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朗文堂好日録-027 台湾再訪Ⅱ 吾、佛跳牆を食す。「牆」と異体字「墻」のこと。台湾グルメ!

《そも  佛跳牆-ブッチョウショウ とはなんぞや ? 》
この中国料理は近年わが国でも次第に知られるようになったが、説明と発音が面倒なためか、最近の中国や台湾向け観光旅行のガイドブックなどでは「ぶっとびスープ」などと紹介している。
そこには以下のような説明が加えられることが多い。
◉  特殊な料理なので、どこの店でも扱っているメニューではない。
◉ 10日から1週間前、最低でも 4 日程度前には予約をする必要がある。
◉ 予約をしても、食材が揃わないとして断られることがある。
◉ ホテルのレストランなどでも「佛跳牆」をみるが、期待はずれに終わることが多い。

なにやら面倒な料理のようだ。
検索してみたら、東京・丸の内には クリスマス・メニューで 1 杯 5 万円の「佛跳牆」もあるという。
もちろん『花筏』は観光ガイドではないし、ましてやグルメガイドでもない。公式にはタイポグラフィ・ブログロール『花筏』と称しているのである。
また本稿は二部構成となっており、その前半はグルメ記録というより、林昆範氏とやつがれとの、まことに真摯なタイポグラフィ研究の学徒たる!? 一面を記録したものである。
★朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で

したがって、すこし煩瑣ではあるが、まず上掲の第一部の記録をご覧いただき、そののちに「佛跳牆 ブッチョウショウ、fótiàoqiáng、別名;ぶっとびスープ」を、すこしくタイポグラフィカルに、個個の「字」から紹介しよう。

【 佛 跳 牆 】

◎ 佛
佛は「仏」の異体字であり、もちろん「仏跳牆」でもかまわない。しかし台湾では繁字体 ≒ 旧漢字の使用が中心なので、ここでは「佛跳牆」でとおしたい。なお、大陸中国では、簡体字の使用によって「佛跳墻」とあらわされるが、その理由は後述する。ここでの「佛」は戯画化してえがかれたもので、単独ではさしたる意味はない。

一部にこの「佛」にひかれたのか「佛跳牆」を精進料理とする解説をみる。精進料理とは、肉や魚介類をもちいないで、穀類・野菜類・海草類・豆類・果実類などの精進ものを食材とする料理である。したがってこの解説にはチト疑問がある。
「佛跳牆」は、もともと中国広東省から福建省あたりの祝膳料理として発祥し、山海の珍味をベースとして、肉や魚介類を豊富にもちいて、滋養に富んでおり、医食同源とする漢族のあいだでは、むしろ「薬膳料理、祝膳料理」とされる。

◎ 跳
「跳」は常読で「チョウ」であり、意読では「とぶ、はねる、おどる」などとされる。「ぱっととびはねて、足が地からはなれる → 跳躍」であり、「はねあがっておどる → 跳舞」となる。
すなわち「佛跳」となると
「佛さまが  はねあがって  舞い踊る」の意となる。
したがって、たれが名づけたのか知らぬが、台湾ガイドが常用する「ぶっとび」とは、字音と字義をうまくとらえた、できのよい愛称といってよい。
ただし類語の「ぶっとぶ」は「飛ぶ」の意をつよめていう語であり、漢の字と併用すると「打っ飛ぶ」とあらわされるので、注意が必要である。
それでは「佛が、どこで、なぜ、舞い踊ったのか」を調べてみよう。

◎ 牆
「佛」「跳」にくらべると、「牆」はチト厄介である。
すなわち「牆」の漢字音には「ショウ(シャウ)、ゾウ(ザウ)、qiáng 」などがあるが、和訓音はなく、習慣的に意読として「かき、へい」とよんでいる。
そもそも漢字部首「爿ショウ部・片ヘン部」の漢の字が意外と厄介なことは、すでにこの『花筏』にも何度かしるした。



 
★  新・文字百景*001 爿・片 許愼『説文解字』
★  新・文字百景*003 いろいろ困っています「片」の字

そもそも漢字部首「爿」と、その「爿」を意符や音符として字画の一部に含む漢の字は「將軍 → 将軍、莊園 → 荘園、裝束 → 装束」のように、常用漢字ではほとんど「丬」に置きかえられている。
しかも漢の字「牆  部首爿部  シフトJIS E0AD」には、異体字「墻  部首土部  シフトJIS 9AD4」がある。「墻」は「牆」の異体字とはいいながら、もちろん同音同義の字である。それでなお「牆・墻」は、漢字部首まで「爿ショウ部、土ツチ部」とおおきく異なるのである。

ついでながら、繁体字をもちいる台湾では「佛跳牆」であり、大陸中国では簡体字(わが国では異体字)とされる「墻」をもちいて「佛跳墙」とあらわされる。
もちろん大陸中国では、メニューにも「佛跳墙」とあらわされるので注意が必要である。

余談をかさねると、「ラチもない」をおもいだした。地方によっては「らっちもない」とする。
「ラチもない」とは、仕事の糸口がつかめない、乱雑である、つまらない、仕事がはかどらないの意となるが、漢の字をもちいると「埒が無い」となる。

類語に「埒を明ける(開ける)」がある。これはものごとのきまりをつけること、はかどらせることである。また立派に申し開きをするの意にももちいられる。
「埒」(JIS第2水準、シフトJIS 9ABD)とは、低い垣、かこいのことであり、わが国ではふるく、馬場の周囲のかこいのことをいった。
かこいの無い馬場では、馬丁などの仕事がはかどらないことは当然であろう。

「牆・墻」は、ともに「石や土で築いた細長い へい」の意であり、「牆垣 ショウエン」「囲牆 イショウ」のように、いずれも「周囲をとりまいた へい」のことである。もちろん「埒」よりも壮大なものをいう。また「無 喩 我 牆 → 我ガ牆ヲ 喩ユル無ケレ」(詩経)のような使用例もある。
中国では古来、堤防・城壁・土塁・家屋・寺院・墳墓・道路など、巨大構造物をの多くを、板を積みかさね、その間に粘土質の土を入れて、堅く突き固める工法  版築 法が用いられた。そしてそれらの構造物を「牆・墻」などと称したのである。

中国河南省省都・鄭州にみる「鄭州商代牆(墻)曝露地」。古来からの版築法によって修復・再現作業が展開していた。版築法における工具の木材に注目すると「牆」となり、素材の土に注目すると「墻」となる。漢の字における同音同義の異体字とは、このようにして誕生する。

この漢の字「牆・墻」は、わが国では「石や土で築いた(巨大で)細長い へい」より、生け垣や竹垣のように、より軽便なものをもちいるために ── つまり「牆・墻」に匹敵するような巨大な「石や土で築いた細長い へい」自体があまり無いために、ほとんど使われることがない。

むしろ童謡「たきび」(作詞 ; 巽 聖火、作曲 ; 渡辺 茂)の、
♫ かきねの かきねの まがりかど たき火だ たき火だ おちばたき ♫ 
のように、垣根とか、塀、屏、あるいはせいぜい石垣ないしは土塁などをもちいることが多い。

《中国 河南省省都 鄭州に「牆」をみる》
かつて中国 河南省省都 鄭州「テイシュウ Zheng Zhou」のことをこの『花筏』で紹介した。その際、「このまちは、わかりにくい」としるした。
★ 朗文堂好日録011 吃驚仰天 中国西游記Ⅰ  2011.10.04 

すなわち、土中から発掘されるふるい商代(前商、前殷とも)の鄭州の文物には「文はあるが、字はない」からである。中国ではわが国でいう「文字」はあまり使われず、「文」と「字」は、それぞれの発祥と意味をもつ。
ここでは「牆・墻」の実物、遺構がたくさんみられる鄭州のことを、あたらしい写真とともに再録したい。

★      ★      ★

《文 ≒ 紋様学、字 ≒ 文字学、あわせて 文字 の研究の旅》
やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。われわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。したがって甲骨文・金文・石鼓文は、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としてのまっとうな扱いはうけずに「文」と表記される。

つまり鄭州の遺跡で発掘される、商(殷)・周時代初期の土器や銅器などにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などは、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。

 

 

まして中国では甲骨文 ── くどいようだが甲骨文字ではない ── を大量にのこしたことでしられる《殷》は、本来は《商》と自称した古代国家であった。司馬遷『史記』の殷本紀によれば、湯王が《夏カ》を滅ぼして、紀元前16世紀ころに商王朝を創始し、30代にわたる王をもった。

商は巨大かつ大量な武器や青銅器を製造し、本来錆びに弱いはずの青銅器が3000年余も腐食しないほどの、高度な防錆術(メッキ法。クローム・メッキの一種か?)をもっていた。
また安陽を都とした商代の後半(後商、後殷)となると、甲骨で占いをなし、その占いの結果を「甲骨文」としてのこした。また数頭の馬が牽引する大型戦車も所有していた。ところが紀元前11世紀ころ、殷王・紂(チュウ、辛シンとも)にいたって、周の武王に滅ぼされた。
《殷》とはこの国を滅ぼした《周》が、《商》にかえて意図的に名づけた悪相の字である。また甲骨(甲 ≒ 海亀の腹部、骨 ≒ おもに牛の大腿骨)にのこされた記録は「甲骨文」であって、甲骨文字とはいわない。

殳 ──── シュ、ほこづくり・ほこ・るまた
許慎『説文解字』によれば、「殷」は会意で、字の左の部分(扁とはいわない)は「身」の字の逆形(躰を反対にねじる)である。また「殷」の旁ツクリには「殳シュ」がみられる。

殳とはもともと武器を持つ形を象どったもので、『部首がわかる字源字典』(新井重良、2007、木耳社)をみても、この殳を旁にもつ字には、「殺・殴・殻」など、あまり良相とはいえない字がならぶ。殷もそのひとつの例としてあげられる。

 

 
やつがれ、2011年09月の中旬、ひさしぶりの中国旅行とは、結局のところ「文+字の旅」となったが、いままで報告されなかったり、ほとんど報告がなかった各地の碑林・碑坊、字発祥の地、墓所、博物館などを訪ねることができた。

河南省の省都「鄭州 Zheng Zhou」は、中原を東流する黄河の南岸に位置し、東は開封市、西は洛陽市、北は新郷市、南は許昌市と接する。人口はおよそ750万人。
この鄭州では、前期の商(前商、前殷)の遺跡を訪ねあるいた。やつがれはこの鄭州城市訪問は3度目だが、ともかくこのまちはわかりにくいとしかいえない。なによりもこのまちでは、つくづく「文」と「字」の違いをおもいしらされるのである。

すなわちこの城市は黄河の南岸にあり、あいついだ黄河の氾濫のために分厚い土中に埋もれているが、城市自体が紀元前3500年ころの遺蹟のうえにあり、前期の商(殷)もここを都とした。
すなわち鄭州城市の地上のあちこちに、いまでもかつての城壁の牆(現代中国では簡体字によって「墻」とする。高い土塁といったらおわかりいただけるだろうか……)がみられるが、それは全体の1/3-1/4ほどの高さでしかなく、ふつうのビルの6-8階分に相当する、峨峨として巨大な「牆」のほとんどは地中ふかくに埋もれている。
そしてこのまちのあちこちから、饕餮文トウテツ-モンを中心とする、「文」をともなった青銅器や陶器が発掘されている。しかしながら「字」は、この前商時代の鄭州の遺蹟からは発見されたという報告はない。

河南省北部の「安陽市 Anyang」は、前述の鄭州から近く、列車かタクシーで日帰りできる。その安陽市北西郊外(俗にいう小屯村)に、紀元前14-11世紀に商(後商・後殷)が鄭州から移動して都をおいた。ここでは甲骨文発見地たる王城域、歴代の王の墓域-王陵域、そして安陽駅に隣接して新設成った《文字博物館》を訪ねた。
繰りかえすが、ここは《文 ≒ 紋学、字 ≒ 字学、あわせて、文字の博物館》である。
活字キッズやモジモジ狂は、はじき飛ばされること必定の施設であった。


上掲の写真は、すべて鄭州市内のものである。このまちのあちこちで商代の「牆」や、あるいはのちに興亡をくりかえした各王朝も、ここを都としたり、主要都市として「將・墻」を築いたために、幾重にもかさなった「牆」がある。その一部は石積やコンクリートで補強されているが、ほとんどは地中に没し、わずかに地上にでている原型のままの「牆」がみられる。

「牆」の一部は公園化されている。昇ってみると遊歩道のように整備されていて、わが国の「スーパー堤防」ほどの広さがあるが、高さはかなり高い。
また一部の「牆」は、景観保存のために、古代からの版築法によって復元されていたりする。こういう情景を考古学者は「鄭州商代牆(墻)曝露地」とよんでいる。

後半に紹介した「河南省文物考古研究所」(所長・王 潤杰 オウ ジュンケツ)は、まさしくそうした「鄭州商代牆曝露地」の一画をおおい占めた建物のなかにある。
所内の展示場には王 潤杰氏が多年にわたって発掘してきた石器・土器・青銅器などがならぶが、そこにはさまざまな意味を内包した「文 ≒ 紋様」はみられるが、後代のものをのぞいて「字」をみることはない。

河南省文物考古研究所の扁額や図録の題字は 郭沫惹(カクマツジャク 1892-1978)氏の筆になるものである。郭沫惹氏は中国の文学者・政治家で、毛沢東の信任があつく、ながらく中日友好協会会長をつとめた人物である。
その業績と評価は、文化大革命時代の行蔵もあって多様にわたるが、「甲骨学」の研究者としての評価はゆるがないものがある。

甲骨文を研究する学問を、中国では「甲骨学」とし、その著名な開拓者の4名を「四堂一宣」シドウイッセン とよんで尊敬している。四堂とは、羅 振玉/雪堂、王 国維/観堂、董作賓/彦堂、郭沫惹/鼎堂であり、一宣とは、胡厚宣のことである。
わが国ではあまり知られていないが、「甲骨学 四堂一宣」の大家、郭沫惹が書した「殷虚」は、悪相とされる漢の字の形象・字画を巧妙にさけて、ご覧のような「好字、好相の字」におきかえている。ところがこれらの「好字、好相の字」は、残念ながらあたらしいメディア上では表示できない。

うんちくが長くなった。整理しよう。  

【 佛 跳 牆 】

あまりの香りのよさに誘われて、佛さまや修行僧が、寺院の石や土で築いた細長いへいの「牆」に跳びあがって、舞い踊りながらやってくるほどおいしい料理です。

 《佛跳牆の味自慢が、ノー学部にはよほど羨ましかったらしい》
佛跳牆 ブッチョウショウ をはじめて食したのは、10年ほどまえに 林 昆範 リン クンファンさんの兄弟と、台北の湖南省料理のレストランで、忘れられない味の料理をご馳走になったのが最初である。
林さんの一家は優秀で、父親は「中醫學博士」で、弟さんはアメリカで近代医学の「医学博士」号を取得していて、当時はそのレストランからほど近い病院の勤務医だった。当時の林昆範さんは、まだ日本大学藝術学部大学院で、博士号取得のために研鑽中であった。

「佛跳牆」はスープの部の順番にでてきた。
「この料理は、もともとは福建省や広東省や湖南省あたりのお祝いの料理で、1月1日の中華民国開国記念日、2月10日頃の春節(旧正月)、清明節、端午節、中秋節などに、一族が寄り集まってたべるものでした。佛跳牆には、あわび、フカヒレ、乾燥ナマコ、マツタケなどの乾燥食材のほかに、高級漢方薬の 冬中夏草トウチュウカソウ などもはいっていて、喘息や気管支炎に有効です。またコラーゲンがたくさん含まれていますから、老化防止や、女性の美肌効果がおおいにあります」

漢族には古来医食同源とするならいがある。いわゆる漢方医薬師、中醫學博士の家にうまれた林さんの弟、近代医学博士のありがたい解説のあとで食した「佛跳牆」は、蓋つきのスープ皿で、上品に(少量が)供されたが、それはそれは、芳ばしく、美味しく、忘れがたいものだった。
 それでもその湖南省料理店は相当の格式で、ご馳走になったとはいえ、メニューでチラッと「佛跳牆」などの価格を見てしまった。つまりかなり高額の支払いが予測された。
「このレストランの予約も支払いも弟がしましたから。弟は医者で、収入も多いから気にしないで」
林さんの兄は最初にそういった。林さんの弟はうなずいていた。そういうものらしい ? ……。
ついでながら、中国でも台湾でも、ほとんど「割り勘」という習慣はない。

そんな「佛跳牆」の忘れがたい味を、しばしばグルメ大好きのノー学部にはなしたおぼえがある。
いまにしておもえば迂闊であり、無警戒だったが、急遽今回の台湾再訪が決まったとき、いつのまにか呆れるほど、徹底的に調査してあった「佛跳牆関連資料」のコピーをもちだして、台北市中山北路二段137巷18號の「明福餐廳 メイフクサンチョウ」にどうしてもいきたいといいはった。
しかもあちこちに@メールを送りつけて、強引に予約を取りつけていた。だからこうして、林昆範さんともどもここにいる。
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「明福餐廳」の外観は、まったくどうということなない、ふつうの大衆中国料理店にみえた。
しかしここには、台北では著名で頑固な店主 兼 調理人、阿 明 師(阿は名の前につける尊敬と親愛をこめていう愛称、師はここではシェフ。阿 明 師は台湾では一流シェフとして著名だという)がいて、店舗の改装や拡張はほとんどしないが、政官財の著名人がひそかに通う店とされる。
なかでも 元 中華民国総統・陳水扁氏 のお気に入りの店としてしられ、昼間の時間帯は地元客が多いと聞いたし、店内にも陳水扁 チン スイヘン 氏の写真と書額が飾られていた。

また日本の美食家、とりわけ女性のあいだでは「明福餐廳」の名前はつとに知られていたらしい。もちろん狙いは「美肌効果 !!」。
ともかく女性の美にたいするあくなき執着には、男どもは畏れいるしかなし、触らぬ神にたたり無しとおもったほうがよい。
また口のおごった日本のタレントなども相当押しかけているようだった。だから 渡辺満里奈志村けんお笑いトリオ・ネプチューン研ナオコ ら、日本の芸能人の写真がさりげなく置いてあったりする。
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まだ夕方もはやいというのに、「明福餐廳」の店内は、香港からの団体客30名余と、テーブル席に12名の団体、そしてわれらが一行、林昆範さん、ノー学部、やつがれの3名でいっぱい。

別にコース料理を取ったわけではないが、ノー学部情報で次次と(勝手に)料理を注文した。
前菜ででたのが、台湾の高山地帯 花蓮 で採れるという 山菜「山蘇 サンソ」をサッと油通ししたもの。「山蘇」の見ためはワラビのような山菜だが、ぬるぬるしていながら、シャキシャキした歯ごたえがたまらない。これもはもうひと皿追加注文した。

 

一の皿という感じて供されたのが「とこぶしとマヨネーズ あぶり焼き」。
台湾マヨネーズと、とこぶしの取り合わせの旨さがグッとくる。焼き加減も、店頭の水槽で活きているとこぶしの鮮度をいかしたもので、その癖のない味つけに、やつがれ、いつのまにか「これは、すこし違うぞ !!」と、椅子に深深と座りなおして身構えることになった。

悪い癖で、料理の合間にときおり店外にでてベンチで喫煙していたが、その折りにみかけた光景は、最低でも四組30名ほどの団体客が「明福餐廳」押しかけ、いずれも予約外ということで、すげなく門前払いを喰らっていた。これには呆れるというか、おそれいってしまった。

二の皿。「紅蟳 コウジン 炒飯」── コレハ コレハ。おもわずホッコリした。
あまりひとにかたりたくない味だ。つまりひとには秘密にしておきたい、癖になる味だ。
ひごろ衣食住に関心が無いとうそぶくやつがれは、海底を徘徊する、エビ、カニのたぐいは苦手とするが、これには一本とられた気分。もちろん美食できこえた清朝の西太后でさえ、おそらくびっくりの旨さ(チト大仰かな?)。

ともかく、これでもかというまでに、ご飯にたっぷりまぶされたカニのたまごと、ほんの少量の油で炒めたこの炒飯は、はるかに炒飯のカテゴリーを超越していた。
なにぶん店頭の水槽で活かされているカニをたっぷり使うので、荒天がつづいて出漁できなかったあとや、注文が集中したら、すぐにオーダーストップだそうである。だから値段は「時価」。
もっとも「明福餐廳」の「時価」はリーズナブルな価格で、さほど驚くようなものでは無い。むしろどこぞの国の鮨屋の「時価」のほうがよほどおそろしい。
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ここまでしるしてきたら、もはや「佛跳牆」のことをかたる勇気が失せてきた。ここまで繊細で芳香に満ちており、上等な料理をかたる資格はやつがれにはない。
やつがれは、料理とは、ただの料理であり、命をつなぐためにあるものだとおもっている。つまり敗戦の直後にうまれたやつがれは、飢餓のこわさをおぼろに記憶している。だから料理とは腹が減ったら食べるものだというくらいにおもっている。
いちおうそれが満たされたら、旨いにこしたことはない。つまり料理とは、ただの料理で、せいぜい愉しむくらいでよいとおもっている。それ以上料理に拘泥するのは卑しいことだとおもっていた。

ところがノー学部はもはや陶然としているし、日ごろ冷静沈着な林昆範さんまでが、
「これはおいしいですねぇ~」
と、何杯もおかわりしながら食していた。
こうなると、衣食住にさほどの関心はないなどと、日ごろからうそぶいているやつがれは顔色をうしなう。

しいていえば「明福餐廳」の「佛跳牆」は、ホテルのレストランで供される「佛跳牆」などのように、排骨(豚のリブ)やタロイモを入れて煮込んだ、とろ味のあるスープとは異なり、おもには乾物の、干しあわび、乾したフカヒレ、干しなまこ、ホタテの乾燥貝柱、干し貝各種、干しマツタケ、漢方薬の 冬中夏草トウチュウカソウ などの高級食材を10数種類ももちいて、これらの乾燥食材をまず水にもどしてから、トロ火でたっぷり時間をかけて煮込んで、旨み成分を十分にとりだしたものらしい。もちろん、価格はリーズナブルであった。
したがってコラーゲン独特の粘りはあるが、ゆたかな香りと、清よらかに澄んだスープは、あっさりとして、筆舌につくせぬうまみがあった。

提供された「佛跳牆」はもちろん事前にノー学部が予約しておいたものだったが、料理の最後のほうに、ド~ンと大きな壺に入ってでてきた。
最少のサイズで注文したというが、どうみても5-6人用で、それまでにさんざん料理を食べまくってきた3人で食すにはいかにも多かった。それでも何杯もおかわりして、あらかた壺の底がみえるまで食べまくった。

そうこうしているうちに、いつのまにか隣席の香港チャイニーズの皆さんともうち解けて「ドゥ ── 日本のVサインにかえて、親指を突きだして ドゥ という」のエール交換。
こうして台湾の夜を「明福餐廳」で、こころゆくまで満喫したのであった。

《ホテルは近代的だったが、窓があかないことと、禁煙強制で、すっかりまいった》
今回のホテルは「台北 美麗信花園酒店 Miramar Garden Taipei」。前回宿泊した「圓山大飯店」とちがって、市民大道三段83號と、まちなかの高層近代ホテルだった。ところが近代高層建築にありがちの、窓がすべてはめ殺しになっていて開けることができなかった。
当然ながら、ロビー、カフェはもとより、全館全室全面禁煙。たばこ税高額納税者の愛煙家を、かくまで虐めて、なにがおもしろいのかとおもうのだが……。

それでもホテルの外に、お情けのように灰皿をひとつだけポツンとおいてあって、そこで喫煙が可能だった。みんなが寝静まってからも、ここだけは深夜まで賑わっていた。もちろんやつがれもしばしばここを訪れた。というより、ここの常連だった。
ちょいとまいったのは窓がまったく開かないこと。別に閉所恐怖症ではないが、近ごろの高層オフィスビルでは会議中に酸欠状態を感ずることもある。こういう高層ビルの、空気が循環するだけのエアコンで馴致されていたら、おそらく長寿は望めないとおもうほどである。
だから部屋はそこそこ広かったが、ともかく息苦しくて寝付きが悪かった。やはり次回の台北行きは「圓山大飯店」がいいとおもう。窓とは、ひろびろと開けはなってこそ窓であるから。 
★ 朗文堂好日録-025
  台湾の活版印刷と活字鋳造 日星鋳字行 +台湾グルメ、圓山大飯店、台湾夜市、飲茶

   

台湾大学、台湾工業大学、日星鋳字行、それに前回は資金不足で買えなかった図書をもとめて「古今書廊二手書店」などにもいったが、ここでは仕事の報告を含めてすべて割愛。
食の繊細さに、この歳になってようやくめざめたやつがれである。ここはともかく意地でもグルメ紹介に徹したい。

ふつう、旅先での朝食は、ホテルで摂るほうがなにかと無難だが、なにせノー学部は、スケジュールのエクセル・プリントに空白部があると気に入らないらしい。そこですこしホテルの近くを散策してから、まちの中心部の「鼎泰豊本店 ディンタイフォン」の軽食をとることになっていた。

  

ホテルを出ると、すぐ隣がひろい空き地になっていたが、そこにパパイヤの木がたくさん実をつけていた。やはり台湾は南国だなぁ、と感心しながら歩いていたら(内心は、ここは空き地だし、採って喰いたいとおもういじましさ)、チョット面白い看板「日式鍋料理 涮涮鍋」を発見した。

台湾では「日式」というと日本風ということになるが、台北のまちに写真のような「日式鍋料理 涮涮鍋」のお店があった。 林 昆範 さんの解説によると、
「涮涮鍋はシュワンシュワン-グヮ といいます。みんなが涮涮鍋は日本の料理だと知っていますし、ここは人気のある、しゃぶしゃぶ料理のチェーン店です。意味からいうと 涮鍋 でもでいいのですが、涮涮 シュワン シュワン と繰りかえすことで、スープのなかで、サッサ、サッサと肉をゆする行為をうまくあらわしていますね。
台湾には似たような鍋料理に、涮羊肉 サンヨウニク, シュワン-ヤン-ロウ, shuàn yáng ròu という、蒙古族の民族料理、羊の肉の火鍋料理もありますから、蒙古族や女真(満州)族の料理が日本にわたって変化したものかもしれません」

どうやらあまりみかけない字「涮」がキーワードのようなので、帰国後に調べてみた。
涮  JIS 第4水準 画区点 2-78-66、U+6DAE
漢字音読み:サン、セン、セツ、セチ。 和訓読み:なし

[説文解字風にまとめてみた]
許慎六書の法でいう会意を3回繰りかえした字。
「氵」は水(ここではスープ、だし汁)をあらわす。
「刷」はサッとこすり取るが原義。はく、清める、サッとなでてゴミを取りさる。する「印刷」
左側は「尸シリ+布ヌノ」の会意の字で、人が布でお尻の汚れを拭きとる意をしめす。
刷はそれに刀をくわえた字で、刀のような細長いもので、サッと汚れをこすりとる意。
────
ところでわが国の肉の鍋料理「しゃぶしゃぶ」の起源は意外にあたらしく、1952年(昭和27年)に大阪のスエヒロが、自店の料理に「しゃぶしゃぶ」と命名したものがはじまりとされている。
同店では1955年(昭和30)に「しゃぶしゃぶ」ではなく「肉のしゃぶしゃぶ」の名で商標登録をしているが、ここでも「しゃぶしゃぶ」はひら仮名であらわされている。
もし「涮涮」の名前で商法登録したら、ここまでの定着をみなかったかもしれない。それよりなにより、役所が「涮涮」の漢字登録を受けつけてくれなかったかもしれない。

《ついでに……、スキヤキの漢字表記》
2012年12月22日[土]新宿私塾第21期生 懇親忘年会が開催された。
例年12月の声をきくと、あちこちで新宿私塾修了生が、同期ごとに懇親会を兼ねた忘年会を開催しているようだ。それぞれの期ごとに幹事が工夫して、安く、楽しく、お酒もたくさん呑める会場をさがしての開催である。
★ 新宿私塾忘年会 +涮涮ってなに? スキヤキの漢字は?     

おおむね女性が幹事だと、しゃれた、グルメ調の洋風の店になり、男性が幹事だと、大衆居酒屋のようなところになるようである。
新宿私塾第21期生の「懇親忘年会」は、ビルのなかにある、清潔でおしゃれなお店であったが、やつがれも招かれて参加した。料理の中心は「スキヤキ風しゃぶしゃぶ」(写真:町田さん提供)。

宴たけなわ、お酒もだいぶまわってきたころに、チョイと意地悪な質問をした。
「このコースターの裏に、スキヤキ を漢字で書いてください!」
「え~ぇ、スキヤキに漢字なんてあるんですか~?」
とワイワイガヤガヤやって、できたのが下の図版である。残念ながら全員アウト! 


牛・鶏肉などに、ネギ・焼き豆腐などを添えて、鉄鍋で煮焼きしたもの。
明治維新の前、まだ獣肉食が敬遠されていたころ、屋外で鋤スキの上に獣肉をのせ、焼いて食べたからとされる。また肉をすき身(薄切り)にしたからともいう。〔広辞苑〕 
────
《行列をし、開店をまって飛びこんだが、すぐに満員となるほどの人気店だった》
「鼎泰豊本店 ディンタイフォン」は飲茶ヤムチャが中心の店で、そんなに早くから開店するお店ではない。それでも遅い朝食を摂ろうと、大安区信義路二段194號の本店前についたとき、すでに客の行列がはじまっており、店舗の脇では多くの支店へ食材を配送するための軽トラックが次次と横着けされていた。ノー学部にいわせると、
「ここは支店がいくつかあるけど、やはり本店がいちばん美味しいらしい」
とのことである。ちなみに、このお店はなんと、新宿髙島屋にも支店があるそうだ。

ところでノー学部。写真の小籠包ショウロンポウのような「ゆるキャラ」が大好きときている。だから行列にならぶのをやつがれに押しつけて、こんな妙なゆるキャラの撮影に夢中なのだから、まったくもって嫌になる。
かつて滋賀県の彦根城にいったときも、やつがれはわけもわからず「ひこにゃん」なるものの、ながい列にならばされた。

ところが彦根市の「ひこにゃん」ですっかりゆるキャラに目覚めてしまったやつがれ、
「この小籠包の、ぽっちゃり旨そうなキャラクターもいいなぁ」
と、アホ面をさらして眺めていたのだから、なにもいえない。

だいぶ歩いてくたぶれていたし、おまけに行列にまでならばされて不機嫌になっていたが「鼎泰豊 ディンタイフォン」に入って、まず前菜ででてきた料理 ── クラゲとなにかの食材をいためたものか ── が出たとたん、すっかり機嫌がなおった。さっぱりしていて旨かったのだ。

やがて「鼎泰豊」自慢の小籠包がでてきた。アチチ、アチチといいながら、ジューシーな味わいの小籠包のとりこになる。ともかく皮が薄く、それでいて破れず、とろけるような味といったら「鼎泰豊」の人気のほどがおわかりいただけようか。
そしてエビ焼売シュウマイ。もともとやつがれは焼売が好きだが、ここの焼売は小籠包に似てジューシーな味わい。
ウ~ン、真っ昼間から飲茶でこんなに食べまくっていては確実に太るなぁ。でも旨いんだから、まぁしょうがないか……。

《林東芳牛肉麺を食し、遼寧夜市を散策》
あまり詮索することが得意でないやつがれも、この頃になると、ノー学部はどうして今回のホテルを、さしたる特徴もない「台北 美麗信花園酒店 Miramar Garden Taipei」に決めたのか察しがついてきた。すなわち、このホテルはどこのグルメ拠点からも近いのである。
このように呆れるしかないが、ノー学部は5,000年におよぶ中華文化の深淵をさぐるために、あえていえば食文化 !? からの視点でみることが中心となっているようである。

ホテルから徒歩圏内、500メートルほどのところに「林東芳牛肉麺 リンドウハン ニュウロウメン」がある。「牛肉麺」とは、わが国のラーメンにも似て、台湾のひとが好んで食する大衆食品である。
ラーメンに豚肉をトッピングに加えたチャ-シュウ麺があるが、あれをたっぷりの牛すじ肉の煮込みでつくったとおもえば近いかもしれない。

 

「林東芳牛肉麺」の店舗はとても狭く、しかも一軒だけほかの店を夾んで、ちいさな二店舗が並んでいる。だから客は店頭にたっている小娘シャオジェの指示で、左右どちらかの空いた店に入るが、タクシードライバーなども立ち寄る、安くて、早くて、おいしい人気店である。

つまり大衆食堂だが、最近は日本人観光客にも人気があって、なかなか店内には入れないほどの活況を呈していた。
ここはチト狭くて慌ただしかったが、ディッシュ ? の牛肉麺の前菜としてとった「小皿」が、どれも質・量・味の三拍子がそろっておいしかった。
おもうに、近ごろのわが国の奇妙な「ラーメン文化」をかたり、行列に連なるやからなぞは赤面してしまうかもしれない。つまりラーメン一杯だけで1,000円余も支払い、咥え楊枝でのれんからでてくる、オヤジやオヤジギャルの姿なぞはあまりみたくない。

ちょっとスパイシーな牛肉麺を楽しんだあとは、腹ごなしのために「遼寧リョウネイ夜市」をブラブラあるいてホテルまで戻った。
きょうもよく食べた。まぁ食欲は健康の印、食もまた文化なりということにして、タバコも我慢して寝てしまおう。

 

《とどめとして、帰国前の朝の朝食に、台湾おかゆの人気店にいった》
明日は帰国という前夜に、ノー学部がのたもうた。
「明日の朝は6時に起きてください。朝ご飯を忠孝東路一段108號の 阜杭豆漿 フーハン ドゥジャンのおかゆを食べにいきます。朝5時半からの開店だそうで、ものすごく混むようですから早くにいきます。ホテルから近いので、歩いていけます」

   

中国や台湾では、朝食に外食、それもおかゆ料理を摂ることが多い。「阜杭豆漿」は華山市場ビルの2階にある地元客相手の店だったが、最近では評判店として観光客も押しかけて、えらい人気になっている店だそうである。
地図でみるとさほどの距離にみえなかったが、「阜杭豆漿」までは徒歩だと30分以上かかり、店に着いたときは、それこそ階段から店外にまで行列が伸びていた。店内はひろくて清潔で、オープンキッチンでは観光客が撮影に夢中になっていた。

地元客は自宅に持ち帰って食べるひとのほうが多い。観光客は1-2割弱かとおもえたが、おおかた写真のような品をオーダーしていた(ここまで多くはないが……)。
やつがれは、これが最後とばかり、豆乳粥にパンとごま団子まで摂って朝から大満足。
このあと荷物をまとめて、あわただしく空港に駆けつけて帰国した次第である。
明日からはまた、東京でのあわただしい毎日がまっている。

朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で  

 

《ようやく活版カレッジ台湾訪問記を『花筏』にアップ完了後なるも……》
いずれも昨年のこととて、いささか旧聞に属して恐縮だが、2012 年10月06日-08日にかけて「アダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ  Upper Class」の皆さんが台湾旅行にでかけた。

まさかその翌月に台湾再訪となるとはおもわなかったが、所用があって  2012年11月23-25日、2泊3日の慌ただしい日程でまた台湾にでかけた。
その所用は1日で済んだので、その後は旧友の林昆範との再会を楽しみ、さらにおいしいものに目が無く、グルメ大好きであり、前月の旅ですっかり台湾グルメに惚れ込んだらしいノー学部とも合流して、台北のまち歩きを楽しんだのち、結局のところやつがれの苦手とする「グルメ三昧」となった。
その報告は「朗文堂 NEWS」12月08日に前半部分だけを掲載した。それをここ『花筏』に移動して掲載し、あわせて後半部分もつづいて掲載することとした。

ここしばらく、台湾と中国もの、それもグルメに関する話題が続きそうな『花筏』の怪しい気配ではあるが、ご用とお急ぎでないかたは、まぁ一服でもしながら、ごいっしょに 文+字  文字談義などはいかがでしょう。

★      ★      ★

《2012年11月23-25日、台北の茶館で林昆範氏と歓談》
関与先の台湾企業から、急遽訪台の要請があり、11月22日の最終航空便の手配をされた。翌 23 日[金]は早朝からその用件に追われたが、ここで報告するような内容ではないので割愛。

24日[土]からは解放され、また運良く連休の週末だったので、久しぶりに 林昆範 さんとお会いすることにした。
夕方からはノー学部も台北で合流することになっていた。ノー学部は台湾再訪が決定して、こんなみじかい期間に、よくもまぁ……、とおもうしかない強行日程を、それもグルメ中心のスケジュールを勝手に組んでいた。このノー学部と合流後の阿鼻叫喚は後編にゆずりたい。
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林昆範 リン-クンファン さんは、日大藝術学部大学院の修士課程・博士課程の履修期間中と、その後しばらくの6年半ほどのあいだ、当時の指導教授・松永先生のご指示で、実に律儀に、誠実に、夏休みもなく朗文堂に毎週1回かよわれたかたである。

博士課程履修期間の後半は「グループ 昴スバル」の一員としても活躍され、その成果を朗文堂 タイポグラフィ・ジャーナル ヴィネットに、『中国の古典書物』『元朝体と明朝体の形成』『楷書体の源流をさぐる』『石の書物-開成石経』などにまとめられた。
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林さんは博士号取得後に帰国され、現在は台湾中原大学助教授として、しばしば学生を引率して大陸中国で「中国少数民族の文化」の調査・研究にあたっており、今回は中国南西部での調査から、前日に帰国されたばかりであった。
それでも長旅の疲れもみせず、ホテルのロビーまでピック・アップにきていただいた。
★朗文堂ニュース:林昆範関連図書のおすすめ 2010年03月11日

久しぶりの再会のあと、この日の午後の日程管理は林さんにお任せ。夕方の18:00からはノー学部と合流して、林さんと3人での食事会を予定していた。
「きょうは 大藝埕 ダイゲイテイ にいきましょう。もともと日本統治時代に開発され、銀行や商事会社がたくさんあったまちですが、いまは東京の代官山のように再開発がすすんで、若者に人気のお店がたくさんあります」
「大藝埕は、日本のガイドブックには、美食街とされていたまちですね」
「美食はカタシオさんは苦手でしょう。ご案内したいのは道教の施設、隍廟(コウビョウ 道教)の隣の、ちょっとオシャレな茶館です。ここは日本統治時代のビルを改装して、現代台湾のデザインショップや、ギャラリーもありますし、なによりも、ふるい臺灣と、あたらしい台湾がみられますから……」

しばらくふたりで大藝埕 ダイゲイテイのまちをぶらついて、隍廟 コウビョウの隣のふるいビル・民藝埕 ミンゲイテイにはいることにした。
このあたりは日本統治時代の築70年余のふるいビルを丁寧に改装した建物が多いが、さりとて日本風というわけではなく、コロニアル・スタイルというか、大正ロマンというか、アールデコというか、つまり無国籍な、ふしぎな感じをうける。
漢方薬や書画骨董品などの、日本人観光客めあてのお店もあるが生彩はない。いまはガイドブックの紹介も減って、日本人の姿はあまりみかけないまちになっている。

ブック・カフェやデザイン小物の店がならぶ、まちあるきのあいだに、林さんの教え子や現役の学生たちとしばしば出会った。なかにはかつて林さんに引率されて、朗文堂まで研修にこられたもと学生もいて、うれしい再会となった。
そのなかの、日本へも留学されたおひとりに、道教の廟「台北霞海城 隍廟」で、道教式の礼拝の作法を教わった。

道教は漢民族の伝統宗教で、黄帝や老子を教祖として仰ぐ。さらに古来の巫術(フジュツ、シャマニズム)や老荘思想の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想までを加味したものであって、やつがれにとってはきわめてわかりにくいものであった。
理解できる範囲でいうと、現世利益 ── 不老長寿、富貴、子孫繁栄、商売繁盛などをねがい、符呪や祈祷などをおこなうものである。

道教は東漢末の社会不安のなかから、漢中あたりで勃興した五斗米道 ──  ゴトベイドウ、張陵 チョウリョウ が老子から呪法を授かったとして創始した。五斗米道の名は、入門の際に五斗の米を納めさせたからいう。天師道とも ── にはじまり、北魏の寇 謙志之 コウケンシ によって改革され、さらにインドからもたらされた仏教の教理などをとりいれて次第に成長した。
唐代には宮廷の格別の保護をうけて全盛となり、現在でも漢民族のあいだの民間宗教としてひろくおこなわれている。

上掲写真の「隍廟」は、台北でも有数の道教の拠点の「廟」であり、見た目よりは奥行きがあって内部はひろい。そこには、それこそ善男善女、老若男女が、たくさん列んだ神像の前で祈祷を繰りかえしていた。それでもいくらひろいとはいえ、廟内は香華と人混みで、むせかえるほどの盛況であった。

     

台北の街角には、大小さまざまな道教の施設がある。
写真上)は、高速道路下の「八徳市場」の入り口にあった施設。こうした少し大きめな施設は「廟」といい、線香・供え物・おみくじなどを販売する道士なのか管理人 ? のようなひともいる。写真のように供物と香華が絶えることはない。
ちいさなものは、無人で「祠」とされるが、この規模でも香華は絶えない。この「祠」は、クリスマスツリーを飾られておおらかなもので、さしずめわが国のまち角の「お地蔵さん」か「お稲荷さん」のような感じだった。

また商店などにも、わが国の神棚のような位置に道教の神像が祀られていることもおおい。

「林さん、このあたりの 埕 テイ とはどういう意味ですか ?」
「商店街とか、マーケットということでしょうか」
帰国後に調べてみた。「埕」とは本来口が細長い素焼きの酒瓶であり、海水を細長い水路で砂浜に導き入れてつくる、ふるい製法の塩田の名称にももちいられている。この「細長い」の意から、細長くつづく商店街やマーケットのことになるようであった。

民藝埕 ミンゲイテイにはいくつもの商店やギャラリーが入っていた。ちょうど土曜日だったためか、ギャラリーから若者が溢れていた。なにかとおもったら、台湾で著名な若手造形家のギャラリー・トークが開催されていた。
ところが、どの施設も、あまりにむき出しで、素朴な、バウハウス・スタイル、1925 年代国際様式、あるいは「白の時代」で溢れていて、こちらが照れてしまうほどであった。

なによりも、この店のとなりには、先に紹介した、強い色彩と、インパクトのある装飾に充ち満ちた「台北霞海城 隍廟」があるのである。
それでも茶館「陶一進民藝埕 トウイッシン-ミンゲイテイ」に入って、しばらくして「なるほどなぁ」と納得させられることになった。

ちなみに、茶館「陶一進民藝埕」で、80 種類ほどもある「お茶」のメニューのなかからオーダーしたのは、写真手前が林さんのもので、インド北東部ヒマラヤ山脈南麓産の「ダージリン紅茶」であった。
写真奥がやつがれのもので、中国江蘇省蘇州産の緑茶「璧羅春 ヘキラシュン」である。なかなか国際色ゆたかであった。
茶館「陶一進民藝埕」のパンフレットを簡略に紹介すると以下のようになる

当店は台湾民藝 100 年の伝統と、現代日本のデザインを弁証法的に融合させた茶館です。
日本の民藝と美学の大家である 柳 宗悦氏、工藝デザインの大家の 柳 宗理氏の父子両代にわたる理論と作品の数数と、喫茶を通じて対話していただけます。

つまりこの茶店「民藝埕」に関与したとされる、民藝と美学の大家である 柳 宗悦、工藝デザインの大家 柳 宗理の父子を理解しないと、この「陶一進民藝埕」、ひいては大藝埕のまちなみのことを理解しがたいことになる。

柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889 年 3 月 21 日-1961 年 5 月 3 日)は、旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。
のちに香港うまれの英国人で、画家・デザイナー・陶芸家として知られる バーナード・リーチ の知遇をえて、その縁から英国 19 世紀世紀末の「アーツ&クラフツ運動」に触発されて、手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合って「民藝運動」を起こし、生活に即した民藝品に注目して「用の美」を唱えた。また 1936 年(昭和 11 )東京都目黒区に「日本民藝館」を設立して、1957 年(昭和 32 )文化功労者となった。

またその子息、柳 宗理 (やなぎ そうり、本名 : 宗理 むねみち、1915 年 6 月 29 日- 2011 年12 月 25  日)は、惜しいことに一昨年の暮れに亡くなったが、日本の著名なプロダクトデザイナーであった。
柳宗理は 1934 年東京美術学校洋画科入学。バウハウスまなんだ水谷武彦の講義によってル・コルビジェの存在を知り、工業デザインに関心を持つようになり、プロダクトデザイナーとして活躍したひとである。

柳宗理の師となった 水谷武彦 (みつたに たけひこ、1898 年-1969 年)は、日本の美術教育、建築の教育者である。また日本人として最初にバウハウス(Bauhaus)へ留学した人物としても知られる。帰国後には様様な活動をつうじて、日本にバウハウスを紹介し、その教育を実践した人物である。

これらの19 世紀世紀末「アーツ&クラフツ運動」や、1925 年代「バウハウス国際様式」にまなんだ人物が、どのようなかたちで、どこまで「大藝埕」の景観づくりと、「民藝埕」ビルと、茶館「陶一進民藝埕」などの再開発に関わったかは不詳である。
それでも「国際様式」とは、たれが名づけたものか知らないが、全体に激しい色彩と、インパクトの強い形象が目立つ台湾のまちのなかで、この大藝埕あたりのランドスケープは、かなり異なった風合いがあった。

茶館「陶一進民藝埕」の食器(テーブルウェア)は、すべて柳宗理のデザインによるものであった。その純白の器のなかに、お茶の淡い色彩が幻想的に浮かびあがる。
おおきな急須に、従業員がときおりお湯を注いでくれるので、ほどよく蒸れたころ、それをガラスの器にうつして、ちいさな茶碗で喫茶する。
「陶一進民藝埕」では 3時間余も、写真のお茶をおかわりするだけで長居したが、べつに嫌がられもせず、つぎつぎとお湯を注いでくれた。料金はそこそこの値段で、お菓子もついて日本円でひとり500円ほどだったであろうか。
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林さんとのはなしに夢中になっているうちに、いつの間にか、かつての新宿邑の、雑然とした朗文堂にいるころとおなじように、たがいにあつくなって、タイポグラフィ論議を展開した。
テーマのほとんどは 文 + 字 = 文字 であった。蒼頡 ソウケツ 神話をかたり、そして許愼 キョシン『説文解字』をかたりあった。
「糸 繪  文 糸 紋 宀 子 字」そして「文 + 字、文字」であった。

先述したように林昆範さんは、中国大陸における観光産業との共同作業で「中国少数民族の文化」を考察・研究されていたが、その途中経過をモバイルメディアの画面に提示しながら、中間報告をしていただいた。
中国にはいまでも54ほどの少数民族があって、それぞれに守護神をもち、それを象徴化した図画・紋様をもつということである。そしてその民族が守護神を失ったとき、その紋様とともに滅亡にいたる……。すなわち伝統紋様とは守護神が視覚化されたものだという報告は新鮮であった。
────
帰国からしばらくして、写真が添付された@メールに、以下のようなうれしい報告があった。

久しぶりにゆっくりおはなしができて、刺激的でしたし、発奮しました。
近年、大陸における観光産業との共同研究で、中国少数民族の文化を考察しています。それらの考察はデザインに使われる素材〔紋様〕として扱い、その素材収集が中心でしたが、このままでは研究とはいえなくて悩み、まして論文発表までは考えてもいませんでした。
ところが、片塩さんのご指摘により、伝統紋様は原始の〔ことば〕であることを理解しました。即ち、「文」の造形性が強調されて「紋様」になりました。そして「文」の記号性が強調されて「字」になりました。この両者が結合したものが「文字」ということです。
来年の夏までに、先日のご指摘と、これまでの収集の成果を見なおして、なんらかの発表ができるようにまとめることに全力をあげます。
日本と台湾でお互いにがんばりましょう。 林  昆範
(この項の写真は、すべて林昆範氏撮影) 

朗文堂好日録-025 台湾の活版印刷と活字鋳造 日星鋳字行 +台湾グルメ、圓山大飯店、台湾夜市、飲茶

《 活版カレッジ Upper Class 有志旅行 台 湾 探 訪 》
わが国の活字鋳造法、なかでも活字母型製造法は、再再触れているように幕末・明治最初期から昭和 25 年ほどまでは「電鋳式活字母型製造法」(電胎法ともいう)であった。
その状況がおおきく変化したのは、1949-50 年(昭和 24-25 )に、三省堂が所有していた「機械式活字父型・母型彫刻機 いわゆるベントン彫刻機」の国産化に、津上製作所、ついで不二越製作所の両社が成功し、それが急速に普及したためである。

このパンタグラフの原理を応用した機械彫刻方式は、リン・ボイド・ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)によって、1884 年に活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化された「機械式活字父型・母型彫刻機、いわゆるベントン彫刻機」であった。
しかしながらこの方式による活字母型製造法は、安形製作所、協栄製作所などの彫刻技術者が2012 年に相次いで逝去されたため、ここに、アメリカでの実用化から 128 年、国産化から 62 年という歴史を刻み、2012 年をもって専業者レベルにおいては事実上幕をおろすこととなった。
【参考資料:花筏 タイポグラファ群像*004 安形文夫】

すなわち、これからのわが国での活字鋳造の継続を考慮したとき、いかに慣れ親しんだ技法とはいえ、もはや専業者がいなくなり、また残存するわずかな原字パターンの字体にも、いわゆる「常用漢字字体表」などの字体資料と、あきらかな字体の齟齬が相当数にみられるようになった。
すなわち、いまやあまりにふるい「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」という 19 世紀の技術にすがることなく、いずれ、あらたな活字母型彫刻法を開発しなければならない状況にあった。
──────────
台湾における活字鋳造、活字組版会社、日星鋳字行(行 ≒ 店)の存在と、その CAD 方式をもちいたあたらしい活字母型製造法の情報は、だいぶ以前から林 昆範 リン クンファン 氏(台湾中原大学助教授、タイポグラフィ学会会員)からいただいていた。
台湾における活版印刷と、活字鋳造の現状は、臺灣活版印刷文化保存協會の柯 志杰 カ シケツ さんによると、
   いまの台湾では、活字鋳造、活字版製造、活版印刷の崩壊を、あやうく
   防止できたという段階にあり、これから徐徐に活字母型の修復作業に
   とりかかりたい。
   将来課題としては、新刻作業に入りたいという希望をとおくに見据えている
   段階にある。
ということであった。

したがって、この活字母型 CAD 式製造法をまなぶことを主目的とした台湾旅行は、一昨年中におこなわれる予定の企画だったが、2011 年 3 月 11 日の東日本大震災の影響もあってのびのびになっていた。
その間逆に、2011 年の年末に、数回、日星鋳字行の張 介冠 チョウ カイカン 代表と、台湾活版印刷文化保存協会の 柯 志杰 カ シケツ さんが、日本における活字鋳造の現状調査、台湾のテレビ局の取材立ち会い、欠損部品の補充などを目的に、わざわざご来社いただくことが数度あった。

さらにふしぎなことに、2011 年の年末、クリスマスの日も、年末をもって廃業される活字関連業者の設備移動に関して、急遽来日されたおふたりと過ごしていた。
そしてなによりも、日星鋳字行は、震災で中断しながらも、翌年 5 月に再開した《活版凸凹フェスタ 2012 》に独自スタンドをもうけて出展されており、アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕会員の皆さんとも、すっかり親しい間柄になっていた。
それらの研究と交流の成果は、以下のページに収録されている。
★アダナ・プレス倶楽部 活版凸凹フェスタ*レポート 14 
★朗文堂-好日録 019 活版カレッジ台湾旅行

今回は「台湾探訪」『アダナ・プレス倶楽部 会報誌  Vol.19 』(文責・大石 薫)をもとに、ときおりやつがれが介入するかたちで、すこしふるい情報ながら、活版実践者の皆さんが 2012 年 10 月06-08日、 2 泊 3 日の短い日程のあいだに、いかに台湾にまなび、いかに台湾を満喫したのか、その姿をご紹介したい。

なお写真にはやつがれがしばしば登場するが、それはデジカメをもたず(ひとによっては「使えず」とも評す。まっこともって けしからん発言である。事実だけど。)、撮影どきに暇そうにしているから被写体となったに過ぎず、けっして出たがりではない。ここに為念強調しておきたいのだ。 〔ここまでカタシオ wrote〕

★     ★     ★     ★

「台湾探訪」『サラマ・プレス倶楽部 会報誌  Vol.19 』(文責・大石 薫より転載)

「活版カレッジ」(3ヶ月間 全9回)を修了された活版カレッジ Upper Class」の皆さん恒例の有志旅行も、今回で3回目となりました。
2012年10月06-08日の3連休を利用して、今回は「活版カレッジ Upper Class」はじめての海外旅行、台湾の台北 タイペイ 市に行ってまいりました。その際の訪問先のいくつかをご紹介いたします

《台北  松山空港》
東京と台北間の直行便での空の旅は、成田空港 ⇔ 台湾桃園トウエン国際空港(旧・中正チュウセイ国際空港)の便と、羽田空港 ⇔ 台北松山 ショウザン 空港 の便があります。今回は台北市内へのアクセスが便利な、羽田空港 ⇔ 松山空港便を利用しました。
参加者の中には、松山空港が台北の空港の名前とは知らず、
「羽田空港から国内線で、愛媛県(四国)の松山 マツヤマ 空港を経由し、そこで国際線に乗り換えて台湾に入るものだ」
と出発間際まで勘違いしていた人もいて、最初から笑いの絶えない旅となりました。

航空会社は、創立から現在まで、死者や航空機全損事故は皆無だとして、世界で最も安全な航空会社として知られる「エバー航空」を選択しました。
台湾の航空会社ですが、機内でも日本語が通じますのでなにかと便利です。

搭乗した便は「ハロー・キティ号」だったため、機体はもとより、座席も食事も、エチケット袋からトイレットペーパーに至るまで「キティちゃん」づくし。空飛ぶアミューズメントパークといった感じでした。写真は松山空港到着時のもの。

飛行時間は〔東京 → 台北〕約4時間、〔台北→ 東京〕約3時間です。なお日本と台湾との時差は1時間です。

台北松山空港に着くと、そこの時計の広告に「労力士 = ローレックス」の文字がありました。さぁ、いよいよ漢の字の国へ来たなという実感がわきます。

《初日・昼 ──── 日星鋳字行 台北市大同区太原路97巷13號》
松山空港からタクシーに分乗して、ホテルのチェックインに先だって、荷物を抱えたまま、現在台湾で唯一営業を続けている活字店「日星鋳字行」さんをまっ先に訪問しました。
ここの取材が今回の旅の主目的でした。

日星鋳字行代表の張介冠 チョウ-カイカン さんと、台湾活版印刷文化保存協会の柯志杰 カ-シケツ さんは、今まで何度も朗文堂を訪ねてくださり、2012年には< 活版凸凹フェスタ> にも出展されて、同じく活版印刷を愛し、その存続を願う活版カレッジの皆さんともすっかり打ち解け、交流を重ねてきました。なお、中国語で「行」は「お金を扱うお店=銀行」と同様に「お店」という意味です。「銀行」は現代中国でももちいられていますが、意外なことにわが国での翻訳語が元で、明治の奇妙人・福地櫻痴が Bank から翻訳したとされています。

日本の活字店では活字の鋳造と販売が中心であり、活字組版はおもに活版印刷所で行うことがもっぱらですが、台湾では活字鋳造と活字組版を行うところまでが活字屋さんの役割です。
すなわちもともとの活字印刷版製造所、略して活版製造所の業務であり、活版印刷所へは活字組版の状態で納品となります。

そのため、日星鋳字行では、日本の活字店のような差し込み式の収納棚に、部首順の活字ケースを仕舞い込むのではなく、ふつうの活版印刷所と同じく、文選がしやすいように、対面式の活字馬棚ケースに、部首別かつ使用頻度順に配置された活字ケースがずらりと並んでいました。

簡体字政策が進んだ中国大陸とは異なり、台湾では繁体字が広く使用されています。そのため日星鋳字行には、大陸の簡体字にくらべて日本人にも馴染みが深い、旧字体を含む繁体字の漢字活字が豊富に揃っていました。

今回の旅の一番の目的は、日星鋳字行代表の張介冠さんが取り組んでいる、現代のテクノロジー CAD(Computer Aided Design) を採用したあたらしい活字母型の製造方法の見学と、その新しい技術を使ったオリジナルの活字母型と、鋳造活字の製造でした。

今回は、あらかじめ原字のデジタルデーターを送付しておき、日本ではすでに鋳造が難しくなってしまった「初号  42 pt 」の大きさの活字を作ることにしました。
まだ台湾に着いてから数時間にも関わらず、参加者それぞれのオリジナル初号活字ができあがったとたん、喜びのあまり、

「早く家に帰って、自分の活版印刷機で、この MY 活字を印刷してみたい!」
と言い出す面〻です。ともかく台湾初日の最初の訪問先にて、すでに大満足の活版カレッジ Upper Class のメンバーでした。



【 新塾餘談 ──── なぜか好きなもの 文選箱とゲラ 】
文選箱大好きという、龍爪堂コレクションに、あらたに加えられた 日星鋳字行による新製造の文選箱。台湾でもすでに文選箱が不足がちで、あらたな企画で文選箱の製造・販売をはじめていた。
張社長によると、売れゆきは期待値の半分もないとのことだった。わがサラマ・プレス倶楽部では教育機関などには新品を供給しているが、まだ中古品の在庫が若干あり、個人ユーザーでは、新品と中古品の要望が半半といったところか。

写真左 : 台北・日星鋳字行が新製造した文選箱。材料 : アメリカ杉。9pt.活字 25×20 本 2 段。工業用糊+釘打ち。頒価 : NT$  400元(税別)
写真右 : サラマ・プレス倶楽部が新製造している文選箱。材料 : ホオの木。五号活字 40×20 =800 本収納。一部入れ子細工。定価 :1,000円(税別)

《版画工房 美好一日工作室 One Fine Day Studio  台北市大同区太原路 97 巷 16 號》
日星鋳字行のすぐ向かいにある版画工房が「美好一日工作室  One Fine Day Studio」です。
代表の楊 忠銘 ヨウ チュウメイ さんは若手の版画作家ですが「台南藝術大学」や「MOCA 台北當代藝術館」で後進の版画指導もされています。

楊忠銘さんは、学生に活版印刷について教える際には、サラマ・プレス倶楽部編『 VIVA !! カッパン♥』を積極的に参考資料として活用しているとの嬉しい報告もありました。また揚忠銘さんは日星鋳字行とのコラボレーションによる、新しい絵柄の活字デザインも意欲的に行なっています。

《初日・夜 ──── 寧夏夜市、鬍鬚張(ひげ張)  台北市大同区寧夏路62號》
外食が日常化している台湾では、夜市が連日連夜開催されています。そのなかでも、寧夏夜市は歴史が一番古い夜市で、日星鋳字行さんからは徒歩で10分程度の近距離にあります。
今回は寧夏夜市内にある「鬍鬚張-ひげ張」さん本店で、張さんご一家と、台湾活版印刷文化保存協会ならびに台湾大学大学院の皆さんを交えての、楽しくにぎやかな夕食会となりました。




  

「鬍鬚張」さんは日星鋳字行代表の張 介冠のご紹介でした。「鬍鬚張」は本来「魯肉飯 ルーローファン」の老舗ですが、鬍鬚張二代目社長の張 永昌さんと、寧夏夜市観光協会の張 永賢さんの粋なはからいによって、一店舗に居ながらにして、寧夏夜市の人気屋台料理のすべてを調達してくださる「寧夏夜市  ミニ満漢全席」なるサービスを受けました。

なおここに登場する 3 人の張さんは、親しいご友人ですが、縁族ではないそうです。
今や台湾全土に支店がある「鬍鬚張」さん。日本にも石川県に支店が2店舗あるそうです。
こうして台湾到着から数時間の、収穫と刺激の多かった長い一日が終わりました。

《 2 日目・午前中 ──── 公館駅・台湾大学周辺》
皆さん強行日程だった1日目の疲れもみせず、早朝から各自で朝食をすませて、ロビーに集合。タクシーに分乗して公館駅周辺の古書店街にでかけました。
台湾では古書のことを「旧書(舊書)」あるいは「二手書」(まさに「Second Hand」ですね)と呼びます。以前は、中正区の高架道路の下の旧光華商場に、古書や骨董の市場街がありましたが、現在は新しいビルが完成して、秋葉原のような電気街へと変貌しているため、今回は台湾大学周辺の学生街で、古書店も多い「公館駅」の周辺を散策しました。

  
この周辺は台湾大学、台北大学も近いために、神田神保町というと大袈裟ですが、昔ながらの古書店である「公館舊書城」(台北市中正區汀州路三段130號)や、「古近書廊二手書店」台北市中正區羅斯福路三段244巷23號、17號)、ブックカフェ風の小奇麗な古書店など、たくさんの古書店があります。棚には日本の本や、中国大陸から来た本もたくさん並んでいました。

  学生街のため、安くて美味しい飲食店がたくさんあるのもこの地区の魅力です。
人気の台湾スイーツのひとつに「タピオカ・ミルクティー」があります。台湾では「タピオカ」のことを「青蛙」と表記し、お店のトレードマークに蛙を採用しているお店も少なくありません。
タピオカがカエの卵のようにみえることからその名称がうまれたと聞きました。人気店の長い行列にならんで、ようやく購入した「タピオカ・ミルクティー」は絶品で、ほとんど飲んでしまってからの写真となりました。

《 2 日目・昼から ──── 台湾故宮博物院 台北市士林区》
この日の皆さんは、公館駅のちかくでいくつかのグループにわかれて、古書店やスィーツを楽しみ、公館駅周辺のお店で軽食をとってから「故宮博物院」にかけつけました。

「故宮博物院」といえば、中華人民共和国北京市の「故宮博物院(紫禁城)」と、中華人民共和国遼寧省省都:瀋陽市(旧満州奉天)の「瀋陽故宮博物院」、中華民国台湾台北市の「国立故宮博物院(台湾故宮博物院)」があります。なかでも台湾の故宮博物院は、その貴重かつ膨大な収蔵品の数から、大陸中国の故宮博物院を差し置いて、世界四大博物館 のひとつに数えられています。


故宮博物院は、ラストエンペラーで知られる溥儀 フギらの清王朝の一団が紫金城を退去したのち、1925年に紫禁城の宝物を一般に公開したのがはじまりです。その後、日中戦争や中国大陸での内戦の激化により、蒋介石率いる国民党軍(のちの中華民国政府)によって、紫禁城にあった宝物の一部は、北京から南京などに避難の旅を続けました。

のちに形勢が不利となった国民党軍(中華民国政府)とともに、宝物は台湾に渡り、台湾故宮博物院 の開設となりますが、その際台北に運び込まれた宝物は3,000箱近くに及んだとされています。
この中国大陸から台湾への宝物の移動は、結果的にのちの文化大革命時代の中国大陸の美術品破壊から宝物を保護することへもつながりました。
混乱期の長旅を経て台湾に辿りついた宝物は、紫禁城に残った宝物にくらべて小振りのものが中心ですが、選りすぐりの逸品揃いであるといわれています。

なお、台湾故宮ではスタッフのほとんどが、国語(北京官話)、台湾語(もともと福建省寄りの言葉が台湾独特の方言に発展したもの)、英語、日本語をあやつるマルチリンガルです。そのため無理をして英語を使うより、むしろ日本語のほうが通じます。また、ミュージアムショップでは日本語版の図録や DVD も多数販売されています。
展観の途中から消えた松尾篤史さんと「やつがれ」さんは、古書店に続いて、ここのミュージアム・ショップでも図書をどっさり買いこみ、ひとりでは身動きもできないという始末でした。

《 2 日目・夜 ──── 士林夜市》
士林夜市は台湾で一番大きな夜市で、故宮博物院と同じ士林区にあります。2011年の年末に新しいビルの地下に美食街がつくられ、そこに多くの屋台が移転したばかりでした。いまはビルの地下ですから昔のような風情は無くなりましたが、衛生面や安全面も向上し、屋外屋台のような雨の心配もいりません。

  

  

士林名物の巨大フライドチキンに、特大台湾ソーセージ、牡蠣オムレツ、青蛙下蛋(直訳は「蛙の卵」ですが前出のタピオカのことです)、マンゴーかき氷などの人気店が立ち並んでいます。

ところで、旅の途中 Upper Class メンバーがたびたび「マンゴージュース」を注文しましたが、口頭で注文すると、どういうわけかいつも「オレンジジュース」が出てきていました。
欧米のカフェで「珈琲」を頼むと「コーラ」が出てしまうことがありますが、それと同様に「マンゴー」が「マンダリン-マンダリンオレンジ」に聞こえてしまったのでしょうか。ちなみに、台湾語でマンゴーは「ソワァンヤァ」と呼ぶそうです。

《ホテル  ──── 圓山大飯店 台北市中山区中山北路四段1號》
台北松山空港に飛行機が到着する直前、飛行機の窓から竜宮城のような、巨大で絢爛豪華な建物が見えました。
「あれが台湾故宮博物院かな」
と思っていた Upper Class の面々は、空港からもみえるその威容に、
「あれが、今回皆さんが泊まるホテルですよ」
と聞かされても冗談だと思っている様子でした。

圓山大飯店の豪華絢爛なロビーに案内され、さらに呆気にとられた面々は、チェックインの手続きをはじめても、まだ半信半疑の様子で、
「予約のときにホテル代はそんなに高くなかったけど、本当にここに泊まるの? 追加料金取られない?」
と心配の様子でした。

台湾にはもっと安くて、最新設備を整えた小奇麗なホテルや、もっと高額なラグジュアリーホテルもたくさんありますが、そのような現代的な西洋風ホテルよりも、内容の割にはリーズナブルな価格でありながら、台湾らしさを存分に満喫でき、贅沢な気分に浸れるのが圓山大飯店です。

その昔、台湾政府の迎賓館として使用されていた建物の壮大さと、中国の宮廷建築の特徴が盛り込まれた装飾は圧巻です。客室も広々としていて、各客室占有のベランダだけでも一部屋分くらいの広さがあります。


《 3 日目・最終日 ──── 圓山大飯店内の飲茶の店・圓苑での昼食会 兼 ハプニング》
短い滞在だった3日目、最終日の午前中は、皆さん地図を片手に町歩き・お買い物を楽しまれました。昼食は圓山大飯店の中にある飲茶のレストラン「圓苑」です。
ホテルの中のレストランにしては、手頃な価格帯で美味しい飲茶が頂けます。

   

今回はたまたま、お誕生日が近いメンバーが3名もいましたので、圓苑名物の「紅豆鬆糕(豆入りライスケーキ)」をホールのままひとつ注文し、バースデー・ケーキ代わりにしました。

大皿で提供される中国料理は、少ない人数では2-3品程度ですぐにお腹がいっぱいになってしまうため、いろいろな料理を楽しむことができませんが、今回は適度な人数で食卓を囲むことができたため、品数も豊かに、台湾での最後の楽しいひとときを過ごすことができました。

そして、山ほど買いこんだ「台湾特製活字」をはじめ、柿+ミカン+子豚ちゃんの縁起物「開運臻寶シンポウ 諸事大吉」、実家がお茶屋さんだという某会員は、なんども下見を繰りかえし、比較検討の末、みずからの美意識に合致したという  ン万円の急須を買いこんだりと、楽しく収穫の多い台湾での旅を終えて、松山空港から羽田への帰国便に搭乗しました。
「勉強になったし、ともかく面白かったし、なんでも美味しかったねぇ。また台湾に来ましょうね」。
──── 皆さんのお声でした。

朗文堂-好日録024 禹王、王羲之、魯迅、孔乙己、咸亨酒店、茴香豆、臭豆腐

中国 ・ 紹興 「 咸亨酒店 」 と、東京 ・ 神保町 「 咸亨酒店 」 のふたつの 「 咸亨酒店 」 のことは、このタイポグラフィ ・ ブログロール 『 花筏 』 ですでに紹介した。
両篇とも相当量の長文だが、それぞれその終末部に掲載してある。
★朗文堂-好日録016──吃驚仰天!中国西游記 2012年08月01日
★朗文堂-好日録023──気がつけばカレンダーが1枚だけ! 2012年12月06日

《 東京 ・ 神田神保町/咸亨酒店 カンキョウシュテン 》
この中国料理店に関してはつい先日 ★朗文堂-好日録023 で触れた。
神田神保町の「咸亨酒店」は、紹興の「咸亨酒店」を模してはいるが、料理そのものは 紹興  というより、そこからほど近い港町、寧波 ( ネイハ、ニンボー、波を寧ヤスんずる ) の家庭料理風の調理の店であった。
したがって味つけやメニュー構成は、相当日本人客を意識して、上海ガニやフカヒレのスープなどを前面に押し出している。

しかしながら、神保町「咸亨酒店」の中心料理は、数種類のお粥 ( 中国ではオカユはほとんど朝食として摂るが…… ) であり、なによりも紹興名産 ・ 紹興酒 ( 黄酒 オウシュ、ホワンチュウ ・ 老酒 ラオチュウ ) の5-15年といった年代物がずらりと列んでおり、左党にはたまらない店のようである。

「 酒店 」 とあると、やつがれのような酒が苦手な不調法者は入店をためらうが、「 咸亨酒店 」 では中国茶をたのむと格段いやな顔をせずに、大きな急須いっぱいの中国茶が出て、料理はどれも本場の 「 咸亨酒店 」 と較べても遜色がなかった。
なによりも 好ハォ !  なのは、天井が高いために、嫌煙家にもさまで嫌われずにタバコが吸咽できることだ。 愛煙家とてはいろいろ気にする昨今である。

上掲写真 右側の料理は、蘇東坡ソトウハ ゙( 中国北宋代の政治家 ・ 詩人 ・ 書家、蘇軾ソショク トモ ) の考案によるとされ、家人の大好物 「 杭州名物 東坡肉 トンポーロー」 を模し、寧波家庭料理風に仕立てた豚の旨煮料理である。
写真を撮るのも忘れて半分ほど食べてから慌てて撮った写真で、妙なものになっているが、ともかく旨かった。

とかくわが国では気軽に 「 中華料理 」 という名称で呼んで、中国各地の料理をひとくくりにしているが、ロシアをのぞいて、50ヵ国ほどの国と地域ががひしめく  ヨーロッパ 諸国  が、そのまま中国一国の国土にスッポリはいるほどの広大さがあるのが中国である。

それなのにわが国では、ヨーロッパの、フランス料理、イタリア料理、スペイン料理などの違いはつよく意識するが、あまりに付きあいのふるい 「 中華料理 」 となると、地域性、食材、調理法、味つけの違いなどには意外と無頓着になっている。

はやいはなしが 「 ラーメン、餃子、チャーハン 」 は、どこの中国料理店でもあると考えているひとが多い。
したがって 「 中国料理店 」 の多くは、出身地や、その調理や食材の特徴を、「 陝西料理 」 「 四川料理 」 「 北京料理 」 「 湖南料理 」 「 浙江料理 」 「 福建料理 」 「 広東料理 」 などとあらわして、さりげなく主張している。

内陸部の「 陝西料理 」 「 四川料理 」 は、比較的味が辛く、羊や豚肉と小麦粉料理が中心である。
海岸部の 「 浙江料理 」 「 広東料理 」 は、比較的味が淡泊で、鶏や魚貝料理と米飯が中心である。

だいぶ以前のはなしだが、米国 ・ シアトルの 「 日本料理店 」 につれられていった。 そのさほど大きくない店には、寿司、ソバ、焼き鳥、すき焼きなど、なんでもござれのメニューがあって、おどろいたことがある。
それと同じで、「 ラーメン、餃子、チャーハン 」 の豪華三点セット !?  は、日本式の 「 中華料理 」 だと心得たほうが間違いがすくないようだ。

それはさておき、若者の掲示板などでも 「 神保町 咸亨酒店 」 はそこそこの評価 を得ているようである。
神保町 「 咸亨酒店 」 は皆さんも一度お試しいただくとして、紹興の 「 咸亨酒店 」 を理解していただくために、同店の屋外看板の解説をテキストで紹介しておこう。

咸 亨 酒 店   かんきょうしゅてん/シャン ヘン ジュー デェン
「 咸亨酒店 」 は、紹興酒のふるさと、中国浙江省紹興に、清朝時代(1894-96)に実在したお店です。
魯迅 ロジン をはじめ、多くの文化人に愛されたこの店は、彼らの憩いの場ともいえる由緒ある名店でした。( 現在のお店と建物は、1981年に魯迅の生誕百周年を記念して復興されたものです )。
魯迅は、故郷の紹興酒とともに、生家の近くにあったこの店をこよなく愛し、名著 『 孔乙己  コウイッキ 』 の舞台として描き、この店名を世界に広く知らしめました。
当店は、日本で紹興酒の専門店を開業するにあたり、紹興の多くの関係者から賛同と幾多の協力をいただき、この神保町に咸亨酒店を創りました。
石造りの建物と、柳の木は、古都紹興の街並みを連想させるもので、看板の文字は、書聖と称される王羲之を奉る紹興の名所 「 蘭亭 」 の胡 雄氏の直筆によるものです。
1992年3月16日

《 紹興のまち、簡略紹介 》
紹興 シャオシン Shaoxing (中国版 : 紹興) は、浙江省省都の杭州、あるいは杭州空港から、電車でも高速道路でも30-40分ほどの距離にあり、人口は500万人、浙江省の副都ともされる。
ふるくから拓けたまちで、会稽、山陰(阴)、大越、上都、仙都 などの異称もある。

このまちの名産品に ご存知の 紹興酒(シャオシンチュウ  黄酒 ・ 老酒) がある。
紹興酒は このまちではおもに 「 黄酒 ホアンチュウ、huáng jiŭ 」 と呼ばれ、糯米モチゴメを主原料として発酵させた醸造酒であるが、そのなかでも長期間熟成させたものを 「 老酒  ラオチュウ」 と呼んで珍重する。

いずれにしても下戸のやつがれには 「 猫に小判 」 であるが、日本の 「 中華料理店 」 とされる店でだされるものは、ほとんどが台湾産の 「 紹興酒 」 であることぐらいは知っている。

写真01) 禹王廟にあった紹興酒の献上品。わが国でも神社仏閣などに、薦被りの清酒がならぶ光景をみるが、伝説の王朝 ・ 夏カの創始者/禹王ウオウ廟に献上された紹興酒は、緋毛氈の上に太鼓とならんで、うやうやしく置かれていた。
写真02) 杭州から紹興への高速道路のドライブインの売店でも、さまざまな紹興酒を販売していた。ブランドと製造年代も、大小各種のものがならんでいた。
写真03) ドライブインに 「 紹興特産  臭豆腐 しゅうどうふ、チョウドウフ」 の売店があった。 これに関心をしめしたことが、2時間ほどのちに、たいへんな悲劇 ?  喜劇 ?  をもたらした。
写真04) 紹興のまちのあちこちにも、紹興酒の銘柄の懸垂幕と酒家の名前がみられる。「 会稽山 」 「 紹興古城 」 はいずれも紹興酒のブランド名。 背景の 「 咸豊 カンポウ 酒家 」 は、中国清代末期の元号 「 咸豊 」(1851-61)で、ふるい創業を誇っている。

ふるくから、それも有史以前からひらけたまちなので、名所 ・ 旧跡は数えきれないほどある。
◎  大禹ダイウ陵-伝説の王朝・夏カ王朝の創始者/禹王の陵 (伝BC2070頃)。 〔中国版 : 禹王
◎  府山公園-春秋時代  の王城跡。越王殿(BC600頃-BC334)。〔中国版 : 越王勾践〕
◎  蘭亭-王羲之(推定303-361) 蘭亭序 の碑と、「 中興中路 」 にある書聖故里
   ( 『 蘭亭序 』 は中国歴 ・ 永和9年3月、西暦353年、わが国は古墳文化の、まだ無文字の時代の作 )
◎  魯迅故里-魯迅(1891-1936)の生家と記念館。
◎  周恩来故居-周恩来(1898-1976)元首相の生家と記念館。 未訪問。
◎  会稽山—中国九大名山のひとつ。会稽刻石 ( 始皇帝の宰相 李斯 碑 ) がある。
  山頂までは未訪問。〔中国版 : 会稽山〕
◎  宋六陵—南宋皇帝の墓陵。 江南では最大の皇陵区。〔中国版 : 宋六陵〕 未訪問。

《 紹興と魯迅、魯迅と版画、魯迅の図書装幀 》

禹王廟から会稽山山系をのぞむ。かつてこのあたりが会稽と呼ばれていたように、紹興のあちこちからこの山容と、山頂に設けられた伝説の夏カ王朝 ・ 禹ウ王の巨大な立像をみることができる。

禹ウ王殿境内の土産物店で、おおきな紫紺の扇に、金泥で 『 蘭亭序 』 を老人が書いていた。 2012年07月15日だったが 猛暑の日で、老人は半裸になってブツブツと 『 蘭亭序 』 を唱えながら、相当の力量の行楷書で鮮やかに書いていた。
片隅に、もうたれも買わなくなった1970-80年代のふるいパンフレットを売っていたので、懐かしくなって購入した。 扇子は寶物のひとつとなった。

下に、その扇子の写真と、昨年秋に杭州の土産物屋で購入したもので、竹簡を模した 『 蘭亭序 』 ともども紹介する。現代中国でも、いかに 「 書聖 ・ 王羲之」 と、『 蘭亭序 』 が愛されているかわかる。


写真上) 魯迅の肖像写真とそのシグネチュア(署名)。
      〔『 魯迅与書籍装幀 』  上海魯迅記念館、新華書店上海、1981年08月 〕
写真下) 紹興の大通りに面した 「 魯迅故里 」 の入口広場。 中央の座像 2 体がなんなのかは、あまりに暑く、またこの直後から団体客が押しよせて取材できなかった。 このあたりは人口500万の大都市 ・ 紹興の中央通り 「 中興中路 」 に面しており、すっかり近代化されていて、ちかくには ESPRIT や、マック、ケンタッキーなど、国際資本の店舗もたくさんあった。

魯迅の旧居にむかう道中で、フト「 老年活動室 」 の看板が目についた。 扉が開けっぱなしだったので、
「 ン !   これはオレのための施設かナ 」
とおもって、断りもなく、勝手にはいった。
奥でトランプゲームと、麻雀をやっていて 「 老年活動室 」 はにぎやかだった。麻雀のメンツ ・ ターター(人数あまり)で暇をもてあましていた(ここでは)若け~のが、
「 日本からきたの、アッソ~。 暑いねぇ~ 」
といった (らしい、多分。 早口の中国語で詳細不明だったけど )。
ここ 「 老年活動室 」 で、暫時休憩、暫時一服。 ここにすっかり馴染んで、くつろいでしまっているやつがれが、チョイと口惜しいではないか!

写真上) 魯迅故里にある魯迅の故居。 扁額には 「 魯迅祖居 」 とされている。 簡素で好感がもてる建物だったが、夕方で閉館されていて内部には入れなかった。
写真下) 魯迅の故居前の記念碑。 よく整備されていて、涼風を感ずる、あかるい空間だった。

魯  迅  ── Lu Xun  本名 : 周 樹人。中国 ・ 浙江紹興のひと。 1881-1936年。
〔中国版 : 魯迅〕
 〔魯迅関連 画像集〕

中国の近現代文学を代表する存在。 はじめ医学をこころざし、東京 ・ 牛込の日本語学校・ 弘文学院の松本亀次郎に日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校 ( 現在の東北大学医学部 ) に留学した。
しかし日露戦争の記録映画などをみて、医学にかえて文学による漢民族の民族性の改造をこころざし、帰国後に発表した処女作 『 狂人日記 』 〔青空文庫 : 狂人日記 〕 で評価をうけた。

そののち、自著自装本 『 吶喊 』(トッカン、鬨トキの声 )に 「 狂人日記 」、「 孔乙己 コウイッキ」〔 青空文庫版 : 孔乙己 コウイッキ〕 〔 孔乙己 コウイッキ 画像検索 〕、 「 故郷 」〔 青空文庫 : 故郷 〕、「 阿Q正伝 」〔 青空文庫 : 阿Q正伝 〕 などの著名な短編作品を収める。
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以上がおおかたの魯迅の略歴紹介である。 邦訳 ・ 公開されている短編小説にはリンクを設けたので、できたらお読みいただきたい。 やつがれが好きなものをあげておいた。

ところで……、ここで意外に見落とされている事実を紹介したい。
魯迅は中国近現代を代表する文学者であり、創作 ・ 社会批評 ・ 海外文学の紹介者とされている。

ところが魯迅は、相当の力量をもった装幀家であり、ブックデザイナーであり、木版版画の実践者であり、推奨者でもあったことである。

魯迅の代表作 『 吶喊 』(トッカン、鬨の声。魯迅著、北新書局、1926)を、自著自装本であるとして紹介した。 この資料 『 魯迅与(ト)書籍装幀 』 ( 上海魯迅記念館、新華書店上海、1981年08月)は、「 咸亨酒店 」 の復元とおなじ年、魯迅生誕100年を期して刊行されたデザイン書である。

同書によると、魯迅は自著を含め64冊の書籍や雑誌の装幀にあたっている。
デザイン傾向は様様で、アールヌーボー、ロシア構成主義、アールデコ、日本大正ロマン、1925年代国際主義 ( いわゆるバウハウス ・ スタイル ) などの影響が、それぞれ顕著にあらわれている。
以下に魯迅の装幀による書物のいくつかを紹介する。

             

     

     

     

     

興味ぶかいのは、魯迅は相当印刷術に精通していたとみられ、石版印刷、木版と活字版を併用した凸版印刷の技術を縦横に駆使した格調のたかい書籍がみられる。 とりわけ木版画の使用に長けており、しばしば表紙や装画にもちいただけでなく、『 木刻紀程 壹 』( 魯迅編、鉄木藝術社、1934年) という、木版画彫刻の技法書まで刊行している。
同書のなかで魯迅はつぎのように述べた。

中国の木版画は、唐から明まで、かつて見事な歴史があった。 だが、現在のあたらしい木版は、その歴史とは無関係である。 あたらしい木版は、ヨーロッパの創作木版の影響を受けたものである。
創作木版の歴史は朝花社にはじまる。 その出版した 『 藝苑朝華 』 四冊は、選択と印刷製本が精巧ではなく、芸術界の有名人には黙殺されたが、若い学徒の関心をひきおこした。 1932年になって、上海に中国最初の「木版画講習会」が成立した。

ここにしるされた創作木版の 「 朝花社 」 は、魯迅と 作家 ・ 柔 石が組織した文芸団体であり、1928年11月成立、1930年春に終結した。
また 『 藝苑朝華 』 は魯迅の朝花社が編集出版したもので、下記の5冊の版画集を刊行した。
   1.『近代木刻選集』(1)、 2. 『蕗谷虹児画選』、 3. 『近代木刻画集』(2)
   4. 『ビアズリー画選』、    5. 『新ロシア画選』

また、竹久夢二とともに抒情画家として知られる 蕗谷虹児 (フキヤ-コウジ  童謡 ・ 花嫁人形の作詞者、挿絵画家、1898-1979)〔 蕗谷虹児画像集 〕 の影響も見られるだけでなく、『 蕗谷虹児画選 』 ( 芸苑朝花第一期第二輯、朝花社出版、1929) まで装幀・刊行している。
「 童謡  花嫁人形 ♪  金 襴 緞 子 の  帯 し め な が ら 花 嫁 御 寮 は   な ぜ 泣 く の だ ろ 」
の作詞者、新潟県新発田シバタ市出身の蕗谷虹児と、その新発田市の記念館のことは  ★朗文堂-好日録012 に 紹介したことがある。

郵便切手にもちいられた、蕗谷虹児画の「花嫁」。2013年の正月、新宿の郵便局でも積極的に販売されていた。 無粋ではあるが不正使用が無いように一部に画像処理を加えて紹介した。 いずれにしても蕗谷虹児と魯迅とは  ──  なんとも考えさせるテーマである。

どちらかというと、葉巻をくわえ、髭を蓄え、いかつい風貌の魯迅が、少女向けのロマンチックな絵画をのこした蕗谷虹児の、どこに惹かれたたのかとかんがえると、ほほえましいものがある。

以下に、たまたま気になって保存していた 「 町田市民文学館ことばらんど-蕗谷虹児展 」 のパンフレットを紹介しよう。 裏面右下に、魯迅 『 蕗谷虹児画選 』 の表紙が図版紹介されている。

すなわち魯迅(1881-1936)は、わが国の恩地孝四郎(1891-1955)よりはやくから、版画の近代運動に尽力していたこととなる。
恩地孝四郎は、最近作品集が翻刻出版され、評伝も刊行されたので、一部で注目されている。 恩地は東京うまれ、東京美術学校中退。 『 月映 ツクハエ 』 同人として抽象的版画を製作し、創作版画運動にも尽力した。 また 「 アオイ書房 」 志茂 太郎の物心共の援助をえて、愛書誌 『 書窓 』 を編集 ・ 装幀した人物である。

昨秋に、そのときが 「 中秋節 」 と知らずに杭州を訪れたことがあった。 ひどい混雑だったが、西湖白堤にある 「 浙江美術館 」 で、大大的に 「 魯迅と木版画展 」 をやっていた。
そこには魯迅が愛用していた彫刻刀も、何本も陳列されていた。 文豪 ・ 魯迅は、また版画家でもあったのである。

また20年ほど前の1994年に、町田市立国際版画美術館が 『 1930年代 上海 魯迅 』 と題して、魯迅の版画運動を紹介したことがあった。 あれからはや20年、日中交流もだいぶ容易になったいま、もういちどどこかの文学館なり美術館が 《 文豪魯迅の図書装幀 》 とでも名づけて展覧会を企画してもらえるとうれしいのだ。

《 魯迅著 『 孔乙己  コウイッキ 』 と  茴香豆 ウイキョウマメ  ──  咸亨酒店 カンキョウシュテン 》
ここからの紹介は、団塊世代の皆さんが、実に熱心に歩きまわって取材し、丁寧に写真を撮って、ブログなどに紹介されていることばかりである。
そもそも日ごろから 「 衣食住にはさほど関心がない 」 とうそぶいて、出歩くのをいるやつがれなぞは、およそグルメ紹介などには適さない。 おおかたは旅に同行したノー学部のなすところである。

「 咸亨酒店 」 は清代に実存した店で、魯迅の短編小説 『 孔乙己 』 に紹介され、主人公の孔乙己の名とともに知られることとなった。 現在の店舗は1981年に魯迅生誕100周年をもって、外装は旧店舗にできるだけ忠実に再建されたものである。

店のシンボル孔乙己 コウイッキ は、官僚登用試験 ・ 科挙の落第生とおぼしき人物として設定されているが、小説のなかの人物で、実在したわけではない。
また、この短編小説 『 孔乙己 』 の邦訳(井上紅梅訳)のなかでは、「 咸亨酒店 カンキョウシュテン」 ではなく、振り仮名つきで 「 咸享酒店  かんこうしゅてん 」 とされている。

中国の 「 百度百科 」 には、図版をまとめたものがおおくあり、それも下記にリンクで紹介した。 おなじキーワードで検索すると、驚くほどたくさんのブロガーの記述にでくわす。
中国版 : 魯迅 孔乙己図版 〕 〔 中国版 : 孔乙己 茴香豆 〕

写真上) 「 咸亨酒店 」 正面入口。 店の前には孔乙己コウイッキが、酒の碗をテーブルにおいて、茴香豆ウイキョウマメをつまんでいる立像がある。 観光客だけでなく、地元の客も多かった。 いまの 「 咸亨酒店 」 は、1981年に魯迅生誕100周年を期して再建されたものだという。
写真中) 外のテラスでやつがれが腰をおろしたあたりが、かつての魯迅お気に入りの場所だったとされ、壁際には 「 黄酒 」 の甕がならぶ。 地元客にも観光客にもひとしく人気の店らしい。
写真下) 魯迅はたそがれどきになると、ここにあらわれて、葉巻の紫煙をくゆらせ、茴香豆をつまみながら老酒をチビチビやっていたらしい。 やつがれもそれを真似て、チョイと一服。 ともかくこの日は暑かったのだ。

いまの 「 咸亨カンキョウ酒店 」 は店舗が近代化、拡張され、入口で飲み物とプリペイド ・ カードを買って店内にはいり、あとは調理人と会話しながら料理をオーダーして、セルフサービスでテーブルに運ぶ。 精算は出口のカウンターでする。
それが面倒なら、2 階席はテーブルクロスのかかった、本格的な酒店だという。 もちろんやつがれは庶民的な 1 階席でテーブルについた。

上掲料理写真の真ん中は、鶏の丸焼き料理。 右側が茴香豆。 最奥はその名もビックリ 「 臭豆腐  チョウドウフ」。
前からあちこちの看板で眼にしていたが、字(漢字)でこうもはっきり 「 臭豆腐 」 と書かれると、食欲が失せて敬遠していた。
キッチンは清潔で、どこもオープンキッチンになっていたが、「 臭豆腐 」 売り場だけはガラス張り。

「 臭豆腐 」 は、中国各地の屋台店などでみかける大衆食品であるが、紹興のまちでも名産とされている。 いずれも魯迅のお気に入りだったとして、ドライバーから勧められた ──  というよりドライバーが剽げて鼻をつまみながら 「 臭豆腐 」 をどんどん運んできた。
「 茴香豆 」 〔 茴香豆画像 〕 は空豆を八角という香辛料でゆでたものらしいが、 旨かった。

つまり 「 臭豆腐 」 を避けて 「 茴香豆 」 ばかりを食べていたら、臭いを気にせず、美味しいから 「 臭豆腐 」 も食べろと勧められた。
真ん中の写真は 「 臭豆腐 」 をほお張って、吐きだすにだせず、ウップしたまま絶句しているやつがれと、それを、
「 いいか、必ず、絶対に、喰えよな!」
といわんばかりに、つめたく ?  みつめるドライバーの潘 偉飛 さん。

このひと、日本語はできないが、身振り手振りと筆談で、ほぼ意思の疎通には困らない、 いい人なのだが……。
「 臭豆腐 」 はききしにまさる、すさまじい臭いで辟易するが、ふたくち目からは臭いも気にならず、食すと好ハオ!  ほぼやつがれが食べてしまった。 写真の料理はドライバーとの3人分で、日本円で2,000円ほどだったか?

ただし、入口で飲み物を 「 コーラ 」 と注文したら、ドライバーとノー学部ともども、ひどい勢いで店のオバハンから罵られたらしい。
「 アナタガタ   ココハ  紹興ヨ!  黄酒ヲ ノマナイデ  ドウスル 」
こんな具合だったようであるが、やつがれはすでにテーブルについて 「 茴香豆 」 と 「 臭豆腐 」 に挑戦中で、くわしくは知らない。 それでも自慢の黄酒より コーラのほうが高かった……。
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『 孔 乙 己 』 ( 魯迅著、井上紅梅訳、改造社、1932年11月18日) 〔参考 : 青空文庫版 孔乙己 〕

魯鎮ロチンの酒場の構えは他所ヨソと違っていずれも皆、曲尺形カネジャクガタの大櫃台オオ-テーブルを往来へ向けて据え、櫃台テーブルの内側には絶えず湯を沸かしておき、燗酒がすぐでも間に合うようになっている。仕事をする人達は正午ヒルの休みや、夕方の手終テジマいに、いちいち四文銭を出しては茶碗酒を一杯買い、櫃台テーブルに靠モタれて熱燗の立飲みをする。──これは二十年前のことで、今では値段が上って一碗十文になった。──もしモウ一文出しても差支えなければ、筍タケノコの塩漬や、茴香豆ウイキョウマメの皿盛を取ることが出来る。もし果して十何文かを足し前すれば、葷ナマグさの方の皿盛りが取れるんだが、こういうお客様は大抵袢天著ハンテンギの方だからなかなかそんな贅沢はしない。中には身装ミナリのぞろりとした者などあって、店に入るとすぐに隣接した別席に著き、酒を命じ菜を命じ、ちびりちびりと飲んでる者もある。
わたしは十二の歳から村の入口の咸享酒店カンコウシュテンの小僧になった。
〔中略〕
孔乙己コウイッキが一度わたしに話しかけたことがあった。
「お前は本が読めるかえ」
「…………」
「本が読めるなら乃公ダイコウ、オレが試験してやろう。茴香豆ウイキョウマメの茴の字は、どう書くんだか知ってるかえ」
わたしはこんな乞食同様の人から試験を受けるのがいやさに、顔を素向ソムけていると、孔乙己はわたしの返辞をしばらく待った後、はなはだ親切に説き始めた。
「書くことが出来ないのだろう、な、では教えてやろう、よく覚えておけ。この字を覚えていると、今に番頭さんになった時、帳附けが出来るよ」
わたしが番頭さんになるのはいつのことやら、ずいぶん先きの先きの話で、その上、内の番頭さんは茴香豆という字を記入したことがない。そう思うと馬鹿々々しくなって
「そんなことを誰がお前に教えてくれと言ったえ。草冠の下に囘数の囘の字だ」
孔乙己コウイッキは俄ニワカに元気づき、爪先きで櫃台テーブルを弾ハジきながら大きくうなずいて
「上出来、上出来。じゃ茴の字に四つの書き方があるのを知っているか」
彼は指先を酒に浸しながら櫃台の上に字を書き始めたが、わたしが冷淡に口を結んで遠のくと真から残念そうに溜息を吐(つ)いた。
〔中略〕
中秋節が過ぎてから、風は日増しに涼しくなり、みるみるうちに初冬も近づいた。わたしは棉入ワタイレを著て丸一日火の側ソバにいて、午後からたった一人の客ぐらいでは眶マブタがだらりとせざるを得ない。するとたちまちどこやらで
「一杯燗けてくれ」
という声がした。よく聞き慣れた声だが眼の前には誰もいない。伸び上って見ると櫃台テーブルの下の閾シキイの上に孔乙己コウ-イッキが坐っている。顔が瘠せて黒くなり何とも言われぬ見窄ミスボらしい風体で、破れ袷一枚著て両膝を曲げ、腰にアンペラ ムシロノコト を敷いて、肩から縄で吊りかけてある。
「酒を一杯燗けてくれ」
番頭さんも延び上って見て
「おお孔乙己コウイッキか、お前にまだ十九銭貸しがあるよ」
孔乙己はとても見惨ミジメな様子で仰向いて答えた。
「それはこの次ぎ返すから、今度だけは現金で、いい酒をくれ」
番頭さんは例のひやかし口調で
「孔乙己、またやったな」
今度は彼もいつもと違って余り弁解もせずにただ一言イチゴン、
「ひやかしちゃいけない」
というのみであった。
「ひやかす? 物を盗らないで腿を折られる奴があるもんか」
孔乙己は低い声で
「高い所から落ちたんだ。落ちたから折れたんだ」
この時彼の眼付はこの話を二度と持出さないように番頭さんに向って頼むようにも見えたが、いつもの四五人はもう集っていたので、番頭さんと一緒になって笑った。
わたしは燗した酒を運び出し、閾シキイの上に置くと、彼は破れたポケットの中から四文銭を掴み出した。その手を見ると泥だらけで、足で歩いて来たとは思われないが、果してその通りで、彼は衆ミナの笑い声の中に酒を飲み干してしまうと、たちまち手を支えて這い出した。
それからずっと長い間孔乙己を見たことがない。年末になると、番頭さんは黒板を卸して言った。
「孔乙己はどうしたろうな。まだ十九銭貸しがある」
次の年の端午の節句にも言った。
「孔乙己はどうしたろうな。まだ十九銭貸しがある」
中秋節にはもうなんにも言わなくなった。
それからまた年末が来たが、彼の姿を見出すことが出来なかった。そして今になったが、とうとう見ずじまいだ。
たぶん孔乙己コウ-イッキは死んだに違いない。(1919年3月  魯迅記)

《 書聖 ・ 王 羲之  簡略紹介 》
王 羲之(オウ-ギシ 307?-365)。 あざなは逸少。 東晋の書家である。 また官僚でもあり、右軍将軍、会稽内史でもあった。
楷書と草書において古今に冠絶した存在で、その子 ・ 王  献之とともに 「 二王 」 とよばれる。
書に関しては、ある事情があって 「 真筆 」 とされるものは現存しない。

唐王朝の実質的な建朝者 ・ 二代皇帝 太宗 ( 李 世明、598-649 ・ 在位627-649 ) が貞観元年 ( 627 ) に即位し、また賢臣をもちいて、唐王朝とそのみやこ ・ 長安を空前の繁栄に導いた。 その治世を 「 貞観 ジョウガンの治 」 という。
太宗はみずからもすぐれた書芸家であった。 その作は、西安 碑林博物館正面入口 「 碑亭 」 に置かれている 隷書碑 『 石台孝教 』 ( 天寶4年 ・ 745、後述 ) にあきらかであるが、また王羲之の書を愛好し、その書200余を宮中にあつめた。
そして、書簡を中心に 王 羲之がのこした 『 蘭亭序 』 をはじめとする真筆の書は、その書を溺愛した唐の太宗 ・ 李世明が、すべてをみずからの陵墓 ・ 昭陵にともなったとされている。

写真上) 王 羲之と 『 蘭亭序 』 への愛着さめやらぬ太宗は、ついにみずからの柩に 『 蘭亭序 』 はもちろん、生涯をつうじて収集した王 羲之の書幅のすべてを副葬させるにいたった。
太宗の陵墓は 西安市郊外、九嵕山 キュウソウサンにある 「 昭陵  ショウリョウ」 である。

この陵墓は五代、後梁のとき(10世紀初頭)、盗賊あがりの武将 ・ 温韜 オントウが墓室をあばいたとする説もあるが、真偽のほどは定かでなく、いまだ未盗掘とされている。
昭陵は近年整備されて、巨大な石像もできた。 この巨大な皇帝陵のいずこかに 『 蘭亭序 』 をはじめとする王 羲之の真筆作品は、李 世明の遺骸のかたわらに置かれているとされる。

写真下)  昭陵 『 玄武門 』 跡地にて。
番犬のつもりでいるのか、一匹のちいさな犬がつきまとって離れなかった。 やつがれは、ただ [ 李 世明は、こんな山中に、なぜこれほどまでに巨大な陵墓をきづいたのか…… ] という感慨にとらわれていた。 また太宗 ・ 李 世明の墓碑はアメリカにあるともきいた。
初秋の山稜を吹き抜ける風は爽やかだった。 いずれ詳細紹介の機会を得たい。
2011年09月。

★参考:新・文字百景*004  顔 真卿生誕1300年+王羲之

また、三国のころ、魏国の曹操によって薄葬がすすめられ、立碑が禁じられていたので、東晋のこのころの王羲之には碑文も現存しない。ただし臨模による 『 蘭亭序 』 『 楽毅論 』 『 十七帖 』 などの模作がある。

伝 ・ 王  羲 之  肖像画

王 羲之と顔 真卿に関しては、いずれ詳細報告の機会を得たい。 今回は王羲之の旧居跡とされるまちの風景の紹介にとどめたい。
魯迅故里から紹興の大通り 「 中興中路 」 を車ですこし走ると、東晋の時代、王 羲之の別業 ( 別荘 ) であったとされる 「 戒珠寺 」 がある。
このあたりは風致地区として、ふるい中国のまちなみがのこされている。 またすぐ近くには、墨池、題扇橋などの、王 羲之ゆかりの場所ものこされている。

台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寶シンポウ 諸事大吉 文と寓意

台湾みやげ《開運臻寶 諸事大吉》
柿+ミカン+豚の組み合わせは、
なぜ 縁起がよいのか?

◎本稿は2012年10月18日 アダナ・プレス倶楽部ニュースに
    掲載されたものの再録である。いささか旧聞に属するが
  お正月をことほぎ、ここに一部を修整して再掲載した。
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台湾旅行にでかけて、おみやげに「諸事大吉」とあった縁起物を買ったものの、もうひとつその縁起がわからないから、わかりやすく説明せよ……との要望が参加者からあった。
そもそも中国・台湾では、まま  文+字 をもちいて、あるいは、ほかのものごとにかこつけて、それとなくある意味をほのめかせる「寓意」を駆使するから困るのだ。
そしてそれをくわしく説明すると「シッタカ」と揶揄される。ナラバと、おもいきり平易に説明すると「ウザイ」とされるから嫌になるのだが……。

これは一見ハロウィンのカボチャのようにもみえるが、柿+ミカン(だいだい、橘)+豚(猪)を組み合わせたもので、正確には「開運臻寶シンポウ 諸事大吉」と呼ばれ、幸運をもたらす縁起物とされる。
すなわち「運勢がひらけ、宝物がどんどんやってくる。すべてのものごとが、このうえもなく良くなる」という、きわめておめでたいものである。 

「諸事大吉」の販促カタログをみると、ふんだんに商品解説が加えられている。その解説がおもしろい。原文の字面をながめるだけでも(むしろ原文のままのほうが)この縁起物の、寓意と諧謔 ユーモア がつたわりそうなのでここに紹介しよう。

◎ 創新的思維加上古老的吉祥語意再融合藝術大師的手藝便造就了令人驚奇不已的逗趣可愛吉祥外型。
◎ 橘子象徵吉祥,笑開懷的圓滾滾【諸事大吉】更象徵著凡事皆歡喜,諸事皆圓滿,大吉又大利,諸事皆順利。
◎ 逗趣可愛外型,象徵極好之諸事大吉。
◎ 笑顏常開諸事皆歡喜,諸事皆圓滿。


    
   

これだけでは不満そうなので、チョイと面倒でいつも嫌われるだが、もうすこしくわしく、写真の子豚ちゃんが寓意するところを解いてみた。
参考資料:『中国吉祥圖案』(台湾 北市、衆文図書公司、1991年02月)

 【 柿 】
漢字音(中国読み)では、柿(Shih4)と、事(Shih4)は同音同声である。
したがって、ふたつ並んだ柿は「柿 柿」となって、多くのものごと「事 事 ≒ 諸事・百事・万事」をあらわす。
また唐の段成式は『酉陽雑俎』のなかで、柿には以下のような ななつの徳があるとのべている。
   1.壽がある
   2.多陰→夏に葉が茂り日陰を提供する
   3.鳥が巣をかけない
   4.蟲が寄りつかない 
   5.秋の霜に負けない(翫) 
   6.嘉実≒縁起のよい果物
   7.落葉肥大→落ち葉が大量で、よい肥料となる
このように柿とはもともと、雅ミヤビであり、俗でもあるが、まことに賞賛すべき果物である。

また、「獅」(Shih1)と、「柿・事」(Shih4)とは同音異声である。
すなわち「柿 柿」は、ここに「百獣の王たる 獅 子」をも寓意する。
これすなわち「諸事如意 ≒ すべてが意のごとくになる」のである。

 【ミカン → 橘】
中国・台湾では、ミカン、だいだいのことを、ふつう 橘 とあらわす。
ところで、おおきな橘 = 大橘(Ta4 Chu2)と、大吉(Ta4 Chi2)は音が相似ている。
すなわち、おおきなミカン=大橘は、幸福をもたらす大吉に相通じ、きわめて吉祥をあらわす。

 【豚 ≒ 猪】
中国・台湾では、ふつう豚は猪とあらわされる。その猪がなぜ珍重されるのかは、中国的形而上学がふんだんに織り込まれていて興味深い。
すなわち中国高級官僚登用試験「科挙」の成績上位者 3 名を「解元・会元・状元」の 大三元 と呼び、唐代には玄奘三蔵(ゲンジョウ-サンゾウ 三蔵法師 600?, 602?-664)ゆかりの西安・大慈恩寺の雁塔ガントウにその名を刻し、ひろく天下に公表された。それを「雁塔題名、金榜題名」と呼び、きわめて名誉なこととされた。

ところで豚の「蹄 ヒヅメ」と、「雁塔題名、金榜題名」の「題」とは、中国音ではともに「Ti2」とされ、同音同声である。
こうして猪=豚は、秀才・天才をあらわすこととなり、名誉なこととされる。
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このようにして「開運臻寶シンポウ 諸事大吉」、すなわち「柿+ミカン+豚の組み合わせ」は、「可愛吉祥型であり、諸事に大吉をもたらし、諸事皆円満」となるのである。

さて……、これでご納得いただけたであろうか。
あれっ、どこからか、こんな蘊蓄ウンチクを聞かされるより、この愛らしい置物をみてるだけで幸せになれる、という声がきこえたような?

《もうひとつ、おまけ ── ホテルのキーホルダーの寓意》
今回の台湾旅行でのホテルは、皆さんとプチ贅沢して「圓山エンザン大飯店 Grand Hotel Taipei」に宿泊した。見た目は巨大な中国式の宮殿のようだが、街中の近代的なホテルとくらべても、ほとんど料金は変わらない。
かつて「圓山大飯店」は迎賓館としてつかわれ、台北第一の格式を誇ったホテルだった。それだけに近代ホテルでは味わえない、漢民族の歴史と伝統の重みを感じさせる重厚さがある。
それでも「圓山大飯店」は郊外の山の中腹にあって、交通はすこしく不便である。したがってこのホテルが選ばれたのは、いまの台湾は喫煙にとてもうるさく、かろうじてベランダでの喫煙が許される(黙認)のが、ここが選ばれた最大の理由だった。

ホテルのルームキーは、古風で、重量もかなりあるシロモノだった。これでは外出時にもちあるくのは辛いので、フロントにキー・ドロップすることになり、紛失も少なくなる効果もありそうだ。
このルームキーの形態は、中国春秋戦国時代(前 770-前 221)のころの貨幣「布貨 フカ」を模したものである。「布貨」は農機具のスキやクワに似せ、次次と勃興した春秋戦国時代の各国で、それぞれ意匠をこらしてつくられた。

古来農業国であった中国では、農具はたいせつな財産であり、その農具を模した青銅の貨幣を「布貨」と呼んでいた。その由来はやはり貴重な商品であった「布帛  フハク 織物・絹」とどこでも交換されたので、その名がうまれたとされる。

こうした縁起をもった「布貨」を模したカギの表面には、このホテルの名称「圓山」を巧妙にデザインした意匠がみられる。
また「布貨」の裏面には、篆書風の字による「財」が配され、富貴をねがう国民性をすなおにあらわしている。
文+字 の国とするゆえんである。
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アダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ修了生有志の皆さんが、2012年10月6-8日、体育の日の連休を利用して、2泊3日の強行軍で台湾旅行に出かけた。
台湾での初日、活版製造所「日星鋳字行」での真摯なタイポグラフィ学徒の皆さんの紹介と、翌日からの休暇を、故宮博物院観覧と、まち歩きをめいっぱい楽しまれたときの詳細記録は、朗文堂の『タイポグラフィ・ブログロール  花筏』において順次紹介の予定である。こちらも合わせてご覧いただきたい。
★タイポグラフィブログロール 花筏 朗文堂好日録-019