糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で



《2012年11月23-25日、台北の茶館で林昆範老師と歓談》
関与先の台湾企業から、訪台の要請があり、22日の最終航空便の手配をされました。翌23日[金]は早朝からその用件に追われましたが、ここで報告するような内容ではありませんので割愛。

24日[土]は無事に解放されたので、久しぶりに 林昆範 さんとお会いすることに。
林昆範 リン-クンファン さんは、日大藝術学部大学院の修士課程・博士課程履修のあいだ、当時の指導教授・松永先生のご指示で、実に律儀に、誠実に、夏休みもなく朗文堂に毎週 1 回かよわれたかたです。

博士課程履修の後半は「グループ 昴」の一員としても活躍され、その成果を朗文堂 タイポグラフィ・ジャーナル ヴィネットに、『中国の古典書物』『元朝体と明朝体の形成』『楷書体の源流をさぐる』『石の書物-開成石経』などにまとめられました。
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林さんは博士号取得後に帰国され、現在は台湾中原大学助教授として、しばしば学生を引率して大陸中国で「中国少数民族の文化」の調査・研究にあたっており、今回は中国南西部での調査から、前日に帰国されたばかりでした。
それでも疲れもみせず、ホテルのロビーまでピック・アップにきていただきました。
★朗文堂ニュース:林昆範関連図書のおすすめ 2010年03月11日

久しぶりの再会のあとは、もうすっかり日程管理は林さんにお任せ。
「大藝埕 ダイゲイテイ にいきましょう。もともと日本統治時代に開発され、銀行や商事会社がたくさんあったまちですが、いまは東京の代官山のように再開発がすすんで、若者に人気のお店がたくさんあります」
「大藝埕は、日本のガイドブックには、美食街とされていますね」
「美食はカタシオさんは苦手でしょう。ご案内したいのは、隍廟(コウビョウ 道教)の隣の茶館です。ここは日本統治時代のビルを改装して、現代台湾のデザインショップや、ギャラリーもありますし、なによりも、ふるい臺灣と、あたらしい台湾がみられますから……」

しばらく大藝埕ダイゲイテイのまちをぶらついて、隍廟コウビョウの隣のふるいビル・民藝埕ミンゲイテイにはいりました。
このあたりは日本統治時代の築70年余のビルが多いのですが、さりとて日本風というわけではなく、コロニアル・スタイルというか、大正ロマンというか、アールデコというか、つまり無国籍なふしぎな感じをうけます。
漢方薬や骨董品などの、日本人観光客めあてのお店もありますが、いまはガイドブックの紹介も減って、日本人の姿はあまりみかけません。

ブック・カフェやデザイン小物の店がならぶ、まちあるきのあいだに、林さんの教え子たちとしばしば出会いました。なかにはかつて林さんに引率されて、朗文堂までこられた学生さんもいて、道教の廟「台北霞海城 隍廟」では道教式の礼拝の作法なども教わりました。

「林さん、埕テイ とはどういう意味ですか ?」
「商店街とか、マーケットということでしょうか」
帰国後に調べてみましました。「埕」とは本来口が細長い素焼きの酒瓶であり、ふるい製法の塩田の名称にももちいられます。この「細長い」の意から、細長くつづく商店街やマーケットのことになるようです。



民藝埕ミンゲイテイにはいくつもの商店やギャラリーが入っていましたが、どの施設も、あまりにむき出しで、素朴な、バウハウス・スタイル、1925年代国際様式、あるいは「白の時代」で溢れていて、こちらが照れてしまうほどでした。
それでも茶館「陶一進民藝埕トウイッシン-ミンゲイテイ」に入って、しばらくして「なるほどなぁ」と納得させられました。

ちなみに、茶館「陶一進民藝埕」で、80種類ほどもある「お茶」のなかからオーダーしたのは、写真手前が林さんのもので、インド北東部ヒマラヤ山脈南麓産の「ダージリン紅茶」でした。写真奥がやつがれのもので、中国江蘇省蘇州産の緑茶「璧羅春 ヘキラシュン 茶」です。なかなか国際色ゆたかです。
茶館「陶一進民藝埕」のパンフレットを簡略に紹介すると以下のようになります。

当店は台湾民藝100年の伝統と、現代日本のデザインを弁証法的に融合させた茶館です。
日本の民藝と美学の大家である柳宗悦氏、工藝デザインの大家の柳宗理氏の父子両代の理論と作品の数数と、喫茶を通じて対話していただきます。

つまり「民藝埕」に関与したとされる柳 宗悦( やなぎ むねよし、1889年3月21日-1961年5月3日)は、旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。
のちに香港うまれの英国人で、画家・デザイナー・陶芸家として知られるバーナード・リーチの知遇をえて、英国19世紀世紀末の「アーツ&クラフツ運動」に触発されて、手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合い「民藝運動」を起こし、生活に即した民藝品に注目して「用の美」を唱えました。また1936年(昭和11)東京都目黒区に「日本民藝館」を設立して、1957年(昭和32)文化功労者となりました。

またその子息、柳 宗理 (やなぎ そうり、本名:宗理 むねみち、1915年6月29日-2011年12月25日)は、惜しいことに昨年暮れに亡くなりましたが、日本の著名なプロダクトデザイナーでした。
柳宗理は1934年東京美術学校洋画科入学。バウハウスまなんだ水谷武彦の講義によってル・コルビジェの存在を知り、工業デザインに関心を持つようになり、プロダクトデザイナーとして活躍したひとでした。

柳宗理の師となった 水谷武彦 (みつたに たけひこ、1898年-1969年)は、日本の美術教育、建築の教育者です。また日本人として最初にバウハウス(Bauhaus)へ留学した人物としても知られます。帰国後には様様な活動をつうじて、日本にバウハウスを紹介し、その教育を実践した人物です。

これらの「アーツ&クラフツ運動」や「バウハウス国際様式」にまなんだ人物が、どのようなかたちで、どこまで「大藝埕」の景観づくりと、「民藝埕」ビルと、茶館「陶一進民藝埕」などの再開発に関わったかは不詳です。
それでも「国際様式」とはたれが名づけたものか知りませんが、全体に激しい色彩とインパクトの強い形象が目立つ台湾のまちのなかで、この大藝埕あたりのランドスケープは、かなり異なった風合いがありました。

茶館「陶一進民藝埕」の食器(テーブルウェア)は、すべて柳宗理のデザインによるもので、純白の器のなかに、お茶の淡い色彩が浮かびあがります。
おおきな急須に、ときおり従業員のお嬢さんがお湯を注いでくれますので、ほどよく蒸れたころ、それをガラスの器にうつして、ちいさな茶碗で喫茶します。
「陶一進民藝埕」には3時間余も、写真のお茶だけで長居しましたが、べつに嫌がられもせず、つぎつぎとお湯を注いでくれました。料金はそこそこの値段で、お菓子もついて日本円で500円ほどだったでしょうか。
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林さんとのはなしに夢中になっているうちに、いつの間にか、かつての新宿邑の雑然とした朗文堂社内にいるころとおなじように、たがいにあつくなって、タイポグラフィ論議を展開していました。
テーマのほとんどは文+字=文字でした。蒼頡 ソウケツ 神話をかたり、そして許愼キョシン『説文解字』をかたりあいました。
「糸 繪  文 糸 紋 宀 子 字」そして「文+字、文字」でした。

先述したように林昆範さんは、中国大陸における観光産業との共同作業で「中国少数民族の文化」を考察・研究されていましたが、その途中経過をパソコン画面で提示しながら中間報告をしていただきました。
中国にはいまでも 54 ほどの少数民族があって、それぞれに守護神をもち、それを象徴化した図画・紋様をもつということでした。そして民族が守護神を失ったとき、その紋様とともに滅亡にいたるという報告は新鮮でした。
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帰国からしばらくして、写真が添付された@メールに、以下のようなうれしい報告がありました。

久しぶりにゆっくりおはなしができて、刺激的でしたし、発奮しました。
近年、大陸における観光産業との共同研究で、中国少数民族の文化を考察しています。それらの考察はデザインに使われる素材〔紋様〕として扱い、その素材収集が中心でしたが、これでは研究とはいえなくて悩み、まして論文発表までは考えてもいませんでした。
ところが、片塩さんのご指摘により、伝統紋様は原始の〔ことば〕であることを理解しました。即ち、「文」の造形性が強調されて「紋様」になりました。そして「文」の記号性が強調されて「字」になりました。この両者が結合したものが「文字」ということでいいですね……。
来年の夏までに、先日のご指摘と、これまでの収集の成果を見なおして、なんらかの発表ができるようにまとめることに全力をあげます。
日本と台湾でお互いにがんばりましょう。 林  昆範
(写真はすべて林昆範氏撮影)