平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録
B 5 判、408 ページ 図版多数
ソフトカバー
定価:本体 3,500 円+税
ISBN978-4-947613-95-0 C1020
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発行日 2019年5月30日 初刷
編 集 「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
発 行 平野富二の会
発 売 株式会社朗文堂
www.robundo.com
typecosmique@robundo.com
<おもな内容 ── 目次より>
記念式典
平野富二 略伝/平野富二 略伝 英文
平野富二 年譜
明治産業近代化のパイオニア
「平野富二生誕の地」碑建立趣意書
平野富二生誕の地 確定根拠
長崎 ミニ・活版さるく
平野富二ゆかりの地 長崎と東京
長崎編
出島、旧長崎県庁周辺、西浜町、興善町、桜町周辺、新地、銅座町、思案橋、油屋町周辺、寺町(男風頭山)近辺、諏訪神社・長崎公園、長崎歴史文化博物館周辺、長崎造船所近辺
東京編
平野富二の足跡
各種教育機関
官営の活字版印刷技術の伝承と近代化
洋学系/医学系(講義録の印刷)/工部省・
太政官・大蔵省系(布告類・紙幣の印刷)
平野富二による活字・活版機器製造と印刷事業
その他、民間の活版関連事業
勃興期のメディア
「谷中霊園」近辺、平野富二の墓所および関連の地
「平野富二生誕の地」建碑関連事項詳細
「平野富二生誕の地」碑建立
募金者ならびに支援者・協力者 ご芳名
あとがき
跋にかえて ── ちいさな活字、おおきな船
『平野号』出発進行、ようそろ!
平野富二は長崎にうまれたひとと伝わってきた。長崎では東京に進出したひとと伝わった。
ようやく生家が長崎の町司長屋(現 長崎県長崎市桜町九番六号)にうまれたことが古文書の渉猟から判明した。この家は長崎の地役人たる町司で、身分は平民ながら、世襲の家禄をうけ、苗字帯刀をゆるされた矢次家の次男であった。
さっそく「平野富二生誕の地」碑建立有志の会が結成され、多くの有志の献身的な協力を得て、二〇一八年一一月生誕地の一画に碑の建立がなった。
幼名矢次富次郎は明治五(一八七二)年に妻帯し、戸籍編成に際して平野富二と改名して長崎外浦町に一家を構えた。中島川右岸、飽の浦の長崎製鉄所、立神ドック、対岸の小菅修船場などにわずかな足跡をのこして、東京に新天地をもとめ、数えて二六のとき、総勢一〇名で長崎をあとにして東京(現 千代田区神田和泉町一)に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげた。
のちに同社は「東京築地活版製造所」と改組改称、「東洋一の活字鋳造所」として自他ともにゆるす存在となった。
素志である機械製造と造船事業も明治九(一八七六)年から本格的に開始した。平野富二は数百トンもある巨大な船舶をつくり、橋梁をつくり、蒸気機関をもちいて海上輸送と陸上輸送の進展に貢献した。
そもそも明治の国家も企業社会も、まだうそのようにちいさな時代で、なにもかもが草むらからわきあがる時代でもあった。したがってたれもが無我夢中おもう存分にはたらき、家を建て、名を挙げることができたというのが、明治初期の愉快さであり、あかるさでもあった。
平野富二はこうした時代をおもうまま奔放にいき、おおきな成果をあげつつ、こころざしなかばにして明治二六(一八九一)年に病にたおれた。
それでも在京わずかに二〇年ほどであったが、金属活字製造、印刷機器・資材製造、活字版印刷、重機械製造、造船、橋梁架設、航海、海運、運輸、交通、土木、鉱山開発 …… と、枚挙にいとまのない事業展開をはかって近代日本の創建に貢献した。
今般「平野富二生誕の地」碑の建立を期して直近二〇年ほどの東京と長崎の交流を本書『平野号』に記録した。あわせて、長崎にもうけられた海軍伝習所、医学伝習所、活字判摺立所、活版伝習所、英語学校などの施設の設備と伝習の成果が、江戸・東京の、どこに・いつ・どのように・たれが伝え移動させたのか、そしてこんにちの状況も記録して、今後の研究の手がかりとした。
「平野富二生誕の地」碑建立有志の会にはさまざまな分野と年齢の会員が、重層的に折りかさなるように存在していた。こうした会員はいたずらな個人崇拝や、明治の偉人として平野富二をとらえることなく、等身大の平野富二像を描きだすことに尽力した。
すなわち明治産業近代化のパイオニアとしての平野富二の精神と功績は、明治の偉人という範疇にとどまらず、印刷術という平面設計から、重機械製造という立体造形物にいたるまで、現在のわれわれの日常にも脈々と受け継がれている。