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朗文堂好日録-036 台湾春節:林昆範さんの年賀状

恭賀新年

台湾の友人、林昆範リン-クンファンさんから、春節(旧正月)の「年賀状」をいただいた。デザインのモチーフは、中国の少数民族の「文 ≒ 紋」である。
上から順に、「瑤族 YAO ZU」、「侗族 DONG ZU」、「壯族 ZHUANG ZU」、「苗族 MIAO ZU」の、それぞれの民族を象徴する「文」である。

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中国でのお正月「春節 旧暦の正月」のことは【アダナ・プレス倶楽部 NEWS:エッ、いまごろお正月 !? 上海在住の会員がご来社に。そして「老北京のご紹介」】において紹介した。
古来中国では「暦」とは為政者が定めるものであった。したがって南北朝のように、国家が分立した際には、それぞれの国に「暦」があって、旅人などは難儀したことがあったとされる。

台湾も2014年(中華民国103年)の「暦」を、前年の2013年(中華民国102年)05月30日に、「行政院人事行政總處」が発表した【リンク:行政院人事行政總處 中華民國103年政府行政機關辨公日暦表】。
これは公務員の規定であるが、もちろん民間もこれに準拠することになる。すなわち中国と同様に、半年ほど前に、翌年の祝祭日と休暇が公示されている。

中国での2014年の法定祝日(旧暦元旦)は01月31日[金]で、休日は01月31日[金]-02月06日[木]の7連休であった。いっぽう台湾では01月31日[金]が祝日(旧暦元旦)であるのはおなじだが、休日は01月30日[木]-02月04日[火]の6日間となった
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林昆範さんと、その研究に関しては、このタイポグラフィ・ブログロール花筏でも触れてきた【朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で】。
林昆範さんはその研究を「字学研究」とされるが、わが国では「文字」ということばが普遍化しているために混乱を招きがちである。ご本人はいやがるが、「記号学」、「意匠学」とでもしたほうが「わが国では」わかりやすいかも知れない。

すなわち林昆範さんは、中国の観光産業と共同作業で「中国少数民族の文化」を考察・研究されている。
中国にはいまでも54ほどの少数民族があって、それぞれに守護神をもち、それを象徴化した図画・紋様をもつということである。
そしてその民族が守護神を失ったとき、その紋様とともに滅亡にいたる……。すなわち伝統紋様とは守護神が視覚化されたものだという。

その研究はだいぶ進捗をみたようで、紹介した「年賀状」もその一環である。また近近来日されるので、ご高説をうかがうことができそうで楽しみなことである。

近年、大陸における観光産業との共同研究で、中国少数民族の文化を考察しています。それらの考察はデザインに使われる素材〔紋様〕として扱い、その素材収集が中心です。すなわち、「文」の造形性が強調されて「紋様」になりました。そして「文」の記号性が強調されて「字」になりました。この両者が結合したものが「文字」ということです。
これまでの収集の成果を見なおして、なんらかの発表ができるようにまとめることに全力をあげます。
日本と台湾でお互いにがんばりましょう。   林  昆範

平野富二と活字*12 平野富二夫妻の一対アルバムにみる妻こまのこと

_MG_0422uu_MG_0421uu修整富二修整古ま夫人アルバム 《あまりに資料がすくない、平野富二の妻・こまのこと》
もともと平野富二に関する資料がまことにすくなかったのだから、その妻・平野こまに関しては、ほんの点描のような記録しかなかった。それを古谷昌二氏が丹念に資料を掘りおこして『平野富二伝』にまとめられた。
平野富二の夫人、こまは、
「長崎丸山町に居住する安田清次・むら夫妻の長女こま(戸籍上は「古末」の変体仮名[ひら仮名異体字]で表記)[古ま・コマ・駒子ともする]で、嘉永五年(一八五二)一一月二二日生れ、富二とは六歳違いであることはわかっているが、結婚した時期については明らかになっていない」
と古谷昌二『平野富二伝』に紹介された。

《平野富二と平野こま夫妻の写真の補整》
これまで平野こま夫人の遺影は、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』に、ちんまりとした座像として、不鮮明でちいさな写真が紹介されてきただけである。
今般の『平野富二伝』(古谷昌二)刊行記念展示・講演会に際して、平野富二夫妻の遺影が、一対のアルバムにまとめられた写真が披露された。上段のガラスケース奥の列、左から二番目で公開した。

ふるいアルバム台紙には「A Morikawa  TOKYO」とある。
左側の平野富二の遺影は、1890年(明治23)ころにふたりの愛娘と撮影した下掲写真から、上半身だけをトリミングして、加工したものとみられる。
右側のこま夫人は、髪がすっかり白髪になっているが、しっかりとした躰躯で、芯のつよい女性だったとみられる風貌である。また当時もまだ一部で信じられていた、
「写真を撮られると、指先から魂がぬきとられる(魂が指先から抜け出てゆく)」
とする俚言を信じていたものか、たもとに両手をかくして撮影されている。おそらく夫富二の逝去後、明治後半に撮影したものとみられる。
平野富二と娘たち

もともと平野富二もあまり写真は好きではなかったようで、石川島平野造船所における進水式や竣工式での集合写真(当然平野自身は豆粒のようなおおきさでしかない)のほかには、これまで紹介してきた平野家に伝承されてきた三点の写真以外は発見されていない。
『平野富二伝』(古谷昌二)刊行記念展示・講演会では、平野家に継承されてきた貴重な一次資料を公開した。しかしながら明治初期のふるい資料がおおく、また関東大震災の業火に際して、これらの資料のほとんどが土蔵に収蔵されていたために、焼失はまぬがれたものの、資料がムレがひどく、一部資料はガラスケースに収納して展覧した。また、フラッシュ撮影などによる劣化防止のために、残念ながら会場での写真撮影をお断りした。

とりわけ、この平野富二夫妻の写真は、銀塩の経時変化(劣化)がはげしく、このままでは画像としての有効性を失いかねないとみられた。そこで平野家のご意向をうけて、過剰な解釈はしないように注意しながら、適度な補整をくわえたものをここに紹介した。オリジナルプリントはできるだけ空気を遮断して保存することとした。
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『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.745)
補遺5 家族との写真
明治二三年(一八九〇)頃に撮ったと見られる平野富二と二人の娘の写真が平野家に残されている。これを図17-17[上掲写真]に示す。 数少ない平野富二の写真の中で、家族と一緒に写した写真はこれが唯一と見られる。

平野富二は、先年発病して病床に就き、その後、事業整理により仕事から暫らく離れて摂生し、漸くこの頃、小康を得た。その記念として娘に宝石を嵌め込んだ指輪を買ってやり、記念写真を撮ったものと見られる。 この[明治二三年(一八九〇)]年に撮ったとすると、平野富二は満四十四歳、上の娘津類は満十五歳、下の娘幾美は満九歳となる。
平野富二は、第一二章に掲載した図12-14[p.532]の肖像写真と比較すると、摂生に努めたためか、頬肉は引締まり、身体も肥満から脱却して上着とズボンがややダブダブに見える。カメラを意識しながら目線をそらしている。半身を少し右にそらしていることから、まだ身体が不自由だったのではないかと見られる。
上の娘津類は髷を結った姿で、やや下に目をそらし、指輪を嵌めた右手を目立つようにして膝のうえに載せている。
下の娘幾美は頭に髪飾りを着け、恐れ気も無くカメラに向って眼を据え、指輪を嵌めた左手をさらし、右手は袖にかくしている。
三人の眼の遣り場が違うのは、それぞれの時代を反映しているものと見られ、興味深い。
後年に撮ったとみられる古ま(駒)夫人の写真を図17-18に示す。白髪ではあるが、いまだ矍鑠として、芯の強い女性であったことをうかがわせる。

 《平野家一門から提示された平野富二夫妻の位牌》
また、今般のイベントを契機に、平野富二嫡曾孫の長男、故平野義政(平野文庫主宰者、1932-93)家に継承されていた、家祖:平野富二夫妻の位牌が関係者に披露された(撮影:平野健二氏)。
この位牌は、平野富二夫妻の逝去後、平野津類によって発願されたものとみられ、黒漆に金泥をほどこした格調のたかいものである。
ところが、ここでまたいくつかの課題が発生した。

まず正面上部の家紋である。これまで平野一門の家紋は、谷中霊園内の平野家塋域エイイキの墓石、水盤などにみる家紋、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の装本部にみる図版などにそれぞれ相違がみられて、「丸に違い鷹の羽紋」、「六つ矢車紋」、「丸入り六つ矢車紋」、「出抜き六つ矢車紋」などの諸見解があった。
ところがこの位牌にみる家紋は「丸に違い鷹の羽紋」である。
平野富二は生家の矢次家をでて、平野家を再興して別家をたてたひとである。また平野富二自身は家紋などに頓着しない性格だったかったかもしれないが、この平野家家紋に関しての調査を継続して、古谷昌二氏が中心となっておこなうことをお願いした。
平野富二夫妻位牌表3uu平野富二夫妻位牌裏uu

基本 CMYK 基本 CMYK 三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の装本部にみる図版。三谷は函、表紙などに上図の家紋を紹介し、表紙の箔押しには、平野家家紋とあわせて、下図のように、本木昌造の私製の家紋とされる、俗称「まる も 」紋を重ね合わせた「デザイン」をもって本木昌造、平野富二の両者を紹介している。
三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の刊行に際しては、平野鶴類、平野義太郎の両者が物心共に最大の支援をしており、その関連記録として「三谷幸吉関連寄贈先名簿」「図書館寄贈先名簿」などが平野家に現存している。したがって平野津類、義太郎はこれらの図版を見ていたはずで、父祖の位牌にみる「丸に違い鷹の羽紋」との相違にどのような対処をしたのか興味のあるところである。

位牌の表面は、
「 修善院廣徳雪江居士 ── 平野富二法名
興善院明勤貞徳大姉 ── 平野こま法名 」
位牌の裏面は、
「 故平野富二
弘化三年八月十四日生
明治二十五年十二月三日卒
故平野駒子
嘉永五年十一月二二日生
大正元年十二月二一日卒 」
とある。
この記録は、戸籍とも、これまで記録されてきた諸資料とも齟齬はない。ここでのふたりの生年は、和暦(旧暦)で表示されているとおもわれるが、これを西暦(新暦)になおすと、こま夫人の生年月日ですこしく困ることが発生する。
「 故平野富二
一八四六年一〇月〇四日生
一八九二年一二月〇三日卒
故平野駒子
一八五二年〇一月〇一日生
一九一二年一二月二一日卒 」
となる【試験データ: CASIO こよみの計算】。

すなわち嘉永五年とは、ふつうは西暦一八五一年とされる。筆者もこれまでそのように表記してきた。しかし厳密に計算すると、平野こまの生年月日とされてきた「嘉永五年十一月二二日」とは、西暦では年がかわって、それもあらたまの新年元旦の「一八五二年〇一月〇一日うまれ」となる。
この和暦(旧暦)をまたいでいきたひとの記録には、和暦(旧暦)と、西暦(新暦)の混用があったりして悩ましいが、平野こまの記録に関しては、これまでどおり、筆者は「1851年(嘉永5)10月4日うまれ」とさせていただくことにした。

平野こま(古ま・コマ・駒子とも)は1851年(嘉永5)11月22日-1911年(大正元)12月21日をいきた。
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『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.144
平野富二の結婚
[平野富二の結婚の]相手は、長崎丸山町に居住する安田清次・むら夫妻の長女こま(戸籍上は「古末」の変体仮名で表記)で、嘉永五年(一八五二)一一月二二日生れ、富二とは六歳違いであることはわかっているが、結婚した時期については明らかになっていない。

しかし、「矢次事歴」[平野富二の生家・矢次ヤツグ家の歴史をつづった記録]の記録によると、明治五年(一八七二)一〇月七日付けで町方に提出した矢次家(温威とその家族)の事歴の中には、平野富二の名前はなく、その後に作成された別の記録に「明治五未年温威弟平野富治外浦町ヘ分家シ平野家ヲ立ル妻おこま」とある。

谷中霊園平野家塋域にある、夭逝した長女・ことの墓。ほぼ正方形のちいさなもので、妙清古登童尼とだけ刻されている。

谷中霊園平野家塋域にある、夭逝した長女・ことの墓。ほぼ正方形のちいさなもので、妙清古登童尼とだけ刻されている。

また、三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』の【補遺】(一二三ページ)に、長女こと[古登トモ]が明治八年(一八七五)七月に三歳で病死したとあり、このことから、明治五年(一八七二)中に長女が出生していたことが分かる。
なお、長女ことについては[当時は戸籍法がまだ未整備なために]平野富二の戸籍上には記載がないので、出生の月日までは確認できない。

以上のことから、平野富二の結婚は、明治四年(一八七一)の年末から明治五年(一八七二)二月の新戸籍届出までの間と見ることができる。

『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.792
本木昌造と平野こま(古ま)夫人との間の逸話
平野富二夫妻が長崎から東京への移転に際して、本木昌造とこま(駒子)夫人との間の逸話が、三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』(一二三ページ)に紹介されている。

平野先生が長崎を發足せらるゝに際し、本木先生は平野先生の夫人駒子さんを招かれて、先生御自身が着て居られた縞シマの着物を切り裂いて財布をつくり、當時、本木先生は非常に窮乏して居られたにも拘らず、何所で何う工面せられたか、其の財布に身を裂く如き金貮拾圓を入れて夫人の小遣銭として渡された。
夫人は、本木昌造先生の内情を餘り良く知って居られる関係上、非常に固辞されたのであった。が、しかし夫人は強いて言はれるまゝに、それを受けられたのであったが、其の金は決して小遣銭等に使ふべきものでないと、大切にし、東京に上られてからも肌身を離さぬ位にして居られた。

果せる哉、上京以来、活字製造の資金難が忽ち襲来して、夫人が受けられた餞別金貮拾圓也も其の儘、その資金に放り出して仕舞はざるを得なかった。しかし本木昌造先生より受けられた記念の縞の財布は、これを永らく平野家に保存して置かれて、大正十二年(1923)までいたったが、惜しむらくは、大正十二年の大震災は、この貴重の記念品をも烏有に帰して仕舞ったとのことである。
十五両   浅五郎渡

    五 両   吉田    渡  
以上は平野先生自筆の「金銀銭出納帳」(平野家所蔵)[現在は発見されていない]に明記してある興味ある事柄である。──編者[三谷幸吉]

『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.145)
補遺7 平野(旧姓佐藤)龍亮との出会い

明治二五年(一八九二)の或る時、平野富二は仙台から上京して苦学している佐藤龍亮と知合い、好感の持てる好青年であったので、平野の姓を与えて東京石川島造船所に入社させた。 

平野龍亮は、明治七年(一八七四)七月七日、仙台藩士佐藤文弥の四男として仙台に生れた。明治二三年(一八九〇)、数え年十七歳のとき東京に出て、牛乳配達や新聞配達などをして苦学していたが、明治二五年(一八九二)、平野富二の面識を得、好まれてその養子となり、東京石川島造船所に入社した。平野富二には、後継ぎで二女の津類(当年九月で満十七歳)がいたが、その伴侶にさせる意志があったものと推察される。
しかし、平野富二はその年の一二月に突然死亡してしまった。津類とはどの程度の接触があったか分からないが、翌年、津留は青森県出身でカリフォルニア大学卒業の建築技師堺勇造を入婿として迎えた。 

明治二七年(一八九四)、平野龍亮は東京石川島造船所を離れ、海軍の募集に応じて機関兵となった。その頃、海軍ではイギリスの造船所で建造していた軍艦「富士」の回航員選定が行なわれ、選抜されてイギリスに赴き、一年半ばかりで帰国した。
明治三一年(一八九八)、軍籍満期となり、機械学を研究するためアメリカに渡ったが、間もなく修業のため一船員となって船中労働を経験しようとイギリス行きの貨物船に乗り込んだ。明治三二年(一八九九)、イギリスに到着し、ヴィッカース造船所に入ったが、余りに熱心なため日本の軍事密偵と見誤られて退社した。その後、ヤルロー、テームズ、アームストロング等の各造船所に勤務し、明治三五年(一九〇二)春、帰国した。

[平野龍亮は]同年一一月二七日に東京谷中で行なわれた「平野富二君碑」の建立記念式典に列席している(二〇-四の補遺8を参照)。
明治三八年(一九〇五)六月、京橋区月島東仲通八―二に平野鉄工所を開設し、船舶用諸機械、陸用機械、ボイラー、ポンプなどの製造を開始した。明治三九年(一九〇六)六月、平野富二の妻こまを養母として入家・入籍させ、京橋区新湊町五丁目一番地に分家させた。明治四四年(一九一一)一二月、平野こまの死亡により平野家から廃家され、平野姓のまま独立した。

その後の[平野龍亮の]動向については不明であるが、昭和一五年(一九四〇)に発行された『図説日本蒸汽工業発達史』に、平野龍亮氏所蔵の「石川島造船所製作品写真帳」からとされる、石川島造船所の初期の写真が抜粋掲載されている。
なお、平野龍亮は、富士九合名会社の代表社員である富士田九平の六女と結婚した。〈以上、『日本百工場』、『明治人名辞典』〉

朗文堂好日録-035 王のローマン体活字 ローマン・ドゥ・ロワの紹介

フランス王立印刷所 フランス国立印刷所シンボルロゴ フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所 新ロゴ

《火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所》
朗文堂ニュースアダナ・プレス倶楽部ニュースの双方で、「火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所」の奇妙な歴史を紹介してきた。それに際してフランス国立印刷所刊『Étude pour un caractère : Le Grandjean』の画像を YouTube に投稿して紹介してきた。

トラジショナル・ローマン体とされる、「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」に関する資料は、もともとフランス王立印刷所の専用書体であり、それだけに情報がすくなく、わが国ではほとんど紹介されてこなかった。
その「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」を紹介する、書物としての 『Étude pour un caractère : Le Grandjean』 は、おおきなサイズであり、銅版印刷、活字版印刷、箔押しを駆使した限定60部の貴重な資料である。しかしながら周辺資料に乏しく、厄介なフランス語であり、また大きすぎるがゆえにコピーもままならない。
すなわちいささかもてあまし気味である。そのためにできるだけ資料を公開し、もし「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」を研究テーマとされるかたがいらしたら、できるだけ便宜をはかりたいとかんがえている。

【画像紹介:YouTube 3:53  『Étude pour un caractère : Le Grandjean』】

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写真上) フランス国立印刷所では、いまなお活字父型彫刻術を継承しており、『Étude pour un caractère : Le Grandjean』完成披露にあわせて、展示資料として、おおきなサイズで、わかりやすく活字父型、活字母型、活字を紹介した。
写真中) フランス国立印刷所では『Étude pour un caractère : Le Grandjean』の刊行に際し、ジェームズ・モズレー James Mosley 氏に寄稿を依頼し、それを仏語と英語の活字組版によって印刷紹介している。この写真は、その寄稿文の組版の実際である。英語版から河野三男氏が日本訳をされたが、本書製作の裏話が多く、あまり参考にならなかった。日本語版テキストは保存しているのでご希望のかたには提供したい。

写真下) ジェームズ・モズレーの寄稿文を、活字版印刷機に組みつけた状態の写真。
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王のローマン体〔ローマン・ドゥ・ロワ Romains du Roi 1702〕と

活字父型彫刻士 フィリプ・グランジャン〔Phillippe GRANJEAN  1666-1714〕
                      〔取材・撮影・仏語翻訳協力:磯田敏雄氏〕

王のローマン体、「ローマン・ドゥ・ロワ  Romains du Roi ロァとも」と呼ばれる活字書体は、産業革命にわずかに先がけ、それまでの活字父型彫刻士という特殊技能士による視覚と手技だけに頼るのではなく、活字における「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」をめざしてフランスで製作された。
それは後世、オールド・ローマン体からモダン・ローマン体へと移行する時期の活字、すなわち「過渡期の活字書体  トラジショナル・ローマン体 Transitional typeface, Transitional roman」とされた。

ローマン・ドゥ・ロワの誕生には、16-18世紀フランスの複雑な社会構造が背景にあった。1517年、マルティン・ルターによる『95箇条論題 独: 95 Thesen』に端を発した宗教改革の嵐は、またたくまに16世紀の全欧州にひろがった。やがてカソリック勢力からは、新興勢力のプロテスタントを押さえ込もうとする巻きかえしがはじまった。
フランスでも拡張するプロテスタント勢力を排除・抑圧するためのさまざまな対策が講じられた。そのはじめは、フランス王ルイ13世(Louis XIII、1601-43)の治世下で、枢機卿リシュリュー公爵(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 1585-1642)が、1640年ルーブル宮殿内にフランス王立印刷所Imprimerie Ryyal を創設したことである。
その目的は、国家の栄光を讃え、カトリック教をひろめ、文芸を発展させることにあった。一方でリシュリューは文化政策にも力を注ぎ、1635年に「フランス語の純化」を目標とする「アカデミー・フランセーズ l’Académie française」を創設した。

アカデミー・フランセーズの主要な任務として、フランス語の規範を提示するための国語辞典『アカデミー・フランセーゼ(フランス語辞典) Dictionnaire de l’Académie française』の編集・発行があった。その初版はアカデミーの発足後60年の歳月を費やして完成し、1694年、次代のフランス国王ルイ14世に献じられた。同書は初版以後もしばしば改訂され、現在は1986年からはじまる第9版の編纂作業中にあるとされる。

ルイ13世の継承者フランス王ルイ14世(Louis XIV、1638-1715)はブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643-1715)で、ブルボン朝最盛期の王として、またフランス史上でも最長の72年におよぶ治世から「太陽王Roi-Soleil」とも呼ばれた。
1692年、ルイ14世はアカデミー・フランセーズに、「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の独占的な活字資産として、あたらしい活字書体の製作を命じた。アカデミー・フランセーゼはただちに小委員会を結成してあたらしい活字書体の検討に着手した。
ジェームズ・モズレーによるとこの委員会の構成員は、ジル・フィユ・デ・ビレ(Gilles Filleau des Billettes  59歳の科学者)、セバスチャン・トルシェ(Sebastien Truchet  37歳の数学者)、ジャック・ジョージョン(Jacques Jaugeon  38歳の神父にして数学教育者)、ジャンポール・ビニヨン(Jean-Paul Bignon  32歳の教育者)であった。

メンバーは学識はゆたかだったが、必ずしも印刷と活字の専門家とはいえなかった。かれらは手分けして、
「われわれはすべての事柄を保存する必要がある。まず技芸からはじめる。すなわち印刷術の保存である」(『王立アカデミーの歴史 Historie de l’Academie royale des Sciences』)として、印刷所・活字鋳造所・活字父型彫刻士・製紙業者・製本業者などの工場をおとづれて、取材をかさねたり、わずかな印刷と活字製造関連の既刊書を読んでいた。数学教育者のジャック・ジョージョンは、
「消え失せた言語と、生きている言語など、あらゆる言語のキャラクターを集めた。また天文学・科学・代数学・音楽など、ある種の知識にだけ必要な、特殊キャラクターを集めていた」

結局アカデミー・フランセーズは、小委員会のほかにニコラ・ジョージョン Nicolas Jaugeon を中心に、あらたな技術委員会を結成して、現実的な活字書体の研究に着手することとなった。ジョージョンの意図はアカデミーの意向を受けて、活字における徹底した「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」にあるとした。
ジョージョンを中心とした技術委員の3名は、視覚と経験にもとづく彫刻刀にかえて、定規とコンパスをもちいて、精緻な活字原図を書きおこした。そしてその活字原図は、アカデミーのたれもが理解できるように、大きなサイズの銅版に彫刻され、少部数が銅版印刷された。銅版彫刻師はルイ・シモノーであった。
このあたらしい活字書体は、この段階で「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の名称をあたえられた。
しかしこの銅版印刷物からは、書体の「鑑賞と観察」はできても、実際の活字として完成するまでには、もう少しの、そしておおきな努力が必要だった。
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フィリップ・グランジャン(Philippe Grandjean 1666–1714)は、若い頃から活字鋳造と活版印刷に関心をいだいて、パリにでてきていた。
ルイ14世にグランジャンの活字父型彫刻士としての能力を推薦したのはルイ・ポンチャートレイン(Louis Pontchartarain  1643-1727)とされる。その卓越した技倆は「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」のディレクター、ジャン・アニゾン Jean Anisson も認めるところとなった。

グランジャンはアカデミーの命をうけて「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の活字父型彫刻に、1694-1702年の8年余にわたって集中した。最終的には「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、21のサイズの、アップライト・ローマン体とイタリック体が完成した。
しかしながらその事業はグランジャン一代で終わることはなく、アシスタントだったジャン・アレキサンダー Jean Alexandre と、さらに後継者のルイス・ルース Louis Luce に継承されて完成をみた。

グランジャンをはじめとする活字父型彫刻士は、アカデミーから提示された「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」の原図を「参考」にはした。したがっていくつかのキャラクターのフォルムは、たしかに原図にもとづいているし、セリフは細身で、水平線がめだつという特徴は維持されている。
またイタリックの傾斜角度は均一に揃っていて、それまでのオールドスタイルのイタリックとは組版表情を異とする。

あらためて『Étude pour un caractère : Le Grandjean』に再現された、銅版印刷による原図をみると、ヘアライン(極細の線)や、ブラケットの無い細いセリフ──それだけに脆弱であった──は、当時の印刷法や紙の性質(この時代の用紙は当然手漉き紙であり、堅くて厚さが均一でなく、また印刷にあたっては十分に濡らしてから印刷していた)や、手引き印刷機によるよわい印圧、インキの練度では紙面上に再現できないとして、活字父型彫刻士としての矜持をもって、随所に「解釈」を加えていた。

「ローマン・ドゥ・ロワ」は、きたるべき産業革命時代を前にして、グランジョンらは、すぐれて人と関わりのふかい活字のすべてを、科学という人智をもって制御するより、視覚に馴致したみずからの経験と、ながらく継承されてきた技芸を優先させていたことがわかる活字書体である。
すなわちモダン・ローマン体と呼ばれる一連の活字書風が誕生するためには、まだ印刷術および周辺技術そのものが未成熟であった。それがして「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、「過渡期の活字書体、過渡期のローマン体  Transitional typeface, Transitional roman」とされたのである。

「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」には、フランス国王ルイ14世と「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の権威を保証するメルクマール(サイン)が付与されている。それはフランス王ルイ14世 Louis XIVのイニシャル、小文字の「l エル」の左側面のちいさな突起である。この突起の有無が、真正「ローマン・ドゥ・ロワ」の品格を保証した。

「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」は法による保護のもとに、フランス王立印刷所、そして現代ではフランス国立印刷所における、誇るべき占有書体としての地位をゆるぎなく保持している。
それでも18世紀から、このあたらしい活字書体は、「l エル」の突起部の有無をふくめて、多くの影響と同時に、摸倣書体をうんできた。なかんずく ピエール・シモン・フルニエ P.S.Fournier と、フランコ・アンンブロース・ディド P.F.Didot  らのフランスの活字鋳造者であった。
かれらの活字書体は、ひろく民衆のあいだに流布して「過渡期のローマン体 Transitional roman」と呼ばれている。時代はやがてモダン・ローマン体の開花をみることとなった。

そして、活字設計にあたって、数値化と規格化をもとめて、キャラクターを48×48の格子枠に分割する ── すなわち 2,304  のグリッドをもうけて書体設計をするという「ローマン・ドゥ・ロワ」の基本構想は、良かれ悪しかれ、モダーン・ローマンの開発はもとより、こんにちの電子活字(デジタルタイプ)の設計にまでおおきな影響をおよぼしている。

◎ 参考資料:

Type designers : a biographical deirectory,  Ron Eason, Sarema Press, 1991  
Studies for a Type,  James Mosley ── 本書の解説文:翻訳協力/河野三男氏

20140127221626282_0001 20140127221626282_0002 20140127221626282_0003 20140127221626282_0004 20140127221626282_0007 20140127221626282_0006 20140127221626282_0008 ローマン・デュ・ロア01 ローマン・デュ・ロア02

平野富二と活字*11 『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会-平野富二没後120年、平野活版製造所(東京築地活版製造所)設立140年、石川島造船所創業160年

平野表紙uu 明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝 考察と補遺』
古谷昌二 編著
────────
発行:朗 文 堂
A4判 ソフトカバー 864ページ
図版多数
定価:12,000円[税別]
発売:2013年11月22日
ISBN978-4-947613-88-2 C1023 

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『平野展』ポスターs明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝』 考察と補遺  古谷昌二編著
刊行記念 展示・講演会
─────────
日 時 : 2013年11月30日[土]-12月01日[日]
      11月30日[土] 展示 観覧  10:00-16:30
                    著者講演会 14:00-16:00
             12月01日[日] 展示 観覧    10:00-15:00
                    掃 苔 会       10:00-12:00
      編著者・古谷昌二氏を囲んでの懇話会、サイン会は、会期中随時開催
会 場 : 日展会館
─────────
主 催 : 平 野 家
協 力 : 朗 文 堂
後 援 : 理想社/タイポグラフィ学会/アダナ・プレス倶楽部

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明治産業近代化のパイオニア 平野富二  遺影三点紹介平野富二 東京築地活版製造所初号明朝体
1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47
「平野富二」の名は、東京築地活版製造所 明朝体初号活字をもとに書きおこした 

平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち


《『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会に際し、主催者/平野家ご挨拶 および 親族の紹介》
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 2013年11月30日[土]、古谷昌二氏の講演に先だって、主催者/平野家を代表して、平野富二曾孫・平野義和氏よりご挨拶があった。つづいて平野富二玄孫・平野正一氏より、ご一族と、ご親族の紹介があった。おりしも数日後の12月03日には、「平野富二没後121年」の記念の日を迎えるときであった。
10年前に開催した《平野富二 没後110年祭 》のおりは、あいにくの小雪まじりの寒い日であったが、今回は晴天に恵まれ、多くのご親族と、聴衆の皆さまをお迎えして、会場ははなやいだ雰囲気につつまれた。

写真は上より
◎ 平野家代表  平野義和氏(平野富二曾孫四男:七福会社社長) ご挨拶
◎ 平野家代表  平野正一氏(平野富二玄孫長男) ご挨拶ならびにご親族紹介
◎ 平野家代表  平野克明氏(平野富二曾孫次男:静岡大学名誉教授)
◎ 平野家代表  平野健二氏(平野富二玄孫次男)と、平野家一族のご夫人とお子様たち
◎ 山口家代表  山口景通氏およびご親族(平野家外戚。平野富二の三女:山口幾み様のご後継者)
◎ 矢次家代表  矢次めぐみ氏およびそのご家族(平野富二の生家:矢次重平様のご後継者)

 《古谷昌二氏 『平野富二伝』  刊行記念講演会》
いよいよ『平野富二伝』の編著者:古谷昌二氏による記念講演がはじまった。
講演は途中休憩をはさんで2時間におよぶ長時間であったが、明治産業の近代化と、それをなした先駆者のひとり、平野富二に関して、平易に、諄諄と説かれ、意義深い講演であった。
四半世紀ほどにおよぶ古谷昌二氏のねばりづよいご研鑽によっって、ようやく霧のかなたに霞み、歴史に埋没するおそれすらあった平野富二の実像が、ここに現出したおもいがした。


今回は、日展会館二階全室のすべてを拝借して、ゆったりとした記念展示をこころがけた。
展示品はおもに、一般にははじめて公開される、平野家に継承された貴重な一次資料であった。それらのすべては『平野富二伝』に詳細に紹介されているので、ぜひご購読をいただきたい。

また後援にあたられた「タイポグラフィ学会」では、平野富二賞をもうけて、すぐれた功績をのこしたタイポグラファを顕彰している。
その関連資料と、これまでの受賞者:吉田市郎氏、森澤嘉昭氏、大日本印刷株式会社秀英体開発室の関連資料なども展示された。

「タイポグラフィ学会 ───── 平野富二賞は、タイポグラフィの普及発展に著しく功績のあった個人及び団体に対するもので、その対象者は社会へのタイポグラフィの認識を高める行動及び啓蒙などにおいて、その事績が本学会にとどまらず、広く社会に貢献していると認められるものです」

アダナ・プレス倶楽部は、池原奞・池原香穉による、いわゆる「和様三号活字」をもちいて、平野富二の短歌を組版し、ご来場者ご自身での印刷体験をしていただき、ご来場記念品とした。
────────
記念講演終了後も、会場は熱い熱気につつまれて、あちこちで議論と情報交換と談笑の輪ができていた。
今回は主会場:日展会館でのイベントを、写真資料をもってご紹介した。
展示資料のほとんどは『平野富二伝』に紹介されているが、今回の催事にあたって、あらたに発見された資料もある。
谷中霊園での「掃苔会」の模様をふくめて、さらに本タイポグラフィ・ブルグロール花筏でご紹介したい。

_MG_0566uu _MG_0565uu _MG_0573uu _MG_0579uu _MG_0414uu _MG_0415uu _MG_0411uu _MG_0421uu _MG_0422uu _MG_0313uu _MG_0418uu _MG_0424uu _MG_0430uu _MG_0431uu _MG_0307uu _MG_0304uu _MG_0309uu _MG_0365uu _MG_0382uu平野富二自作短歌UU平野富二自作短歌(1887年/明治20年)
活字:『BOOK OF SPECIMENS』 活版製造所 平野富二 明治10年版(平野ホール所蔵)復元活字
「世の中を 空吹く風に 任せおき  事を成す身は 國と身のため」

_MG_0495uu _MG_0490uu _MG_0489uu 『平野富二伝』著者・古谷昌二氏と実兄・古谷圭一氏 DSCN1499uu

朗文堂好日録-034 毎+水=? 【回答編】年度末の宿題を、年末年始に回答です。

毎+水=?
 【 回  答  編 】

弘法大師 空海が、みずからの名前「空海」に
「毎+水」を「海」の字としてもちいていました。
最末部に どんでん返しがお待ちしております(冷汗)。

空海中国書法大字典

空海 海_ページ_3空海 海_ページ_4
 ↑ 資料1) 中国の「字」の資料
        『中国書法大字典』(香港 中外出版社 1976年11月修訂版) 
                  p.853-4 「海」標本35例     内 「海」字体は35例 「毎+水」字体は00例

↓  資料2)  日本の「字」の資料
         『書体大百科字典』(飯島太千雄編 雄山閣出版 平成8年4月20日)
         p.563-4  「海」標本20例   内 「海」字体は16例 「毎+水」字体は04例

空海 海_ページ_1
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《海と、毎+水≒海 の使用例を日中両国の 字書 にみる》
上掲のよっつの図版は、中国とわが国の、書芸家・書法家による「字」の標本を収集したものである。

資料1) 中国の「字」の資料
      『中国書法大字典』(香港 中外出版社 1976年11月修訂版) p.853-4
ここには「海」の標本35例があり、 内「海」の字体が35例で、「毎+水」字体は紹介されていない。
中国ではながい歴史のなかで、「字」も少しずつ形象をかえてきたが、いわゆる「雑体」とされるもの以外は、後漢の時代(西暦100年、永元12)に成立した許慎『説文解字』があり、そこで定義された「六書の法」からおおきく逸脱することはほとんど無い。もちろん現代中国における「簡体字、簡体」もその範疇で展開されている。

資料2) 日本の「字」の資料
      『書体大百科字典』(飯島太千雄編 雄山閣出版 平成8年4月20日) p.563-4
ここには「海」の標本20例があり、内「海」の字体は16例、「毎+水」字体は04例となっている。
ここでも「毎+水≒海」としたのは空海が最初とみられる。これは字の形成からいうと、「氵サンズイを水とみたて、旁の毎の下に置いた」もので、やや類似した例としては「峰 常用漢字 → 峯 異体字」、「島 常用漢字 → 嶋、嶌 異体字」などをあげることができるが、それでも「毎+水≒海」としたのは空海の独創とみられる。

『書体大百科字典』の編者:飯島太千雄氏は、空海の書が好きとみえて、ほかの事例紹介でも空海の書による、いわゆる「則天文字」、「梵字」、「飛白」などの書を引くことが多い。
「海」の字体16例のなかでも、空海の書として、637.「海 伊勢正法寺観音堂額」、7.「海 二荒山碑銘」、8.「海、毎+水、併用 空海 綜芸種智院式」、6.「海 益田池碑銘」のよっつの例をあげている。

いっぽう「毎+水」字体のほうは、標題語「丸のなかに海」につづき、許慎『説文解字』の例のつぎに、篆書風の4.「孫 技秀 百体千字文」がある。この孫 技秀は、いわゆる「雑体」の書を多くのこし、その影印本は、『篆書百体千字文』としてマール社から発売されている。

また肉太の大字、394.「毎+水 後小松院 円覚寺額」がある。この書額は実見していないが、円覚寺 は臨済宗(禅宗)の寺であり、空海が開いた真言宗の寺では無い。
また後小松院とは、室町時代、北朝最後の天皇「後小松天皇」(1377-1433)の追号で、空海没後550-600年余の長期にわたり、また禅宗寺院にも、この「毎+水≒海」の「字」がもちいられたことがわかる事例である。また高野山西南院には『後小松天皇宸翰秘調伝授書一幅』(重要文化財)がのこされている。これをみると、後小松天皇とはきわめて能筆のひとであったようである。
あとはすべて空海の書からの標本で、 8.「海、毎+水併用 空海 綜芸種智院式」、10.「毎+水 空海 越州帖」となっている。

《真言宗の開祖:弘法大師 空海、天台宗の開祖:伝教大師 最澄》
あらかじめお断りすると、やつがれは宗教ひと、とりわけ開祖・始祖としてあがめられるひとは苦手である。
もちろん、すぐれた才能と、学識によって、この国のひとびとの、こころの安寧をもたらした功績は素直に評価するが、どうしても近寄りがたいものがあり、できたら敬して遠ざかっていたいとするおもいがつよい。
とりわけ空海の周辺には、史実よりも伝承とされるものが多くみられるだけに厄介である。

『空海の風景』を著した司馬遼太郎もそんなおもいがあったようで、「小説」のなかで空海を、「喰えないひと」、「あざとい一面がみられる」、などと評している。
やつがれはそこまで述べる胆力も学識もないので、単にふたりを平安時代初期のすぐれた宗教ひととして捉え、空海、最澄と呼びたい。
そして、「わがくにの真言宗の開祖:弘法大師 空海 774-835」と、「わが国の天台宗の開祖:伝教大師 最澄 787-822」の日本語版ウィキペディアにリンクをもうけて紹介を終えたい。
以下、『弘法大師の書とその周辺』(東寺宝物館編 1987年9月20日)からその書をみたい。

風信帖

資料3)  『弘法大師尺牘 セキトク(風信帖 フウシンジョウ)』
                一巻 紙本墨書 縦28.8センチ、横全長158.8センチ 平安時代前期 京都東寺蔵
「風信雲書 天自 ヨ り翔臨 ショウリン す 之を披 ヒラ き 之を閲 ケミ するに 雲霧を掲 カカ ぐる如し 云云」
からはじまる第一信があるために、ふつうは『風信帖フウシンジョウ』として知られる。
この書状は書風からみると草書であり、あきらかに王羲之をまなんだ形跡がみられる書である。『風信帖』は空海40歳ころ(812-3)の書とみられ、格調がたかく空海遺墨の第一とされている。
最終部日付の前の行は「不具 釋空(毎+水)海 状上」としるされている。

弘法大師御遺告 巻首部
弘法大師御遺告 巻末部資料4)  『弘法大師御遺告 ゴユイゴウ』
       絹本墨書 縦53センチ、横全長393センチ 平安時代(12世紀) 京都東寺蔵
空海が入定(逝去)に6-7日ほど先だって、弟子たちにあたえた遺誡の書。
空海の遺言は、弟子がしるしたとみられるものをふくめ6種類あるが、これは「承和二年三月十五日」(835年。空海は旧暦承和2年3月21日(新暦835年4月22日)卒。年と日は「則天文字」)の日付をもち、東寺の聖教中でも特に重要視され、秘蔵されてきたものである。
書風は隷書の味をもった独特のもので、「則天文字」の使用も多い。最終部に「入唐求法沙門空(毎+水)海」としている。

大和州益田池碑銘 部分

大和州益田池碑銘2
資料5)  『大和州ヤマトノクニ益田池マスダノイケ碑銘 幷 序』
       紙本墨書 縦31.5センチ、横全長790.1センチ 室町時代の模本 京都東寺蔵
825年(天長2)大和ヤマトの国高市郡に、干魃にそなえた溜め池「益田池」が完成した(現奈良県橿原市周辺に所在したと比定されるが、埋め立てられて現存しない)。空海はこれを喜び、同年9月25日に碑銘を撰し、揮毫したとされる。原碑は室町時代に高取城築城の際に石垣にもちいられて現存しない。現在これを模刻した石碑が橿原市の久米寺境内に建立されている。

この模刻碑を現地でみたが、やつがれがどうしても空海を苦手とする理由がはっきりした。
この碑は、書風からいうと草書を主とし、鳥などは象形というより、具象そのものの鳥を描き、篆書、隷書、そのほか、雲書、垂露、転宿星などの雑体書にあふれている。そしてここにも「則天文字」が縦横に駆使されていた。
つまりこの復元碑には、事大趣味、衒学趣味が表出しすぎて鳥肌がたった。
なぜ「大和國」ではなく「大和州」とするのか。なぜ「沙門 シャモン 梵語Sramana」として、いち僧侶として謙譲の姿勢をみせながら、「遍照金剛」などと、「密教における大日如来の別称。光明が遍アマネく照らし、さらに金剛などと、金カネのうちでも最も堅い」と豪語するのか……、とおもってみていた。

序文の書き出しは、
「大和州益田池
  碑銘 幷 序
   沙門遍照金
   剛 文 幷 書   」
である。
それでも『大和州ヤマトノクニ益田池マスダノイケ碑銘 幷 序』は、わが国ではその奇抜さのゆえか、空海が好んで書いていた「梵字」(ボンジ、梵語すなわちサンスクリットをしるすのにもちいる字。字体は種種あるが、日本では主として悉雲シッタン字をもちいてきた。光明真言を参考[広辞苑])や、「飛白」(ヒハク、漢字書体の一。刷毛ハケでかすれ書きにしたもの。後漢の蔡邕サイヨウの作という[広辞苑])とならんで、これを模す例が多い【リンク:空海の書 画像集】。

《最澄も使用していた、毎+水≒海の例》 
のちに袂を分かつことになったが、書簡『風信帖』にみるように、もともと最澄と空海は親密であった。
最澄は802年(延暦21)
桓武天皇より入唐求法ニットウグホウ還学生ゲンガクショウ(短期留学生)に選ばれた。

その2年後、804年(延暦23)空海も正規の 遣唐使 の留学僧(留学期間20年の予定)としてに渡ったが、なぜか滞在わずか二年にして帰国した。
入唐ニットウ直前まで、ひとりの 私度僧 にすぎなかった空海が、突然国費による留学僧として浮上する過程と、その滞在期間のあまりの短かさは、こんにちなお多くの謎をのこしている。
いずれにしても空海は、史実よりも伝承につつまれたひとである。

弘法大師請来目録 巻首 伝教大師筆

弘法大師請来目録 巻末 伝教大師筆

資料6)  『弘法大師請来ショウライ目録』 伝教大師最澄筆
       紙本墨書 縦27.1センチ、横全長885.0センチ 平安時代(9世紀) 京都東寺蔵
空海が唐から持ち帰った法文、仏具、仏画などの目録である。空海は804年(延暦23)唐にわたり、806年(大同元年)8月に帰国した。同年10月22日唐から持ち帰った経巻などを目録として朝廷に上奏した。

本巻は空海自筆とされていた時代もあったが、その書風と、17紙におよぶ料紙の継ぎ目のすべてに捺印されている「延暦寺」の朱方印などから、最澄の筆写であることに争いは無い。いっとき最澄は空海から真言密教をまなんでおり、この目録もその過程で空海から借用し、筆写したものとみられている。
図版には巻首部と巻末部を掲げたが、「空海」がすべて「空 毎+水≒海」になっている。とりわけ巻末の跋文バツブンと、日付、署名にみる「空 毎+水」は、いかにも苦しげにみえるのは気のせいだろうか。
説文解字第十一上 水部1 説文解字第十一上 海 説文解字 海資料7)  『説文解字 影印本』
       東漢・許慎撰 趙 國華編輯 黄山書社 2010年10月
説文解字 影印本『説文解字』は中国最古の部種別字書。中国字学の基本的古典で全15巻。東漢の許慎が撰して西暦100年(永元12)に成った。
540の部首にわけ、「正文」として小篆を字頭に置き、9,353の文と字を解説 → 説文解字したもの。
また古文[ふるい字画]、籀文[チュウブン ≒大篆]、异体[イタイ ≒異体字]、重文[≒合分・成句]など、1,163字も紹介している。したがって「文を説き、字を解する」ために、133,441字からなっている。
許慎は「海」を、「天池也 以納百川者 从水 毎聲 呼改切」、意訳「幾百もの川の水を納める、おおいなる池なり。水(氵)の部首に从(従)う。声(漢字音)はマイ、バイ、ハイ hai なり」としている。

中国(台湾)には、こうした影印本や、批評と注釈を加えた批注本の『説文解字』がたくさん発行されている。
8-9世紀をいきた空海(774-835)が、西暦100年に成った、許慎『説文解字』に関心を寄せていたなら、こんにちのわが国の字学 ≒ タイポグラフィは、そうとう異なった姿になっていたとおもうことがある。 

《なぜか気になるひと、空海のこと》
まだ中国旅行がきわめて不便だったころ、盛唐時代のみやこ 長安、現在の西安をたずねたことがあった。そのとき空海が西明寺に滞在しながら、恵果(ケイカ、エカ 746-806)から真言をまなんだとされる、西安郊外の「青龍寺」をおとずれた。
恵果は、不空【フクウ、(Amoghavajra)、705-74 中国版百度百科:不空】の弟子で、空海の声望をきいてその来訪を待ちわび、その真言の一切を伝授したとされる。
中国での資料は、インド僧ともされる不空に関しては饒舌だが、恵果【ケイカ、エカ 746-806 日本語版ウィキペディア:恵果、中国版百度百科:恵果にはみるべきものは無い】に関しては、なぜかわが国の資料からの引用にとどまる。
当時は現地のガイドも「青龍寺」の所在地を知らず、ずいぶん苦労して「青龍寺跡」にたどり着いた。

小高い丘、ひろい野菜園(はたけ)のなかに、ちいさな堂宇がポツンとあり、中には老婆がひとりで埃をかぶった土産物を並べているだけだった。
堂宇の周囲には、日本の真言の寺が寄進建造した、こぶりな碑や仏塔がいくつかならんでいた。一時間ほど周辺を歩きまわったが、やつがれらのほかにたれひとりとして、このちいさな堂宇をたずねるひとは無かった。

《現代の、これからの「文」と「字」のありようへの希望》
上に掲げた地図は、「長安城復元図」(『随唐文化』陝西省博物館、中華書局、1990年11月)である【リンク:地図の拡大版】。唐王朝第二代、貞観ジョウガンの治をしいた皇帝・李世明(リ-セイミン 598-649)に仕えた褚遂良(チョ-スイリョウ 596-658)の自邸、そして李世明の長男で自死させられた隠太子廟なども描かれているので、盛唐時代とされた6-7世紀の記録とおもわれる。

現在の西安のまちの城壁は明代に造築されたもので、上図の盛唐時代の広壮な長安城の 1/4 ほどの規模になっている。
空海がここをおとずれた唐時代の長安城(まち)は、三蔵法師の尊称で知られる、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、602-664)が、インドから持ち帰った仏典の訳教にあたったとされる、大雁塔のある慈恩寺も城内にあった。慈恩寺の境内は広大で、下図の右から3ブロック目、下から2-3ブロック目の「晋昌街・通善街」を占めていた。
盛唐時代の「青龍寺」も城内にあった。下図では右下寄り、第五街皇城東第三街としるされた道に面し、延興門のすぐ脇の「新昌坊」にあった。
────────
数年前、北京オリンピックが終わったあとに西安に友人ができて、かれの案内でふたたび「青龍寺跡」をおとづれた。そこはすっかり「日本人向けの観光地」になっていて驚いた【日本語版:ウィキペディア:青龍寺 中国語版:百度百科:青龍寺】。
それでもここを再訪してはじめて、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)のうまれ、空海こと、佐伯眞魚サエキ-マオ、諡号で弘法大師とされる人物は、たしかにこの地に立っていたと実感することができた。
そして「文」と「字」に夢中になり、その反古ホゴや欠片カケラのようなものまでの一切合切を、一気呵成の勢いで頭陀袋ズダブクロにほうりこんで、あわただしく祖国日本に戻ったのであろうと想像すると、なにかほほ笑ましいものがあった。そのころ空海は、数えて32-33歳のときであろうか。

こうした空海を、風景として描いたのは司馬遼太郎であった。
やつがれにとっての空海とは、「文」と「字」のひとである。
空海は「字」の成立の背後にひそむ、「文」の「咒ジュ性 乃至 呪ジュ性」、あるいは単にその神秘性といいかえても良いが、それに惹かれたのではないかとおもう。それがして空海を宗教ひとたらしめた。
したがって宗教ひと、それもあらたな宗派の開祖として耳目を惹きつけるために、「海」の字の結構(偏と旁)を左右型から上下型とし、旁の部首を「氵から水」として、「毎+水 → 海」とした、空海の心象風景に、衒学趣味をみるとはいえ、これはこのひとに独特の パフォーマンス Performance として看過すべきことだとおもう年齢にたっした。したがっていまでは、
「オイ、空海さん、あなたはとても面白いな」
と、声をかけたい気持ちになっている。

たしかに中国にとどまらず、エジプト、中東、インドなどにおける、ふるい時代の伝達記号、「文」のおおくが、そして「字」の一部も、古代宗教の神官の手になったものがおおく、そこに霊感や神秘性のごときものをみることはある。
それでもやつがれは、そうした「文」と「字」の背後に埋み火のようにひそむ咒性や神秘性は、できるだけソッとしておくべきだと考えている。そのため「字」におおきな神秘性をみていたであろう、武即天による、いわゆる「則天文字」は、これまでも触れてきたこともあり、今回はあえて触れなかった。

むしろ、天下万民のリテラシーが向上した現代にあっては、「文」と「字」とは、普遍の、おおやけの、正確な伝達記号でありたいとおもうのがやつがれのいまである。
そしていつかまた、『空海の風景』をカバンに忍ばせて「青龍寺」に立ち、「文」と「字」につよく惹かれたであろう空海の、こころの風景をかたりあいたいとおもうのである。

《追加項目:お詫びと訂正 ──────── 中国版電子データ『漢典』のご紹介 2014年01月09日》
本項は2014年01月04日に掲載した。新年始業後、たまたま「畑」と「畠」の異同をしらべるために、時折訪問する中国版「字」のデータ【 漢  典 】にあたっていた。ついでに、なにかと気になる「海」にもあたってみた。
そこでナント! 【 漢典 海 】の「异体イタイ字 ≒ 異体字」に、下図の「异体イタイ字 海」が掲載されており、なおかつユニコード番号がまでが振られていた。
基本 CMYK

上掲のみっつの「字」が【漢典】には、いずれも「海」の「异体字 ≒ 異体字」として紹介されていた。字のコードはいずれもユニコードで、左からU+23CD7, U+23CE0, U+23D34である。近近買い換えを迫られているやつがれのウィンドウズXPでは表示できないが……。
しかもである。やつがれが調査済とした『玉扁』、『康熙字典』に「毎+水 海」が掲載されているという。

大慌てで『玉扁』を調べた。この字書は中国・梁の顧 野王撰、30巻で543年になった字書である。悲しいことにやつがれの所蔵書は、明治初期のわが国における活字本で、「毎+水 海」は紹介されていなかった。
しかしながら空海は『玉扁』をみることができたはずだし、こうした偏と旁をかえた「結構」の「海」は、当時の中国にあって、空海が実見していた可能性が否定できないことになった。

また『康熙字典』は複数所有しており、もっぱら使い勝手の良い活字本をつかっていた。そこでもう一度、影印本『康熙字典』(張 引之校改 上海古籍出版社 1996年1月)にあたってみた。結果は下図に掲げた。
「海」は、「『康熙字典』巳集上 水部 七画」の五十一丁最初の行にあり、その最末部に「毎+水 〔集韻〕或作 毎+水」がある。
「毎+水」は、「『康熙字典』巳集上 水部 七画」の五十六丁二行目最上部にあり、たしかに「毎+水 〔玉扁〕同海」とされていた。
『康熙字典』「毎+水」_ページ01 『康熙字典』「毎+水」_02まこともって、正月休暇をつぶしてポチポチしるしてきたことだが、しまりの無い仕儀となった。
ここに読者の皆さまにご報告するとともに、お詫びとともに、改めてご報告した次第である。
(この項2104年01月09日しるす)