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【公演】六代目片岡愛之助ほか 第十一回 出石ーいずし 永楽館歌舞伎 10月18日-24日+地域の芝居小屋の再生と歌舞伎役者

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第十一回 出石ーいずし 永楽館歌舞伎
平成30年10月18日[木]-24日[水
    昼の部 午前11時30分ゟ
    夜の部 午後4時ゟ
    * 24日[水]は昼の部のみ 【貸切】19日[金]昼の部
会  場  出石ーいずし 永楽館
料  金  全席指定 12,000円[税込]
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<演目と配役──見どころ>
昼の部・夜の部

一、御所桜堀川夜討-ごしょざくらほりかわようち
弁慶上使-べんけいじょうし

                        武蔵坊弁慶  片岡 愛之助
                          おわさ  中村 壱太郎
                    卿の君/腰元しのぶ  上村 吉太朗
                          花の井  上村  吉弥
                         侍従太郎  大谷  桂三
☆ みどころ
豪傑、武蔵坊弁慶が生涯一度だけ恋をし、
大泣きしたという伝説を描いた時代物の傑作
懐妊のため静養中の源義経の正室、卿の君のもとを、源頼朝の上司として武蔵坊弁慶が訪れます。弁慶は源頼朝より反逆人の平時忠の娘である卿の君の首を討つようにと命を受けていたのです。侍従太郎は、妻の花の井とともに、卿の君に瓜二つの腰元しのぶを身替りに立てようとしますが、しのぶの母おわさは、18年前に一度だけ契った、しのぶの父にあたる男に娘を会わせるまでは死なせるわけにはいかないと、頑なに拒みます。
実は弁慶こそがしのぶの父親。弁慶は自分が親だと名のり出たい気持ちを抑え、卿の君の身替りとしてしのぶの首を刎ねるのでした。歌舞伎の様式美あふれるなか、夫婦、親子の情愛、そして忠義を尽くす武士の姿を描いた名作をご堪能ください。

二、お目見得 口上-こうじょう
                              幹部俳優出演
☆ みどころ

出演する幹部俳優がご挨拶を申し上げます。歌舞伎を身近に感じていただきたいという出演者の意気込みが伝わる口上は、小さな芝居小屋「出石永楽館」ならではの恒例の一幕です。

人気投票によりアンコール上演決定!
水口一夫 作・演出
三、神の鳥-こうのとり

              狂言師右近実はこうのとり(男)  片岡 愛之助
                      山中鹿之介幸盛  片岡 愛之助
              狂言師左近実はこうのとり(女)  中村 壱太郎
                     こうのとり(子)  片岡 愛三朗
                         傾城柏木  上村  吉弥
                         赤松満祐  大谷  桂三
☆ みどころ

幸せを運ぶという霊鳥コウノトリを題材にした新作舞踊劇
時は室町時代。播磨を拠点に勢力を拡大していた守護大名の赤松満祐は、将軍足利義教を討ち果たし、今や飛ぶ鳥落とす権勢を誇っていました。
出石神社の社頭では、満祐の天下掌握を祈願する宴が開かれようとしています。ひと際目を引くのは大きな鳥籠。中には神の使いとされる“こうのとり”が捕らえられています。その肉を食べると長寿を得るという伝説に従い、家臣が満祐に献上した生贄だったのでした。
まだ幼い子どもの“こうのとり”を殺して料理しようと、家臣たちが鳥籠をとり囲むと、突然辺りが真っ暗となり、狂言師の二人連れが現れます。二人は満祐の前で奉納の舞を披露しますが、やがて鳥籠に近づいたかと思うと ……。
但馬の霊長 “ こうのとり” を題材に新たに書き下ろされた、ご当地但馬地方が舞台の舞踊劇です。これまで永楽館で上演した18演目のなかからお客様に「もう一度見たい」演目を公募で選んでいただき、待望の再演が決まりました。錦絵を見るような歌舞伎らしい華やかな舞台にどうかご期待ください。

※昼の部/夜の部 同一演目にて上演します。
【詳細:歌舞伎座 出石 永楽館 】

{六代目片岡 愛之助と、出石-いずし 永楽館 兵庫県豊岡市出石町柳17ー2}

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東京木挽町 歌舞伎座の変遷と地方芝居小屋の盛衰

ph_transition_1第一期歌舞伎座:明治22年11月-明治44年7月

初代の歌舞伎座は、演劇改良運動の熱心な唱導者であった福地源一郎(櫻痴)が、自分たちの理想を実現すべき日本一の大劇場を目指して造られたもので、明治22年11月21日に開場しました。

外観は洋風でしたが、内部は日本風の3階建て檜造り、客席定員1824人、間口十三間(23.63m)の舞台を持つ大劇場で、今も歌舞伎座の座紋である鳳凰丸は、この時から用いられています。
明治44年7月に施設の老朽化と帝国劇場の出現を受けて改造されることとなります。

ph_transition_2第二期歌舞伎座:明治44年10月-大正10年10月

第二期の歌舞伎座は、第一期の建物の土台、骨組を残し、純日本式の宮殿風に大改築が施され、明治44年10月に竣工しました。
正面車寄せは唐破風造りで、銅葺きの釣庇に左右の平家も破風造り、また、内部の正面大玄関は格の鏡天井、観客席は高欄付きの総檜造りで、二重折上げの金張り格天井でした。
大正2年に、松竹創業者の大谷竹次郎が当時の歌舞伎座の経営に携わるようになりましたが、大正10年10月、漏電により焼失してしまいます。

ph_transition_2第三期歌舞伎座:大正13年12月-昭和20年5月

第二期歌舞伎座建物の焼失を受け、直ちに劇場再建工事が開始されましたが、大正12年9月1日の関東大震災の被災で工事は一時中断、翌13年3月に工事が再開され、同年12月に第三期の大殿堂が竣工しました。

奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕妍爛の様式を伴わせた意匠で、鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築でした。
正面大屋根の高さは100尺(約30m)に達し、全椅子席に冷暖房完備、舞台間口は15間で廻り舞台の直径60尺(約18m)、照明設備はアメリカとドイツから取り寄せるなど、内容外形ともに日本一を誇る大劇場でしたが、昭和20年5月に空襲を受け、外郭を残して焼失しました。
(設計:岡田信一郎)

ph_transition_4第四期歌舞伎座:昭和25年12月-平成22年4月

昭和24年11月歌舞伎座再建のため、当社(株式会社歌舞伎座)が設立され、戦禍を受けた第三期の建物の基礎や側壁の一部を利用して改修、昭和25年12月に第四期の歌舞伎座が竣工しました。
外観は戦前の歌舞伎座を踏襲し、奈良及び桃山の優雅な趣はほぼ再現され、同時に近代的な設備が取り入れられました。

客席数は、桟敷、一幕見を含めて約2000席、舞台間口15間(約27.6m)、廻り舞台の直径60尺(約18m)、大小合わせて4ヵ所のセリがあり、平成14年2月14日「登録有形文化財」に登録されました。建物の老朽化により、平成22年4月の興行をもって惜しまれながら60年の歴史の幕を閉じ、建替えのために休館しました。
(設計:吉田五十八)

ph_transition_5第五期歌舞伎座:平成25年4月-

第五期歌舞伎座は、第三期からの意匠の流れを踏襲、第四期の劇場外観を極力再現し平成25年2月に竣工しました。破風屋根の飾り金物や舞台のプロセニアムアーチなどの部材を再利用する一方、建物構造や舞台機構で最新技術が取り入れられ、文化施設また高層のオフィスタワーも併設した建物として生まれ変わりました。
座席数は1,808席(幕見席96席を除く)、どの席からも花道が見られ、また舞台寸法は第四期と全く変わらないものの、新たに大ゼリを追加、劇場内部にもエスカレーターやエレベーターが設置されました。
(設計:三菱地所設計、隈研吾建築都市設計事務所による共同設計)

【 参考資料: 歌舞伎座資料館 歌舞伎座の変遷 】

文化財として現存する、地方における芝居小屋と
これらの芝居小屋を復旧させた功労者たち

◯ 旧金毘羅大芝居-通称 金丸座
1835年(天保6)築。香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮・門前町にある。現存する日本最古の芝居小屋。別名、金丸座-かなまるざ-とも呼ばれ、国の重要文化財の指定を受けている。香川県仲多度郡琴平町字川西乙1241番地
◯ 旧広瀬座 
1887年(明治20)築(推定)。1994年に福島県伊達郡梁川町から移築修復。1998年重要文化財指定。福島市民家園
◯ 呉服座
1892年(明治25)築。大阪府池田市にあったものを移築。1984年重要文化財指定。博物館明治村(愛知県犬山市)
◯ 永楽館
1901年(明治34)築。近畿地区に現存する芝居小屋としては最古の劇場。豊岡市指定文化財。(兵庫県豊岡市出石-いずし)
◯ 八千代座
1901年(明治34)築。以前の地に、平成の修復が行われた。1988年重要文化財指定。熊本県山鹿市
◯ 康楽館
1910年(明治43年)築。和洋折衷の明治時代に建てられた現役の木造芝居小屋。2002年重要文化財指定。秋田県鹿角郡小坂町

◯ 内子座
1915年(大正4)に歌舞伎劇場として建てられた。昭和60年代に修復。2015年重要文化財指定。愛媛県喜多郡内子町
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これらの芝居小屋のうち、「呉服座」は、1892年(明治25)築造と歴史はふるく、重要文化財指定をうけていても、 現在は博物館明治村(愛知県犬山市)に保存されている。こうした建築は、歴史的遺産としては貴重ではあるが、どうしてもいまひとつ物足りない。

2香川県観光協会公式サイト  旧金毘羅大芝居-通称 金丸座 うどん県ネットゟ

いっぽう現在も芝居小屋としてひろく利用され、また演目が無い日には、施設が有料で一般公開されている芝居小屋もある。

これらの施設の筆頭は、やはり「旧金毘羅大芝居-通称 金丸座」であろう。
金丸座は復興直後から、二代目中村吉右衛門(重要無形文化財保持者〔人間国宝〕)、十八代目中村勘三郎(五代目中村勘九郎、故人。現在は長男:六代目中村勘九郎、次男:中村七之助が活躍中)らが応援を惜しまずに公演を重ね、現在では毎春「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の番組が組まれ、すでにこの「四国こんぴら歌舞伎大芝居」は34回の公演をかぞえている。

四国こんぴら歌舞伎第34回「四国こんぴら歌舞伎」フライヤー 平成30年4月 終了企画

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八千代座(熊本県山鹿市山鹿1499番地)は明治43年(1910)に建設された芝居小屋で、開業以来様〻な興行をおこなって山鹿に賑わいをもたらしてきたが、昭和の時代には映画館になり、それもテレビの普及により客足が減って閉館となっていた。人がいなくなった芝居小屋は荒れ果て、屋根には穴が …… 。

もはや不要といわれた八千代座を救うために立ち上がったのが、地元の老人と若者たちであった。彼らは30年を超える復興活動を実施して、自治体と国に粘り強く働きかけて、昭和63年(1988年)国の重要文化財指定を受けて実施された「平成の大修理」を経て、平成13年から八千代座は現代の芝居小屋として活き続けている。

それを側面から支えたのは、優れたプロモーター(主唱者・興行主)としての 松竹株式会社 であり、五代目 坂東玉三郎(1950年(昭和25)- 。重要無形文化財保持者〔人間国宝〕)であった。
平成の大修理の実施前、1990年(平成2)に八千代座で舞台公演をおこなった坂東玉三郎は、そのころはまだ楽屋は十分でなく、またエアコンの設備もなかったと述べている。それでも坂東玉三郎は八千代座の舞台に立ちつづけ、ことしも11月30日初日、11月4日千穐楽の予定で、熊本県山鹿市の八千代座の舞台に立つ。

チケットの発売はまだ開始直後だが、九州各地はもとより、西日本全域から、あるいは都市部の大劇場では味わえない、歌舞伎の醍醐味をもとめて、関東からも駆けつけるひとが多いと聞いた。そのため福岡空港と博多天神から山鹿までの臨時直行送迎バスが運行されるのが近年の恒例だそうである。

73bc42adb95414431ab190b761eac264坂東玉三郎 映像×舞踊公演 平成30年11月30日初日、11月4日千穐楽
[関連:活版アラカルト 国指定重要文化財 八千代座 坂東玉三郎 映像 × 舞踊公演

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八千代座「坂東玉三郎 映像×舞踊公演」への思い

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都市部の大劇場に安住することなく、歌舞伎界の大看板、二代目中村吉右衛門、五代目中村勘九郎(故人)らが「旧金毘羅大芝居-通称 金丸座」の復興に貢献し、五代目 坂東玉三郎が「八千代座」の復興に献身的に尽力してきたことを紹介した。
そうなれば、新妻:藤原紀香を迎えたばかりの片岡 愛之助はどうなのか …….。
0001-1 (1)出石-いずし 永楽館
出石を彩る近畿最古の芝居小屋

明治期に建設された近畿地方に現存する最古の芝居小屋
出石永楽館は、1901年(明治34)に開館し、歌舞伎をはじめ新派劇や寄席などが上演され、但馬の大衆文化の中心として栄えました。時代と共に映画上映が中心となり、やがてテレビの普及や娯楽の多様化などにより昭和39年に閉館しました。
その後、時は流れ、往時の永楽館を懐かしむ声があがるようになり、約20年の復元に向けた活動により、2008年(平成20)に大改修がなされ、44年の時を経て永楽館は蘇りました。
現在は一般公開(有料)されています。

2008年7月31日、座頭:片岡愛之助「出石 永楽館 杮落大歌舞伎」公演に先立ち、
お練りを行いました!
「出石 永楽館」柿落-こけらおとし-大歌舞伎に先がけて、お練りを行いました。当日は午後6時半から市役所前の広場での餅まきの後に、座頭の片岡愛之助さんをはじめ、片岡秀太郎さん、中村壱太郎さんら出演者が人力車に乗って、出石の城下町を練り歩きました。当日は三番叟をあしらった手作りの神輿も登場! 出石の町にも幟旗がはためき、たくさんの人々が沿道をうめました。

出石 永楽館 永楽館の歴史」の公式サイトには、廃館になってからのさびしさとともに、上掲のように、2008年の柿落-こけらおとし-の模様が、たくさんの画像記録とともにのこされている。
すなわち片岡 愛之助は、永楽館の再生のときから座頭として大歌舞伎をうち、その後もなんども永楽館の舞台を踏んだ。そのため地元の実行委員会製作のフライヤーは、

<永楽館歌舞伎 ことしも片岡 愛之助さんが出演 ! ! >

と親しみを込めて紹介している。歌舞伎役者が地域住民と良き交流を重ねてきた結果であろう。
歌舞伎が古典芸能という名称と、都市部の大劇場に安逸せず、長老も若手もそろって積極果敢な挑戦をつづけている姿勢を、おなじ技藝にいきるもののひとりとして、羨望し、また鞭打たれるおもいで受けとめている。

【詳細: 歌舞伎座 歌舞伎美人 旧金毘羅大芝居-通称 金丸座 八千代座 出石永楽館 】

【古谷昌二 新ブログ スタート】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴 ── 初代社長 平 野 富 二

社長略史01【古谷昌二 新ブログ スタート】
東京築地活版製造所

歴代社長略歴

初代社長 平 野  富 二

(1)初代社長就任とその実績
(2)築地活版製造所の前史
     〔本木昌造の活字製造事業を受託〕
     〔活版製造事業の改革〕
     〔事業責任者として大阪・東京に出張〕
     〔事業所の東京移転〕
(3)平野富二の貢献

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古谷昌二さんuu[1]平野富二生誕の地碑建立有志の会の< WebSite 平野富二──明治産業近代化のパイオニア >において、精力的に「平野富二」に関する最新研究成果を<古谷昌二ブログ>に連続発表されている古谷昌二氏。その蓄積は2017年01月-2018年06月にわたり、都合18回の連載をかさねています。

平野富二は長崎から上京後、わずか20年ほどのあいだに、明治産業近代化のパイオニアとしてさまざまな事業を手がけました。そのひとつが活字製造と活字版印刷関連機器の開発で、東京築地活版製造所の名称でひろく知られます。ところが同社が昭和初期に解散したために、企業史の側面からの研究は十分とはいえない状況にありました。

近年、長崎と東京で「活版さるく」をはじめとするさまざまなイベントが開催され、東京築地活版製造所関連資料があらたに発掘され、周辺では共同研究も盛んになってきました。
これらの成果の一端として、<古谷昌二 新ブログ 東京築地活版製造所歴代社長略歴>は、明治18年(1885)6月16日に設立され、昭和13年(1938)3月17日、臨時株主総会の決議によって解散を迎えるまでの東京築地活版製造所の消長を、個性ある歴代の社長の姿を追うことで明らかにしようとするものです。ご愛読をたまわりたく存じます。

[平野富二生誕の地碑建立有志の会 事務局長:日吉洋人]
平野富二03ea964d3f22efbbfc3e02f6c3213aee727888b699973808e40cc8ca99d760c07448e9df747f3cf40629d5bdf0b3b66c55ebe9892c555028e236a51c24cad9c0『印刷雑誌』第1巻第8号1891.09m24 部分拡大

【 SAYOUNARA 】 タイポグラファ:ヘルムート・シュミットさんが逝去されました

DSCF5640ヘルムート・シュミット Helmut Schmid
1942年02月01日-2018年07月02日 行年76

タイポグラファのヘルムート・シュミットさんが、去る07月02日早朝午前07時40分、急性心不全のため逝去されました。ここに皆さまに謹んでご報告いたします。
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あまりに突然の訃報であり、また、ご一報をいただいたときから、大げさにしたくないとのご家族のご意向で、近しい友人・知人にもお知らせができないまま、取りいそぎ07月03日[火]、なにはともあれ大阪府吹田市のご自宅に、お別れに駆けつけました。

本当に眠っているように穏やかなお顔でした。
おもえばタイポグラフィの同志として40年余のおつき合いでした。さびしくなります。 合掌

【活字と機械論攷】教育者にして多才な事業家、山本覚馬|梅津パピールファブリック製紙場|その跡地に建立された記念碑を巡る考察

PrintUmezuSeishiJyo_1 UmezuSeishiJyo_3 UmezuSeishiJyo_2梅津パピールファブリック製紙場跡 記念碑銘板を読みとる
京都市右京区梅津大縄場町所在

 梅津パピールファブリック製紙場跡

梅津パピールファブリックは、京都府が東京遷都による産業衰退を懸念した明治天皇の御下賜金をもとに、この地に明治5年10月ドイツ人レーマン兄弟の指導により建設に着手し、明治9年1月ドイツ式抄紙機を用いて、操業を開始した我が国初の*01  洋紙製造工場であります。桂川の水力を動力源として、京都の産業活性化のために大いに活躍しました。
明治13年8月、磯野小右衛門に払い下げられ民営になりました。大正7年〔1918〕11月、表門と門衛所、一部の赤レンガを残して全工場を焼失しました。翌大正8年5月には再建され、その後大正13年に富士製紙(株)梅津工場に、昭和8年5月に王子製紙(株)梅津工場に、昭和18年に日本擬革製造(株)にそれぞれ移行し、幾多の変遷を経て昭和25年4月以降は日本加工紙(株)京都工場になりましたが、昭和46年〔1971〕に工場は閉鎖となり、操業以来95年*02  にわたるそのながい歴史をとじました。

この地はまさに明治初期我が国の洋紙製造発祥の記念すべき遺跡地であります。
なお[PAPIRE・FABRIC]と彫られた門扉、[明治天皇御幸所製紙場]の碑、[土橋嘉右衛門顕彰]の碑、京都府によって立てられた[梅津パピールファブリック製紙場跡]の高札など貴重な資料が東京王子飛鳥山公園内の「紙の博物館」の記念碑コーナーに保管、陳列されています。

    平成15年 10月吉日  設立
             有 志  林 忠治・太田 忠志・大西 賢市
──────────
*01  本石碑正面には「日本最古の洋紙製紙場跡」と彫りこまれているが、下掲の資料で紹介する「紙の博物館」では、同社を「わが国の洋紙製造黎明期の三工場の一つ」とする。
ウィキペディア「パピール・ファブリック」の項では、── 1876年(明治9年)京都梅津の桂川の畔で開業した製紙会社。日本の製紙業黎明期の6社の一つ ── とする。同項では「日本で最初に開業した製紙会社は1874年(明治7年)開業の有恒社であり、蓬莱社や抄紙会社(王子製紙)もパピールファブリックより先に開業している。ただし、動力に水力を使う、官営である、ドイツ製機械を使うなど日本の製紙業黎明期の6社の中では特異な存在ではある」と述べている。
また注釈1)では、─── 日本で最初の製紙会社は、有恒社、および抄紙会社(王子製紙)、蓬莱社、三田製紙所、神戸製紙所と、パピール・ファブリック。日本の製紙黎明期にはこの 6 社に加えて大蔵省印刷局も製紙機械を導入して紙を抄いている ─── とさらに詳細にしるしている。
*02  操業以来95年 ── とあるが「創業」の誤りか。

紙の博物館URL資料
『紙博だより』第40号(解説ボランティア  小杉睦裕さん   平成21年10月1日発行)所収

ひっそりと昔を語る『パピールファブリックの門扉』
パピールファブリック

kamihaku明治10年、明治天皇が工場へ行幸された。
紙の博物館の 1 階図書室前に、わが国の洋紙製造黎明期の三工場の一つ、『パピールファブリック』の門扉が古色蒼然と立っています。これは木製で、お洒落なことに、欄間の透かし彫りの様に、ドイツ語で『 PAPIER FABRIK 』の文字が記されています。他の二つの工場が東京に建設されたイギリス式なのに対し、こちらは京都嵐山の近くに、京都府が政府からの勧業基立金15万円で建設したドイツ式の製紙工場でした。

明治 7 年〔1874〕11月にこの門や守衛室等が建てられ、明治 9 年に操業を始めます。その後、経営は 磯野製紙所 → 富士製紙 → 王子製紙 → 日本加工製紙 と変わるのですが、大正 7 年〔1918〕11月、この門と守衛室・赤煉瓦室を残して工場はほぼ全焼しました。

その後工場は再建されます。場所は渡月橋の一つ下の松尾橋の東詰南にありましたが、京都市民には戦前の「王子製紙」の名が浸透して、タクシーでは「王子製紙へ行ってくれ」と言ったものです。門はその中央、桂川の反対側の正門にあり、戦後新調されました。歴史の証人の様な創業当時の門扉は、昭和30年〔1955〕に日本加工製紙から、紙の博物館に移譲されたのです。

さて、この工場は驚いた事に、地下水だけで紙を抄いていました。近くに松尾大社・梅宮神社といった醸造や酒造の神社がある位ですから、綺麗で豊富な水脈があったのです。ひと頃、琵琶湖から引いている市の水が「カビ臭い」ことがありました。当時工場では、異臭を嫌う煙草の外装紙を製造していましたが、地下水のおかげで苦情を起こさずに済みました。
明治・大正・昭和と、長年洋紙を作り続けた工場でしたが、都市化の波には勝てず昭和46年に閉鎖しました。その跡地にはマンションが建っていますが、その東端に往時を偲んで小さな石碑が立っています。

青山霞村著『山本覚馬』(同志社 1928/ 国会図書館蔵  請求記号 289-Y317ウ)

※ 同書、一三四-一四三ページ を現代通用文に書きかえてみた。
※ 〔 亀甲括弧 〕内は稿者の補遺である。また WebSite 環境に配慮して、行頭字下げはせず、改段を増やしたことをお断りしたい。
20180611154147_00001※ 読みくだし終了後に新装複刻版、『山本覚馬伝』(原著:青山霞村、校閲:住谷悦治、編集:田村敬男、宮帯出版社)を入手した。工場写真は宮帯出版社版から紹介した。
失明した山本覚馬の肖像写真はウィキペディア「山本覚馬」から紹介した(PD データ)。

Kakuma_Yamamoto_(1828-1892)山本 覚馬(山本 覺馬、やまもと かくま)
文政11年1月11日(1828年2月25日)-明治25年(1892年)12月28日)

幕末の会津藩士、砲術家、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また同志社英学校(現同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。号は相応斎。
両親は父:山本権八(会津藩砲術師範。会津戦争で討死)、母:山本佐久。この夫婦は3男3女をあげたが、1男2女を幼児期に失う。妹・八重:慶応元年(1865年)は、川崎尚之助と結婚。会津戦争では家族と共に鶴ヶ城に篭城。戦後に尚之助と離別し、明治9年(1876年)に新島襄と再婚して新島八重。弟・山本三郎は鳥羽・伏見の戦いで戦死。
維新後に失明してから展開された兄:山本覚馬と、妹:新島八重による活版印刷事業に関しては、同書にも記載されているが、若干の混乱がみられるので整理して後述したい。

◇    ◇    ◇    ◇

伏 見 製 作 所

観月橋四條大小橋の鉄材を供給

伏見製作所は時代の需要に応じ、土木建築の鉄材や鉄の機械を製作するため明治六年十月新設された模範鉄工場である。水車に依って水力を利用するため、伏見向島、豊後橋(観月橋)の下手に工場が建てられ、大熔鉄炉、送風器、鋳床、錐盤、円転機、削平盤、その他精巧なる舶来の鉄工機械を金に飽かせて備付け、〔京都〕府下は勿論近府県の注文に応じて盛に鉄工業を営み、その頃板橋が鉄橋に架けられて、珍らしがられた。四條の大橋小橋も観月橋の鉄材も同所が供給したものである。鉄管、喞筒、その他の機械製作から伸銅などもこの工場で行われ、その能力と信用と大阪造幣局長の仲介で韓国政府の造幣機械一切の注文を受けたことによって明かである。

梅津製紙場 一名パピールファブリック

    大工事 独楽のように横に廻る水車 詩人廣瀬青村が府の官員 塾
    生に洋学を勧める 下河邊独語学校から製紙場へ 技師の後を慕っ
    てきた独逸の恋人 原料は洛中洛外の襤褸〔ボロ〕 市中の間屋に
    販売を命じた 西郷戦争で新聞売上げ激増

梅津製紙場も時代の要求を察し、洋紙を製するために設立せられたもので、一名パピールファブリックといったのは、独逸の機械技師によって創めたから、記念のためにそう名づけたのである。梅津は桂川左岸〔上流からみて左側〕、平家物語の横笛が瀧口入道を慕ってゆく叙事に「梅津の里の春風によその匂もなつかはしく」とあるその梅津である。紙漉きは多量の清水を要し、且つ機械の動力は当時水力によらねばならなかったのに、京都の加茂川では水車を作る十分の落差がなかったから、桂川沿岸の地を卜した〔定めた〕のである。

!cid_6B958BD1-C8DB-428D-8F3F-895E0512532D明治9年1月ドイツから製紙機械を買入れ製紙工場を梅津につくり、洋紙製造販売にあたった。

明治五年〔京都〕府は山本顧問と親しかった独逸商人ハルトマン、レーマンを通じて、独逸に新式の製紙機械一台を注文したが、輸送の途中に故障〔事故〕があって、三年後の明治八年に工場に掘付けられた。この工場建築は中〻の大工事であった。石垣などの石材は別項記載の童仙房から献上するといって、石は無代であったが、毎日牛車四台五台が重い石を挽いてくるので、道路や橋梁を破損し、その修繕費なども中〻かかり、普通四、五万円の工事が二十万円もかかったそうである。併し資源〔しかしながら資金〕は藝娼妓の莫大な賦金〔芸妓に課税した〕が勝手に使えたので心配はなかったのである。

工場の鬼瓦には牛の頭がつけてあった。多分牛肉、牛皮、牛乳等から、文明開化の象徴としてつけられたのであらう。此処の動力用の水車は日本のではなく西洋式で、丁度独楽が廻るように横に廻り、縦に廻るよりはその力が優って居った。そして工場は一般に参観させた。
日本人の誰も知らない洋紙製造だから、その技師として独逸人エキスネルを月給金貨二百円で雇入れ、通弁〔通訳〕には後に医家へ養子にいって、その姓と医業を継いだ馬杉氏を雇った。

!cid_FA28DD5F-A875-48B8-B55B-8AF0E7B4BB23梅 津 製 紙 工 場

これより数年前中学校の歐学舍のできた時、府庁の典事に青村廣瀬範治という儒者があった。詩を以て海内に鳴らした淡窓の義子で「火船烟散海濛々 破浪双輪去向集」など汽船を新題にして作った人であった。同じ淡窓の咸宜園の塾頭をして居って、漢法書で京都に老いた櫻井桂村が明治十一、二年のコレラ病を古詩に作ったなど何れも固陋な人ではなかった。
この廣瀬が自宅で四、五名の少年に読書の世話をして、塾とはいえない程の事をもして居ったが、ある日府庁から帰り、槇村大参事が今後大いに洋学をやらねばならぬからといって、歐学舎を起こされ、独逸人の教師が来るから、お前等も洋学の稽古をせよといった。
少年に下河邊光行という者があった。帰って父に相談すると父もその気になり、それでは英仏独語何れを学ぶがよいかとなると、勧めた青村先生も分らない、教師は独英語を兼ねるが独逸人だから独逸がよかろうと、下河邊は独逸語学校へ入った。
梅津の製紙場設立に就いては何時までも高給の外人を雇っておけない、速くその技術を習得せねばならぬ。それも京都繁榮のためだから京都人にという所から、当時独逸学校に居った下河邊を通訳兼見習のために製紙場へ入れた。

その頃品川彌二郎の世話で、独逸へ留学して居った山崎喜都眞という人が帰朝した。製紙術を学んできたが、中央攻府でもまだその技術を要する処までいって居らぬので、品川が同藩〔長州藩〕の槇村に梅津の製紙場へ使ってやってくれと頼みこんだ。槇村は否ともいえず、月給四十円を与えてこれをも技師に雇った。
この山崎には独逸で契り交わした女があった。この女は山崎の帰朝後一人の母親を振棄て、恋人の後を慕って遙遙日本へ渡ってきた。所帯道具一式を携へて来たので、山崎はその女と早速西洋風の所謂〔いわゆる〕愛の巣を営んだ。この細君は賢い女で何もかも日本に同化しようと力〔つと〕めたけれども、何分彼我生活の程度が違ったから、山崎は四十円では暮しがつかず、品川に泣きついたが、暫く辛抱せよといわれ、後三、四年すると品川の農商務省の方へ使われた。エキスネルは契約期限が満ちると解雇し、それまでに下河邊は相当意に覚えこんだから、その後は日本人のこの技師二人で技術方面を担当しておったのである。

製紙の原料は主として木綿襤褸〔ボロ〕を用いたのである。それまで紙屑屋が最早古着屋の顧みない、破れ着物、破れ足袋、その他の木綿ボロを洛中洛外で買集めた分量は莫大なものであったが、それからは染料の藍を抜きとるばかりで、ボロその物は用途がなく、空しく捨てたものであった。
そのボロの廃物を利用して紙にすいたのである。その製せられた紙は今の新聞紙用のザラ紙の上等の物であった*03。のちに藁をも原料に用いて、これはボール紙に製造せられた。その外色紙半切半紙なども製せられた。製造能力は毎日二千ポンド〔≒ 907 kg〕で常時の価ポンド十錢、金額二百円程の物であった。

販売方については、府は京の紙問屋中井三郎兵衛、大森治郎兵衛その他初田など都合五人を府庁へ呼出して販売を命じ、その店へ名誉ある京都府御用達の看板を掛けさせた。〔ところが〕紙屋が製紙場へ行くと、幅六尺長さ無制限という〔巻き取り、ロール〕紙なので、日本紙を扱って居った人達は驚いて居る有様、使う道がない、製品は堆積するばかり。それで紙屋の請求に応じて、半紙版や美濃版〔半紙判や美濃判〕に切ってやって売らせた。府は損益をあまり眼中におかなかったから、その収支は苦しい計算であった。
然るに梅津製紙場に息をつかせたのは西南戦争であった。山木覺馬先生は江藤新平の乱で桑苗が売れなくなり損をされたが、梅津製紙場は西郷戦争で大いに儲けた。それまで洋紙は大抵舶来品で、新聞用紙には和製の駿河半紙や唐紙を用いて居った。西郷が戦争を始めた、新聞がそれを報道する、熊本の籠城、田原坂の激戦、桐野利秋がどう、篠原國幹がどうしたのと、人々が新聞を引っ張り合って読むようになって、新聞の売れ高が激増した。そしてその新聞用紙が梅津でどしどし出来たのである。
引続いて地券の用紙を一手で製造して大儲けした。全国の土地所有者に地券を交付〔地租改正にともない1872年・明治05年以後、政府が土地所有者に交付した証券。この地券記載の地価にもとづいて地租が賦課された。土地台帳の整備にともない1889年廃止。地券状〕するのに東京でもその紙がなかった。それで梅津で一手に引受けたのである。この製紙場は更にまた印刷機械を据えつけて、当時益々需要の増加しゆく、諸官署や銀行会社の帳簿を調製して、東京その他諸方面へ売り込んだ。

梅津製紙場はこんな風に成功の途を濶歩して居ったのに、府の事業整理のために。大阪の相場師磯野小右衛門に払い下げられ、磯野は松原烏丸に店を開いて製品を売り捌いた。払い下げ金は三万円と残金は有名無実の年賦といふことである。この工場は、今は富士製紙株式会社の工場になって居る。

数年前英国の雑誌「評論の評論」誌上に紹介せられた医術公営の可否論と、府立療病院設立の社会政策であった事とを比較し、この官業梅津製紙場と露西亜の産業官営主義などを思い合わせて見ると、明治初年京都の行った府政の治績は今もなお経世家に何かの暗示と例とを与えて居るのでなかろうか。
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*03  わが国の手漉き紙(いわゆる和紙)は、コウゾ・ミツマタ・ガンピなどの灌木の靱皮繊維を主原料としてもちいたが、明治最初期の洋紙製造では、お雇い外国人の指導もあって、原料は襤褸(綿ボロ・木綿の古布)が良いとされた。

そのため製紙会社各社はいずれも襤褸(いわゆる綿ボロ)を入手しやすい大都市周辺に工場を設けていた。木材パルプが洋紙の原料になり、豊富な水源と、港湾輸送に便利な沿岸部に製紙工場が移転するのは明治20年代(1887-1896年)以降である。

原資料提供:春田ゆかりさん 〔この項つづく〕

【復活転載】こんな時代だから、金属活字も創っています! コレダ ! カタ仮名専用活字ガ復興シマシタ {アラタ 1209}

こんな時代だから、金属活字も創っています!
コレダ !   カタ仮名専用活字ガ復興シマシタ
アラタ 1209 New Products

本稿は2008年に「朗文堂 type cosmique 」にアップロードされ、いまも存在している記事です。
このたび NECKTIE design office 千星健夫氏による、あたらしい活字母型製造法として、「コンピューター数値制御切り削り加工 ── Computer Numerical Controlled Cutting」(CNC)が一定の成果をあげ、「 NECKTIE design office  Works New Type Matrix 」に報告がなされました。

tsukiji5_02CNC方式活字母型 五号ひら仮名

それを受けて、サラマ・プレス倶楽部/活版アラカルト「【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-17{展示報告 ①}[サラマ・プレス倶楽部会員]千星 健夫{新技法による活字母型の試作と活字鋳造}── ちいさな一歩、おおきな成果」と題して、やはり皆さまにお知らせいたしました。

あわせてサラマ・プレス倶楽部では、長年お世話になった「機械式活字父型・母型彫刻機」、いわゆるベントン彫刻法に関する既発表記事をまとめる作業にあたっています。
その一環として、どういうわけか旧アダナ・プレス倶楽部 → サラマ・プレス倶楽部のウェブサイトに詳細報告がなかった本稿を「朗文堂 type cosmique 」から収録し、若干の補整を加えて、サイト内検索に便利な「活版アラカルト」に掲載いたしました。
どうかこうした意のあるところをおくみとりたまわり、ご愛読のほどお願い申しあげます。

アラタ 1209 天地 12 pt., 左右 9 pt.
サラマ・プレス倶楽部 特製文選箱入フォント・スキームセット
arata1209
アラタ 1209 天地 12 pt., 左右 9 pt.
サラマ・プレス倶楽部 特製文選箱入フォント・スキームセット 29,400 円[税別]
fair-card

サラマ・プレス倶楽部は、活字版印刷術のよきルネサンスを願って、意欲ある活字鋳造所と協力しながら、適切なフォント・スキームにもとづいた新鋳造活字を提供しています。
しかし、書体とサイズ毎に膨大な数量となる漢字活字を揃えるためには、やはりユーザーの高負担となります。また、必要のたびに活字をバラ(単品・1 本売り)で購入すると、1 本あたりの単価は無視できないほどの高額になってしまいます。

金属活字が、ある意味では追いこまれながらも、あらたな意義と役割をもって再興への歩みを進めている現代、若干の窮屈は承知の上で、カナモジ完結書体の金属活字化に着手して、さらに活版ルネサンスを進展させるために、日本語表記をできるだけ効率よく、しかも低予算で組版できる金属活字書体として「アラタ 1209」を開発しました。

カタ仮名とひら仮名の歴史を検証する
カタ仮名は仮名文字のひとつで、ひとまとまりに発音される最小単位の音節(syllable)からなる音節文字(syllabograph, syllabogram)です。阿 → ア、伊 → イ、宇 → ウ、久 → ク、己 → コのように、漢字の一部分(片)をとってつくられた文字記号で、奈良時代から平安時代初期に、漢文読み下しのための「漢文訓点」にもちいられました。
縦組みの漢文の右脇に付与された一種の記号でしたから、多くのキャラクターが左向きなのが片かなの特徴です。当初は流派もあり、さまざまな字体がありましたが、平安末期にはほぼ現行のものにちかい字体となって、こんにちにいたっています。

いっぽう、ひら仮名は、やはり平安初期に漢字の草体の仮名をさらにくずしてつくった音節文字です。おもに女性(おんなで)がもちいたので、女手、草仮名などとよばれ、おおくの異体字がありました。「ひらがな」の称は後世のもので、字音と形象が定まったのも戦後で、文字の歴史からみるとつい最近のことでした。

カタ仮名は、現在ではおもに、外来語の表記や擬音語の表記に多くもちいられていますが、わが国の文字の歴史を振り返り、文字形象をあらためてみると、簡素で、判別性にもすぐれ、独立した音節文字としての長い歴史と体系をもっていることがよくわかります。
katakana

いまから買いそろえると、金属活字はやはり高負担になりがちです。
サラマ・プレス倶楽部は、活字版印刷術のよきルネサンスを願って、意欲のある活字鋳造所と協力しながら、適切なフォント・スキームにもとづいた新鋳造活字を提供しています。しかし、書体とサイズ毎に膨大な数量の漢字活字を揃えるためには、やはりユーザーの高負担となることが避けられません。
また利便性が特徴のパソコン用デジタルタイプをみると、明治以来営々と重ねられてきた、使用頻度の低い漢字使用の抑制や、字体統一への努力が軽視され、異体字を含めて限りない字種の増殖がつづいています。

そんないま、必要のたびに活字をバラ(単品)で購入すると、1 本あたりの単価は無視できないほどの高額になるのも事実です。それではせっかく新芽を吹きだしたわが国のプライヴェート・プレスの進展にとって大きな障害となりかねません。
font-schemeキャラクタ数の少ない欧文活字にくらべ、漢字を中心に圧倒的にキャラクタ数の多い和文活字の新設備は、活版ユーザにとっては高負担になりがちです。

コンピュータの利便性が低かった時代に 最初に採用された日本語活字
I T 時代とよばれ、栄耀栄華をきわめているコンピュータですが、その開発初期はあくまでも演算機能が中心でした。それが次第に機能が拡張され、清打ちタイプライター、あるいは DTP システムの原型ともいうべき IBM72 という、簡便な記憶機能と演算機能を備えたタイプライターが1961 年に発売され、爆発的なヒット商品となりました。

IBM72 にはさまざまな機種が登場し、日本語対応も求められましたが、そこで最初に採用されたのが故 ミキ イサム氏によるカタ仮名活字だったことは画期的でした。ついで旧日本国有鉄道が、新幹線などの指定席用に採用した「日立データタイプライター(通称マルス)」にも、ミキ イサム製作のカタ仮名と、追加文字として、欧文・数字・特定漢字36キャラクターが採用され、長らく「緑の窓口」などで使用されました。

また、かつての高速通信の手段であった電報は、カタ仮名のみの、できるだけ少ないキャラクターで、簡潔に情報を伝える文体が発達していました。「チチキトク ウナ カエレ」のような、「ウナ電」とよばれた至急電報(英語で至急の意を表す urgent のはじめの 2 文字のモールス符号が、仮名の「ウ・ナ」に相当することから名づけられました)や、春の大学入学試験の時期には、正門脇に学生アルバイトによる「電報受付特設コーナー」が設けられて、合格をあらわす「サクラサク」や、不合格をしめす「サクラチル」に、一喜一憂した時代もさほど昔のはなしではありません。
このようにカタ仮名特有のコンパクトで利便性に優れた機能が、かつては多くの用途に利用されていました。森川龍文堂カナモジカイは 1920 年 11 月 1 日、山下芳太郎、伊藤忠兵衛、星野行則らによって「假名文字協会」として大阪市東区に設立されました。その活字鋳造を担ったのは、おもに大阪「モリカワ リョウブンドウ/森川龍文堂」でした。

このパンフレットは故ミキ イサムから直接提供をうけたもので、1935 — 40 年ころの製作とみられます。収録書体は、平尾善治、猿橋福太郎らのカモノジカイ会員の製作によるカタカナと、稲村俊二の「スミレ」、松坂忠則の「ツル」などです。ミキ イサムは「ツル」を高く評価しており、ミキ イサムのカタカナのエレメント、形象には「ツル」からの影響が顕著です。

もっとも定評ある「アラタ C」をベースに「アラタ 1209」を創りました
このような歴史と現状を踏まえ、さらに活版ルネサンスを進展させるために、日本語表記をできるだけ効率よく、しかも低予算で組版できる金属活字書体としてサラマ・プレス倶楽部が着目したのが、前述したミキ イサムによる「カタ仮名活字 アラタ C」でした。

「カタ仮名活字」は前述のように、長い歴史を有し、多方面の用途を担ってきました。なかでも「アラタ C」は、適度な黒みと、欧文書体のように明確なラインが設定されており、ウエセンから突起したウエエダという突起部をもつことが特徴です。また判別性に優れた書体として評価が高く、さまざまな分野で用いられていました。

arata-c20180409133938_00001金属活字がある意味では追い込まれながらも、あらたな意義と役割をもって再興への歩みを進めている現代、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部では、若干の窮屈は承知の上で、カナモジ完結書体の金属活字化に着手いたしました。そしてそのために、まずもっとも定評のあるカナモジ書体である「アラタ C」のライセンスを、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部が株式会社モトヤより取得いたしました。

かつてモトヤでは「アラタ・サカエ・アキラ・クレハ・アラタ(ヒラガナ 1962)」などの書体を金属活字で供給していましたが、時代の趨勢によって、金属活字、パターン、活字母型などはすでに処分されていたため、デジタルデーターの支給をうけるという形でした。
それをもとにサラマ・プレス倶楽部で正確な原字版下を作成し、亜鉛凹版による活字パターンの作成を経て、ベントン型彫刻機をもちいて活字母型の彫刻をおこなうという、1950-70年代の金属活字全盛期さながらの技法や、工程そのものを復活・展開させる試みとなりました。

サイズはユーザーの利便性を考慮し、天地 12 ポイント、左右 9 ポイントとして、一部の約物類は既存の 12 ポイントのものを流用できるように配慮しました。

「アラタ 1209」はお求めやすいフォント・スキームでの販売です。
このようにして、21 世紀になってはじめて誕生した本格的な文字セット活字の創造には、それなりの困難と障害がありました。しかしそれらはライセンス供与社の株式会社モトヤをはじめ、協力企業各社の支援を受けながら、ひとつひとつ乗り越えていきました。

そしてここに「アラタ 1209」と名づけられたあらたな金属活字が誕生しました。「アラタ1209」は朗文堂 サラマ・プレス倶楽部の専売品で、使用頻度の高い「ア・イ・カ・ノ」などの字種は多く、「ヰ・ヱ・ヴ・ヮ」などは少ない字種配当表を作成し、1 フォントが文選箱 1 箱に納まるように構成した、独自の「カタ仮名フォント・スキーム」を採用しています。

懐かしいのに新しい、最新の金属活字書体「アラタ 1209」を、皆さまぜひともご愛用ください。
「アラタ 1209」12 ポイント 全キャラクター
character_arata1209miki-isamuありし日のミキ イサムさん
1971 年(昭和 46 年 3 月 10 日)カナ ノ ユウベ ニテ

原字製作者プロフィール:ミキ イサム 1904 — 1985 年
明治 37 年 — 昭和 60 年。旧制和歌山中学校卒。東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科卒。研究科修了。この間財団法人カナモジカイに入会。彫刻家の道を歩みながら、視覚障害者対象のカナ・タイプライターの研究開発に従事する。

第二次世界大戦終結後、凸版印刷株式会社に入社。板橋工場ベントン彫刻部に 1959 年(昭和 34)定年退職時まで在職。その後モトヤの古門正夫前社長の委嘱により、1949 年にご子息の名前を冠した「アラタ(カタカナ)」を発表。同社には「アラタ・サカエ・アキラ・クレハ・アラタ(ヒラガナ 1962)」などの金属活字書体をのこした。

1967 年(昭和 42)に写真植字機研究所(現:株式会社写研)の依頼を受けて「アラタ・ホシ・クレハ・サカエ」などの書体を写植文字盤書体とした。

その間、財団法人カナモジカイ理事、美術部長を歴任した。それ以降も IBM72 用カナ書体、国鉄乗車券用に日立データタイプライター書体などの開発に従事した。
なお、カナモジカイの精神に則り、ご本人はその使用を避けられていたが、本名の漢字表記は「三木凱歌」であった。

ライセンス供与・監修/株式会社モトヤ 原字製作/ミキ イサム 資料協力/ミキ アラタ
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