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宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-03 倣宋体活字書風に拘泥した毛沢東

DSCN0487 DSCN0476 DSCN0477 DSCN0471修復なった紫禁城(故宮)武英殿前で。 写真左から : 邢 立(Xing Li)氏、紫禁城内紫禁城図書館長 : 翁 連渓氏、やつがれ、朱 有福氏 (2013年11月)
DSCN7776 DSCN7780DSCN7799 DSCN7846 DSCN7804いくつかの用件があって、2015年正月早早、01月09日-12日にかけて北京を訪問した。
中国でも正月元旦は01月01日(新暦)で休日となるが、ことしは休暇を01日[木]-02日[金]の02日間としたために、04日[日]は出勤日となっていた。

中国でのお正月、「春節」は、むしろ旧暦で祝い、困ったことに毎年すこしずつずれている。
2015年は02月18日が大晦日で、18日[水]-24日[火]までの07連休となる。
 いくつかの企業では02月18日[水]-03月01日[日]までの12日間を特別休暇としている。
ともかく「春節」の前後一ヶ月ほどは、いかに勤勉な中国人といえども特別で、物流も滞りがちになり、注意が必要な時期となる。

その期間を避けてのあわただしい中国訪問であったが、11日[日]だけを休日として、沢園酒家(泽园酒家 北京市西城区南長街20号)を再度訪れた。
沢園酒家は紫禁城西華門からすぐちかく、政府要人が執務 ・ 居住(一般人は立ち入り禁止)する「中南海」に面した、中国湖南省料理を中心としたちいさなレストランである。
ここで一昨年、2013年の訪中時に、紫禁城図書館長 : 翁 連渓氏に昼食をご馳走になった。

DSCN7850沢園酒家は、毛沢東(Mao Zedong  1893-1976)のもとで、長年料理長をつとめたオーナーが開いたちいさな店であるが、故郷の湖南省料理が懐かしかったのか、しばしば毛沢東が訪れ、二階の個室では外国の要人とも会食していたことで知られている。 

この店の二階には小部屋が04室あるが、その壁面は毛沢東の写真で埋めつくされている。
そのひとつに油絵があり、晩年になっても読書欲が衰えがなかった毛沢東が、病床で読書をしている姿が描かれていた。
前回は撮りそこなったその絵画の写真を撮りたくて、中国の知人に個室を予約していただき、駆けつけた次第であった。

晩年の毛沢東は、好悪をはっきり表明するようになり、図書に関しても、活字書体、組版様式(誌面設計)、紙質、製本にまで厳格な要求が多かったとされる。
その状況の一端、たとえば絵画のなかで毛沢東は図書を丸めるようにして読んでいるが、それは重くて厚みのある、堅い上製本を嫌い、中国南方の竹を原料とした、軽くて腰の強い用紙をもちいたためである。
そんな様様を知ることができるのがこの絵画であった。
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そんな1970年代初頭の、いわば < 毛主席特別版図書 > を積極的に収集されているのが友人の邢 立 ( Xing Li ) さんである。

いずれ邢 立さんのご協力を得て、その周辺の情報もお知らせしたいが、今回は、いつもの劣悪な写真で恐縮ですが、邢 立さん愛蔵の < 毛主席特別版図書 > のほんの一部と、行草風のシグネチュア < 毛 沢 東 > の初号角の活字母型(電鋳法)だけをご紹介した。
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【 関連情報 : 花筏 宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-01  2014年04月23日 】
【 関連情報 : 花筏 宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-02  縁起 ものごとのはじめ 釈読

【講演会】 北島町創世ホール/山田太一 「 『早春スケッチブック』 がめざしたもの 」

山田太一先生講演会チラシ★オモテ20150208 山田太一先生講演会チラシ★裏20150208すっかり年の瀬も押しづまり、2015年の企画予告をいただくころになりました。
長年の友人、徳島の 小西昌幸 さんからいただいた、講演会のお知らせをご紹介します。
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山田太一講演会 「 『早春スケッチブック』 がめざしたもの 」

日   時 : 平成27年02月08日[日] 14時半開演
会    場 : 北島町立図書館 ・ 創世ホール 3 階 多目的ホール
入場料 : 無料
講    師 : 山田太一 ( 脚本家 ・ 作家 )
演    題 : 「 こんな家族を書きました~『 早春スケッチブック 』 がめざしたもの 」
主    催 : 北島町立図書館 ・ 創世ホール

◯ 恒例の創世ホール講演会に 「 男たちの旅路 」 「 それぞれの秋 」 「 ふぞろいの林檎たち 」 などの脚本家 ・ 山田太一さんが登場します。
◯ 戦後ホームドラマの極北といわれ、熱狂的な支持者を持つ伝説のテレビドラマ 「 早春スケッチブック 」( 1983年01月から03月、フジテレビ系 ) について語っていただきます。

【 企画詳細 : 北島町創世ホール 山田太一講演会
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2015年02月08日に徳島県板野郡北島町で開催する、山田太一さん講演会のチラシ画像をお送りします。
私が大好きなドラマ 『 早春スケッチブック 』 に的をしぼった冒険企画です。
企画内容には自信を持っていますが、人口02万人の四国の田舎の催しですので、多くの方のご支援が必要です。 チラシ画像をご活用いただき、ブログ、ツイッター、HP、クチコミ等々にて、宣伝ご協力いただけましたら幸いです。

私はあと 1 年 3 ヶ月で定年退職いたします。 一つ一つの企画を丹精こめて練り上げて、命を削って宣伝し、悔いのないように完全燃焼したいと考えています。

小西 昌幸 【 ウィキペディア : 小西昌幸
北島町教育委員会事務局長、先鋭疾風社代表、『 ハードスタッフ 』 編集発行人、58歳。
これは自宅からの電子書簡です。
【 自  宅 】
771-0204 徳島県板野郡北島町鯛浜字西中野81-1
先鋭疾風社
電      話 : 088-698-2946
携帯電話 : 080-6386-2946
電子住所 : hardstuf@mail3.netwave.or.jp

朗文堂好日録ー037 なにかとあわただしい師走です。【再掲載】 ポストカード postcard と クリスマス Christmas

uparunn DSCN4450 DSCN7406 DSCN9509ひさしぶりに < 朗文堂好日録 > をばしるさむ。
世間様では 「 師走 」 とて、なにかとあわただしいきょうこのごろである。 おまけにこんなときに、身勝手にもほどがあろうかという、衆議院議員選挙までかさなってしまった。

まぁそんな世間をよそに、わが家のサラマンダー、珍獣ウーパールーパーは、初代のアルビノこそ飼育に失敗したものの、「 ウパルン 」 「 ウパラン 」 の二匹とも、アイスクリームのカップに入ってやてきたとはおもえないほど、おおきくなったし、元気いっぱいである。
ふだんは海底に潜む潜水艦さながら、水槽の下にへばりついて運動不足が心配されるが、お腹がすくと、水草も蹴倒して餌の催促である。

従順な犬や猫がかわいいのはあたりまえだが、「 火喰い蜥蜴 トカゲ」 ともされるサラマンダーを、ペットとして飼育するのには、若干の諧謔趣味が必要かもしれない。 ふつうの感覚なら不気味とされても仕方なかろう。
それでも飼育をつづけると愛着が湧くもので、短文ブログなどでは、毎日のように サラマンダー自慢 をするひともいる。

< ウチの 仔 ?  は イケメン ?  だし、日本でいちばんかわいい ?  ワ、 ネッ !   ?? >
ネッ !   といわれても、ウチの「 ウパルン 」 「 ウパラン 」 と大差なくみえるから困る。
まぁサラマンダーが かわいいものかどうかの判断は、皆さんにお任せしよう。
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そんなわけで [ どんなわけでしょう?]、2014年04月に投入した 小型活版印刷機 Salama-21A は順調な出荷が続いている。
また朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の <活版礼讃> のイベント、< Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO > も、「 5,000人を遙かに超え、 6,000人近いご入場者-尚古集成館の報告 」 をみて 盛況裡に終了した。
なによりもの成果は、南九州に < 活版礼讃 > のちいさな種子を
のこすことができたことである。

<新宿私塾>は第25期生の諸君が真摯な学習を続けているし、< Salama-21A  操作指導教室 > は間断なく開催されている。 新春からは < 活版カレッジ > が 久しぶりに昼間部での開催が予定されている。
< 朗文堂ブックコスミイク > は、新刊書の拡販と、既刊書のていねいな補充に気配りをしているし、来年の大型企画も始動中である。
<朗文堂タイプコスミイク> も、ことしは新書体の発表こそなかったものの、堅実な販売が持続している。
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師走に入った直後に、所用があって本郷の東大キャンパスにでかけた。 キャンパスのなかではイチョウが色づき、まちはすでにクリスマス商戦と歳末商戦にはいっていた。
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そんなわけで [ どんなわけでしょう?]、朗文堂は師走には関係なく、あわただしい日日をすごしている。
例年のことながら、年賀状の準備にもとりかかっている。
同行者がクリスマス ・ グッズを購入したので、フト ふるい記事をおもいだした。

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ふるい記事で恐縮ではあるが、本年の 「 ゴールデンウィーク 」 の無聊を慰めるためにしるした一文を再掲載したい。お役にたてば幸甚である。

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【再掲載】 ポストカード postcard と クリスマス Christmas
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 本項の初掲載は2014年05月03日であった。
テーマと問題点に進行がみられないこともあり、ここに再掲載した。

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《 黄金週間 ゴールデンウィークに入りました。 皆さまお元気ですか? 》

例年この長期休暇、ゴールデンウィークの期間中は 〈 朗文堂 〉 と 〈 アダナ ・ プレス倶楽部 〉 の WebSite は、双方ともに訪問者が減少します。
長期休暇の乏しいわが国のことですから、皆さまは、旅行に、帰省にと、楽しくゴールデンウィークをお過ごしのことと存じます。

ところでこの休暇を、かつては 「 黄金週間 」 と呼んで、その直前になると、新聞紙面などには賑やかに見出し活字の 「 黄金週間 」 の見出しが躍っていました。 それがいつの間にか 「 ゴールデンウィーク 」 に転じ、ことしの新聞の見出しには 「 GW 」 と、全角欧文 !?  で、縦組みになったタイトルが踊っていました。
このすっかりおなじみとなった 「 ゴールデンウィーク 」 を、『 広辞苑 』 にあたってみました。

【 ゴールデン-ウィーク 】  ( 和製語  golden week )  4月末から5月初めの休日の多い週。 黄金週間。

どうやら 「 ゴールデンウィーク 」 は、「 黄金週間 」 が転じたもので、いわゆる和製英語であり、英語圏での会話や表記には使わないほうが安全のようです。  なお標題語 「 ゴールデン-ウィーク 」 のダッシュは、音節 ( syllable ) をあらわすもので、ここに中黒やダッシュは不要です
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というわけで、せっかくの 「 ゴールデンウィーク 」 に、この 〈 タイポグラフィ ・ ブログロール  花筏 〉 をご訪問していただいたゲストの皆さまに、しばしばあやまって使われている英語表記をご紹介します。
ひとつは 「 郵便はがき ポストカード 」 で、ひとつは 「 クリスマス 」 です。

使用する資料は、英和辞書としてたかい評価がある 『 研究社 新英和大辞典 』 で、これは画像紹介の許可をいただいておりjます。
もうひとつは、『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 ( Oxford University Press, 1981,  p.318) です。
同書は、オックスフォード大学出版局の刊行書で、執筆者と編集者にむけて、あまりに日常化していて、ついうっかり、あぁ知らなかった、というたぐいの表記、間違えやすい英単語を中心に、簡潔に紹介したものです。

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ここには 「 post  郵便 」 から派生した英単語を列挙して、「 abbr.  省略語、短縮語 」、「 しばしばスペースを入れて二単語にされていますが、一単語ですよ 」、「 語間にハイフンを入れて表記してください 」 などと説明されています。
すなわち 『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、
「 郵便はがき ポストカードは  postcard  と一単語にしてください。 post card のように二単語では無いのでご注意を。 省略語は p.c. です 」

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いっぽう 『 研究社 新英和大辞典 』 では、とても丁寧に 「 postcard 」 を説明しています。
ここでの標題語 「 post ・ card 」 の中黒は音節 ( syllable ) をあらわすものであり、ここに中黒やダッシュやスペースは不要です。
さらに 『 研究社 新英和大辞典 』 では、「 郵便はがき (含む : 年賀はがき)」 にたいする日英の比較とともに、わざわざ強調の裏罫をもちいて、「 SYN  synonym  同義語、類義語 」 として、「 絵はがき  と はがき 」、「 postal card,  postcard 」 の使い分けと、英国と米国での相違まで説いています。

ご参考になりましたでしょうか。
この問題はわが国でもふるくから一部の識者から指摘されており、朗文堂 WebSite では 〈  タイポグラフィ実践用語集 は行 葉書・端書・はがき・ハガキ 〉 で、ずいぶん以前 ( まだ郵政省があって、専用ワープロを使っていた時代 ) から触れられています。
ところが、いまだに展覧会シーズンともなると、各種の造形者、とりわけ印刷メディアに関わることがおおい 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 の皆さまから、「 Post  Card 」 と、堂堂と二単語で印刷された 「 Postcard 」 をたくさん頂戴しております。

ふつうの生活人は、ほとんど 「官製はがき」 [このことばは、現代でも有効なのでしょうか] をもちいるので、あまりこのミスは犯さなくて済む。
この 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 が犯しがちなミスは 意外とやっかいで、1883年(明治16)ごろから < 公文書では 「 葉書 」 としている > と 『広辞苑』 は説くが、その説明文をみると、すべて 「はがき」 としています。

 いかがでしょう、  「 postcard 」 。 「 過ちて改めざるを是を過ちと謂う 」、「 過ちては改むるに憚ることなかれ 」 といいます。
この名詞語は、名にし負う天下のオックスフォード大学の 執筆者や編集者でも 「 ついうっかり 」 なのですから、なにも臆することはありません。 かくいうやつがれも、しばしばこうした誤用をおかしては反省しきりの日日であります。
そして 「 ゴールデンウィーク 」 が終わったら、「 そんなことは、昔から知ってたさ 」 、「 そんなの常識だろう 」 と、どっしり構えてください。

それでもおひとりでも、正しく 「 postcard,  Postcard 」 をもちいれば、まずは大切なクライアントに迷惑をかけることが無くなり、やがてちいさな波紋がどんどん拡大して、わが国の造形者が恥をかかなくなる日も近いことでしょう。
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《 すこし気がはやいですか。 暮れになったら X’mas はやめて、口語の Xmas も慎重に 》
いっぽう 「 クリスマス 」 は少しやっかいです。
それは某国語辞書 『 広辞苑 』 が、どこか意地になって、クリスマスの項目で 「 Christmas,  Xmas 」 を説明しているからです。

それに牽かれたのでしょうか、わが国の一部に 「 X’mas 」 と表記する向きがありますが、これは省略を重複したもので完全に間違いです。

『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、「 Christmas  クリスマス 」 は執筆者や編集者にとってはあまりに平易であり、関心が乏しいようで、わずかに「 Cristmas (cap.)」 として、文頭を大文字にすること (p.70) 〈 参照/タイポグラフィ実践用語集 き行 キャピタライゼーション : capitalization 〉 として触れられています。

またギリシャ語由来の 「 Xmas 」 には、キリスト教徒の一部に抵抗を感ずる向きがあって、わたくしも20年ほど前に来社したアメリカの知人から、
「 ここに来るまでに X’mas,  X’mas Sale のディスプレイがたくさんあった。 あれはクレイジーだ。  Xmas ( エクスマス ) にも、発音からわたしには抵抗がある。 それよりどうして日本では、11月のはじめから Christmas Sale をはじめるのだ 」
と責められたことがありました。

宗教や宗派、まして発音までがからむと、わたくしの手にあまります。
まして某国語辞典の存在もあって困惑していましたが、『 研究社 新英和大辞典 』 に、わかりやすく 「 クリスマス 」 の解説がありました。 長文にわたりますので、その紹介にあたって、画像紹介の許可を研究社からいただくことができました。
そしてことしの暮れは、せめて 「 X’mas,  X’mas Sale 」 を見なくてすむように念願いたします。 そしてあくまでも口語で、文章語ではない 「 Xmas,  Xmas Sale 」 を、大量配布される広告や印刷物などへの使用に際しては、おおいに慎重でありたいものです。
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タイポグラフィ あのねのね*014|アルダス工房|ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所|アーツ&クラフツ運動

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烏兎匆匆 ウト-ソウソウ  ②
うかうか三十、キョロキョロ四十、烏兎匆匆

先達の資料に惹かれ、おちこちの旅を重ねた。 吾ながらあきれるほど喰い
囓っただけのテーマが多い。 いまさらながら馬齢を重ねたものだとおもう。
文字どおり 「うかうか三十、キョロキョロ四十」 であった。 
中華の国では、
歳月とは烏カラスが棲む太陽と、 兎ウサギがいる月とが、 あわただしくすぎさる
ことから 「烏兎匆匆 ウト-ソウソウ」 という。 そろそろ残余のテーマを絞るときが
きた。 つまり中締めのときである。  後事を俊秀に託すべきときでもある。 お
あとはよろしいようで……なのか、 おあとはよろしく……、 なのかは知らぬ。
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本項の初掲載は2011年08月22日であった。
テーマと問題点に進行がみられないこともあり、ここに再掲載した。

活字版印刷術と情報は、水の流れにも似て……
五体と五感をもちいたアルチザンの拠点

◎ おあとは、よろしいようですね!

デザイン界に、いまだ充実した 「 教科書 」 が不在だったころのはなしである。そうふるい話しではない。1997年のこと。
京都のさる美術大学が、四年制の通信教育学部をつくろうとなったとき、あたりまえといえばあたりまえだが、所轄官庁から 「 教科書 」 の製作を強くもとめられた。
そのタイポグラフィ篇の教科書の執筆を依頼されたが、単独執筆では偏りを生ずるおそれがあったので、K氏、S氏に依頼して、03名で共同執筆にあたった。

執筆に取り組んで、あらためておどろいた。当時の美術大学や芸術大学 ( くどいようだが1997年のこと )にはどこにも、デザインの教科書はもとより、先行資料といえるようなまとまった資料はなかったのだ。 先行資料が無いということは、ある意味では提灯も無く暗い夜道を歩むようなものであった。
そのため、まったく手探りで、「 デザイン教育用の教科書 」 をまとめなくてはならなかった。 そのツメの段階にきたとき、資料不足が明確になったので、筆者を含む03名で、ヨーロッパ駆け足取材 ( 費用は各自負担だったケト ゙ ) を計画した。

執筆と旅行の準備に追われていたある日、S氏が血相を変えて駆け込んできた。
ゲーテ 『 イタリア紀行 』 に,アルダス ・ マヌティウスの工房が、「 ベネツィアのサンセコンド2311番地 」 にあることが紹介されている、と興奮した面持ちでかたった。
18-19世紀の文豪 ゲーテ ( Johann Wolfgang von Goethe  1749―1832 ) が記録したその記録が、現在もまだ有効な資料かと半信半疑ながら、「 ヴェネツィア、サンセコンド2311番地 」 の名前だけは咒文のように記憶して出かけることになった。
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ともかく慌ただしい旅 ( 珍道中ともいえる ) であった。  ドイツに入り、パリを経由して 列車でスイスに、そしてまた列車でイタリアに入った。
イタリアでは拠点を パドヴァ のちいさなホテルにおいた。 すなわち長靴形のイタリア半島を上下に移動するのではなく、半島の付け根を左右に行ったり来たりした。 ミラノから取材をはじめ、翌日にはヴェローナのタイポグラファの友人、マルチーノ ・ マーダシュタイク氏からさなざまな支援を受けた。

当然、ヴェネツィアのアルダス工房の所在地も聞いたが、
「 ヴェネツィアのどこかに、いまもアルド ・ マヌッツィオ ( マルチーノの発音 ) の工房があることは聞いた気がするなぁ」
程度の曖昧な回答だった。

そこで、やはり ヴェネツィアに行くしかない……、 となった。
いまならグーグルマップで即刻詮索だろうが、この取材は1997年のこと。
ヴェネツィア駅に降り立って、すぐに詳細な街路図を購入して、駅前広場で地図をひろげて03人による鳩首検索。
おなじ列車で着いた旅行者は四散して、駅頭からすっかりひとがいなくなったのに、まだ駅前でただただ地図とにらめっこをしている奇妙な日本人が03人。

「あった~! ココにある」。
やはり最初に豆粒のような街路図から 「 サンセコンド 」 の名を見つけたのはS氏だった。

さっそく いくつかの橋を ( 駆け抜けるように ) わたって 「 サンセコンド通り 」 に駆けつけた。
それからの興奮、舞いあがりのさまをしるすのは ( あまりに恥ずかしいから ) 控えよう。 ともかく03人は、いまはヴェネツィアン ・ グラスの工房 ( 写真向かって左 ) と、ブティック ( 写真向かって右 ) になっているこの建物に、( 買い物のふりをして ) 押し入り、仔細に ( 柱の1本1本に頬ずりをし、壁もナデナデして ) 内部構造もミタ。

まことに奇跡ではないかとおもった。 520年ほど以前 ―― わが国では足利幕府の時代、すなわち1495年ころから この工房は活動を開始し、20年余にわたって133冊 ( 種類 ) の評価のたかい書物をのこしている。 その工房がそっくりそのまま地上にのこっているのだから、高松塚古墳 モトイ ポンペイの遺跡が発掘されたときよりおどろいた !?

それから筆者はここを都合04回訪れ、いつもお義理でヴェネツィアン ・ グラスの安いものを購入していた。 そのため工房のあるじとも親しくなった。 店主はいかにも技芸の街、ヴェネツィアのアルチザンといった朴訥 ボクトツ なひとで、
「 最近、日本人のデザイナーが良く来る。 かれらは丁重で、必ず名刺を出して、死ぬほど写真を撮りまくる 」
と ( いうようなことを ) ボソボソとかたっていた。 それでも気のせいか、この建物に入ると、いつも活版インキ独特の甘い残り香をかんじていた。 なによりも、この 「 サンセコンド2311番地 」 の 建物正面の壁面には、重々しく銘板が埋め込まれており、以下のような文言がしるされている。

その名があまねく知れわたりし マヌティウス家の啓蒙者
アルダス ・ マヌティウス
このヴェネツィアの地にて 優れし印刷術に 身も心も捧げたひと

大学側の最初の説明では、通信教育学部の発足までに、各教科 都合10冊の教科書をつくることが必要だとされた。 吾吾03人組はなにはともあれ締め切りは守った。
それにしても……、常勤の大学教員はただただ傍観するだけ、その間なにもしなかったなぁ。 それがして、それまで美術大学に教科書が無かった理由かもしれない。
ともあれ、発足までに間にあったのは、吾吾が担当したタイポグラフィ篇と、別の著者によるイラスト篇だけだったようだ。 のこりの教科は、大学当局が監督官庁となんとかうまく話しあったのだろう。
したがってこのふたつが取りあえず合冊されて、『 情報デザイン演習Ⅰ 情報デザインシリーズ Vol.1  イラストレーションの展開とタイポグラフィの領域 』 と、えらく長い ( 大仰な ) タイトルがつけられて、1998年(平成10)04月01日に発行され、四年制の通信教育学部の発足をみた。
そして、それから数年もたたずに、あちこちの美術大学や芸術大学に 「 教科書 」 がもうけられるようになった。 わが国には <ちいさく右へ倣え> のふうがある。

◎ イタリア アルダス工房

ヴェネツィア、サンセコンド2311番地 15世紀後半- ( 白井敬尚氏撮影 )

アルダス工房は、水の都とされるヴェネツィアの運河沿い ( 工房の真裏が運河になっている ) に、出版総合プロデューサーともいうべき アルダス ・ マヌティウス ( Aldus  Manutius  1450―1515 ) によって1490年ころに創設された。 工房には、編集者、校閲者、組版工、印刷工らの職人が常時30名ほど働いていたとされる。

もともと東方貿易によって繁栄をきわめたヴェネツィア共和国だったが、15世紀中ごろに トルコがギリシャを占領したために、その難民が大挙してヴェネツィアに避難し、古代ギリシャの写本などの文献も豊富に持ちこまれていた。 そして、そのギリシャからの文献をもとめて、人文主義者らがヴェネツィアにたくさん集まっていた。

こんな歴史を背景として、アルダス工房の書物の大半は ギリシャ語活字によって組版 ・ 印刷されている。
しかしながらこんにち評価が高いのは、数は少なかったが ラテン語 ・ イタリア語による書物で、そこにもちいられたアップライト ・ ローマン体活字が、ボローニャ出身の有能な活字父型彫刻士、フランチェスコ ・ グリフォ ( Francesco Griffo   ?―c.1518 ) の設計 ・ 彫刻によって、1495―99年にかけてつぎつぎと誕生した。

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上) 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 2006年ニューイヤー ・ カード 使用活字書体 「 ベンボ 」
下) 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 2007年ニューイヤー ・ カード 使用活字書体 「 ポリフィラス 」

この時代のアルダス工房のローマン体は、まず1495年  「 アルダス/第 1 ローマン体 」 と呼ばれ、ピエトロ ・ ベンボ著 『 De Aetna 』 にもちいられた。
この 「 アルダス/第1ローマン体 」 は1929年にスタンリー ・ モリスンの監修によって復刻され、最初の 『 De Aetna 』 の著者の名をとって 「 ベンボ 」 と名づけられた。 この 「 ベンボ 」 は、いまなお金属活字でも電子活字でも入手が可能である。

「 アルダス第 2 ローマン体 」 は、1496年にグリフォによって彫刻され、レオニセヌス著 『 Epidemia 』 にもちいられた。
「 アルダス第 3 ローマン体 」 は、1499年に おそらくこれもグリフォによって彫刻され、美しい木版画をともなって著名な 『 Hypnerotomachia  Poliphil 』 ( 邦名 : ポリフィラスの夢 or ポリフィロの狂恋夢 ) にもちいられた。

この 「 アルダス第 3 ローマン体 」 も、1923年にスタンリー ・ モリスンの監修によって復刻され、モノタイプ社から最初の書物の名をとって 「 ポリフィラス  or  ポリフィリ 」 として発売をみた。 この 「 ポリフィラス 」 も、いまなお金属活字でも電子活字でも入手が可能である。

さらにアルダス工房の名をたかめたのは、「 手早く書かれた、やや傾斜のある非公式の書 体 ≒ チャンセリー ・ カーシブ 」 に着目し、それを活字書体としてグリフォによって彫刻させ、 詩集など小型判の書物にもちいたことである。

このように出版プロデューサーとしてのアルダス ・ マヌティウスの企画力と、アルチザンとしてのフランチェスコ ・ グリフォの手腕によって製作された活字書体は、こんにち 「 オールド ・ ローマン体 」 として、いまなお活字界においては屹立した存在である。

そしてこのアルダス工房など、15世紀後半に各地のアルチザン工房がのこしたさまざまな書物は、のちにドイツの書誌学者によって、まだ活字と書物がゆりかごのなかにあった時代の書物、すなわちラテン語のゆりかごからの意から 「 インキュナブラ   Incunabula  揺籃期本 」 と命名され、きわめて評価がたかい図書となっている。

そしてアルダス工房の活字は、やがてルネサンスの精神とともに、フランスに影響を与え、クロード ・ ギャラモンらによって一層の発展をみた。
そしてグリフォの、「手早く書かれた、やや傾斜のある非公式の書体 ≒ チャンセリー ・ カーシブ 」 活字は、フランスではイタリックと呼ばれ、これまた一層の充実をみた。

そしてわが朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部では、毎年のニューイヤー ・ カードにおける活字紹介シリーズとして、2006年 「 ベンボ 」、2007年 「 ポリフィラス 」 の両活字書体を紹介した。
そしていまなお手を尽くして、モノタイプ母型による金属活字の輸入販売にもあたっているのである。

すなわちヴェネツィアの運河を背にした、このちいさな工房の歴史のおもさをおもわずにはいられないのである。

◎   と、ここまで書き進めて、吾輩ハタと気づいた。 吾輩は 「 烏兎匆匆 ウト-ソウソウ ② 」 としてこのページをしるしていることをである。 すなわちこのテーマは今後どなたかにお任せするとしているのである。
いまや復習したり、再考 ・ 再検証するときではない。 まして、アルダス工房とその書物と活字にたいする関心は世界規模でおおいにたかまっている。 もはや吾輩の出る幕ではない。

以下にもうふたつのテーマを紹介するが、もうしつこくは書かないゾ。
ところがじつは、そのどちらかは、これから一層集中 ・ 注力するテーマとしている。 どちらかは秘密だけどネ。 いずれにしても、あとはお任せなのである。

◎   しかしである。 しかしながら、オールド ・ ローマン体の研究を深めるためには、先行したヴェネツィア ・ ローマン体の研究をもっとふかめる必要がある。 すなわち、アルダス ・ マヌティウスより30歳ほど年長で、これも同じくヴェネツィアを本拠地とした、ニコラ ・ ジェンソン ( Nicolas Jenson  1420―80 ) の工房調査がまったく進行していない事実にいまさらながら気づいた。
アルダス工房の調査も ( 大袈裟にいえば、世界のタイポグラファがみな )、ここにしるしたような些細なことから大きく進捗したのである。
そ こで最後に、真摯なタイポグラファの皆さんに声を大にして のお願い。

ニコラ ・ ジェンソン工房の調査を、ぜひ !


◎ フランス   ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所

パリ、セーヌ河畔、ビスコンティ通り17番地 c.1825/27-1923年

パリのセーヌ川沿いのカチェラタン地区に、『 人間喜劇 』 『 谷間の百合 』 『 ゴリオ爺さん 』 などで知られる、文豪 ・ オノレ ・ バルザックが、ド ・ ベルニ家の支援を受けて設立した名門活字鋳造所の誕生の地がある。

若いころ、いっときバルザックの作品が好きで読みふけったことがある。 だからパリのペール ・ ラシェーズ墓地をたづねた。 その記録は 『 文字百景 』 のどこかにしるしたはずだ。
またフランスではいまだにバルザックの評価がたかく、
【 URL : Chateâu de Saché サシェ城 とバルザック記念館

があり、バルザックが使用した印刷機器なども展示されており、日本語紹介も充実しているが、日本語でのそこへの訪問記をみたことはない。 どなたかがここを訪問していただけるとうれしい。

同社創業者のバルザックは経営から早早に去ったが、同社はド ・ ベルニ家とペイニョ家の両家による後継者に恵まれ、1923年からはペイニョ家が実質的な経営にあたった。
ペイニョ家の歴代経営者では、Gustave Peignot  1839-99,  Georges Peignot  1872-1914,  Charles Peignot  1897-1983 らが著名である。
20世紀にはいってからも、同社はフランス国立印刷所の活字父型 ・ 活字母型の修復 ・ 鋳造にあたるとともに、「 カッサンドル 」 「 ペイニョ 」 などの意欲的な活字を開発した。

またパリ16区に移転後の1952年、シャルル ・ ペイニョがスイスからアドリアン ・ フルティガーを迎え、「メリディエン  子午線」、「ユニバース  宇宙」 などの書体を産んだ。
しかしながら、急速な活版印刷の衰退という時代の推移もだしがたく、ついに1972年(昭和47)、同社の活字資産はフランス国立印刷所に収蔵され、製造権はスイスの Haas 社が継承し、その長い歴史に幕をおろしたのである。

ビスコンティ通りはセーヌ川から近く、写真のように、小型車がようやく通り抜けられるような狭い路地にある。 創業当時からの建物は、写真左手に顕彰レリーフとともにいまもあり、現在は出版社が使用している。
オノレ ・ バルザック ( Honoré de Balzac   1799-1850 ) に関する邦訳書は多いが、そこでは、かれが艶福家であったことや、放縦な生活ぶりは描かれても、かれが 「 印刷狂 ・ 活字狂 」 であったことをしるした書物は少ないようだ。

◯ 1826年(27歳)
バルビエなる印刷所の監督と既設の印刷所を買い取り、06月印刷業者の免許をとる。
『 Oeuvres de Colardeau 』   Paris, 1826   Imprimerie de H. BALZAC
バルザックの印刷による上記の豆本を吾輩所有。 天地110mm×左右67mm  180p
極小サイズの活字を使用。巻頭に印刷者としてバルザックの名がある。
他文献に紹介を見ず。 調査不十分。

◯ 1827年(28歳)
07月印刷所が頓挫する。そこでド ・ ベルニ夫人の出資を受けて、ローランとバルビエと共同で、印刷所にかえて、活字鋳造所を設立した ( 写真の場所 )。
『 La Fouderie Typographique  De Laurent, Balzac et Barbier 』  Paris,  1827
すばらしい活字見本帳である。 同書は1992年に正確な複製版が発行された。
オーナメント、活字、ヴィネットの紹介が豊富。 吾輩も1992年版を所有。

◯ 1828年(29歳)
活字鋳造所の事業が不振で、バルザックとバルビエは印刷 ・ 活字鋳造から手を引く。
04月活字鋳造業を ド ・ ベルニ夫人の息子に譲渡。 夫人が1万5千フランの負債を肩代わりした。 バルザックの負債は結局 6 万フランの巨大なものにのぼった。

◯ 1952年―― Charles Peignot  1897-1983
Charles Peignot らが、同社の事実上最後の総合活字見本帳 『 DEBERNY ET PEIGNOT 』 を発行。
創業者 ・ バルザックからはじまり、 ド ・ ベルニ家 と ペイニョ家歴代経営陣の紹介がある。
「 カッサンドル 」 「 ペイニョ 」 活字書体の紹介が豊富。 吾輩も所有。

◎ イギリス  アーツ&クラフツ運動

ロンドン、アッパーマル12-26番地 19世紀末-20世紀初頭

テムズ河畔、馬車はもちろん、車も入れない、せまいせまい路地がアッパーマル通り。
19世紀中葉からこの路地に造形者が集まり、産業革命の負の側面を解消し、労働の喜びを賛歌するひとつの運動体を形成した。 それが 「 アーツ & クラフツ運動 」 であった。

著名なケルムスコット ・ プレスは この路地の入口、馬車のUターンのスペース ( 現在は駐車場 ) の前に、テムズ河畔に面してあり、路地にはダヴス ・ プレスなどの著名な印刷所と、製本 ・ 皮革工芸 ・ ステンドグラス ・ 刺繍の工房などが軒をつらねていた。

アーツ & クラフツ運動と、ウィリアム ・ モリスに関する紹介は、わが国でも多すぎるほど多い。 吾輩も英国 ・ 米国 ・ わが国の先行資料をそれなりにもっている。
さりながら、多くの執筆者たちは、このせまい路地に立ったことがあるのだろうか……とおもわせる記述が多い。 なによりも、この路地のテムズ川にせりだした 《 パブ ・ ダヴ 》 の珈琲はかなりうまいのだが、たれもそれにはふれないなぁ。

ダイカストと、先駆けとなった活字鋳造の産業革命-ブルース活字鋳造機の誕生

 

DSCN9133 20141010221615805_0001DSCN9117 DSCN9114 DSCN9154 DSCN9133 DSCN9151 DSCN9145 DSCN9135 DSCN9136 DSCN9140<2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会 >
◯ 日 時 : 2014年11月13日[木]-15日[土]

◯ 場 所 : パシフィコ横浜
◯ 主 催 : 一般財団法人 日本ダイカスト協会

【 詳細 : 日本ダイカスト協会 2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会

ブルース ブルース活字鋳造機の心臓部 鋳型David Bruce, Junior     1802 - 92
手回し式活字鋳造機 ( Pivotal type caster, Bruce Casting Machine ) の考案者。
米国フィラデルフィアの活字商、デヴィッド ・ ブルースⅠ世の子。

写真上) 手回し式活字鋳造機 ( Pivotal type caster, Bruce Casting Machine )。
写真中) ブルース型活字鋳造機の心臓部ともいえる鋳型。
ボディサイズ( ≒天地)により鋳型は交換可。Setwidth ( ≒ 字幅)により左右にスライド。

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隔年で開催される <2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会 会議> が開催された。 ダイカスト( Die Casting   ダイキャスト )とは耳なれないことばかも知れない。
ダイカストとは ―― Die  金型、Casting  鋳造 ・ 鋳物 ―― のことである。
換言すると、金型 カナガタ をもちいる鋳造法のひとつで、その製品をもダイカストという。
複製原型として堅牢な金型をもちい、その金型に、溶融した金属を、圧力を加えて注入する(圧入)ことによって、高い寸法精度の鋳物を、短時間に大量に生産する鋳造方式であり、その製品のことである。 ダイキャストともいわれる。

ダイカストは、現代工業製品の基礎技術のひとつともいえ、自動車のエンジン、ボディの一部、タイヤホイール、携帯電話のフレーム、カメラのボディをはじめ、高精度な工業製品に盛んにもちいられている鋳造(イモノ)の技術のひとつである。

朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の小型活版印刷機 Adana-21J ,  Salama-21A の設計 ・ 製造に際しても、多くの金型(鋳型)がつくられ、そこにアルミ合金などを <圧力を加えて金属を注入する鋳造法> ダイカスト製品がたくさんもちいられている。

そもそも、鋳造、鋳物をつくる技術は、ふるく奈良時代から、祭具、仏像、釣り鐘、武具などの製造でもおこなわれていたが、そこでもちいられていた型(鋳型)は、現代では砂型とされるものがほとんどで、精度 ・ 強度がともにもひくく、高速かつ大量生産には適していなかった。

意外なことに、そのダイカストというあたらしい鋳造法のはじまりは、産業革命をへて、アメリカのブルース活字鋳造機 Bruce Casting Machine ( アメリカ特許 No.3324,1843年 )が、ダイカストの製品化 ・ 実用化のはじめとされている。

ヴィッド ・ ブルースⅡ世 ( David Bruce, Junior   1802 - 92 ) は長い春秋のときを終え、1834年ニュージャージーに移り、それ以降はハンド ・ モールドという、ちいさな器具、ないしは道具でしかなかった活字鋳造法に、機械としての活字鋳造機の製作をおもいたち、1828年、フィラデルフィアのウィリアム ・ ジョンソン ( William M.  Johnson )が考案製作した機械に最初の暗示を得て、機械システムとしての活字鋳造機の製造に没頭した。

数次の改良をへて、ブルース活字鋳造機 Bruce Casting Machine ( アメリカ特許 No.3324,1843年 )が完成し、実用機として販売された。 これがダイカストの製品化 ・ 実用化のはじめとされている。
すなわち、
タイポグラフィとは切っても切れない技術がダイカストである。
【 詳細情報 : David Bruce, Jr. 】    【 画 像  集 : bruce junior david type caster

ブルース活字鋳造機のわが国への導入はふるく、アメリカでの実用化から30年ほどのち、はやくも1876年(明治09)に、元薩摩藩士 ・ 神崎正誼 カンザキ-マサヨシ による、東京銀座 (東京市京橋区南鍋町貳丁目壹番地) の活字商/弘道軒、 活版製造所弘道軒に導入されていた。

同社ではこの活字鋳造機を 「カスチング」 ( casting を訛ったもの) と呼び、自社開発書体  「 弘道軒清朝体活字 」 の鋳造を中心として繁忙をみたこともあった。 またいっときではあったが、ほぼ隣接して開設されていた 『 東京日日新聞 』 ( 現 『毎日新聞』 の前身のひとつ ) の本文用活字の一部にも、この 「カスチング ブルース活字鋳造機 Bruce Casting Machine 」 をもちいた活字を供給していた。
[ 片塩二朗 「弘道軒清朝体活字の製造法とその盛衰」 『タイポグラフィ学会誌 04』  2010年12月01日 ] p62アルビオン P70ブルース p71トムソン 「 カスチング ブルース活字鋳造機  Bruce Casting Machine 」は、当時の世相にあっては機器のメンテナンスや損傷部品の交換が海外企業では追いつかず、なかんずくブルース社製造の活字鋳型のサイズが、わが国の 「 号数制活字サイズ 」 とは異なっていたため、ほとんどが国産の模倣機がもちいられた。

その後自動化の進んだトムソン型の自動活字鋳造機の導入によって、 「 カスチング ブルース活字鋳造機  Bruce Casting Machine 」 は、「 手回し式活字鋳造機、手回し、ブルース 」 などと呼ばれるようになったが、張り出し文字などの特殊活字製造のために、現在も現役で稼動している。

【 参考資料 : 『VIVA 活版 !! 』 大石 薫、朗文堂

そんなダイカストの歴史 ・ 技術 ・ 可能性 ・ 魅力を知ることができる展示会が開催された。 ハンドモールド1ハンドモールド2ハンドモールド3★        ★        ★
活字ハンドモロールド操作 初紹介の貴重な動画!

【 Hand Moulding in the 1920s  https://www.youtube.com/watch?v=-hUGBD5h-po 】
1920年代の活字ハンドモールド操作の実態が動画で掲載されている貴重な動画(00:59)。
第一部は「活字父型  Punch」 と「活字母型  Matrix, 複数は Matrices 」 との関係をあらわす。
第二部は、ハンドモールドの湯口に、ヒシャクによる活字合金の流し込みののち、はげしく振り上げ、上下動させている。これは、ダイカストにおける「圧入」にかえて、活字のツラの細部まで地金を滲透させるためであり、また活字のボディに 「 鬆 ス ― 溶融状態の地金が冷却して収縮するとき、金属部分に生ずることがある空洞部分 」 が発生しないようにするためである。

Oxford Academic ( Oxford University Press )の提供によるものであるが、 共有リンクが設定できないので、
上掲 URL からぜひご覧いただきたい。

★        ★        ★

<2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会 >には、主催団体の日本ダイカスト協会の依頼によって、伊藤伸一氏が所有している 「 活字ハンドモールド 」 が正面入り口に展示され、おおきな話題を呼んでいた。
これから日本ダイカスト協会でも、活字鋳造とダイカストとの関連がおおいに話題となり、行動が開始されることが予想された。
このハンドモールドの1920年代英国における使用の実際の貴重な映像が、上掲 YouTube にアップされているのでぜひともご覧いただきたい。

またダイカストに関する貴重な資料として、日本ダイカスト協会技術部の西  直美氏による論文の一部を以下に紹介した。 ウィキペディアの 「 ダイカスト 」 も、ほぼ同氏の論文を引いて構成されているようである。
◯ 西  直美 「 ダイカストの歩み 活字鋳造から自動車足回り部品まで 」 『 軽金属 』 ( 第57巻 第04号、社団法人軽金属学会、2007年 )

【関連資料 : ウィキペディア ダイカスト

あわせて、アダナ ・ プレス倶楽部 <活版凸凹フェスタ2009 型形 カタカタ まつり> の資料も、ここに紹介しておきたい。

< ダイカストとは …… >

ダイカスト (die casting ) とは、金型鋳造法のひとつで、金型に溶融した金属を圧入することにより、高い寸法精度の鋳物を短時間に大量に生産する鋳造方式のことである。ダイキャストともいわれる。
またこの鋳造法だけでなくダイカスト鋳造法による製品をもダイカストという。

日本におけるダイカストの研究は1910年(明治43年)ころから大学の金属研究室を中心におこなわれ、1917年(大正06年)には最初のダイカスト会社が大崎(東京都)に設立された。
当時は鉛 ・ 錫 ・ 亜鉛を中心とした低融点合金を使用していたが、昭和に入りアルミニウム ・ 銅合金の素材も使用可能となって生産の拡大が進展し、第二次大戦中は軍需品を中心に年間 2,500 トン程度の生産まで達した。

戦後 1950 年頃までは低迷期が続いた。 1952年以降、JIS に関連規格が制定された。 その後、経済の高度成長や、自動車産業の発展、それにともなうダイカストマシンの改良 ・ 合金素材の開発が急速に進展し、2000年代にはマシンのコンピューターコントロール化 ・ 大型化もあいまって、生産性の向上と製品の多様化が顕著になっている。

ダイカスト関連年表

  • 1838年(天保09年) – 米デヴィッド ・ ブルースがダイカスト活字を製品化
  • 1905年(明治38年) – 米国のハーマン ・ H ・ ドーラーがダイカストの商業生産開始
  • 1910年(明治43年) – 日本でダイカストの研究開始
  • 1917年(大正06年) – 日本初のダイカスト製造(ダイカスト合資会社)
  • 1922年(大正11年) – 国産ダイカストマシン製造
  • 1935年(昭和10年) – 軍需産業でダイカスト製品の研究進展
  • 1940年(昭和15年) – ダイカスト製造各社に対し統制令発令、効率化のため100余社から25社に統合
  • 1947年(昭和22年) – 戦後民生品製造のためにいち早く復興。日本橋白木屋にてダイカスト展示会開催
  • 1949年(昭和24年) – 2 眼レフカメラボディのダイカスト化
  • 1952年(昭和27年) – 油圧電気制御ダイカストマシン初導入
  • 1952年(昭和27年) – JIS に関連規格が制定
  • 1953年(昭和28年) – 日本において高純度亜鉛開発成功
  • 1984年(昭和59年) – 日本のダイカスト生産量 50 万トン突破
  • 1988年(昭和63年) – コンピュ-タ制御マシンの導入本格化
  • 2002年(平成14年) – 日本のダイカスト生産量 80 万トン突破
  • 2006年(平成18年) – 日本のダイカスト生産量100 万トン突破

アダナ ・ プレス倶楽部 活版凸凹フェスタ
特別企画展示
< 型形 まつり ― カタカタ マツリ― >

「 type 」 とは、「 活字 」  であり 「 型 」 そのものをあらわすことばでもあります。
「 型 」 という視点でとらえると 「 活字  Type 」 そのものが、文字情報を、広く早くたくさん伝播するための 「 印刷版 ・ 活字版 ・ カッパン 」 を構成するひとつひとつの 「 型 」 といえます。

その活字も、ふるくは簡便に砂でつくった 「 砂型 」 を使って複製したり、「 鋳型 」 や「 母型 」 という 「 型 」、その母型をつくるための 「 型 」 となる 「 パターン 」 や 「 父型 」・「 種字と蝋型 」、父型をつくるための 「 型 」 である 「 カウンター ・ パンチ 」 などの、さまざまな 「 型 」 を幾重にも利用して成り立っていることがわかります。

アダナ ・ プレス倶楽部の活字版 印刷機 Adana-21J のボディも、ロストワックスをはじめ多種の型を使って製造されています。
今回の特別企画展示では、「 活字 」 や 「 活版印刷 」  とは切っても切り離せない関係にある  「 型 」 という概念に注目し、「 型 」 にまつわるさまざまを展示いたします。

わたしたちの生活は、実にさまざまな 「 型 」 の活用とその応用技術によって支えられています。 そしてわたしたち生き物も、遺伝子の中にある 「 型 」 の組み合わせによって形づくられているのです。
「 型 」 を用いた自然の摂理や先人の叡智と技術におどろき、その多様さや合理性などに感心しながらも、「 型 」 そのものの形の面白さや美しさに触れて、わたしたちと 「 type 」 との深い結びつきを再認識していただければ幸いです。

【 基本情報 : 一般社団法人 日本ダイカスト協会 HOME
【 イベント詳細 : 2014年 日本ダイカスト会議・展示会のご案内
【 関連情報 : 朗文堂 アダナ  ・ プレス倶楽部ニュース No.49 活版凸凹フェスタ 2009 型形まつり