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【字学】 本木昌造関係家系図、そのおいたち、その肖像・銅像

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本木昌造02◎ 本木昌造の肖像写真
この写真は長崎諏訪神社につたわった写真である。これと同一原板によるとみられる写真が、『贈従五位本木昌造先生略傳』(東京築地活版製造所)にも掲載されているが、これには裏面を写した写真も紹介されている。裏面には「内田九一製」と印字されている。

◎ 本木昌造の上京中の肖像写真
本木昌造(1824-75)は、東京に滞在中に内田九一ウチダ-クイチ写真館で記念写真を撮影したらしく、その肖像写真が長崎諏訪神社にのこされている。
この写真には撮影年月日が記されていないが、本木昌造の容貌は、目が落ち窪み、頬がこけて、病み上がりの状態であるように見られる。時期としては最晩年の明治七年(一八七四)に上京したときの可能性が高い。
 
◎ 長崎にうまれ東京で活躍した写真士 : 内田九一
内田九一(1844-75)は、弘化元年(一八四四)長崎に生まれ、松本良順等から湿板写真の手ほどきを受け、上野彦馬に師事した。
最初に大阪で開業し、次いで横浜馬車道に移り、明治二年(一八六九)東京浅草瓦町に洋式写場を開いた。

明治五年(一八七二)と同六年(一八七三)には明治天皇と昭憲皇太后の写真を撮影している。その後、築地にも分店を設けていることから、この本木昌造の写真は築地の写場で撮った可能性もある。内田九一は明治八年(一八七五)に没した。

【本木昌造関係家系図】

参考資料 : 長崎諏訪神社蔵『本木氏系図』
「櫻痴、メディア勃興の記録者」『ヴィネット00』(片塩二朗 朗文堂)
『文明開化は長崎から 上』(広瀬 隆 集英社)
本木家系図

【本木昌造の生い立ち】

本木昌造は、文政七年(一八二四)六月五日、長崎会所請払役 ナガサキカイショ-ウケバライヤク : 馬田又次右衛門 バダ-マタジエモン の二男として、長崎新新石灰町 シン-シックイ-マチ (現在の油屋町アブラヤ-マチ)にうまれた。幼名は作之助、成人して元吉モトキチと改めた。

その後、長崎新大工町((現在の長崎市新大工町)乙名 オトナ : 北島三弥太 キタジマ-ミヤタ の仮養子となり、ついで阿蘭陀 オランダ 通詞 : 本木昌左衛門久美の婿養子となった。
仮親の北島三弥太は、馬田又右衛門の実兄で、本木昌左衛門久美の従姉 繁 を妻にしていた。繁は、一説では久美の祖父本木栄之進良永の長男の娘で、幼くして父を失い、叔母(良永の長女)に養なわれていたとされる。元吉が本木家に養子に入るに当たって、本木家の長男の家系に属する 繁 を元吉の仮親とし、本木家と縁続きであることとしたと見られる。

なお、久美の父 : 本木庄左衛門正栄は、本木家と血脈のつながる 法橋 ホッキョウ 西 松経 ニシ-ショウケイ の三男で、本木栄之進良永の長女を娶って本木家を嗣いだが、早く妻を亡くして、長崎宿老 シュクロウ 徳見尚芳の娘 綾 を迎え、その長男光芳は徳見家を嗣ぎ、二男昌左衛門久美が本木家を嗣いだ。
久美も早く妻を亡くして 萬屋 ヨロズヤ 浅右衛門の娘 たま を後妻とし、その間に生れた娘 縫 を娶わせるために元吉(昌造)を迎えた。〈「蘭皐本木君墓碑」、「蘭汀本木君墓表」、「阿蘭陀通詞由緒書」など。一部推測による〉
 
昌造は、本木家に入って養父昌左衛門の「昌」の字を貰って改名したもので、諱 イミナ は永久 ナガヒサ、雅号は梧窓 ゴソウ 、堂号は點林 テンリン、戯号は 笑三、咲三と多くの名を持っているが、戸籍名は昌三に改めている。
明治五年(一八七二)、戸籍編成の際に作成されたと見られる資料には、
「 平民
    実父元長崎会所吟味役馬田又次右エ門亡二男
    本木昌三
  壬申四十九歳 」
とあり、さらに続けて、父は隠居した本木昌栄、母は たま と記録されている。
父は隠居後に昌左衛門久美を改めて昌栄としたことが分かる。
この記録においては、実父馬田又次右衛門(故人)は元長崎会所吟味役と記録されているが、請払役の後に、より高位の吟味役になったと考えられる。

また本木昌造の異母弟には、松田雅典 マツダ-マサノリ (八歳下、国産缶詰製造の始祖)、伊藤祐吉、長川東明(大蔵省出仕)、柴田昌吉 シバタ-ショウキチ (一七歳下、外務省権大書記官、岩倉全権大使に随行、『英語字彙』を編纂)がいる。
 
本木昌造の祖父にあたる 本木栄之進良永は、平野富二の生家、矢次 ヤツグ 家五代目 矢次関次と一緒に仕事をすることが多く、本木家と矢次家とは、少なくともその頃から付き合いがあったことが分かる。
DSC00889 14-4-49348 ◎ 本木昌造の銅像
この銅像は長崎公園に設置されている本木昌造の銅像である。戦時中に金属供出された坐像にかわって、昭和二九年(一九五四)九月に立像として再建された。 

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朗文堂愛着版 『本木昌造伝』
島屋政一著  朗文堂刊
A5判 480ページ 上製本 スリップケース入れ 輸送函つき
口絵カラー写真20点、本文モノクロ写真172点、図版196点

残部僅少。ご希望の方は直接朗文堂ヘお申し込みください。
直販のみで書店では取り扱っておりません[詳細:朗文堂ブックコスミイク]。

[本項には古谷昌二氏、春田ゆかり氏から情報を提供していただいた]

【朗報】 4月22日[金]-5月24日[火] 東京都立美術館に40万の観覧者をあつめた『若冲 Jakuchu 展』図録が特別追加販売

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伊藤若冲(1716-1800)は、18世紀の京都で活躍したことで知られる画家です。
繊細な描写技法によって動植物を美しく鮮やかに描く一方、即興的な筆遣いとユーモラスな表現による水墨画を数多く手掛けるなど、85歳で没するまで精力的に制作を続けました。

本展では、若冲の生誕300年を記念して初期から晩年までの代表作89点を紹介します。
若冲が京都・相国寺に寄進した「釈迦三尊像」3幅と、「動植綵絵」30幅が東京で一堂に会すのは初めてです。
近年多くの人に愛され、日本美術の中でもきら星のごとく輝きを増す若冲の生涯と画業に迫ります。
──────────.
『生誕300年記念 若冲展』日本経済新聞社 展覧会図録(代引き発送)
◎ 展覧会会期 : 東京都美術館 2016年4月22日(金)-5月24日(火)
◎ 図録仕様 : サイズ  A4 判変形、(約)縦29.7×横22.5×厚さ2.3cm、 327頁
◎ 価   格 : 3,900円(消費税 8%込)
【 詳細 : 日経アート社

★        ★        ★        ★

{新宿餘談}
この『若冲展』のことは、本欄でも二度にわたって紹介した。
会期二日目にいったが、すでに相当の混雑で、図録を購入するのにも長蛇の列だった。
本項末尾には<見逃すなかれ 若冲展>と強調しておいた。

20160424142155830_000420160424142155830_0005生誕三百年記念 若冲 じゃくちゅう 展
04月22日― 05月24日
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伊藤若冲(1716―1800)の生誕三百年を記念して、初期から晩年までの代表作を紹介します。
若冲が京都・相国寺に寄進した「釈迦三尊像」三幅と「動植綵絵」三〇幅(宮内庁三の丸尚蔵館)が東京で一堂に会すのは初めてです。
近年多くの人々に愛され、日本美術の中でもきら星のごとく輝きを増す若冲の生涯と画業に迫ります。
東京都美術館展覧会
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{新宿餘談}
若冲が気になって、「若冲展」二日目、23日[土]に東美(東京都美術館)にでかけた。
できたらとなりの国博(東京国立博物館)の「黒田清輝展」もいっしょに見ようと、はやめに上野公園に向かった。
曇天だった。国博の入場口は閑散としていた。言問通りでタクシーを捨てた。
東美の裏側から回りこんでいったら、入場券売り場から長蛇の列だった。会場内はギッシリ満員。ひとにアタル(中毒)やつがれ、入場前からすでに疲労困憊。

若冲の絵画には息をのんだ。すごかった。
したがって画像記憶許容量をたちまちこえて、脚がなんどもすくんだ。
気がついたら階上のレストランにいて、デザートに旨いティラミスを摂っていた。国博行きはこの瞬間にあきらめた。
見のがす無かれ、若冲展。

──────────   <5月24日掲載分>

「長崎松の森なる千秋亭にて いと厳粛に …… 」と綴った〝ふうけもん〟福地櫻痴。大石は長崎のパワースポットと評す

「長崎松ノ森ナル千秋亭ニテ」(千秋亭は1889・明治22年、総理大臣伊藤博文の命名により富貴楼と改名)ときいて、ハッと反応するような奇妙人を、長崎では〝ふうけもん〟という。
松の森には放し飼いの「若冲 じゃくちゅう」 が数羽いた。おおむねひとになついていたが、一羽挑みかかる鶏がいた。その不届きもんの鶏を「若冲一」と名づけ、以下五羽の鶏と、モソモソとあるく烏骨鶏ウコッケイとしばし戯れた。

東京都美術館の若冲展 は好評だったがきょう(05月24日)で終わり。
会期二日目(4月23日)に参観して息を呑んだやつがれ、「見逃す無かれ 若冲展」として本コーナーでも紹介した。会期後半の週末などは入場に五時間待ちという混雑だったときいた。巡回展が期待されるところである。
そして「長崎松の森なる千秋亭」への再訪の機会をうかがうやつがれがここにいる。
長崎タイトルresize20160424142155830_0005DSCN7620 DSCN7623 DSCN7738 DSCN7728

【字学 活字と機械論攷シリーズⅡ】 長崎川柳吟社 素平連 SUPEREN 「故本木昌造翁の功績を追懐して 贈位報告祭に活句をよみて奉る」

統合長崎諏訪神社所蔵
「本木昌造関係文書集」より

故本木昌造翁の功績を追懐して
贈位奉告祭に活句をよみて奉る
長崎素平連
──────────

點林の枯骨   贈位の花か咲き       紫泉
本木にて朽ちぬは   文字の元祖也    鈍々
文学の修業場   巌流坂に建て       藤覚
鋳上けた活字   銅像と成て立ち      應来
贈位の御沙汰   文明の日の本木     躬之
ステロ版本木の  末に流れ出て      豊舟
本木から枝葉   繁る新聞紙        竹仙
発明の活字を  積て位山           我天
名の如く永久  朽ちぬ君か功        和薩
摩滅せぬ偉勲  活字の発明者       東籬
活字版桜木    よりも世に薫り       東来

統合

「川柳吟社 素平連 スペレン 」は明治期長崎にあった川柳・狂句の会で、虎與號トラヨゴウ・安中ヤスナカ書店/安中半三郎(号:東来トウライ 嘉永六年十一月二十九日[西暦1853年12月29日]-1921年4月19日 行年69)が主宰した{花筏}。

もともと「川柳吟社素平連」は知るところがすくなかったが、故阿津坂 實氏の紹介をえて、わずかにこれらの句を『活字をつくる ヴィネット04』(片塩二朗・河野三男 2002年06月06日 朗文堂 p.207)でも紹介した。
ようやく長崎でも「ふうけもん 安中半三郎」が注目されるようになり、今般長崎で一次複写資料を入手したので、ここに古谷昌二氏の釈読で紹介した。
しかしながら、依然としてこれらの句をのこした「川柳吟社素平連」の会員名は「安中半三郎=東来」以外の詳細は不明である。

冒頭に、「故本木昌造翁の功績を追懐して 贈位奉告祭に活句をよみて奉る」とあるのは、明治45年(1912)2月26日に本木昌造に従五位を追贈する旨が通達された。
東京築地活版製造所では同年5月25日「本木昌造翁贈位祭典」が星野 錫、野村宗十郎、松田精一、三間ミツマ隆次を発起人として「上野精養軒」で盛大な祝賀会が催されている。
おそらく地元長崎でもこのような祝賀会が催され、「川柳吟社素平連」も句を寄せたものであろう(『本木昌造伝』島谷政一 朗文堂 p.218-228)。

【字学 活字と機械論攷シリーズⅠ】 <旧 外浦町ホカウラマチ由来>碑をめぐって-{活版さるく補遺}

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 旧 外浦町由来 [ほかうらまち 振り仮名が彫られている]

この地はもと外浦町と呼ばれた
元亀二年(一五七一年)大村純忠の町割りに
より開かれた長崎最古の町である。
爾来糸割符会所、長崎奉行所等が
置かれ長崎で最も枢要の地として栄
えた。また幕末には海軍伝習所や医
学伝習所が設けられわが国文明開化
胎動の地ともなった。
昭和三十八年(一九六三年)町制変更によ
り万才町(現在地)、江戸町となり四百
年に及ぶその歴史を閉じた。

──────────
[古谷昌二]
この碑文は、万才町の一画に設置されていた石碑の表面に刻まれた碑文を、朗文堂写真から判読したものである。
昭和三八年五月に町界町名変更があったが、それ以前にも、旧島原町が万才町に、町名の無かった出島が出島町になり、明治以前の古地図とは若干の相違が見られる。

この写真が撮影された2010年のころ、「旧 外浦町由来」碑は、長崎県庁前の「農林中央金庫長崎支店」(長崎市万才町5-26)の玄関脇に設置されていたという。
しかし平成25(2013)年5月7日に「農林中央金庫長崎支店」は長崎市出島町1-20に移転しており、現在この写真のビルは取り壊されて工事中(2016年6月30日閲覧)となっている。
したがってこの碑の所在はいまのところ不明である。

{新宿餘談}
この「旧 外浦町由来」碑の写真は2010年晩夏に撮影したものである。
同行したのは故 阿津坂 實 翁、元長崎県印刷工業組合事務局長/岩永充氏、それに大石とやつがれだった。

2-1-49043 RIMG0084 RIMG0083阿津坂翁の「活版さるく」は、いつも出島にある長崎県印刷会館からはじまり、「唐通詞会所跡」碑、「活版伝習所跡」碑(元興善小学校・新興善小学校。現 長崎市立図書館 脇 長崎市興善町1-1)から「活版さるく」をはじめるのを常とした。

ついで「本木昌造宅跡」「医学伝習所跡」碑(旧地名:外浦町5のあたり。万才町5、元グランドホテルの前に設置されていたが、のちに同ホテル内ロビーの一隅に移設された。現在はマンション工事中のため碑文の所在は不明)をまわるのが定番のコースだった。
DSC01028 DSC01024 2016年06月{崎陽探訪 活版さるく}では、「本木昌造宅跡」「医学伝習所跡」碑(旧地名:外浦町5のあたり。万才町5、元グランドホテルの前)も訪問した。ホテルは取り壊され、マンションの工事中であり、碑文は見あたらなかった。

そこから大通りの反対側、厳流坂の「新町活版所跡」碑(元長州萩藩蔵屋敷。長崎県市町村職員共済会館 長崎市興善町6)と、道をはさんで向かいあう「新塾活版製造所、長崎活版製造所跡」(元小倉藩蔵屋敷)を案内されるのを常とされていた。
これらの碑の建立に際しては、阿津坂翁が多大な尽力をなしていたことは紹介した。

「新町活版所」に関しては諸文献でも触れているので、ここでは「新塾活版製造所、長崎活版製造所跡」に関して『平野富二伝』(古谷昌二)から紹介しよう。

小倉藩蔵屋敷は明治維新後に小倉藩が退去し、その屋敷の一部を買収して本木昌造の経営する「新塾活版製造所」が設けられた。平野富二は後にこの活版製造所の経営を任せられることになる。
なお、活版所と活版製造所は明治28年(1895)9月に解散するまで存続した。
この場所は現在では興善町5番の区画に相当し、丸善ハイネスコーポと食糧庁長崎事務所が建てられている。
  IMG_3823 IMG_3824

脚が弱られた阿津坂翁のために、このときの移動はもっぱらタクシーだった。
1997年に閉鎖された「新興善小学校」は、2008年にあらたに開設された「長崎市立図書館」にすっかり変わっていた。当然ふたつの碑文の位置もいくぶんかわっていた。

どこのまちでもありがちなことではあるが、本木昌造宅が外浦町5のあたりにあったことが確実視され、また生家の矢次家をでて独立し、別家平野家をたてたころの平野富二郎(平野富二)も居住していた「外浦町」のよみは、旧来「ほかうらまち」とされてきた。

この[明治4年・1871の暮れから戸籍届出の翌年2月までのあいだ]年、平野富次郎の身辺に大きな異動があった。年が明けて間もなく、長崎在住の安田こまと結婚し、それまで兄矢次重平の厄介として居住していた引地町ヒキジマチ50番地の生家を出て、外浦町ホカウラマチ94番地に家を求めて転居した。
た、この年はわが国で最初の戸籍編成の年に当り、その人別調べに幼名の富次郎を富二に改名して平野富二として届け出た。
『平野富二伝』(古谷昌二)

ところが近年、一部の長崎関連文書のなかで「外浦町 そとうらちょう」とする向きがみられたので、故阿津坂 實(1915-2015 行年99)氏にそのことを質したことがあった。
「本木昌造先生の旧宅と、平野富二さんの旧宅があった「ほかうらまち」が「そとうらちょう」になってしまったいるわけかな。それは困ったな…… 。
それなら県庁前に『旧 外浦町由来』の碑があるからそこに戻ってみよう。たしか『ほかうらまち』の振り仮名があったはずだ」

というわけで、急遽タクシーはUターンして、「旧 外浦町由来」碑をみるべく、長崎県庁前の「農林中央金庫長崎支店」(長崎市万才町5-26)の前に戻った。
「旧 外浦町由来」碑はつよい赤味を帯びた自然石に陰刻され、この建物の玄関脇に設置されていた。

大通りに停車していたタクシーを待たせないように慌てていたことにくわえ、この碑文の重要性を当時はさほど重視していなかったので、石碑背面の写真を撮影することを忘れていた。したがってこのビルが取り壊されている現在、「旧 外浦町由来」碑の建造者・建造年月日などの資料が背面にある可能性をのこすことになってしまった。

それでもこの「旧 外浦町由来」碑には、主題語「旧 外浦町由来」に振り仮名が刻されていたことによって、「ほかうらまち」のよみが確定した。また四百年の歴史を有した「外浦町 ほかうらまち」は、1963年(昭和38)の町制変更によって万才町マンザイマチ、江戸町エドマチとに分割されて、その歴史を閉じたことがわかった。
ただしまことに残念ながら、この「旧 外浦町由来」碑の所在はいまのところ判明しない。
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DSC03627RIMG0069 RIMG0071そこからふたたびいつものように、大通りの反対側、厳流坂の「新町活版所跡」碑(元長州萩藩蔵屋敷。長崎県市町村職員共済会館 長崎市興善町6)と、道をはさんで向かいあう「長崎活版製造所跡」(元小倉藩蔵屋敷 長崎市興善町5)をたずねた。
「新町活版所跡碑」は改修され、向かって左側に活字を模したモニュメントが設けられていたが、それまで並立していた「詩儒 吉村迂齋遺跡」碑はすこし移動して、ビル正面側に設けられていた。

このあたりで阿津坂翁に疲労がみられたので、長崎駅前大黒町の自宅兼店舗「飛龍園」に車をまわした。
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《長崎市の地名 ウィキペディア》
◎ 江戸町(えどまち)
1963(昭和38)年、江戸町、玉江町3丁目、外浦町の南半、築町の一部より発足。10街区。長崎県庁があり、町の半分近くを県庁が占める。
その他、東部に江戸町商店街があるなど、商店が多い。中央橋バス停・交差点があり、交通の要所である。

◎ 万才町(まんざいまち)
1963(昭和38)年、平戸町、大村町、万才町、本博多町、外浦町の北半より発足。8街区。
国道34号が縦貫する長崎市屈指のオフィス街で、長崎地方裁判所、長崎地方検察庁、長崎家庭裁判所、長崎県警察本部などの官公庁もある。

[付 記]  『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(長崎文献社)
現在の町名である万才(まんざい)町は、明治5年(1872)に明治天皇が長崎を行幸した折の萬歳(万歳)に由来しており、西道仙がその改名を提案したとされている。

当時、萬歳は呉音の「マンザイ」や漢音の「バンセイ」などと発声されていた。
「バンザイ」と発音されるようになったのは大日本帝国憲法発布の日の明治22年(1889)で、「マ」では腹に力が入らないという理由から、漢音と呉音の混用を厭わず「バンザイ」となったとされる。

◎ 興善町(こうぜんまち)
1963(昭和38)年、本興善町、新町、興善町の南半、豊後町の西半、引地町の西半、堀町の南半より発足。6街区。国道34号線が縦貫する長崎市屈指のオフィス街で、長崎市消防局、長崎市立図書館もある。
──────────
活版印刷礼讃<Viva la 活版 ばってん 長崎>では、{崎陽長崎探訪・活版さるく}として、長崎を訪問した全国各地からの参加者、地元勢あわせて60名余でこれらの地を訪問した。
たくさんの新発見があったが、同時に、阿津坂 實翁は卒し、2010年の資料とくらべても、おおくの施設や碑文が移転していることがわかる。
創立10周年企画として<Viva la 活版 ばってん 長崎>に特別参加されたタイポグラフィ学会の皆さんとともに、さらなる資料整理が進行しているいまである。
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【図書紹介】 ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―(増永 驍著 長崎文献社 2008年3月13日)

20160517175007358_0001 20160517175154723_0001《崎陽長崎俚諺 さんか と ふうけもん》
長崎では、しばしば自虐的にこのまちを「さんか」のまちとする。
「さんか」とは、急峻な山容がそのまま海に没するこの長崎を特徴づけるもので、
一  坂   「さか」
二  墓   「はか」
三 馬鹿   「ばか」
の三つのことばの語尾が共通して「か」であることから「さんか」とするものである。

DSC00668 DSC00749 DSC00732 DSC00760たしかに長崎はほんのわずかな沖積地をのぞいて、急峻な「坂」のまちであるし、そこに這いあがるようにひろがる「墓」のまちでもある。
それでもさすがに「馬鹿」と口にするのをはばかって〝ふうけ〟とするふうがいまもある。「ふうけたことをいう……」は、「馬鹿なこと、ふざけたことをいう」といったかんじである。
したがって〝ふうけもん〟とは長崎ことばで、直截には馬鹿ものを意味するが、おなじ馬鹿でも、侮蔑のニュアンスはすくなく、もうすこし愛嬌のある馬鹿もののことである。

長崎新聞社の記者をつとめ、のちに長崎県庁に転じた増永 驍は、明治初頭長崎の「稀少人種」の〝ふうけもん ≒ 馬鹿もの〟として、本木昌造・西道仙・松田源五郎を主人公とし、脇役に平野富二・池原香穉・安中半三郎(東来軒・虎與トラヨ書房・素平連スベレン主宰)らを配し、同名の小説『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(長崎文献社)をのこした。

本木昌造02 平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち_トリミング松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』増永 驍によって〝ふうけもん〟とされたおとこたち
本木昌造 : 長崎諏訪神社蔵  平野富二 : 平野ホール蔵 松田源五郎 : 松尾 巌蔵

『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(増永 驍著)は、明治長崎の40年をかたるとき、おもしろい視座を提供する図書ではあるが、いつものように【良書紹介】としなかったのは、それなりの理由はある。本書をおよみいただきやつがれの意をお汲みいただけたら幸いである。
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『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(増永 驍著 長崎文献社 2008年3月13日 第三章 長崎ぶらり p.258 より)
一  一番さん
長崎に「さんか」という俗語がある。
さんかとは、単語の語尾が「か」で終わる長崎の特徴をあらわす言葉、さん(三種)の「か」
というほどの意味である。
天領[江戸幕府直轄の領地]として海外交易で栄えた長崎の港は、外海からの波浪を鎮めるように、三方を小高い山並みに囲まれ平地は極めて少ない。
このため丘や山を削って港の一部を埋め立てて、市街地を造成し、削り取った跡地には山頂をめざして住宅が連なっている。
その街中を貫く生活道路のはとんどぱ坂道と石段である。

まず、さか(坂)が「さんか」の、かのひとつ目である。
信心深い住民ぱ、西方浄土を臨む安息の土地を求め、宅地の上の山際を造成して墓地とした。
町並みを取り囲むように墓地がある。二つ目は、はか(墓)である。
江戸時代、海外交易の一部が住民に還元されるなど、およそ全国でも例を見ない安穏な暮らしを続けた長崎の民は、その気質もまた異なるものがある。

良く言えば、他の土地からの旅人にもあふれるはどの親切心にあふれ、また、変化は好まず日々の安穏を願うお人好しである。
先祖代々、はぐくんできた気質は成熟している。
他人に先駆けて栄達しようなどとの心構えは、数百年をかけてオランダ船と唐人船に積み込んで海の彼方に捨てている。
苦労知らずの世間知らず、空想にふけり、ぼーっとして人生を過ごす者がいる。
したがって、三つ目は、ばか(馬鹿)である。
現実離れして何かのことに夢中になり、巷の者の常識に外れた者を長崎では「ふうけもん」と言う。近い言葉でいうなら馬鹿である。
ただし、ふうけもんにも幾つかの種類がいる。
現実を理解できる能力を有しないものが多数なら、理想と空想を混在し、さらには現実と虚構を混在し、むやみやたらに積極的となり実現不可能な騒ぎを起こす者も存在する。
希少人種の「ふうけもん」が中島川の右岸の土手を軽やかに走っている。
──────────
{著者紹介}
増永  驍 ますなが-たかし
1945年うまれ。日本大学法学部卒。同大学法学専攻科修了。
長崎新聞記者を経て長崎県庁に勤務。総務部消防防災課長、佐世保高等技術専門校長をへて退職。2004年から総務省所管の公益法人の長崎県支部長。
主要既刊書
『ながさき幕末ものがたり 大浦お慶』(1991年 長崎文献社)、『現川伝説』(1994年 長崎文献社)、『鯨神 深澤義太夫異聞』(1997年 長崎文献社)、『友好の奇跡 兪雲登回想録』(2006年 長崎新聞社)