Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 06
《 薩摩辞書をうんだまち : 鹿児島市と 幕末-明治維新の混乱 》
鹿児島市の中央部に、歴代の薩摩藩主の居城であった鶴丸城があります。
この鶴丸城の背後には「城山」と呼ばれる急峻な丘があり、現在は観光地のひとつになっていますが、そこには 砦 程度の施設がつくられただけで、居城は平地にある鶴丸城でした。
むしろ薩摩藩主 : 島津家には <薩摩は人をもって城となす> とする考えがあって、おおきな城郭や天守閣をかまえることは無く、さほど高くない石垣と、わずかな濠にかこまれた平ヒラ城を「鶴丸城」と呼んで居城としていました。
鶴丸城は、薩英戦争、西南の役、第二次世界大戦の空襲など、多くの戦乱に巻きこまれ、現在はそれらの戦乱の弾痕を留めた石垣がのこるだけになっています。 その鶴丸城の跡地の一画に鹿児島県立図書館があります。
その正面入り口に 《薩摩辞書之碑》 があり、「AN ENGLISH-JAPANESE DICTIONARY 薩摩辞書之碑 American Presbyterian Mission Press 1869」 と刻まれています。
「薩摩辞書」とは俗称であり、『和譯英辭書』 の名が、初版(1869年/明治02年)における正式名称です。
この英和辞書は、幕末の大混乱のさなかに密かに上海で刊行作業が進行し、維新ののちに完成をみた大冊の英和辞書です。
したがっていかに衰微していたとはいえ、幕府の正式な許可を得ないまま、薩摩藩庁から資金提供をうけて刊行に着手した薩摩藩の若き俊才たちは、正式な刊記(刊行記録、現代の奥付にあたる)をのこすことなく、わずかな記録として、日本語序文に <日本 薩摩学生> と、若き製作者の氏名だけが記録されています。
すなわち薩摩とはしるしても、薩摩藩とはしるさず、万一追求をうけても、
「当藩としてはまったく関わりがない。日本国のわが薩摩の若い学生が(勝手に)なしたこと」
として、釈明の余地をのこしていたとおもわれます。
当然これだけの大冊の辞書を、資金面からも、鎖国下にあって海外渡航が困難だった状況からも、上海の印刷所で <日本 薩摩学生> が刊行できたとはおもえず、薩摩藩の藩命による、物心ともの援助によるものとおもえます。
通称「薩摩辞書」は、アメリカの語学者/ウェブスター(Noah Webster, 1758-1843)による英語辞書 『 ウェブスター大辞典 』 を典拠としており、以下の三版が知られています。
◯ A 第一版
『 和訳英辞書 』 (明治二歳 己巳 ツチノト ミ 正月 千八百六十九年新鐫)。
鐫センは深く掘る。年月は旧暦/1869年-明治02年)。印刷所 : American Presbyterian Mission Press 上海 美華書館。和文序に 「 改訂増補和訳英辞書 」、英文扉に 「 THIRD EDITION 」 とある。
◯ B 第二版
『 大正増補 和訳英辞林 官許 』 (明治四歳辛未 カノトヒツシ ゙ 十月)。
年月は旧暦/1871年-印刷所 : American Presbyterian Mission Press 上海 美華書館。英文扉に 「 FORTH EDITION REVISED 」 とある。扉ページの 「 大正 」 は、元号を意味するものでは無い。
◯ C 第三版
『 稟准 和譯英辞書 』 (明治六年十二月 紀元二千五百三十三年)。
年月は新暦/1873年-明治06)。印刷所 : 東京新製活版所 天野芳次郎蔵版(一部複写のみ所有。未見)。 つぎに、「薩摩辞書」に関わった人物をあげてみたい。
◯ 堀 達之助
「 薩摩辞書 」の前身、『 英和対訳袖珍辞書 』 (洋書調所、1862年 ・ 文久02)を刊行。 これを初版とみなしたために、『 和訳英辞書 』 の欧文扉ページに 「 THIRD EDITION 」 としるされた。
堀達之助は長崎通詞の名門の出。浦賀にペリー艦隊が来航した折の通訳でもあった。
◯ 堀越 亀之助
「 薩摩辞書 」 の前身、『 改正増補英和対訳袖珍辞書 』 (開成所、1866年・慶応02)を刊行。
これを二版とみなしたために、『 和訳英辞書 』 の欧文扉ページに 「 THIRD EDITION 」 としるされた。
◯ 前田 正穀 (日本 薩摩学生)
維新ののち前田正名とする。A 第一版 『 和訳英辞書 』、B 第二版 『 和訳英辞書 』 の日本語序文末尾にその名をみる。
本書刊行後渡仏。帰国後農商務省に勤務し次官まで昇格したが、富国強兵策に異論を唱えて下野。1850-1921。
◯ 高橋 良昭 (日本 薩摩学生)
維新ののち高橋新吉とする。A 第一版 『 和訳英辞書 』、B 第二版 『 和訳英辞書 』 の日本語序文末尾にその名をみる。 本書刊行後、1870年米国留学。帰国後大蔵省勤務。二代目勧業銀行総裁。 1842-1912。
◯ 前田 献吉 (日本 薩摩学生)
前田正名の実兄とされる。詳細不詳。A 第一版 『 和訳英辞書 』 の日本語序文にその名をみる。
◯ 堀 孝之 B (日本 薩摩学生)
第二版 『 和訳英辞書 』 の日本語序文 文中にその名をみる。
堀孝之は長崎通詞の名門の出。五代才助(友厚)が長崎海軍伝習所にまなんだとき、当時10歳ほどの堀孝之の才を見抜いて薩摩藩に推挙した。薩摩藩英国留学生一行の通訳として、五代ら一行19名のひとりとして渡英。
終生五代との親交が篤く、五代が眠る大阪阿倍野墓地の五代の墓のかたわらに、堀の功績を称える 「 堀孝之君之碑 」 が建てられ、ついで堀の顕彰碑の隣に五代本人の顕彰碑が建てられた。?-1911年・明治44 67歳にて卒。 上掲写真と、スキャナ画像は、いずれも B 第二版 『 和訳英辞書 』。 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部会員 MH 氏蔵書。
下掲写真は、左) A 第一版 『 和訳英辞書 』 (明治二歳 己巳 ツチノト ミ 正月 千八百六十九年新鐫)。 右) B 第二版 『 大正増補 和訳英辞林 官許 』 (明治四歳辛未 カノトヒツシ ゙ 十月) である。
A 第一版 『 和訳英辞書 』 は、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部会員 SK 氏の蔵書で、巻首04ページを欠き、製本所で補修中のところを無理をお願いして撮影させていただいた。
これらの資料が <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> の開催にともなって公開され、また鹿児島に多くの実践派のタイポグラファが現地取材にでかける。
その調査結果が待たれるいまである。 近代タイポグラフィの黎明期における五代友厚ら、旧薩摩藩のひとびとの貢献はほとんど看過されてきた。長崎のタイポグラファと親交の篤かった五代友厚に関しては、「木村嘉平関連資料」の項でいくぶん解説した。
また薩摩藩家老として、小松帯刀タテワキ(1835-70)も長崎人脈との交流に熱心だった。小松による積極的な人材登用と財政支援も看過できない。
NHKの大河ドラマ 『 篤 姫 』 では、小松帯刀と篤姫とは、おたがいに密かな恋心を抱いていた人物として描かれていた。
小松帯刀は維新後まもなく明治03年に大阪で病没した。30代の半ばというそのあまりの早世に、薩摩のひとは<幻の宰相>と呼んで遺徳を偲んだとされる。
それだけでなく、これまでほとんど言及されていないが、小松帯刀がわが国の近代化とタイポグラフィ ≒ 近代活版印刷術への貢献は多大なものがあった。
ともあれ薩摩藩家老、千石どりの小松帯刀の屋敷跡は広大なもので、下掲写真がたつ、鹿児島市山下町7、8番、9番の西、10番の南西 2,372 坪が上屋敷跡。同市 原良に下屋敷跡がある。
この小松帯刀像は1867年(慶応03)に、15代将軍徳川慶喜が京都二条城に諸大名を集めて、政治の権力を朝廷に返還(大政奉還)すべきかどうかを問うたときに、他藩にさきがけて、薩摩藩の城代家老であった小松帯刀が 「 大政を奉還すべき 」 として記帳したときの様子をイメージして造られたものとされる。
その視線の先には、島津三公像(島津斉彬、島津久光、島津忠義)の建つ、照国神社がある。[この項は 井後眼科周辺の歴史散歩 を参照した]
鹿児島中央駅前にそびえる『若き薩摩の群像』には、19名の密航者のうち、薩摩藩出身ではないふたりの像がかけている。
そのひとりは前述した長崎人/堀 孝之であり、もうひとりは、土佐勤王党に一員で、土佐藩を脱藩して薩摩藩に逃れた高見弥市である。
またこの「薩摩藩英国留学生」とは、幕府の許可無く渡英したために、全員が仮名をもちいていた。銅像のなかに若い兄弟とされながら、その詳細がほとんどあきらかにされていないふたりがいる。
この兄弟が「薩摩辞書」に関わった可能性も否定できないいまである。
[この項近日中に 花筏 にて詳細掲載の予定]