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タイポグラフィあのねのね*007 活字における「捨て仮名」の誕生

活字《捨て仮名》の誕生は意外と新しい !?

この記事は2011年04月20日に初掲載されたものである。
なぜか、ここのところ「捨て仮名、促音・拗音」活字の
創始に関するお問い合わせがつづいたので

若干の補整をくわえて、2014年5月08日ここに再掲載したものである。

すて-がな【捨て仮名】――広辞苑
①  漢文を訓読する時に、漢字の下に小さく添えて書く送り仮名。すけがな。
②  促音・拗音などを表すのに用いる小さな字。「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」の類。

このタイポグラフィ・ブログロール「花筏」―― 「タイポグラフィ あのねのね*005 音引き・長音符「ー」は、「引」の旁からつくられた 『太陽窮理解説』」 において、長崎のオランダ通詞・本木良永が、天文学書の翻訳『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』(1792年 寛政4  長崎歴史博物館蔵)のために、下記のような記述法を創意・工夫・考案し、それを「凡例」のような形で文書化して巻首にのこしていることを報告した。

本稿は本木良永が縦組みの手書き文書のなかで考案した、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が、旧仮名遣いとされる文書や印刷物のなかでは、わずかな例外は当然あったにしても、一般にはなかなか普及をみずにいたものが、いつから印刷物の中――活字書体として採用され、実施されたのかを探るために記述した。
そこで本木良永『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』から、もういちど復習して、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が普及したのかを、まず実際の印刷物から考察してみたい。

『太陽窮理了解説』和解草稿2冊にみる意外な記録

  • アラビア数字を、活字(金属活字か? 捺印式)をもちいて紹介した。
  • カタ仮名の濁音[ガギグゲゴの類]を、「〃」のように、母字に2点を加えることと制定した。
  • カタ仮名の半濁音[パピプペポの類]を、「°」 のように、母字に小圏(小丸)を加えることと制定した。
  • カタ仮名の促音を、角書きツノガキにならって小さく表記すると制定した。
  • 長音符号(音引き)を、引の字の旁ツクリからとって、「ー」と制定した。
  • オランダ語の詠みを、カタ仮名表記と併せ、漢字音を借りて(当て字)併記して表記した。

明確な記録が存在する、
新聞組版における捨て仮名の初使用

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)

「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」

中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――引用紹介 「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)

『印刷雑誌』1949.9 表紙・本文ページ(印刷図書館蔵)

『日本印刷技術史年表』』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日)は、 1945-80年までの印刷関連の歴史資料を編纂したもので、以下の8項目に分けて簡潔に記述されている。
調査・編集にあたったメンバーは、おもに東京高等工芸学校(旧制高等学校のうち、大学にならなかった数少ない高等学校。一部の教職員と在校生が千葉大学工学部に移動したために、同校は東京高等工芸学校・現千葉学大工学部と表記されることが多い)の出身者で、それぞれが下記の8項目を分担して、調査・編集にあたっている。
「文字組版」の担当は加藤美方(カトウ-ヨシカタ 1921-2000)であった。

  • 原稿作成・デザイン・出版     小柏又三郎
  • 文字組版                  加藤 美方
  • 写真製版                    板倉 孝宣
  • 凸 版                       坪井滋憲・新木 恒彦
  • 平 版                       飯坂義治・佐藤富士達
  • 凹版・グラビア                市川家康(凹版)・飯坂義治(グラビア)
  • 特殊印刷・製本・加工        山本隆太郎
  • 教育・資材その他          川俣 正一

中國新聞 昭和24 年5 月23日号
中國新聞 昭和24年5月24日号
中國新聞 昭和24年5月25日号
中國新聞 昭和24年5月26日号
『中國新聞』 (国立国会図書館蔵)

上記の記録を得て「中國新聞社」に架電したところ、同紙の戦後版は国立国会図書館にマイクロフィルムがあるとの情報を得た。そこで昭和24年5月26日の前後、数日分の複写記録を取得した。その複写資料が上記に紹介した『中國新聞』である。

興味深かったのは5月23 日までは、見出し・本文ともに捨て仮名活字の使用はみられないが、5月24日号の見出し活字の一部が捨て仮名活字になっており、本文中には、捨て仮名と並仮名――(促音と拗音であっても)ふつうの大きさの仮名活字、おもに捨て仮名にたいしていう――活字が混在していたことであった。
そして翌日の5月25日号では、
またすべて並仮名活字の使用にもどり、5月26日号からは、見出し、本文ともに、促音と拗音のすべてが捨て仮名活字になっていた。

その理由は分明しないが、捨て仮名活字の鋳造が間に合わなかったというより、おそらくは5月24日号で捨て仮名への移行が試行され、その読者の反応と社内体制の進捗具合を確認して、昭和24年5月26日号から、『中國新聞』において、見出し・本文活字ともに本格的に「捨て仮名」活字の使用がはじまったものとおもわれた。

このように、新聞に関しては、促音と拗音が、並仮名活字から捨て仮名活字への切り替え時期に関する明確な記録があったが、書籍印刷、商業印刷、端物印刷における捨て仮名活字の移行期はなかなか判明しない。そもそも先に紹介した新聞に関する原記録では、
新聞整版では、一般に促音拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年  昭和24年9月号 p.30)
とあり(アンダーラインは筆者による。以下同)、「新聞整版[活字組版]では、一般に促音拗音の小活字が用いられない」とされている。

また、「だんだん復活のきざしが生まれている」という結びの部分も気になる。
すなわち、換言すれば、
「一般図書や端物印刷では、ふつう促音・拗音に小活字[捨て仮名活字]が用いられている」
「新聞組版は捨て仮名活字を用いた時期もあったが、中國新聞社が復活させた」
とも読める。したがってかなり悩ましい記録であることが判明する。

また初出が「促音拗音」だったのが、加藤美方による以下の引用文、
「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会 印刷図書館 昭和59年3月30日 p.17)

ここにおいては、「促音と拗音」の順序が変わり、「と」のひと文字が省略されて、「拗促音」なる合成語に変わっている。それでも加藤美方はあくまでも「拗促音の小活字」としており、現在一部で活字用語の省略語としてもちいられている、いささか横着な「拗促音」のように、音≒声と、字の形姿、活字形態とを混同しているわけではない。
この促音・拗音・撥音・拗促音の活字表記の名称の混乱に関しては、国語教育の問題と関連づけて、いずれ再度本欄で取りあげてみたい。

手がかり難な一般図書の捨て仮名の初使用

書籍印刷、商業印刷、端物印刷における「捨て仮名」活字の移行期はなかなか判明しないことは既述した。そこで筆者の手許資料『理想社印刷所六十年』(田中昭三 理想社)から、ひとつの手がかりを紹介したい。
同書は創業者の一代記ともいえる内容の文書記録『田中末吉』(創業50周年記念 昭和46年12月28日)と、新本社工場ビルの竣工を記念した写真記録『町工場六十年』(創業60周年記念 昭和56年10月20日)との二分冊となってケースに入っているが、おもに文書記録『田中末吉』から紹介しよう[『理想社印刷所六十年』(田中昭三 理想社)は2013年オンデマンド印刷方式によって増刷された]。

『町工場六十年』口絵の田中末吉
理想社の創業者/田中末吉(明治25年―昭和34年、昭和16年ころ)

昭和10年ころの理想社印刷作業場風景(中央・田中末吉)
昭和10年ころの理想社文選作業風景
昭和10年ころの理想社植字作業(奥)、カエシ作業(手前)

理想社は1921年(大正10)の創業で、岩波書店、有斐閣などを主要顧客とする書籍印刷の中堅印刷業者である。
創立者の田中末吉は1892年(明治25)12月4日、牛込市ヶ谷加賀町にうまれた。1905年(明治38)秀英舎(現大日本印刷)に文選見習い工として入舎して、入退舎を繰りかえしながら、日本新聞社(神田)、三光舎(春日町)、文明社、中外印刷、丸利印刷、東洋印刷(芝)、凸版印刷(本所)、博文館(小石川、現共同印刷)、その他を転転として修行をかさねた。

さらに1909年(明治42)には、徒歩で、横浜・横須賀・小田原・静岡・京都・大阪などの、秀英舎の修了生が経営・在勤する工場を、文選箱、セッテン、組版ステッキだけを携行して訪ね歩き、活版印刷全般の研鑽を重ねたとされる(田中昭三)。
この時代の秀英舎には、包丁一本を抱えて修行に研鑽した、日本料理職人の修業にも似た、現場修行を重んじるよき慣習があった。また同舎の修了生は、こうして訪ねてくる「舎弟」の面倒をよくみていたことが、長野市の柏与印刷の社史などにも記録されている。

田中末吉が満を持して「理想社組版所」の看板を牛込柳町に掲げたのは1921年(大正10)のことだったが、幸い関東大地震の被害が軽微であり、また岩波書店の強い後援もあって、次第に大型活版印刷機を導入するなどして発展を続け、19331年(昭和8)現在地の新宿区改代町に移転した。

昭和10年(1935)当時の同社の記録(田中末吉筆)をみると、
活版印刷機四六全判、菊全判6台、活字鋳造機[自家鋳造用、トムソン型か]を7台に増設し、活字1回限りの使用とした。従業員70余名を使用する小工場を経営することとなる。
当時のおもなお得意先は、岩波書店、東京堂、誠文堂新光社、古今書院、長崎書店、理想社出版、創元社、白水社、有斐閣、帝大出版部、大村書店、早大出版部、羽田書店、栗田書店など、数十社のごひいきを賜る-としている。

昭和17年(1942)それまで順調な進展をかさねてきた理想社におおきな不幸が見舞った。第二次世界大戦による「企業統合」である。
理想社は軍需工場への転換を拒否し、苦渋の決断として「企業統合」の道を受け入れた。そのため設備と在庫と在版の大半を「供出」させられ、社員の相当数を「軍役召集」と「勤労奉仕」によって失い、同業数社と統合されて、世田ヶ谷区祖師谷大蔵に「疎開」を命じられた。

(田中末吉筆) 戦時体制により、印刷業界も企業統制下に置かれることとなる。この機に当面し、崩壊する民間企業に立ち、 ひとり前記のお得意先を支持し、率先して理想社を主体とした、内田ほか2業者を合併し、株式会社大和ダイワ印刷を興し、世田ヶ谷区の労働科学研究所内に全工場を統括疎開し、事業を継続する。この間大和印刷社長に就任。また戦後の苦難を嘗める。

活字・捨て仮名は、理想社の創意によるもの !?

『田中末吉』の p.83-96に、「戦前の理想社」と題する座談会が収録されている。出席者は以下の6名である。
松浦  元  大正15-昭和27年在社 当時文殊印刷社長
石渡  光  昭和8年-20年在社 元植字職長
三須  力     昭和8年-36年在社 元文選職長
建守 正好  昭和8年-18年在社 元営業
田中 昭三  理想社2代目社長(田中元子の婿)
田中 元子  田中末吉の長女

『田中末吉』 p.94より

田中昭三: 理想社印刷所が大正3年、故田中末吉によって設立されてから、今年でちょうど創業50年になります。これを記念して、先代社長の回想を兼ねて、当社の歴史的側面を記録しておくことにいたしました。
大正末期から昭和初期の、いわゆる理想社の基礎を築いた時代の諸先輩の皆さまにお集まりいただき、色々な想い出を話していただきたいと存じます。(中略)
田中昭三: オヤジは亡くなる前、入院中でも、校正刷りを持ってこさせて、それをみては、この[活字]母型を直せとか、これを検査してみろと、色々指示していましたが。
三 須:  それは真剣にやっていた。うるさかったですよ。文選ケースも自分でよく工夫されていた。活字が悪かったら、印刷が良くても駄目だと良く主張していた。
石 渡:  [活字]母型はたくさんの種類をもっていた。田端の木村さんによく新しく彫刻させていたんです。それと五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくったのは社長[先代田中末吉]だったね。あれなんかは他社ではやっていませんでした。(後略)

石渡  光(昭和8年-20年理想社在社 元植字職長)の口からでた、おもわぬことばがここに記録されている。 石渡 光は「昭和8年-20年在社 元植字職長」とされている人物である。
すなわち昭和24年5月26日『中國新聞』における「捨て仮名」の採用に先立って、昭和8年・1933-昭和20年・1945のいずれのときかに、
「五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくった」
のは理想社社長、田中末吉の創意と工夫であり、同社によって「捨て仮名」活字の使用がはじまったとしている。

理想社は現在、田中末吉の嫡孫・田中宏明ヒロアキがひきいており、2008年までは四六全判活字版印刷機も轟音をひびかせて稼働していた。
同社長によると、理想社では現在も促音・拗音の仮名を「捨て仮名、半音、まれに、寄せ仮名・促音・小仮名」活字と呼ぶそうである。
また、活字母型製造は知る限り飯田活字母型製造所に依頼していたとするが、「田端の木村さん」という活字母型製造所が、飯田活字母型製造所をさすのか、あるいはほかの活字母型製造所なのかはわからないそうである。

繰りかえしになるが、新聞媒体に「捨て仮名」活字の使用がはじまったのは、以下の比較的信頼すべき媒体に紹介されたように、1949年(昭和24)5月26日、中國新聞によりはじまっている。

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。 ――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)
「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9) ――「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)

それにたいして、ここに、書籍印刷のなかではじめて「捨て仮名」活字の使用がはじまった時期は、昭和8年・1933-昭和20年・1945のいずれのときかに、理想社社長、田中末吉の創意と工夫によって「捨て仮名」活字の使用がはじまったとする記録が存在していることを紹介した。

五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくったのは社長[先代田中末吉]だったね。あれなんかは他社ではやっていませんでした。
――石渡 光 昭和8年-20年 理想社に在社 植字職長

この記録は座談会のなかでのものであり、いささか厳密さに欠ける。
またこの程度の工夫なら、同時多発的に、各地・各所の印刷所や新聞社においても実施された可能性を否定できない。
当然手書き文書のなかには、ほとんど無意識であろうが、促音・拗音を小振りに、右寄せ(縦組み)にしたものは、先行事例としてたくさんみる。
したがって、理想社/田中末吉の創意と工夫とは、活字組版におけるたくさんの創意と同様に、手書き文書の慣行を、無理なく活字組版に取り入れたものとみなすのが順当であろう。

理想社は、戦時体制下における企業統合の際に、「印刷所保存版書籍」のすべてを没収されており、戦前の同社の記録はきわめて乏しい。
しかしながら、「捨て仮名」活字を「寄せ仮名」活字と呼称する印刷所や出版社もいまでも多数あり、すでに「片寄せして……」とした石渡 光の発言は無視できないものがある。
田中末吉が詳細に紹介した有力取引出版社の過半は現存している。理想社の「印刷所保存版書籍」は没収されているが、「版元用保存版書籍」をたどれば、出版物における「捨て仮名」活字の使用時期がわかりそうである。手がかりとは、こんな些細な記録に埋もれていることが多いのである。
問題提起をここにした。皆さんの助力を願うゆえんでもある。

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やつがれ & 片塩二朗

平野富二と活字*15 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅱ 明治初期の偉人たち-1

         

《『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会併催 掃苔会の報告 Ⅱ》
2013年11月30日[土]-12月01日[日]の両日、東京都台東区上野桜木2-4-1 日展会館において【『平野富二伝』(古谷昌二編著)刊行記念 展示・講演会】が開催された。
その際、併催されたのが「谷中霊園 掃苔会」(12月01日 10:00-12:00)である。
「掃苔 そうたい」とは、本来、苔を掃ききよめるの意であるが、転じて墓参の意もある。

もともと「掃苔会」は、13年ほど前から、ときおり有志が集まり、谷中霊園を中心に、「書かれた字、彫られた字」の字学研究と、平野富二の遺徳を偲ぶちいさな会であった。
次第に平野富二とおなじく、谷中霊園にねむる、造形者・出版人・新聞人・印刷者・活字製造者・活版印刷者などに範囲がひろがり、さらに古谷昌二氏の参画を得てからは、文字どおり「明治産業近代化のパイオニア諸賢」の記録もくわわり、その範疇はおおきくひろがった。

今回の「掃苔会」は、「平野富二命日 12月03日」を直近にひかえた平野家ご親族の参加があって、きわめて有意義な会となった。その「谷中霊園 掃苔会(2013年12月01日)の記録Ⅱ」を紹介したい。
紹介順は、基本的に「掃苔会」での墓参の順番になるが、平野富二ときわめて関係のふかかった渋沢栄一(社会実業家 1840-1931)の墓所が、現在大規模な修理中であり、ご紹介できないことをあらかじめお断りしたい。
なお掃苔会資料『苔の雫』はコピー版であるが、ご希望の向きには実費程度でおわけしたい。この連続紹介で、碑碣にみられる、刻字のおもしろさと、そのおもさを知っていただけたら幸いである。

[小冊子『苔の雫』(編集・製作:松尾篤史氏、協力:八木孝枝氏)、撮影:岡田邦明氏]

『平野展』ポスターs平野富二伝記念苔掃会 0104

◎ 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち 社会実業家 号:青淵 1840-1931) 
乙11号1側  塋域全体が工事中。

◎ 茂木 春太碑(もてぎ はるた 教育者・化学者 1849-81)
乙11号3側  中村正直撰 廣 群鶴刻。
能書家としてもしられた中村正直の楷書がみごとである。

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◎ 岸田 吟香(きしだ ぎんこう 新聞人・実業家・慈善事業家 1833-1905)
乙12号7側 本名:辰太郎 別名・号:銀次、まゝよ、東洋、桜草
1864年(元治元)ジョセフ・ヒコらと日本初の新聞『新聞紙』を創刊。『東京日日新聞』初代主筆。
ヘボンと上海にわたり『和英語林集成』の刊行に助力。水性点眼薬「精錡水セイキスイ」を製造販売。
_MG_0625uu _MG_0628uu _MG_0630uu _MG_0631uu◎ 西園寺 公成(さいおんんじ きみなり 旧名:松田雪江 事業家 1835-1904)
乙12号7側 第一銀行取締 石川島造船所の資金難にあたり、渋沢栄一の指示でそれを援助。
平野富二没後は石川島造船所の株式組織化に尽力し、取締役に就任。
_MG_0637uu _MG_0643uu _MG_0644uu _MG_0646uu◎ 内田 嘉一(うちだ よしかず 文部省役人、書家、かなの くわい幹事 1848-99)
乙13号1側 秀英体の原字の一部を担ったとみられる。福澤諭吉の初期の塾生で、福澤諭吉編『啓蒙手習之文』(木版刊本、内田嘉一版下)にみる「わかりやすい文字」は、その後の活字書体形成におおきな影響をあたえた。
_MG_0691uu _MG_0693uu _MG_0699uu◎ 井関 盛艮(いせき もりとめ 裁判官、官僚、実業家 1833-90)
乙8号11側 あざな:公敦 通称:斎右衛門 神奈川県令のとき、長崎の本木昌造一門の助力で、わが国初の日刊新聞『横浜毎日新聞』(明治5年)を創刊。その後名古屋県令、島根県令をつとめ、印刷術の普及に貢献した。
_MG_0701uu _MG_0704uu _MG_0708uu _MG_0712uu◎ 田口 卯吉(たぐち うきち 経済学者、文明史家、衆議院議員 1855-1905)
乙7号6側 本名:鉉 号:鼎軒 元幕臣。紙幣寮に出仕。沼間守一による櫻鳴社の設立会員。秀英舎役員。『日本開化小史』『大日本人名辞典』などの編纂。『東京経済新聞』の創刊など。_MG_0719uu _MG_0720uu◎ 條野 傳平(じょうの でんぺい 戯作者、新聞人、実業家 1835-1906)
乙7号甲2側 明治元年(1868)福地源一郎、西田傳助らと『江湖新聞』創刊。ついで毎日新聞の前身『東京日日新聞』を自宅を事務所として創刊し、ついで『警察新報』『やまと新聞』などを創刊。
◎ 鏑木 清方(かぶらぎ きよかた 日本画家、随筆家 1848-99)
乙13号左3側 幕末から明治初期きっての粋人・條野傳平の子ながら、長子ではなかったため、墓所は別にある。自著の装幀にみるべきものが多い(ここには鏑木清方関係の写真は省略した)。_MG_0723uu _MG_0725uu _MG_0730uu◎ 楠本 正隆(くすもと まさたか 裁判官、政治家、実業家、新聞人 1838-1902)
乙7号甲1側 備前大村藩士、維新後井上馨、野村宗七とともに長崎判事。新潟県令、東京府知事となって、平野富二の活字製造、造船事業、土木工事に多くの接点をもつ。のち『都新聞』を買収して社長となった。
_MG_0733uu _MG_0734uu _MG_0741uu◎ 藤野 景響碑(電信士、西南戦争で陣没 1857 ?-1877)
甲1号4側  通称「碑文通り」とされる中央通路に、杉の木がもたれかかるという、奇観を呈するこの碑の主人公は、父が紙幣寮に出仕しているとする以外詳細は詳らかにしない。
碑文の撰・書ならびに篆額は池原日南(長崎人、宮内省文学御用掛として明治帝に近侍。香穉とも号す。1830-84)である。池原の和様の書は著名だが、ここでは隷書味のある楷書でしるしている。当時評判の石工・廣 群鶴の石彫もみごとである。
_MG_0784uu _MG_0788uu _MG_0790uu
◎ 渡部 欽一郎君之碑(大蔵省書記官、号:柳圃 1845-86)
甲1号9側 松方正義:篆額、浦春暉:撰、並木時習:書、井亀 泉:刻
明治4-6年(1871-73)ころ、大蔵省権大書記官として井上馨に随伴して大阪造幣寮におもむき、合理的で整然とした西洋式簿記を目にして啓発され、帰京後大蔵省の簿記法を従来の和算から、アラビア数字による横書き・左起こしに改めることを進言し採用された。この碑はその事実を刻し、「このことを知るひとはすくないが、いずれあきらかにされるであろう」としている。
英和辞書などでの左起こし横組みの創始が話題になったことがあるが、簿記での左起こし・横組みは、1871-73年ころの渡部欽一郎が最初である。
篆額を書した松方正義は、ときの大蔵大臣である。なお渡部欽一郎の墓所は浅草・本願寺にあるという。
_MG_0825uu
_MG_0828uu _MG_0832uu _MG_0838uu_MG_0840uu  《これぞまさに歴史の皮肉か? 谷中霊園甲1号12側にならんで建つライバルの墓標》
谷中霊園甲1号12側の通路にそってあるくと、ちょっと奇妙な景色に遭遇する。中央通路からはいると、手前に福地源一郎の墓標があり、東京都指定史跡に登録されている。その奥、隣りに伊集院兼常の墓域がある。どちらも相当おおきな墓域だが、ふつう通路に向かってたつ墓標が、伊集院家のものだけが、いくぶん変わった向きに建立されていることに気づく。これはぜひとも現地に出むいて確認していただきたい。
1886年(明治19)この両者は熾烈な争いをしたライバルであった。それでもいまや黄泉のひととなった両者は、谷中霊園にならんでねむっている。
────────
1886年(明治19)海軍省から軍艦建造の依頼をうけた平野富二は、管轄官庁の変転で浮きあがっていた兵庫造船局を借用するために願書を提出した。ところが同時に、京橋区築地造船所の川崎正蔵(鹿児島うまれ、1837-1912)からも同様な願書が提出された。
そのため両者はそれぞれ同郷の代理人をたてて借用権を争った。そのときの代理人とは、平野側は福地源一郎、川崎側は伊集院兼常であったのである。ときはまだ旧薩摩藩・旧長州藩の勢力がつよく、伊集院はその旧薩摩閥を背景として貸し下げ競争を展開した。
結局薩摩閥勢力のちからに屈し、貸し下げ競争に敗れた平野富二は、憤激のあまり脳溢血の発作をおこしたと伝えられている。_MG_0847uu◎ 福地 源一郎
(号:櫻痴、吾曹、夢の家主人、星泓。通訳、新聞人、実業家、政治家、劇作家 1841-1906)
甲1号12側 長崎人。語学の才にめぐまれ、幕府直臣となって外遊をかさねる。このときの経験が新聞の必要性と、小屋がけではない、常設劇場「歌舞伎座」の創建につらなった。多芸多才なひとで、毀誉褒貶も多いが、條野傳平らと『江湖新聞』を発行して新政府批判を展開し、投獄され、新聞は版木もろとも焼却されて発行禁止となった。
維新のち大蔵省に出仕するも、まもなく下野して『東京日日新聞』に迎えられて、主筆兼社長となった。常設劇場「歌舞伎座」を開設し、九代目市川團十郎、河竹黙阿弥らと演劇改良運動に尽力し、歌舞伎の新作脚本もたくさんのこした。政財界でも華やかな活動を展開し、伊藤博文・井上馨らの「悪友」と、色里での艶聞も多い。号としてもちい、法名の一部にもなった「櫻痴オウチ」は、遊里吉原の芸子・櫻路サクラジに痴シれたおのれを自嘲したものとされる。
第一次『印刷雑誌』に「本木昌造君の肖像并履歴」、「平野富二君の履歴」などの貴重な記録をのこし、谷中の『平野富二顕彰碑』の揮毫にあたるなど、平野富二とはきわめて昵懇であった。
_MG_0848uu_MG_0862uu ◎ 伊集院 兼常(いじゅういん かねつね 鹿児島人。軍人、実業家、造園家。1836-1909)
甲1号12側 幕末は国事に奔走し、維新後海軍に出仕、海軍省主船局営繕課長をへて実業界に転進した。また伊集院は建築や造園、茶の湯に造詣がふかく、鹿鳴館の庭園造営が知られる。また京都の数寄屋づくりの別荘は、現在臨済宗の寺院「廣誠院」として観光名所になっている。

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◎ 宮城 玄魚(名:喜三郎 号:梅素玄魚、旧キサ、呂成、蝌蚪カト、オタマジャクシ子 1841-1906)
甲4号3側 経師士、庸書家、浮世絵士、戯作者。20歳のころ家業の経師職を継いだ。庸書(実用書芸)のほか、画にも長じ、合巻の袋絵、千社札、火消しの袢纏、商品の紙器などの意匠に独創性を発揮した。
また條野傳平、仮名垣魯文、落合芳幾らの粋人仲間との交流も篤かった。
清水卯三郎(1827-1910)がパリ万博に随行した際、玄魚の版下によってパリで仮名書体活字を鋳造し、その活字母型を持ち帰ったとされる。江戸刊本の字様を継承した玄魚の仮名書風は、東京築地活版製造所の仮名活字の一部に継承されたとみられている。
宮城家塋域はそんな玄魚の心意気を反映して、どことなく小粋で風情のある場所である。
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平野富二と活字*14 【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】の記録

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《【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)》
『平野富二伝』(古谷昌二編著 2013年11月22日 朗文堂)が刊行された。
引きつづき、平野富二の命日を直近にひかえた2013年11月30日-12月01日、【『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会】が、上野・日展会館で開催された。

『平野展』ポスターs

そんな平野家の皆さまに、【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)を開催していただいた。
著者の古谷昌二様はともかく、版元としてはこんな晴れがましいことは遠慮させていただきたいとお願いしたが、結局平野家のご要請をうけいれて、いささか晴れがましい機会をつくっていただいた。
壁に貼られたイベントポスターは、平野家がご用意されたものであるが、いささか面はゆい。
あくまでも、著者:古谷昌二様にたいする 【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】 としてご覧いただきたい。

DSCN3223 前列右から) 平野信子様(曾孫長男・故平野義政氏夫人)、やつがれ、著者:古谷昌二様、平野早苗枝様(曾孫四男・平野義和氏夫人)、大石 薫(朗文堂)、平野義和様(曾孫四男)。
後列右から) 松尾篤史様(掃苔会)、鈴木 孝(朗文堂)、平野 徹テツ様(玄孫、曾孫次男・平野克明氏長男)、平野正一様(玄孫、曾孫四男・平野義和氏長男)、平野健二様(玄孫、曾孫四男・平野義和氏次男)────────
平野家は、長崎の矢次ヤツグ家の次男、平野富二(幼名:矢次゙富次郎)が、とおい祖先の大村藩士:平野勘大夫の姓をもって平野家を再興したもので、平野富二(1846-1892)をもって初代とする。
ついで第二代:平野津類(1876-1941)、第三代:平野義太郎(1897-1980)と継承された。

第三代:平野義太郎には、富二の曾孫(ひまご)にあたる一女四男があった。
長女:平野(常磐)絢子(慶應義塾大学名誉教授)、長男:平野義政(平野文庫主宰者 1932-93)、次男:平野克明(静岡大学名誉教授)、三男:平野俊治(出版編集者 1936-93)、四男:平野義和(七福会社社長)の各氏である。

平野家第五代にあたる玄孫(やしゃご)は、各家にあって10名を数え、平野家のいやさかを飾るが、【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】に参加されたのは、平野 徹テツ(平野克明氏長男)、平野正一(平野義和氏長男)、平野健二(平野義和氏次男)の各氏であった。
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【平野富二伝』刊行 おつかれさま会】では、今後とも、平野富二と、平野富二が開発した「日本近代産業」を研究することを確認し、平野家からの新提案をうかがった。そして平野家第五代の30-40代の若手メンバーを中心として、「平野富二会」(平野会はかつて IHI に存在した)を結成することとした。
また、平野信子様(曾孫長男・故平野義政氏夫人)からは、長男家につたわる位牌を中心に、興味ぶかいおはなしを伺うことができた。
著者:古谷昌二氏のご健勝を祈念するとともに、平野家ご一同のご厚意に篤く感謝し、平野家ご一門のいやさかをお祝い申しあげる次第である。

平野富二と活字*13 掃苔会の記録 『苔の雫』Ⅰ 平野家関連

《『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会併催 掃苔会の報告》
2013年11月30日[土]-12月01日[日]の両日、東京都台東区上野桜木2-4-1 日展会館において【『平野富二伝』(古谷昌二編著)刊行記念 展示・講演会】が開催された。
その際、併催されたのが「谷中霊園 掃苔会」(12月01日 10:00-12:00)である。
「掃苔 そうたい」とは、本来、苔を掃ききよめるの意であるが、転じて墓参の意もある。

もともと「掃苔会」は、13年ほど前からときおり有志が集まり、谷中霊園を中心に、「書かれた字、彫られた字」の字学研究と、平野富二の遺徳を偲ぶちいさな会であった。
次第に平野富二とおなじく、谷中霊園にねむる、造形者・出版人・印刷者・活字製造者・活版印刷者などに範囲がひろがり、さらに古谷昌二氏の参画を得てからは、文字どおり「明治産業近代化のパイオニア諸賢」の記録もくわわり、その範疇はおおきくひろがった。

今回の「掃苔会」は、「平野富二命日 12月03日」を直近にひかえた平野家ご親族の参加があって、きわめて有意義な会となった。「谷中霊園 掃苔会」(2013年12月01日)の記録を紹介したい。
[小冊子『苔の雫』(編集・製作:松尾篤史氏、協力:八木孝枝氏)、撮影:岡田邦明氏]
平野富二伝記念苔掃会 01
030204『平野展』ポスターs《平野富二顕彰碑 并 嫡孫・平野義太郎顕彰碑》
所在地:谷中霊園 甲一号一側
・平野富二(ひらの とみじ 1846-92)顕彰碑
   篆額:榎本武揚 撰并書:福地源一郎 刻:井亀 泉(酒井八右衛門)
   1904年(明治37)平野富二十三回忌にあたり建碑披露
・平野義太郎(法学者・平和運動家・平野富二嫡孫 1897-1980)顕彰碑
   「題字:平和に生きる権利 書:平野義太郎」
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《『平野富二伝』(古谷昌二)における、二〇-四 平野富二 十三回忌記念碑建立(明治37年)の紹介》
古谷昌二『平野富二伝』には、「二〇-四 十三回忌記念碑建設(明治37年)」(p.810-818)があり、その記録が詳細にしるされている。

明治三七年(一九〇四)一一月二七日、平野富二の十三回忌に当り、谷中墓地記念碑前に於いて故平野富二氏記念碑建立式が挙行された。 
この石碑の建立は、平野富二の死去の翌年である明治二六年(一八九三)に、石川島造船所の職員・職工の有志がひそかに計画したものであった。 
その後、東京築地活版製造所の職員・職工も加わり、友人・知人等二百六十一名の醵金により、平野富二の墓所のある谷中霊園の桜並木となっている中央園路に面して、霊園事務所の隣り(甲1号1側)に建立された。[『平野富二伝』古谷昌二]

そのなかから、「補遺2 榎本武揚による篆額」の全文と、「補遺3 福地源一郎の撰文と揮毫」の一部を紹介したい。
この「補遺2 榎本武揚による篆額」に関するテーマは、やつがれも『富二奔る』(片塩二朗、p.102)で触れたが、出典が『淮南子エナンジ
』にあることを理解しないままに記述した。ここに読者にお詫びして訂正するとともに、この誤謬をご指摘いただいた古谷昌二氏の文章を紹介したい。
詳しくは、やはり『平野富二伝』(古谷昌二)をお読みいただきたい。
────────

補遺2 榎本武揚による篆額 
碑の表面上部には榎本武揚による篆額が陽刻されている。これは、一般には馴染みのない篆書体で、しかも、漢字の羅列であるので、その判読と意味するところを理解することが難しい。今までに解読を試みた例もある[やつがれのこと]が、必ずしも納得できるものではなかった。そこで、敢えて筆者なりに納得できる解読を試みた。 

篆額は漢文であるので、横書きの場合、右から左に読むことになる。右から順に第一字、第二字、‥‥‥とする。 
第一字は、「斬」の字の下に「水」を配していることから、「水」を「サンズイ」と見て、「漸」と読む。
第二字は、篆書で類似の字として「平」、「乎」、「印」があるが、上部横棒が右上がりのギリシャ文字「π」に近く、下半分は第六字の左下と同じで、篆書では「十」となることから「乎」と読む。
第三字は、「矩」の下に「木」であるから、「榘」と読む。
第四字は、そのまま「鑿」と読む。
第五字は、「実」の旧字体である「實」と読む。
第六字は、そのまま「幹」と読む。
第七字は、そのままでは類推しにくいが、「心」と読む。
第八字は、「旅」の下に「月」を配した「膂」と読む。

以上を纏めると、次のような句になる。 
「漸 乎 榘 鑿 實 幹 心 膂」
第一字から第四字までの句は、『淮南子エナンジ』の「繆稱訓 ビョウショウクン」にある 「良工漸乎榘鑿之中」と云う句から採ったと見られる。
その意味するところは、「優れた工人は、モノサシ(基準とするもの)と、ノミ(仕事を効率良く行う道具)とを用いる中で習熟するものである」と読み取れる。

参考に記すと、この句に続いて「榘鑿之中、固無物而不周、聖王以治民、造父以治馬、醫駱以治病、同材而各自取焉」とあり、「榘鑿の意味するところは、全てに共通しないものはない。これによって聖王は人民を治め、馬の名人は馬を自由に操り、優れた医者は病気を治す。これは基本とするものは同じで、それぞれに対応させているからである。」と、輸子陽が自分の子に諭したとしている。
なお、「鑿」に代えて左扁を「尋」、右扁を「蒦」とする漢字を充てて「ものさし」を意味するとする注釈本もある。〈『淮南子(中)』〉
第五字から第八字については、その出典は明らかでないが、「幹を實するに心膂たり」と読んで、「基幹となる事業を充実させることに、心も体も全身ありたけの力を注いだ。」と解釈できる。

これを全文纏めて表現すると、次のようになる。 
「優れた工業人であった平野富二君は、その正しい実践の中から習熟し、わが国の基幹となる工業を充実させることに全身・全霊を捧げ尽くした。」
これは、平野富二の生涯を的確に言い現わした漢文句で、平野富二に贈る言葉としてこれ以上のものはないと言える。

 補遺3 福地源一郎の撰文と揮毫
[前略]
この碑文について福地源一郎[櫻痴]は、建碑式に出席し、来賓として自ら述べた祝辞の中で、その動機に触れている。やや長文であるが、次にその文[『平野富二伝』では全文紹介]を紹介する。なお、特別な場合を除き常用漢字に直した。
「 参列諸君閣下
平野富二君ノ碑ハ 今ヤ斯ノ如クニ建設セラレテ 乃スナワチ 本日ヲ以テ諸君閣下ノ参列ヲ忝カタジケナ ウシ 其除幕式ヲ挙行セラレタリ 源一郎 君ガ旧交ノ一友タルヲ以テ 茲ココ ニ発起人総代 及 委員諸君ニ対シテ 斡旋尽力ノ労ヲ敬謝シ 併セテ此建碑ニ関シテ一言セント欲ス[中略]
  明治三十七年十一月二十七日
                                                      福地源一郎敬白 」  

このように、福地源一郎が、平素は碑文の[撰ならびに書の]依頼を断っているが、敢えて平野富二のために応じた理由を述べている。つまり、
「自分は平素から常人のために碑文を作るのを好まない。それは、誰を記念する碑か漠然として知る人もなく、野草の荒れるままにその中に埋もれ、むなしく夕陽と秋風に曝されて立っている碑が多いからだ。
ところが、平野富二君は、このような人ではなく、その功業勤労が偉大であったことの事実を歴史に永く伝えるべき人で、明治工業史中に残る人です。このような歴史的人物のために碑文を記すことは、文士として光栄とするところです。」
としている。

この碑の前に立って、陰刻された碑文を読もうと思っても、変体かなに素養のない者は、最初の行から素直に読めなくなってしまう。読める句だけでも拾い読みをすれば、全体の大意は理解できるが、恐らく全文を読み通す人は殆ど居ないのではないかと思う。

通常、碑文は漢文とするのが正式であるが、敢えてこれを和文とし、当時流布していた「かわら版」に見られるような変体かなを交えた書き方としたのは、福地源一郎の願った趣旨からすると、当時一般に馴染み深く、読み易いことを意識し、広く読んで貰いたいという事では無かったかと推測される。
書に於いても、文に於いても、また、字ひとつ一つに於いても、五歳年少の「旧知の一友」[平野富二]への福地源一郎の想いがこめられている。その意味で、実際に碑を前にして鑑賞するのが一番である。 

《平野富二夫妻墓標 并 平野家塋域エイイキ》
所在地:谷中霊園 甲一一号一四側
・平野富二(ひらの とみじ 1846-92)、平野こま(古ま・コマ・駒子とも 1851-1911)夫妻墓標
   書:吉田晩稼 
   太平洋戦争で焼夷弾が至近に投下されたために焼損があるが貴重な墓標である。
・平野富二碑
   題字并撰:西 道仙 碑文の書:平野富二 三女・幾み
   「平野富二碑」は富二の生母・矢次み袮の発願で、長崎禅林寺の矢次家墓地に建立されたが、
   矢次家・平野家とも上京し、ながらく所在不明となっていた。それを平野義和・正一父子が発見
   して、平野富二没後110年にあたる2002年に、谷中霊園平野家塋域に移築披露された。
・平野津類墓
   平野富二の次女にして、平野家を継承した。
・平野義太郎・嘉智子夫妻の墓
   平野富二嫡孫夫妻
・平野古登墓
   平野富二長女(1873-75)。夭逝したため詳細不詳。
・山下壽衛子刀自墓 (刀自トジは高齢女性に対する尊称)
   法名:貞倫軒本譽壽照信女(大正元年10月16日没  86歳) 詳細不詳
   最下部に古谷昌二氏からの@メール解説を紹介した[2014年03月12日補記]。

・平野富二位階碑
   従五位を1918年(大正7)に追贈叙位されている。平野義太郎建立。

_MG_0664uu _MG_0652uu _MG_0666uu _MG_0665uu _MG_0654uu _MG_0675uu _MG_0681uu _MG_0680uu _MG_0656uu _MG_0658uu _MG_0684uu _MG_0689uu平野家塋域にて
前列右から) 平野克明氏(平野富二曾孫)、中尾 勲氏(IHI OB、平野会)、小宮山 清氏、やつがれ
後列右から) 平野健二氏(平野富二玄孫)、平野智子氏(克明氏夫人)、平野義和氏(平野富二曾孫)、松尾篤史氏(掃苔会肝煎り)、小酒井英一郎氏(タイポグラフィ学会)

《『平野富二伝』(古谷昌二)における平野家塋域の紹介》
このときの「谷中霊園 掃苔会」は、日展会館における講演会・展示と併催だったために、何人かのかたには、展示解説と接客担当をお願いして、「掃苔会」への参加をあきらめていただいた。
本来なら、ここには古谷昌二さん、平野正一さんらのお姿があるはずであるが、無理をお願いして展示解説の担当をお願いした。

古谷昌二『平野富二伝』には、「一九-七 平野富二の死去」(p.793-800)があり、その逝去あたっての記録が詳細にしるされている。
そのなかから、「補遺6 勲章受章に関する裏話」、「補遺8 平野富二の墓所」を紹介したい。
これらの記録をあらためて読むと、平野富二は叙勲や位階にはきわめて無頓着であったことがよくわかるし、さらに興味深いのは、現在の平野家一門にも同様のかたむきがみられることである。
────────
補遺6 勲章受章に関する裏話
平野富二の死去に関連して、次のような裏話が伝えられている。
「平野富二追憶懇談会記録」によると、平野津類の談話として、
「亡くなった時に、三日は喪を秘して置いてくれと、大隈(重信)さんが川村純義さんに奔走してやると云うことでありましたが、位などもともと嫌いな人でありますから、速く葬儀をした方が宜いと云うことで、二日後に執り行いました。」

この談話に関連して、今木七十郎の談話も記録されている。
「(生前にも、ドコビールを紹介してくれた)児玉(少介)さんが、平野さんに、勲章を貰ってやる、それには少し如才なくしろ、と云われたが、平野先生は、(部下の今木八十郎に対して、)『別段、あれは持ち前でございます、と云って置いてくれ。なかなか忙しくもあるし、下さるものなら(頂いても)宜しいが、如才なく振舞うのは嫌だ。』と云って辞めてしまった。」

これと同じ時と見られる今木七十郎の談話が『詳伝』の「述懐片々」の中の第一八「先生の日常の風貌」に次のように記載されている。
「平野先生と、福澤諭吉先生とは、初めから民間で仕事をし、みづから平民を以て、貴ぶべき天爵とされて居ったから、勲章の下附の内意があった際にも、辞された。福澤先生は勲等を辞して五万円貰われたから、其の方が宜しかったかも知れないが、平野先生は、勲等も辞し、金も貰はれなかった。」(今木七十郎氏談) 

これは、平野富二の生前と死亡直後にも周囲の人たちから叙勲の働きかけがあったことを示すものだが、本人は堅苦しいことを嫌って辞退し、家族もそれを配慮して辞退したことが分かる。 
平野富二が追贈叙位されたのは、大正七年(一九一八)になってからの事で、このことは第二〇章の二〇-五で述べる。

補遺8 平野富二の墓所
平野富二の墓は、現在、東京都が管理する谷中霊園の乙一一号一四側にある。墓石の表面には、吉田晩稼の書になる「平野富二之墓」が陰刻されており、向かって右側面に戒名の「修善院廣徳雪江居士」と刻まれている。
背の高い石柱の門を入った参道の右側に石の水盤が置かれており、その先の参道に左右一対の石灯籠がある。
水盤は東京石川島造船所の関係者により捧げられたもので、その左側面に重村直一・島谷道弘・片山新三郎・桑村硯三郎の名前が刻んである。これらの名前は一九─六の補遺1に示した東京石川島造船所の株主名簿に示されており、平野富二から重用された部下であった。

一対の石灯籠は東京築地活版製造所の関係者により捧げられたもので、向って左側の石灯籠の台座裏面に東京築地活版製造所と刻し、続いて曲田成・松田源五郎・谷口黙次・西川忠亮・野村宗十郎など総勢十四名の氏名が列記してある。向って右側の台石裏面には左側に続くかのように十六名の氏名が列記してある。

なお、吉田晩稼(一八三〇-一九〇七)は長崎興善町の生れで、陸軍、海軍に奉職したが、辞して書家となった。大字を得意とし、筆力雄勁にして当時及ぶ者なしと評された。東京九段の靖国神社にある巨大な標柱に刻まれた題字は晩稼の代表作として有名である。本木昌造の歌友とされている。
────────
上掲写真のうち、平野家塋域に入って左側にある、比較的おおきな墓標、
・山下壽衛子刀自墓 (刀自トジは高齢女性に対する尊称)
   法名:貞倫軒本譽壽照信女(大正元年10月16日没  86歳)
は、ながらく「掃苔会」関係者のあいだでは詳細不詳とされてきた。

それが【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)に参集された平野信子氏(平野富二曾孫長男、平野文庫主宰者、故・平野義政氏夫人)からご説明をいただいた。それを記録されていた古谷昌二氏から@メールで情報をお知らせいただいたのでご紹介したい。

「掃苔会」は、多分に「書かれた字、彫られた字」の字学研究からはじまった。そして次第に明治期からの歴史研究にあゆみを進めてきたものである。したがっていまや「掃苔会」会員にとっては、墓地と墓標は、雄弁でありながら、さらにあらたな謎もうむことがしばしばある。
ここに古谷昌二氏からの@メール解説を紹介したい[2014年03月12日補記]。

山下寿衛子刀自の墓標について「詳細不詳」とありますが、先に平野家で開催していただいた「おつかれさま会」で、平野信子様から、この人は平野こまの母親[平野富二の義母]で、[故平野義政家の]仏壇に、[山下家]ご両親の位牌が祀ってある、とのことでした。
没年と年齢から計算すると、山下寿衛子さんは文政10年[1827]の生まれで、25歳のときに、こまさんが生まれたことになります。通説では平野こまは、安田清次・むら夫妻の長女とされていますが、[山下姓の]父母が別にいたことになります。
家紋の調査といい、今回の山下寿衛子刀自の問題にしろ、研究に終わりは無いようです。機会があればお位牌を拝見し、裏面にも表記がないかどうかを含めて調査したいものです。