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朗文堂-好日録 009 2011年3月11日、宮澤賢治と活字ピンセット

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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あの日のこと、そして
たかが……、されど、貴重なピンセッ

メディア・リテラシー   久しぶりに「朗文堂-好日録」をしるしている。期末・期首で忙しかったせいもあるが、やはり平成23年(2011)3月11日[金]14時46分、あの大地震と災害の凄まじさで、筆 モトイ キーボードが重かった。あの日、あの時、やつがれは遅い昼食を摂ろうと、まさにコンビニおにぎりを開封しようとしていた。この作業がいつもうまくいかず、包材が破れて海苔がのこるのが口惜しいので、きわめて慎重、かつ、きわめて丁寧に剥離の作業に一心不乱、熱中している最中、第一撃がドカンときた。続いてユッサユッサとおおきな揺れが続き、これはでかいぞとおもった。続いて第二撃がおそった。不安定だった書棚の書物が崩れるのを、おにぎりを持ったまま呆然とみた。どこのビルもエレベーターが自動停止して、非常階段が叫び声であふれた。みんなが口々に「逃げろ、逃げろ! 早く新宿御苑に避難しろ」と叫んでいた。第3撃がきたとき、吾輩は[取りあえず、主震よりでかい余震はないからな……]と開き直って、椅子にかけて大好物の「昆布おにぎり」を食べていた。しばらくして新宿御苑の避難から戻った社員にあきれられた。

¶ もともと小社にはテレビが無い。今回わかったことだが、社員私物のラジオが1台あるだけである。それでも今回の地震では、全員が帰宅困難者になったので、ラジオ、Websiteの動画、新聞社や私鉄のデジタル情報が役にたった。情報は東北で地震があったことを伝えるだけで、詳細はまったく不明。むしろヘリコプターが乱舞して、九段会館の天井が落下して死傷者がでていることと、千葉県の燃料タンクの炎上を伝えていただけだった。すでに携帯電話が通話できなくなって、かろうじて固定電話だけが時折通ずる状態になっていた。ネットの情報は、おびただしい流言飛語リュウゲン-ヒゴが飛びかい、片言隻語ヘンゲン-セキゴで埋めつくされていた。あの日の夜、新宿の通りは徒歩で帰宅するひとびとであふれかえった。ほとんどたれも東北の大惨事をまだ知らず、まして原子力発電所の非常事態も知らずに、ひたすら帰宅の道を急いだ。通信網が砕け散ったとき、高度情報化時代の「情報」とは、こんな脆弱ゼイジャクさを内包している。

¶ ところで、メディア・リテラシー(media literacy)である。昨春まで大学で情報学を教えていたので一応専門領域である。メディア・リテラシーを簡略に述べると、情報メディアを主体的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のことである。すなわち「情報を評価・識別する能力」ともいえる。あの日、携帯電話と固定電話が不通になり、パソコンの電源が落ちた被災地からの肝心な情報はまったく届かず、現代の電子メディアはほとんど無能となる醜態をさらけだした。あの日からしばらくして、吾輩はテレビをほとんど観ないことにした。断片的で、根拠不明の情報が多く、また疲れるし、重い気分になるだけだった。別に忌避したわけではなく、テレビというメディアは、この段階ではまだ真相を伝えるにはいたっていないと判断したからである。それに代えて、定期購読の新聞のほかに、数紙を交互に購入するようにした。タイポグラファとしては、日頃見慣れていない新聞の活字書体には相当抵抗があったが、「情報」、とりわけ原子力発電所の情報に、かなりのバイアスがみられるとかんじたので、普段手にすることのない新聞も購入した。それを持ってロダンの椅子に腰をおろすことが多かった。

《災害は忘れたころにやってくる》 ――いいふるされたことわざである。なんの新鮮さもないが、それだけに重い。《災害は忘れたころにやってくる》。それで十分だ。あの日のことを、想定外であり、未曾有ミゾウな事象などとメディアは盛んに記述する。[本当にそうだろうか……]と、あの日以来だいぶ滞在時間が長くなった「ロダンの椅子」に腰をおろしておもう。そもそも、なにゆえ想定外、未曾有な事象!? などという(まともに読めないひとがいることが自明な)、にわか漢語、はやりことばをもちいるのだとおもう。敗戦を終戦とし、占領軍を進駐軍、事故を事象とするなど、わが国では一朝ことあると、漢語の森(中国の傘のもと)に逃げ込む悪癖がみられる。「想像もできなかった」「かつて無いできごと」ではいけないのだろうか。

¶ すこし時計をもどそう。平成7年(1995)1月17日、あの日はひどく寒かった。中国から戻ったばかりで忙しく、徹夜明けで、近くにあった《夜明けから、日没まで営業》という、いっぷう変わった店で夜明けの珈琲を飲んでいた。午前5時46分、早暁のなかでガツンという衝撃があった。老店主はすぐさま古ぼけたテレビのスイッチを入れた。「関西地方で地震が発生」という速報に続き、「京都の三十三間堂で仏像が倒壊した」という、あとからおもえば、いささかピントのずれた第2報のテロップが流れた。震源地であり、最大の被害を受けた、神戸のコの字もなかった。おそらく大阪・神戸への通信回路は壊滅しており、京都までの情報しか「エヌ-エイチ-ケイ」でも入手できなかったのであろう。この地震はのちに「阪神・淡路大震災」と名づけられた。京都での被害は軽微だったので、「京阪神」とは名づけられなかった。

¶  ふたたびあの日。あの日以来、「テラ、シーベルト、ベクレル」などの、さまざまな単位語やテクニカル・タームを覚えさせられた。テラ(tera)はギリシア語で「怪物」の意の teras から派生したことばで、一兆の一万倍をあらわす単位の接頭語で、漢字であらわすと「京 ケイ」である。いったい幾つ 0ゼロ が並ぶとテラなる怪物を表示できるのだろうか。また、最初のうちはマイクロ・シーベルトなどといっていた。それが、いつのまにかミリの単位に変わって、ミリ・シーベルトといっていた……。小数点以下の0ゼロが随分とれてしまっていた。

¶ ところで、活字を扱っていると、すこし高額だが「マイクロ・ゲージ」が必要となる。マイクロは「微少」の意のギリシア語 mikros から派生したことばで、百万分の一(10―6)を表す単位の接頭語であり、ミクロとも呼ばれ、記号はμである。すなわち吾輩も正確を期して活字計測にマイクロ・ゲージを用いることがある。金属活字ではマイクロの単位は容易に可視化しないが、ミリの単位なら、100円ショップで売っている定規で事足りるし、視覚でも触覚でも判別できる。すなわち原子力発電所と放射能汚染に関して、桁違いの話しを平然とした表情ではなされても、門外漢にとっては困ってしまう。しかもその門外漢のど素人たる吾輩は、原子物理学になど興味もないし、知りたくもない。ただ安全であることだけを願って、ことの推移を「情報」から知ろうとしただけだ。

¶  あの日の地震は、最初のうちは気象庁の発表によって「東北地方太平洋沖地震」と呼んでいた。メディアもそれに倣っていたが、いつのまにか内閣府によって「東日本大震災」と名称がかわったようである。ことばにこだわっても収穫が少ないが、「地震と、それによる災害」を省略して、「震災」と生活語で呼ぶ分には問題はなかろう。しかしながら、歴史をかたるための正式呼称としては若干の疑問がある。あの日の地震はおおきな津波を伴い、万余の犠牲者をみた。これは先例もある地震と津波によるあきらかな天災。ただし一部から危険を指摘(想定されていた)原子力発電所の暴走は、情報のバリアーが徐々に外され、もうたれもが知ってしまったように、危険性を軽視し、警告を無視し、事故を事象などといいかえて判断ミスを重ねたことによる、あきらかなる人災であろう。

¶ すなわち地震と津波による天災と、トリガーをひいたのは津波とはいえ、原子力発電所がもたらす大災害は、チェルノブイリやスリーマイル島の先行事例もあって、想定外とは許されないできごとであろう。むしろ十分に想定可能で、かつ、事故への適切な対処が可能な事象!? であろう。すなわち原子力発電所がもたらした人災を、「震災」という合成語でなにもかもをひとくくりにすると、今後の復旧・再生・補償に齟齬ソゴをきたさないかと不安を覚える。ひとがつくった「原子力発電所、略して原発」という怪物が、ひとの手に負えない大暴走を繰りかえし、それこそ「未曾有――いまだ曾カツて起こったことがないこと」の悲劇をもたらした。また、いまはかたずをのんで静観するしかないが、これから数十年にわたって、放射能汚染という可視化できない化け物によって、不安と危惧をもたらし続けることが明らかにされたいまである。素朴におもう。地震と津波による天災と、原子力発電所の制御不能事態という人災は峻別すべきではなかろうか。

¶  あの日、幸い小社では被害というほどの損傷はなかった。しかし通信網・交通網が復旧するのにつれて、次第に身内にも犠牲者がでていたことを知った。やつがれの妹の亭主は仙台の出身である。その義弟の姉(血縁ではないが一応親戚だ)が激甚被災地で犠牲となった。ようやく遺躰は発見されたが、火葬ができなくて土葬にふされた。仮葬儀に駆けつけた妹は、「ともかく凄いことになっている。テレビじゃとても伝わらない、凄惨なことになっていた」と嗚咽をこらえて報告した。被災地の友人・知人に架電すると明るく笑うが、少なからず身内や友人に犠牲者をかかえている。あの日から四十九日忌をむかえるいま、あらためて「東日本全域を襲った、地震と津波の災害」によって犠牲となられたかたがたのご冥福を祈りたい。そして天災と人災によるすべての被災地の皆さまに、心からのエールを送りたい。

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苦労しています。活版用ピンセット 活版印刷材料商がほぼ転廃業をみた現在、「活版用ピンセット Tweezers  Pincet」は入手難な器具のひとつである。

『VIVA!! 活版♥』(アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月11日)

みた目は医療用やデザイン用に用いるピンセットと類似するが、これはバネの弾力が強く、先端内側の刻みが深くて、生まれも育ちも「活版用ピンセット」である。活字版印刷(活版)のよき再生をめざしたアダナ・プレス倶楽部の発足時には、さまざまな障壁があった。活版はここ40年ほど、ゆるやかな衰退を続け、なかんづく平成の時代になってからは業務としての活版印刷は急激な凋落をみていた。その技芸を壊滅させることなく、あたらしい時代のユーザーを得て、「再生・ルネサンス」をめざそうとした。いまとなれば笑って話せるが、「活版用ピンセット」には苦労が多かった。その在庫を探したが、どこにもなく、新規発注だと500―1,000本が最低製造ロットだとされて困惑した。ようやく探しあてた金属加工商に相当数の在庫があったが、宅配便の手配などをいやがる高齢の経営者だったので、現金を持って訪問しては購入していた。ところがある日、「活版用ピンセットが全部売れちゃってね、悪いけどもう在庫はないよ」との店主からの架電があった。あまりに唐突だったので唖然とした。

¶  しばらくして、最低でも50本はあった「活版用ピンセットを買い占めた」のは、大手の園芸業者であり、芝生などに生える野草(雑草)を引き抜くのにピッタリだとして、全量を購入したことがわかった。折りしもサッカー・ブームである。あの巨大なピッチの芝に紛れこむ野草とは、相当しっかりした根をはるらしい。それを始末するのに「活版ピンセット」は十分な強度を持っていた。朗報もあった。園芸業者の購入意欲は強く、相当数の「園芸用ピンセット」を新規製造することになったのだ。もちろん仕様は「活版用ピンセット」と同一のままである。ヤレヤレと胸をなでおろした。

¶  文豪・宮澤賢治に苦情をいうわけではないが……  活版印刷とピンセットというと、活版の非実践者は「活字を拾う――文選作業」に用いるものだと誤解していることが多い。ところが和文・欧文を問わず、意外に軟らかな活字を拾う(採字)ためにはピンセットは使わない。Websiteでも 《活版印刷今昔01》 の執筆者は、文選作業でのピンセットを使用している写真画像に相当お怒りのようである。すなわち活版印刷にはピンセットは必需品だが、その用途は、組版の結束時や、校正時の活字類の差し替え作業にもちいることにほぼ限定される。この活字文選とピンセットの相関関係の誤解は、意外に読者層にも多い。その原因はどうやら宮澤賢治の童話『銀河鉄道の夜』に発するようである。

¶ 宮澤賢治(1896-1933)は、岩手県花巻市生まれ、盛岡高等農業学校卒。早くから法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身した。詩『春と修羅シュラ』『雨ニモマケズ』、童話『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などがある。ここで『新編 銀河鉄道の夜』(宮澤賢治 新潮社 平成元年6月15日)を引きたい。ご存知のように宮澤賢治作品のほとんどは、生前には未発表の未定稿であり、数年あるいは数十年にわたって、しかも数次におよぶ宮澤賢治自身による推敲スイコウ・改稿・改作を経ており、没年の翌年からはじまった刊行作業のために、編集者はたいへんな苦労をしながら校訂をしてきた。本書は『新修 宮澤賢治全集』(筑摩書房 1972-77)を底本としており、多くの流布本や文庫本とくらべると、比較的未定稿の原姿を留めた(ただし、同文庫の編集方針により、仮名遣いは新仮名遣いになっている)書物といえる(天沢退二郎)。この「活版所」『銀河鉄道の夜』に問題の記述がある。(アンダーラインは筆者による

活 版 所

ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。

けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度をしているのでした。

家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中はまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。

ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込む小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。

ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。

六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。

ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。

¶ 『銀河鉄道の夜』は宮澤賢治の生前には刊行されず、事前の校閲や著者との合議がなかったから、没後に発表された刊行書の随所に、ことばの不統一がみられる。まず、章題の「活版所」は、本文中では「活版処」とされている。明治の大文豪が「吾輩・我輩」を混用して書物を刊行したが、その没後、大文豪の書物の刊行にあたった大手版元の校閲部では、有無をいわせず「吾輩」に統一して一部から顰蹙をかったことがあった。また、やつがれが敬愛する司馬遼太郎氏などは、送り仮名も、漢字のもちいかたも、あちこちにバラツキがみられるが、生前のご本人はほとんど気にしなかったようである。もちろん並の校閲者では手も足も出なかったとみえて、「不統一のママ」で刊行されている。なんでも揃えるという考えには賛成しかねるゆえんである。「ひとつの小さな平たい函」とあるのは、おそらく「文選箱」であろう。ガキのころから活版所を遊び場のひとつとしていたやつがれは、10歳のころには「文選箱」を宝物にしていた。また、いまもって文選箱を持つと、妙に気持ちが昂ぶる悪弊がある。「たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込むと」とある。これも、「活字ケース架 俗称ウマ」に向かって、文選のために立ったのであろう。ふつう文選作業にあたって、最下部に配される「外字」「ドロボー・無室」ケースの採字以外は、しゃがみこむことはあまりない。

¶ ついに問題の箇所である。ジョバンニは「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」とある。既述したが、わが国でも欧米でも、活字の文選作業は手で拾う。ピンセットをもちいると、軟らかな活字の面ツラを傷つけるおそれがあるためである。活版印刷全盛の時代には、床に落下した活字を拾うことさえ禁じられた。落下した活字は、汚れが付着するだけでなく、活字面 type face にキズやカケが発生している可能性があり、そのまま印刷して活字の面のキズやカケによるクレームがないように、灼熱地獄行きの「地獄箱 Hell Box」に活字を投げ入れた。この活字は捨てられるのではなく、溶解され、怪獣サラマンドラのごとく甦るのである。したがって、活版印刷の現場では、古今東西を問わず、ピンセットは、組版を結束したり、校正時の差し替え作業にもっぱら使われる器具である。したがって、宮澤賢治は活版印刷所の内部にはあまり立ち入ったことが無かったと推測される。また、もし作者の生前に『銀河鉄道の夜』の印刷・刊行をみていたら、編集者・校閲者・文選工・組版工・印刷工といった、たくさんのひとの手と作業工程を経るなかで、たれかがこの問題点を謙虚に、そしてひそかに指摘したとおもわれる。「あのですね、宮澤先生。ピンセットで活字を拾ったら、活字が泣きますよ」と……ネ。まぁ、『銀河鉄道の夜』は、幻想・夢想のなかにたゆたうような名作である。あまり目くじらをたてる必要も無いが……。

¶ 2011年4月28日 二黒 仏滅 癸 丑 あの日から四十九日忌にあたり、泪のような雨が降りそそぐ。肌寒し。

朗文堂-好日録008 正月に咲くノゲシの花

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元旦の早朝に、はつ花をつけたノゲシ。1月6日既報写真。

空中庭園で次次に花をつける現状のノゲシ

◎吾輩、風邪をこじらせて肺炎になりかかった。ヤレヤレの毎日。
風邪が治りきらない。なんとなくポワ~ンとしている。思考にどうにもまとまりがない。新春早早なさけないことはなはだしい。ヒロオカ奴で血液検査をしたら、白血球の値が異常で、軽度の肺炎と診断された。通院で点滴を受けたり、抗生物質を投与されて、どうやら回復基調になった。ところで、本日は新宿西口、東京イタ~イ病院での3ヶ月毎の定期検診にでかけた。心臓エコーの検査にはまったく問題がないとの報告を受けて安堵したが、「血液検査では白血球の値がすこし高い。どこかに炎症があるはずだ」とのウッシッ師の見立て。風邪をひいてかかりつけ医に通院したことをはなすと、風邪薬、施薬5日分の処方箋がでた。吾輩の主治医ウッシッ師はどうやら名医らしい。ギョロメで、ときおりつまらん洒落 オヤジ-ギャグ をとばすが、いいひとだ。とりあえずは任せるしかないしな。

◎「花こよみ007」での報告は《ノゲシ》というらしい。
正月の朝まだきに初花をつけた艸があった。それを2001年1月6日、本ブログロールに「花こよみ007」として紹介した。「はつ春に 咲くやこの花 名をしらず――よみし ひとを しらず」。新春第1弾のアップとあって、なんにんかのかたから情報をいただいた。この花は「ノゲシ 野芥子、もしくは ハルノゲシ」という野草、ひとによっては雑草であることを知った。ノゲシはなかなか人気があって ウキペディア にも紹介されていた。

(^o^) 吾輩と似たようなブログを書いているひとがいた!

\(◎o◎)/! ノゲシは食べられるらしい!

>^_^< 亀はノゲシが大好物らしい!

∈^0^∋ うさぎやワンコもノゲシが好きらしい!

>^_^< カピバラもノゲシが好きらしい!

ネット・サーフは不得手だが、紹介されたページはみんなのぞいてみた。ペット好きのひとが増えたことはしっていたが、世事に疎い吾輩は、ペット好きとは愛猫家と愛犬家ぐらいしか考えていなかった。ところがじつにさまざまなペットが飼育されていることに驚いた。そしてみなさんがペットにほんとうにやさしい視線をむけており、しかもWebsiteでの写真紹介が巧い。画像は鮮明だし、生き生きと情景をきりとって紹介している。さすがにこれだけは動物園の画像であったが、カピバラ紹介などは、ユーチューブの動画つきで、おおきな鼠というか兎というか、ビーバーにも似た愛らしい小動物として人気のカピバラが、ノゲシにむしゃぶりつく様をみた。こんなWebsiteをつくってみたいが、デジタル弱者のヤツガレでは当分不可能だ。なにせ写真は極めつきにヘタだしね。

空中ではプロペラのような綿毛が、地面ではジャッキのようになる?

空庭園のノゲシは、いまだに黄色の花を次次につけている。そしてときおり、綿毛につつまれた種子を空中に放つ。「ロダンの椅子」で所在なく文庫本を読んでいたところ、誌面にノゲシの種子がポトリと落下 モトイ 落花した。なにせポワ~ンとしているから、種子に視線を移動してじっとみつめる。そのうちに種子は風に吹かれてどこかに飛んでいった。文庫本の上はお気にめさなかったらしい。

ところが「鼠のひたい」の地面に着地したノゲシの種子は、ここの地面の湿度や匂いが気にめしたのか、すぐに綿毛を足のようにして踏んばって、もう少少の風では飛ぶことがない。ポワ~ンとしながらそれをじっとみている。吾ながら寒風の吹きつのる朝っぱらから、そんな情景に見入っているとは実に暇な奴だとおもう。でもノゲシの綿毛は、気に入った地面に着地すると、すぐさまボルト&ナットのように、あるいは強力磁石のように、地面に、接着、吸着、着地することに気づいた。肺炎気味の風邪っぴきだというのに、それを飽きもせで1時間ほどじっとみていた。まるで阿呆だな。

ノー学部がまた妙なものを持ちこんだ。今回は鹿児島の土筆 ツクシ だそうである。ひょろっとした根っこを空中庭園に植えろという。土筆はスギナの子だから、狭い庭がスギナだらけになると抵抗したら、土筆とスギナは違うと反論された。とりあえず相手はノー学部出身、一応はそっちが専門だから黙っていたが、土筆はスギナの子ではないのかなぁ。信じられん。そこで作業拒否にでたら、自分でごそごそとコンビニ袋からいろいろ出して、鹿児島の土ごと小鉢に植えた。鹿児島の土壌は白砂 シラス 台地とされ、火山灰のなごりか白っぽい色をしている。桜島火山灰と富士山火山灰の違いかな。まぁ謂っても詮無いことだと放っていたら、土筆がいつのまにか芽をだしている。土筆は本当にスギナの子ではないのかもう少ししたらわかる。それまでは小さな植木鉢の中だ。

★山崎パン

ヤマザキとんかつバーガー 合格祈願つき ¥100

ともかく買い物が苦手である。だから買い物といってもコンビニぐらいしかいかない。ときおり100円ショップにも立ち寄る。たいていは意味のない、使い道のないものを買って帰る。昨年の「活版凸凹フェスタ」で、写真製版会社・真映社さんが「春の版ハンまつり」と銘打って展示してウケていた。ところで先般、吾輩、100円ショップで異な物を発見。「ヤマザキとんかつバーガー 合格祈願」である。吾輩は意外にこういう埒ラチもないものが好きである。

そこで新発見! ヤマザキ版ハン 、モトイ 山崎パンのダルマをよくみると、向かって右側の眼(つまり左目)から墨をいれて願をかけるらしい。そんなことは吾輩は知らんかった。だから既報の高崎ダルマも、川越ダルマも、向かって左(つまり右目)から墨入れをしておった。信心不足だからこうなったのか、はたまた世故にうといのか、いずれかだ。こうなるから縁起物は苦手だ。ところでまだ受験戦争は終わっていない。就職活動シュウカツも一種の試験だ。「フレ~、フレ~、受験生」である。えっ? パンの味? 100円にふさわしい味でしたよ。

本日2月23日[先負センプ]、曇天で寒い日であった。

朗文堂-好日録007 景況と女性の眉、活字書体の選択

朗文堂-好日録 007

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朗文堂-好日録
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◎ヤツガレ、風邪の治りかけでポワ~んとしておる。
新春早早なさけない。昨週末から、咳はでるは、鼻水はたれるはで、まことにもって無残であった。かかりつけ医のヒロオカ奴に駆け込んで、いつもの風邪薬4日分。土曜・日曜とどこにも出かけずグダグダしておった。本を読もうにも薬のせいかトロトロしてくるので、ただ毛布をひっかぶって、ゴホゴホ、ズルズル、チ~ンとやっていた。なさけないことはなはだしかった。24日[月]、なんとか出勤。それでもなんとなく、いまだにポワ~ンとしている。

¶ ところでかかりつけ医のヒロオカ奴、ひとの顔をみるたびに「もうタバコはやめましたか?」と薄ら笑いを浮かべながら、嫌みたっぷりいう。当世、たれも好きこのんでタバコを吸っているわけがない。単に年期のはいった、あはれなニコチン中毒重症患者なだけだ。だからむしろ同情してほしいのだが、どうもこのごろは社会的に、このあはれな症状を呈する患者にやさしくない。ましてをや、国家までが、卑劣千万、やらずぶったくり、ひとの中毒症状につけこんで、高額な税金まで巻き上げるおそろしい時代だ。ヤツガレほぼ一年ぶりの風邪っぴきだったが、ヒロオカ奴、今回は別のテできた。「タバコがやめられる内服薬がある、社会保険が使える云々……。風邪がなおったら来るように」ト偉そうにのたまう。「当院での治療実績は禁煙成功率80%だ!」ト鼻をピクピクうごめかせる。

¶ ウ~ン、これは蠱惑的かつ誘惑的ではないか。何度も禁煙に失敗し、ましてや風邪で咳がでているのに、タバコを吸っている莫迦にも甘い響きであるな。「禁煙成功率80%!」か。しかしである、あらかじめ20%は失敗する(逃げ道がある)ことになっておるではないか。もし、もしもであるが、吾輩がそっちのグループに入ったら、ヒロオカ奴、喜色満面、それを医学界論文に発表するに違いない。これまでもヒロオカ奴は、吾輩をネタに何本か医学論文を書いたにちがいないと睨んでいる。こんども「65歳・男性・喫煙歴56年・極めて悪質也――薬剤積極投与するも、長年の喫煙の悪癖を脱せず――」かな。ヒロオカ論文調ではな。

◎女性の眉と活字書体の、えもいわれぬ相関関係とは――
ところで諸君、女性の眉と、書体選択が、おもわぬ相関関係にあることをご存知かな。どうせ風邪でポヨ~ンとしているのだから、たまにはこんな話題も如何かな。女性とは、本能のどこか、どうやら触覚が世界規模において優れているようだ。景気とは、所詮 気 のものである。良くも悪くもなったりする。『広辞苑』においても、【景気】 ①様子。けはい。ありさま。景況――である。つまり女性とは世のなかの、気配、ありさま、そして景気波動までをを触覚中心の本能のどこぞで捉え、それをファッションに取りこむ才に優れているらしい。それがさざなみのごとくに波及すると流行となり、ついには景況をも左右するから怖ろしい。吾輩のように、衣食住には関心がないと本気でほざき、十年一日のごとくのドブ鼠ファッションとはえらい違いだ。つまり巷間よくいわれるのが「景気が悪化すると、スカート丈が短くなる」だ。かの英国のツィッギーが典型か。大阪万博のころとおもって欲しい。ミニ・スカートが流行った時代とは、世界規模の不況であった。これはファッション業界では半ば定説となっているそうだ。

¶ ここで女性の眉である。ふるく中国乱世の時代、ひとりの女官が眉を細くして、蛾 ガの触覚のような三日月型の眉を描いたところ、それが食うや食わずの乱世の女性の心を捉え、「蛾眉 ガビ」として、あのひろい中国全土に拡がって、われもわれもと眉を細くしたという。古来、女性とは、なにはともかれ、美しくありといという「美的欲求」にはひどく敏感なのだ。「景気が悪化するとスカートが短くなる」とはファッション界の俚諺リゲンだが、化粧品業界の俚諺リゲンでは「景気が好転すると、女性の眉は太くなる」とされる。おもいおこしてほしい。バブルの1980年代を、美しく、たくましくも駆け抜けていった女性たちは、みな太い眉をしておった。石田ひかりや石原真理子 モトイ 真理恵の眉は驚くほど太かった。W浅野とされた、浅野ゆう子、浅野温子だって、黒々とした眉をしておった。そして景気にかげりが生じた安室奈美恵チャン以降、わが国の女性の眉は細くなったとヤツガレ感じているが如何かな。

¶ ファッションや美容には蘊蓄をのたもう評論家も、自称批評家もいるが、社会の片隅に蟠踞バンキョする「書体印象派」の一部は、女性の眉と活字書体と景気波動の相関性などにはまったく関心をしめさないようだ。しかしヤツガレ、この20年ほど続く世界不況に際しても、書体の流行だけは適切に捉えておった。ただ株式投資は(元手がないから)やらないし、占い師のごとき評論家でもないので、それを己の企業運営――つまり儲けに反映できないのが腹立たしいが。ともあれ、明治の開闢 カイビャク からの活字意匠の変化を追ってくると、演繹法でも帰納法でもなんでもこいだが、ともかくおのずと導きだされる簡単な結論がある。

¶ つまり、「経済不況下においては、活字書体のウエイトは細くなる。そして丸味のある活字書体が好まれる―片塩式書体法則1」――である。どうやら世界景気も落ちるところまで落ち、あとは上昇軌道を期待できるところまできたようだ。いまは、夜明け前のもっともくらいときにあるとみている。これからは、「経済好況下においては、活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる―片塩式書体法則2」――がみられるはずだ。活字書体も社会の風潮を背景にしており、決して無縁ではないのである。わかりにくければ、女性の眉とスカート丈に注意することだ。この片塩式書体法則1・2は、おもに、あるいは先行して、商業印刷に反映されるが、ながい尺度でみると、雑誌・新聞などの近接メディアを通じて、図書の印刷用活字書体にも影響をあたえるのだ、友よ! いまはただ女性の眉毛のふとさに注目しよう

昭和初期、長い不況下にあったわが国の書籍印刷用書体――明朝体は、きわめて細くなっていた。
康文社印刷所社主、吉原良三(1896-不詳)は、印刷同業組合の理事として、「変体活字廃棄運動」にも深く関わった人物であるが、同時に「新刻」と称して「細形明朝」の販売に積極的であった。
(『日本印刷大観』昭和13年、差し込み広告)


本文用明朝体は明治末期をピークとして、複製の連鎖のためもあって、昭和前期にはすっかりやせ細っていた。昭和初期の大不況期には、それを逆手にとって「細形明朝」として発売する業者も登場した。図版は細形活字を積極的に製造・販売した康文社印刷所の書体見本。上/新刻九ポイント細形明朝体、下右/新刻五号細形明朝体、下左/新刻六ポイント細形明朝体

¶ バブルとは「それいけ、ドンドン」の時代でもあった。「でっかいことは、いいことだ」と指揮棒をふるったチョコレート会社もあった。重厚長大の、もはや古き良き時代となってしまったが……。活字は写植活字の全盛時代。つぐつぎと新書体が発表されていた時代でもあった。このバブルの直前、株式会社写研から発売された「ナール」は、ウエイトが細く、フトコロを大きくとった、新鮮な丸ゴシック体であった。しかし発表・発売直後に、第1次石油ショックがおそった。この急激な経済環境変化は、のちのバブルの崩壊のように緩慢に作用したのではなく、激震のようにわが国を揺さぶった。もちろん大不況に陥ったが、それでも「ナール」は好感をもって迎えられ、爆発的なヒット書体となった。つまり「ナール」は、製作者の意図とは別に、「不況になると、活字書体のウエイトは細くなる。そして丸味のある活字書体が好まれる―片塩式書体法則1」に完璧に合致していたのである。爆発的ヒットはなにも偶然ではないのだ。このころの女性の眉は幾分細かったことはもちろんである。「ナール」はもっとも細いウエイトから出発し、順次ウエイトを太めながらシリーズを形成していった。それでもデミ・ボールド・ウエイトの「ナールD」から以降は、さしたる成績を収めなかった。景気は好況期に入りつつあったのである。

¶ つまり「ナール」シリーズの拡張期の時代は、もはやバブル前期に突入していたのである。「好況になると活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる――片塩式書体法則2」の時代である。写研は丸ゴシック系の「ナール」シリーズに代えて、字面が大きく、フトコロのひろい、新ゴシック体「ゴナ」シリーズに注力し、これまたきわめて大きな成果を収めた。しかも「ゴナ」シリーズは「ナール」シリーズとは逆に、最初に極太、ウルトラ・ボールド「ゴナU」が発売され、もっとも好まれたのだ。それがバブル期の書体法則「好況になると活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる――片塩式書体法則2」である。それ以後のさざ波のような景気の浮揚期には、写研「スーボ」、「新聞特太ゴシック体 YSEG」、モリサワ「MB-101」などという、極太の書体が、入れ替わり立ち替わりして浮沈していった。2011年のいま、こうしたバブル期に盛大に使用された書体の使用例を見かけることはまずないといって過言ではあるまい。活字書体の選択も、社会風潮や景気の動向を鋭敏に反映しているのである。*書体名は各社の登録商標である。*

¶ 今朝の電車の中吊り広告で、薬品メーカーとアルコール飲料メーカーの広告が並んで掲示されていた。見出し書体は両社とも同じ書体で、丸くて細くてナヨットしたデジタル書体だった。サイズも位置もほぼ同じでおもわず苦笑した。風邪には新ビールが効くのかな? いずれ「片塩式書体法則3」もこのブログロール「花筏」に発表しよう。まぁ、風邪の抜けきれないいまだから、この辺にしようかな。
本日1月25日[火]、晴天なるも寒風つのる。ここにて擱筆。

朗文堂 ― 好日録006 達磨輪廻転生の世界へ 月映 藤森静雄をみる

朗文堂-好日録 006

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《 いただいたダルマで 輪廻転生リンネ-テンショウ の世界に突入か 》
¶ カレンダーがあたらしいものにかわった。西暦2011年、平成の御代も数えて23年になった、ト、ここで年号をなんとか確実に覚えようとしている。
ことしは大正元年から数えて100年、もし昭和の御代が続いていれば昭和86年となる。よくわからないが、まことにめでたいことである。

2009年11月  宇都宮駅で無償配布されていたダルマ

¶ だが、もともと冠婚葬祭はできるだけご容赦を、ト念じているから、本音では祭のひとつ、正月を、さほどめでたいとはおもっていない。 むしろ、きょうとおなじ、あすがあって欲しいと願う。 しょうがない、つぎの正月まで、またポチポチやるか、という程度だ。

¶ 2010年最後の日、31日[金]も出勤した。 電話はちっとも鳴らないし、@メールもほとんど着信なし。 みんないったいどこにいったのだ。 そうか、年末年始休暇だとおもいあたる。
だからなんとなく(かえって)リズムが狂って、まとまりがないまま時間がすぎた。
夜更10時半退勤。 ちかくの「あおい書房」がまだ開いている時間だ。 そこで休日用の文庫本を購入。司馬遼太郎 『この国のかたち 4 ・ 5 ・ 6 』、宮城谷昌光ミヤギタニ-アキミツ 『三国志 1 ・2 ・ 3 』。
司馬さんの連載は、初出 『 月刊 文藝春秋 』 のときから読んでいる。上製本、文庫本と読んできたが、ぼろぼろになったので、また買った。

¶ 上製本はとっておくが、雑誌と文庫はどちらかというと睡眠導入剤。  だからすぐにぐちゃぐちゃになる。
やつがれ、もし文庫本が 「 電子出版 」 になったらまことに困る。 現状の文庫本や雑誌は、夜ごと、枕の下に埋もれ、尻や出っ腹に敷かれ、毛布と布団と敷布の間で行方不明になり、足蹴にされて布団からずり落ち、ときにはよだれでベトベトになっている。

それでもよい、頑丈、かつ、万に一つでも よだれによる感電事故などがない、また最低限の組版規範を達成した 「 電子機器 」 に成長したら、槍でも鉄砲でも 「 電子出版 」 でもなんでも良いぞ。  おそらくそんなものは当分登場しないから、いまのところはとりあえず、文庫を顔にのせて惰眠をむさぼるか。

¶ 帰宅後すぐに 『 この国のかたち 』 を読みはじめた。 久しぶりの司馬節、司馬史観に夢中になって03冊とも読了。 やはりこのひとは凄いな、ト 改めて脱帽。
このひと、いまにありせば、この乱世をいかに喝破するかとおもう。 かくするうちに しらじらと夜があけ、新年になっていた。
アダナ・プレス倶楽部 「 餅プレス大会 」 の折りの冷凍餅をチンして、マッタリおいしい大阪昆布の佃煮と食す。 旨し。  リポビタンD 1 本グビリ、これこそまことにもって、優雅なお節セチとお屠蘇トソではないか、ト 吾輩 初春にあたり 独居しておもう。

¶ 朝まだきの室外にでて、空中庭園で一服つけたら、おもわぬことに、黄色い花が一輪咲いていた。 「 こいつは春から、ほんとうに縁起がいいわい 」、ト 写真機でパチリ。
それにしてもコイツはどこから来て 植木鉢の真ん中を占拠して、どうしてこんな日に初花をつけたのかふしぎだ。 もちろん名もしらぬ。 花は蒲公英タンポポに似るが、草丈は 50 cm ほどもある。 吾輩の空中庭園には雑草という名のあはれな艸はない。 むしろすべてが雑草ともいえる 。だから コレハ ナンダ とおもったが、放っておいただけのこと。

¶ 元旦から駅伝をテレビでみる。  オフサカ-ゲーニン-録画版-莫迦嗤い-番組 はみない。
実業団の駅伝はかなり熱くなったが、学生の箱根駅伝はあまりにショーアップされて燃焼不足。 体育会学生がついにゲーニンになったのかナ。 アナウンサーの絶叫もチトうるさい。
だから往路はみたが、復路はパス。 ミヤギタニ文庫版 『 三国志 』 を手にする。 ここのところ北方謙三 『 揚家将 』  『 水滸伝 』 『 揚令伝 』 にすっかりはまっていた。
現在はいったい何巻になるのかわからない 『 史記 』 を、刊行されるたびに、待ってました ! と購入。 ケンゾウめ、司馬遷の名作をここまで勝手に改竄、断裁するのかとおもう。 えれぇ筆力だ、ト 呆れるばかりなれど、やめられない。

¶ もちろん ケンゾウ 『 三国志 』 もすでに読んでいた。 そんなケンゾウ節のせいもあって、久しぶりのミヤギタニに、すぐには入りこめなかった。それでも20ページほども読み進めると、すっかりミヤギタニに捉まったから単純なものだ。 このネットリ絡みついて離さない、大蛇アナコンダのような文体も味がある。 結局外出時も鞄に入れて持ち歩き、休暇中に読了。

凄い人混みの川越大師喜多院の達磨市

¶ そこで凡人、01月03日[月 正月休暇]、箱根駅伝観戦を早早に中断。 帰京したノーガク部と、川越喜多院の達磨市にでかけた。 このダルマは一昨年11月、宇都宮駅で偶然 「 高崎ダルマ市 」 を開催していて、無償配布をうけたもの。
俚諺 リゲン にいうぞ、「 タダほど高いものはない 」 ト。 まったくそのとおりで、ちょっとした願いごと (ささいなものだ、内緒だけど) をして片目を入れておいたら、昨年年末にめでたく念願成就とあいなった。 だから両目に墨がはいったが、サテその処分に困惑した。
信心などほとんどないが、「 このダルマさんを、まさか燃えるゴミにはだせないなぁ 」 ということで、Website で調べて、一番近く、休暇中にダルマ市を開催している川越にでかけた。

¶ びっくりした。東武線川越駅を降りたら、いきなりそこから長い行列。 「 喜多院 達磨市 専用往復バス切符 」 を売っていた。 行列の後尾についてようやく切符を買って、ピストン輸送の満員バスになだれ込むように乗り込む。
喜多院についたらますます押すな押すなの人混み。 人にアタル(中毒する)たちのやつがれは、もう青息吐息、酸素欠乏症状を呈する。 ラッシュアワーの通勤電車の比じゃない。 ただただうしろから突きとばされてあるく仕儀となる。

¶ 捨てにきた モトイ  お納めにきたダルマだから、べつに潰れても構わないはずだが、吾輩、なぜか後生大事にダルマを抱えてあるく。「達磨納め所」 の立札をみつけてそこに猛進。
道中、やはりことしのダルマも要るな、 ト おもいつく。 あたらしいダルマを購入。 衝動買い。 これでは輪廻転生 リンネ-テンショウ、来年もまたまた川越に来なくてはならなくなった。
つまり、結局のところ、タダでもらった達磨が ―― おそらく業者の狙いどおり、有料の新品に変わっていた。 <ウ~ン、ダルマ屋長期販売戦略か>。 しかも 「 達磨納め所 」 で志納金投入。交通費、食費その他を考慮するとかなりのもの。

¶ それでも餅ばかり食していたので、人混みをかきわけ、あちこちの屋台で怪しげなものをさまざま食した。 「 じゃがバター」 は旨かった。 ジャガイモを蒸かして、そこに一斗缶に入った 「 バター付け放題 」 だった。が、これはバターというよりマーガリン以下のシロモノ、黄色いなにか油の一種か。 むかしの学校給食のジャムバターをおもいだした。
さらに「たこ焼き」、「牛串 ―― 和製シシカバブー」、「お好み焼き」などを、ノー学部が得意げにつぎつぎと買ってくるママ食す。それにしても、あの人混みのなかで、よく喰いまくったなぁ。

新旧のダルマ。どちらが美男におわすか?

ダルマ納め所で、小さいながらも頑張る吾輩のダルマ。

¶ 昨年一年間、毎日にらめっこしてきた高崎ダルマとのお別れに、新旧の達磨をもって祠の裏に入りこんで記念撮影パチリ。 よくみたら高崎ダルマは小ぶりながら、彫りが深いお顔立ちで、なかなかの美男におわしました。 だから別れがたいおもいもある。
新人 ・ 川越大師のは、顔がでかく、彫りが浅い顔立ちで、なんとなくロンパリ ・ メンタマだった。 眉宇ビウ のあたりもきもち迫力に欠けるかな。 まぁこんなものかと納得。

¶  高崎ダルマをもって 「達磨納め所」 に入る。 うずたかく積まれたダルマがあった。 みんなが大願成就で両目を入れていたし、裏面には願文があった。 ほとんど無病息災、家内安全などと平凡だったが、なかに 「一攫千金 イッカク-センキン」 という、おそろしいのか、はたまた図々しいのかわからん願文を書き、両目を入れたおおきなダルマを発見。
その上にやつがれ高崎ダルマを鎮座させた。「一攫千金」 を成就したひとは、宝くじをあてたのか、泥ボーにはいったのかしらないが、メンタマも眼をむくようにでかかった。 その上に鎮座したのだからことしは凄いぞ。

¶ それにしても、この人混みの民草は、儚ハカナき願望をいだき、そのささやかな成就を謳歌しておるというのに、なぜにマス ・ メディアは、めでたい正月早早、口角泡を飛ばし、性事 モトイ 政治と金、性事 モトイ 政治不信、オザワ問題などと、十年一日、いつまでたっても (毎年 ・ 毎月 ・ 毎時) おなじことどもを、飽きもせで、たんなる繰り言をならべたて、セージの足を引っ張って得意になっておるのか。
すべてのつまらんギョー-カイ-ジンどもよ、雁首揃え 「 川越 喜多院 達磨市 」 へ詣るべし。
そしてアチチアチチの 「じ ゃがバター」 を食すれば、諸君のつまらんヒステリーや、欲求不満も解消するはずだ。 ともかくうるさいんだよ、あなたがたギョー-カイ-ジンは ネ。

宇都宮美術館外観(同館案内より)

《 あくまでも美術館にいったのだ、餃子を食しにいったのでは無いはずだ が 》
¶ 01月04 日[火 ・ 赤口・ 正 月休暇]、宇都宮美術館 「日本近代の青春 ―― 創作版画の名品」 展にいく。 ここはともかくゆったりとした時間が流れているから好きだ。 おまけに帰りがけには名物デッカイ餃子も喰えるしな。
さすがに正月、駅からの宇都宮美術館行きのバスはまったく貸し切り状態。 されど駐車場は栃木 ・ 宇都宮ナンバーの車でいっぱい。地 元客の来館者がおもいのほか多かった。

¶ 版画の印刷版と印刷方式にこだわった丁寧な解説におどろく。 ようやくここまできたか…… のおもい。 明治以降の木版画の多くは、バレン刷りではなく機械刷りであった。 印刷用の版、印刷版を理解してくれたようで欣快のおもい。 詳細省略。
「月映 ツクハエ」 にあらためて感動。 いずれ恩地孝四郎邸訪問記をアップの予定。 写真は同館案内パンフレットのもの。01点だけ、ちょいと藤森静雄を気取った、影印のある風景をパチリ。

明るい樹林に夕陽が射しこんでいた。

¶ 01月10日[月 ・ 成人の日 ・ 祝日]、正月明けから、05,06, 07日と営業したが、どこか間抜けな週であった。 バタバタしただけで、なにもまとまらずに時間だけが過ぎた。 まぁ暖機運転というところか。
01月11日[火 ・ 鏡開き]、いよいよ朗文堂も本格始動。 この週、すでにスケジュール表に余白無くビッシリ。

本日01月11日、一点の雲無き快晴。されど気温10度と寒し。
正月は終わった、燃えねばならぬ。

朗文堂-好日録005|朗文堂-好日録005|ラファエル前派からウィリアム・モリス、ジョン・ラスキン|ラファエル前派兄弟団 P R G のこと

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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★ 忙中に閑あり 美術館巡りのこと───
ひとなみに年末バタバタ騒ぎの渦中にある。そんなことを綴っても面白くもない。だから忙中に閑ありて、美術館のこと。

このごろはなかな良い美術館があちこちにできた。東京の美術館はチマチマ、コセコセ、混雑しているので、いささか敬遠気味。でかいビルのこちらのワン・フロアが美術館です、といわれても味気ない。

だから最近はチョイ遠出をして(新宿から電車一本、バス一回)、宇都宮美術館がお気に入り。
関東平野、ここにつきたか ─── といった小高い丘のうえにある。ともかく緑ゆたかな景観がよい。天井がたかくてゆったりした建物もいい。それが宇都宮美術館である。
ここは展示スペースが広く、ごちゃごちゃした美術館のように、作品がくっつきあって、たがいに視覚に干渉することがない。また、ここのカフェのランチは、地元の食材を使って新鮮で旨い。そして帰りがけに、駅前でのんびりと、名物のでっかい餃子をたらふく楽しむ。

★ 横須賀美術館にて《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》を展観する
12月18日[土]、勇気をふるって横須賀にでかけた。横須賀には30年ほど前に一度いった。やたらと制服のヘイタイさんがおおくて辟易した。それ以来である。

もともと「制服」がおおいに苦手である。制服・制帽の着用を義務づけられた高校入学式の前夜、ひたすら制帽の芯(ただのボール紙だった)を全部ぬいて、禅宗坊主のズダ袋のようにした。

なにぶん高校は、鈍くさい、田舎の元旧制中学だったから、一応(甘かったけど)制服・制帽の着用が義務づけられていた。まして、お粗末なことに、「風紀委員」などという、時代遅れ、勘違いの輩ヤカラがいて、翌朝に新入生指導と称して、肛門 モトイ 校門の前で服装チェックをしていた。
トンチンカンを相手にするのは面倒だから、鞄から苦心のズダ袋を取り出して、頭にひっかぶって、
「おはようございま~す。ご苦労さまで~す」
と通り抜けた。それでもけしからん一年生だと、すぐさま風紀委員からの呼び出し。(軟弱で硬直した風紀委員なぞは衆を頼むから)大勢に取り囲まれたが、
「わが校の校則に、質実剛健 シツジツゴウケン、和衷協同 ワチュウキョウドウ、至誠一貫 シセイイッカンとありました。質実剛健を体現するべく斯様 カヨウにいたしました。ナニカ?」
といって退かなかった。

これですっかりトンチンカンから目をつけられたが、ひとつきもたつと、たれもとがめなくなった。べつに制帽などという暑苦しいものをかぶる必要はないだろう。できるだけ自由人でありたいし、等身大でスッと立っていたいものだ。
ところで風紀紊乱 ビンラン なることばもあったな。忘れていた。
しかし、暑くも寒くもない4月、それも若いうちから帽子などをかぶっていると、将来の毛髪の消長に甚大な影響があろうというものだ。そんなものなのだ、風紀なぞとは、所詮。

いまだにこの制服嫌いは徹底している。バスやタクシーの運転者の制服くらいなら反応しないが、ホテルの黒服などには過敏に反応する。客にはくそ丁寧をよそおいつつ、慇懃かつ無礼きわまるからである。こんなのに限って、同僚のベルボーイやウェイターには居丈高であったりする。
ときとして、トンチンカンにとっての制服とは、なにか、おのれはたれかより偉いト、愚かにも勘違いさせたりする。これが階級章をつけた制服の警察官や自衛官であると、もうそれだけで吾輩のアレルギーは危険水域にはいる。それが元となって、ずいぶん埒 ラチ もない、語るに落ちる、つまらない経験をした。
それでもこのアレルギーだけは現在進行形、症状はますます重篤なのだ。

ところで横須賀。横須賀美術館《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》展覧である。
本展の図録を新宿私塾修了生Hさんが担当。ご案内もいただいていたので気になっていた。しかし制服アレルギーの発作がこわかったので、横須賀行きを逡巡していた。それでも会期終了が近づいたし、雲一点もなき快晴だし、行くか ! 
てっきり東京駅から古ぼけた横須賀線に乗って、チンタラ横須賀までいくものだとおもっていた。ところがノー学部が Website で調べた、分刻みの路線案内にしたがって、地下鉄でいく。どこかでそのまま京浜急行に乗り込んだようだが、ともかく新宿から地下鉄に乗って、乗り換え1回で京急馬堀駅に降り立つ。道中居眠りしていたせいもあってよくわからない。

ナント! 目が覚め、降り立った地下鉄 モトイ 京浜急行の馬堀海岸駅の眼前には、眩いまでの海が広がっていた。吾がふるさと信州信濃には海が無い。だから吾輩を含む信州人にとって、海は永遠の神秘(であるはず)。
まして地下鉄に乗って居眠りを続けてきたから、地底から救出された銅鉱山の鉱夫のように、この衝撃はまぶしく大きい。

バスでチョイ、横須賀美術館に着く。景観に感激。海を借景にしたというとなにか変だが、海と山にはさまれた素晴らしい眺望だった。
まずは海を堪能しながら、ギャラリー・カフェでランチをとる。プチ贅沢をゆるす。写真はまた失敗したので、同館パンフレットのものを紹介。18日[土]は一点の雲もない、あっぱれ日本晴れだったのだが。
これでデジタルカメラの操作マニュアルなどという、技術屋の記述による、無味乾燥、これがわが国語かという、妙な文章にあふれた七面倒なものをみないで、撮影技術が伴えば鬼に金棒だ!

ここのところ、ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819―1900 イギリスの芸術批評家・社会思想家)と、ラファエル前派との関連を折りに触れて調べていた。例のアーツ・クラフツ運動の理論的指導者として、この人物の存在が無視できなかった。それにしては翻訳書からの理解は歯がゆいものがあった。
だから横須賀美術館で、愛読書の『建築の七灯』『この後の者にも』の原著(ガラスケースに入っていたけど)を見たり、ラスキンの自筆のスケッチを見られたのには興奮した。
[この大聖堂のスケッチは、批評家というより、もはや素描家だな。ラスキンめ、なかなか巧いじゃないか] トおもう。

ただし、エリート画家(無謀で反抗的だったけど)が結集した、ロイヤル・アカデミー(王立美術学校)出身の、「ラファエル前派兄弟団  P R B」という若い画家集団の絵画(とりわけ第一世代、20代の作品)は、どこか意識過剰で、生硬で、消化不良をおこしているようで、少々辛かった。
また主題を構成する部分より、周辺細部の草花やら道具やらの、なにやら一見暗示的(神秘的?)な仕掛けばかりが目について、主題が散漫になっていた。
[ラスキンの奴メ、若けぇ画学生どもを、うまく煽ったな]── トおもった。

★ラファエル前派兄弟団 P R G
いまから160年ほど前のことである。1848年09月、ロンドンの片隅に6人の画家と1人の作家が集まった。年齢は18歳から20歳、意欲と能力はあったが、まだまだ未熟、発展途上の造形者であった。中心メンバーは、ジョン・エヴァレット・ミレー(1829-96)、ウィリアム・ホルマン・ハント(1827-96)、ダンテ・ガブリエル・ロセッテイ(1828-82)らであった。

かれらは当時のイギリス画壇の潮流を、大胆不敵、一刀両断のもとに斬り捨てて、「ラファエル前派兄弟団 P R B」と名乗った。その構成員はしばらくは内密にされ、作品にはただ「P R B」とだけしるされた。
[このあたり、悪戯半分で、中世アルチザンの秘密結社を真似たのかな?]
トすこしばかりおもう。

さらに大胆にも「ラファエル前派兄弟団」は、イタリア・ルネサンス期の巨匠、ラファエル(Raffaello Santi  1483-1520 ヴァチカン宮殿の壁画、サン-ピエトロ大聖堂の建築監督、ラファエロとも)をもっとも唾棄すべき存在とした。かれらはラファエルに代表される、ルネサンスよりも前の時代、すなわちそれまで暗黒の時代とされていた「中世」を賞揚すべき存在とした。
これはまた同時に、イタリア・ルネサンスを否定して、中世復古、ゴシック・リバイバルを意味することにつながった。乱暴に解釈すれば、秘技・秘術・錬金術バンザイでもあった。

そんなかれらが作品を発表すると、当然世上は辛辣な批判にあふれ、無理解のおおきな壁に突き当たった。もちろん異端は異端であるだけでは注目されない。「ラファエル前派兄弟団」にはそれだけの(批判をあびるほどの)理論構築と技倆がともなっていたということだ。
そのとき批評家ラスキンは、むしろ積極的に、この暴走族にも似た、無謀な若者のグループを支持したが、さすがにその「ラファエル前派兄弟団」の名前を「いささか滑稽な」と評した。
しかしながら19世紀の中葉、停滞した英国ヴィクトリア王朝美術の復興は、無謀で大胆な、美術学校の学生運動ともいえる、若者たちの破壊的な挑戦からはじまったことだけは特記されてよい。
─── それにしても現代の若者は「よゐこ(ぶった)」が多いとおもう。若者は生意気で、挑戦的であって良いのだ。そして老人はやかましくて、口うるさくて良いのだ。─── 話柄がそれた。戻りたい。

「ラファエル前派第二世代」とされるのが、画家のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-96)、ウィリアム・モリス(1834-96)である。このふたりはロイヤル・アカデミー(王立美術学校)の学生が中心だった第一世代とは異なり、オックスフォードのエクセター・カレッジに入学し、神学を学んだ。ふたりを結びつけたのは中世文化への傾倒だったが、その後急速にキリスト教社会主義と、ラスキンの社会思想の影響を受けるにいたった。

ジョーンズとモリスにいたって、あまりに教条主義的だった「ラファエル前派兄弟団」の写実性は、穏当なアルチザン(技芸者)とアーチスト(工芸者)のものへと変容を遂げた。かれらはまた書物と活字にも目を向けた。ここからはすでに語り尽くされているので割愛。

吾輩、すっかり若者の熱気にあおられ、久しぶりに血が熱くなった。展観を終えて、外に出ると、はや日はどっぷり暮れて満天の星。汽笛がボーッと鳴る。ほぼ桃源郷に遊ぶこころもち。
お腹がすいたので、走水神社前の和食店 ── というよりふるぼけた食堂に飛び込む。これがまた !! いいんですねぇ! ことばを失うほどのうまさ。そして安いときているから、いうことなし。

老店主は漁士で、息子夫婦が地魚の食堂を経営しているようだ。ピチピチのアジの刺身、サザエ、地タコ、ナマコを食す。いうことなし。美術と美食で満腹であるぞ。そういえば「美食同源」だったな、イヤ「画文同源、画文一致、そうか医食同源」だったかな? もはやなんでも良いぞ。旨かったから。

おお、忘れるところだった。
同館所蔵品特集《藤田 修 ── 深遠なるモノローグ》が常設展示場の一室で開催されていた。ここではじめて藤田修なる版画の異才を知った。とりわけフォトポリマー・グラヴェール技法と、レタープレス(活版)による「生まれるのに時があり」の作品に凍りつく。
「版画よ、額縁から脱出せよ!」「活版印刷よ、額縁にとりこまれるな!」── と念じている吾輩にとって、まさに欣快、ポンと膝を叩いて、やったな! の作品であった。
「やっぱりいたか。こんな造形者が、わが国にもな~」
のおもい。図録を 2 冊買って帰りの電車でみていたら、ナント! こちらの図録のデザインは、これまた新宿私塾修了生Mクンだった。みんなあちこちで大活躍しているなぁ。トいたく感激。

《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》は12月26日まで。23日(天皇誕生日)と、この週末の休みもある。その気になれば新宿から1時間半。荒らされるからあまり教えたくないが、美術館から徒歩 5 分、走水神社バス停前(行けばすぐわかるはず)には、新鮮・旨い・安い(店主夫妻は無愛想だし、チトきたないけどネ)、地魚食堂つきの旅である。図録は二点ともとてもすばらしかった。できたらこの週末、再度いきたいものである。

12月18日[土]、一点の雲無き快晴。21日[火]重い雲がのしかかる。曇天なり。日日之好日