書道博物館 企画展 中村不折コレクション
唐時代の書、徹底解剖 !!
【開催場所】 台東区立 書道博物館
110-0003 東京都台東区根岸2-10-4
Telephone 03-3872-2645
URL : http://www.taitocity.net/taito/shodou/
【開催日時】 2013年03月12日-06月16日
9:30-16:30(入館は16:00まで)
【休 館 日】 毎週月曜日
(展示替えのため04月30日、05月07日は休館)
連休中の04月29日、05月06日は開館
会期中の展示作品の入れ替えにご注意ください。
【観 覧 料】 一般:500円、小中高生:250円
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[この部分は、書道博物館フライヤーの一部に加筆してご紹介します]
唐の時代(618-907)とは、中国の歴史上、王羲之オウギシらが活躍した東晋トウシン時代(265-420)とともに、「書」がもっともたかい水準に達した時代です。
唐時代の書の特質は、従来からつちかわれてきた書法を、たれにでもわかりやすく法則化した点にあります。とりわけ唐時代の楷書は、理知的な審美眼によって、非のうちどころのない字姿として完成されました。
初唐の三大家、欧陽 詢(オウヨウジュン、557-641)、虞 世南(グセイナン、558-638)、褚 遂良(チョスイリョウ、596-658)によって確立された美しい楷書は、いまも多くのひとたちによって学ばれつづけています。
その潮流は顔真卿(ガンシンケイ、709-85)に受けつがれ、「顔法 ガンポウ」とよばれる表情豊かな楷書がつくりだされました。
唐の歴代皇帝は、事実上の建朝者・李世明(高祖・李 淵の次子、唐朝第2代皇帝・太宗、在位626-49、598-649)に倣って、王羲之の書をおもくみましたから、次第に中国全土にわたって、王羲之の書風にもとづいた、格調の高い書風がひろく浸透しました。
すなわち皇帝・李世明をはじめとして、孫 過庭(ソン カテイ、648-703 ?)や、李邕(リ ヨウ、678-747)らは、王羲之の書法にもとづき、洗練された書法をよくしました。
また、伝統的な書法から逸脱した美しさを創出した懐素(カイソ、僧侶、725-85 ?)らも、異彩をはなつ名品をのこしています。
今回の「唐時代の書、徹底解剖 !!」では、唐の四大書家とされる、欧陽 詢、虞 世南、褚 遂良、顔 真卿をはじめ、唐の太宗皇帝・李 世明、孫 過庭、柳 公権、懐素など、唐時代を代表する書の名品と、唐時代の貴重な肉筆資料である『則天武后時写経残巻』(初公開、期間限定:03月12日-04月14日)、『敦煌トンコウ写経』などの貴重な書墨や拓本が、中村不折フセツ コレクションから紹介されます。
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《則天武后と則天文字》
[以下は、片塩二朗 wrote]
河南省洛陽郊外、黄河の支流、伊水河畔には、敦煌トンコウ、雲崗ウンコウとならんで、中国三代石窟のひとつとされる龍門石窟リュウモンセックツ群があります。
その造営は、とおく南北朝時代の鮮卑族王朝の北魏(386-556)の時代にはじまり、初唐のころには、もっとも巨大な奉先寺の造営によってピークをむかえました。
とりわけ仏教にふかく傾倒していた則天武后、武 照(三代皇帝・李 治、高宗の皇后武照、周の聖神皇帝、在位690-705、623-705)は、宏大な石仏群の奉先寺の造営を、事実上20年ほどのあいだに進行しました。
その本尊の毘盧遮那仏 ビルシャナブツ は、洛陽の春をかざる大輪の牡丹の花にもにて、豊饒でふくよかな顔立ちをしています。ですから数十万躰ともされる、痩身で峻厳な顔立ち、いわゆる北魏様式とされる、ほかの龍門石窟の諸仏、とりわけふるくから開鑿がすすんだ左岸の諸仏とくらべると、あきらかに女性のこのみが表出した、おおらかで優美な仏像となっています。
則天武后こと、武 照の表情を模したとされるこのおおきな石像をみると、後世の歴史家が文字で描きだした人物像とくらべると、ふくよかで、豊満な、魅力に溢れるものですし、わが国東大寺の大仏像のモデルとなったという伝承もうべなるかなとおもわせます。
たしかに則天武后は奔放なひとであり、淫乱にして剣呑な面もうかがえます。また嫉妬深くて残忍な性格だったかもしれません。
後段で解説しますが、則天武后は、感情の起伏がはげしく、そのほとばしりを制御できないまま、側近の甘言におぼれて、恣意的な施策をかさねた側面はみられます。
ところが則天武后が設立した控鶴府コウカクフ(のちに改称して奉宸府ホウシンフ)は、いまの文化サロンさながら、あまたの文人、詩人、書画壇の偉才をまねいて、大小の宴会を連日開催し、「勅命」によって即興の詩や歌を吟じさせ、書画を描かせることも多かったとされます。
この時代の洛陽は、また「華のみやこ」とも称されていました。
則天武后の治世は、その薨去からまもなく、李白や杜甫が活躍する盛唐文化の開花につらなり、書壇では欧陽詢書風だけでなく、顔 真卿や柳公権らがあたらしい書風をもって活躍し、則天武后の孫にあたる李 隆基・玄宗帝の「改元の治」につらなって、盛唐文化としての結実をみました。
史家のまなざしは、この女性にいささか酷にすぎるようでもあります。
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ところで、則天武后は、漢の字がもともと内包する造形の神秘性に鋭敏であり、その背後にある種の霊性をみいだし、その呪術性や神秘性に憑かれていたのではないかとおもえることがあります。
もちろんその制定にあたっては、鳳閣侍郞ホウカクジロウの宗 秦客ソウシンカク の手によって載初元年(689)に献上され、ひろく天下に実施されたとされます。
そんな則天武后と則天文字へのおもいから、だいぶ以前かfら、則天武后がつくりだした「則天文字」をコツコツと追ってきました。当時は資料がすくなく、『則天武后』(外山軍治、中央公論新書)程度の資料を頼りに、中国での実地調査がおもでした。
今回の展覧会を期に、あらためてそんな資料を整理して、『花筏』に紹介しようと苦慮中です……。
ところがなにぶん整理が苦手なもので、資料の大半が四散しており、それをまとめることに時間がかかります。しばらくのお時間をいただきます。
中国河南省・洛陽郊外の龍門石窟の巨大石造寺院、奉先寺は唐の高宗(事実上は則天武后、武 照)の創建によるものです。本尊の毘盧遮那仏は則天武后の表情を模したものとされ、わが国の東大寺大仏にも影響をあたえたとされます。
上)奉先寺・毘盧遮那仏 下)奉先寺・左脇持仏
上)則天武后・昇仙太子碑拓本。
2-4行目の上から3文字目が、順番にいわゆる則天文字の「年、月、日」になっています。
『昇仙太子碑』ショウセンタイシ ヒの建碑は、聖暦2年(699年)。則天武后は「唐」にかえて、国号を「周」と号したことから、古代の周の太子の廟を修復し、これを記念してみずから撰文し、みずから書して建碑しました。碑石はとても大きく立派な碑で、河南省偃師エンシ市の仙君廟センクンビョウに現存しています。
中)「則天文字の誕生とその東漸」『印刷雑誌』(片塩二朗、1994年07月号)に紹介した写植活字での「則天文字」の試作。
筆者はつづいて、則天文字「圀」をもちいている「徳川光圀にみる西方へのまなざし」『印刷雑誌』(片塩二朗、1994年08月号)をしるしました。
徳川光圀の「圀」は、いわゆる則天文字であり、また光圀の知行地であった水戸、墓所のある常陸太田には、いまも則天文字の痕跡が、あちこちでみられることを報告したものです。
この当時は資料がすくなく、苦労があったと記憶しています。製作協力:吉田佳広氏。
こののちに研究書『則天文字の研究』(蔵中 進、翰林書房、1995)が発行されて、「則天文字」に関する本格研究が着手されました。
同書は研究内容の評価だけではなく、わが国のタイポグラフィ史からみても貴重な書といえます。すなわち同書は、金属活字原版刷りによって印刷されています。
特殊活字の「則天文字」は、同書のためだけに活字母型を特注製造し、自動活字鋳植機(KMT)で組版・印刷・刊行されたものであり、『則天武后』(外山軍治、中央公論新書)などの先行書とくらべても違いは歴然としています。同書は活字版書籍印刷後期の記念すべき書物です(印刷所:文京区後楽に旧在・共信社印刷所)。
下)「則天武后がのこした文字」『文字百景 089』(片塩二朗、2000年09月)
電子活字本明朝-Mと混用できるように製作した「則天文字」。製作:鈴木孝。
いまにしておもえば……、この写植活字と電子活字による2回の試作活字の挑戦は、いかに楷書体の末流に属するとはいえ、明朝体活字書風で試作したことには問題がありそうです。
また、現在では「則天文字」として争いのないものは、識者のあいだでは17キャラクターに落ちついているようです。ですからキャラクターの選択そのものも、再考が必要です。
「則天文字」は、いわゆる漢字六書の法からいうと、象形であり、会意といえますが、本来の六書の法からはかなり逸脱しており、むしろこれを「文」(徴号)とみて、則天武后みずからが『昇仙太子碑』にのこしたような、唐代の楷書書風で再現を試みるべきであったと反省しています。
現代はデジタルタイプ、明朝体によって「則天文字」は再現されていますが、ほとんどのキャラクターはユニコード対応で、ソーシャルメディアでは表示に困難をともないます。
またこんにちのソーシャルメディアのなかでは、G 検索によると90,500件(2013年03月調査)ほどのたくさんの記述をみることにおどろきます。いつの間に「則天文字」が、こんなに多くの皆さんの関心を呼んだのでしょう。
また ウィキペディア「則天文字」は、どなたが記述したものか、とても丁寧な解説になっていて、これもまたおどろきました。
「書道博物館」フライヤー裏面部分拡大。『則天武后時写経残巻』(初公開、期間限定:03月12日-04月14日)図版の最終行「日」に、則天文字の「日」がみられます。
《則天武后、武 照のひととなり》
則天武后こと武 照(武皇后・周の聖神皇帝、在位690-705、623-705)は、「貞元の治」で知られる、唐の二代皇帝・李世明(太宗、在位626-49、598-649)の後宮(わが国江戸期の大奥にちかい)に14歳にしてはいり、太宗の死後に出家して尼となりましたが、三代皇帝・李 治(高宗、在位649-83、628-83)の即位後に還俗して、あらためて高宗の後宮にはいったひとです。
高宗の後宮にはいると、王皇后を失脚させ、代わってみずからが皇后となり、朝政に加わって、李 世明以来の高官・褚遂良を左遷し、元老・長孫 無忌らの反対派を粛清し、武氏一族を登用して実権を握りました。
高宗の死後、武 照は、李 顕(中宗)、李 旦(睿宗)を相次いで皇帝に立てましたが、いずれも短期間で廃し、嗣聖七年(690)、高宗の死後6年余に、みずからが聖神皇帝となって、国号を唐から周(武周、690-705)とあらためて、中国史上唯一の女帝となりました。
治世の当初は、西南方で抵抗していた吐蕃(トバン、チベット系民族)や、西北の突厥トッケツなどの武装勢力を鎮圧するなどの面もみられましたが、まもなく、古代王朝の周(BC1100 ?-BC256)のあまりにふるい制度を復興させました。ほかにも密告を奨励して、酷吏・寵臣を専横させました。
このように、唐をむしばみ、漢族の儒教的倫理観に抵触した武 照に関しては、史家のおおくが批判的であり、周(武周)という国とその国号につめたく、武 照はあくまでも三代皇帝・李 治、高宗 の皇后として、則天武后と呼ぶことがならいとなっています。
それでも武 照の時代に登用された多くの人材が、孫にあたる李 隆基(唐六代皇帝・玄宗。在位712-56、685-762)の前半期、すなわち 楊貴妃 に惑溺する以前の「開元の治」で活躍したことは評価されています。
武 照は齢80歳をこえると、さすがに高齢化がめだって、長安四年(705)、宰相の張東之らが武 照に退位を迫り、李 顕(唐第四代皇帝・中宗、在位683-84、705-10。656-710)が帝位に重祚して、国号も周(武周)にかえて唐の名が復活しました。
また「則天文字」も重祚した実子の李 顕(中宗)の勅命をもって、廃止が宣せられました。
それでも「則天文字」は、民間ではながらくもちいられており、廃止からおよそ100年後(804年)に入唐した空海は、いくつもの「則天文字」を使用した書墨をのこしています。
そして、はるかな後世、江戸時代初期に、明末清初の大混乱が中国で発生し、それを逃れてわが国に亡命・帰化した中国・余姚ヨヨウのひと、朱 舜水(1600-82)が、徳川光圀の政治顧問となり、光国にかえて、則天文字「光圀」の使用を勧め、「憂いを先に、楽を後に」の故事から「後楽園」の名称などをもたらしたとされます。
ついでながら朱舜水の墓所は、水戸藩歴代徳川藩主がねむる、茨城県常陸太田市 瑞竜山 にありますが、東日本大震災の影響で墓標や設備の損壊がひどく、現在は公開されていません。
武 照は唐のみやこ長安よりも、副都洛陽の、ゆたかな水と緑にあふれた風土を愛していました。その洛陽の西、洛水の左岸に、唐の高宗の時、みずからが建てた宮殿「上陽宮」で長安四年(705)に薨去しました。その遺骸は夫の三代皇帝・李 治(高宗)の「皇后」として、李 治がねむる 乾陵 に合葬されました。
【特別情報】 朗文堂では4月初旬に、書道博物館でのギャラリー・トークの特別開催をお願いしています。ご希望のかたは事前に片塩宛にご連絡ください。