月別アーカイブ: 2012年12月
新宿私塾忘年会 +涮涮ってなに? スキヤキの漢字は?
《2012年12月22日[土]新宿私塾第21期生 懇親忘年会》
12月の声をきいたら、あちこちで新宿私塾修了生が、同期ごとに懇親会を兼ねた忘年会を開催しています。それぞれの期ごとに幹事が工夫して、安く、楽しく、お酒もたくさん呑める会場をさがしての開催です。
おおむね女性が幹事ですと、しゃれた、グルメ調の洋風の店になり、男性が幹事ですと、大衆居酒屋のようなところになるようです。
新宿私塾第21期生は現在履修中で、22日は希望者に向けて、特講「アドリアン・フルティガーの造形と、その応用展開」が実施されました。
当日は貴重なDVD画像を見て、たくさんの資料をかかえたまま、夕刻5時半にビックロの裏側にある「しゃぶしゃぶのお店」に駆けつけました。
ビルのなかにある、清潔でおしゃれなお店でした。お料理の中心は「スキヤキ風しゃぶしゃぶ」(写真:町田さん提供)。町田さんによると、
「しゃぶしゃぶは食べるのが忙しいし、美味しくてメンバーの写真を撮ることを忘れちゃった」
そうです。
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ところで肉の鍋料理「しゃぶしゃぶ」の起源は意外にあたらしく、1952年(昭和27年)に大阪のスエヒロが、自店の料理として出すときに「しゃぶしゃぶ」と命名したもので、これがはじまりとされています。
同店では1955年(昭和30年)に「しゃぶしゃぶ」ではなく「肉のしゃぶしゃぶ」の名で商標登録をしています。ここでは「しゃぶしゃぶ」はひら仮名であらわされています。
台湾では「日式」というと日本風ということになりますが、台北のまちに写真のような「日式鍋料理 涮涮鍋」のお店がありました。同行していた 林昆範 さんによりますと、
「涮涮鍋は シュワンシュワン-グヮ といいます。みんなが日本の料理だと知っていますし、意味からいうと 涮鍋 でもでいいのですが、涮涮 シュワン シュワン と繰りかえすことで、スープのなかでサッサ、サッサと肉をゆする行為をうまくあらわしていますね。
台湾には似たような鍋料理に、蒙古族の 涮羊肉 シュワン-ヤン-ロウ, shuàn yáng ròu という、羊の肉の火鍋料理もありますから、蒙古族や女真族の料理が日本で変化したものかもしれません」
[説文解字風にまとめました]
許慎六書の法でいう会意を3回繰りかえした字。
「氵」は水(ここではスープ、だし汁)をあらわす。
「刷」はサッとこすり取るが原義。はく、清める、サッとなでてゴミを取りさる。する「印刷」
左側は「尸シリ+布ヌノ」の会意の字で、人が布でお尻の汚れを拭きとる意をしめす。
刷はそれに刀をくわえた字で、刀のような細長いもので、サッと汚れをこすりとる意。
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宴たけなわ、お酒もだいぶまわったころ、チョイと意地悪な質問を。
「このコースターの裏に、スキヤキ を漢字で書いてください!」
「え~ぇ、スキヤキに漢字なんてあるんですか~?」
とワイワイガヤガヤやって、できたのが下の図版です。残念ながら全員アウト!
正解は下にあります。塾生の皆さん、後半戦も頑張りましょう!
牛・鶏肉などに、ネギ・焼き豆腐などを添えて、鉄鍋で煮焼きしたもの。
明治維新の前、まだ獣肉食が敬遠されていたころ、屋外で鋤スキの上に獣肉をのせ、焼いて食べたからとされる。また肉をすき身(薄切り)にしたからともいう。〔広辞苑〕
2012 武蔵野美術大学 助手展2012 開催されました。
助手展 2012 武蔵野美術大学助手研究発表
The Research Associate Exhibition 2012
- 会 期| 第1期:2012年11月26日[月]-12月08日[土]
第2期:2012年12月10日[月]-12月22日[土]
会 場| 武蔵野美術大学 美術館 展示室1、2 - Web site|http://musabi.ac.jp/ra/2012/
- 主 催| 武蔵野美術大学 美術館・図書館
企 画| 助手展2012運営委員会
武蔵野美術大学の各研究室に所属する助手の皆さんによる、作品と研究成果の展覧会です。美術、デザイン全般にわたる作品と研究成果が、同大学美術館展示室で、2 期にわけて発表されました。
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武蔵野美術大学《助手展2012 第 2 期》に「504ポイントのコンポジション」のテーマで参加された日吉洋人ヒロトさん(基礎デザイン学科助手、アダナ・プレス倶楽部会員、活版カレッジ修了)から、同展の情報と、データーの提供をいただきました。
日吉さんは、武蔵野美術大学基礎デザイン学科助手としての勤務のかたわら、活字版印刷にこだわって、21世紀、あるいは平成の時代になってから、わが国はじめての「活字鋳造工・活字組版工見習い」として研鑽をつづけているかたです。
また、武蔵野美術大学基礎デザイン学科には、小型活版印刷機 Adana-21J が導入されており、活字の追加購入も盛んです。もちろん学生の皆さんや助手の皆さんの積極的な使用がみられます。
活字 100 本を使用。インテルの長さは五号 24 倍。
行間のあきは、五号全角、二分、四分、八分を
組み合わせて使用。
込め物は、五号四倍、三倍、二倍、全角、二分、
三分、四分を組み合わせて使用。
既に構成を志向しているように感じます。
制御され、結果として法則性をあたえられて
います。そのことは、版面のなかに破綻をあた
今回の研究・展示「504ポイントのコンポジション」のテーマで、日吉洋人さんが着目した「504ポイント」とは、わが国の「金属活字新号数制」のもとでの最小公倍数としてもちいられた数値です。また、それを厳格に計測するための「活字の原器」の存在を、本年03月に『花筏』に報告しました。そのときからすでに日吉さんはこのテーマの共同研究者でした。
★『花筏』タイポグラフィ あのねのね*019「活字の原器と活字のステッキとは-活字の最小公倍数 504pt. とは」2012年03月17日掲載
また「五号24倍」とは、活版印刷のおもに端物業者(名刺・カードなどの少量小型印刷業者)がよく使う倍数で、端物印刷には適応性がとても高い数値です。
今回の研究に際して、日吉さんが「活字の原器」の数値をさらに厳格に調査したところ、前掲資料の一部に齟齬があることが判明しましたので、『花筏』のデーターも修整して再掲載いたします。
東洋美術 ACTY #2 大牟田2047展覧会
■ 2012年12月10日[月]-12月15日[土]
■ 東洋美術ギャラリー館
ACTY #2 大牟田2047
デザイン研究会 アクティ、2 年ぶりの展示は『大牟田2047』と題し、現在、九州の地方都市で進行しているプロジェクトを紹介致します。
日本の近代化を支えたまち-福岡県大牟田市。ここはかつて三井三池炭鉱によって栄えたまちでした。日本の近代化をなぞるように発展したこのまち。最盛期には国内におけるエネルギーの源、そのおよそ一割が、ここで産出された石炭だった時代もあるそうです。このまちが日本の近代化を支えたといっても過言ではありません。
しかしエネルギー需要の変化に伴い、1997年に炭鉱は閉山。以来、十余年。このまちはあらたな都市としての生き方を模索しています。かつての炭鉱施設を近代化産業遺産として保存活用しようとする試みや、地元NPOの尽力による炭都としての価値付け。また高齢化に応じたホスピタリティの充実など……。
今、このまちは自身の本質を見据えながら、一歩一歩、着実に前に進もうとしています。
■ デザイン研究室産学連携事務局 中村将大
クリエイティブデザイン科4 年 加久本真美
クリエイティブデザイン科3年 栫井篤
クリエイティブデザイン科1年 木下玲子、武田知世、
藤瀬千香子
グラフィックデザイン科1年 高野千鶴
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東洋美術学校、とりわけ産学連携事務局の皆さんには
お世話になることが多い。
産学連携のプロジェクトで、かつては日本四大産炭地の
ひとつとされた大牟田のまちの再生プロジェクトへの
取り組みがある。
今回はその2回目の発表で、廃鉱のまちとされた地域が、
あたらしい歩みをはじめる。
その一歩一歩を記録し、あらたな提案も試みていた。
展示はコンピューター画像を、屋外にも投影するなど、
意欲的な取り組みもなされていた。
糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で
《2012年11月23-25日、台北の茶館で林昆範老師と歓談》
関与先の台湾企業から、訪台の要請があり、22日の最終航空便の手配をされました。翌23日[金]は早朝からその用件に追われましたが、ここで報告するような内容ではありませんので割愛。
24日[土]は無事に解放されたので、久しぶりに 林昆範 さんとお会いすることに。
林昆範 リン-クンファン さんは、日大藝術学部大学院の修士課程・博士課程履修のあいだ、当時の指導教授・松永先生のご指示で、実に律儀に、誠実に、夏休みもなく朗文堂に毎週 1 回かよわれたかたです。
博士課程履修の後半は「グループ 昴」の一員としても活躍され、その成果を朗文堂 タイポグラフィ・ジャーナル ヴィネットに、『中国の古典書物』『元朝体と明朝体の形成』『楷書体の源流をさぐる』『石の書物-開成石経』などにまとめられました。
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林さんは博士号取得後に帰国され、現在は台湾中原大学助教授として、しばしば学生を引率して大陸中国で「中国少数民族の文化」の調査・研究にあたっており、今回は中国南西部での調査から、前日に帰国されたばかりでした。
それでも疲れもみせず、ホテルのロビーまでピック・アップにきていただきました。
★朗文堂ニュース:林昆範関連図書のおすすめ 2010年03月11日
久しぶりの再会のあとは、もうすっかり日程管理は林さんにお任せ。
「大藝埕 ダイゲイテイ にいきましょう。もともと日本統治時代に開発され、銀行や商事会社がたくさんあったまちですが、いまは東京の代官山のように再開発がすすんで、若者に人気のお店がたくさんあります」
「大藝埕は、日本のガイドブックには、美食街とされていますね」
「美食はカタシオさんは苦手でしょう。ご案内したいのは、隍廟(コウビョウ 道教)の隣の茶館です。ここは日本統治時代のビルを改装して、現代台湾のデザインショップや、ギャラリーもありますし、なによりも、ふるい臺灣と、あたらしい台湾がみられますから……」
しばらく大藝埕ダイゲイテイのまちをぶらついて、隍廟コウビョウの隣のふるいビル・民藝埕ミンゲイテイにはいりました。
このあたりは日本統治時代の築70年余のビルが多いのですが、さりとて日本風というわけではなく、コロニアル・スタイルというか、大正ロマンというか、アールデコというか、つまり無国籍なふしぎな感じをうけます。
漢方薬や骨董品などの、日本人観光客めあてのお店もありますが、いまはガイドブックの紹介も減って、日本人の姿はあまりみかけません。
ブック・カフェやデザイン小物の店がならぶ、まちあるきのあいだに、林さんの教え子たちとしばしば出会いました。なかにはかつて林さんに引率されて、朗文堂までこられた学生さんもいて、道教の廟「台北霞海城 隍廟」では道教式の礼拝の作法なども教わりました。
「林さん、埕テイ とはどういう意味ですか ?」
「商店街とか、マーケットということでしょうか」
帰国後に調べてみましました。「埕」とは本来口が細長い素焼きの酒瓶であり、ふるい製法の塩田の名称にももちいられます。この「細長い」の意から、細長くつづく商店街やマーケットのことになるようです。
民藝埕ミンゲイテイにはいくつもの商店やギャラリーが入っていましたが、どの施設も、あまりにむき出しで、素朴な、バウハウス・スタイル、1925年代国際様式、あるいは「白の時代」で溢れていて、こちらが照れてしまうほどでした。
それでも茶館「陶一進民藝埕トウイッシン-ミンゲイテイ」に入って、しばらくして「なるほどなぁ」と納得させられました。
ちなみに、茶館「陶一進民藝埕」で、80種類ほどもある「お茶」のなかからオーダーしたのは、写真手前が林さんのもので、インド北東部ヒマラヤ山脈南麓産の「ダージリン紅茶」でした。写真奥がやつがれのもので、中国江蘇省蘇州産の緑茶「璧羅春 ヘキラシュン 茶」です。なかなか国際色ゆたかです。
茶館「陶一進民藝埕」のパンフレットを簡略に紹介すると以下のようになります。
当店は台湾民藝100年の伝統と、現代日本のデザインを弁証法的に融合させた茶館です。
日本の民藝と美学の大家である柳宗悦氏、工藝デザインの大家の柳宗理氏の父子両代の理論と作品の数数と、喫茶を通じて対話していただきます。
つまり「民藝埕」に関与したとされる柳 宗悦( やなぎ むねよし、1889年3月21日-1961年5月3日)は、旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。
のちに香港うまれの英国人で、画家・デザイナー・陶芸家として知られるバーナード・リーチの知遇をえて、英国19世紀世紀末の「アーツ&クラフツ運動」に触発されて、手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合い「民藝運動」を起こし、生活に即した民藝品に注目して「用の美」を唱えました。また1936年(昭和11)東京都目黒区に「日本民藝館」を設立して、1957年(昭和32)文化功労者となりました。
またその子息、柳 宗理 (やなぎ そうり、本名:宗理 むねみち、1915年6月29日-2011年12月25日)は、惜しいことに昨年暮れに亡くなりましたが、日本の著名なプロダクトデザイナーでした。
柳宗理は1934年東京美術学校洋画科入学。バウハウスまなんだ水谷武彦の講義によってル・コルビジェの存在を知り、工業デザインに関心を持つようになり、プロダクトデザイナーとして活躍したひとでした。
柳宗理の師となった 水谷武彦 (みつたに たけひこ、1898年-1969年)は、日本の美術教育、建築の教育者です。また日本人として最初にバウハウス(Bauhaus)へ留学した人物としても知られます。帰国後には様様な活動をつうじて、日本にバウハウスを紹介し、その教育を実践した人物です。
これらの「アーツ&クラフツ運動」や「バウハウス国際様式」にまなんだ人物が、どのようなかたちで、どこまで「大藝埕」の景観づくりと、「民藝埕」ビルと、茶館「陶一進民藝埕」などの再開発に関わったかは不詳です。
それでも「国際様式」とはたれが名づけたものか知りませんが、全体に激しい色彩とインパクトの強い形象が目立つ台湾のまちのなかで、この大藝埕あたりのランドスケープは、かなり異なった風合いがありました。
茶館「陶一進民藝埕」の食器(テーブルウェア)は、すべて柳宗理のデザインによるもので、純白の器のなかに、お茶の淡い色彩が浮かびあがります。
おおきな急須に、ときおり従業員のお嬢さんがお湯を注いでくれますので、ほどよく蒸れたころ、それをガラスの器にうつして、ちいさな茶碗で喫茶します。
「陶一進民藝埕」には3時間余も、写真のお茶だけで長居しましたが、べつに嫌がられもせず、つぎつぎとお湯を注いでくれました。料金はそこそこの値段で、お菓子もついて日本円で500円ほどだったでしょうか。
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林さんとのはなしに夢中になっているうちに、いつの間にか、かつての新宿邑の雑然とした朗文堂社内にいるころとおなじように、たがいにあつくなって、タイポグラフィ論議を展開していました。
テーマのほとんどは文+字=文字でした。蒼頡 ソウケツ 神話をかたり、そして許愼キョシン『説文解字』をかたりあいました。
「糸 繪 文 糸 紋 宀 子 字」そして「文+字、文字」でした。
先述したように林昆範さんは、中国大陸における観光産業との共同作業で「中国少数民族の文化」を考察・研究されていましたが、その途中経過をパソコン画面で提示しながら中間報告をしていただきました。
中国にはいまでも 54 ほどの少数民族があって、それぞれに守護神をもち、それを象徴化した図画・紋様をもつということでした。そして民族が守護神を失ったとき、その紋様とともに滅亡にいたるという報告は新鮮でした。
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帰国からしばらくして、写真が添付された@メールに、以下のようなうれしい報告がありました。
久しぶりにゆっくりおはなしができて、刺激的でしたし、発奮しました。
近年、大陸における観光産業との共同研究で、中国少数民族の文化を考察しています。それらの考察はデザインに使われる素材〔紋様〕として扱い、その素材収集が中心でしたが、これでは研究とはいえなくて悩み、まして論文発表までは考えてもいませんでした。
ところが、片塩さんのご指摘により、伝統紋様は原始の〔ことば〕であることを理解しました。即ち、「文」の造形性が強調されて「紋様」になりました。そして「文」の記号性が強調されて「字」になりました。この両者が結合したものが「文字」ということでいいですね……。
来年の夏までに、先日のご指摘と、これまでの収集の成果を見なおして、なんらかの発表ができるようにまとめることに全力をあげます。
日本と台湾でお互いにがんばりましょう。 林 昆範
(写真はすべて林昆範氏撮影)