開催が直近にせまった <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> 関連記事が、アダナ ・ プレス倶楽部ニュースに連続掲載されています。
ここにアダナ ・ プレス倶楽部ニュース 「 Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 04 薩摩藩と三代木村嘉平の活字」 をご紹介いたします。Report 01-04、Report 番外編は 下記のリンクをご参照ください。
【 名 称 】 Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO
【 会 期 】 2014年11月1日[土], 2日[日], 3日[月 ・祝] 3日間
【 時 間 】 開場 8 : 30 ― 閉場 17 : 30
【 会 場 】 仙巌園〔磯庭園〕 尚古集成館本館 展示室 鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1
【 主 催 】 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部
尚古集成館 http://www.shuseikan.jp/ 仙巌園 http://www.senganen.jp/
朗文堂 アダナ・プレス倶楽部 http://robundo.com/adana-press-club/
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【 緊 急 の お 知 ら せ 】
◆ 尚古集成館 館長 : 田村 省三氏による
特別講演 と ギャラリー ・ トークの 開催が決定しました !!
<尚古集成館所蔵/重要文化財 『木村嘉平活字』 と 薩摩藩集成事業について>
◯ 今回の <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> 開催にともなって、尚古集成館別館に、重要文化財「木村嘉平関係資料」が特別展示されます。
◯ 『木村嘉平活字』 研究の第一人者 : 田村省三館長に、講演とギャラリー ・ トークを担当いただきます。
◯ 11月02日[日] 14:00-17:00 仙巌園会議室
◯ またとない機会ですが、会場の都合で 限定20名様となります。
◯ 聴講料は不要ですが、仙巌園 ・ 尚古集成館の共通入場券 ¥1,000 が必要となります。
◯ 参加希望のかたは adana@robundo.com に、件名「木村嘉平活字講演会参加」で申し込みを。
◯ 申し込みは先着順で、定員になり次第締め切りとさせていただきます。
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第三代 木村 嘉平 ( 名は房義。1823/文政6年-1886/明治19年 行年64 )
[ 図版出典 : 田村省三 「木村嘉平と川本幸民」 『日本の近代活字』 p.232 – 237 朗文堂 ]
木村嘉平 (きむら かへい。三代。名は房義。1823年/文政06年-1886年/明治19年03月24日) とは、初代から五代にわたる江戸と東京の木版彫刻士の世襲名であり、しばしば木村の村を 「村の異体字 邨」 につくり、また略して 「邨 嘉平、邨 嘉」 などと唱えたり、彫刻していました。
現在鹿児島 尚古集成館が所蔵する、重要文化財 「木村嘉平関係資料」 を製作したのは、江戸神田小柳町 第三代 木村嘉平(木村房義)といい、18歳で父をうしなって三代嘉平を襲名しました。
三代嘉平は筆意彫りを得意とする名工とされ、藩政時代には 薩摩藩、加賀藩の御用をたまわって、数多くの木彫作品や木版製品をのこしています。
その三代嘉平の製作物のひとつに、鹿児島県立図書館所蔵の、薩摩府學蔵版の数冊の木版刊本があり、『中楷古文孝経』(1850年/嘉永03年)の跋文バツブン 最終ページの欄外には、上掲図のような「 邨 嘉 平 刻 」がみられます。
また、おなじく薩摩府學蔵版のうち、『施治攬要 セジランヨウ』(1857年/安政04年)は、あきらかに木活字による印行(刊行)であると田村氏はしるされています(p.235)。
すなわち三代嘉平は、活字駒彫りの技術にちかい、「木活字」の製造を、すでに1857年以前、すくなくとも安政年間から、『施治攬要』 刊行に際して実践していたことになる貴重な資料といえるでしょう。
三代木村嘉平が開発した活字は、徳川幕府膝元の江戸や、開港地長崎での活字開発者とは幾分文脈を異とする貴重なものです。
三代嘉平は江戸に居住していましたが、薩摩島津家28代、薩摩藩11代藩主 : 島津斉彬 (なりあきら 1809-58 ウィキペディア : 島津斉彬 ) の委嘱をうけ、もっぱら蘭書などの文献資料にまなびながら、まったく独自に活字製造に着手して、パンチド ・ マトリクス方式からスタートして、やがて電鋳法 (電胎法とも) にいたって一定の成果をみました。
三代嘉平が斉彬によって、わずかに一冊のオランダ語訳本 『Engelsche Spraakkunst』 (エンゲルセ ・ スプラーククンスト 英人 Murray, Lindrey 著)をあたえられ、鋳造活字製造の委嘱をうけたのは1854年 (安政元年)とされています。
この斉彬による委嘱の時期は、先に紹介した 『施治攬要 セジランヨウ』 (1857年/安政04年) の刊行より以前であったことも注目したいところです。
すなわち三代嘉平は、板目木版彫刻にかえて、木活字を平行ないしは先行させて彫刻していたことになります。この木活字製作での経験は、「電鋳法による活字原型」 としての 「活字駒」 の製造に際しておおいに有効だったことが想像できます。
そして三代嘉平は、
「当時はヨーロッパの物品のようなものは幕府の禁制品のひとつであったため、自宅の一室を密室に改造し、昼夜灯火を備えてひそかに作業をする場とした」(五代嘉平/三代嘉平の末子)
として、幕府には内密のまま作業をすすめ、ようやく鋳造活字の製作が完了したのは、1864年(元治元)、数えて実に11年後のことでした。
『遠西奇器術 第二輯』 電気模造機の項。『江戸の科学古典叢書』(国立国会図書館蔵)
上掲書 、 「木村嘉平と川本幸民」 のなかで、田村氏は、
「五代嘉平が記した 『木村嘉平献上安政年間製活字略傳書類 全』 に、嘉平が電胎法を学んだのは、江戸の薩摩藩邸で講義していたオランダ人からであると書かれている。しかしこの時代、オランダ人が大名の屋敷に滞在し、長期間の講義をおこなうようなことはまったく不可能だったはずだ」 (p.236)
と のべています。さらに、
「とすれば、嘉平は誰から電胎法を学んだのか。筆者 [田村] は現在、川本幸民 乃至は その周辺の人物ではなかったかと考えている。実は、川本幸民の 『遠西器術』 [国立国会図書館蔵] にその手がかりがあった」
とされています。
これらの和欧文活字をはじめ、活字の製作工程を知ることのできる諸道具類は、三代嘉平房義、四代嘉平 : 房義の長男、五代嘉平 : 房義の末子の歴代にわたって木村家に継承されていましたが、1879年(明治12)、同81年の、二度にわたる神田の大火によって一部を消失しました。
しかし大半の資料は、三代嘉平の末子/五代嘉平によって1907年(明治40)島津邸におさめられ、その後鹿児島の尚古集成館に所蔵され、1998年(平成10) 「木村嘉平関係資料」 として 重要文化財 に指定されました。
今回の <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> に際して、木村嘉平活字研究の第一人者にして、尚古集成館館長/田村省三氏による特別講演会が予定されています。
また講演後に、今回の <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> 開催にともなって、尚古集成館別館に特別展示される 「木村嘉平関係資料」 のギャラリー ・ トークも、館長みずからその任にあたってくださいます。
最後に、尚古集成館を訪問される皆さまに、田村省三氏の論文、「薩摩藩における蘭学受容とその変遷」 『 国立歴史民俗博物館研究報告 』 第26集、p. 209-234 (2004年02月)の一部をご紹介して、これ以上のご紹介は、尚古集成館でのご講演に待ちましょう。
島津斉彬の集成館事業の目的は、薩摩藩一国においてでも黒船の砲艦外交に対抗し得る海軍力を整備し、ひいては諸外国と対等に交流することのできる豊かな国づくりにあった。
斉彬の集成館事業では、ありとあらゆる実験と試行錯誤が繰り返され、見込みのついたものから事業化されていった。
造船事業と大砲の鋳造を主目的とした製鉄事業。 船が帆走するための帆布の製造を中心とする紡績事業。 あるいは、蒸気船の建造。 その結果、日本初の本格的な西洋式軍艦昇平丸、蒸気船雲行丸が完工する。
そのほか、電気分解法による和欧文鉛活字の製作、写真技術の修得、地雷 ・ 水雷の製造、ガス灯の実用化、電信の実験などがある。
集成館では、明治時代以後の日本の産業の基幹となった造船 ・ 製鉄 ・ 紡績の三産業はもちろんのこと、映像や通信、メディアに関する初期段階のさまざまな事業が推進されていたのである。
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《 きわめて太いパイプでつながっていた 幕末の薩摩藩と 長崎製鉄所 》
巷間、明治初期、米人ウィリアム ・ ガンブル(ギャンブルとも表記)によって、長崎製鉄所の付属施設、活版伝習所に、鋳造活字製造原型の製造法として 「電鋳法 ・ 電胎法」 が伝わったとされてきました。
このガンブルの来日の時日と、伝習期間に関しては諸説ありますが、おおむね1869年(明治02)11月-1870年(明治03)03月とされています。またこのことは多くの文書記録にものこっています。
しかしながらこれらの文書記録は、もともとは印刷人でも活字人でもない文章家によって、明治中期ころからしるされ、それが繰り返し引用されてきたために、技術的見地からみると、どうしても多くの問題点を抱えています。
また、もうお気づきかとおもいますが、三代嘉平が10年余の苦心の末、前述したように、おそらく川本幸民の 『遠西器術』などにまなび、「電鋳法 ・ 電胎法」によって鋳造活字製造の一定の完成までをみたのは1864年(元治元)であり、長崎の活版伝習所での伝習より相当先んじていたことになります。
もともと幕府直営の製鉄所であった長崎製鉄所は、幕末ともなると、溶鉱炉こそなかったものの、相当大型の艦船の航行や修理などに必要とされる、高度な工業技術と工業設備を有しており、「大規模な鉄工所」とされるほどの存在でした。
そのことが 『創業150周年記念 長船よもやま話』 (同書編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所、平成19年10月)、『平野富二伝 考察と補遺』 (古谷昌二、朗文堂、2013年11月22日) などの刊行によって次第にあきらかになりました。
平野富二と、長崎製鉄所に隣接して設けられた立神ドック開削の状況。現在立神には第1-第 3 ドックを備えた巨大な造船工場があり、ここでは30万トン級の巨大な船舶の建造も可能とされる[長崎造船所の沿革]。
平野が開削に着手した立神ドックは、拡張されて、いまなお立神第 2 ドックの首部をなして健在であり、そこに写真で紹介した『建碑由来』がはめ込まれている。
上掲写真は、三菱重工業長崎造船所本工場の、立神タテガミ通路の壁面に設置されている『建碑由来』説明板の写真である。この説明板の中央右寄りに「立神ドック略歴」とあり、それに続いて平野富二の事績がしるされている。
なお写真右上部に「明治十年竣功(工)」とあるが、一部に不具合があって、実際の竣工は下部の「立神ドック略歴」に記録されたとおり明治12年となった。
「立神ドック略歴 明治三年(一八七〇)長崎製鉄所長平野富二乾ドック築工を民部省に建議、許可となり着工。同四年(一八七一)一時工事中止。明治七年(一八七四)フランス人ワンサンフロランを雇入れ築工工事再開。 明治一二年(一八七九)工事完成。(長さ一四〇米、巾三一米、深さ一〇米 当時東洋一) (後略) 昭和四三年(一九六八)三月 三菱重工業株式会社長崎造船所」
これに補足すると、
「慶応元年(1865)07月に立神軍艦打建所として用地造成が完了しましたが、当地における軍艦建造が取止めとなり、そのまま放置されていました。
明治02年(1869)になって、平野富二が民部省にドックの開設を建議し、民部省の認可がおりました。同年11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに着工しました。しかし明治4年(1871)4月、長崎製鉄所が工部省の所轄となるに及んで、平野富二は長崎製鉄所を退職し、工事は中止されました」 [ 『 平野富二伝 』 古谷昌二 ] 。
【 関連資料 : 平野富二と活字*09 巨大ドックをつくり船舶をつくりたい-平野富二24歳の夢の実現まで 】
平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職し、造船事業への夢を一旦先送りして、活版印刷の市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。
知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治09)に出されているが、平野富二がいつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。
開鑿中の立神ドック
本図は、横浜で発行された英字新聞『ザ・ファー・イースト』(1870年10月1日)に掲載された写真である。 和暦では明治3年9月7日となり、平野富二(富次郎)の指揮下で開始されたドック掘削開始から、ほぼ 9 ヶ月目に当たる状態を示す。
この写真は、長崎湾を前面にした掘削中のドライドックの背後にある丘の上から眺めたもので、中央右寄りにほぼ底面まで掘削されたドックが写されている[『平野富二伝』古谷昌二]。
考察13 開鑿ニ着手 明治二年(一八六九)一一月二〇日、製鉄所頭取青木休七郎、元締役助平野富次郎、第二等機関方戸瀬昇平は、「ドック取建掛」に任命され、続いて頭取助品川藤十郎と小菅掛堺賢助も要員に加えられた。 この中で筆頭の製鉄所頭取青木休七郎は名ばかりで、実質的な責任者は平野富次郎であった。 この時の製鉄所辞令が平野家に残されている。
「平野富次郎 右ドック取建掛 申付候」 [『平野富二伝』古谷昌二]。
平野富次郎 右ドック取建掛 申付候図 ドック取建掛の辞令
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎製鉄所の辞令である。この辞令の用紙サイズは、高さ174㎜、幅337㎜で、ここに書かれている巳十一月とは明治2年(1869)11月(和暦)であることを示している[『平野富二伝』古谷昌二]。
平野富次郎の長崎縣権大属任免状
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎縣の任免状である。 この任免状の用紙サイズは、高さ187㎜、幅519㎜である。 最終行の「長崎縣」と書いた上部に小さく、「庚午 閏十月十六日」と記されており、明治3年(1870)閏10月16日[旧暦]の日付であることが分かる[『平野富二伝』古谷昌二]。
その結果 ―― 明治初期、長崎製鉄所の付属施設、活版伝習所に 「電鋳法 ・ 電胎法」が伝わった ―― とする従来の記録には、あまりに伝来ないしは技術の確立がおそすぎないかとする、工業技術者からの疑念が提示されています。
あるいはこの時期なら「電鋳法 ・ 電胎法」程度の技術を、わざわざ外国人を招いて伝習する必要があったのだろうか、とされる技術者もいます。
すなわち印刷史研究にあたっては、個個の事象をバラバラにとりあげるだけではもはや不十分かもしれません。これからは(もちろん、かくいう筆者もふくめて)、時系列にそって見直していくときになったようです。
工業技術者からのご指摘をうけて、改めて見直しますと、幕末の1864年(元治元)に、ほぼ独力で、すでに電鋳法による鋳造活字の製造に成功していた三代嘉平の事績とくらべても、当時の先進地 : 長崎において活字母型「電鋳法 ・ 電胎法」が、諸説あるものの、1869年(明治02)年の暮れから翌年の春にかけて、ようやく伝習されたとする従来の説には、やはり疑問が生じます。
つまり、ほかの工業技術の導入と較べても、あるいはともに長崎製鉄所の出身であった、本木昌造、平野富二らによる、その後の鋳造活字製品開発と活版印刷関連機器の展開速度からみても、やはり問題があるようです。
図版上から、本木昌造銅像-長崎諏訪公園、本木昌造銅像-大阪四天王寺境内、長崎港新町活版所印、長崎活版製造会社之印、新街私塾。
なぜ、本木昌造の銅像が、郷里 : 長崎と、大阪だけにあり、東京には平野富二による、東京築地活版製造所の 『活字発祥の碑』 が設けられているのかを、もうすこし慎重に考慮すべきだったと反省させられている。
それでは、1869年(明治02)11月-70年(明治03)03月に来日したとされるウィリアム・ガンブル(Gamble, William 中国表記 : 姜 別利 ウィキペディア : 本木昌造 )は、なにをもたらし、なにを伝習したのか、というさらなる疑問が発生します。
また後述する元薩摩藩士 : 五代友厚の「懇望」による、 「大阪活版製造所」 の創設が、1870年(明治03)03月と各所に記録されています。
この五代友厚に関しては、あまりに多方面の事業を手がけ、仕事一筋でその短い人生を生ききったために、タイポグラフィに関しては、のこされている「伝記」をふくめて資料がまったく不足しています。鹿児島、大阪のタイポグラファの皆さまの奮起に期待したいところ、大いなるものがあります。
このとき23-24歳ほどの平野富二は、立神の「ドック取建掛」に任命されて開削に専念していましたが、本木昌造は、相当な規模の、人員、印刷機器、活字を大阪に輸送したことがしるされています。
すなわち長崎の活版伝習所での伝習終了と、おなじ年の、おなじ月に、本木昌造は、新町活版製造所での右腕ともいえた、谷口黙次をはじめとする相当数の人員と、活版印刷機器、鋳造活字などを大阪に送りだしたことになります。
写真図版とともに後述しますが、この「大阪活版所跡」碑の側面にはこのようにあります。
「 明治三年三月 五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された 大阪の近代印刷は ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした 」
1871年(明治04年)07月中旬ころ、「長崎製鉄所付属 活版伝習所」でのガンブルの伝習を終えて一年半ほどののち、本木昌造はすっかり活版印刷製造事業に行きづまり、これを継続する意欲を失い、幸い長崎造船所を辞していた平野富二に再再にわたって懇請して、この事業のすべてを、あたかも押しつけるようにして継承しています。
本木昌造は、このころすでに活字製造事業に行きづまっており、1871年(明治4)06-07月にわたり、長崎製鉄所を辞職したばかりの平野富二(富次郎)に、「崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所」への入所を再再懇請して、ついに同年7月10日ころ、平野はその懇請を入れて同所に入所した。
これ以後、すなわち1871年(明治4)07月以降は、本木は活字鋳造に関する権限のすべてを平野に譲渡していた。
また本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放する意志はなく、「新街私塾」一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていた。そのことは、『大阪印刷界第32号 本木号』(大阪印刷界社 明治45年)、『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年)などの諸記録にみるところである。
苦難にあえでいた「崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所」の経営を継承した平野は、従来の本木時代の経営を、大幅かつ急速に刷新した。
またこの前年、1871年(明治4)の秋の上京に際して、東京を中心とする関東での市場調査と、携行した若干の活字販売をしているが、その際平野は販売に際して、カタログないしは見本帳の必要性を痛感したものとみられる。
それが「活字見本(価格付き)」『崎陽 新塾餘談 初編一、初編二』(壬申二月 明治5年2月)につらなったとの指摘が、諸資料を十分検討したうえで『平野富二伝』で古谷昌二氏よりなされた。
長崎に戻った平野は、それまでの本木の方針による「活字を一手に占有」することをやめて、ひろく活字を製造販売し、あわせて活字版印刷関連機器を製造し、その技術を公開することとした。
本木の行蔵には、どこか偏狭で、暗い面がみられ、高踏的な文章もたくさんのこしている。
ところが、その事業を継承した平野は、どこかわらべにも似て、一途な面が顕著にみられ、伸びやかかつおおらかで、なにごともあけっぴろげで明るかった。
【関連情報:平野富二と活字*08 天下泰平國家安全 新塾餘談初編一、二にみる活字見本(価格付き) 】
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本木昌造の懇請をいれて新町活版製造所に入所した平野富二は、完成した活字若干数をたずさえ、活字販売と活版印刷の市場調査に上京しました。
この数万本とされる活字は、それまでの東京の鋳造活字にたいして、たかい精度と、価格の低廉さが好評を呼び、関東一円ですべて完売したとされます。
すなわち関東地区にはすでに鋳造活字があり、当然ながら活版印刷関連機器が存在していたことになります。
この時期と、ガンブルによる、鋳造活字の母型製造のための「電鋳法 ・ 電胎法」伝習の時期との時間差も、あまりに過小にすぎるのも事実です。
さらに1873年(明治06) 平野富二が東京に本格進出したとき、東京にはすでに <三代木村嘉平> の鋳造活字は一定の規模で完成し、依頼者であり資金提供者でもあった島津斉彬を失ったまま存在していました。
さらには、大関活字、志賀(志気ともされる)活字など、詳細は不明ながらも、あきらかに鋳造活字のための 「活字母型」 を所有していた 「鋳造活字製造所」 が複数存在しており、いっときは平野富二と競合した史実と整合がとれなくなります。
いずれにしても薩摩藩は、幕府には三代木村嘉平による鋳造活字製造事業への取り組みを伏せ,、おおやけには内密裡に進行したために、未解明の問題も多多のこされています。
したがってこうした疑問の解決には、あわてずに、多方面からの協力を得て取り組む必要がありそうです。
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上) 海岸にそって手前の工場群が集成館、奥が仙巌園。 明治初期の写真。現在は尚古集成館と仙巌園となっている。
下) 長崎飽の浦に設けられた長崎製鉄所 (左手奥) の明治最初期の写真。 現在は三菱重工業株式会社長崎造船所の本社工場となっている。
《 鹿児島と長崎 ―― 五代友厚らを通じ、太い絆で結ばれていた近代工業化と活字版製造の歩み 》
鎖国から開国へ、幕藩制度から近代化へ ―― 国をあげ、欧米列強諸国に追いつき追いこそうと、一心不乱になったのが明治初期でした。
以前から、鹿児島の 「 前浜/磯庭園 」 とされるあたりの光景が、長崎飽の浦の長崎製鉄所(現 : 三菱重工業株式会社長崎造船所 本社工場)の光景と、とてもよく似ていることがふしぎでした。
その疑問を来社された尚古集成館館長 : 田村省三氏になげかけたところ、至極あっさりと、
「 それは似てますよ。 集成館は長崎製鉄所を意識して造営されましたから…… 」
こういう返答があって、呆然としたことがありました。
とかく看過されがちですが、このとき、ふるくからの開港地であった長崎と、海外への飛躍をはやくからこころみていた薩摩藩とは、活字と印刷術でもふとい絆でむすばれていました。
とりわけ注目されるのは、近近ご紹介しますが、「日本薩摩学生」の名で刊行された俗称『薩摩辞書』、『和譯英辭林』(初版 : 1869年 ・ 明治02年)の刊行であり、五代友厚の存在です。
簡略にあげても以下のようになります。
◯ 本木昌造は池原香穉カワカを通じ、薩摩藩儒臣: 重野安繹ヤスツグから活版印刷機を購入したとされる。
◯ 1857年(安政04年)、五代友厚は薩摩藩の選抜で長崎遊学(海軍伝習所伝習生)。
◯ 本木昌造が関与した大阪活版製造所は、元薩摩藩士 : 五代友厚の「懇望」と資金援助により設立されたとされる。
◯ 平野富二は東京への進出に際し、五代友厚に 「首証文」 を提出して資金援助を受けたとされる。
◯ 平野富二は、東京築地活版製造所の事業が成果をあげたとき、相当の金額を大阪活版製造所分として五代友厚に返済している。
◯ 東京築地活版製造所第四代代表 : 野村宗十郎の父は長崎在勤の 薩摩藩士で長崎にうまれた。
「大阪活版所跡」碑 (所在地 : 大阪市東区大手通二丁目。 写真 : 雅春文庫提供)
大阪活版所、大阪活版製造所に関しては、その設立の経緯、消長とあわせ、まだ十分には印刷史研究の手がおよんでいない。
ここで、印刷史研究におて看過されがちだった、東の渋澤榮一とならび、士魂商才のひと、あるいは大阪財界の雄とされる五代友厚を、『大阪商工会議所百年の歩み』からみてみよう。
きわめて簡略にしるした五代友厚の年代史は以下のようになる。詳細は ウィキペディア : 五代友厚 をご覧いただきたい(このウィキペディアには相当の誤解が見られるのは残念)。
◯ 1836年(天保06年)12月 鹿児島城ヶ谷に生まれる。(幼名は才助)
◯ 1857年(安政04年) 藩の選抜で長崎遊学(長崎 海軍伝習所伝習生)
◯ 1865年(慶応元年) 欧州視察(19人全員が変名をもちいての密航、『若き薩摩の群像』 参照)
◯ 1868年(明治元年) 明治政府へ出仕。 外国事務局判事(大阪在勤)
◯ 1869年(明治02年) 官を辞す。 のちもっぱら大阪で財界活動を展開。
◯ 1885年(明治18年) 逝去。 行年51。 大阪阿倍野墓地に埋葬。
大阪商工会議所のサイトには、「初代会頭 五代友厚が自ら起こした事業 ・ 設立にかかわった事業」の項に、「明治03年 大阪活版所設立(活版印刷の大阪の嚆矢)」 とある。
【 大阪商工会議所 : 五代友厚(初代会頭)について 】
この「大阪活版所跡」碑の側面の碑文にはこのようにある。
「 明治三年三月 五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された 大阪の近代印刷は ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした 」
この鹿児島商工会議所前に建つ「五代友厚像」の背面の碑文には、以下のような文章が刻まれています。
【 鹿児島商工会議所前の「五代友厚銅像」の碑文 】 一部に補整した。
士魂商才 ―― 商都大阪を築いた薩摩藩士 ――
幕末の激動期、もっとも早くから世界の進歩に目を向けていたひとりに五代友厚(ゴダイ-トモアツ、幼名 : 徳助、通称 : 才助、1835-85)がいます。
1835年(天保06)儒学者の次男として鹿児島藩領長田町の城ヶ谷 (現鹿児島市長田町) にうまれた五代は、才助といっていた少年時代から、世界地図の模写や、地球儀の製作で海外への関心をたかめました。
1857年(安政04)長崎に留学。1862年(文久02)には藩命で幕府の千歳丸に同乗。上海に渡りドイツの汽船 [ ? 英船サー・ジョージ・グレイ ] を購入して船長になりました。
薩英戦争(1863年 文久03年)では英国軍の捕虜となり、一時は裏切り者の嫌疑がかかったため潜伏しましたが、帰藩がゆるされると、開国による富国強兵策を進言。1865年(慶応元)薩摩藩の留学生をひきいてイギリスにわたり、蒸気船や紡績機械の購入に奔走しました。
明治維新の活躍で、新政府では参与に任命されましたが、のちに官を辞して実業界に転進。1878年(明治11)大阪株式取引所(現大阪証券取引所)と大阪商法会議所(現大阪商工会議所)を設立し、みずから会頭に就任して、精力的に商都大阪の発展につくしました。
1885年(明治18)糖尿病のため49歳の生涯を閉じました。大阪の阿倍野墓地に葬られています。
大阪商工会議所ビル(この写真はウィキペディアより紹介),、鹿児島商工会議所ビルの前には、いずれも五代友厚のおおきな立像が建つ。
また鹿児島中央駅前には 「若き薩摩の群像」 の巨大な彫刻があり、その中央には英国留学中の五代友厚が、前方を指さす勇壮な姿で刻されている。
またこの像の各所に、大判の図書を抱えたり、開いた姿で描かれていることにも注目していただきたい。台座に置かれている大判図書は『ウェブスター大辞典』であり、これが俗称『薩摩辞書』の刊行につらなったものである。
また手前左隅にブドウが刻されているが、この人物は長澤 鼎カナエである。長澤は維新後渡米して<アメリカのブドウ王>とされて彼の地で歿した。
「若き薩摩の群像」は、きわめて忠実に、藩命をうけ、変名をもちいて英国に秘密裡に 「留学」 したこの19人の事績を伝えている。
【 関連情報 : 平野富二と活字*03 『活字界』牧治三郎二回の連載記事に戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢 】
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《 古谷昌二氏による「木村嘉平活字研究」資料の一部をご紹介します 》
『平野富二伝』の著者、古谷昌二氏は、ずいぶん以前から活版印刷術に果たした薩摩藩の影響のおおきさと、開港地長崎との濃密な関係に注目しており、1907年(明治40)に五代木村嘉平がのこした資料を、すでに読みやすい現代通行文に直しておられました。
この五代木村嘉平がのこした記録は貴重なものですが、冒頭に田村省三氏がその疑問点の一部を指摘されていますし、古谷昌二氏もいくつかの疑問をいだかれ、その解消にむけて<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>にご参加のご予定です。
その前提で、古谷昌二氏資料の一部をご紹介いたします。
鹿児島集成館に保存されている和欧文活字について
原文 : 池田俊彦著 『島津斉彬公伝』(中公文庫、い-63-1、中央公論社、p.425 – 428、1994年05月)
(原文中に「銅鉄」とある表現は、「鋼鉄」に修整した)
薩摩藩主島津成彬は、横文の活字版を造って外国書籍の刊行を企画し、江戸の彫刻家 : 木村嘉平にオランダ書を見本として字母を作成させた。 木村家に伝承していたその時の字母は、後に島津家に献納され、尚古集成館に保存されている。
明治40年04月、五代木村嘉平(三代嘉平の末子)が認めた「昔時本邦創製の和欧文活字製作略伝」を、以下に平易な文章に改めて紹介する。
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この[尚古]集成館に保存されている活字は、安政年間(1854―60)に島津家、薩摩藩の第二八代藩主 : 島津斉彬(1809-58)の命によって木村嘉平が作成したもので、安政元年(1854)に設計を開始し、元治元年(1864)に完成した遺品である。
その製作品の中には、鋼鉄製の一端の面に、高さ 4 厘(約12㎜)から 1 分 5 厘(約45㎜)まで、大小に種別した文字を凸形に深く彫刻した数百の種字、数百の銅製凹字母、金属製三個よりなる鋳造機、各活字形数千の木製模型、彫刻用の鑢鏨(ヤスリとタガネ)、電気銅板に使用する銅メッキ用器具、蝋石面に彫刻した和文数千の種字、印刷機兼植字機、およびオランダ参考書で、いずれも当時使用したもので、現在まで保存していた。
木村嘉平は幼名を房義と称した。18歳の時に父を失い、祖先からの家業を受けて三代として就職し、江戸神田小柳町で木版彫刻業を営んでいた。25歳の時、薩摩藩主島津斉彬ナリアキラに召され、欧文書籍を版本とし、これを用いて広く薩摩藩で学ばせたいとの意向をひそかに拝聴した。
そこで、嘉平は数多くの字体をそれぞれ 1 個ずつ彫刻して活字とし、これを印刷版本とすることを上申し、ただちに拝命した。
しかし、当時はヨーロッパの物品のようなものは幕府の禁制品のひとつであったため、自宅の一室を密室に改造し、昼夜灯火を備えてひそかに作業をする場とした。
ここで、活字を大小12種類に分別し、まず桜材を用いて数個の模型を造り、ついで多くのヤスリやタガネを製造し、銅あるいは真鍮を用いて長方形で大小各種の種字型の複模型を造った。
それより、鋼鉄の素材を加熱鍛造して同じ形の角棒数百を造り、それぞれの一端の面にタガネを用いて欧文字を深く凸形に彫刻して焼き入れする。次いで、鋼鉄種字と同型で長さの短い銅製角棒数百を用意して、その一端の面に鋼鉄製凸形種字を打ち込んで凹形の字母とする。
また、別に銅または鋼鉄を用いて 3 個の長方形金物を組合せて鋳造機を造る。これは、字母嵌め込み孔、円形の鉛注入孔と空気抜き穴より成る。この鋳造機に各字母を嵌め込み、溶融鉛を注入して印刷用活字を作る。
それから、木製箱形の活字植字兼印刷機を作る。これは四辺にネジと竹栓を付け、内部に多数の薄い木片を用いて活字を縦に一列ずつ仕切ったものである。
鉛製活字を植え込んだ版面に古来の印肉を布に包んで、印肉を塗布して印刷用紙を載せ、その上に数枚の帳表紙と平坦な木版を宛てがい、その上から棒を横にして圧を加えて印刷する。
これが出来るようになったのは、実に万延元年(1860)のことである。
しかし、上記の方法によって製作する中で、鋼鉄の狭い面に細線を微細に深く彫刻したものを焼き入れし、これを銅面に槌で深く打ち込むが、時々、種字が破損するので、再度彫刻するのに幾多の月日を費やすこととなり、そのため、斉彬公の意思に反することとなった。
そこで、きめの細かい木石に彫刻して、硬質金属を鋳込んで字母を造る以外には早急に完成させる道はないことから、意を決して従来の鋼鉄彫刻を廃止し、新たに鋳造法を研究した。しかし、到底、微細で筆力のある深い文字に鋳込むことができず、しばらくの間、こればかりを苦慮していた。
或る日、薩摩藩邸を訪れたとき、たまたま、オランダ人が出入りするのに会い、理化学の講義を聞き及び、斉彬公の許可を得て、仕事を終えてから数ヶ月間オランダ人に就いて電気学の一部を研究し、ようやく金属の酸溶液における電解力を理解することができた[この段落は田村氏、古谷氏ともに疑問を呈されている]。
これより、蝋石面に種字を凸形に彫刻し、十分に溶解した蜜蝋中に彫刻面を浸漬して引上げ、ただちに刷毛を用いて余液を除去し、その上で微細の銅銀混交粉を、軟性刷毛を用いて刷きかけてメッキ銅の良導体とし、次に木製の箱を造って、その一端の下部に強度のある円筒形で気孔性のある素焼き土器を取付け、その円筒内に円筒形にした亜鉛板を直立挿入して、亜鉛板の上端に銅線を取り付けた一種の電池電槽を兼ね備えた器を造る。
それから、梅酢を温めて銅屑を投入して溶解させた塩化酢酸化銅の復塩を製造し、これを冷却して木箱と土器の間に注入し、土器内には濃厚食塩液を注入して円筒亜鉛を浸漬し、亜鉛と接続する銅線の一端には、あらかじめ用意した蝋石凸形種字を結びつけ、土器と木箱との間の復塩銅液中に吊るして厚く銅メッキし、これを種字から引きはがして鋼鉄彫刻時に使用した鋳造機に装着し、溶鉛を鋳込む。
このように完全な速成活字の製造を完成したのは、元治元年(1864)のことである。この11年間、苦心しながら開発に従事したことにより、素志を貫徹して、ここに数多くの書籍を印刷版本とすることができたと云う。
明治40年04月 木村嘉平認む 」
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<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>の準備が佳境に入りつつあるころ、奇妙な指摘がなされました。
「この 邨 嘉平 刻 ―― の画軸を平野ホールでみたことがある……」
これまで、平野富二と東京築地活版製造所の事業では、鹿児島県との関係を、五代友厚(幼名 : 才助)だけからとらえ、平野富二が石川島平野造船所を創立したのちは、薩摩閥を背景とした、川崎重工の創立者 : 川崎正蔵との抗争にもっぱら目を奪われていましたから、この指摘はおどろきました。
下掲写真で紹介するのは、「平野富二研究会」 のメンバーと、平野ホールの 「虫干し会」 に訪問した折りの記録です。
この画軸は木版画とみられ、滅亡した明国(浙江省余姚ヨヨウのひと)から渡来し、徳川水戸藩主 : 徳川光圀の政治顧問になった 「 朱 舜水 シュ-シュンスイ」(墓地は歴代の徳川水戸藩主らとともに、常陸太田市にある) による書画を ― 水府 (水戸) の藩校 : 尚義館の木村氏が所蔵していたものを、後世のいつのころか木版に刻み、ばれん刷りしたもので、俗に水戸拓本 ・ 水戸拓とよばれるものを軸装したものとみられました。
当時は平野富二と木村嘉平との接点などは意識していなかったために、いくぶん不鮮明ながら、この書軸の左下隅に、たしかに薩摩府學蔵版と同様な 「 邨嘉平刻 」 がみられました。 薩摩府學蔵版の刻者署名と比較すると、「平」 の字の一画目の特徴あるさばきとがことなりますので、いまは三代嘉平の作とすることは慎みたいとぞんじます。
それにしても平野富二と水戸藩との接点、そして薩摩藩と縁がふかかった木村嘉平との接点までもが平野ホールにはのこされていました。
タイポグラフィ研究に終わりはないようです。
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 01 開催のお知らせ 】
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 02 告知はがき印刷篇 】
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 03 お先でゴアンド 鹿児島を往く 】
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 04 薩摩藩と三代木村嘉平の活字 】
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 05 鹿児島 おすすめ情報Ⅰ 仙巌園/尚古集成館 】
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 06 鹿児島 おすすめ情報Ⅱ 長島美術館 】
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 00 番外編 しろくまは カゴンマ de ゴアンド ! 花筏 】