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去りゆく夏を惜しんで-アルテピアッツァ美唄 安田侃<こころを彫る授業>開催

安田侃の<こころを彫る授業>のお知らせ
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彫刻作品 : ひとつがふたつ 安田 侃 Kan Yasuda 作  Photo:Hiroo Namiki

2013年の<Viva la 活版 -すばらしき活版>イベント、Viva la 活版 Viva 美唄>の開催地、アルテピアッツァ美唄から夏のたよりをいただきました。
ことしの夏は、北海道美唄でも30℃を超える日がおおく、冬期の暖房設備ばかりで、空調(冷房)設備のすくない美唄ではかなりつらかったようです。
アルテピアッツァ美唄恒例の <こころを彫る授業>ですが、今回は安田 侃カン氏を講師として開催されます。直前のご案内となりましたが、ご関心のあるかたはご参加ください。
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安田侃の<こころを彫る授業>
◯ 日   程 : 2015年 ①8月29日(土)、30日(日)受付終了  ②9月12日(土)、13日(日)
◯ 場   所  :  アルテピアッツァ美唄 ストゥディオ・アルテ 

◯ 時  間 : 各日 10:00-16:00  
◯ 締  切 : ① 8月20日(木)受付終了   ② 8月31(月)
※ お申込み多数の場合は、初めての参加の方を優先します。ご了承ください。
◯ 参加費 :

一        般       /    15,000円(白大理石) 10,000円(軟石) 
高校生・大学生  /     10,000円(白大理石)    6,000円(軟石)        
中学生以下       /       9,000円(白大理石)    5,000円(軟石)
◯ お申込・問合せ : アルテピアッツァ美唄ギャラリー  TEL (0126)63-3137
◯ 主   催 : 認定NPO法人 アルテピアッツァびばい 

【 詳細情報 : アルテピアッツァ美唄 イベント

相響するふたつの美術館 【碌山美術館/新宿中村屋サロン美術館】, 荻原碌山と相馬黒光 ― その相剋と懊悩

愛は芸術、相剋は美なり - Love is Art, Struggle is Beauty.
―― 荻原碌山


平成27年度 夏季・秋季特別企画展
荻原碌山 制作の背景-文覚・デスペア・女

会  期 : 2015年08月01日[土]-11月08日[日] 会期中無休
会  場 : 碌山美術館 第二展示棟    399-8303  長野県安曇野市穂高5095-1

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荻原守衛   《 女 》
作者名 : 荻原守衛 制作年 : 1978年
鋳造サイズ : 98.0×70.0×80.0 cm  技法/素材 : ブロンズ

この彫刻作品は、荻原守衛(碌山)の絶作です。
膝立ちのポーズで、両手を後ろに組んでいながらも前へ上へと伸び上がろうとする胴体。
立ち上がろうとしながらも膝から下は地面についたまま立ち上がれない。
つま先から額までが螺旋構造となり、不安定なポーズでありながら全体の動きの中で統一された美しさを放っています。
また内側から迫ってくる緊張感と力強いエネルギーが観るものを圧倒します。

荻原は、1910年(明治43)に 《 女 》 の石膏像を完成させて亡くなりました。 同年、山本安曇によって鋳造され、その半年後の第 4 回文展に出品されています。その作品は現在、東京国立近代美術館に所蔵されています(重要文化財)が、本作品は、のちに制作された石膏複製より鋳造されたものと考えられています。
[ 上掲写真は新宿中村屋サロン美術館 所蔵/引用許可取得済み]
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荻原守衛(おぎわら もりえ 号 : 碌山 ロクザン 1879-1910年)が残した傑作 《女》(1910年)は、相馬黒光への思いが制作の動機となっています。この作品をより深く理解する上で不可欠なのが 《文覚》(1908年)、《デスペア》(1909年)の二つの作品です。

鎌倉の成就院に自刻像として伝わる木像に、文覚モンガク上人(平安末期-鎌倉時代の真言宗の僧。1139-1203)の苦悩を見て取って制作した《文覚》、女性の悲しみに打ちひしがれる姿に文字通り絶望(despair)を表わした《デスペア》には、当時の荻原の胸中が重ねられています。
最後の作品となった《女》には、それらを昇華した高い精神性が感じられます。それはまた人間の尊厳の表象にもつながるものなのです。

個人的な思いを元にして作られた作品が、普遍的な価値あるものとなっていることは、百年前の作品が現代の我々の心に響いていることからも容易にうなずくことができます。
作品に普遍的価値をもたらした荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの当時における新しさとを、多くの方々に感じ取っていただこうと本企画展を開催いたします。

20150724142207024_000120150724142207024_0002  [上掲フライヤー PDF  rokuzan-bijyutukan 4.5MB ]

[ 季節違いで恐縮だが、以下の碌山美術館の写真は、昨晩秋の2014年11月21日撮影 ]
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DSCN9437DSCN9439DSCN9446DSCN9442DSCN9466 [ 参考資料 : 『 碌山 愛と美に生きる 』 碌山美術館 平成19年 第三版 ]
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《 新宿餘談-荻原守衛 碌山 、女 をんな  ………… 》

愛は芸術、相剋は美なり - Love is Art, Struggle is Beauty.
―― 荻原碌山

菓子匠:新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵 ・ 相馬 良 リョウ(通称:黒光コッコウ)夫妻は、1901年(明治34)本郷でパン屋 「 中村屋 」 を創業した。 そして1909年(明治42)には、新宿の現在地に本店を移転した。
相馬夫妻は芸術に深い造詣を有していたことから、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人が出入りするようになり、 それが「中村屋サロン」のはじまりとなって、現在は「 中村屋サロン美術館 」として公開されている。

中村屋サロンの中心人物は荻原守衛 (おぎわら-もりえ 以下 碌山 ろくざん 1879-1910 行年30 )であった。
碌山は、相馬愛蔵と同郷の 長野県 南安曇郡 東穂高村 ( 現 : 安曇野市穂高町 ) の出身で、18歳のとき、相馬 良 ( 以下 黒光 コッコウ ) が嫁入りの際に持参した、長尾杢太郎 の《亀戸風景》 の油絵ではじめて油絵を知り、画家を志したという。

最初はアメリカに、まもなくフランスにわたり、極貧にあえぎながらの海外研修は07年余におよび、画家志望から彫刻家に転向した碌山が帰国したのは1908年(明治41)のことであった。帰国後は中村屋のほどちかく、新宿角筈ツノハズにアトリエを設け、中村屋に足しげく通った。
碌山は帰国からわずか02年余ののち、結核のために1910年(明治43)、30歳の若さで歿した。その最後の作品が「女 をんな」であった。
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愛は芸術、相剋は美なり - Love is Art, Struggle is Beauty.
―― 荻原碌山

はじめて彫刻作品「女 をんな」をみたとき、おもわず全身に鳥肌がたった。そして、碌山が黒光と出逢ってからの18年ほど、狂おしいまでの懊悩にみちた歳月をおもった。
東北・仙台のひと、黒光が、山里ふかい安曇野で碌山のまえにあらわれたとき、黒光はすでに相馬愛蔵の妻であり、手の届かないところにいた。

こいしいこととは、かなしいことである ―― それからの18年余の碌山の人生とは、ただただ相剋と煩悶と懊悩の日日でしかなかった。

帰国した碌山は、すでに労咳におかされていた。当時の労咳は死の病であった。
そのやせ衰えた碌山のまえに、黒光は輝くばかりの裸身を挺した。碌山はせわしなくおもいびとの裸体のスケッチをかさね、石膏像を刻みだした。
そして銅像としての完成をみないまま、中村家の襖を緋アケにそめて喀血し、そのまま息をひきとった。

散るとみれば また咲く花の にほひにも 後れ先立つ ためしありけり
―― 西 行

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《 新宿餘談-碌山美術館門前の蕎麦は絶品だった 》

昨年の晩秋に所用があって長野県白馬村にでかけた。そのかえりに碌山美術館をおとづれた。北アルプスの高嶺にはすでに冠雪がみられ、木木もすっかり落葉して、館の庭にはカリンが拾うひともないままに実をたくさんつけていた。
碌山美術館のギャラリーショップ「グズベリーハウス」では、すでに薪ストーブが赤くもえ、そのぬくもりがうれしかった。

「かた 型」のあるものが好きである。「カタ TYPE」とは「定まったカタチ TYPE」を有するものである。だからタイポグラフィ Typography にこだわりがあるし、彫刻にもかなりのこだわりをもっている。
ほんとうはここで荻原碌山と相馬黒光のことを書きたかった。労咳に仆れた碌山がのこした「女 をんな」像は、銅像ではなく、その原型「かた Type」でもあった。
ところが、非才にしてそれに迫ることはならなかった。そこでありきたりの蕎麦談義と、つまらんお国自慢になってしまった。
読者諸賢のご海容を願う次第である。
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信州信濃、田舎うまれやつがれは、蕎麦にはこだわりがある。
なにもない、蕎麦だけの「盛り蕎麦」がこのみである。せっかくの香りをとばしてしまう、絆創膏を貼りつけたような海苔や、いかに地元の特産とはいえ、とってつけたようなワサビもいらない。
信州蕎麦には、古来、信州善光寺大門町/八幡屋磯五郎の「七味唐がらし」ときめている(勝手に)。ちなみに「七味」が「ヒチミ」になって発音がつらい東京者(亡妻がそうだった。日比谷はシビヤ)は「七色唐辛子 ナナイロ トンガラシ」である。つまり、ただ蕎麦だけがあればよい。

碌山美術館の正門の前にちいさな蕎麦屋があった。蕎麦処信州でも、いまやなかなか旨い蕎麦にありつくことが少なくなった。はじめて入った店でもあるし、さして期待もせずに、
「大盛りの、盛り蕎麦一枚」
と注文した。そこで一瞬の間があって、店員いわく、
「あの~、ウチの盛りはいくぶん多めなのですが、よろしいですか」
「ああ、結構ですよ。大盛りの蕎麦をください」
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出てきた「大盛り蕎麦」のボリュームにのけぞった。東京ならふつうの「盛り蕎麦」五枚分はたっぷりありそうなたいそうな量の蕎麦だった。
最下部写真の手前が、家人が注文したふつうの「盛り蕎麦」。これだけで東京の「大盛り蕎麦」より分量はありそうだった。その倍量がこの店の「大盛り蕎麦」だった。

食べはじめたら、これが絶品。これぞ、まさしく蕎麦という、腰と香味のある旨い蕎麦だった。
おもへらく、かまで旨い蕎麦を食したのは、子供のころにオヤジの実家で、あるいは戸隠山の山中で、あるいは長野善光寺のちかく、地元客しかいかない蕎麦屋くらいであろうか。
これらの蕎麦で共通していたのは、いずれも水道水をもちいないことのようだった。そもそもオヤジの実家以外の蕎麦屋の蕎麦粉は、いまや蕎麦畑をみることもほとんどなくなった信州でも、おそらくは輸入品であろうし、東京でも信州でもおなじものであるとおもわれた。

その食感がはなはだしくことなるのは、蕎麦は、蕎麦うちからはじまって、茹で、水洗いと、大量の水をもちいる。そして付け汁の煮出しにも水がもちいられている。しろうとかんがえだが、この水が水道水だと、どうしてもカルキ臭くなって蕎麦の食味にも影響がありそうである。
たしか碌山美術館正門前、駐車場脇の蕎麦屋は「寿々喜/すゞき」といったとおもう。このあたりは、北アルプスの湧水が随所にわく。安曇野の銘水はひろく知られるところである。碌山美術館参観の折にはおすすめしたい。
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ところで、新宿朗文堂のちかくにも、なかなか旨い蕎麦屋がある。屋台のような、素朴でちいさな店だが、寡黙なオヤジと、その娘らしきふたりのおばさんが店を切り盛りしている。
なぜここの蕎麦が旨いのかと、画材の世界堂にいった帰りに店の裏をのぞいてみた。そこにはちいさな店には不似合いの、おおきな浄水器が鎮座していた。

この店は冷暖房もほどんどない、吹きさらしにちかい店なので、客の大半は蕎麦と酒好きの中年オヤジとみた。オヤジに連れられて若者も来店するが、かれらは軽薄に掲示板型の「食べ◯◯」などに情報をながさない。そんなことをしたら、多忙のあまりオヤジは過労死し、おばさんふたりは腰痛か疲労骨折かなにかで閉店するに違いないとおもっている。
だから常連客は、店がたて込んでいれば、冷や酒一本と、盛り蕎麦一枚ですますし、すいていれば、山菜の天ぷら、自家製の漬けものなどをとって、たのしく談笑しているのである。
新宿邨もなかなかすてたものではない。

【 既出情報 : 朗文堂ニュース 新宿中村屋サロン美術館開館と、相馬黒光、荻原碌山のこと。2014.11.28 】
【 詳細情報 : 碌山美術館 /  関連情報(姉妹館) : 新宿中村屋サロン美術館

残暑お見舞い & 新塾餘談 おもかげのはし

2015残暑見舞い
《 新 宿 餘 談 》

七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき

新宿区神田川に架かる「 面影橋 」ちかくの空き地に咲いていた名をしらぬ野艸。
このあたりは、江戸千代田城の築造者とされる 太田道灌 の逸話にちなむ「山吹の里」の地とされ、江戸時代・明治時代には名所のひとつであった。いまは山吹はみあたらないが、橋のたもとにそれをつたえる記念碑がひっそりとたたずむ。 DSCN0022DSCN0034DSCN0041DSCN0030DSCN0046DSCN0049DSCN0052いまではなんの風情もないコンクリートの橋ではあるが、この橋は歌人:在原業平がきよらかな水面にその姿をうつしたことから「姿見の橋」とも、あるいは徳川三代将軍家光がこのあたりで鷹狩りの鷹をみつけて名づけた橋ともされる。
「おもかげのはし/俤の橋」の名は、和田於戸姫なるものが、かずかずの悲劇をなげいて、この水面に身をなげうったときの和歌から名づけられたとする。

いずれにしても、漢字だけの「面影橋」よりも、どれもが風情のある名前ではある。
その「おもかげのはし」のたもとに水稲荷神社があり、そこのおおきなマンションに友人が事務所を開設していた。その友人「松本八郎」が逝って、はやいものでまもなく一年になろうとしている。夏の夕まぐれ、「おもかげのはし」をたずね、クレマチスの真っ白な花弁を見ながら、勝手に先に逝った友人を偲んだ。

【寄贈式】 江川活版製造所、江川次之進活字行商の図-武蔵野美術大学美術館・図書館と冨沢ミドリさん

『タイポグラフィ学会誌 07』所収、研究ノート「江川次之進の事績と江川活版製造所の変遷」(タイポグラフィ学会 江川活版製造所研究会/板倉雅宣、内田 明、大石 薫、片塩二朗、松尾篤史 2014年11月30日)の資料となった「江川次之進活字行商の図」が、2015年06月12日、武蔵野美術大学美術館図書館に寄贈され、江川家縁者/冨沢ミドリ氏ほかも列席されて寄贈式が終了いたしました。

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この画軸は江川家・旦丘アサオカ家曽孫/冨沢ミドリ氏が長年にわたってたいせつに所蔵されていたものですが、右手に描かれていた「活字ホルダー」が奇縁となって、一旦朗文堂が保管にあたり、タイポグラフィ学会の資料として提供させていただいたものです。

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【 関連情報 : タイポグラフィ学会 NEWS
 

ここに『タイポグラフィ学会誌 07』所収、研究ノート「江川次之進の事績と江川活版製造所の変遷」(江川活版製造所研究会/板倉雅宣、内田 明、大石 薫、片塩二朗、松尾篤史)も発刊されましたので、所蔵者:冨沢ミドリ氏のご意向をうけ、長期保存に対応していただける寄贈先を探しました。

幸い武蔵野美術大学/新島実教授をつうじて、武蔵野美術大学美術館・図書館への所蔵をひきうけていただき、同館館長/赤塚祐二教授、司書長/本庄美千代様、新島実教授、寺山雄策教授のお立ち会いをいただき、タイポグラフィ学会からは、山本太郎会長、小酒井英一郎理事、大石 薫、片塩二朗が同席いたしまして、無事に寄贈式を終了いたしました。

この間、タイポグラフィ学会、江川活版製造所研究会の皆さまの多大なるご協力をいただきました。箱書きは会員/伊藤 恵さんにお願いいたしました。皆さまのご協力にふかく感謝をいたします。
DSCN9980 DSCN9981 DSCN9983 DSCN9982 DSCN9993 DSCN9990DSCN9976 箱書き表 箱書き裏
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【再掲載】 平野富二と活字*16 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅲ 明治初期の偉人たち-2

『VIVA!! カッパン』活字ホルダー紹介 活字ホルダーをもって立つ冨澤ミドリさん 江川次之進活字行商の図 部分拡大s 江川次之進活字行商の図 全体図s 江川次之進活字行商図 江川次之進肖像写真

《すべてのきっかけは活字ホルダーと、一本のお電話からはじまった》
朗文堂 アダナ・プレス倶楽部のWebsiteでは、数度にわたって〈活字ホルダー〉を取りあげてきた。当初のころは、この簡便な器具の正式名称すらわからなかった。
その後、アメリカ活字鋳造所(ATF)や、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所の、20世紀初頭のふるい活字見本帳に紹介されている〈活字ホルダー〉の図版を紹介し、いまではふたたび、その名称と使用法は広く知られ、新製品も発売されるようになった。

『VIVA!! カッパン♥ 』 (アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月21日 p.64)
〈活字ホルダーの紹介。下部は〈活字狂を自他共にゆるした故志茂太郎の愛蔵品〉

《ご先祖様、江川活版製造所:江川次之進の遺影と肖像画があるのですが…… 》
ある日、アダナ・プレス倶楽部のWebsiteをご覧になった、江川活版製造所の創業者・江川次之進の直系のご子孫だという女性から、お電話をいただいた。
「曾祖父の江川次之進の遺影と、掛け軸になった肖像画があるんですが、右手に持っているものがなんなのかわからなくて。ですからこの絵がどういう情景を描いたものかが分からなかったのですが、これが〈活字ホルダー〉なんですね。おかげで、曾祖父が若い頃に活字の行商をしていたというわが家の伝承がはっきりしました」

この女性は、現在は長野県北安曇郡白馬村でペンションを経営されている。最初にお電話をいただいてから少し時間が経ち、お身内のカメラマンの手による、江川次之進の遺影と肖像画の鮮明なデジタルデータをご送付いただいた。
また掛け軸は江川家側で修復されたものをお預かりした。この貴重な資料は研究レポートの刊行後に、しかるべき施設に寄贈の予定(今般、武蔵野美術大学美術館・図書館に寄贈)となっている。

【タイポグラフィ・ブログロール 花筏 ──── 関連情報】
◎ タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料
◎ タイポグラフィあのねのね*010 江川次之進とアルビオン型印刷機
◎ タイポグラフィ あのねのね*018 活字列見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート02
◎ タイポグラフィ あのねのね*020 活字列見 or 並び線見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート09

《江川活版製造所と江川次之進の研究は一瀉千里で進行した》
その後、江川活版製造所とその創業者:江川次之進の研究は、やはりWebSiteをご覧になったハワイの造形家から、江川活版製造所が製造したアルビオン型手引き印刷機の画像が紹介されるなどして、一瀉千里の勢いで進行した。
その研究成果は、まもなく公表・公刊されると仄聞している。楽しみにまちたいものである。(『タイポグラフィ学会誌 07』所収、研究ノート「江川次之進の事績と江川活版製造所の変遷」 タイポグラフィ学会 江川活版製造所研究会/板倉雅宣、内田 明、大石 薫、片塩二朗、松尾篤史 2014年11月30日)
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この間も苔掃会は、地道に基礎資料の発掘にあたっていた。とりわけ苔掃会肝煎り/松尾篤史氏は、既存の資料にたよらず、谷中霊園周辺の墓地を丁寧な観察をつづけていた。
 ここでは、こうしてあらたに発掘された資料を中心に紹介したい。

谷中霊園とその周辺の寺からは、江川次之進があたらしい活字書体の開発のために、最初に着目した、書家にして教育者:中村正直マサナオが撰ならびに書をのこした碑文があらたに発見された。
また江川活版製造所の特徴ある「隷書活字」の版下をのこした久永其頴ヒサナガキエイと、印刷史研究家:川田久長の墓所もみつかった。
今回は平野富二そのものというより、その周辺にいた人物を中心に紹介したい。

B江川次之進肖像 B人物 B全体原寸サイズ B広告-第九号 B器具-扉 B扉-ホルダー 印刷大観広告  Egawa egawa    Egawa sun Egawa side egawa base VIVA62 B江川広告

《久永其頴 ヒサナガ-キエイ の墓所の発見》
知るところがまことに少ないのが久永其頴 ヒサナガ-キエイ である。
久永其頴は書芸家というより、むしろ実用の書、版下の書を多くのこした。また本名は久永多三郎であり、雅号として久永其頴をもちいていたことが墓地の発見からも明確になったが、墓誌は損耗がはげしく、また剥落が多くて、生没年などの読み取りは困難を極める。

久永其頴には、文字標本というか、著作というのか、『楷書千字文』、『行書千字文』、『帝国作文大全』などの書物がのこされている。そのうち発行部数が多かったとみられる『楷書千字文』はやつがれも所有しているが、本来入手を望んだのは久永其頴『行書千字文』であったこともあり、現在は探し出せないでいる。

幸い現在では〈国立国会図書館デジタルコレクション 久永其頴『行書千字文』〉は、デジタルデータで公開されているので、その特異な書風の一部を知ることができる。
また朗文堂タイプコスミイクでは、久永其頴の個性ある仮名書風をデジタルタイプとして再現した、欣喜堂:今田欣一氏の設計による、『和字 Ambition 9  ひさなが』 の販売もおこなっている。


ひさなが
久永其頴の墓所は、東京都台東区谷中6-2-8 自性院墓地にあることが今回松尾篤史氏によって報告された。自性院は川口松太郎『愛染かつら』ゆかりの寺であり、参拝客も多い。
また久永家の墓地は独特の書風の墓標で、現在も香煙がたえない。
墓誌は損耗が著しくてよみとれないでいるが、いずれご家族から取材ができたら、さまざまな資料が発掘される可能性もありそうである。

DSCN4040 DSCN4044 DSCN4039 DSCN4023 DSCN4029 DSCN4031【 関連情報 : タイポグラフィ学会 NEWS  「タイポグラフィ学会誌07」を刊行 2014.12.16 】
【 関連情報 : タイポグラフィ学会 NEWS  「江川次之進活字行商の図」寄贈式が終了いたしました  2015.07.13 】
【 関連情報 : タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料 2011.04.26 】
【 関連情報 : 花筏 平野富二と活字*16 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅲ 明治初期の偉人たち-2 2014.05.09 】

【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*04 島屋政一『本木昌造伝』における活字ボディサイズの新考証

『本木昌造伝』(島屋政一、朗文堂、2001年08月20日) は、1996(平成08)年07月、名古屋の旧津田三省堂(現ナプス)の筐底にひめられていた、島屋政一による未発表自筆稿本を原稿として刊行された。この時点で島屋政一氏はすでに物故していたとみられ、そのため著者校正を経ておらず、在庫僅少のいまではあるが、一部に正誤表を発表する必要が発生している。

すでに島屋政一『本木昌造伝』をご購入済みのかたは、お手数をかけて恐縮ながら、お申し出をたまわれば、正誤表とともに、板倉雅宣氏のご協力による索引を献呈させていただきたい。
あわせて島屋政一『本木昌造伝』には、わが国の活字ボディサイズと、そのシステムに関し、類書にない貴重な資料が掲載されていることが、いまさらながら判明した。
目下読者の一部と考査中であるが、追試をかさねてみると、きわめて注目すべき論考であり、精度の高い資料であることがあきらかになりつつある。ここにその一部を紹介したい。
20150421193950685_0003島屋政一『本木昌造伝』の序文にあたる「例言」には、このようにある。

筆者はすでに『印刷文明史』を著わし、本木昌造のことをしるしたが、いささか冗長にながれ、またいささかの訛伝の指摘もあった。
さらには畏友にして活字界の雄たりし、青山進行堂活版製造所・青山容三〔督太郎〕氏、森川龍文堂・森川健市氏の両氏から、活字の大小の格〔活字ボディサイズ〕のことのあらたな教授もえた。

この「例言」をうけたとみられる記述が『本木昌造伝』 p.117-120 にみられる。
そこでの島屋政一は、大阪の活字鋳造業者/青山容三〔督太郎〕氏、森川健市氏の両氏から、活字の大小の格〔活字ボディサイズ〕のことのあらたな教授をえて、
<わが国では近代活字版印刷の創始のころから、 号数制金属活字とは本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である >
としたそれまでのさまざまな著作、とりわけ『印刷文明史』での立場を捨てている。
それに代えて島屋政一は、

英国においてはトーマス・ハンサード(Thomas C. Hansard)が1825 年(文政08)に 『Typographia』 (原著:p.387–8) を著し、活字の標準化を提唱して、1 フィートにたいする活字の全角の個数〔本数〕の標準をつぎのように定めていた。
○ 一号  1 ft に32 本        Two-Line English 
○ 二号  1 ft に41 本1/2  Two-Line Small Pica
○ 三号  1 ft に56 本1/4     Two-Line Brevier
○ 四号  1 ft に64 本         English
○  五号  1 ft  に83 本    Small Pica
○ 六号  1 ft に112 本1/2    Brevier

とし、これまで<名前はあるけれど、寸法が無い>とされてきた、わが国の号数制活字の淵源を、「English 系統 一号、四号」、「Small Pica 系統  初号、二号、五号、七号」、「Brevier 系統 三号、六号、八号」であることを解明し、それぞれの活字ボディサイズを解明している。

ただしここで触れられた資料は、英国キャスロン社をはじめ、英国における大手の活字鋳造所において、すでに(1825年当時において)百年ほど、スタンダードとして採用されてきたものであるとされている
ところが「Small Pica 系統 初号、二号、五号、七号」は、こののちに、上海美華書館の技士/ウィリアム・ギャンブルによって、英国由来のものから変更乃至はあらたに追加され、米国 MSs & J 社の活字母型サイズの10.5 pt 基準によってボディサイズが制定されたとみられるので、初号、二号、五号、七号の活字ボディサイズに関しては後述をお待ちいただきたい。
 
さいわい原著『Typographia』 (Thomas C. Hansard,  1825 年(文政08),   原著:p.387–8)を所有していたため、遅ればせながら原典照合をしたところ、一部に著者によるあきらかな転記ミスがみられたので、下掲図にそれを正した図版をかかげ、また正誤表を作成した。
ハンサード扉 Typographia
現在、<朗文堂ちいさな勉強会 平野富二の会>の会員を中心に、この島屋政一説を追試・検討をかさねている。
現段階では、本項一回目に問題提起をした、
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム 】
のうち、わが国の近代活字が三つのグループに大別される理由として、ここに島屋政一が提起し活字ボディサイズにもとづくスケールをもちいての調査では、
① 一号活字、四号活字        → English 系統
② 三号活字、六号活字、八号活字 → Brevier 系統
とほぼみなしてよかろうという段階まで調査が進展している。

ところが現状では、わが国の五号活字のボディサイズは、明治最初期に本木昌造・平野富二らによって体系だてられてからずっと、Small Pica 10.5 pt 基準 とみられるものの、ほんの一部ながら、異なったサイズの標本がみられ、それが島屋政一が紹介した「五号 1 ft に83 本 Small Pica」にちかい数値を示していることまでが判明している。

以下は平野富二の東京本格進出を控えて急遽作製されたとみられる「天下泰平國家安全」の活字販売用見本(『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 巻末口上。ともに壬申二月〔明治05 年02 月〕)の製作のときに完成していた、活字ボディサイズの該当部を抜粋して紹介した。
この調査・研究はまだ端緒についたばかりであり、ひろく『本木昌造伝』愛読者、有意の皆さまの参加をお待ちしたい(サイズ分析の二画面は PDF 画面がひらきます)。

20150421193950685_000320150601175842929_0001 20150601175842929_0002『 新塾餘談 初編一 』巻末口上(活字ボディサイズ見本ならびに価格表 壬申二月〔明治05年02月、1872〕 刊、印刷博物館蔵 ) PDFデータ  】

◎ 関連既出情報
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*01 考察のはじめに 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*03   〔川田久長〕 活字の大きさとシステム
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*04  島屋政一『本木昌造伝』における活字ボディサイズの新考証

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朗文堂 愛着版

本 木 昌 造 伝

島 屋  政 一 著
朗 文 堂 刊

A5判 480ページ
口絵カラー写真20点、本文モノクロ写真172点、図版196点
上製本 スリップケース入れ 輸送函つき
背革にベラムのバックスキンをもちいて

ヒラにはコッカレルのマーブル紙をもちいました。

本書(索引・正誤表つき)は在庫僅少で、輸送箱の一部に汚損があるため、直販のみとし、一般書店では取り扱っておりません。
恐縮ながら、本書の入手をご希望の方は直接 朗文堂 ヘお申し込みください。
本体価格:16,000円(税・送料別)
【 詳細情報 : 朗文堂ブックコスミイク 本木昌造伝

【 目  次 】
・ 本木昌造の誕生から通詞時代

・ 長崎製鉄所時代の本木昌造
・ 近代活字創製の苦心
・ ガンブルの来日と活版伝習所の創設
・ 新街私塾と長崎活版製造会社
・ 長崎から東京へ/活版印刷術の普及
・ 本木昌造の終焉と本木家のその後
・ 凸版印刷と平版印刷、ライバルの登場
・ 印刷界の二大明星
・ 本木昌造をめぐるひとびと
・ 野村宗十郎とアメリカン・ポイント制活字
・ 印刷術の普遍化とわが国文化の向上
・ 印刷界の現状
・ 編集子あとがき

【 例    言 - はじめに 】
島 屋  政 一
わが国の印刷事業は、とおく奈良平安朝のむかしに寺院において創始され、久しきにわたって僧侶の手中にあった。 江戸期にはいって勅版がでて、官版および藩版がおこり、ついで庶民のあいだにも印刷事業をはじめるものがあらわれた。
寛文(1661-72)以後、木版印刷術おおいに発達して、正徳、享保時代(1711-35)からは木版印刷術が全国に普及をみたが、それは欧米諸国の近代活字版印刷術にくらべてきわめて稚拙なものだった。

幕末の開国とともに洋学が勃興して、印刷術の改善にせまられた。そのときにあたり、近代活字鋳造と近代印刷術の基礎をひらき、善く国民にその恩恵をひろめたものが本木昌造翁だった。

筆者はすでに『印刷文明史』を著わし、本木昌造のことをしるしたが、いささか冗長にながれ、またいささかの訛伝の指摘もあった。
さらには畏友にして活字界の雄たりし、青山進行堂活版製造所・青山容三〔督太郎〕氏、森川龍文堂・森川健市氏の両氏から、活字の大小の格〔活字ボディサイズ〕のことのあらたな教授もえた。
さらに筆者は、すぐる太平洋戦争において、おおくの蔵書を戦禍にうしなった。また青山進行堂活版製造所、森川龍文堂の両社はその活字の父型や母型のおおくをうしなっている。

このときにあたり、ふたたび、日本の近代文明に先駆して、開化の指導者としておおきな役割を演じた本木昌造の功績を顕彰し、それに学ぶところは大なるものがあると信ずるにいたった。
本木昌造はひとり近代印刷術の始祖にとどまらず、むしろ研究者であり教育者でもあった。
本木昌造の設立にかかる諸施設とは、むしろ「まなびの門」でもあったのである。

そうした本木昌造のあらたな側面を中枢にすえて本書をしるした。

  昭和24年10月20日
                              著 者 識

【 本木昌造伝 修整部 PDF  motogi-denn-syuusei 】

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