月別アーカイブ: 2013年3月

【展覧会】空想の建築-ピラネージから野又穫 町田国際版画美術館


空想の建築
── ピラネージから野又 穫へ ── 展 
Imaginary Architecture from Piranesi to Minoru Nomata

【主催・会場】 町田市立国際版画美術館
【会期・時間】 2013年04月13日[土]-06月16日[日]
         月曜休館。4月30日、5月7日は休館
         平日:10:00-17:00 
         土・日・祝日:10:00-17:30
【観   覧   料】 一般 800円

────
[国際版画美術館のフライヤーに、一部補筆して紹介します]
この世には存在しない建築を空想すること ── それはわたしたちが、いま現在存在している世界とは別の世界を空想し、その世界にかたちをあたえることかもしれません。
そうであれば、空想の建築群とは、人間のイマジネーションと、想像力を駆使してうみだされる、もうひとつの世界〈アナザーワールド〉への入口といえるでしょう。

本展では、ヨーロッパのふるい版画から現代美術へ、時空をも飛びこえる〈空想の建築群〉を展示して、世界を空想の建築というかたちで、目にみえるようにしようとした人びとの系譜を紹介します。

はるか古代ローマにおもいを馳せ、その壮麗さを銅販画によって結実させたジョバンニ・バッティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi  1720-78)をはじめとして、18世紀世紀末の画家たちから、現代の美術家まで── 絵画や立体、そして版画など、変化に富んだおよそ180点の作品を展示することによって、見るものをはるかな世界へといざなう展覧会です。

また本展開催とあわせ、特別展示として、出品作家のひとり、野又  穫(ノマタ ミノル  1955- )のドローイング展『ELEMENTS──あちら、こちら、かけら』を開催いたします。あわせてご観覧ください。
────
[以下:片塩二朗 wrote]
ジョバンニ・バッティスタ・ピラネージ
     (Giovanni Battista Piranesi  1720-78) 
ピラネージは、本来は建築家でしたが、実際に完成した建築は「サンタ・マリア・デル・プリオラート聖堂」ほか数点にとどまり、こんにちピラネージは銅版画作家であり、出版人として知られています。

写真術がまだ登場していない18世紀にあって、ピラネージの精細で正確無比な エッチングによる銅版画 は、絵画とは異なり、一定の数量を複製(印刷)できましたから、当時では驚異的なものでした。

その影響はひろく欧州全域にわたって、ギリシャ、古代ローマなどの建築を「銅版印刷という複製芸術」によって、ひとびとの眼前に、あたかも実際の建築をみるおもいがするまでの完成度をもって迫り、圧倒的な人気を博しました。
ピラネージは、建築を銅版という印刷版の上に、エッチング技法によって画像を刻み、銅版印刷(凹版印刷の一種)によって、ゆたかな創造の成果を実現した「建築家」であり、「銅版画家」でもありました。
────
小社の周辺でも、建築界から印刷人へ、あるいは建築設計士から印刷設計士(グラフィックデザイナー)に転換されたかたも多くおられます。
またその転換の過程で、新宿私塾や活版カレッジでまなぶかたも少なくない現代です。凹版印刷も、凸版印刷も、あるいは書物づくりも、立体的構造物である建築と通底するものがあるようです。

畏兄「無想庵主人」のWebsite『無想庵乃書窓』には、ピラネージの略歴と、豊富な図版が紹介されています。ぜひこちらをご覧いただき、町田国際版画美術館に足を運んでいただきたいと存じます。
【リンク:無為庵乃書窓 ジョバンニ・バッティスタ・ピラネージ 略歴、画像集】

「本の知と美の領域 vol.2 ー 森山明子の仕事」展のご案内

第693回 デザインギャラリー1953 企画展
「本の知と美の領域 vol.2 - 森山明子の仕事」
────

  • タイトル:第693回 デザインギャラリー1953 企画展
                「本の知と美の領域 vol.2 - 森山明子の仕事」
  • 会 期:2013年3月20日(水)-2013年4月15日(月)
         最終日午後5時閉場
         入場無料
  • 会 場:松屋銀座7階・デザインギャラリー1953
  • 主 催:日本デザインコミッティー
  • 協 力:山田脩二、白井敬尚
  • 企画・会場構成:平野敬子

この度、日本デザインコミッティーでは、第693回デザインギャラリー1953企画展といたしまして、デザインジャーナリスト・森山明子の仕事を紹介する展覧会「本の知と美の領域vol.2 – 森山明子の仕事」を開催いたします。

森山明子は、デザイン雑誌「日経デザイン」の創刊に携わり、以降、デザインをジャーナリストの立場から 俯瞰して見続けてきました。
その長年に亘る活動の中で、森山は多くのクリエーターとの接点を持ち、彼らの活動や仕事を編集して世に送り出すという仕事に近年、力を注いています。

独自の視点によるクリエーターへの入念なインタビューは、そのクリエーターの内面を透かし見ることが出来るほど精緻に編まれる書籍作りへと繋がっています。
本企画展では、そうした仕事の中から、前衛いけばな作家・中川幸夫、写真家・石元泰博、そしてテキスタイルプランナー・新井淳一の、3人のクリエーターの仕事をまとめた書籍を中心に、森山明子の世界をご紹介したいと思います。

[森山明子さんの略歴]
Moriyama Akiko/デザインジャーナリスト、武蔵野美術大学教授
1953年新潟県生まれ。1975年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業。特許庁意匠課審査官、財団法人国際デザイン交流協会勤務をへて、1986年日経マグロウヒル社(現・日経BP社)入社。「日経デザイン」の創刊にかかわり、1993-98年同誌編集長。1998年から現職、デザイン情報学科所属。
NHKハート展詩選考委員、グッドデザイン賞審査副委員長、芸術工学会副会長・名誉理事、公益財団法人三宅一生デザイン文化財団理事、公益財団法人日本デザイン振興会理事などをつとめる。
主著は『まっしぐらの花 - 中川幸夫』、『石元泰博 - 写真という思考』、『新井淳一 - 布・万華鏡』。
────
森山明子さんは、朗文堂とも、長年にわたって、とても親しくおつき合いさせていただいているかたです、そんな森山さんの近著をまとめた意欲的な展覧会が開催されます。皆さまのご観覧をお勧めいたします(片塩二朗)。
【詳細:日本デザインコミッティー デザインギャラリー1953】

これは実際に書かれていたひとつの「字」です。なんと読みますか ? 回答はタイポグラフィ・ブログロール『花筏』で、のんびりアップ。

上記の「字 ≒ 文字」は、ひとつの「字」です。
漢の字(漢字)というより、国字(わが国でつくられた漢風の字)、もしかしたら個人の創意、あるいはわずかなテライ、もしくは軽い諧謔ユーモアをこめてつくられた「字」かもしれません。
図版でおわかりのように、上部に「毎」をおいて、下部に「水」をおき、ひとつの「字」としたものです。

やっかいなことに、この「字」は、わが国の歴史上で実際に書きしるされており、国宝とされる複数の貴重な文書の上に、なんども登場していて、一部の「集団」からは、いまもとてもおもくみられている「字」です。
ですから簡単に「俗字」「異体字」として片付けるわけにもいかず、原典文書の正確な引用をこころがける歴史学者などは、ほかの字に置きかえられることをいやがります。

1970年代の後半だったでしょうか、まだ写研が開発した簡易文字盤製造「四葉」セットもなかったころのことです。展覧会図録として、この「字」をふくんだ文書の組版依頼がありました。
当時は原始的というか、当意即妙というのか、原字版下を作成して、ネガフィルムをおこし、ガラス板にはさんで写真植字法で組版するという、簡便な方法で対処したことがありました。もう40年ほど前のこととて、その資料も、使用例も手もとにはありません。

もちろん現代の文字組版システムは汎用性にすぐれており、こうした「特殊な字」は、アウトラインをかけるなどして「画像」とすればいいということはわかります。それでも学術論文までもが Website で発表されるという時代にあって、やはりなにかと困った「字」ではあります。
────
先まわりするようですが、デジタル世代のかたが愛用するパソコン上の「文字パレット」や「手書き文字入力」ではでてきません(わたしのばあいは ATOK ですが)。
ちなみにこの「字」のふつうの字体は、人名・常用漢字で、JISでは第一水準の「字」であり、教育漢字としては小学校二年に配当されている、ごくあたりまえの「字」です。

また、一部のかたが漢の字の資料としておもくみる『康煕字典』では、「毎」は部首「母部」で「辰集下 五十七丁」からはじまり、「水」は部首「水部・氵部」で「巳集上 一丁」からはじまります。為念。

現代中国で評価がたかい字書のひとつ『漢語大詞典』(上海辞書出版社)もありますね。これらのおおがかりな資料にもこの「字」は見あたりません。
また、わが国のふつうの『漢和辞書』とされるものは、なんらかの中国資料の読みかえがほとんどですから、当然でてきません。
これらの資料には「標題字」としては、上掲の「字」は掲載されていないようです。もしかして、万がいつ、応用例としてでも、ちいさく紹介があったらごめんなさいです。
────
とかく「漢字」「文字」というと、ほんの一部のかたのようですが、妙にエキセントリックになるふうがみられるのは残念です。
ここではやわらか頭で、トンチをはたらかせて、
「なぁ~んだ、つまらない」。「ナンダョ、簡単じゃないか」
とわらってください。
そしてこの「字」をつくりだした、天性のエンターティナーに、おもいをはせてください。
「回答」というほどのものではありませんが、お答えは タイポグラフィ・ブログロール《花筏》にのんびりとしるしていくつもりです。 
────
やよい三月です。あちこちから梅だよりをいただきますし、ことしの《Viva la 活版 Viva 美唄》の開催予定地、北海道の美唄では、例年にない豪雪だそうです。
また3月は企業や官庁では異動の月です。学生の皆さんは、入学・進級・卒業と、あわただしい毎日でしょうか。
また、この時期は、印刷・出版業界ではふるくから「年度末進行」とされて、繁忙期です。小社、小生も、ひとなみにあわただしい毎日です。
そしてきょうは3月11日、2年前のあの大惨禍がおそった日でもあります。
さまざまなおもいを抱えながら、頭をやわらかくするために、一筆啓上つかまつり候。

新宿私塾 第21期 無事に終了しました。


《昨年の秋9月に、新宿私塾第21期がスタートしました》
ふりかえりますと、新宿私塾第21期は、2012年09月25日、きびしい残暑がようやくおさまり、爽やかな秋空のもとで開講しました。
第21期生はこれまでの塾生諸君とおなじように、とても意欲的で、意欲、向上心、個性のつよい若者があつまりました。


ともかく2012年の夏は、猛暑というのか酷暑というのか、ひどい暑さの毎日で、開講後の残暑もきびしいものがありました。その分だけ、冬にはいると寒さがきびしくなり、ときおり雪やみぞれが舞う東京の毎日でした。

そして、日溜まりに梅の花がほころびはじめた2013年03月05日、新宿私塾第21期生は最終講義の日を迎えました。
この日に、全員揃って全課題を消化し、写真のように和気あいあい、タイポグラフィの同志としての修了でした。

この21期生は、前20期と同様に意欲的で、書棚の図書が空いてみえるほどの貸し出しが続き、毎回の講座はにぎやかなこと限りないほどの活発さでした。その報告は下記の「新宿私塾のアーカイブ」に記録されています(Websiteでは逆順です)。

【2012年09月27日 新宿私塾  第21期スタート
【2012年10月10日 日大藝術学部 Typography Seminer 終了】
【2012年11月20日 理想社 Field Work +】
【2012年12月13日 東洋美術 ACTY#2展 第10期生・中村将大さん】
【2012年12月26日 新宿私塾忘年会 +涮涮ってナニ ? 】
【2013年01月07日 第20期生・鈴木一成さん、震災からの復興と追悼を寄稿】
【2013年02月05日 製本術入門 +新年懇親会 咸亨酒店】

第21期塾生のみなさんを振りかえると、ひとり黙黙-カイ君、幹事役を背負った-ちぼし君-くき君(宴会部部長)、そして花粉症と闘いながら頑張った-きったかさん、好奇心のつよさならたれにも負けないぞ、ときどきすべってたけど ! -まちださん、皆さんの顔ぶれはなかなか賑やかでした。
また今期の資料発見・整理部長は-くき君と鈴木さん。新旧のたくさんの資料が、にぎやかに講座室を飛びかう毎回の講座でした。

《後半の講座の写真をまとめてみました》

それぞれの塾生の皆さんの、出身地、経歴、職場、環境がほとんど異なる新宿私塾ですが、なにぶん少数精鋭の塾生数ですから、すぐにお互いの立場にたいする理解と、おもいやりがうまれます。
それが終了後にも、同期ごとに、あるいは期を越えた潜在的な同門意識となって、問題や困難に立ち向かう際のおおきな援助となります。それが21期生のあいだでも強固だったようです。

新宿私塾では、タイポグラフィにおける「知・技・美」のバランスのよい学習をモットーとしています。
それはまた「知に溺れず、技を傲らず、美に耽らず」という、つよい自戒をともないます。
出会いはうれしく、別れはさびしいものです。それでも半年間、ともにまなび、ともに苦しんできた21期生の皆さんは、雄雄しく羽ばたき、旅立っていきました。
ここにまた、タイポグラフィの尖鋭としての同志の輪が、おおきくふくらみました。

【展覧会情報】書道博物館『唐時代の書、徹底解剖!!』。+則天武后と則天文字。

 

書道博物館 企画展 中村不折コレクション
唐時代の書、徹底解剖 !!

【開催場所】  台東区立 書道博物館
          110-0003 東京都台東区根岸2-10-4
          Telephone  03-3872-2645 
          URL : http://www.taitocity.net/taito/shodou/
【開催日時】  2013年03月12日-06月16日
          9:30-16:30(入館は16:00まで)
【休   館 日】  毎週月曜日
          (展示替えのため04月30日、05月07日は休館)
          連休中の04月29日、05月06日は開館
          会期中の展示作品の入れ替えにご注意ください。
【観  覧 料】  一般:500円、小中高生:250円

────
[この部分は、書道博物館フライヤーの一部に加筆してご紹介します]
唐の時代(618-907)とは、中国の歴史上、王羲之オウギシらが活躍した東晋トウシン時代(265-420)とともに、「書」がもっともたかい水準に達した時代です。
唐時代の書の特質は、従来からつちかわれてきた書法を、たれにでもわかりやすく法則化した点にあります。とりわけ唐時代の楷書は、理知的な審美眼によって、非のうちどころのない字姿として完成されました。

初唐の三大家、欧陽 詢(オウヨウジュン、557-641)、虞 世南(グセイナン、558-638)、褚 遂良(チョスイリョウ、596-658)によって確立された美しい楷書は、いまも多くのひとたちによって学ばれつづけています。
その潮流は顔真卿(ガンシンケイ、709-85)に受けつがれ、「顔法 ガンポウ」とよばれる表情豊かな楷書がつくりだされました。

唐の歴代皇帝は、事実上の建朝者・李世明(高祖・李 淵の次子、唐朝第2代皇帝・太宗、在位626-49、598-649)に倣って、王羲之の書をおもくみましたから、次第に中国全土にわたって、王羲之の書風にもとづいた、格調の高い書風がひろく浸透しました。

すなわち皇帝・李世明をはじめとして、孫 過庭(ソン カテイ、648-703 ?)や、李邕(リ ヨウ、678-747)らは、王羲之の書法にもとづき、洗練された書法をよくしました。
また、伝統的な書法から逸脱した美しさを創出した懐素(カイソ、僧侶、725-85 ?)らも、異彩をはなつ名品をのこしています。

今回の「唐時代の書、徹底解剖 !!」では、唐の四大書家とされる、欧陽 詢、虞 世南、褚 遂良、顔 真卿をはじめ、唐の太宗皇帝・李 世明、孫 過庭、柳 公権、懐素など、唐時代を代表する書の名品と、唐時代の貴重な肉筆資料である『則天武后時写経残巻』(初公開、期間限定:03月12日-04月14日)、『敦煌トンコウ写経』などの貴重な書墨や拓本が、中村不折フセツ コレクションから紹介されます。
────
《則天武后と則天文字》
[以下は、片塩二朗 wrote]
河南省洛陽郊外、黄河の支流、伊水河畔には、敦煌トンコウ、雲崗ウンコウとならんで、中国三代石窟のひとつとされる龍門石窟リュウモンセックツ群があります。
その造営は、とおく南北朝時代の鮮卑族王朝の北魏(386-556)の時代にはじまり、初唐のころには、もっとも巨大な奉先寺の造営によってピークをむかえました。

とりわけ仏教にふかく傾倒していた則天武后、武 照(三代皇帝・李 治、高宗の皇后武照、周の聖神皇帝、在位690-705、623-705)は、宏大な石仏群の奉先寺の造営を、事実上20年ほどのあいだに進行しました。

その本尊の毘盧遮那仏 ビルシャナブツ は、洛陽の春をかざる大輪の牡丹の花にもにて、豊饒でふくよかな顔立ちをしています。ですから数十万躰ともされる、痩身で峻厳な顔立ち、いわゆる北魏様式とされる、ほかの龍門石窟の諸仏、とりわけふるくから開鑿がすすんだ左岸の諸仏とくらべると、あきらかに女性のこのみが表出した、おおらかで優美な仏像となっています。

則天武后こと、武 照の表情を模したとされるこのおおきな石像をみると、後世の歴史家が文字で描きだした人物像とくらべると、ふくよかで、豊満な、魅力に溢れるものですし、わが国東大寺の大仏像のモデルとなったという伝承もうべなるかなとおもわせます。

たしかに則天武后は奔放なひとであり、淫乱にして剣呑な面もうかがえます。また嫉妬深くて残忍な性格だったかもしれません。
後段で解説しますが、則天武后は、感情の起伏がはげしく、そのほとばしりを制御できないまま、側近の甘言におぼれて、恣意的な施策をかさねた側面はみられます。

ところが則天武后が設立した控鶴府コウカクフ(のちに改称して奉宸府ホウシンフ)は、いまの文化サロンさながら、あまたの文人、詩人、書画壇の偉才をまねいて、大小の宴会を連日開催し、「勅命」によって即興の詩や歌を吟じさせ、書画を描かせることも多かったとされます。
この時代の洛陽は、また「華のみやこ」とも称されていました。

則天武后の治世は、その薨去からまもなく、李白や杜甫が活躍する盛唐文化の開花につらなり、書壇では欧陽詢書風だけでなく、顔 真卿や柳公権らがあたらしい書風をもって活躍し、則天武后の孫にあたる李  隆基・玄宗帝の「改元の治」につらなって、盛唐文化としての結実をみました。
史家のまなざしは、この女性にいささか酷にすぎるようでもあります。
────
ところで、則天武后は、漢の字がもともと内包する造形の神秘性に鋭敏であり、その背後にある種の霊性をみいだし、その呪術性や神秘性に憑かれていたのではないかとおもえることがあります。
もちろんその制定にあたっては、鳳閣侍郞ホウカクジロウの宗 秦客ソウシンカク の手によって載初元年(689)に献上され、ひろく天下に実施されたとされます。

そんな則天武后と則天文字へのおもいから、だいぶ以前かfら、則天武后がつくりだした「則天文字」をコツコツと追ってきました。当時は資料がすくなく、『則天武后』(外山軍治、中央公論新書)程度の資料を頼りに、中国での実地調査がおもでした。

今回の展覧会を期に、あらためてそんな資料を整理して、『花筏』に紹介しようと苦慮中です……。
ところがなにぶん整理が苦手なもので、資料の大半が四散しており、それをまとめることに時間がかかります。しばらくのお時間をいただきます。


中国河南省・洛陽郊外の龍門石窟の巨大石造寺院、奉先寺は唐の高宗(事実上は則天武后、武 照)の創建によるものです。本尊の毘盧遮那仏は則天武后の表情を模したものとされ、わが国の東大寺大仏にも影響をあたえたとされます。
上)奉先寺・毘盧遮那仏  下)奉先寺・左脇持仏


上)則天武后・昇仙太子碑拓本。
2-4行目の上から3文字目が、順番にいわゆる則天文字の「年、月、日」になっています。
『昇仙太子碑』ショウセンタイシ ヒの建碑は、聖暦2年(699年)。則天武后は「唐」にかえて、国号を「周」と号したことから、古代の周の太子の廟を修復し、これを記念してみずから撰文し、みずから書して建碑しました。碑石はとても大きく立派な碑で、河南省偃師エンシ市の仙君廟センクンビョウに現存しています。

中)「則天文字の誕生とその東漸」『印刷雑誌』(片塩二朗、1994年07月号)に紹介した写植活字での「則天文字」の試作。
筆者はつづいて、則天文字「圀」をもちいている「徳川光圀にみる西方へのまなざし」『印刷雑誌』(片塩二朗、1994年08月号)をしるしました。
徳川光圀の「圀」は、いわゆる則天文字であり、また光圀の知行地であった水戸、墓所のある常陸太田には、いまも則天文字の痕跡が、あちこちでみられることを報告したものです。
この当時は資料がすくなく、苦労があったと記憶しています。製作協力:吉田佳広氏。

こののちに研究書『則天文字の研究』(蔵中 進、翰林書房、1995)が発行されて、「則天文字」に関する本格研究が着手されました。
同書は研究内容の評価だけではなく、わが国のタイポグラフィ史からみても貴重な書といえます。すなわち同書は、金属活字原版刷りによって印刷されています。

特殊活字の「則天文字」は、同書のためだけに活字母型を特注製造し、自動活字鋳植機(KMT)で組版・印刷・刊行されたものであり、『則天武后』(外山軍治、中央公論新書)などの先行書とくらべても違いは歴然としています。同書は活字版書籍印刷後期の記念すべき書物です(印刷所:文京区後楽に旧在・共信社印刷所)。 

下)「則天武后がのこした文字」『文字百景 089』(片塩二朗、2000年09月)
電子活字本明朝-Mと混用できるように製作した「則天文字」。製作:鈴木孝。

いまにしておもえば……、この写植活字と電子活字による2回の試作活字の挑戦は、いかに楷書体の末流に属するとはいえ、明朝体活字書風で試作したことには問題がありそうです。
また、現在では「則天文字」として争いのないものは、識者のあいだでは17キャラクターに落ちついているようです。ですからキャラクターの選択そのものも、再考が必要です。

「則天文字」は、いわゆる漢字六書の法からいうと、象形であり、会意といえますが、本来の六書の法からはかなり逸脱しており、むしろこれを「文」(徴号)とみて、則天武后みずからが『昇仙太子碑』にのこしたような、唐代の楷書書風で再現を試みるべきであったと反省しています。
現代はデジタルタイプ、明朝体によって「則天文字」は再現されていますが、ほとんどのキャラクターはユニコード対応で、ソーシャルメディアでは表示に困難をともないます。

またこんにちのソーシャルメディアのなかでは、G 検索によると90,500件(2013年03月調査)ほどのたくさんの記述をみることにおどろきます。いつの間に「則天文字」が、こんなに多くの皆さんの関心を呼んだのでしょう。
また ウィキペディア「則天文字」は、どなたが記述したものか、とても丁寧な解説になっていて、これもまたおどろきました。

「書道博物館」フライヤー裏面部分拡大。『則天武后時写経残巻』(初公開、期間限定:03月12日-04月14日)図版の最終行「日」に、則天文字の「日」がみられます。

《則天武后、武 照のひととなり》
則天武后こと武 照(武皇后・周の聖神皇帝、在位690-705、623-705)は、「貞元の治」で知られる、唐の二代皇帝・李世明(太宗、在位626-49、598-649)の後宮(わが国江戸期の大奥にちかい)に14歳にしてはいり、太宗の死後に出家して尼となりましたが、三代皇帝・李 治(高宗、在位649-83、628-83)の即位後に還俗して、あらためて高宗の後宮にはいったひとです。

高宗の後宮にはいると、王皇后を失脚させ、代わってみずからが皇后となり、朝政に加わって、李 世明以来の高官・褚遂良を左遷し、元老・長孫 無忌らの反対派を粛清し、武氏一族を登用して実権を握りました。

高宗の死後、武  照は、李 顕(中宗)、李 旦(睿宗)を相次いで皇帝に立てましたが、いずれも短期間で廃し、嗣聖七年(690)、高宗の死後6年余に、みずからが聖神皇帝となって、国号を唐から周(武周、690-705)とあらためて、中国史上唯一の女帝となりました。

治世の当初は、西南方で抵抗していた吐蕃(トバン、チベット系民族)や、西北の突厥トッケツなどの武装勢力を鎮圧するなどの面もみられましたが、まもなく、古代王朝の周(BC1100 ?-BC256)のあまりにふるい制度を復興させました。ほかにも密告を奨励して、酷吏・寵臣を専横させました。
このように、唐をむしばみ、漢族の儒教的倫理観に抵触した武 照に関しては、史家のおおくが批判的であり、周(武周)という国とその国号につめたく、武 照はあくまでも三代皇帝・李 治、高宗 の皇后として、則天武后と呼ぶことがならいとなっています。

それでも武 照の時代に登用された多くの人材が、孫にあたる李 隆基(唐六代皇帝・玄宗。在位712-56、685-762)の前半期、すなわち 楊貴妃 に惑溺する以前の「開元の治」で活躍したことは評価されています。
武 照は齢80歳をこえると、さすがに高齢化がめだって、長安四年(705)、宰相の張東之らが武 照に退位を迫り、李 顕(唐第四代皇帝・中宗、在位683-84、705-10。656-710)が帝位に重祚して、国号も周(武周)にかえて唐の名が復活しました。

また「則天文字」も重祚した実子の李 顕(中宗)の勅命をもって、廃止が宣せられました。
それでも「則天文字」は、民間ではながらくもちいられており、廃止からおよそ100年後(804年)に入唐した空海は、いくつもの「則天文字」を使用した書墨をのこしています。


そして、はるかな後世、江戸時代初期に、明末清初の大混乱が中国で発生し、それを逃れてわが国に亡命・帰化した中国・余姚ヨヨウのひと、朱 舜水(1600-82)が、徳川光圀の政治顧問となり、光国にかえて、則天文字「光圀」の使用を勧め、「憂いを先に、楽を後に」の故事から「後楽園」の名称などをもたらしたとされます。
ついでながら朱舜水の墓所は、水戸藩歴代徳川藩主がねむる、茨城県常陸太田市 瑞竜山 にありますが、東日本大震災の影響で墓標や設備の損壊がひどく、現在は公開されていません。

武 照は唐のみやこ長安よりも、副都洛陽の、ゆたかな水と緑にあふれた風土を愛していました。その洛陽の西、洛水の左岸に、唐の高宗の時、みずからが建てた宮殿「上陽宮」で長安四年(705)に薨去しました。その遺骸は夫の三代皇帝・李 治(高宗)の「皇后」として、李 治がねむる 乾陵 に合葬されました。

【特別情報】 朗文堂では4月初旬に、書道博物館でのギャラリー・トークの特別開催をお願いしています。ご希望のかたは事前に片塩宛にご連絡ください。

Viva la 活版 Viva 美唄 開催のお知らせ Ⅰ

 

朗文堂 アダナ・プレス倶楽部では、手動式卓上小型活字版印刷機 Adana-21J を中核としながら、活字版印刷(以下活版印刷、活版とも)の今日的な意義と、その魅力の奥深さの普及をとおして、身体性をともなった造形活動を重視し、ものづくりの純粋な歓びの喚起を提唱してまいりました。

活版印刷の今日的な意義と、魅力の奥深さをより一層追求するためには、活字版印刷術の技術と、知識の修得はもちろんのこと、「ものづくり」と真剣に向き合うための姿勢と環境も重要です。
────
そこでアダナ・プレス倶楽部では、活字組版を中心とした実践と、発表の場のいっそうの充実のために、過去5年間4回にわたって開催してまいりました「活版凸凹フェスタ」を一時中止  して、もう一度じっくりと構想を練りなおし、技芸を磨く準備期間と、制作期間を経て、「ものづくり」と真剣に向き合う姿勢を育む活動へとシフトすることになりました。









その第一弾として、本年7月の3連休に、北海道の美唄ビバイ市にある、
「アルテ  ピアッツァ 美唄」において、
『Viva la 活版 Viva 美唄』を開催いたします。

【名 称】 Viva la 活版 Viva 美唄
【会 期】 2013年07月13日(土)―15日(月・祝) 9:00―17:00
       (最終日は13:00まで)
【会 場】 ARTE PIAZZA BIBAI アルテ ピアッツァ 美唄
        北海道美唄市落合町栄町  
        http://www.artepiazza.jp/
【入 場】 無 料
      (ゼミナールの一部に参加費が必要なものもあります)
【主 催】 朗文堂 アダナ・プレス倶楽部

★      ★      ★

「アルテ ピアッツァ美唄」は、美唄市の出身で、世界的な彫刻家として知られる安田 侃(ヤスダ カン 1945- )氏が、いまなお創作を継続している、大自然と彫刻がたがいに相共鳴する彫刻の野外公園美術館です。

イタリア語で「芸術広場」を意味する「アルテ ピアッツァ 美唄」は、自然と人と芸術の新しいあり方を模索し、提案し続け、訪れる人々に自分の心を深く見つめる時間と空間を提供するすばらしい施設です。

 そのような素敵な環境にあるストゥディオ アルテ」 と、昭和のぬくもりをのこす旧栄小学校にある「ギャラリー アルテ」 の一画をお借りして、『Viva la 活版 Viva 美唄』では、各種のゼミナールと、活版カレッジ有志による活字版印刷を中心とした展示をおこないます。
「ストゥディオ アルテ」と隣接している「カフェ アルテ」では、おいしい珈琲や紅茶やケーキが楽しめますし、お天気にめぐまれ、戸外のテラスで軽食でも摂ると、エゾリスがヒョコリとやってきたりします。

★       ★      

美唄市は北海道中央部・空知ソラチ管内(空知総合振興局庁舎は隣接の石見沢市)に位置し、千歳空港から直通電車で約1時間半、札幌市からは特急電車で約30分とアクセスも便利です。
また昨年から国内線LCC(格安航空会社)の増加によって、北海道までの空の旅も格段と便利でリーズナブルな価格になりました。

美唄からは、札幌はもちろん、富良野・美瑛や旭川も周遊圏になりますので、ご家族やお友達との北海道旅行を兼ねてのご来場もお勧めです。

皆さまぜひとも、この機会に、お気に入りの本を1冊たずさえて、美唄の地にお越しください。
日常の喧騒を離れ、活字版印刷の展示をじっくりと鑑賞し、活版ゼミナールと、展示をご体験ください。
また彫刻と自然が織りなすシンフォニーの中で、のんびりと読書や思索に耽ったり、大切な人とのゆっくりしたひとときを過ごしてください。
真の造形活動や、こころ豊かな人生について見つめなおすための、贅沢な時間と空間がアルテ ピアッツァ 美唄にはあります。

★      ★      

美唄市 は、かつては四大産炭地のひとつとされて、三菱鉱業、三井鉱山、中小の炭鉱などが進出して、全国でも有数の炭鉱都市として栄えたまちです。最盛時には炭鉱までのローカル鉄道「美唄鉄道」がはしり、1950年代の最盛時の人口は10万人弱という繁華なまちでした。

1970年代にはいると、国の施策として石炭から石油へのエネルギー転換がはかられ、このまちでも1973年に三菱美唄炭鉱が閉山されて、ほとんどの炭鉱の灯が消えました。活気のあった炭鉱住宅はひっそりと静かになり、子どものいなくなった小中学校は廃校となりました。

それから40年ほどの歳月がすぎ、現在の美唄市は人口2万5000人ほどで、ここがおおきな産炭地だったことを忘れさせるほど、豊かな緑がひろがり、すっかり静かなまちになりました。それでも空知地方の中核都市、物資の集散地としての役割を担い、廃鉱のまちにありがちな暗さがないのがふしぎなくらいです。

[以下の部分は、アルテ ピアッツァ 美唄『popolo』広報誌を参考にしました]
アルテ ピアッツァ 美唄が誕生したきっかけは、1981年にイタリアで創作活動を続けていた安田 侃氏が、日本での創作活動の拠点を探していた際に、廃校となっていた旧栄小学校に出あったことにはじまります。
もともと安田氏は、地元美唄駅の鉄道員の息子として、この地にうまれたひとでした。栄小学校の朽ちかけた木造校舎は、数十年前の標準的な小学校の木造建築様式であり、子どもたちの懐かしい記憶と、ぬくもりがそのまま残っていたとされます。

そして校舎の一部に併設されて、しかもいまなお開設されている、ちいさな美唄市立栄幼稚園に通う子どもの姿が安田氏の心をとらえたとかたっています。
そこではエネルギー革命という、過酷な時代に翻弄された歴史を知らず、無邪気に遊ぶ園児たちを見て安田氏は決意しました。
「この子どもたちが、心をひろげられる広場をつくろう」。
それがアルテピアッツァ 美唄誕生のきっかけとなったといいます。

その後、安田 侃氏と、彼のおもいに共感した多くの人びとの尽力によって、1992年に栄小学校の廃校跡地を中心に、広大な敷地をもつ、世界でも希有な彫刻公園「アルテ ピアッツァ 美唄」が開園しました。

アルテ ピアッツァ 美唄は、樹林と草原の中に、40点あまりの石彫とブロンズの作品が配置され、それぞれが自然と溶け合いながら豊かな空間を創りだしています。
展示空間としてよみがえった校舎や体育館では、さまざまな展覧会、講演会、コンサートなどがさかんに開かれています。
中央の芝生の広場では、夏には水遊び、冬には雪遊びにやってくる大勢の子どもが走り回ります。かつて、ここに通っていた子どもたちの記憶と、現在の子どもたちの明るい歓声が、混じり合ってこだましています。

ここを訪れる人は、はじめてきた人でも、どこか懐かしい気持ちがするといいます。

安田 侃氏はかたっています。
「アルテピアッツァ 美唄 は幼稚園でもあり、彫刻美術館でもあり、芸術文化交流広場でも、公園でもあります。ですからわたしは、誰もが素に戻れる空間、喜びも哀しみもすべてを内包した、自分自身と向き合える空間を創ろうと欲張ってきました。この移り行く時代の多様さのなかで、次世代に大切なものをつないで行く試みは、人の心や思いによってのみ紡がれます」

アルテピアッツァ 美唄は、自然と人と芸術の新しいあり方を模索し、提案し続け、訪れる人びとに自分の心を深く見つめる時間と空間を提供しています。それはまさに、芸術の本質に通じているのです。

[2013年02月25日 追記]
《02月20日アップ後に、アダナ・プレス倶楽部会員からのうれしい情報をよせていただきました……》
この情報をアップしてから間もなく、グラフィックデザイナーで、活版カレッジ受講生の小野さんから、うれしい情報をいただきましたので、さっそくご紹介いたします。

小野さんは、数年前にここ「アルテ ピアッツァ 美唄」を冬季に訪問されたことがあり、雪の中にたつ彫刻作品にとても感動されたそうです。その折りの写真をご提供いただきました。
上から、「雪のなかのギャラリー棟」、「熊に注意の掲示板 ── ほんとうにこのあたりには、熊や鹿などの野生動物が出没します」、「廃墟となったもとの映画館」の写真です。

《活版カレッジ 新潟山山倶楽部の山下会員からも、うれしいお便りをいただきました》

なんという偶然でしょう !  美唄は私の父の故郷です。
昨年、私ははじめて父と美唄を旅して、そのとき
『Viva la 活版 Viva 美唄』の舞台となった「アルテ ピアッツァ美唄」にも
立ち寄りました。
ここは、そのむかし、父のいとこが通った「栄小学校」だったそうです。
懐かしさのあまり、父が飛びこんだ「栄幼稚園」の写真をおくります。
『Viva la 活版 Viva 美唄』、なんとしても時間をつくっていきますね。
[2013年03月18日 追記]
────
ことしは例年にない大雪が北海道にも積もっているようです。はるかに遠く、美唄の地をおもうこのごろです。

活版凸凹フェスタ 一時中止のお知らせ

5年間、ありがとうございました。 

烏兎怱怱 ウトソウソウ ── 月日が経つのは早いもので ── アダナ・プレス倶楽部の活動は7年目にはいりました。この間皆さまの熱いご支援にたいして厚く御礼をもうしあげます。
おかげさまで、発足当時には想像もできなかったほど、たくさんの活版愛好家や、活版印刷実践者が次々と誕生し、発表の場もしだいに増加をみるようになりました。


朗文堂 アダナ・プレス倶楽部では、2008年から例年、
「五月の連休は活版三昧 !!」
を合言葉に「活版凸凹フェスタ」を開催してまいりました。
このイベントもおかげさまで、昨年の「活版凸凹フェスタ 2012」で5年目の節目の年を迎えることができました。
────
ところで、昨今の新しい活版印刷実践者の増加と、その活発な活動の状況を拝見し、わが国に活版印刷再興の息吹が着実に根づいたことを嬉しく感じますとともに、
「何はともあれ、まずは活版印刷の裾野を広げること」
という、「活版凸凹フェスタ」の初期の目的と役割は、ひとまず達成されたものと判断いたしました。

そこで、アダナ・プレス倶楽部では、活版印刷の普及と定着にむけて、次なるステップへと移行するために「活版凸凹フェスタ」をひとまず区切りをつけさせていただくことになりました。
今まで「活版凸凹フェスタ」を支えてくださいました、ご出展の皆さま、ご来場の皆さま、ご協力の皆さま、まことにありがとうございました。
────
アダナ・プレス倶楽部はちいさな組織ですが、それでも北は北海道から、南は沖縄まで、多くの会員がひろく展開して、活動されています。
これからしばらくは、そんな全国の会員の皆さまと手を携えて、今後とも活版印刷の今日的な意義と、その魅力の奥深さをより一層追求し、活字組版を中心とした実践と発表の場のさらなる充実をめざしてまいります。
そのために、多くの会員の皆さまが集中して活動されている首都圏での展示は、しばらく皆さまにお任せし、あらなた展示活動の場での展開を中心にはかることにいたしました。

もちろん「活版カレッジ」の開講と、恒例の「活版ルネサンス」開催はもとより、各種団体・企業・教育機関などの、ご企画・ご依頼にもとづく「活版ゼミナール」などは、こんごとも首都圏でも積極的に継続してまいります。

毎年恒例の「活版凸凹フェスタ」を楽しみにされていた多くの活版印刷実践者と、その支持者の皆さまには「活版凸凹フェスタ」の一時中止は、まことに申しわけなく存じますが、今後は、あらためてじっくりと構想を練り、技芸を磨く準備期間や、制作期間を経て、「ものづくり」と真剣に向き合うための姿勢や環境を重視した、あたらしい活動につなげてまいりたいと考えております。

今後ともアダナ・プレス倶楽部は進化の歩みをつづけてまいります。
活版印刷普及のさらなる発展のため、あらたなステージへ踏み出すアダナ・プレス倶楽部にたいし、今後ともご理解・ご協力を賜りたく、よろしくお願い申しあげます。
────
《想いでがいっぱい、活版凸凹フェスタ》
「五月の連休は活版三昧!!」
「ファインプレスの祭典」
「型、形 ── カタカタ祭り」
「凸版・凹版・平版・孔版 ── 印刷の四大版式の集合」
このようなさまざまなスローガンを掲げ、5年間、都合4回開催された「活版凸凹フェスタ」です。

なにぶん非力な主催者、アダナ・プレス倶楽部のことでしたから、いたらぬ点は多多ございました。それでも活版カレッジの修了生を中心に、アダナ・プレス倶楽部会員の皆さま、出品者、出展企業の皆さまのさまざまなご協力と、ご来場者さまのご支持をいただきながらの開催でした。
例年の「活版凸凹フェスタ」のご来場者は毎回数千名を数え、さまざまなご予定が多い連休中のさなかにもかかわらず、北海道から、九州から、四国からと、ご遠方からも足をお運びいただくかたが多い「活版凸凹フェスタ」でした。

それらの記録は、この「アダナ・プレス倶楽部ニュース 過去ログ」に細大漏らさず収納されています。
「活版凸凹フェスタ」の一時中止を決定したいま、あらためてその記録をみますと万感のおもいがございます。

「活版凸凹フェスタ 2011」は、会場予約と会場費の支払いを終え、出品・出展者の申込み受付も完了した直後の、2011年03月11日に襲った「東日本大震災」のために、さまざまな逡巡と葛藤のすえ、急遽中止を決定したものでした。
2013年(平成25年)01月30日時点で、震災による死者・行方不明者はおよそ19,000人、建築物の全壊・半壊は、合わせて39万戸以上、ピーク時の避難者は40万人以上にのぼったとされています。
またこの震災の傷跡はいまだに癒えたとはいえず、復興庁によりますと2013年01月17日時点の避難者などの数は、いまなお31万6,353人となっています。
さらに地震と津波にともなう福島第一原子力発電所の大災害は、残念ながらいまだに終熄をみたとはいえません……

《そして、再開した 活版凸凹フェスタ 2012と、そ の写真記録》