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四川宋朝体 龍爪 Combination 3
もとい龍爪リュウソウ さきがけ龍爪リュウソウ かもめ龍爪リュウソウ
《顔 真卿 生誕1300年祭と、顔真卿書法が刊本字様に与えた影響》
顔真卿(ガン-シンケイ 709-85)の生誕から1300年を迎え、いまなお中国各地では顔真卿がおおきな話題となり、顔真卿関連の書芸展が盛んに開催され、関連図書の刊行もさかんです。
顔真卿生誕1300年(2009年イベント開始)を期し、早朝から賑わう西安碑林博物館
顔真卿関連の石碑が集中する西安碑林博物館の第3-4室は、日中は中国人の団体客が押しよせていて、あまりの混雑で、ほとんど碑面の閲覧もできないほどの状態だった。たまたまホテルが至近距離にあったのを幸い、翌早朝に再度参観に訪れた。このときもまだ、ご覧のように顔真卿生誕1300年記念の赤い垂れ幕が掲出されていた。2011年09月
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robundo type cosmique には、この顔真卿書風に淵源をみる、四川刊本書体 『四川宋朝体 龍爪 Combination 3』 があります。
わが国では、顔真卿生誕1300年のことは、書法界の一部で話題になったものの、ひろくはあまり関心がもたれなかったようです。
そこであらためて、皆さまに唐王朝中期の、忠義の志をもった政府高官にして、文武のひとでもあった顔真卿をご紹介し、あわせてデジタル・タイプ 『四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3』 をご紹介するとともに、この書体をもちいた名刺製作の実例をご紹介します。
中国の南西部・四川省は、ふるくは蜀ショクとよばれていました。蜀は唐王朝末期の板目木版による複製法、刊本印刷術の発祥地のひとつで、その刊本字様(書体)は顔真卿書法の系譜をひくものとされています。また四川刊本は「蜀大字本」とも呼ばれ、
「字大如銭、墨黒似漆 ── 文字は古銭のように大きく、文字の墨の色は黒漆のように濃い」
と高い評価がなされています。
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強勢王朝として威をほこった唐王朝(20代、618-907)ののち、五代十国の混乱をへて建朝された宋(北宋、960-1127)の時代にも、唐王朝官刊本の伝統的な体裁を四川刊本は継承していました。
また女真族の金国との争乱に敗れ、都を開封から臨安(現・杭州)に移して建朝された南宋(1129-1279)での刊刻事業の継続と、覆刻(かぶせぼり)のための原本の供給に、四川刊本は大きな貢献をはたしました。
ところが、こうした四川刊本も、相次いだ戦乱と、文書弾圧のなかに没して『周礼 シュライ』『新刊唐昌黎先生論語筆十巻』『蘇文忠公奏議』など、きわめて少数の書物しかのこっていません。そのような四川刊本の代表作が、わが国に現存する『周礼』(静嘉堂文庫所蔵)です。
『周礼 シュライ』(巻第9より巻首部、静嘉堂文庫所蔵、重要文化財)
『周礼 シュライ』は『儀礼 ギライ』『礼記 ライキ』とともに中国の「三礼 サンライ」のひとつで、周代(中国古代王朝のひとつ。姓は姫。37代。前1100ころ-前256)の官制をしるした書。
『周礼』は周公旦(シュウコウ-タン、兄の武王をたすけて商[殷]の紂王チュウオウを滅ぼした。周の武王の没後、甥の成王、その子康王を補佐して文武の業績を修めた。周代の礼樂制度の多くはその手になるとされる)の作と伝えるが『周礼』の著者とその成立年度には議論もある。
『周礼』は秦の焚書で滅したとされたが、漢の武帝のとき李氏が「周官」を得て、河間の献王に献上し、さらに朝廷に奉じられたものが伝承される。
本来『周礼』は「天官・地官・春官・夏官・秋官・冬官」の6編からなるが、「冬官1編」を欠いていたので「考工記」をもって「冬官」にかえている。
静嘉堂文庫所蔵書は巻第9、巻第10だけの残巻ではあるが、南宋・孝宗(127-200)のころの「蜀大字本」とされ、同種の本はほかには知られていない。
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《顔氏書風にみる、龍爪と蚕頭燕尾》
『四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3』は、林昆範・今田欣一・片塩二朗の3名で構成された、ちいさな研究会「グループ 昴 スバル」の研鑽のなかで、主要なテーマとなったもので、『周礼』を、なんども調査し、臨書し、試作をかさねるなかから誕生したデジタル・タイプです。
『周礼シュライ』の力強い字様には、横画の収筆や曲折に「龍爪 リュウソウ」とされる、鋭角な龍の爪ツメにも似た特徴が強調されています。これは起筆にもあてはまり、またどっしりとした収筆も印象的です。
縦画の起筆にみられる蚕頭サントウの筆法は『周礼』においてはさらに強靱になり、龍爪に相対しています。
このような顔真卿に特徴的な書法は「蚕頭燕尾サントウ-エンビ── 起筆が丸く蚕の頭のようで、右払いの収筆が燕の尾のように二つに分かれているところからそう呼ばれている」とされ、また「顔法」とも呼ばれて、唐代初期の様式化された楷書に、あたらしい地平を開いたとされています。
この顔真卿の書風が四川刊本字様の手本となり、おおらかで力強く、独自性のある刊本字様へと変化したといえます。これはまた、工芸の文字としての整理がすすんだことをあらわしますが、唐代中期の顔真卿の筆法の特徴を十二分に引き継いでいるともいえます。
『四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3』は、このような顔真卿書風と、四川刊本字様を継承した、あたらしいデジタル・タイプとして誕生しました。
このように顔氏一族に伝承されてきた「顔氏字様」と、顔家伝来のその書風をさらにたかめた顔真卿の書風を、『中国の古典書物』(林昆範、朗文堂、2002年03月25日 p.97)では、以下のように紹介しています。
唐の時代には写本とともに、書法芸術が盛んになって、楷書の形態も定着した。その主要な原因のひとつとしては、太宗皇帝[唐朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649]自身が能書家であり、儒教の国定教科書として『五経正義 ゴキョウ-セイギ』を編集させたことにある。そこで使用する書体を、編集協力者の顔師古ガン-シコによる正体(正書・楷書)、すなわち「顔氏字様」をもちいたことが挙げられる。
「顔氏字様」はのちに顔師古の子孫、顔 元孫ガン-ゲンソンが整理して『干禄字書 カンロク-ジショ』にもちいられた。この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。
このように顔家一族から顔 真卿に伝承された「顔氏字様」は、まるで唐王朝における国定書体といってもよい存在で、初期の刊本書体として活躍していた。
『多宝塔碑』(原碑は西安 碑林博物館蔵)
拓本は東京国立博物館所蔵のもので、北宋時代の精度のたかい拓本とされている。現在は繰りかえされた採拓による劣化と、風化がすすみ、ここまでの鮮明さで碑面をみることはできない。
顔真卿の楷書のほとんどは石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、「一碑一面貌」とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔真卿の楷書による石碑の特徴でもある。
『多宝塔碑』は、長安の千福寺に僧・楚金ソキン(698―759)が舎利塔を建てた経緯を勅命によってしるしたもので、もともと千福寺に建てられ、明代に西安の府学に移され、現在は西安 碑林博物館で展示されている。顔真卿44歳の書作で、後世の楷書碑の書風より穏やかな表情をみせている。
行草書で書かれた草稿ともいえる、稿本『祭姪文稿 サイテツ-ブンコウ』などの書巻は、自筆本が台湾・故宮博物院に伝承するが、顔真卿の自筆楷書作品とされるのは、わが国の書道博物館が所蔵する、晩年(780年、建中元年)の書作『自書告身帖 ジショ-コクシン-ジョウ』だけである。
《四川宋朝体 龍爪 をもちいて名刺を製作する》
デジタル・タイプ 『四川宋朝体 龍爪 Combination 3』 には、和字(ひら仮名・カタ仮名)として「もとい、さきがけ、かもめ」の3種の和字がセットされています。
原字製作者は欣喜堂・今田欣一氏によるもので、今田氏自身がWebsite内の 「龍爪」において、詳細に設計意図、背景などをしるしていますので、あわせてご覧ください。
この『四川宋朝体 龍爪 Combination 3』は、おおきく使うと、まさに「龍爪」と名づけられたように、天空たかくかけめぐる飛龍のように、勇壮な、勢いのある書体として立ちあらわれてきます。
また、板目木版による刊本字様(書体)として、ながらく書物にもちいられてきた字様ですので、12pt.-18pt.といったすこし大きめな本文用書体としても、十分な汎用性をもった書体です。
このくらいのサイズですと、もはや「飛龍」というより、かわいらしい「辰の落とし子」のような、素直な刊本字様としての姿が立ちあらわれてくるのも面白い書体です。それだけにつかいやすく、個人的な意見で恐縮ですが、とても好きな書体でもあります。
そんなためもあって、 『四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3』 の発売以来、この書体をもちいて名刺を印刷しています。本心ではせめて「株式会社朗文堂、片塩二朗」だけでも、原字製作者の了承をいただいて、金属活字をつくってみたいところですが、なかなか意のままにはなりません。
そこで下記のようなデジタルデータを作成して、軽便なインク・ジェット・プリンターで「出力」していましたが、どうしても滲みがひどく、また紙詰まりがしばしば発生するので、困惑していました。
朗文堂には活版印刷事業部「アダナ・プレス倶楽部」があり、「Adana-21J」という活版印刷機の設計・製造・販売もおこなっていますので、それを活用しないことはありえません。
たまたまコピー機が複合機にかわり、あわせてファクシミリ番号がかわったので、下記のデジタルデータをもとに樹脂凸版を作成して、「Adana-21J」による「カッパン印刷 ≒ レター・プレス」を実施しました。
印刷にあたったのは、粘り強く金属活字鋳造法を学んでいる日吉洋人さん。残念ですが小生が印刷すると、太明朝をもちいたために、字画が混みあっている「新宿私塾」の「塾」の字と、@メールアドレスの「@」がインキ詰まりを起こして調整に難航します。
樹脂凸版による「カッパン印刷」とはいえ、なかなかデリケートなところもあります。ところが、さすがに日吉洋人さんはそんな障壁は軽軽とこなして、アッというまに500枚の名刺を刷りあげていただきました。
「たかが名刺、されど名刺です」。とりあえずは軽便なコンピューター・プリンターで我慢できても、次第になにか物足りなくなります。今回は樹脂凸版による「カッパン印刷」で製作しました。
しかしながら、やはり金属活字による「活字版印刷」には、いまだに小生が言語化できないままでいる「Something Good」があります。もちろん「Enything Bad」もありますが……。
ですから、いつの日か「株式会社朗文堂、片塩二朗」だけでも金属活字をつくってみたい、そして胸をはってお渡しできる名刺をつくりたいというのが、目下の小生の見果てぬ夢でしょうか。