皆さんとの交流もさまざまにおこなわれ、おおきな成果をみました。
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天文館「ママ」のしろくまくん
「むじゃき」2
平野富二uu平野富二賞モトヤ平野富二賞 モトヤuタイポグラフィ学会 平野富二賞  賞状 ならびに 記念品
Salama 4cWebSalama-21A全体Salama-21Aチラシ表

web salama_4-2活版おじさんサイン会員の皆さまの作品は、これから随時ご報告いたします。
活版礼讃。 <ゆくさ おじゃんたもんせ Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>

なにかがはじまる、そんな予感-2014 日本ダイカスト会議・展示会

20141010221615805_0001ブルース型活字鋳造機 ブルース活字鋳造機の心臓部 鋳型<2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会 会議>
◯ 日 時 : 2014年11月13日[木]-15日[土]
◯ 場 所 : パシフィコ横浜
◯ 会 場 : 展示会場 パシフィコ横浜  展示会場Dホール(自由観覧 ・ 無料)
         会議会場 パシフィコ横浜  アネックスホール F201-206(要 登録)
◯ 主催 : 一般財団法人 日本ダイカスト協会

【 詳細 : 日本ダイカスト協会 2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会

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隔年で開催される <2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会 会議> の開催されました。
ところでわたしたちにとって、ダイカスト(ダイキャスト)は耳なれないことばかも知れません。
ダイカストは自動車のエンジン、ボディ、携帯電話のフレームをはじめ、わが国の高精度な工業製品には盛んにもちいられている技術です。

朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の小型活版印刷機 Adana-21J , Salama-21A の設計 ・ 製造に際しても、多くの鋳型がつくられ、そこにアルミ合金などを<圧力を加えて金属を注入する鋳造法>ダイカスト製品がたくさんもちいられています。

意外なことに、そのダイカストのはじまりは、産業革命をへて、アメリカのブルース活字鋳造機 Bruce Casting Machine (アメリカ特許 No.3324,1843年)が、ダイカストの製品化 ・ 実用化のはじめとされています。
タイポグラフィとは切っても切れない技術がダイカストです。

ブルース活字鋳造機のわが国への導入はふるく、アメリカでの実用化から30年ほどのち、1876年(明治09)に、東京銀座(東京市京橋区南鍋町貳丁目壹番地)の活字商/弘道軒、 活版製造所弘道軒に導入されていました。

そんなダイカストの歴史 ・ 技術 ・ 可能性 ・ 魅力を知ることができる展示会が開催されました。 [この項 花筏 にてつづく]
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ヘルムート・シュミットさん 『japan japanese』、 2014年版 ISTD 国際タイポグラフィック賞 premier award を受賞。

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ISTD賞2014年版 ISTD 国際タイポグラフィック賞
130 x 185 cm, 174ページ

< 2014年 ISTD賞について >
3 年毎に開催される、ISTD の国際タイポグラフィック賞
( International Typographic Awards )は

タイポグラフィの優秀な作品を評価し、表彰するものである。

応募作品は、25ヵ国から、グラフィックデザインの
幅広い分野にわたって、

印刷、映像作品として寄せられ、入賞作品は
実に国際的である。

この組織は、1928年にヴィンセント ・ ステア ( Vincent Steer) と
賛同者6人により、
BTG (British Typographers Guild)として創設された。
1950年代初期に、STD (Society of Typographic Designers )と改名され
1990年代後期に、ISTD(International Society of Typographic Designers)と
再度改名された。

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2014年に 『 japan japanese 』 が premier award を受賞し、
1998年に 『 the road to Basel 』 が premier award を受賞した。
上記の書籍 2 点は、朗文堂より出版された。
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また、2004年に『 佐比売野 田中礼子歌集 』 (デザイン : ニコール シュミット)が
certificate of excellence を受賞している。(朗文堂発行)

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 『 japan japanese 』 刊行と、刊行記念講演会+展覧会の記録>

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シュミット家の皆さん。左より スミ夫人 ヘルムートさん ニコールさん。2011年11月


『 japan japanese 』 刊行記念講演会+展覧会の記録-2013年03月20日


ときのたつのは早いものです。
大阪のシュミット家は、すみ夫人を中心とした、こころあたたかいファミリーであり、愛娘ニコールさんがスタッフとして加わってからは、すばらしいデザイン ・ ユニットでもあります。
『 japan japanese 』製作のあいだにニコールさんは結婚され、刊行記念展にはご主人ともども、赤ちゃんを抱いての登場で、会場の人気と話題をおおいにあつめていました。

そして、かりそめのエンペラー : シュミットⅠ世は、その座をはかなくも小皇帝 : 文一クンに奪われ、「ブンちゃん、ブンちゃん」 と、すっかり好好爺となりました。
それでも、創作意欲だけはたれにも負けない旺盛なものを秘めての活動がつづいています。
[ 片塩二朗 wrote ]

【 関連情報 : 朗文堂ブックコスミイク 『 japan japanese 』
以下の情報は『 japan japanese 』に関して2011年12月14日-13年03月21日まで、都合09回にわたって掲載された記事を、降順に並べ替えて掲示した。
【 関連情報 : 『 japan japanese 』 刊行記念 ヘルムート・シュミット氏の講演会+展覧会のお知らせ

【展覧会】 宇都宮美術館-月映 TUKUHAÈ 田中恭吉・藤森静雄・恩地孝四郎 1914-15

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『 月映 』 1914-1915
TSUKUHAÈ  1914-1915

◯ 主    催 : 宇都宮美術館

◯ 期    間 : 2014年11月16日[日]-2014年12月28日[日]

命を削りながら作品を創り続けた田中恭吉。
死の淵からの希望を掲げた藤森静雄の版画。
抽象的な表現を開拓していく恩地孝四郎。
二十代の若者による詩と版画の雑誌 『月映 ツクハエ 』は、
近代日本美術史の中で鮮烈な輝きを放っている。
版画を中心に、貴重な油彩画、ペン画などから、
わずかに一年間の活動と、刊行から100年を迎える
『 月映 』 の世界に迫る。

【 詳細情報 : 宇都宮美術館年間スケジュール
【 関連情報 : 朗文堂 ― 好日録006 達磨輪廻転生の世界へ 月映 藤森静雄をみる

【書体使用例紹介】 足立涼子さんのアート・ブック 『 ジャックと豆の木 』 

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ジャックと豆の木/Jack and the beanstalk

2008年/東京/20部限定
サ   イ  ズ : 32 x 32 x 3.5cm/桐箱入り
印     刷 : 2種類の楮紙と三椏紙にインクジェット、 木版印刷、 亜鉛凸版印刷(タイトル)
使用書体 : 四川宋朝体 龍爪、Weiss
製   本 : 30cm × およそ7m の2枚の長紙を交互に折り曲げた構造。1枚にテキストと木版ブロック、もう1枚に豆の蔓のイメージを印刷。
2枚の紙は重なり合いながら一続きの螺旋構造を成し、印刷された面は折る毎に異なった方向に向けられる。三椏紙による英訳冊子は16ページ中綴じ 。
内   容 : イギリス民話「ジャックと豆の木」を下敷きに創作した本。空まで伸びる巨大な豆の木に、世界に広まりつつある遺伝子組み換え作物とその背景を比喩的に重ねて制作。(日本語 : 足立涼子、 英訳 : 佐藤公俊)
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足立涼子さんは東京都に生まれました。多摩美術大学大学院修了。
ブック ・ アーティストとしての積極的な活動がつづいています。
ここでは足立涼子さんの解釈による、イギリスの民話『ジャックと豆の木』を
中心とするアート ・ ブック
『 ジャックと豆の木 』 の製作を紹介しましょう。

足立 涼子
『 ジャックと豆の木 』 

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────────── 足立涼子さんのコメント
荒々しい豆の蔓のイメージに合う、力強い日本語書体はないものかと探していたところ、

折よく朗文堂さんで 『四川宋朝体  龍爪』 をご紹介いただき、「これだ!」 とおもって
『 ジャックと豆の木 』 に選択しました。

印刷は活版で刷ることも模索しましたが、全ページ手漉き和紙を使用し、
さらに制作費が回収できるかどうかもわからぬ私家版刊行のゆえ
印刷費を落としました。

したがってタイトルは亜鉛凸版印刷ですが、中の文章はインクジェット印刷となりました。
活版印刷のように力強く表現したかったので、邪道ですが少し字を太らせて印刷しました。
英字にはWeiss-エミル ・ ワイス製作の欧文を合わせました。

『 ジャックと豆の木 』 は、幸いなことにアメリカのアーティストブック普及のNPO団体 “Booklyn” によって紹介される機会を持ち、ボストン図書館( The Boston Athenæum ) などの幾つかのパブリック ・ コレクションに加えて頂きました。
ご高覧いただければ幸いです。
足立涼子
【 関連URL : 『ジャックと 豆の木/Jack and the beanstalk 』 】
四川宋朝体

中国の南西部四川省は、ふるくは蜀とよばれていました。
蜀は唐王朝末期の木版印刷術の発祥地のひとつで、「蜀大字本」と呼ばれ、「字大如銭、墨黒似漆――文字は古銭のように大きく、文字の墨の色は黒漆のように濃い」 とされます。
唐王朝ののち、五代十国の混乱をへて建朝された北宋時代にも、唐王朝官刊本の伝統的な体裁を四川刊本は継承していました。

また女真族金国との争乱に敗れ、都を開封から臨安(現 ・ 杭州)に代えて建朝された南宋での刊刻事業の継続と、覆刻(かぶせぼり)のための原本の供給に、四川刊本は大きな貢献をはたしました。
ところがこうした四川刊本も、相次ぐ戦乱と文書弾圧のなかに没して、『新刊唐昌黎先生論語筆十巻』 『蘇文忠公奏議』 『周礼 しゅらい』 など、きわめて少数の書物しかのこっていません。その代表作がわが国に現存する 『周礼』(静嘉堂文庫所蔵)です。

『周礼』 の力強い字様には、横画の収筆や曲折に 「龍爪 りゅうそう」 とされる、鋭角な龍の爪にも似た特徴が強調されています。
これは起筆にもあてはまり、またどっしりとした収筆です。
縦画の起筆にみられる蚕頭の筆法は 『周礼』 においてはさらに強靱になり 龍爪 に相対しています。

このような顔真卿の書風が四川刊本字様となり、力強く独自性のある刊本字様へと変化したといえます。これは工芸の文字として整理がすすんだことをあらわしますが、唐代中期の顔真卿の筆法の特徴を十二分に引き継いでいるともいえます。
「四川宋朝体  龍爪」 は、このような顔真卿書風と、四川刊本字様を継承した、あたらしいデジタル ・ タイプとして誕生しました。

[パッケージ平面設計 : 白井敬尚形成事務所]
【 詳細情報 : 朗文堂タイプコスミイク 四川宋朝体 龍爪 】

【展覧会】 世田谷美術館企画展 ユートピアを求めて 講演記録 ―― 木村雅彦氏

20141013132521443_0001 20141013132521443_0002 松本瑠樹コレクション ―― ポスターに見るロシア ・ アヴァンギャルドとソヴィエト ・ モダニズム

ユートピアを求めて

DCブランド「BA-TSU」の創業者であり、デザイナーの故 松本瑠樹ルキ氏 (1946-2012) のコレクションには、ロシア革命期のポスターが多数含まれています。この世界的に著名なポスター ・ コレクションから、未公開作品も多数公開されます。
本展ではこのコレクションより、カンディンスキーやマレーヴィチといった著名な画家や、ステンベルク兄弟、ロトチェンコなど、ロシア ・ アヴァンギャルドのデザイナーたちが手掛けたものなどおよそ180点を紹介し、社会の変革期に花開いたポスター芸術の多様性を概観します。
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◯ 会   期
2014年09月30日[火]-11月24日[月 ・ 休]
◯ 
開館時間
10  :00 - 18 : 00 ( 最終入場は 17 : 30 )
◯ 
休  館 日
毎週月曜日
*ただし10月13日[月 ・ 祝]、11月03日[月 ・ 祝]、11月24日[月 ・ 休]は開館、 10月14日[火]、11月4日[火]は休館
◯ 会  場
世田谷美術館 1 階展示室
◯ 
観 覧 料
一般1000円、大高生800円
◯ 主  催
世田谷美術館 (公益財団法人せたがや文化財団)、東京新聞

【 詳細 : 世田谷美術館 企画展
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【 講演記録 ――情報提供/木村雅彦氏 】
<ポスターに見るロシア ・ アヴァンギャルドと ソヴィエ ト・ モダニズム-
ユートピアを求めて
関連企画 : 特設 世田谷デザイン学校
第02講 「ロシア ・ アヴァンギャルドのタイポグラフィ」
講   師 : 木村雅彦(GKグラフィックス取締役、タイポグラフィ学会副会長)
日   時 : 2014年10月19日[日] 午後04時-05時

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薩摩辞書 ―― あまりにも多くの未解明の謎にせまる第一歩

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《 薩摩辞書をうんだまち : 鹿児島市と 幕末-明治維新の混乱 》
鹿児島市の中央部に、歴代の薩摩藩主の居城であった鶴丸城があります。
この鶴丸城の背後には「城山」と呼ばれる急峻な丘があり、現在は観光地のひとつになっていますが、そこには 砦 程度の施設がつくられただけで、居城は平地にある鶴丸城でした。

むしろ薩摩藩主 : 島津家には <薩摩は人をもって城となす> とする考えがあって、おおきな城郭や天守閣をかまえることは無く、さほど高くない石垣と、わずかな濠にかこまれた平ヒラ城を「鶴丸城」と呼んで居城としていました。

鶴丸城は、薩英戦争、西南の役、第二次世界大戦の空襲など、多くの戦乱に巻きこまれ、現在はそれらの戦乱の弾痕を留めた石垣がのこるだけになっています。 その鶴丸城の跡地の一画に鹿児島県立図書館があります。

その正面入り口に 《薩摩辞書之碑》 があり、「AN ENGLISH-JAPANESE DICTIONARY 薩摩辞書之碑 American Presbyterian Mission Press 1869」 と刻まれています。
「薩摩辞書」とは俗称であり、『和譯英辭書』 の名が、初版(1869年/明治02年)における正式名称です。

この英和辞書は、幕末の大混乱のさなかに密かに上海で刊行作業が進行し、維新ののちに完成をみた大冊の英和辞書です。
したがっていかに衰微していたとはいえ、幕府の正式な許可を得ないまま、薩摩藩庁から資金提供をうけて刊行に着手した薩摩藩の若き俊才たちは、正式な刊記(刊行記録、現代の奥付にあたる)をのこすことなく、わずかな記録として、日本語序文に <日本 薩摩学生> と、若き製作者の氏名だけが記録されています。

すなわち薩摩とはしるしても、薩摩藩とはしるさず、万一追求をうけても、
「当藩としてはまったく関わりがない。日本国のわが薩摩の若い学生が(勝手に)なしたこと」
として、釈明の余地をのこしていたとおもわれます。
当然これだけの大冊の辞書を、資金面からも、鎖国下にあって海外渡航が困難だった状況からも、上海の印刷所で <日本 薩摩学生> が刊行できたとはおもえず、薩摩藩の藩命による、物心ともの援助によるものとおもえます。

通称「薩摩辞書」は、アメリカの語学者/ウェブスター(Noah Webster, 1758-1843)による英語辞書 『 ウェブスター大辞典 』 を典拠としており、以下の三版が知られています。
◯ A 第一版
『 和訳英辞書 』 (明治二歳 己巳 ツチノト ミ  正月 千八百六十九年新鐫)。
鐫センは深く掘る。年月は旧暦/1869年-明治02年)。印刷所 : American Presbyterian Mission Press 上海 美華書館。和文序に 「 改訂増補和訳英辞書 」、英文扉に 「 THIRD EDITION 」 とある。
◯ B 第二版
『 大正増補 和訳英辞林 官許 』 (明治四歳辛未 カノトヒツシ ゙ 十月)。
年月は旧暦/1871年-印刷所 : American Presbyterian Mission Press 上海 美華書館。英文扉に 「 FORTH EDITION REVISED 」 とある。扉ページの 「 大正 」 は、元号を意味するものでは無い。
◯ C 第三版
『 稟准 和譯英辞書 』 (明治六年十二月 紀元二千五百三十三年)。
年月は新暦/1873年-明治06)。印刷所 : 東京新製活版所 天野芳次郎蔵版(一部複写のみ所有。未見)。
DSCN7653 DSCN7654 DSCN7662 DSCN7679 DSCN7671 DSCN7672 DSCN7679つぎに、「薩摩辞書」に関わった人物をあげてみたい。
◯ 堀 達之助
「 薩摩辞書 」の前身、『 英和対訳袖珍辞書 』 (洋書調所、1862年 ・ 文久02)を刊行。 これを初版とみなしたために、『 和訳英辞書 』 の欧文扉ページに 「 THIRD EDITION 」 としるされた。
堀達之助は長崎通詞の名門の出。浦賀にペリー艦隊が来航した折の通訳でもあった。

◯ 堀越 亀之助
「 薩摩辞書 」 の前身、『 改正増補英和対訳袖珍辞書 』 (開成所、1866年・慶応02)を刊行。
これを二版とみなしたために、『 和訳英辞書 』 の欧文扉ページに 「 THIRD EDITION 」 としるされた。
◯  前田 正穀 (日本 薩摩学生)
維新ののち前田正名とする。A 第一版 『 和訳英辞書 』、B 第二版 『 和訳英辞書 』 の日本語序文末尾にその名をみる。
本書刊行後渡仏。帰国後農商務省に勤務し次官まで昇格したが、富国強兵策に異論を唱えて下野。1850-1921。
◯ 高橋 良昭 (日本 薩摩学生)
維新ののち高橋新吉とする。A 第一版 『 和訳英辞書 』、B 第二版 『 和訳英辞書 』 の日本語序文末尾にその名をみる。 本書刊行後、1870年米国留学。帰国後大蔵省勤務。二代目勧業銀行総裁。 1842-1912。
◯ 前田 献吉 (日本 薩摩学生)
前田正名の実兄とされる。詳細不詳。A 第一版 『 和訳英辞書 』 の日本語序文にその名をみる。
◯ 堀 孝之 B (日本 薩摩学生)
第二版 『 和訳英辞書 』 の日本語序文 文中にその名をみる。
堀孝之は長崎通詞の名門の出。五代才助(友厚)が長崎海軍伝習所にまなんだとき、当時10歳ほどの堀孝之の才を見抜いて薩摩藩に推挙した。薩摩藩英国留学生一行の通訳として、五代ら一行19名のひとりとして渡英。
終生五代との親交が篤く、五代が眠る大阪阿倍野墓地の五代の墓のかたわらに、堀の功績を称える 「 堀孝之君之碑 」 が建てられ、ついで堀の顕彰碑の隣に五代本人の顕彰碑が建てられた。?-1911年・明治44 67歳にて卒。
20141024152838867_0001 20141024152838867_000220141024152838867_000320141024152838867_0004薩摩辞書うしろ見返しマーブル紙 上掲写真と、スキャナ画像は、いずれも B 第二版 『 和訳英辞書 』。 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部会員 MH 氏蔵書。

下掲写真は、左) A 第一版 『 和訳英辞書 』 (明治二歳 己巳 ツチノト ミ  正月 千八百六十九年新鐫)。 右) B 第二版 『 大正増補 和訳英辞林 官許 』 (明治四歳辛未 カノトヒツシ ゙ 十月) である。
A 第一版 『 和訳英辞書 』 は、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部会員 SK 氏の蔵書で、巻首04ページを欠き、製本所で補修中のところを無理をお願いして撮影させていただいた。

これらの資料が <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> の開催にともなって公開され、また鹿児島に多くの実践派のタイポグラファが現地取材にでかける。
その調査結果が待たれるいまである。
DSCN7691 DSCN7694 近代タイポグラフィの黎明期における五代友厚ら、旧薩摩藩のひとびとの貢献はほとんど看過されてきた。長崎のタイポグラファと親交の篤かった五代友厚に関しては、「木村嘉平関連資料」の項でいくぶん解説した。

また薩摩藩家老として、小松帯刀タテワキ(1835-70)も長崎人脈との交流に熱心だった。小松による積極的な人材登用と財政支援も看過できない。
NHKの大河ドラマ 『 篤 姫 』 では、小松帯刀と篤姫とは、おたがいに密かな恋心を抱いていた人物として描かれていた。

小松帯刀は維新後まもなく明治03年に大阪で病没した。30代の半ばというそのあまりの早世に、薩摩のひとは<幻の宰相>と呼んで遺徳を偲んだとされる。
それだけでなく、これまでほとんど言及されていないが、小松帯刀がわが国の近代化とタイポグラフィ ≒ 近代活版印刷術への貢献は多大なものがあった。
ともあれ薩摩藩家老、千石どりの小松帯刀の屋敷跡は広大なもので、下掲写真がたつ、鹿児島市山下町7、8番、9番の西、10番の南西 2,372 坪が上屋敷跡。同市 原良に下屋敷跡がある。

この小松帯刀像は1867年(慶応03)に、15代将軍徳川慶喜が京都二条城に諸大名を集めて、政治の権力を朝廷に返還(大政奉還)すべきかどうかを問うたときに、他藩にさきがけて、薩摩藩の城代家老であった小松帯刀が 「 大政を奉還すべき 」 として記帳したときの様子をイメージして造られたものとされる。
その視線の先には、島津三公像(島津斉彬、島津久光、島津忠義)の建つ、照国神社がある。[この項は 井後眼科周辺の歴史散歩 を参照した]
DSCN1504 DSCN1508 DSCN1531 DSCN1532鹿児島中央駅前にそびえる『若き薩摩の群像』には、19名の密航者のうち、薩摩藩出身ではないふたりの像がかけている。
そのひとりは前述した長崎人/堀 孝之であり、もうひとりは、土佐勤王党に一員で、土佐藩を脱藩して薩摩藩に逃れた高見弥市である。
またこの「薩摩藩英国留学生」とは、幕府の許可無く渡英したために、全員が仮名をもちいていた。銅像のなかに若い兄弟とされながら、その詳細がほとんどあきらかにされていないふたりがいる。
この兄弟が「薩摩辞書」に関わった可能性も否定できないいまである。
[この項近日中に 花筏 にて詳細掲載の予定]
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【武蔵美】 課外公開講座<活字活字父型彫刻とタイプデザイン>

 

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タイプデザイナー、フレット ・ スメイヤーズ氏による課外講座が武蔵美にて開催!

◯ 開催日時 :
2014年11月10日[月] 16:30-18:00
◯ 開催場所 :
武蔵野美術大学 鷹の台キャンパス  1 号館103教室
アクセス方法は こちら をご覧ください。
※一般のかたも自由に聴講できます。

スメイヤーズ氏は活字製造技術である活字父型彫刻の研究者であり、実践者として世界的に知られています。
タイプデザイナーを志す人の必読書とも称されている著書 『 Counterpunch 』 では、彼が実際に16世紀の活字制作を追体験することで得たタイプデザインへの見解を述べており、現代の書体デザインにあらたな可能性を示しました。
自身の書体にもその技法や考えかたがフィードバックされています。


本講座では 「 活字父型彫刻とダイプデザイン 」 と題して、学生だけでなくタイプデザインを専門とする人まで幅広い層に向けて、自身の経験や書体制作について語っていただく予定です。

◯ 講師 : フレット ・ スメイヤーズ
オランダ出身のタイプデザイナー。 手掛けた主な書体は、Arnhem、Haultin、Renard、Sansa、Custodia などで、これらは2002年に自身が設立したタイプファウンドリー、OurTypeから主にリリースされている。著書に 『 Counterpunch 』 『 Type now 』 がある。

◯ 通訳 : 大曲都市
Monotype 社のタイプデザイナー。 武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒業。 手掛けた主な書体は、Metro Nova など。
スメイヤーズ氏の著書 『 Counterpunch 』 日本語版の翻訳を担当。
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朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 <感動 ・ 創造の旅-実践 活字母型彫刻 2008年10月>
マイクロバスを仕立てての、楽しく、おおきな成果があったイベントでした。
「ベントン型活字父型 ・ 母型彫刻機」の実践体験会での「安形製作所」(山梨市。現在は閉鎖)にて。 当時まだ武蔵野美術大学卒業直後の大曲都市さんも参加されていました。 このころからひたむきにタイポグラフィの研鑽をつづけられていました。
現在の活躍ぶりは皆さまご存知のとおりです。

フレット ・ スメイヤーズ氏の来日にあわせて、
『 カウンターパンチ 16世紀の活字制作と現代の書体デザイン 』 (フレット ・ スメイヤーズ著/山本太郎監修/大曲都市訳 武蔵野美術大学出版局 )が発売されます(2014年11月25日一般書店発売)。

【 詳細情報 : 武蔵野美術大学 課外講座「活字父型彫刻とタイプデザイン」
【 関連情報 : OurType. Fine Type from Europe 】
【 関連情報 : 花筏 タイポグラファ群像*004 安形文夫 ベントン活字母型彫刻士

読書の秋 第16回 図書館総合展のご案内

蝗ウ譖ク鬢ィ邱丞粋螻表蝗ウ譖ク鬢ィ螻・3uu蝗ウ譖ク鬢ィ邱丞粋螻表蝗ウ譖ク鬢ィ螻・9uu上掲02点の写真は、昨2013年 第15回 図書館総合展の模様。 下図は本年用の図録兼 「 図書館専用注文書 」 です。
図書館司書が中心対象となりますので、比較的地味な展覧会ですが、それだけに充実した内容で、真剣な図書選択の場となります。

20141020212110133_0007名 称 : 第16回 図書館総合展
会 場 : パシフィコ横浜 展示ホールD/アネックスホール
日 時 : 2014年11月05日[水]-07日[金] 10 : 00-18 : 00
主 催 : 図書館総合展運営委員会
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毎年秋に開催される恒例の 《 図書館総合展 》 も16回を迎えました。

年年図書館の人員と、予算が減少傾向にある、つらく、きびしい時代です。
したがって選抜 ・ 推薦された図書を、自館に選定するライブラリアンの視線も、いきおい真剣になります。

選抜 ・ 推薦期間が08月締めきりで、朗文堂のことしの出品は 『平野富二伝』(古谷昌二著)、 『わたくしは日本国憲法です。』(鈴木 篤著) の二冊でした。
なお既報のとおり、『わたくしは日本国憲法です。』 は、2014年10月15日、日本図書館協会による <日本図書館協会選定図書> に選定されました。

《 図書館総合展 》 は、さまざまな講演会や展示が同時開催されます。
ご興味、ご関心のあるかたは横浜まで足をお伸ばしください。
入場は無料ですが、
事前登録が必要です。登録用紙は下記の WebSite からもダウンロードできます。

【 関連URL : 図書館総合展公式WEBサイト

──────────    雄松堂プレスリリースより-部分紹介。
7回ゲスナー賞受賞者
武蔵野美術大学 美術館 ・ 図書館
『 タイポグラフィ 2 つの潮流 』
第 7 回ゲスナー賞  目録 ・ 索引部門 銀賞を受賞しました。
DSC_3320uu[1]第  7 回ゲスナー賞授賞式 & 記念フォーラム 「愛書家へのメッセージ」
日  時 : 11 月6日[木] 10:30-12:00 (10:10 より会場内フォーラム受付開始)
場  所 : 図書館総合展 展示会場内 左奥ステージ
※ 10 : 00開場ですので、事前に展示会場入口での一般受付をお済ませください。
 
【 関連URL : 雄松堂 ゲスナー賞
【 関連情報 : タイポグラフィ 2つの潮流

【展覧会】 グラフィックデザイン展 <ペルソナ> 50年記念

 

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ggg  ギンザ・グラフィック・ギャラリー  第339回企画展
グラフィックデザイン展 <ペルソナ> 50年記念 Persona 1965

2014年11月05日[水]-11月27日[木]

1955年 グラフィック ’55 展 (亀倉雄策、原弘、河野鷹思、早川良雄、伊藤憲治、大橋正、山城隆一)、1960年 世界デザイン会議、1964年 東京オリンピック、1970年 大阪万国博覧会。
このような日本のデザイン胎動期の1965年、松屋銀座で11名の若手デザイナーと、05名の招待デザイナーによって
開催されたのが 「ペルソナ」 展でした。

メンバーは、粟津潔、福田繁雄、細谷巖、片山利弘、勝井三雄、木村恒久、永井一正、田中一光、宇野亜喜良、和田誠、横尾忠則。1920年代後半から1930年代生まれの新しい世代の台頭と、デザインに対する新しい個性の主張は、当時、強烈な反響を呼び、わずか 1 週間の会期中に 3万5000人もの入場者がありました。

グラフィックデザインとは何か?  社会との関係とその役割は?  その時のデザイナーは何を求めていたのか ?  デザインの無名性、作家性とは ?  等々、様様な問題が投げかけられました。
本展では、当時実際に展示された貴重な作品の数数を紹介することによって、日本のグラフィックデザインの歴史におけるひとつ事件ともいえる 「ペルソナ」 展を再構成します。

※ ペルソナ (ラテン語 Persona もと仮面の意)。 美術用語では人体像。【 広辞苑 】

【 詳細情報 : ggg ギンザ ・ グラフィック ・ ギャラリー  スケジュール

 

Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 04 薩摩藩と三代木村嘉平の活字

 

 

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開催が直近にせまった <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> 関連記事が、アダナ ・ プレス倶楽部ニュースに連続掲載されています。

ここにアダナ ・ プレス倶楽部ニュース 「 Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 04 薩摩藩と三代木村嘉平の活字」 をご紹介いたします。Report 01-04、Report 番外編は 下記のリンクをご参照ください。

【 名 称 】 Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO
【 会 期 】 2014年11月1日[土], 2日[日], 3日[月 ・祝] 3日間

【 時  間 】   開場 8 : 30 ― 閉場 17 : 30
【 会 場 】 仙巌園〔磯庭園〕  尚古集成館本館 展示室 鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1
【 主  催 】 朗文堂  アダナ ・ プレス倶楽部

尚古集成館 http://www.shuseikan.jp/  仙巌園  http://www.senganen.jp/
朗文堂 アダナ・プレス倶楽部  http://robundo.com/adana-press-club/

 

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【 緊 急 の お 知 ら せ 】

◆ 尚古集成館 館長 : 田村 省三氏による
特別講演 と ギャラリー ・ トークの 開催が決定しました !!
<尚古集成館所蔵/重要文化財 『木村嘉平活字』 と 薩摩藩集成事業について>

◯ 今回の <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> 開催にともなって、尚古集成館別館に、重要文化財「木村嘉平関係資料」が特別展示されます。
◯ 『木村嘉平活字』 研究の第一人者 : 田村省三館長に、講演とギャラリー ・ トークを担当いただきます。
◯ 11月02日[日] 14:00-17:00 仙巌園会議室
◯ またとない機会ですが、会場の都合で 限定20名様となります。

◯ 聴講料は不要ですが、仙巌園 ・ 尚古集成館の共通入場券 ¥1,000 が必要となります。
◯ 参加希望のかたは adana@robundo.com に、件名「木村嘉平活字講演会参加」で申し込みを。
◯ 申し込みは先着順で、定員になり次第締め切りとさせていただきます。
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三代木村嘉平肖像        第三代 木村 嘉平 ( 名は房義。1823/文政6年-1886/明治19年 行年64 )
[ 図版出典 : 田村省三 「木村嘉平と川本幸民」 『日本の近代活字』  p.232 – 237  朗文堂 ]

木村嘉平 (きむら かへい。三代。名は房義。1823年/文政06年-1886年/明治19年03月24日) とは、初代から五代にわたる江戸と東京の木版彫刻士の世襲名であり、しばしば木村の村を 「村の異体字 邨」 につくり、また略して 「邨 嘉平、邨 嘉」 などと唱えたり、彫刻していました。

現在鹿児島 尚古集成館が所蔵する、重要文化財 「木村嘉平関係資料」 を製作したのは、江戸神田小柳町 第三代 木村嘉平(木村房義)といい、18歳で父をうしなって三代嘉平を襲名しました。
三代嘉平は筆意彫りを得意とする名工とされ、藩政時代には 薩摩藩、加賀藩の御用をたまわって、数多くの木彫作品や木版製品をのこしています。

その三代嘉平の製作物のひとつに、鹿児島県立図書館所蔵の、薩摩府學蔵版の数冊の木版刊本があり、『中楷古文孝経』(1850年/嘉永03年)の跋文バツブン 最終ページの欄外には、上掲図のような「 邨 嘉 平 刻 」がみられます。
また、おなじく薩摩府學蔵版のうち、『施治攬要 セジランヨウ』(1857年/安政04年)は、あきらかに木活字による印行(刊行)であると田村氏はしるされています(p.235)。
すなわち三代嘉平は、活字駒彫りの技術にちかい、
「木活字」の製造を、すでに1857年以前、すくなくとも安政年間から、『施治攬要』 刊行に際して実践していたことになる貴重な資料といえるでしょう。

三代木村嘉平が開発した活字は、徳川幕府膝元の江戸や、開港地長崎での活字開発者とは幾分文脈を異とする貴重なものです。
三代嘉平は江戸に居住していましたが、薩摩島津家28代、薩摩藩11代藩主 : 島津斉彬 (なりあきら 1809-58 ウィキペディア : 島津斉彬 ) の委嘱をうけ、もっぱら蘭書などの文献資料にまなびながら、まったく独自に活字製造に着手して、パンチド ・ マトリクス方式からスタートして、やがて電鋳法 (電胎法とも) にいたって一定の成果をみました。

三代嘉平が斉彬によって、わずかに一冊のオランダ語訳本 『Engelsche Spraakkunst』 (エンゲルセ ・ スプラーククンスト  英人 Murray, Lindrey 著)をあたえられ、鋳造活字製造の委嘱をうけたのは1854年 (安政元年)とされています。
この斉彬による委嘱の時期は、先に紹介した 『施治攬要 セジランヨウ』 (1857年/安政04年) の刊行
より以前であったことも注目したいところです。

すなわち三代嘉平は、板目木版彫刻にかえて、木活字を平行ないしは先行させて彫刻していたことになります。この木活字製作での経験は、「電鋳法による活字原型」 としての 「活字駒」 の製造に際しておおいに有効だったことが想像できます。
そして三代嘉平は、
「当時はヨーロッパの物品のようなものは幕府の禁制品のひとつであったため、自宅の一室を密室に改造し、昼夜灯火を備えてひそかに作業をする場とした」(五代嘉平/三代嘉平の末子)
して、幕府には内密のまま作業をすすめ、ようやく鋳造活字の製作が完了したのは、1864年(元治元)、数えて実に11年後のことでした。

川本幸民 遠西奇器術 国立国会図書館蔵   『遠西奇器術 第二輯』 電気模造機の項。『江戸の科学古典叢書』(国立国会図書館蔵)

上掲書 、 「木村嘉平と川本幸民」 のなかで、田村氏は、
「五代嘉平が記した 『木村嘉平献上安政年間製活字略傳書類 全』 に、嘉平が電胎法を学んだのは、江戸の薩摩藩邸で講義していたオランダ人からであると書かれている。しかしこの時代、オランダ人が大名の屋敷に滞在し、長期間の講義をおこなうようなことはまったく不可能だったはずだ」 (p.236)
と のべています。さらに、
「とすれば、嘉平は誰から電胎法を学んだのか。筆者 [田村] は現在、川本幸民 乃至は その周辺の人物ではなかったかと考えている。実は、川本幸民の 『遠西器術』 [国立国会図書館蔵] にその手がかりがあった」
とされています。

これらの和欧文活字をはじめ、活字の製作工程を知ることのできる諸道具類は、三代嘉平房義、四代嘉平 : 房義の長男、五代嘉平 : 房義の末子の歴代にわたって木村家に継承されていましたが、1879年(明治12)、同81年の、二度にわたる神田の大火によって一部を消失しました。
しかし大半の資料は、三代嘉平の末子/五代嘉平によって1907年(明治40)島津邸におさめられ、その後鹿児島の尚古集成館に所蔵され、1998年(平成10) 「木村嘉平関係資料」 として 重要文化財 に指定されました。

今回の <Viva la 活版  薩摩 dé GOANDO> に際して、木村嘉平活字研究の第一人者にして、尚古集成館館長/田村省三氏による特別講演会が予定されています。
また講演後に、今回の <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> 開催にともなって、尚古集成館別館に特別展示される 「木村嘉平関係資料」 のギャラリー ・ トークも、館長みずからその任にあたってくださいます。

最後に、尚古集成館を訪問される皆さまに、田村省三氏の論文、「薩摩藩における蘭学受容とその変遷」 国立歴史民俗博物館研究報告 』 第26集、p. 209-234 (2004年02月)の一部をご紹介して、これ以上のご紹介は、尚古集成館でのご講演に待ちましょう。

島津斉彬の集成館事業の目的は、薩摩藩一国においてでも黒船の砲艦外交に対抗し得る海軍力を整備し、ひいては諸外国と対等に交流することのできる豊かな国づくりにあった。

斉彬の集成館事業では、ありとあらゆる実験と試行錯誤が繰り返され、見込みのついたものから事業化されていった。
造船事業と大砲の鋳造を主目的とした製鉄事業。 船が帆走するための帆布の製造を中心とする紡績事業。 あるいは、蒸気船の建造。 その結果、日本初の本格的な西洋式軍艦昇平丸、蒸気船雲行丸が完工する。

そのほか、電気分解法による和欧文鉛活字の製作、写真技術の修得、地雷 ・ 水雷の製造、ガス灯の実用化、電信の実験などがある。
集成館では、明治時代以後の日本の産業の基幹となった造船 ・ 製鉄 ・ 紡績の三産業はもちろんのこと、映像や通信、メディアに関する初期段階のさまざまな事業が推進されていたのである。

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《 きわめて太いパイプでつながっていた 幕末の薩摩藩と 長崎製鉄所 》
巷間、明治初期、米人ウィリアム ・ ガンブル(ギャンブルとも表記)によって、長崎製鉄所の付属施設、活版伝習所に、鋳造活字製造原型の製造法として 「電鋳法 ・ 電胎法」 が伝わったとされてきました。
このガンブルの来日の時日と、伝習期間に関しては諸説ありますが、おおむね1869年(明治02)11月-1870年(明治03)03月とされています。またこのことは多くの文書記録にものこっています。
活版伝習所跡碑uu

しかしながらこれらの文書記録は、もともとは印刷人でも活字人でもない文章家によって、明治中期ころからしるされ、それが繰り返し引用されてきたために、技術的見地からみると、どうしても多くの問題点を抱えています。
また、もうお気づきかとおもいますが、三代嘉平が10年余の苦心の末、前述したように、おそらく川本幸民の 『遠西器術』などにまなび、「電鋳法 ・ 電胎法」によって鋳造活字製造の一定の完成までをみたのは1864年(元治元)であり、長崎の活版伝習所での伝習より相当先んじていたことになります。

もともと幕府直営の製鉄所であった長崎製鉄所は、幕末ともなると、溶鉱炉こそなかったものの、相当大型の艦船の航行や修理などに必要とされる、高度な工業技術と工業設備を有しており、「大規模な鉄工所」とされるほどの存在でした。
そのことが 『創業150周年記念 長船よもやま話』 (同書編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所、平成19年10月)、『平野富二伝 考察と補遺』 (古谷昌二、朗文堂、2013年11月22日) などの刊行によって次第にあきらかになりました。
平野富二uu  立神ドック建碑 平野富二と、長崎製鉄所に隣接して設けられた立神ドック開削の状況。現在立神には第1-第 3 ドックを備えた巨大な造船工場があり、ここでは30万トン級の巨大な船舶の建造も可能とされる[長崎造船所の沿革]。
平野が開削に着手した立神ドックは、拡張されて、いまなお立神第 2 ドックの首部をなして健在であり、そこに写真で紹介した『建碑由来』がはめ込まれている。

上掲写真は、三菱重工業長崎造船所本工場の、立神タテガミ通路の壁面に設置されている『建碑由来』説明板の写真である。この説明板の中央右寄りに「立神ドック略歴」とあり、それに続いて平野富二の事績がしるされている。
なお写真右上部に「明治十年竣功(工)」とあるが、一部に不具合があって、実際の竣工は下部の「立神ドック略歴」に記録されたとおり明治12年となった。

「立神ドック略歴  明治三年(一八七〇)長崎製鉄所長平野富二乾ドック築工を民部省に建議、許可となり着工。同四年(一八七一)一時工事中止。明治七年(一八七四)フランス人ワンサンフロランを雇入れ築工工事再開。 明治一二年(一八七九)工事完成。(長さ一四〇米、巾三一米、深さ一〇米 当時東洋一)   (後略)  昭和四三年(一九六八)三月   三菱重工業株式会社長崎造船所」

これに補足すると、
「慶応元年(1865)07月に立神軍艦打建所として用地造成が完了しましたが、当地における軍艦建造が取止めとなり、そのまま放置されていました。
明治02年(1869)になって、平野富二が民部省にドックの開設を建議し、民部省の認可がおりました。同年11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに着工しました。しかし明治4年(1871)4月、長崎製鉄所が工部省の所轄となるに及んで、平野富二は長崎製鉄所を退職し、工事は中止されました」  [ 『 平野富二伝 』 古谷昌二 ] 。

【 関連資料 : 平野富二と活字*09 巨大ドックをつくり船舶をつくりたい-平野富二24歳の夢の実現まで

平野富二武士装束uu

平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職し、造船事業への夢を一旦先送りして、活版印刷の市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。
知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治09)に出されているが、平野富二がいつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。

建設中の立神ドッグ

開鑿中の立神ドック
本図は、横浜で発行された英字新聞『ザ・ファー・イースト』(1870年10月1日)に掲載された写真である。 和暦では明治3年9月7日となり、平野富二(富次郎)の指揮下で開始されたドック掘削開始から、ほぼ 9 ヶ月目に当たる状態を示す。
この写真は、長崎湾を前面にした掘削中のドライドックの背後にある丘の上から眺めたもので、中央右寄りにほぼ底面まで掘削されたドックが写されている[『平野富二伝』古谷昌二]。

考察13 開鑿ニ着手 明治二年(一八六九)一一月二〇日、製鉄所頭取青木休七郎、元締役助平野富次郎、第二等機関方戸瀬昇平は、「ドック取建掛」に任命され、続いて頭取助品川藤十郎と小菅掛堺賢助も要員に加えられた。 この中で筆頭の製鉄所頭取青木休七郎は名ばかりで、実質的な責任者は平野富次郎であった。 この時の製鉄所辞令が平野家に残されている。 
「平野富次郎  右ドック取建掛  申付候」  [『平野富二伝』古谷昌二]。 

任命状

 平野富次郎  右ドック取建掛  申付候図 ドック取建掛の辞令
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎製鉄所の辞令である。この辞令の用紙サイズは、高さ174㎜、幅337㎜で、ここに書かれている巳十一月とは明治2年(1869)11月(和暦)であることを示している[『平野富二伝』古谷昌二]。

長崎縣権大属任免状uu平野富次郎の長崎縣権大属任免状 
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎縣の任免状である。 この任免状の用紙サイズは、高さ187㎜、幅519㎜である。 最終行の「長崎縣」と書いた上部に小さく、「庚午 閏十月十六日」と記されており、明治3年(1870)閏10月16日[旧暦]の日付であることが分かる[『平野富二伝』古谷昌二]。

その結果 ―― 明治初期、長崎製鉄所の付属施設、活版伝習所に 「電鋳法 ・ 電胎法」が伝わった ―― とする従来の記録には、あまりに伝来ないしは技術の確立がおそすぎないかとする、工業技術者からの疑念が提示されています。
あるいはこの時期なら「電鋳法 ・ 電胎法」程度の技術を、わざわざ外国人を招いて伝習する必要があったのだろうか、とされる技術者もいます。
すなわち印刷史研究にあたっては、個個の事象をバラバラにとりあげるだけではもはや不十分かもしれません。これからは(もちろん、かくいう筆者もふくめて)、時系列にそって見直していくときになったようです。

工業技術者からのご指摘をうけて、改めて見直しますと、幕末の1864年(元治元)に、ほぼ独力で、すでに電鋳法による鋳造活字の製造に成功していた三代嘉平の事績とくらべても、当時の先進地 : 長崎において活字母型「電鋳法 ・ 電胎法」が、諸説あるものの、1869年(明治02)年の暮れから翌年の春にかけて、ようやく伝習されたとする従来の説には、やはり疑問が生じます。
つまり、ほかの工業技術の導入と較べても、あるいはともに長崎製鉄所の出身であった、本木昌造、平野富二らによる、その後の鋳造活字製品開発と活版印刷関連機器の展開速度からみても、やはり問題があるようです。
本木昌造銅像 長崎諏訪公園 大阪四天王寺内 本木昌造銅像「日本鋳造活字始祖」uu BmotoInk21[1] BmotoInk31[1]新街私塾の印図版上から、本木昌造銅像-長崎諏訪公園、本木昌造銅像-大阪四天王寺境内、長崎港新町活版所印、長崎活版製造会社之印、新街私塾。
なぜ、本木昌造の銅像が、郷里 : 長崎と、大阪だけにあり、東京には平野富二による、東京築地活版製造所の 『活字発祥の碑』 が設けられているのかを、もうすこし慎重に考慮すべきだったと反省させられている。

それでは、1869年(明治02)11月-70年(明治03)03月に来日したとされるウィリアム・ガンブル(Gamble, William 中国表記 : 姜 別利 ウィキペディア : 本木昌造 )は、なにをもたらし、なにを伝習したのか、というさらなる疑問が発生します。

また後述する元薩摩藩士 : 五代友厚の「懇望」による、 「大阪活版製造所」 の創設が、1870年(明治03)03月と各所に記録されています。
この五代友厚に関しては、あまりに多方面の事業を手がけ、仕事一筋でその短い人生を生ききったために、タイポグラフィに関しては、のこされている「伝記」をふくめて資料がまったく不足しています。鹿児島、大阪のタイポグラファの皆さまの奮起に期待したいところ、大いなるものがあります。
このとき23-24歳ほどの平野富二は、立神の「ドック取建掛」に任命されて開削に専念していましたが、本木昌造は、相当な規模の、人員、印刷機器、活字を大阪に輸送したことがしるされています。

すなわち長崎の活版伝習所での伝習終了と、おなじ年の、おなじ月に、本木昌造は、新町活版製造所での右腕ともいえた、谷口黙次をはじめとする相当数の人員と、活版印刷機器、鋳造活字などを大阪に送りだしたことになります。
写真図版とともに後述しますが、この「大阪活版所跡」碑の側面にはこのようにあります。
「 明治三年三月 五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された 大阪の近代印刷は ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした 」

1871年(明治04年)07月中旬ころ、「長崎製鉄所付属 活版伝習所」でのガンブルの伝習を終えて一年半ほどののち、本木昌造はすっかり活版印刷製造事業に行きづまり、これを継続する意欲を失い、幸い長崎造船所を辞していた平野富二に再再にわたって懇請して、この事業のすべてを、あたかも押しつけるようにして継承しています。



本木昌造は、このころすでに活字製造事業に行きづまっており、1871年(明治4)06-07月にわたり、長崎製鉄所を辞職したばかりの平野富二(富次郎)に、「崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所」への入所を再再懇請して、ついに同年7月10日ころ、平野はその懇請を入れて同所に入所した。
これ以後、すなわち1871年(明治4)07月以降は、本木は活字鋳造に関する権限のすべてを平野に譲渡していた。

また本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放する意志はなく、「新街私塾」一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていた。そのことは、『大阪印刷界第32号 本木号』(大阪印刷界社 明治45年)、『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年)などの諸記録にみるところである。

苦難にあえでいた「崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所」の経営を継承した平野は、従来の本木時代の経営を、大幅かつ急速に刷新した。
またこの前年、1871年(明治4)の秋の上京に際して、東京を中心とする関東での市場調査と、携行した若干の活字販売をしているが、その際平野は販売に際して、カタログないしは見本帳の必要性を痛感したものとみられる。
それが「活字見本(価格付き)」『崎陽 新塾餘談 初編一、初編二』(壬申二月  明治5年2月)につらなったとの指摘が、諸資料を十分検討したうえで『平野富二伝』で古谷昌二氏よりなされた。

長崎に戻った平野は、それまでの本木の方針による「活字を一手に占有」することをやめて、ひろく活字を製造販売し、あわせて活字版印刷関連機器を製造し、その技術を公開することとした。
本木の行蔵には、どこか偏狭で、暗い面がみられ、高踏的な文章もたくさんのこしている。
ところが、その事業を継承した平野は、どこかわらべにも似て、一途な面が顕著にみられ、伸びやかかつおおらかで、なにごともあけっぴろげで明るかった。
【関連情報:平野富二と活字*08 天下泰平國家安全 新塾餘談初編一、二にみる活字見本(価格付き)
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本木昌造の懇請をいれて新町活版製造所に入所した平野富二は、完成した活字若干数をたずさえ、活字販売と活版印刷の市場調査に上京しました。
この数万本とされる活字は、それまでの東京の鋳造活字にたいして、たかい精度と、価格の低廉さが好評を呼び、関東一円ですべて完売したとされます。
すなわち関東地区にはすでに鋳造活字があり、当然ながら活版印刷関連機器が存在していたことになります。
この時期と、ガンブルによる、鋳造活字の母型製造のための「電鋳法 ・ 電胎法」伝習の時期との時間差も、あまりに過小にすぎるのも事実です。
20131014180912139_0001 活字発祥の碑uu

さらに1873年(明治06) 平野富二が東京に本格進出したとき、東京にはすでに <三代木村嘉平> の鋳造活字は一定の規模で完成し、依頼者であり資金提供者でもあった島津斉彬を失ったまま存在していました。
さらには、大関活字、志賀(志気ともされる)活字など、詳細は不明ながらも、あきらかに鋳造活字のための 「活字母型」 を所有していた 「鋳造活字製造所」 が複数存在しており、いっときは平野富二と競合した史実と整合がとれなくなります。

いずれにしても薩摩藩は、幕府には三代木村嘉平による鋳造活字製造事業への取り組みを伏せ,、おおやけには内密裡に進行したために、未解明の問題も多多のこされています。
したがってこうした疑問の解決には、あわてずに、多方面からの協力を得て取り組む必要がありそうです。

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20140905164002225_0001長崎製鉄所1872年

上) 海岸にそって手前の工場群が集成館、奥が仙巌園。 明治初期の写真。現在は尚古集成館と仙巌園となっている。
下) 長崎飽の浦に設けられた長崎製鉄所 (左手奥) の明治最初期の写真。 現在は三菱重工業株式会社長崎造船所の本社工場となっている。

《 鹿児島と長崎 ―― 五代友厚らを通じ、太い絆で結ばれていた近代工業化と活字版製造の歩み 》
鎖国から開国へ、幕藩制度から近代化へ ―― 国をあげ、欧米列強諸国に追いつき追いこそうと、一心不乱になったのが明治初期でした。
以前から、鹿児島の 「 前浜/磯庭園 」 とされるあたりの光景が、長崎飽の浦の長崎製鉄所(現 : 三菱重工業株式会社長崎造船所 本社工場)の光景と、とてもよく似ていることがふしぎでした。
その疑問を来社された尚古集成館館長 : 田村省三氏になげかけたところ、至極あっさりと、
「 それは似てますよ。 集成館は長崎製鉄所を意識して造営されましたから…… 」
こういう返答があって、呆然としたことがありました。

とかく看過されがちですが、このとき、ふるくからの開港地であった長崎と、海外への飛躍をはやくからこころみていた薩摩藩とは、活字と印刷術でもふとい絆でむすばれていました。
とりわけ注目されるのは、近近ご紹介しますが、「日本薩摩学生」の名で刊行された俗称『薩摩辞書』、『和譯英辭林』(初版 : 1869年 ・ 明治02年)の刊行であり、五代友厚の存在です。
簡略にあげても以下のようになります。

◯ 本木昌造は池原香穉カワカを通じ、薩摩藩儒臣: 重野安繹ヤスツグから活版印刷機を購入したとされる。
◯ 1857年(安政04年)、五代友厚は薩摩藩の選抜で長崎遊学(海軍伝習所伝習生)。
◯ 本木昌造が関与した大阪活版製造所は、元薩摩藩士 : 五代友厚の「懇望」と資金援助により設立されたとされる。
◯ 平野富二は東京への進出に際し、五代友厚に 「首証文」 を提出して資金援助を受けたとされる。
◯ 平野富二は、東京築地活版製造所の事業が成果をあげたとき、相当の金額を大阪活版製造所分として五代友厚に返済している。

◯ 東京築地活版製造所第四代代表 : 野村宗十郎の父は長崎在勤の 薩摩藩士で長崎にうまれた。

「大阪活版所跡」碑 (所在地 : 大阪市東区大手通二丁目。 写真 : 雅春文庫提供)
大阪活版所、大阪活版製造所に関しては、その設立の経緯、消長とあわせ、まだ十分には印刷史研究の手がおよんでいない。

ここで、印刷史研究におて看過されがちだった、東の渋澤榮一とならび、士魂商才のひと、あるいは大阪財界の雄とされる五代友厚を、『大阪商工会議所百年の歩み』からみてみよう。
きわめて簡略にしるした五代友厚の年代史は以下のようになる。詳細は ウィキペディア : 五代友厚 をご覧いただきたい(このウィキペディアには相当の誤解が見られるのは残念)。

◯ 1836年(天保06年)12月   鹿児島城ヶ谷に生まれる。(幼名は才助)
◯ 1857年(安政04年)       藩の選抜で長崎遊学(長崎 海軍伝習所伝習生)
◯ 1865年(慶応元年)       欧州視察(19人全員が変名をもちいての密航、『若き薩摩の群像』 参照)
◯ 1868年(明治元年)      明治政府へ出仕。 外国事務局判事(大阪在勤)
◯ 1869年(明治02年)       官を辞す。  のちもっぱら大阪で財界活動を展開。
◯ 1885年(明治18年)      逝去。 行年51。  大阪阿倍野墓地に埋葬。

大阪商工会議所のサイトには、「初代会頭 五代友厚が自ら起こした事業 ・ 設立にかかわった事業」の項に、「明治03年 大阪活版所設立(活版印刷の大阪の嚆矢)」 とある。
【 大阪商工会議所 : 五代友厚(初代会頭)について
この「大阪活版所跡」碑の側面の碑文にはこのようにある。

「 明治三年三月 五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された 大阪の近代印刷は ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした 」

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この鹿児島商工会議所前に建つ「五代友厚像」の背面の碑文には、以下のような文章が刻まれています。
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【 鹿児島商工会議所前の「五代友厚銅像」の碑文 】 一部に補整した。
士魂商才  ―― 商都大阪を築いた薩摩藩士 ――
幕末の激動期、もっとも早くから世界の進歩に目を向けていたひとりに五代友厚(ゴダイ-トモアツ、幼名 : 徳助、通称 : 才助、1835-85)がいます。
1835年(天保06)儒学者の次男として鹿児島藩領長田町の城ヶ谷 (現鹿児島市長田町) にうまれた五代は、才助といっていた少年時代から、世界地図の模写や、地球儀の製作で海外への関心をたかめました。

1857年(安政04)長崎に留学。1862年(文久02)には藩命で幕府の千歳丸に同乗。上海に渡りドイツの汽船 [ ? 英船サー・ジョージ・グレイ ] を購入して船長になりました。
薩英戦争(1863年 文久03年)では英国軍の捕虜となり、一時は裏切り者の嫌疑がかかったため潜伏しましたが、帰藩がゆるされると、開国による富国強兵策を進言。1865年(慶応元)薩摩藩の留学生をひきいてイギリスにわたり、蒸気船や紡績機械の購入に奔走しました。

明治維新の活躍で、新政府では参与に任命されましたが、のちに官を辞して実業界に転進。1878年(明治11)大阪株式取引所(現大阪証券取引所)と大阪商法会議所(現大阪商工会議所)を設立し、みずから会頭に就任して、精力的に商都大阪の発展につくしました。
1885年(明治18)糖尿病のため49歳の生涯を閉じました。大阪の阿倍野墓地に葬られています。

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ウィキペディア 五代友厚より大阪商工会議所ビル(この写真はウィキペディアより紹介),、鹿児島商工会議所ビルの前には、いずれも五代友厚のおおきな立像が建つ。

また鹿児島中央駅前には 「若き薩摩の群像」 の巨大な彫刻があり、その中央には英国留学中の五代友厚が、前方を指さす勇壮な姿で刻されている。
またこの像の各所に、大判の図書を抱えたり、開いた姿で描かれていることにも注目していただきたい。台座に置かれている大判図書は『ウェブスター大辞典』であり、これが俗称『薩摩辞書』の刊行につらなったものである。
また手前左隅にブドウが刻されているが、この人物は長澤 鼎カナエである。長澤は維新後渡米して<アメリカのブドウ王>とされて彼の地で歿した。
「若き薩摩の群像」は、きわめて忠実に、藩命をうけ、変名をもちいて英国に秘密裡に 「留学」 したこの19人の事績を伝えている。

【 関連情報 : 平野富二と活字*03 『活字界』牧治三郎二回の連載記事に戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

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《 古谷昌二氏による「
木村嘉平活字研究」資料の一部をご紹介します 》
『平野富二伝』の著者、古谷昌二氏は、ずいぶん以前から活版印刷術に果たした薩摩藩の影響のおおきさと、開港地長崎との濃密な関係に注目しており、1907年(明治40)に五代木村嘉平がのこした資料を、すでに読みやすい現代通行文に直しておられました。

この五代木村嘉平がのこした記録は貴重なものですが、冒頭に田村省三氏がその疑問点の一部を指摘されていますし、古谷昌二氏もいくつかの疑問をいだかれ、その解消にむけて<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>にご参加のご予定です。
その前提で、古谷昌二氏資料の一部をご紹介いたします。

鹿児島集成館に保存されている和欧文活字について

原文 : 池田俊彦著 『島津斉彬公伝』(中公文庫、い-63-1、中央公論社、p.425 – 428、1994年05月)
(原文中に「銅鉄」とある表現は、「鋼鉄」に修整した)

薩摩藩主島津成彬は、横文の活字版を造って外国書籍の刊行を企画し、江戸の彫刻家 : 木村嘉平にオランダ書を見本として字母を作成させた。 木村家に伝承していたその時の字母は、後に島津家に献納され、尚古集成館に保存されている。

明治40年04月、五代木村嘉平(三代嘉平の末子)が認めた「昔時本邦創製の和欧文活字製作略伝」を、以下に平易な文章に改めて紹介する。
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この[尚古]集成館に保存されている活字は、安政年間(1854―60)に島津家、薩摩藩の第二八代藩主 : 島津斉彬(1809-58)の命によって木村嘉平が作成したもので、安政元年(1854)に設計を開始し、元治元年(1864)に完成した遺品である。

その製作品の中には、鋼鉄製の一端の面に、高さ 4 厘(約12㎜)から 1 分 5 厘(約45㎜)まで、大小に種別した文字を凸形に深く彫刻した数百の種字、数百の銅製凹字母、金属製三個よりなる鋳造機、各活字形数千の木製模型、彫刻用の鑢鏨(ヤスリとタガネ)、電気銅板に使用する銅メッキ用器具、蝋石面に彫刻した和文数千の種字、印刷機兼植字機、およびオランダ参考書で、いずれも当時使用したもので、現在まで保存していた。

木村嘉平は幼名を房義と称した。18歳の時に父を失い、祖先からの家業を受けて三代として就職し、江戸神田小柳町で木版彫刻業を営んでいた。25歳の時、薩摩藩主島津斉彬ナリアキラに召され、欧文書籍を版本とし、これを用いて広く薩摩藩で学ばせたいとの意向をひそかに拝聴した。
そこで、嘉平は数多くの字体をそれぞれ 1 個ずつ彫刻して活字とし、これを印刷版本とすることを上申し、ただちに拝命した。

しかし、当時はヨーロッパの物品のようなものは幕府の禁制品のひとつであったため、自宅の一室を密室に改造し、昼夜灯火を備えてひそかに作業をする場とした。
ここで、活字を大小12種類に分別し、まず桜材を用いて数個の模型を造り、ついで多くのヤスリやタガネを製造し、銅あるいは真鍮を用いて長方形で大小各種の種字型の複模型を造った。
それより、鋼鉄の素材を加熱鍛造して同じ形の角棒数百を造り、それぞれの一端の面にタガネを用いて欧文字を深く凸形に彫刻して焼き入れする。次いで、鋼鉄種字と同型で長さの短い銅製角棒数百を用意して、その一端の面に鋼鉄製凸形種字を打ち込んで凹形の字母とする。

また、別に銅または鋼鉄を用いて 3 個の長方形金物を組合せて鋳造機を造る。これは、字母嵌め込み孔、円形の鉛注入孔と空気抜き穴より成る。この鋳造機に各字母を嵌め込み、溶融鉛を注入して印刷用活字を作る。

それから、木製箱形の活字植字兼印刷機を作る。これは四辺にネジと竹栓を付け、内部に多数の薄い木片を用いて活字を縦に一列ずつ仕切ったものである。
鉛製活字を植え込んだ版面に古来の印肉を布に包んで、印肉を塗布して印刷用紙を載せ、その上に数枚の帳表紙と平坦な木版を宛てがい、その上から棒を横にして圧を加えて印刷する。
これが出来るようになったのは、実に万延元年(1860)のことである。

しかし、上記の方法によって製作する中で、鋼鉄の狭い面に細線を微細に深く彫刻したものを焼き入れし、これを銅面に槌で深く打ち込むが、時々、種字が破損するので、再度彫刻するのに幾多の月日を費やすこととなり、そのため、斉彬公の意思に反することとなった。
そこで、きめの細かい木石に彫刻して、硬質金属を鋳込んで字母を造る以外には早急に完成させる道はないことから、意を決して従来の鋼鉄彫刻を廃止し、新たに鋳造法を研究した。しかし、到底、微細で筆力のある深い文字に鋳込むことができず、しばらくの間、こればかりを苦慮していた。

或る日、薩摩藩邸を訪れたとき、たまたま、オランダ人が出入りするのに会い、理化学の講義を聞き及び、斉彬公の許可を得て、仕事を終えてから数ヶ月間オランダ人に就いて電気学の一部を研究し、ようやく金属の酸溶液における電解力を理解することができた[この段落は田村氏、古谷氏ともに疑問を呈されている]。

これより、蝋石面に種字を凸形に彫刻し、十分に溶解した蜜蝋中に彫刻面を浸漬して引上げ、ただちに刷毛を用いて余液を除去し、その上で微細の銅銀混交粉を、軟性刷毛を用いて刷きかけてメッキ銅の良導体とし、次に木製の箱を造って、その一端の下部に強度のある円筒形で気孔性のある素焼き土器を取付け、その円筒内に円筒形にした亜鉛板を直立挿入して、亜鉛板の上端に銅線を取り付けた一種の電池電槽を兼ね備えた器を造る。

それから、梅酢を温めて銅屑を投入して溶解させた塩化酢酸化銅の復塩を製造し、これを冷却して木箱と土器の間に注入し、土器内には濃厚食塩液を注入して円筒亜鉛を浸漬し、亜鉛と接続する銅線の一端には、あらかじめ用意した蝋石凸形種字を結びつけ、土器と木箱との間の復塩銅液中に吊るして厚く銅メッキし、これを種字から引きはがして鋼鉄彫刻時に使用した鋳造機に装着し、溶鉛を鋳込む。

このように完全な速成活字の製造を完成したのは、元治元年(1864)のことである。この11年間、苦心しながら開発に従事したことにより、素志を貫徹して、ここに数多くの書籍を印刷版本とすることができたと云う。
明治40年04月                  木村嘉平認む   」

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20140924141936266_0003
<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>の準備が佳境に入りつつあるころ、奇妙な指摘がなされました。
「この 邨 嘉平 刻 ―― の画軸を平野ホールでみたことがある……」
これまで、平野富二と東京築地活版製造所の事業では、鹿児島県との関係を、五代友厚(幼名 : 才助)だけからとらえ、平野富二が石川島平野造船所を創立したのちは、薩摩閥を背景とした、川崎重工の創立者 : 川崎正蔵との抗争にもっぱら目を奪われていましたから、この指摘はおどろきました。

下掲写真で紹介するのは、「平野富二研究会」 のメンバーと、平野ホールの 「虫干し会」 に訪問した折りの記録です。
この画軸は木版画とみられ、滅亡した明国(浙江省余姚ヨヨウのひと)から渡来し、徳川水戸藩主 : 徳川光圀の政治顧問になった 「 朱 舜水 シュ-シュンスイ」(墓地は歴代の徳川水戸藩主らとともに、常陸太田市にある) による書画を ― 水府 (水戸) の藩校 : 尚義館の木村氏が所蔵していたものを、後世のいつのころか木版に刻み、ばれん刷りしたもので、俗に水戸拓本 ・ 水戸拓とよばれるものを軸装したものとみられました。

当時は平野富二と木村嘉平との接点などは意識していなかったために、いくぶん不鮮明ながら、この書軸の左下隅に、たしかに薩摩府學蔵版と同様な 「 邨嘉平刻 」 がみられました。 薩摩府學蔵版の刻者署名と比較すると、「平」 の字の一画目の特徴あるさばきとがことなりますので、いまは三代嘉平の作とすることは慎みたいとぞんじます。
それにしても平野富二と水戸藩との接点、そして薩摩藩と縁がふかかった木村嘉平との接点までもが平野ホールにはのこされていました。
タイポグラフィ研究に終わりはないようです。
平野ホール木村画軸01 平野ホール木村画軸02平野ホール木村画軸03 邨 嘉平刻【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 01  開催のお知らせ
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 02  告知はがき印刷篇
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 03  お先でゴアンド  鹿児島を往く
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 04   薩摩藩と三代木村嘉平の活字
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 05   鹿児島 おすすめ情報Ⅰ 仙巌園/尚古集成館 】
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 06   鹿児島 おすすめ情報Ⅱ 長島美術館 】
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 00 番外編 しろくまは カゴンマ de ゴアンド ! 花筏 】

【ご報告】 『わたくしは日本国憲法です。』 日本図書館協会選定図書に選定されました。

顔写真鈴木篤氏 小

02わたくしは表紙わたくしは日本国憲法です。

本書は2014年10月15日 <日本図書館協会選定図書> に選定されました。
ご愛読をお願いいたします。
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著   者 : 鈴 木  篤  すずき あつし
発   行 : 2014年07月26日 
定   価 : 本体 1,200 円+税(四六判 ソフトカバー 190 ページ)
      ISBN978-4-947613-90-5 C0036
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            Telephone 03-3352-5070
             Facsimile   03-3352-5160
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             E-mail :  robundo@ops.dti.ne.jp

【 新刊案内 : ブックコスミイク 私は日本国憲法です。
【 関連情報 : お知らせ ブログ新開設 <弁護士鈴木篤のつれづれ語り>

【朗文堂ブックコスミイク】『欧文書体百花事典』その後 普及版刊行記念連続講演会 第5回 『 タイプ・サイズとは何か P・S・フールニエとの関係で 』 山本太郎氏 終了のご報告

たくさんのお客様をお迎えして、『欧文書体百花事典 その後Ⅴ』 は終了いたしました。
あいにくの雨天でしたが、わざわざのご来場ありがとうございました。
次回講演は、12月07日[日] 木村雅彦さん <刻まれた文字を訪ねて> です。ご期待ください。
関連情報は、随時このコーナーに掲載いたします。
なお本項は本日(10月17日)より、画像がスライドショウでお楽しみいただける<活版 à la carte>コーナーにてご紹介いたします。

欧文書体百花事典その後Vちらし

『 欧文書体百花事典 』 普及版 刊行記念特別連続講演会(全 6 回)
第 5 回  『 タイプ・サイズとは何か P・S・フールニエとの関係で 』
講   師 :  山 本   太 郎
日 時 :   2014年10 月05日[日]   午後1時より約 3 時間程度(ワークショップを含む)
会 場 :   東洋美術学校
主  催 :  株式会社 朗 文 堂
後  援 :  タイポグラフィ学会
学校法人専門学校 東洋美術学校  産学連携事務局 デザイン研究会アクティ
欧文書体その後チラシ

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使用欧文活字/FOURNIER LE JEUNE   原活字鋳造所 : Deberny & Peignot, 1913

テキスト/ わたしは  わたし

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欧文書体百花事典その後Vポスター

【印刷博物館】 企画展示 印刷と美術のあいだ ― キヨッソーネとフォンタネージと明治の日本

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キヨッソーネ、フォンタネージ ― ふたりのお雇い外国人の教育の成果。
弟子たちがつくってきた日本の近代印刷の姿をたどります。

ひさしぶりに印刷博物館の企画展が開催されます。
前回は<印刷都市東京と近代日本>2012年10月20日-2013年01月14日でした。
同館次回展のフライヤーより一部を補足してご紹介します。 詳細は下部の URL をご確認ください。
【 詳細情報 : 印刷博物館 企画展示 】
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明治時代となると、凸版印刷術、平版印刷術、凹版印刷術
など-具体的には、活字版印刷術、石版印刷術、銅版印刷術、木口コグチ木版印刷術などのあたらしい印刷技術が西洋から日本に到来し、新しい印刷表現が可能になりました。
同じ時期に「洋画」も新しい絵画表現として西洋から日本にもたらされました。

キヨッソーネ(Edoardo Chiossone , 1833-1898)はイタリアの版画家・画家で、明治時代に大蔵省の招聘により、いわゆるお雇い外国人として来日し、紙幣、切手などの印刷原版を彫刻しました。
またその技術をわが国に伝え、弟子を育成し、近代印刷の基礎を築きました。

いっぽうフォンタネージ(Antonio Fontanesi  1818-82)はイタリアの画家でした。かれもキヨッソーネと同様に1876年(明治9)に開校した「工部美術学校」のお雇い外国人教師としてわが国に「洋画」を指導しました。
フォンタネージの在任期間は短く、任期半ばで帰国しましたが、その弟子たちは明治画壇の中心となり、「工部美術学校」の卒業生は印刷術の発展に大きな影響を与えました。

【 印刷博物館 】 企画展示 印刷と美術のあいだ キヨッソーネとフォンタネージと明治の日本

会    期 :  2014年10月18日[土]-2015年01月12日[月・祝]
休 館 日 :  毎週月曜日
開館時間 : 10 : 00-18 : 00(入場は17 : 30まで)
入  場  料 :  一般500円、学生300円、中高生200円、小学生以下無料
特別休 ・ 開館日 : 11月03日(月 ・ 祝)、24日(月 ・ 休)、2015年0
1月12日(月 ・ 祝]は開館。
11月04日(火)、11月25日(火)、12月27日(土)-2015年01月05日(月)は休館
20141018013547989_0002展覧会図録 ミュージアム ・ ショップで販売。頒価 2,160円+税

【 詳細情報 : 印刷博物館 企画展示 】

【会員情報】 モトヤが平野富二賞受賞の報告と、モトヤ活字資料館のご案内

タイポグラフィ学会 <第 4 回 平野富二賞>
受賞者を 株式会社モトヤ に決定
授賞式開催のお知らせ

平野富二uu平野富二賞モトヤ平野富二賞 モトヤu平野富二賞  賞状 ならびに 記念品

タイポグラフィ学会(会長 : 山本太郎)は、株式会社モトヤ(大阪市)を 「 第 4 回 平野富二賞 」 受賞者に選定いたしました。
タイポグラフィ学会では、日本の近代活字版印刷術の始祖ともいえる、本木昌造と平野富二の業績にちなんだ 「本木昌造賞」 と 「平野富二賞」 を設けております。
平野富二賞は、タイポグラフィの普及発展に著しく功績のあった個人及び団体に対するもので、その対象者は社会へのタイポグラフィの認識を高める行動及び啓蒙などにおいて、その事績がタイポグラフィ学会にとどまらず、広く社会に貢献していると認められるものです。

このたび株式会社モトヤにたいして、1949年(昭和24)に活字の基本書体の開発後、国内における活字鋳造の発展はもとより、たゆまざる<モトヤ正楷書体>の改刻、日本初となる文字のデジタル化にたいする業績などを高く評価いたしました。
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第 4 回  平野富二賞授賞式
タイポグラフィ学会 会長 : 山本太郎
日 時 : 2014年09月23日[火 ・ 祝] 午後 03 時から
会 場 : 学校法人 専門学校 東洋美術学校
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抜けるようにたかい秋晴れの空のもと、2014年09月23日、タイポグラフィ学会は <第10回 年次総会> を開催し、つづいて <第 4 回 平野富二賞授賞式> を開催しました。
ここに <第 4 回 平野富二賞授賞式> の模様を、写真画像をもってご紹介いたします。

平野富二賞 プレゼンター:平野正一氏。受賞者:モトヤ左) プレゼンター : 平野正一氏 (タイポグラフィ学会会員。平野富二玄孫)
中) 受賞者 : 株式会社モトヤ技術部課長 / 芳仲孝夫氏
右) タイポグラフィ学会副会長 : 木村雅彦氏 モトヤ 芳仲氏講演 モトヤ 吉仲氏講演02平野富二賞 受賞記念講演 株式会社モトヤ技術部課長 : 芳仲孝夫氏 平野富二賞授賞式後の記念撮影平野富二賞 授賞式後の記念撮影

【 詳細情報 : タイポグラフィ学会 URL 】
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《 モトヤ 活字資料館 貴重な活字見本帳を新展示―芳仲孝夫氏情報提供 》
活字資料館の新規展示_1 活字資料館の新規展示_2 活字資料館の新規展示_3

< 活字資料館の開設にあたって > ―― 平成9年2月 株式会社 モトヤ

株式会社モトヤは、平成8(1996)年7月31日、創業以来75年間にわたって、共に喜び、共に苦しんできた「活字」との別れの日を迎えた。
このことは後退を告げるものではない。モトヤの社是「顧客と共に栄える」を標榜し、21世紀に向け、100周年に向け、さらには永遠に歩み続けることを誓って、力強く、新たな一歩を踏み出したことを意味している。
まさに、モトヤがコンピュータ時代に対応して、「アナログ」の世界から訣別し、「デジタル」の世界で生きることを宣言した記念すべき日である。

しかしモトヤはアナログの世界を無視するのでなく、むしろそこで培ってきた知識をベースにして、そこから新しいデジタルの世界を築いていくのでなければならない。その関わりの中に明日の糧となるものがある。当資料館を開設した所以ユエンである。
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株式会社モトヤ大阪本社の2階には、「 モトヤ 活字資料館 」として、創業(大正11年)から平成8年まで営んでおりました鉛活字の製造や組版作業の様子をはじめ、今も引継がれるフォントデザインの過程を常設展示しています。
活字資料館についてのお問い合わせは、株式会社モトヤ大阪本社(担当/技術部課長 : 芳仲孝夫)までお願いします。

  モトヤ 大阪本社   〒542―0081
 大阪市中央区南船場1―10―25
 電 話 (06)6261―1931
 FAX  (06)6261―1930

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《 モトヤ 活字資料館 貴重な活字見本帳を新展示―芳仲孝夫氏情報提供 》
モトヤ活字資料館につきまして、主に貴重な見本帳を中心にショーケースでの展示を新設いたしましたので
関連資料をご紹介させていただきます。

  1. 明治末期発行 大阪青山進行堂の活字見本帳
  2. 大正末期発行 大阪青山進行堂の活字見本帳
  3. 1912年発行 米国『AMERICAN TYPE FOUDERS』社の通しナンバー付き活字総合見本帳
  4. 昭和初期発行 森川龍文堂の活字見本帳・印刷機器一覧
  5. 1950年代発行 イタリア『NEBIOLO ネビオロ』社の活字見本帳
  6. 1950年代発行 ドイツ『LINOTYPE ライノタイプ』社の活字見本帳
  7. 大正15年発行 共同印刷の花形見本帳
  8. モトヤが昭和30年代にデザイン・活字製造・輸出を行っていた、ビルマ(現ミャンマー)、タイ、サンスクリットなど、当時の東南アジア文字のデザイン原字

CDD ・ VD ・ ブルーレイ ・ 各種メモリなどのデジタルメディアは、100年後にその情報をみることができるかというと、再生機器の問題や、メディアの保存性の観点などから、それは不可能に近いとされています。
しかし紙媒体は、100年以上、いや丁寧につくられ保存状態が良ければ数百年後であってもその情報をみることができます。整理をしつつ、改めて紙媒体のすばらしさを知った次第です。
【 詳細情報 : モトヤ 活字資料館

【訃報】 戦後タイポグラフィ界の巨星 : 吉田市郎氏がご逝去されました

 

yoshida_sama[1]吉田市郎  1921(大正10年)01月28日-2014(平成26年)09月29日 行年93

元株式会社晃文堂代表取締役/株式会社リョービ印刷機販売代表取締役、株式会社リョービイマジクス代表取締役、リョービ株式会社取締役、吉田市郎氏が、2014年09月29日肺炎によりご逝去されました。
ここに謹んで皆さまにご報告いたします。

吉田市郎氏にお世話になったのは、朗文堂 : 片塩二朗がまだ小学生のころに、日本橋丸善の店頭にあったスミスコロナ社の欧文タイプライター(パイカとエリートサイズを搭載していた)に惹かれ、神田鍛冶町二丁目18 にあった、株式会社晃文堂-欧文活字の晃文堂をオヤジとともに訪ねたのが最初でした。

以来半世紀余にわたり、筆舌につくせないご薫陶をたまわりました。
ご高齢でもあり、いつかこの日がくることは覚悟していたつもりでしたが、お知らせをいただいて、まさに <巨星 墜つ> のおもいで ことばもございません。

いずれ別項 <タイポグラファ群像> をもうけてご報告いたしますが、吉田市郎氏は、終戦後ようやく復員し、まもなく晃文堂を設立され、金属活字 ・ 活版印刷関連機器の製造販売からスタートし、写真植字、デジタル世代の三代にわたって、つねにその先頭にたって業界を牽引したかたでした。
またタイポグラファの見地から、印刷術をシステムとしてとらえ、その基盤の書体開発から、印刷までの、一貫したシステムの開発に尽力されました。

ともかく仕事一筋のかたでしたから、業界紙誌への寄稿はたくさんありますが、まとまった著述はのこされませんでした。わずかに吉田市郎氏からの聞き語りと、頂戴した資料をもとに記述した拙著 『逍遙 本明朝物語』 (オフセット印刷版は完売。樹脂凸版印刷版のみ在庫。朗文堂) が、わずかにそのタイポグラファとしてのお姿を伝えるばかりです。
【 朗文堂ブックコスミイク : 既刊書案内 『逍遙 本明朝物語』

そこで、吉田市郎氏の晩年の2006年に発足した、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の <ニュース第一号> にお寄せいただいたご祝辞を紹介させていただき、せめてもの吉田市郎氏のご人徳をしのぶよすがとさせていただきます。
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【 元記事 : アダナ・プレス倶楽部ニュース No.001- Adana-21J の誕生おめでとう 2006.09 
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ニュース No.001 【アダナ・プレス倶楽部便り】

アダナ型印刷機 < Adana – 21 J > の誕生、おめでとう  !

吉田 市郎 株式会社リョービイマジクス顧問 (元 ・ 株式会社晃文堂代表取締役)

このたび、朗文堂/アダナ・プレス倶楽部からアダナ型小型活版印刷機「 Adana – 21J 」が誕生されるとうかがい、大変嬉しく存じます。

古い話しになりますが、株式会社晃文堂の時代に 「アマチュア用印刷機 ADANA 」 を 2 機種 (3×5 inch, 5×8 inch) 輸入販売いたしました。
当時のわが国では活版印刷はとても盛んでしたが、国家そのものに外貨の蓄えがなく、外貨の為替管理がきわめて厳しくて、海外からの、活字、活版印刷関連機器など、物資の輸入には様々な困難がありました。

幸い多くのユーザーの皆さまを得て、アダナ印刷機はご好評をいただきましたが、その後イギリスのメーカーが製造を中止し、また活版印刷全般も衰勢をみせるようになって、アダナ印刷機の代理販売業務からは撤退いたしました。
従いまして、多くのユーザーの皆さまには、不本意ながらご迷惑をおかけすることになったことにたいして、内心忸怩たるものがありました。

それが今般、長年ご厚誼をいただいている朗文堂さんの新事業部門、アダナ・プレス倶楽部によって、新設計による国産活版印刷機 「 Adana-21J 」 が誕生するとうかがい、大変嬉しく思っております。
おそらく活版印刷と鋳造活字には、まだまだ寒風が押し寄せるでしょうが、それにめげず、創意と挑戦の意欲を持って、これからの開発 ・ 販売にあたって頂きたいと存じます。 「 Adana-21J 」 の試作機のご発表、おめでとうございます。

【展覧会】 エミール ・ ルーダーの100年 記念講演 : ヘルムート ・ シュミット氏

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  100 Jahre Emil Ruder

 2014年09月19日、スイス、バーゼルのデザインスクール、S f G 及び HGK FHNW は、エミール ・ ルーダー(Emil Ruder,  1914-70)の生誕百年を祝い、その功績を称えて、<エミール ・ ルーダーの100年> と題するシンポジウムと展覧会を開催した。
その資料をヘルムート ・ シュミット氏よりいただいたので、ここに紹介したい。
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シンポジウムの講演者 :
リチャード ・ ヒリス、ロンドン
ラルス ・ ミュラー、チューリッヒ
ホアン ・ アラウシ、バルセロナ
ミヒャエル ・ レナー、バーゼル
ヘルムート ・ シュミット、大阪

この講演の内容は、TM 誌の 2014年第 3 号に掲載される予定である。

展覧会では、エミール ・ ルーダーのデザインによるポスター30点が展示された。
政治的ポスター「 Liste 1 」は含まれていなかった。
「 Liste 1 」は、2014年3月20日から4月29日まで、東京 ・ プリントギャラリーで開催された
<danke Emil Ruder > 展で展示された。
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写真 : フィヨドル ・ ゲイコ
14027 SfG Emil Ruder Faltflyer A3 PF_GzD-3
【 関連情報 : 朗文堂ブックコスミイク 『 japan japanese 』
【 関連URL : プリントギャラリー/<danke Emil Ruder >
以下の情報は『 japan japanese 』に関して2011年12月14日-13年03月21日まで、都合09回にわたって掲載された記事を、降順に並べ替えて掲示した。順を追ってお読みいただけるとおもしろい。
【 関連情報 : 『 japan japanese 』 刊行記念 ヘルムート・シュミット氏の講演会+展覧会のお知らせ