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朗文堂好日録-033 毎+水=? 【設問編】 年度末の宿題を、年末年始に回答です。

毎+水=?

【 設 問 編 】

朗文堂ニュース 2013年03月11日】に、上掲の図版を掲げて、皆さんに質問を投げかけた。
おりしも年度末、慌ただしいときであった。
回答は、この【タイポグラフィ・ブログロール 花筏】で報告するとしていたが、忙しさにかまけ、いつの間にか忘れていた。

ところで「宿題」の件である。設問から半年余もたったので、もう皆さんはお忘れかとおもっていた。ところがWebsite には「ウェブ検索」のほかに、「画像検索」のコーナーがあり、そこにはしっかりと上掲の図も掲載されていた。

いままでやつがれは、ほとんど「画像検索」コーナーはもちいなかったが、最近この Website のサポートにあたっているキタクンは、もっぱら「画像検索」コーナーからはいって、検索をガシガシとはじめる。
デジカメもケータイも、すぐに壊したり、なくすので、「使う資格無し」として没収されるほど「機械オンチ」のやつがれは、こういう作業を「ググる」というのだとようやく知った。やがてキタクンを真似て、結構「画像検索」を試みるようになって便利なこともある。

検索ソフトのグーグルは、どのように画像データーを収集・編集・処理するのか知らないが、「朗文堂画像検索」編はあまりにふるく、画像も低解像度のものが多かったせいか、いくぶん貧相である。
どちらかというと、【朗文堂花筏 画像】編にあたらしいデータが収録されている。そこにこの「設問」の画像が逃げようもなく存在していた。
そんなことを気にしているうちに、ついに歳末に読者からの叱声がきた!
「朗文堂NEWS にアップした、 毎 と 水 のかさなった 字 の解説はどうした…… !?」
というわけで……、上掲の課題を越年させて、ポチポチとしるしている次第。

20131112_h1pc[1]
森永チョコレートアイスクリームPARM ブランドサイト《平日のちょっと贅沢なライフスタイルマガジン Daily Premium Calendar》に、2013年11月、15回にわたるタイポグラフィ・エッセイをしるした。
この写真の施設は「甲骨文」出土地として知られる、中国河南省安陽市の駅前に新設された「文字博物館」である。撮影は斜めから撮ったものだが、ファサード正面にむかって巨大なモニュメントが一直線上にならんでいる。

一番手前は金色に輝く「文 鳳凰文」である。その背後に「字 宀 ベン、メン、うかんむり≒家のなかでつぎつぎとうまれた子供=字」を象徴する巨大なモニュメントがそそり立つ。
ここ「文字博物館」での「文字」には、ちょっと注意が必要である。たしかに「文字」そのものは、中国漢代にもその使用例がある(『漢語大詞典』)が、その意味するところは、現代日本語の「文字」とはおおきくかけはなれている。

やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。そのために「文字博物館」の図録の序文には、「文≒紋」と、「字」のなりたちが、正面入口のふたつのモニュメントを例として丁寧に説かれている。
すなわちわれわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。
したがって甲骨文、金文、石鼓文、籀文(チュウブンン ≒小篆)などは、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としての扱いはうけずに、「文」と表記される。

このことの説明に際していつも苦慮するが、例をケータイ電話などでの「顔文(字)」に喩えたらわかりやすいかも知れない。
ケータイ電話の「顔文(字)」は、同一メーカー所有者など、一定の集団のあいだでは共有されるが、その意味範疇はあいまいであり、伝達の範疇は意外と狭いものがある。
またわが国の一部の資料に「文は部首である」とするものもある。これはにわかには首肯できない。

《正式な学問として存在する中国での字学》
甲骨文を研究する学問を、中国では「甲骨学」とし、その著名な開拓者を「甲骨四堂」、あるいは「甲骨学 四堂一宣」シドウイッセン とよんで尊敬している。
四堂とは、郭 沫惹カク-マツジャク/鼎堂、羅 振玉ラ-シンギョク/雪堂、王 国維オウ-コクイ/観堂、董 作賓トウ-サクヒン/彦堂であり、一宣とは、胡 厚宣コ-コウセンのことである。

郭沫惹氏 百度百科よりわが国ではあまり知られていないが、「甲骨学 四堂一宣」の大家、郭沫惹(カク-マツジャク、あざなは鼎堂テイドウ。中国四川のひと。日本の九州大学医学部卒。中日友好協会会長をながくつとめた。1892-1978)が、中国河南省鄭州の「河南省文物考古研究所」(王 潤杰オウ-ジュンケツ館長)のために書した、同所の扁額とパンフレットの題字の「殷虚」は、悪相とされる漢の字「殷虚」の形象・字画を巧妙にさけて、ご覧のような「好字、好相の字」におきかえている。
ところがこれらの「好字、好相の字」は、残念ながら携帯電話の「顔文(字)」と同様に、あたらしいメディア上には表示できない。

つまり中国河南省鄭州テイシュウなどの遺跡で発掘される、前商(殷)時代・周時代初期の土器や銅器などにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などは、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。
【リンク:吾、台湾にて佛跳牆を食す !

やっかいなことだが、わたしたちはいつのまにかすっかり「文字」ということばに馴れてしまい、相当な専門書にも、「甲骨文」にかえて「甲骨文字」などとしるされている。もしこれをよしとするならば、青銅器などにみる「金文」は「金文字」となり、「籀文 チュウブン」は「籀文字」となり、つづみ形の石に刻まれた「石鼓文セッコブン」(現在は移転して北京:故宮博物院所蔵)は「石鼓文字」となる。つらいはなしではある。

したがって、わたしたちにとっては、この安陽の施設は「文モン or 紋モン and 字 の博物館 ≒ もん と じ の博物館」としてとらえたほうが誤解が少ないようである。
そんな予習のためにも、炬燵・蜜柑にアイスクリームを加えていただき、下記情報をご笑覧いただきたい。
平日のちょっと贅沢なライフスタイルマガジン Daily Premium Calendar 2013年11月12日
朗文堂好録-027 台湾再訪Ⅱ 吾、仏跳牆を食す。「牆」と異体字「墻」のこと
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水+毎=?さて、本題にもどろう。上掲の「字 ≒ 文字」は、ひとつの「字」である。
漢の字、中国の字(漢字、中国では字 or 国字)というより、国字(わが国でつくられた漢字風の字)、もしかしたら個人の創意、あるいはわずかなテライ、もしくは軽い諧謔ユーモアをこめてつくられた「字」かもしれない。
図版でおわかりのように、上部に「毎」をおいて、下部に「水」をおき、ひとつの「字」としたものである。

やっかいなことに、この「字」は、わが国の歴史上で実際に書きしるされており、しかも複数の貴重な文書の上になんども登場していて、一部の「集団」からは、いまなおとてもおもくみられている「字」である。
したがって簡単に「俗字」「異体字」として片付けるわけにもいかず、原典文書の正確な引用をこころがける歴史学者などは、ほかの字に置きかえられることをいやがることがある。

1970年代の後半だったであろうか……。まだ写研が開発した簡易文字盤製造キット「四葉  シヨウ」もなかったころのことである。展覧会図録として、この「字」をふくんだ文書の組版依頼があった。
当時は原始的というか、当意即妙というのか、原字版下を作成して、ネガフィルムをおこし、それをガラス板にはさんで写真植字法で組版するという、簡便な方法で対処したことがあった。もう40年ほど前のこととて、その資料も、使用例も手もとにはない。

もちろん現代の文字組版システムは汎用性にすぐれており、こうした「特殊な字」は、アウトラインをかけるなどして「画像」とすればいいということはわかっている。それでも学術論文までもが Website で発表されるという時代にあって、やはりなにかと困った「字」ではある。
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先まわりするようだが、デジタル世代のかたが愛用するパソコン上の「文字パレット」や、「手書き文字入力」ではでてこないはずだ(やつがれのばあいは ATOK であるが)。
ちなみにこの「字」のふつうの字体は、人名・常用漢字で、JISでは第一水準の「字」であり、教育漢字としては小学校二年で学習(配当)する、しごくあたりまえの「字」である。

また、一部のかたが漢の字の資料としておもくみる『康煕字典』では、「毎」は部首「母部」で、「辰集下 五十七丁」からはじまり、「水」は部首「水部・氵部」で、「巳集上 一丁」からはじまる。
現代中国で評価がたかい字書のひとつ『漢語大詞典』(上海辞書出版社)もある。これらのおおがかりな資料にもこの「字」は見あたらない。為念。

また、わが国のふつうの『漢和辞書』とされるものは、なんらかの中国資料の読みかえがほとんどであるから、当然でてはこない。
管見ながら、これらの資料には「標題字」としては、上掲の「毎+水の字」は掲載されていないようである。もしかして、万がいつ、応用例としてでも、ちいさく紹介があったらごめんなさいである。
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とかく「漢字」「文字」というと、ほんの一部のかたのようではあるが、にわかに知的興奮にでもかられるのか、妙に衒学的になったり、エキセントリックになるふうがみられるのは残念である。
ここではやわらか頭で、トンチをはたらかせ、
「なぁ~んだ、つまらない」
「ナンダョ~、簡単じゃないか」
とわらって欲しい。
そしてこの「字」をつくりだした、天性のエンターティナーに、おもいをはせてほしい。
「回答」というほどのものではないが、答えは タイポグラフィ・ブログロール《花筏》にのんびりしるしていくつもりである。

タイポグラフィ・ブログロール花筏での花筏

花筏 京都・哲学の道こういう写真はテレがあってあまり得意ではない。おそらく4-5年前、やつがれの体調がすぐれなかったころの写真だとおもう。

京都市左京区の南禅寺から、銀閣寺 ( 慈照寺 ) にかけて、琵琶湖疎水にそった小径を、「 思索のこみち 」、あるいは 「 哲学の道 」 などと呼ぶ。
むかしは閑静な小径だったが、いまはすっかり観光地になって、思索も哲学もあらばこそ、騒騒しい通りになっている。

この側溝の右手には、琵琶湖疎水のゆたかな流れがあり、このときもみなもが見えないほど、櫻花が散りしく 「 花筏 」 であった。
この小径の櫻はよく知られているが、同時に疎水にそって 「 ミツマタ(三椏)」 がたくさん植えられており、櫻に先だって淡い黄色の花をつける。

ミツマタは、その枝が必ず三叉、すなわち三つに分岐する特徴があるため、この名があり、三枝、三又とも書く。中国ではこの灌木の花のかおりのよさから 「結香 」 ( ジェシァン ) と呼ばれている。
ご存知のように手漉き紙の材料として 「 ガンピ(雁皮) 」 や、「 コウゾ(楮) 」とともに主要な原料となる。

この琵琶湖疎水と蹴上発電所の開発に際しては、平野富二ともおおいに関係がある。
古谷昌二 『 平野富二伝 』 (第17章 明治23年の事績 琵琶湖疎水工事視察とペルトン水車受注 p.714-23)。

その資料を探していたところ、こんな恥ずかしい写真がでてきた。
2013年の歳末にふさわしいかどうかは疑問だが、ご紹介した。

平野富二と活字*10 渺渺たる大海原へ-長崎港と平野富二の夢、そして注目してほしい出版人・安中半三郎のこと

新タイトル1
平野富二ボート用吊り装置平野富二ボート吊築造願
《平野富二自筆文書幷概念図——ボート釣築造願》 

    古谷昌二『平野富二伝』第10章-7 明治16年(1883)におけるその他の事績 p.440-441
上図) ボート釣装置概念図
本図は、下掲の平野富二自筆文書「ボート釣築造願」に添付されたボート釣装置の概念図である。 築地川の石段から二十間離れた岩壁に、長さ五尺のアーム二本を三間の間隔で川に向かって延ばし、小形ボートを吊り上げるもので、船上でのボート吊下装置を応用したものであることが分る。

下図) 平野富二所有のボート用釣装置設置願書
1883年(明治16)2月8日、平野富二は、築地活版製造所の前を流れる築地川の河岸石垣に、自分所有のボート用として、釣装置を設置する願書を同日付で東京府に提出した。
平野富二は、自宅と、活字製造部門と活版印刷関連機器製造部門「東京築地活版製造所」のある築地から、築地川を下って、石川島までの間を、ボートを利用して往復していたことが伺われる資料である。本文書は、東京都公文書館に所蔵されている平野富二自筆の願書である。  

「   ボート釣築造願
                   京橋區築地弐丁目
                     拾四番地平民
                                                            平野富二
右奉願候私所有之ボート壱艘同所拾七番地前川岸江繋留仕度就テハ別紙圖面之通 ボート釣河岸ヨリ突出製造仕度奉存候間何卒御許可被成下度尤右場所御入用之節何時モ取除元之如ク私費ヲ以取繕可申候此  段圖面相添奉願候也  但川中ヘ五尺出張リ候事
                                                 右
   明治十六年二月十八日         平野富二 印
   東京府知事芳川顕正殿  前書出願ニ付奥印候也
                                    東京府京橋區長池田徳潤印           」
 東京府は、警視庁に照会の上、撤去の際には元形の通り修復することを条件として許可している。

20131014180912139_0001

明治36年版『活版見本』(東京築地活版製造所)口絵にみる銅版画を原版とした社屋一覧。
平野家はこの1903年(明治36)のとき、すでにあるじ富二を失っていたが、長女・津類ツルを中心に、この図向かって左手奥にあった平野家に、関東大震災で罹災するまで居住していた。
手前の築地川は水量がゆたかで、そこに下掲写真では小舟を移動して撮影したものと想像されるが、この銅版画には象徴的に、一隻の小舟が繋留されて描かれている。しかしすでに平野富二は逝去しており、吊り上げ装置らしきものはみられない。

M7,M37社屋

平野富二はまた、1879年(明治12)5月22日この築地川の川端に、アカシアの苗木を自費で植え付けの願い書を東京府知事宛に出している。
『株式会社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所、昭和4年10月)の口絵には、「明治37年ノ当社」とする写真があり、そこには前掲の銅版画では省略されたのかもしれないが、河岸にアカシア並木らしきものがみられる(『平野富二伝』古谷昌二、p.311-2)。銅版画に描かれた小舟は、手前の河岸にはみられるが、対岸には一隻もみられない。
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《港湾都市長崎でうまれた平野富二の原風景 —— 移動はもっぱら小型舟のサンパンだった》
ふるくいう —— 「三つ子の魂  百までも」。
平野富二(1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47)は、三方を急峻な山なみで囲まれ、生いしげるあかるい照葉樹林の照り返しで、金波銀波が鮮やかに海面を彩る、長崎港湾にうまれた。
やがて長崎製鉄所に属し、船舶の機関士として学習と航海をかさね、渺渺ビョウビョウたる大海原オオウナバラに進出した。
平野富二は、この大海原につらなる、ふるさと長崎へのこだわりが、ひときわつよいひとであったとおもわれる。
そして、船をつくり、みずから操船し、あるいは乗船して、大海原での航海を好んでいたひとであったとおもうことがおおい。

この平野のおもいは終生かわることなく、ふるさと長崎をつねに意識していたのではないかとおもわせることがおおい。すなわち平野富二の記録に接するたびに、随所に長崎とのつよい関係がみられ、ハッとさせられることがしばしばある。
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平野富二数えて38歳、1883年(明治16)2月8日、ようやくその事業が一定の順調さをみたとき、自宅と、活字・活版印刷関連機器製造工場たる「東京、築地での、活版製造所」、すなわち「東京築地活版製造所」と、造船・重機械製造工場「石川島平野造船所」への往来に、ふるさと長崎で縦横に乗りまわしていたサンパン(舢板。小舟やはしけの中国風の呼び名)と同様な、小型舟艇(ボート)をもちいたかったのであろう。

その小型舟艇の繋留のために、みずからしたためた「許可申請書」が、上掲の図版と文書である。添付図版は、河岸の石積まで丁寧に描いたもので、技術者らしい、簡潔にして要を得た概念図である。
その原風景は、長崎港湾にひろがる、小菅修船所、飽の浦アクノウラの長崎製鉄所、立神船渠センンキョ、ドックを、縦横にサンパンで往来していた平野富二16-25歳のころとなにもかわらなかった。
古谷昌二『平野富二伝』からみてみよう。

    古谷昌二『平野富二伝』第1章 誕生から平野家再興まで p.2-5
1-1 少年時代
平野富二は、幼名を富次郎といい、長崎の出身。町司チョウジ矢次豊三郎ヤツグトヨサブロウの二男。母は旧姓を神邊カンベ、名前を美禰ミネと称した。1846年8月14日、長崎引地町ヒキヂマチにおいて生れた。
数え年三歳の時、病がちであった父を亡くして、三歳違いの兄和一郎(後に重之助、重平、温威と改名)と、父の死後に生れた妹ていと共に母の手で養育された。
数え年八歳の時から長崎在住の太田寿吉に就いて書道を習い、西原良介と仁木田豊蔵の二人から書読を学んだ。
1857年(安政4)10月、数え年12歳で長崎奉行所の隠密方御用所番オンミツガタ-ゴヨウショバンに任命され、一日おきに出勤した。休日は西原・仁木田の二人の師匠に就いて「論語」「孟子」「大学」「中庸」の四書と、「詩」「書」「易」「春秋」の四経、ならびに「日本外史」数巻の読文指導を受けた。 これが平野富二の学んだ基礎学問の概要である。
長崎古地図

◎ 嘉永三年当時の長崎市街図
   古谷昌二『平野富二伝』第1章 誕生から平野家再興まで p.5
本図は、長崎文錦堂から刊行された『肥前長崎図』(嘉永三年再板)の市街中心部分を示す。平野富二数えて5歳のころの幼年時代の長崎市街を示すものである。

図の中央右寄りの折目に沿って、石垣と濠に挟まれた縦に細長い道筋が、平野富二(矢次富次郎)の生地「引地町」と表示されている。それに平行して左隣りに「さくら町」(桜町)と「新町」があり、「さくら町」の「引地町」寄りに「牢や」(牢屋)がある。「新町」の「引地町」寄りに「長門」(長州)と「小くら」(小倉)と表示された一画が示されている。

図の下方にある扇形の島は「出島」で、その上部の石垣で囲まれた岬の先端部分に長崎奉行所西役所がある。そこから三本の道路が上方に通じており、右側二本が「ほか浦町」(外浦町)と二行で表示されている。外浦町は平野富二が結婚し、矢次家をでて別家平野家を再興した1872年(明治5)に居住していた。 

考察5 出生地
平野富二(富次郎)は、矢次ヤツグ家が代々居住していた長崎引地町ヒキヂマチで出生したと見られる。
平野家にある過去帳や、平野富二の京橋区除籍謄本には、出生地として外浦町ホカウラマチと記されているが、これは富二が東京に戸籍を移す直前に住んでいた住所を示したものと見られる。
「矢次事歴」によると、1872(明治5)に平野富二が分家し、妻を帯同して外浦町ホカウラマチに移転したとしている。引地町は、桜町サクラマチと新町シンマチの東側にある、石垣と濠ホリの間にある細長い町で、『長崎市史』地誌編 名勝舊蹟部によると、もとは桜町から東南に向って傾斜した荒蕪地コウブチで、戦国時代に桜町に濠を掘って貯水し、敵軍の襲来に備えたが、後に人口が増大して市街地を拡張する必要が生じたため、濠の一部を埋立て、土地を造成して住宅地とした。このことから引地町と名付けられたという。

桜町の造成された土地に牢屋ロウヤが置かれ、それと隣接する引地町に長崎奉行所付の町使チョウジ(町使は今の警官に相当するもので、帯刀を許されていた)の長屋があって、町使役14人が居住していた。なお、町使は、後に町司チョウジと表記されるようになった。
この引地町という町名は、現在、長崎市の町名から消えてしまっている。現在の町名では、興善町コウゼンマチと桜町の一部となっており、両町の東側(厳密には東南側)の細長い一帯が引地町であった。
明治初期には、桜町と新町(現在は興善町の一部)が小高い台地の上にあり、その台地の外縁に築かれた石垣に沿って道路があり、その道路に面して引地町の家並があった。家並の背後には濠が残され、俗称地獄川と呼ばれていた。この濠は、現在、その一部が埋立てられて道路となっている。

当時の町割りは、道路を中心とし、それに面した地区に町名が付けられた。 1871年(明治4)四年4月、新政府によって戸籍法が発令され、これに伴ない町村制の改革が行なわれて、全国的に大区・小区の制度が採用された。
『明治六年の「長崎新聞」』によると、長崎では1872年(明治5)2年2月から戸籍調査がはじめられた。
その時に定められた矢次家の住居表示は、「矢次事歴」によると、1874年(明治7)4月の時点で、第一大区四ノ小区引地町五十番地であった。1873年(明治6)11月、大区・小区の大幅な整理統合が順次行なわれ、その結果、1878年(明治11)9月の時点では、第一大区二ノ小区引地町二百十五番に表示が変更されている。
1878年(明治11)10月には、町村編成法が公布され、大区・小区制が廃止されて、長崎市街地一円は長崎区となった。
矢次家の住所地は、明治4年の町村制改変史料があれば、これに表示されていると見られる。調査すれば平野富二の出生地を現在の位置で確定できるかも知れない。

考察10  隠密方御用所番
この役職は、長崎奉行が直轄する番方バンガタに属し、今でいう警察の機能を持った部門で、町司に関連する職場であった。矢次家は初代から長崎の町司を勤めていたので、その関連業務に従事することになったものと見られる。
三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』では、「隠密方オンミツカタ」という言葉を憚はばかってか、単に「御用所番」としているが、「隠密方」は忍者やスパイとして連想されるものとは違う。
長崎奉行所の隠密方は、長崎奉行から内命を受けて、不正の摘発や内密な調査を行い、上司に報告する役割で、平野富二の師である本木昌造も、一時期この役割を担っていた。
番方は、平時に長崎港内の水上警察業務や密貿易防止のための巡視などの海上保安業務を行っていた。役割業務からすると本来は武士が行うものであるが、長崎では奉行所で働く地役人が行った。番方の身分は町人であるが名字帯刀を許されていた。
富次郎の奉行所出勤の様子について、母美禰が富二の二女・津類ツルに語ったという口伝クデンが三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』に紹介されている。

「奉行所への出勤は、用人清水国松に連れられて出役した。兄重之助も奉行所に出役していたが、その出役ぶりが悪く、何くれと言い訳をして出役しないことが多かった。ある日、富次郎が一人で急いで朝食をしていると、兄重之助が後からノソノソと起きてきて、弟でありながら漬物鉢の菜を先に箸をつけたと怒り、漬物鉢を庭に放り投げ、駄々をこねて奉行所を休んだことがある。弟の富次郎は、兄のその様な素振りには一向お構いなく、用人国松を供に連れて奉行所にさっさと出勤したという。当時、矢次家に居た三人の祖母は、その様な兄弟の日常の素振りを見て、矢次家の家禄は弟の富次郎が継ぐことになるだろう、と口癖の様に云って富次郎を誉めていた。しかし富次郎はこれを心好く思わず、僅かばかりの家禄など望まない、と言って、もっと大きな将来の望みを抱いていた」

この時、富次郎は数え年一二歳であったが、兄重之助は数え年二〇歳で町司抱入の役にあった。矢次家に居た三人の祖母とは、祖父茂三郎の妻のほかに、曽祖父和三郎の妻と、富次郎の母実禰の三人と見られる。この逸話は後年になって平野富二の娘・津類ツルによって語られたと見られ、津類にとっては富次郎の母も「おばあさま」であった。

長船よもやま話 ジャケット

三菱長崎造船所サンパン

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』
(長船150年史編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所 平成19年10月 p.88-89)

《長崎港とサンパンの歴史——『長船よもやま話』より》 
40  サンパンで飽の浦-立神を5分

      明治時代の所内交通はもっぱら舟でした。
1906年(明治39)1月に稲佐橋(木橋)が開通するまで、対岸方面への往来は小舟に頼るほかありませんでした。また、長崎港には内外の船の出入りが多かったので、碇泊した船と岸を結ぶため、多くの小舟が待機しており、なかでも大浦下り松(松ヶ枝町マツガエマチ)海岸はとくに多かったそうです。

このほか大波止オオハト、浪の平、浦上川などを合わせると、千隻セキ近い小舟が長崎港にあったそうです。
中国語では小舟やはしけをサンパン[舢板]と呼びますが、長崎でも通い舟のことをサンパンと呼んでいました[中略]。
このころ当所[三菱長崎造船所]の飽の浦-立神間の交通は舟でした。幹部社員などがいつでも乗れるように、海岸石段には常に何隻ものサンパンが待機していました。櫓を漕ぐ船夫も、明治30年代には100人以上が在籍して、交通係の指令が下ると、二丁櫓で、部長以上などは三丁櫓で飛ばし、立神まで4-5分もかからない速さでした[中略]。

1904年(明治37)に向島第一トンネルが開通し、立神まで歩いていけるようになり、さらに1914年(大正3)には飽の浦-立神間に定期貨物列車が運行、大正7年になると列車に客車が連結され、海上では自動艇5隻が配置されるなどで、構内のサンパンは姿を消したのです。

Nagasaki_vue_du_Mont_Inasa.jpg (7890×1012)写真) 稲佐山イナサヤマ展望台から眺めた長崎市の様子。 【ウィキペディア:長崎市より】
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平野富二は26歳までの多くをこの長崎の地で過ごした。1869年(明治2)明治新政府民部省の認可のもと、若き富次郎が総指揮にあたって掘削した「立神タテガミ造船所」をはじめ、隣接する「飽の浦アクノウラ製鉄所、長崎製鉄所」、対岸の「小菅船渠コスゲセンキョ、小菅修船所」なども描かれている。
長崎市街は、まちの北東部から注ぐ中島川と、北部から南下して長崎湾に注ぐ浦上川に沿ったほんの一部だけが平坦地で、三方の後背地は急峻な山にかこまれている。
東京に出てきてからも、気軽に築地と石川島を小型舟艇で往来していた、平野富二の生い立ちが偲ばれる地図である。
長崎

長崎◎  長崎縣内務部第二課編纂 『仮称:長崎港湾地図』(明治32年 西暦1899年2月)
長崎の版元/安中書店・安中半三郎が刊行した長崎市街地と港湾部の詳細な地図。
東京築地活版製造所(印刷者名:野村宗十郎)が銅版印刷した。上掲図はクリックすると拡大します。

長崎地名考 扉長崎地名考 付録
長崎地名考 刊記

《安中書店、虎與號商店、虎與號書店 —— 安中半三郎のこと》
安中書店・安中半三郎(やすなか-はんさぶろう いみな:東来 1853-1921 別屋号:虎與號トラヨゴウ商店、虎與號トラヨゴウ書店。旧在:長崎市酒屋町四十四番戸)は、版元:安中書店と虎與號を経営するかたわら、香月薫平、西道仙らとともに「長崎古文書出版会」を結成し、その成果が『長崎叢書』となって、やがて長崎県立図書館(長崎市立山1丁目1-51)の設立につらなった【リンク:長崎県立図書館沿革】。
また「長崎慈善会」を結成して「長崎盲唖院」を設け、この生徒13人から出発した授産教育機関は、いまは長崎県立盲学校【リンク:長崎県立盲学校沿革】として存在している。

ここには、長崎縣内務部第二課編纂 発行者 安中半三郎 『仮称:長崎港湾地図』(明治32年 西暦1899年2月)、『長崎地名考』(香月薫平著、発行者 安中半三郎、 安中書店蔵版、発行所 虎與號商店、明治26年11月11日)を紹介したが、ほかの刊行書もたくさんある。
いち民間人、それも出版人の動向によってつくられた施設が、公的な施設となって持続されることなどは、ありそうでないことである。またそれがながく語りつがれ、公式記録にも掲載されていることに驚く。
ようやく長崎学の関係者のあいだで、この注目すべき安中半三郎に関する研究が進捗しつつようである。おおいに期待して、その発表をまちたい。

それでもまだ安中半三郎に関する資料は乏しいようである。安中半三郎がもちいていた屋号「虎與號」は、現代表記では「虎与号」となる。また厄介だが、湯桶ユトウ読みで、「とらよごう TORAYO-GO」と呼んでいたことが、いくぶん不鮮明ではあるが、『長崎地名考』刊記に添付された出版社標からもわかる。
下にその拡大図を掲げた。

ORAYO-GO

安中半三郎は平野富二より6歳ほど年下であったとみられ、その交流はいまはわからない。それでも明治中期から末期にかけて、長崎出身の平野富二の後継者、東京築地活版製造所に依頼して、活字版印刷、銅版印刷、石版印刷などの先端印刷技術をもちいて、積極的に図書や地図や詩画集などを刊行していた。
『長崎地名考』の印刷は東京築地活版製造所で、平野の没後まもなくであるが、富二の没後も東京築地活版製造所は長崎との関係が深く、専務社長/曲田 茂が印刷者として刊記にしるされている。

平野富二と活字*09 巨大ドックをつくり船舶をつくりたい-平野富二24歳の夢の実現まで 

Web長崎立神ドック
長船よもやま話 ジャケット
長船よもやま話 本文

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』
(長船150年史編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所 平成19年10月)

三菱重工業株式会社長崎造船所、いかにも長い名前である。地元長崎では愛着をこめて、もっぱら同社を「長船ナガセン」と呼んでいるし、同社社内報のタイトルも『長船ニュース』である。本稿では「三菱長崎造船所」と呼ばせていただく。
「三菱長崎造船所」の淵源はふるく、1857年(安政4)10月10日をもって創業の日としている。その創業150周年記念として刊行されたのが『長船よもやま話』(2007年、平成19年)である。

「お堅い150年史も必要だけど、社員や家族も気軽に読める、絵本のような150年史はできないものか……」(同書編集後記より)とされて、三菱長崎造船所の「長船よもやま話編纂事務局」の皆さんの訪問をうけたのは2006年(平成18年)のことであった。
当時の筆者は「三菱長崎造船所」の創業とは、官営の造船所から施設を借用というかたちで、経営主体が郵便汽船三菱会社・岩崎弥太郎に移った1884年(明治17)のときと考えていたので、「創業150周年」のことには少少面喰らったが、どこの名門企業も、創業のときをできるだけ遠くにおきたいようで、それはそれで納得した。

三菱長崎造船所 史料館三菱長崎造船所 史料館全景。「長崎造船所史料館」(長崎市飽の浦町1-1。JR長崎駅からタクシーで15分ほど。観覧は無料だが予約が必要)。同館Websiteより。
この赤煉瓦の建物は1898年(明治31)7月、三菱合資会社三菱造船所に併設の「木型場」として建設されたもので、三菱重工業株式会社 (本社:東京都港区港南2-16-5)発祥の地、長崎造船所に現存する、もっとも古い建物である。
1945年(昭和20)8月の空襲における至近弾や、原子爆弾の爆風にも耐えて、100年余の風雪に磨かれた赤煉瓦は、わが国の近代工業の黎明期の歴史を偲ばせるのに十分な風格がある。

「長船よもやま話編纂事務局」の皆さんは、拙著『富二奔る』を精読されており、筆者も 長崎造船所史料館  をたずねたことがあったので話がはずんだ。それにあわせて『大阪印刷界 第32号 本木号』(大阪印刷界社 明治45年)、『本木昌造伝』(島屋政一)、明治24年『印刷雑誌 1-4号』などを前にして、本木昌造と平野富二の業績に関しての話がおおいにはずんだ。何点かの持ちあわせていた画像資料は、一部を平野家のご了承をいただいて提供した。

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』は、ふつうの社史とは幾分異なり、創業150周年にあわせて見開きページで完結する150章をもうけて、フルカラー印刷による。ページ構成は、軽妙なイラストと、多くの写真資料で、わかりやすく三菱長崎造船所の長い歴史が説かれている。
すなわち、「三菱長崎造船所」では、創業のことを、徳川幕府の艦船修理工場「長崎鎔鐵所ヨウテツショ」の建設着手のときとして、オランダ海軍機関士官ハルデスらによって、長崎飽の浦アクノウラに建設が開始された1857年(安政4)10月10日をもって創業記念日としている。

1 辛抱強かったハルデスさん
  150年前、飽の浦の沼地に、日本初の洋式工場を建設
1855年(安政2)現在の長崎県庁の位置に開設された長崎海軍伝習所では、オランダから贈られた練習艦「観光丸」で訓練していましたが、そのうち、船や機関に小さな故障が出はじめました。
そこで江戸幕府に艦船修理場の設置を願い出ましたが、とても対応がスローモー。そこで永井伝習所取締は、独断でオランダ側に工場建設のための技術者や、資材の手配を申し入れました。

1857年(安政4)オランダ政府は長崎海軍伝習所第2次教師団長カッテンディーケ以下、教官と技術者37名を派遣して、資材や機械類も長崎に到着しました。
カッテンディーケは主任技師のオランダ海軍機関士官ハルデスと工場建設地を探し、飽の浦アクノウラを適地に決めました。

奉行所の認可を得て、わが国最初の洋式工場建設に着工したのは、この1857年(安政4)10月10日でした。それは今を去ること150年前で、この日が当所の創業記念日であり、日本における重工業発祥の日でもあります。[中略]
ハルデスの努力により、工場はおよそ3年半後の1861年(文久元)3月に落成し、任務を終えたハルデスらは帰国しました。[後略]
『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』(p.10-11)

立神ドック建碑1uu

立神ドック建碑2uu

写真) 三菱重工業株式会社長崎造船所 史料館提供

《三菱重工業長崎造船所にある立神ドック建碑由来の説明板》
現在の三菱長崎造船所は、飽の浦アクノウラと立神タテガミ地区を包摂した本工場、香焼コウヤギ工場、幸町サイワイマチ工場、諫早イサハヤ工場の4工場をおもな拠点として活動を展開している。
三菱長崎造船所本工場は、飽の浦地区に本社機能や病院がおかれているほかに、おもにタービン工場や機械工場として使用され、史料館もこの地区にある。

いっぽう、三菱長崎造船所本工場立神タテガミ地区は、平野富二による開削時代には、飽の浦地区とは、岬というか、山ひだ一枚を隔てて離れていた。
それは直線距離ではわずかとはいえ、山越えの道はきわめて不便で、もっぱら海路での往来しかできなかった。それを三菱長崎造船所がトンネルを掘り、拡幅して道路として、現在は飽の浦地区と直結されている。
立神には第1-第3ドックを備えた巨大な造船工場があり、ここでは30万トン級の巨大な船舶の建造も可能とされる[長崎造船所の沿革]。

平野が開削に着手した立神ドックは、拡張されて、いまなお立神第2ドックの首部をなして健在であり、そこに写真で紹介した『建碑由来』がはめ込まれている。
立神に本格的な洋式造船所が設けられた歴史はこのようにふるく、時局下にあっては対岸から見えないように巧妙に遮蔽物を置くなどして、秘密裡に戦艦武蔵が建造された。また最近では2002年に艤装中の豪華大型客船「ダイヤモンド・プリンセス」が火災をおこしたことなどでも知られている。

上掲写真は、三菱重工業長崎造船所本工場の、立神タテガミ通路の壁面に設置されている『建碑由来』説明板の写真である。この説明板の中央右寄りに「立神ドック略歴」とあり、それに続いて平野富二の事績がしるされている。
なお写真右上部に「明治十年竣功(工)」とあるが、一部に不具合があって、実際の竣工は下部の「立神ドック略歴」に記録されたとおり明治12年となった。

「立神ドック略歴  明治三年(一八七〇)長崎製鉄所長平野富二乾ドック築工を民部省に建議、許可となり着工。同四年(一八七一)一時工事中止。明治七年(一八七四)フランス人ワンサンフロランを雇入れ築工工事再開。 明治一二年(一八七九)工事完成。(長さ一四〇米、巾三一米、深さ一〇米 当時東洋一)   (後略)  昭和四三年(一九六八)三月   三菱重工業株式会社長崎造船所」

これに補足すると、
「慶応元年(1865)7月に立神軍艦打建所として用地造成が完了しましたが、当地における軍艦建造が取止めとなり、そのまま放置されていました。 明治2年(1869)になって、平野富二が民部省にドックの開設を建議し、民部省の認可がおりました。同年11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに着工しました。しかし明治4年(1871)4月、長崎製鉄所が工部省の所轄となるに及んで、平野富二は長崎製鉄所を退職し、工事は中止されました」[『平野富二伝』古谷昌二]

平野富二(1846-91)は長崎出身で、活字と活版印刷関連機器製造「東京築地活版製造所」と、造船と重機械製造「石川島平野造船所」を設立したひとである。
残念ながら、東京築地活版製造所はよき後継者を得ずに、1938年(昭和13)に解散にいたったが、造船・機械製造「石川島平野造船所」は隆盛をみて、「石川島播磨重工業株式会社」となり、こんにちでは「株式会社 IHI」 として知られている。
株式会社 IHI と、三菱重工業とは、ともに官営造船所の払い下げからスタートした民間企業という歴史をもち、なおかつ、さまざまな分野で競合関係にある巨大企業である。

すなわち株式会社 IHI では、創業を水戸藩徳川斉昭が幕命によって、江戸・石川島の地に造船所を創設した1853年(嘉永6)年12月5日としており、同社はことし創業160周年を迎えている。
また設立の年はすこし複雑で、1876年(明治9)平野富二による「石川島平野造船所」の設立と、のちに渋澤榮一らの参加をえて、1889年(明治22)に会社法人「有限責任 石川島造船所」が設立された日の双方を設立の時としている。ただし公的には、同社が法人格を得た1889年(明治22)を設立の日としている。
IHI 会社概要 最下部] [IHI 沿革・あゆみ
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ここで、長崎の地におおきな造船所がつくられた歴史を簡略にしるしてみたい。
1857年(安政4年)  江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」の建設着手。
1860年(万延元年)  「長崎製鉄所」と改称。
1861年(文久元年)  江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」が完成。
1868年(明治元年)  明治政府による官営「長崎製鉄所」となる。
1869年(明治02年) 平野富二が民部省に立神にドックの開設を建議し、民部省の認可が下りた。
1869年(明治02年) 11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに工事に着工した。
1871年(明治04年)  長崎製鉄所が工部省所管「長崎造船局」と改称[このとき平野富二は退職]。
1876年(明治09年)  平野富二、東京石川島に「石川島平野造船所」を設立。
1879年(明治12年)  官営「立神第一ドック」完成。
1884年(明治17年)  官営「長崎製鉄所」が払い下げにより三菱の経営となる。「長崎造船所」と改称。

あわせて平野富二(富次郎 1846-91)のこの時代の行蔵を簡略にしるしてみよう。
長崎にうまれた平野富二は、この三菱長崎造船所の前身、長崎製鉄所とは16歳のときから関係をもった。
まず1861年(文久元)長崎製鉄所機関方見習いに任命され、教育の一環として機械学の伝習を受けていた。このころは飽の浦に建設された長崎製鉄所の第一期工事が完成して間もないころであった。
ここでいう「製鉄所」とは、溶鉱炉を備えた製鉄所という意味の現代用語とは幾分異なり、「大規模な鉄工所」(古谷昌二氏談)とみたほうがわかりやすい。

1869年(明治2)平野富二が民部省[1869年(明治2)に設置された中央官庁。土木・駅逓・鉱山・通商など民政関係の事務を取り扱った。1871年廃止されて大蔵省に吸収された]に立神にドックの開設を建議し、民部省の認可がおりた。同年11月20日、「ドック取建掛」に任命され、直ちに工事に着工した。
このとき平野富二は24歳、春秋に富んだときであった。
しかしながら1871年(明治4)4月長崎製鉄所が 工部省 の所轄となるにおよんで、平野富二は退職し、工事は中止となった。

平野富二は、長崎製鉄所を退職したのち、1872年(明治5)7月から、長崎製鉄所の先輩だった本木昌造の再再の懇請により、経営に行きづまっていた「崎陽新塾活字製造所」を継承した。
平野は翌年、既述した「平野富二首證文」などによって資金を得るとともに、東京に出て、1873年(明治6)から活字製造と活版印刷機器の製造所、「長崎新塾出張活版所」、のちの「東京築地活版製造所」で成功して、あらたな資金をつくった。

あわせて幕末に水戸藩が設けた「石川島修船所」の敷地を借りるかたちで、念願の造船業「石川島平野造船所」の事業に1876年(明治9)に進出した。

すなわち巨大なドックをつくり、おおきな船舶をつくりたいという、平野富二24歳のときの夢は、長崎での工事は中断されて自身の手では完成をみなかった。
それでもこの立神の地に、巨大ドックを開設するという事業に着眼した平野富二は慧眼といえ、やがて工部省所管の官営造船所「長崎造船局」によって、1879年(明治12年) 立神第一ドックが完成し、その後三菱長崎造船所の主力工場となった。
それでも平野はあきらめることなく、巨大ドックをつくるという24歳のときの夢を抱きつづけ、その7年後、水戸藩徳川斉昭が、幕命によって江戸・石川島の地に造船所を創設したまま、放置されようとしていた施設を借りる(のち買収)かたちで、東京石川島の地で実現した。
このとき平野富二、31歳の男ざかりであった。

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造船業者や船乗りは「板子一枚下は地獄」とされ、きわめて危険な職業であることの自覚があるようである。したがってライバル企業「石川島平野造船所」、現在の IHI の設立者「平野富二」の名を、自社の主力ドックである立神ドックに、その名を刻した、三菱重工業長崎造船所の皆さんの意気にこころをうたれる。

上掲写真は、2001年「平野富二没後110年祭」に際して、列席された長崎造船所史料館のスタッフからいただいたものである。ここは三菱長崎造船所本工場の最奥部にあって危険があり、また情報管理の面からも、一般人の見学はゆるされていない。したがってこの写真が公開されたことはあまりないようである。

同社はまた『創業150周年記念  長船ナガセンよもやま話』(三菱重工業長崎造船所 平成19年10月 p.22-23)の見開きページで、
「立神に巨大ドックを 壮大な夢を抱いた平野富二、工事現場での大ゲンカ仲裁も」
として、イラストと写真入りで立神ドック建造中の姿を紹介している。

このとき平野富二は25歳という若さで、おそらくまだ髷を結い、帯刀して、3-4,000人のあらくれ労働者の指揮にあたっていたとみられる。

平野富二武士装束uu

平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職し、造船事業への夢を一旦先送りして、活版印刷の市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。
知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治9)に出されているが、平野富二がいつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。

建設中の立神ドッグ

開鑿中の立神ドック
本図は、横浜で発行された英字新聞『ザ・ファー・イースト』(1870年10月1日)に掲載された写真である。 和暦では明治3年9月7日となり、平野富二(富次郎)の指揮下で開始されたドック掘削開始から、ほぼ 9 ヶ月目に当たる状態を示す。
この写真は、長崎湾を前面にした掘削中のドライドックの背後にある丘の上から眺めたもので、中央右寄りにほぼ底面まで掘削されたドックが写されている[『平野富二伝』古谷昌二]。

考察13 開鑿ニ着手 明治二年(一八六九)一一月二〇日、製鉄所頭取青木休七郎、元締役助平野富次郎、第二等機関方戸瀬昇平は、「ドック取建掛」に任命され、続いて頭取助品川藤十郎と小菅掛堺賢助も要員に加えられた。 この中で筆頭の製鉄所頭取青木休七郎は名ばかりで、実質的な責任者は平野富次郎であった。 この時の製鉄所辞令が平野家に残されている。 
「平野富次郎  右ドック取建掛  申付候」  [『平野富二伝』古谷昌二]。 

任命状

  平野富次郎  右ドック取建掛  申付候図 ドック取建掛の辞令
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎製鉄所の辞令である。この辞令の用紙サイズは、高さ174㎜、幅337㎜で、ここに書かれている巳十一月とは明治2年(1869)11月(和暦)であることを示している[『平野富二伝』古谷昌二]。

長崎縣権大属任免状uu 

平野富次郎の長崎縣権大属任免状 
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎縣の任免状である。 この任免状の用紙サイズは、高さ187㎜、幅519㎜である。 最終行の「長崎縣」と書いた上部に小さく、「庚午 閏十月十六日」と記されており、明治3年(1870)閏10月16日[旧暦]の日付であることが分かる[『平野富二伝』古谷昌二]。
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三菱長崎造船所『創業150周年記念  長船ナガセンよもやま話』(三菱重工業長崎造船所 平成19年10月 p.22-23)には、以下のように平野富二、24歳のときの夢が記録されている。

7  立神に巨大なドックを
   壮大な夢を抱いた 平野富二  工事現場での大ゲンカの仲裁も
当所の立神タテガミドックは、仏人技師ワンサン・フロラン総指揮のもとに開削されたと一般には知られていますが、それ以前、このドックを開削した長崎人がいました。平野富二です。
富二は長崎うまれ、12歳で奉行所番となり、長崎製鐵所と関わりを持ったのは16歳のときでした。製鐵所では機関手見習いを仰せつけられています。

この後、機関手の実務勉強や実績を経て、製鐵所機関伝習方元締役と、小菅修船場長を兼務し、小菅修船場から海を隔てた対岸の立神に、一大ドック建設の夢をいだき、24歳のとき建白書を書き上げました。
建白書は、
「小菅修船所船渠で得た純益金1万8000円を資金として、立神に巨大なドックを開削し、おおいに造船の業を起こし、内外の航路と諸船舶修復の権利を掌握、加えて長崎港の繁栄を」
というものでした。この建白書は民部省で審議され、民部大丞井上馨から、「直ちに着手せよ」との許可がおりました。

1870年(明治3)9月、富二は立神ドックの開削に着手しました。しかし、この工事はなかなか簡単には進みませんでした。使用者は3千人から4千人と増え、なかには浮浪無頼のやからもおり、ケンカや酒狂、窃盗、博打、仕事もせずに惰眠をむさぼるなど、その取締りも困難でした。当時の富二はほかにも、製鐵所機関伝習方元締役、小菅修船場長の役職があり、その公務は多忙を極めていました。
加えて彼には持病があり、立神ドック開削現場で起こった二派に分かれての大ゲンカを、戸板に乗って運ばれて取り静めたこともありました。

しかし、こうした富二の苦労も報われませんでした。1871年(明治4)4月、長崎製鐵所が民部省から工部省の所管となり、小菅ドックや開削中の立神ドックなど、一切の財産帳簿類を整理し、工部省に引き渡して職を辞しています。
完成に至らなかった立神ドック開削に、それまで要した金額は2万1500円と記録に残されています。

平野富二と活字*08 天下泰平國家安全 新塾餘談初編 一、二 にみる活字見本(価格付き)

基本 CMYK
長崎港のいま
長崎港のいま。本木昌造、平野富二関連資料にしばしば登場する「崎陽 キヨウ」とは、長崎の美称ないしは中国風の雅称である。ふるい市街地は写真右手奥にひろがる。

新塾餘談 初編一 新塾餘談 初編一 口上 新塾餘談 初編一 活字見本 新塾餘談 初編一 売弘所 新塾餘談 初編二 新塾餘談 初編二 口上 新塾餘談 初編二 活字見本 新塾餘談 初編二 売弘所『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』  ともに壬申二月 ( 明治05年02月) 牧治三郎旧蔵

『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は、「 緒言-明治壬申二月 本木笑三ママ 」、「 燈火の強弱を試る法 図版01点 」、「 燈油を精製する法 」、「 雷除の法  図版02点 」、「 假漆油を製する法 」、「 亜鉛を鍍する法 」、「 琥珀を以て假漆油を製する法 」、「 口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」が収録されている。

また図版として計03点が銅メッキ法による 「 電気版 」 としてもちいられている。
『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は第1丁-10丁までが丁記を付せられてあるが、11丁からは急遽追加したためか、あるいは売り広め ( 広告 ) という意識があったのかはわからないが、丁記が無く、そこに 「 口上 」 がしるされている。
製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽(塩)屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 の名がある。

『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 壬申二月  明治05年02月 牧 治三郎旧蔵
『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 は、筆者手許資料は第01-9丁までを欠く。 10-20丁からの記述内容は、もっぱら電気鍍金法メッキの解説書である。 「口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」 は21丁にあるが、ここからは丁記は無い。
「 口上 」 の記載内容は 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 と同一で、発行もおなじ壬申二月 ( 明治05年02月 ) であるが、製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 のふたつの名が追加されている。
銅メッキ法による 「 電気版 」 は19丁に、電解槽とおぼしき図版が印刷されている。

また最終丁には、長丸印判によって 「 定價永三十六文 」 と捺印されている。
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新町活版所跡碑部分上掲図版は、長崎の新街私塾 ( 新町活版所 ) から刊行された 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( ともに壬申二月  明治05年02月 平野富二このとき26歳 ) の巻末に掲載された 「 崎陽 新塾活字製造所 」 の活字見本 ( 価格付き ) である。
この図版は、これまではしばしば本木昌造の企画として紹介され、文例から 「 天下泰平國家安全 」 の、本木昌造による活字見本として知られてきたものである ( 小生もそのように紹介してきた。 ここに不明をお詫び申しあげたい )。

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。平野富二 ( 富次郎 ) が、市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年 ( 明治04 ) 秋、26歳のときの撮影と推定される。 知られる限りもっともふるい平野富二像。

旅姿で、月代 サカヤキ をそらない丁髷に、大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。 撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は 「 A. Morikawa TOKYO 」 である。

廃刀令太政官布告は1876年(明治09)に出されたが、早早に士籍を捨て、平然と 「 平民 」 と名乗っていた平野富二が、いつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である。
平野富二の眉はふとくて長い。 目元はすずやかに切れ長で、明眸でもある。 唇はあつく、きりりと引き締まっている ( 平野ホール蔵 )。

本木昌造は、このころすでに活字製造事業に行きづまっており、1871年(明治04)06-07月にわたり、長崎製鉄所を辞職したばかりの平野富二 ( 富次郎 ) に、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 への入所を再再懇請して、ついに同年07月10日ころ、平野はその懇請を入れて同所に入所した。
これ以後、すなわち1871年 ( 明治04) 07月以降は、本木は活字鋳造に関する権限のすべてを平野に譲渡していた。

また本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放する意志はなく、「 新街私塾 」 一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていた。 そのことは、『 大阪印刷界 第32号  本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 )、 『 本木昌造伝 』( 島屋政一 朗文堂 2001年 ) などの諸記録にみるところである。
長崎活版製造会社之印長崎港新町活版所印新街私塾

『 本木昌造伝 』 ( 島屋政一 朗文堂 2001年08月20日 ) 口絵より。 元出典資料は 『 大阪印刷界 第32号 本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 ) であり、『 本木昌造伝 』 刊行時に画像修整を加えてある。 上から 「 長崎活版製造会社之印 」、「 長崎港新町活版所印 」、「 新街私塾 」 の印章である。
長崎の産学共同教育施設は、会社登記法などの諸法令が未整備の時代のものが多く、「 新街私塾 」 「 新町私塾 」 「 長崎新塾 」 としたり、その活字製造所、印刷所なども様様な名前で呼ばれ、みずからも名乗っていたことが、明治後期までのこされたこれらの印章からもわかる。

苦難にあえでいた 「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 の経営を継承した平野は、従来の本木時代の経営を、大幅かつ急速に刷新した。
またこの前年、1871年(明治04)の秋の上京に際して、東京を中心とする関東での市場調査と、携行した若干の活字販売をしているが、その際平野は販売に際して、カタログないしは見本帳の必要性を痛感したものとみられる。
それが 「 活字見本 ( 価格付き )」 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( 壬申二月  明治05年02月)につらなったとの指摘が、諸資料を十分検討したうえで 『 平野富二伝 』 で古谷昌二氏よりなされた。

長崎に戻った平野は、それまでの本木の方針による 「 活字を一手に占有 」 することをやめて、ひろく活字を製造販売し、あわせて活字版印刷関連機器を製造し、その技術を公開することとした。
本木の行蔵には、どこか偏狭で、暗い面がみられ、高踏的な文章もたくさんのこしている。
ところが、その事業を継承した平野は、どこかわらべにも似て、一途な面が顕著にみられ、伸びやかかつおおらかで、なにごともあけっぴろげで明るかった。

1871年 ( 明治04 ) 07月10日ころ、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 へ入所した平野は、早速市場調査と、活字の販売をかねて09-10月に上京した。 この旅から平野が長崎にもどったのは11月01日(旧暦)とみられている。
そのとき、長崎ではまだのんびりと 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 の活字組版が進行していたとおもわれる。 また 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 の緒言に、本木は 「 本木笑三 」 という戯号をもちいて、なんらの緊張感もない序文をしるしていた。

長崎にもどった平野は、本木とその協力者 ( 既存の出資者 ) に 「 活字見本 ( 価格表付き )」、すなわち販売用カタログを緊急に製作する必要性を説き、その承諾をえて、『 崎陽新塾餘談 初編一 』  『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 (壬申 二月  明治05年02月)の両冊子の巻末に、急遽 「 販売を目的とする価格付きの活字見本 」 を印刷させ、まずは活字を、ついで活版印刷機器を、ひろく需用者に販売することにしたものとみられる。
長崎港のいま 新町活版所跡の碑 活版伝習所跡碑 本木昌造塋域 大光寺 本木昌造銅像 長崎諏訪公園このような活字を製造し、販売するという平野富二の最初の行動が、この活字見本 ( 価格付き ) であったことの指摘が、『 平野富二伝 』 ( 古谷昌二編著 朗文堂 p.136-7 ) でなされた。 これはタイポグラファとしてはまことに刮目すべき指摘といえよう。

掲載誌が、新街私塾の 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』、『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 であり、販売所として、初編一では長崎 ( 崎陽 ) の 「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 であり、初編二には前記二社のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 の名が追加されている。
これらの販売所はすべて本木関連の企業であり、当然その効果は限定的だったとみられるが、これが平野のその後の事業展開の最大のモデルとなったとみられ、貴重な資料であることの再評価がもとめられるにいたった。

補遺4 活字の販売 
明治5年(1892)2月に新街私塾から刊行された小冊子 『 新塾餘談 初編一 』 の巻末に、
「  口上
此節雛形の通活字成就いたし片仮名平仮名とも大小數種有之候間  御望の御方へハ相拂可申右の外字體大小等御好の通製造出申候
   壬申 二月          崎陽 新塾活字製造所 」
という記事があり、続いて、初号から五号までの明朝体と楷書体活字を用いた印刷見本と、その代価が掲載されている。

この広告文は、活字を一手占有するという本木昌造の従来の方針を改め、世間一般に販売することにした平野富次郎による経営改革活動の一環と見ることができる。 東京で活字販売の成功と事業化の見通しを得たことが、本木昌造と協力者の方針を変更させ、このような活字販売の広告を出すに至ったものと見られる。              ( 『 平野富二伝 』 古谷昌二 p.136-7 )

壬申、1872年(明治05)、平野富二はたかだかと口上をのべた。このとき平野数えて27歳。
「 口上  ――  [ 意訳 ] このたび見本のとおり活字ができました。 カタ仮名活字、ひら仮名活字も、活字サイズも大小数種類あります。 ご希望のお客さまには販売いたします。 そのほかにも外字やサイズなど、お好みに合わせて製造いたします。
明治五年二月  崎陽 新塾活字製造所 」
以上をのべて、本格的な活字製造販売事業を開始し、あいついで活版印刷機器製造事業をはじめた。

この 「 口上 」 という一種のご挨拶は、本木の高踏的な姿勢からは発せられるとは考えにくく、おそらく平野によってしるされた 「 口上 」 であろう。
同時に平野は、東京への進出に備えて、あらかじめ1872年(明治05)8月14日付け 『 横浜毎日新聞 』 に、陽其二 ヨウ-ソノジ、ミナミ-ソノジ らによる、長崎系同根企業の 「 横浜活版社 」 を通じて、同種の広告を出していた。

同年10月、平野は既述した 「 平野富二首證文 」 を担保として、上京のための資金 「 正金壱千円 」 余を調達した。 その調達先には、長崎六海商社と、元薩摩藩士で関西経済界の雄とされる五代友厚の名前があがっているが後述したい。
そして、退路を断った東京進出への決意を胸に秘めて、新妻 ・ 古ま ほか社員08名 ( のち02名が合流 ) をともなって上京した。

上京後の平野は、ただちに同年10月発行の 『 新聞雑誌 』 ( 第66號 本体は木版印刷 ) に、同種の 「 天下泰平國家安全 」 の活字目録を、活字版印刷による附録とし、活字の販売拡大に努めている。
このときの 『 新聞雑誌 』 の発行部数は不明だが、購読者たる明治の教養ひとにとっては、木版印刷の本紙の付録として添付された、活字版による印刷広告の鮮明な影印は、新鮮な驚きがあったであろうし、まさしく文明開化が具現化したおもいがしたのではなかろうか。

この 「 壬申 二月 」、1872年(明治05)02月とは、わが国の活字と活版印刷術が、平野富二の手によって、はじめて、おおらかに、あかるく、ひろく公開され、製造販売が開始された記念すべき年であったことが、本資料の再評価からあきらかになった。
これからは時間軸を整理し、視点を変えて、再検討と再評価をすべき貴重な資料といえる。