http://www.bs-j.co.jp/program/detail/22910_201312071600.html
黒船からロケットへ! ~世界初技術への挑戦~
BS JAPAN 12月7日[土] 午後4:00-4:55
黒船来航を機に「黒船と肩を並べる船を建造したい」奮起した日本人がいた。平野富二。
ペリー来航の1853年に石川島造船所を設立。現在の国内ロケット技術の基礎である。
上掲写真は、石川島平野造船所で最初期に建造された外輪式の蒸気船「通運丸」シリーズの簡易模型です(物流博物館でキットを販売。松尾篤史氏製作)。
2013年9月、日本は宇宙開発事業において大きな一歩を踏み出した。イプシロンロケットの打ち上げ成功である。
様々な新技術によって、これまでの半分ほどの費用で打ち上げが可能になり、今後新興国を中心に受注に向けた動きが活発化すると見られている。
歴史的とも言われるイプシロンロケットに生かされていたのが、実は造船で知られるIHI(旧石川島播磨造船所)の技術であった。
番組では、その秘密の数々を解き明かす。
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株式会社 IHI (旧石川島播磨造船所)の淵源は、BSジャパンの紹介のとおり、1853年(嘉永6)アメリカ使節ペリーの来航を契機に、徳川幕府が水戸藩に大型洋式帆船を建造させるために、隅田川河口にある石川島の地に造船所の開設を命じたものでした。ですから株式会社 IHI は、本年をもって記念すべき創業160年とされています。
この年には平野富二はまだ8歳の幼さで、長崎で学問をつづけていたときです。
幕末からつづいた石川島造船所は、幾多の変遷をへて、石川島修船所と石川島造兵所となり、1876年(明治9)8月31日主船寮が廃止され、内局に主船局が新設されたのにともない、旧石川島修船所の在品は、新設された海軍省主船局に所属する横須賀造船所に引き継がれ、石川島にのこされたのは、ドックとわずかな装置と建物だけになっっていました。
そんなうち捨てられようとしていた施設を、平野富二は1876年(明治9)6月14日「拝借の儀を出願」し、海軍省から9月19日に許されています[株式会社 IHI 沿革・あゆみ]。
このとき平野富二は弱冠31歳、活字と活版印刷関連機器の製造、東京築地活版製造所の運営がほぼ軌道に乗り、意欲満満、素志たる造船業に進出したことになります。[参照:『平野富二伝』古谷昌二、第六章-三 築地活版製造所の拡張と造船業への進出 p.200-]
BS JAPAN 【黒船からロケットへ! ~世界初技術への挑戦~】の番組は、12月1日に放映され、今回が再放送です。前回はイベントの最中で見逃しましたが、友人から再放送の情報をいただきました。
技術産業を背景としてのタイポグラフィを考えるのには、よい機会かとおもわれます。直前のご案内となって恐縮ですが、皆さまのご鑑賞をお勧めいたします。