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北京清華大学美術学院からの招聘で昨週いっぱい特別講義。無事に帰国いたしました

DSCN8230DSCN8234DSCN8173ここしばらく中國(中国)とのやりとりや往復がふえている。
2016年三月下旬に 方正字庫 (FOUNDER 方正 北京大学全額出資のIT企業)と、中國美術大学の最高峰のひとつとされる 中央美術学院 の招聘で一週間の北京滞在となった。
前半の3日間は、北京大学キャンパス内、方正字庫の主催で<字体大赛 ≒ 書体大会>の国際審査員としての参加。

後半の1日は、天安門の間近にある巨大な 中國國家大劇院 に会場を移し、前日までの<字体大赛の審査結果>が、信じがたいほどのはやさながら、発表され、展示され、受賞者の表彰式があり、審査員講演がなされと、なんともあわただしく、おおがかりなイベントが続いた。
講演の一番手はやつがれ。いい訳はしたくないが諸諸あって講演は失敗だったとおもう。

最終日は大石が担当。中央美術学院の大ホールで<小型活版印刷機による印刷演習>。
ここでも 字体大赛 の審査員四名の講演もあったが、最終講演となった大石担当分は、おおきな会場に、あまりにちんまりとした小型活版印刷機での講演とエクササイズであった。
この日の大石は五時間余におよぶ講演会の最終担当とあって、企業人はさすがに退席が目立ったが、学生諸君は、もっともわかりやすく、関心があったようで過熱気味であった。

なにしろ中國は国家体勢がいくぶん異なるので、北京大学(北大と略称)、中央美術学院、方正字庫との関連性や、書体コンクールの意味性が判然としなかった。
もちろん会場の知人にこの関連性を質問したが、「これが中國です」とかわされてしまった。
また一週間というもの、連日連夜の懇親会(大宴会)がつづき、下戸のやつがれにはかなりこたえた。
この三月下旬の喧噪にみちた訪中報告は、気持ちと情報の整理がつかないまま、いまなお実現していない。
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五月上旬は<Viva la 活版 ばってん 長崎>で長崎に全力投球であった。
そして五月下旬、清華大学美術学院の招聘で、また北京行きとなった。
もともと、この
の招聘は本コーナーでもお馴染みの、清華大学美術学院視覚伝達系の原 博(Yuan Bo)助教授のお招きで、昨年の暮れにはスケジュールが決定していた。
したがって北京大学系のイベントへの突然の招聘は、多分に清華大学行きを聞きつけての決定ともおもわれた。

ともあれ北京大学系のときは、連日連夜の宴会でとても疲労した。
ところが清華大学は原博先生はもちろん、主任教授の趙 健教授とも親しかったので、意志の疎通はスムーズで、夜は到着初日の歓迎会以外はほおっておいてくれるので助かった。

月・火・水と講義がつづいた。どこで聞きつけるのか知らないが、学内正規授業に位置づけられているのに、清華大学の学生だけでなく、中央美術学院、印刷大学ほかの大学の教授、学生、IT 系企業人も講義に参加していた。
三日間とも受講者は50-60名。集合写真を呼びかけ 「日本の WebSite にアップしますよ~」 といったら、女子学生を中心にキャッキャと逃げていった。いずこもおなじ学生諸君であった。 DSCN8089ホテルは同大内・指定の「甲所」。ここは広大なキャンパスの中央部に位置し、おもに招聘教師たちが宿泊する森の中の簡素なホテル。
留学生など短期滞在の学生は真向かいにある「丙所」を利用するようだが、カフェ兼レストランは教師陣と学生との共有で「甲所」にあるので、活気と国際色に満ちており、また中國の大学では卒業式を間近にひかえており、にぎやかだった。

わたしたちももっぱらこの「甲所餐庁 甲所レストラン」で朝食をとり、お茶・食事・懇談などをかわした。つまりキャンパスからほとんど出なかったが、ともかく無事終了でひと安心。 DSCN8137 DSCN8118 DSCN8152 DSCN8165 DSCN8056上掲写真の白い彫刻は原 博(Yuan Bo)先生のご主人にして、同校教授の陳 輝(Chen Hui)先生の作品。その後方に美術学院棟が四棟ならんでいる。キャンパス案内では、指定ホテル「甲所」からはここまで徒歩25分だが、やつがれには無限に遠い場所だった。

講義には方正字庫のスタッフも3名ほど参加していた。かれらは朗文堂のWebSiteをみているようで、なぜ報告記事が掲載されないのかとただされた。つまりすごいことだと報告しろと迫られた。ところがやつがれは実感無し。方正字庫のときも、清華大学のときも、いつもと、つまり新宿私塾と同じですから。 DSC04193しばらくしたら、原博先生から当日の写真データーを受領・紹介しますが、それまでのあいだ、下掲の記事は、前回も、今回も、連日参加されていた、中央美術学院の刘 釗(Liu Zhao 上掲写真右端)教授のブログサイトをご紹介。
刘女史は大石の講座を間近にみるのははじめてとあって、活版エクササイズには夢中でとり組まれていたので、その紹介は遅れ気味らしい。
刘女史のおはなしでは、このサイトには一日5,000件以上のヒットがあるそうです。
よろしければご笑覧を。結構笑えますよ。中国までいって恥をかくなよ ト。
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◯05月29日[日] 羽田発、北京入り。
◯05月30日[月] 北京清華大学美術学院 第一講座
学科長:趙 健先生挨拶、片塩講義大石担当でエクササイズ
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi4u.html
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi6f.html
◯05月31日[火] 北京清華大学美術学院 第二講座
原 博(Yuan Bo)先生挨拶 終日大石担当日 活版演習
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi6m.html
◯06月01日[水] 北京清華大学美術学院 第三講座
原 博(Gen Bo)先生挨拶、 片塩講義、大石担当でエクササイズ
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wil7.htm

長崎報告とあわせ、北京報告もお楽しみに。   朗文堂  片塩二朗  大石 薫

【展覧会】 創流90周年記念 草月いけばな展 <造形る!変化る!>

http://www.sogetsu.or.jp/event/2016shinjuku.jpg20160525170129538_0002
草月いけばな展 「造形イケる!変化イケる!」

創流90周年皮切りの本部主催展となる本展では、約300名の作家達が集い、創流の精神のもと植物に想いを解き放ちます。
会場は個人エリアと、合作エリアの2部で構成されます。
合作エリアは、「いけばな展の概念にとらわれない」をコンセプトに、通常の展覧会に見られるような花席を設定せずに、個々の発想を重視しています。
大きさも形も違うこれら全ての作品を、家元が受け止めて、作品が互いに共鳴しあうひとつの空間へ導いています。
新たな試み、挑戦ともいえる本展を皆様に是非ご覧頂きたく、ご来場を心よりお待ち申し上げます。
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◯ 会  場  新宿髙島屋 11階催会場
◯ 会  期  2016年6月2日[木]― 7日[火] 午前10時→午後8時
前期:6月2日(木)→4日(土) 後期:6月5日(日)→7日(火)
※前後期で作品が入れ替わります。詳細参照。
◯ 監  修    勅使河原 茜(草月流家元)
◯ 入場料    前売券¥700(税込) 当日券¥800(税込) ※15歳以下の方は無料

 【詳細 草月ニュース

【良書紹介】 渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営+〝ふうけもん〟か十八銀行:松田源五郎

 

20160520212058459_0001渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営
著者名 |水尾順一  田中宏司  蟻生俊夫 編著
判  型    | 四六判   頁数 260ページ
定   価   | 1,944円(本体1,800円+税)
ISBN 9784496051975          第1刷 2016年05月01日

「論語と算盤」にはその理念が次のように述べられている。 「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」 この理念のもと、ともすれば失われてしまいがちな企業の社会的責任について、現在の経営を根本から見直す。
【 詳細 同友館 OnLine
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{ 新宿餘談 } 長崎タイトル長崎では印刷界でも機械製造界でも、同市出身の平野富二が語られることはほとんどなく、活版印刷なら本木昌造が、機器製造なら岩崎弥太郎だけだと周囲にお伝えしてきた。
今回<Viva la 活版 ばってん 長崎>に各地から訪崎された皆さんは、その実態を眼前にして、やはり驚かれたようであった。

その逆に、三菱重工業長崎造船所(ながせん)の関係者で、懇親会に参加されたかたは、 「今回のみなさんは、平野富二さんに詳しくて、お好きですね~」 といささか呆れていた。

『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』 第11章 「算盤勘定だけでない企業経営/IHI」 の執筆者は、IHI 執行役員の水本伸子氏により、渋沢栄一が手がけた多くの事業の一環として IHI の事績を14ページにわたって、とてもわかりやすく、簡潔にまとめている。 とりわけ注目されたのは、
3. 渋沢栄一の貢献  (2) 最初の株主  であった。 

「有限責任石川島造船所」設立の1889(明治22)年、資本総額は17万5000円(1株100円)株主数は17人で計1750株だった。会社創立時の株主名簿は現存していないが、3年目の株主とその持ち株数が第3次営業報告に載っている(図表11-1)。渋沢、平野、梅浦、西園寺の4名は設立時委員を務めた。

図表11-1 最初の株主と持ち株数 (第3次営業報告書[明治25年]記載)
渋沢  栄一  400株
平野  富二  389株
松田源五郎  270株
田仲  永昌  250株
西園寺公成  150株
梅浦  精一  130株

渋沢栄一はともかく、またのちに同社社長となった梅浦精一のことは若干の知識があったが、ここに第三位の株主として、長崎十八銀行第二代頭取にして「長崎の渋沢といわれた人物」が登場することに興味をひかれた。 松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影たまたま小社に松田源五郎の外戚で、玄孫にあたられるかた(松尾 巌氏)が来社され、明治10年の松田源五郎の肖像写真(撮影:上野彦馬)を提供していただいた。
解像度は低いが一般公開はこれがはじめてとなるようである。

上野彦馬の台紙にみる「明治10年内国勧業博覧会」、このとき松田源五郎36-7歳。
この博覧会は、前年に新設された十八銀行支配人(のち第二代頭取・衆議院議員)松田源五郎が企画したもので、西南戦争の大混乱のさなかに、長崎諏訪公園のいわゆる丸馬場を会場として開催されたものである。

平野富二の創建による「石川島(平野)造船所」が、規模の拡大とともに資金需要がまし、渋沢栄一の助言と支援を得て「有限責任石川島造船所」(現 IHI )となった。
その筆頭株主は第一銀行頭取・渋沢栄一であり、第三位の株主として長崎の十八銀行頭取・松田源五郎が記録に登場するのは、この写真から15年ほどのちのことになる。 松田源五郎立像 戦前 長崎商工会議所 14-4-49353この諏訪公園丸馬場に、戦前は巨大な松田源五郎の立像があった。
この像はならびたっていた「本木昌造座像」とともに戦時供出されたために、いまはいくぶん小ぶりの胸像が設置されている。

この松田源五郎を〝ふうけもん〟と評した人物、長崎新聞に長く勤務した増永 驍がいた。
〝ふうけもん〟とは長崎ことばで、直截には馬鹿を意味する。いずれ詳細を紹介するが、おなじ馬鹿でも、もうすこし愛嬌のある馬鹿のことである。

増永は〝ふうけもん〟の本木昌造・西道仙・松田源五郎を主人公とし、脇役に平野富二・安中半三郎(東来軒・虎與トラヨ書房・素平連スベレン主宰)を配し、同名の小説『ふうけもん』をのこした。
たしかに紹介した写真をみても、冷徹な銀行人というより、長崎人に多い面長で、瞳は好奇心にあふれ、わんぱく坊主がそのまま成長したような風貌にもみえる。

また十八銀行は松田源五郎のころから平野富二の活字版製造(東京築地活版製造所)を終始支援し、同社の取締役にも就任している。
のちにも松田精一(十八銀行第五代頭取、衆議院議員)は、東京築地活版製造所の第五代社長も兼任していたほどの密接な関係にあった。

そのためもあり、すこし松田源五郎と十八銀行にこだわってみたいとおもっていた。そこで昨週末本書を読了した。
読者諸賢に、もっともソロバン勘定の苦手なやつがれが、『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』をお勧めするゆえんである。

 

インキローラー鋳型とその鋳込み法-欧文印刷の権威:小宮山清さんからお便りがありました

長崎タイトルDSC03576 DSC03579 DSC03586小宮山清氏。昭和6年2月26日うまれ。[1]インキローラー鋳型とその鋳込み法-Ink roller mould & ink roller casting

活版 à la carte : 2016年05月19日}に欧文印刷の大ベテラン:小宮山印刷工業の小宮山清さんからお便りを頂戴した。
小宮山さんは{Viva la 活版 ばってん 長崎}にご夫妻で参加され、{崎陽長崎・活版さるく}には最長老のおひとりだったが、終始若者にまじって、きつい坂道もものともせず行動をともにされていた。

もしかすると「小宮山印刷のおじいちゃん」(失礼!)と呼んで、親しくおつき合いされているアダナ・プレス倶楽部の皆さんは、この情報と、小宮山印刷工業  のWebsite  の詳細をみて驚かれるかもしれない。
名刺には「小宮山印刷工業株式会社   小宮山  清」とだけしるされている。会長だの顧問といった肩書きに類するものはまったくない。
ところが小宮山 清(昭和6年2月26日うまれ  8?歳)さんは、ページ物欧文組版、欧文印刷、高度学術書組版・印刷に関して、わが国有数の知識と経験を有されている。
【 関連情報 : 花筏 タイポグラフィ あのねのね*020
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[小宮山 清]
今回の長崎では貴重な物、珍しいところ、存分満喫させて頂きました。

会期終了の次の日に「日本二十六聖人殉教地(西坂公園)」の記念館に寄ってきました。宮田和夫様に長時間ご案内していただき申し訳なかったです。 特に上智大学(イエスズ会)のことで共通の話題などがありました。  

帰りがけに記念館のショップで、雑誌「楽」を買ってきました。 本木昌造、平野富二、二十六聖人のことが書かれてまして。今回の旅行のためのようでしたが、宮田さんがこれを執筆されたのは2012年の発行なのでびっくりしました。
戦前派には欠かせない「原爆資料館」にも行ってきました。本当に楽しい旅行でした。 有難うございました。

ローラー鋳型の写真   20160523222018610_0001 20160523222018610_0002 20160523222018610_0003 20160523222018610_0004『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』 (活版製造所 平野富二 伝明治10年版 平野ホール蔵) p.102 右肩にインキローラー鋳型が MOULD とされている図版記録をみる

最近の朗文堂のブログで見たのですが、インキをつけるローラーの鋳型のことです。
これはとても貴重な写真です。
わたしの手もとには見当たらないので、
よろしかったら、この写真のデーターを送って頂きたいのですが。  

これはわが家にもありましたが、戦前にテキンを購入すると附属品としてついてくるものでした。戦前のインキローラーは、ゴムではなく「にかわ」でした。夏になると印刷中にとけてしまってとても大変でした。
戦前でも勿論ローラー屋さんがあって「たき替え」をしてもらいました。 古いローラーをもう一度「煮なおし」て、各印刷屋に届ける商売です、ローラー屋さんの工場の中は湯気でもうもうでした。

戦後の復興にあたり、わが家でも昭和22年にまたテキンを設備しましたが、ローラー屋さんがまだ再開していなかったので、「にかわ」を買ってきて、テキンと一緒についてきたローラー鋳型でローラーを作って印刷したりしました。  

私事ですが、山の会の友人で印刷用ローラーを作っている知人に、昔は「にかわ」を使って印刷のロールを作っていた事を話した事があります。 この写真を見たとき、これは、どうしてもその知人(『ゴム工業便覧』1,300ページの図書の著者)に、この写真を見せなければと思い、このメールを書いた次第です。

{Viva la 活版 ばってん 長崎}13 新町活版所・境賢治と 貴重資料 インキローラー鋳型 Ink roller mould

長崎タイトル

2-1-49043 32-1-49545-2<Viva la 活版 ばってん 長崎>主会場となった長崎県印刷会館に、長崎新町活版所の境 賢治(1844-?)が明治期に使用していたとされる「インキローラー鋳型 Ink roller mould」が所蔵されている。
きわめて貴重なものではあるが、平素は収蔵庫のなかにしまわれている。今回のイベントに際し、これも貴重品の同館所蔵の「アルビオン型手引き印刷機」二台とあわせ、主会場中央に展示した。

設営日に一時間ほどをかけて清拭し、機械油で注油もして、脇には日吉洋人氏製作のB4判の解説パネルもおいて展示したが、なにぶん今回はコンテンツが多すぎて、この一見地味な機具はあまり注目はされなかったようである。
なにより会場写真として「インキローラー鋳型 Ink roller mould」をアップして撮影した資料はまだ手もとには到着していないのが現状である。したがって「インキローラー鋳型 Ink roller mould」の写真紹介は、前日に収蔵庫にあったときのものを紹介する。
総鉄製で重量は20キログラムほど、重厚感と迫力のあるものである。
DSC03576 DSC03579 DSC03586  インキローラー鋳型1030949

インキローラー鋳型とその鋳込み法
Ink roller mould & ink roller casting

【 roller casting 】  Walzenguss
膠ローラーの鋳込み。インキローラー鋳型(mould)は、円筒状もしくは半円筒状のものを合わせて円筒にしたもので、この筒孔の中心に鉄心棒(roller stock)をたてて、液状のローラー材料(roller composition)の融解せるものを流しこんだり、圧搾空気で注入してインキローラーを製作する。いずれの方法によるも、表面に気泡の生ぜざるように注意するを要す。
『英和 印刷-書誌百科辞典』(日本印刷学会、昭和13年1月15日、印刷雑誌社)

このように、翻訳書としてインキローラー鋳型とその鋳込み法(Ink roller mould & ink roller casting)を解説した『英和 印刷-書誌百科辞典』(日本印刷学会、昭和13年1月15日、印刷雑誌社)は、現在はいわゆる『印刷辞典』の第一版とみなされている。

ところが、第二版以降は、この項目は省略されて第五版にいたっている。
すなわち明治の末ころになるとインキローラー専門の工場が誕生し、一般にはこの機器の解説が不用となったためのようである。
機器や技術の変転がはげしかった「印刷」をつづった『印刷辞典』には、版を重ねるごとに、このようにふるい機器や技術の記載は、仕方がないとはいえもれている事例が多い。

インキローラー(ink roller)は、印刷インキを練ったり、印刷版面にインキをつけたりするための丸棒である。活字版印刷では、ふるくは皮革製のインキボール(タンポとも)をもちい、近年ではニカワ製のインキローラーが多くもちいられてきた。印刷の品質に関わる重要な機材のひとつである。

67現在では一定の耐久性のあるゴム製ローラー、合成樹脂製ローラーが多く使われている。明治中期ころのニカワローラーは7-10日ぐらいで摩耗・劣化がみられ、職人がみずから「巻きなおし(たき替え・煮なおし)」作業にあたっていたとされる。
日日の清拭作業、使用状況と保存状況によるが、いまでも、ときおりは鉄心棒(ローラー軸)と両端のコロを添えてローラー専門工場に依頼し、「巻きなおし」作業が必要になる。
この作業は「養生」を含めて相当の日数を要するため、本格印刷工場ではインキローラーをはじめから交換用予備を含めて複数セットを設備することが多い。

現在ではインキローラー専門の製造・巻きなおし工場も充実している。そこでは耐久性にすぐれたゴムローラーの製造がほとんどで、まれに簡便な樹脂ローラーをみるが、かつては臭気がつよい天然ニカワ(膠)をもちいて、作業者自身が煩瑣な「インキローラー(境賢治は肉棒としるしている)巻きなおし」を頻繁に実施していた。

境 賢治長崎新町活版所の境 賢治(1844-?)が使用していたとされる「インキローラー鋳型 Ink roller mould」が長崎県印刷工業組合に所蔵されている。 またその鋳込み法(ink roller casting)に関する記録が『本邦活版開拓者の苦心』にみられるので紹介する。

我が国初期の肉棒研究者 長崎新町活版所
境 賢治氏 ── 煮方の秘奥を公開す ──

膠ローラーに就いては、今日尚、研究している人が多いくらいであるから、明治初期の関係者が如何に多くの苦心をこれに費やしたかは恐らく想像外であろう。本木[昌造]先生の創設された新町活版所に在って霊腕ママを振るっていた境賢治氏は、明治十年頃から、膠に色々の物を混合して、ローラーの耐久力に関する研究をしていたものである。

明治二十三年になって、其当時としては稍稍理想的なるものを発見することが出来たと云うから、研究にだけ(でも)十何年かを要したことになる。
然るにこの尊い経験を惜しげもなく一般に公開したのであるから、昔のひとは流石に寛容で恬淡で何となく大きいところがあったように思う。
[境賢治]氏の経歴其の他に就いては、調査未了なまま惜しくも省略して、此処には単に氏が公開した肉棒煮方秘訣の一文を記載することにした。

拝啓 ローラーの煮き方に就いては、貴所も随分御苦心致し居られ候も、今回当所にては、肉棒を練るに塩を少々宛入れて練り、殆ど一ヶ年間試験を致し見候処、暑寒により塩を増減し、冬分は膠八斤一釜に塩十六匁を加えて煮き、夏は塩四匁、此割合を用いれば肉棒堅くなること普通法より長く日数を保つのみならず、煮直しをなす時にも早く砕くるに付、其利益莫大なり、最も之は昨春以来当所に於て試験の成績に有之候故宜敷御心懸御実験可然と奉存候。其煮直しにも是迄十日間保つものは十五日間位は必ず差支無之候間兎も角御実験可然と奉存候。
二白 砂糖蜜又は蜂蜜は是迄の如く膠に加え候上に塩を加う事に御座候。
明治二十四年五月
長崎新町活版所  境    賢  治
「わが国初期の肉棒研究者 長崎新町活版所 境 賢治氏-煮方の秘奥を公開す-」 『本邦活版開拓者の苦心』 (伝三谷幸吉執筆、津田伊三郎編、津田三省堂、昭和9年11月25日、p.171-172)

このように境賢治の記録を『本邦活版開拓者の苦心』(昭和9年)にのこした三谷幸吉は、境賢治とは面識がなかったとみられ、半世紀余も以前の、たれに向けたのか判然としない境賢治の書簡を紹介するのにとどまっている。
長崎の新町活版所は、おおくの逸材が大阪・横浜・東京へとあいついで去り、新街私塾(新町私塾)関係者としてはひとり境賢治が孤塁をまもっていた。
ちなみに文末の「二白」は追伸と同義である。

 この新町活版所の孤塁を守りつづけたとされる境賢治に関する記録はすくない。
このすくない記録を整理すると、境賢治は1844年(弘化元)にうまれ、明治帝の最末期に贈位にもれたひとを詮議した1911年(明治44)には67-68歳で健在であったようである。
またこの世代の長崎印刷人の多くは新町私塾の終了生であったが、境賢治は塾生としての記録は見ない人物である。

わずかに『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 朗文堂 p.353)に肖像写真と以下のような記録をみる。
境 賢治20160519202753637_0001

 

 

 

 

 


本木昌造御贈位の詮議があった明治四四年(1911)のころには、長崎在住のおおかたの本木昌造の友人や子弟は物故していたが、高見松太郎(新町私塾出身 貿易商)、岡本市蔵(新町私塾出身、同塾会計掛をつとめた。長寿をたもち反物商)、立花照夫(新町私塾出身、長崎諏訪神社宮司)の三氏が健在で、ほかにはわずかに長崎新町活版所の境賢治(1844-?)が長命をたもっていた。したがって本木昌造の事績調査は主としてこの四名がその任をつとめたのである。

《活字組版術に長けたひと 長崎新町活版所/境賢治による『聖教歴史指南 完』》
本木昌造一門のうち活版印刷術の技術者の多くは、紙幣寮(印刷局)、大阪活版製造所、東京築地活版製造所などに旅立ったが、長崎に残留したのが境賢治であった。

境賢治がのこした印刷物は『長崎新聞』(初代)、『西海新聞』などの新聞印刷のほかにも数点しられるが、『長崎古今学芸書画博覧』(西道仙 海人艸舎蔵版 明治13年 新町活版製造所)、『書画雑記』(筆記幷出版人・西省吾 肥前長崎区酒屋町51番戸 西道仙か?)など大判の枚葉印刷物も多い。すなわち明治12年頃の新町活版所には、手引き印刷機ではなく、相当大型の円圧シリンダー型の印刷機があったと想像されるのである。

 ここに紹介したのは冊子本で『聖教歴史指南 完』(米国聖教書類会社蔵版 明治17年5月)である。「聖教」はキリスト教の意であり、また聖書をも意味した。
最終ページには、振り仮名(ルビ)以外にはあまり使用例をみない「七号明朝活字」字間二分アキで、
「 印 行 長 崎 新 町 活 版 所 」
とちいさくしるしている。
聖教歴史指南 表紙 聖教歴史指南扉 (この項つづく)