森川龍文堂
邦文活字書体及規格一覧表
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株式会社岩田母型製造所
岩田活字母型書体表
―― 森川龍文堂分の残りが10部になりました――
この活字ポスターは、朗文堂が影印複写による精密原寸復刻をして、相当長期間にわたって販売にあたってまいりました。ところが近年技術系教育機関を中心にご注文が多くなり、『森川龍文堂邦文活字書体及規格一覧表』の残存部数が僅少となりました。ご希望の皆さまは下記をご参照にご注文ください。
(特別協力:森川龍一氏・井内清氏)
森川龍文 邦文活字書体及規格一覧表
株式会社岩田母型製造所 岩田活字母型書体表
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販売価格◇2枚セット:2,625円(消費税込)
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販売価格◇2枚セット:2,625円(消費税込)+送料及び梱包料
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北海道・九州 1,160円
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北東北・関西 840円
中国 940円
四国 1,050円
沖縄 1,260円
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森川龍文堂活版製造所(MORIKAWA RYOBUNDO TYPE FOUNDRY)は、初代・森川竹次郎によって明治35年(1902.1)に創業されました。第二代・森川健市(1897―1987)の時代には、大阪活版製造所なきあとの京阪神地区における活字鋳造と販売で、青山進行堂活版製造所と双璧をなす有力活字鋳造所企業でした。とりわけ森川健市によって昭和初期に開発された「新體明朝四号」活字書体は、現行の「朝日新聞」基本書体と、電子活字の「リュウミン」の源流をなす、汎用性のたかい活字書体としてしられます。
欧州での活字の歴史でも、活字鋳造と印刷作業が分離して、つまり活字鋳造所が独自に活字見本帳をつくって活字を販売した歴史はそうふるいものではありません。それが本格化したのは、モノタイプやライノタイプなどの活字自動鋳植機の登場と、活字父型(母型)彫刻機が登場した1885年から20世紀の初頭にかけてのことでした。つまり手彫り・手組み時代の活字の歴史をいちど総括して、機械化時代の到来にそなえてのものでした。
欧州ではいま、こうしたふるい金属活字の見本帳が発掘されて、どんどん復刻・販売・研究がなされています。それはちょうど百年ほど前と同様に、金属活字、写植活字、電子活字への変化にあたって、過去の歴史を検証し、あたらしい技術への取組みにハズミをつけようとしているものとみられます。
ひるがえってこの国の金属活字をみますと、明治の揺藍期 ヨウランキ から大正時代を経て、昭和初期になりますと、ひとつの円熟期を迎えます。とりわけ関東大震災によって東京築地活版製造所が活力をうしなうと、むしろほかの活字製造所が隆盛して、盛んに活字見本帳などを発行するようになります。森川龍文堂とその代表者の森川健市もそうした事例のひとつとして挙げられます。
日本での活字機械式彫刻(いわゆるベントン活字母型彫刻機)の普及は、本格的には1950年(昭和25)ころから開始されますので、ここにみる活字原型(活字父型・種字)の大半は手彫り(直彫り)によるものです。したがって128種、63万5千字もの活字母型を、森川龍文堂が単独で彫りあげるということはとうてい困難なことでした。ですからすくなくとも「方体宋朝」「長体宋朝」は、名古屋・津田三省堂と共同製作したものを掲載しています。このように、この時代には活字母型を相互に融通しあう、現代のOEMにちかい商慣習も活字界にはありましたので、すべてを森川龍文堂・大阪岩田活字のオリジナルとするのは早計です。いずれにしてもこの二枚の活字見本シートにも研究課題はたくさんひそんでいます。
つまりこの国の活字研究は、まだその端緒についたばかりですし、暗闇のなかを手探りで歩くようなものかもしれません。そうしたとき、正しい道しるべになるのが、残された活字であり、書物であり、なによりも活字見本帳ということになります。この活字見本帳原寸精密復刻のこころみが有志のみなさまの資料としてご活用願えれば、よろこびこれにまさるものはありません。
◎森川龍文堂「邦文活字の書体及規格一覧表」
A2判 金属活字の清刷りを版下として、オフセット平版印刷によって墨1色片面印刷したもの。
推定1936-40年ころ。
この活字見本のシートは、残念ですが発行年月が明示されていません。しかし「龍宋体 リョウソウタイ」が完成して「新発売」とされていますし、森川龍文堂は「変体活字廃棄連動」の影響がおおきな会社でしたので、1936-40年ころの印刷物と推定されます。仔細にみますと、これは活字組版から活字版印刷機(凸版印刷機)によって清刷りをとり、一枚の台紙に貼って版下とし、オフセット平版印刷されたものでした。
さらに四折りにたたまれて保存されていたために、陽ヤケは少ないものの、折線部が破れかかっていて活字資料としては限界に近い状況にありました。したがって極力オリジナルに忠実に、折目の部分のみを若干補修して影印原寸複写し、さらなる半世紀への資料として伝わることを願って製作しました。
◎株式会社岩田母型製造所「岩田活字母型書体表」
788×537ミリ 金属活字の清刷りを版下としてオフセット平版印刷にて2色片面印刷
推定1953-67年 1955年か?
昭和14年以後の大阪では「変体活字廃棄運動」が、官僚の主導によって職烈に展開して、森川能文堂の活字母型のおおくは「聖戦支援」の美名のもとに廃棄・没収をせまられ、あわせて1945年6月の大阪大空襲によって森川龍文堂の本社工場が全面的に罹災しました。
戦後の再建にあたって、すでに50歳をむかえ、前記の諸事情によって貴重な活字母型をうしなっていた森川健市は、活字父型(母型)彫刻機の採用によって昇竜のいきおいをみせていた東京・岩田母型製造所との提携をはかり、1953年7月、岩田母型製造所大阪支店として再出発し、1967年2月大阪岩田母型に改組、そして東京・岩田母型製造所本体が倒産してから、1980年12月大阪イワタと改組・改称をかさねました。したがって「岩田活字母型書体表」は1953-67年の間、おそらく再建直後の1955年ころ、東京本社と協力しながら森川健市が大阪の印刷所を起用して製作したものとされています。
もともと森川健市は活字見本帳の製作にきわめて意欲的で、戦前は同社内に3名ほどのベテラン職人が配された「活字見本帳班」がおかれ、もっぱら各種の見本帳の製作にあたっていたとされています(井内清氏談)。また岩田百蔵による、東京/岩田母型製造所は1968年に倒産しました。その後各地の支店や残存企業がよく経営を持続しましたが、2007年(平成19)3月、イワタ活字販売株式会社(代表取締役・鈴木廣子氏)の廃業にともなって、金属活字母型製造と活字鋳造の拠点を失いました。