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【朗文堂好日録】 梅雨があけた。夏が来る ー ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな : 正岡子規+ボヘミアン チャペック兄弟のことども

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DSCN9636 DSCN9632昨年の早春、ビルの保守工事で、ベランダに煉瓦をつんでつくった、手づくりの「空中花壇」が、お気に入りの「ロダンの椅子」ともどもそっくり破壊・撤去されてしまった。

ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな

― この小園は余が大地にして 草花は余が唯一の詩料となりぬ   子規庵 ―
正岡子規(俳人・歌人 1867-1902) 「小園の記」より

わがベランダにあった「空中花壇」には、「根岸 子規庵」の庭園には比べるべくもないが、それでも雑多の艸〻がそだっており、煉瓦の裏側には野バトの巣もあった。
工事がおわったあと、寒〻としたベランダになったままきょうにいたる。
5ac10d6d67e779732659874f8ba65ff4[1] DSCN7232[1]いまベランダ庭園で妍をきそっているのは、トロロアオイとハイビスカスである。どちらも大輪の花をつぎつぎと開花させ、楽しませてくれる。

ようやくちいさな鉢植えの艸花とはいえ、ベランダ庭園がよみがえりつつあるのは、トロロアオイが衰弱し、わくら葉のまま、なんとかちいさな花をつけたことによる。

トロロアオイの花にはちょっとしたおもいいれがある。
昭和10年代、中野の早稲田通りにあった、アオイ書房社主にして、伊勢辰酒店主人だった志茂太郎に関することどもである。

活字狂を自認していた志茂太郎は、中國での泥沼の戦争から太平洋戦争にむかう時局下に展開された「変体活字廃棄運動 当時の表記:變軆活字廢棄運動」に義憤を感じ、それをみずからの愛書誌『書窓』に発表した。
そのため特別高等警察(特高)によって戦争末期の1945年(昭和20)に強制疎開を命じられ、郷里岡山への帰郷を命じられた。
いまは故郷「山の城」の宏大な志茂家塋域にねむるひととなった。

このことはあらかた『活字に憑かれた男たち』(片塩二朗 朗文堂)にしるしたが、志茂家塋域をたずねたとき、なかば自生化したトロロアオイがたくさん初夏の風にゆれていた。
晩夏になると淡紅色の大輪の花をつけるのだとうかがった。

このトロロアオイの種子のもとは、2009年05月に都下あきる野市五日市町の軍道紙グンドウガミの工房からわけていただいた数株の苗にはじまった。

◯ 活版 à la carte 年越しの古株からトロロアオイの花が咲きました 2016年5月1日
◯ 活版 à la carte 一週間の中国出張。すっかりよみがえったトロロアオイが大輪の花をつけて迎えてくれた 2016年6月7日

チャペック01さきごろ『園芸家12カ月』(カレル・チャペック 小松太郎訳 中公文庫)を読んでいた。
2013年晩夏、三泊四日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいったことがある。
そのとき、画家にして装本家:兄 ヨゼフ・チャペック と、作家・戯曲家:弟 カレル・チャペック の墓をチェコプラハの市民墓地にたずねた。
カレルの墓標は、まさに現代の多段式ロケットの形態そのものであり、ヨゼフの墓はその背後にひっそりと佇んでいた。

チャペック02弟:カレル・チャペックは、第一次・第二次大戦間のチェコスロバキア(ボヘミア)でもっとも人気のあった国民的作家である。
戯曲『ロボット (R.U.R.)』において、「労働」を意味するチェコ語:robota(もともとは古代教会スラブ語での「隷属」の意)から ロボット ということばを兄と共同でつくった。また趣味をこえた愛園家を自負し『園芸家12カ月』をのこした。

カレル・チャペックは『ロボット』につづき、ロボットを火の精霊サラマンダー(山椒魚)にたとえ、より擬人化した長編小説『山椒魚物語』をのこしたが、そのなかでヒットラーとナチを諧謔をこめて痛烈に批判したため、ゲシュタポは1939年3月15日プラハを占領した際、いちはやくチャペックを逮捕するためにチャペック邸に乗り込んできた。

ところが、その前年12月25日、クリスマスの日にカレル・チャペックは死亡していた。
その死因は真冬の豪雨のなか、愛しぬいた庭園の手入れにあたり、それがもとで肺炎になったためとされている。その後におこったボヘミヤの不幸をおもうとき、『園芸家12カ月』の作者としては、ある意味本懐だったかも知れない。
それを知らず踏みこんで来たゲシュタポに、オルガは夫カレルはすでに四ヶ月前に歿したことを冷たく告げたという。、
そして造形家の兄:ヨゼフ・チャペックはゲシュタポに逮捕され、収容所に歿した。

装本家であり、造形家のヨゼフ・チャペックを中心としたおおきな展覧会がわが国でも開催されたことがある。
◯ 『チャペック兄弟とチェコ・アヴァンギャルド』(神奈川県立美術館 2002年)
◯ 『ブックデザインの源流を探して チェコにみる装丁デザイン』(印刷博物館 2003年)

作家であり弟のカレル・チャペックにとって(わが国では)不幸だったのは、「SF作家」と分類されたことだったかもしれない。
サイエンス・フィクション(英語:Science Fiction、略語:SF、Sci-fi、エスエフ)は、わが国では科学小説、空想科学小説とも訳され、科学的な空想にもとづいたフィクションの総称であるが、メディアによってはSF小説、SF漫画、SF映画、SFアニメなどとも分類されている。
そのため20世紀前半、おなじプラハ出身の フランツ・カフカ(1883-1924) の幽玄的な作品は、実存主義的見地から高い評価があるのに比べると、いくぶん軽んじられるふうがあるのは残念である。
ロボットが空想科学ではなく、いまや現実となってさまざまな分野で活躍している現在、カレル・チャペックはもっと評価されても良いのではないかとおもう。

2013年晩夏のプラハ行きはあまりにも予習不足だったし、ひさしぶりの欧州旅行への不安もあった。したがって前回のプラハ行きに物足りないところがあって、ことしのお盆の休暇に、またまた疲れにいくようなものだが、三泊四日の弾丸旅行でプラハ再訪をねらっている。
DSCN5878 DSCN6107 DSCN6105チェコプラハへの直行便はないので、ロシアのアエロ・フロートでモスクワにいき、そこでプラハ行きにトランジットした。プラハの旧市街は石畳、それもちいさな石をモザイク状に並べたものが多い。パリやウィーン経由でやってくるハイヒールの女性旅行者は、プラハではまずスニーカーの購入が必須となる。

◯ 花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ
◯ 花筏 朗文堂好日録046 - 喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-02 プラハ城付設「黄金の小径」とフランツ・カフカ

そんなこともあって、また『園芸家12カ月』をのこしたカレル・チャペックに触発されるところがあって、園芸とはいえないが、わが「空中花壇」にもすこしこころ配りをくわえている。気配りといっても水遣りを丹念にやり、10日に一度液肥をあたえるくらいのことである。
DSCN9642 DSCN9637「空中花壇」には名は忘れたが香草もいくつか植えられている。花は可憐でよい。
近所の花屋で160円で購入したミニトマトの苗も、ことしは順調に生長し、実をつけた。
ここで困るのがノー学部。気まぐれで花壇にやってきて、ハイビスカスはこの花壇にふさわしくないと文句をいう、(やつがれも内心では失敗とおもうが)抗弁する。
「そんなことはない。花が咲けばスミレでもタンポポでもオレは好きだ」
ノー学部はそれにかまわず、唯一の農具:小型のハサミで香草をチョキチョキやる。ミニトマトもしっかり収穫してしまう。
昨夜、投票終了直後、八時の時報とともに結果が判明した都知事選の開票速報を、幾分しらけた気分でみながらそれを食した。
ミニトマトはとびっきり旨かった。

【東京国立博物館】 特別展「古代ギリシャ―時空を超えた旅―」

20160719211830_00001 20160719211830_00002東京国立博物館 特別展「古代ギリシャ―時空を超えた旅―」
平成館 特別展示室   2016年6月21日[火] - 2016年9月19日[月]

ギリシャの彫刻、フレスコ画、金属製品などを展示します。新石器時代からヘレニズム時代までの各時代、キュクラデス諸島、クレタ島ほかエーゲ海の島々や、ア テネ、スパルタ、マケドニアなど、ギリシャ各地に花開いた美術を訪ねる旅に出発しましょう。
ギリシャ本国の作品のみによるものとしては、かつてない大規模なギリシャ美術展です。

【 詳細 : 東京国立博物館 特別展
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{ 新 宿 餘 談 }
DSCN9524 DSCN9546 DSCN9537もう蟬がないていた。 むしあつい夏の日の午後だった。
「エジプト展」とならんで、「ギリシャ展」はいつも混雑がひどい。7月17日[日]もそうだった。
人にアタル(人混み中毒症)のやつがれ、予習をだいぶしてきたので、平成館のせっかくのひろい展示場を、くねくねと細い通路でしきった、冷房の効きののわるい展示会場をかけ足でみてあるいた。
なにしろ本展は九割以上が日本初公開で、全325点の展示がなされている。やつがれの画像許容量をはるかに超える作品群だった。

人混みを避けて前庭に出る。ことしの東京は水飢饉が心配されるほど雨がすくなかったが、国立博物館(トーハク)の樹木と艸花は庭士がかわったのかとおもわせるほど元気だった。芝生では雀がむれていたし、蟻もさかんに活躍していた。
正面プラザからはいって、正面の「本館 日本ギャラリー」の前のユリノキ( 百合の木、学名 :  Liriodendron tulipifera は、袢纏にも似た葉をいっぱいにつけて元気だった。

ユリノキ 北アメリカ中部原産  
日本へは明治時代初期に渡来した。東京国立博物館本館前庭の巨木に添えられた銘板に、次のように記されている。
明治8、9年頃渡来した30粒の種から育った一本の苗木から、明治14年に現在地に植えられたといわれ、以来博物館の歴史を見守り続けている。
そのため東京国立博物館は「ユリノキの博物館」「ユリノキの館」などといわれる。

DSCN9536 DSCN9546 DSCN9548 DSCN9552 DSCN9559平成館の前庭には「芙蓉」らしき艸が、深紅の大輪の花をつけていた。
アレレッとおどろいた。いままで見逃していたのかも知れないが、庭のそこ此処に「龍爪槐 リュウソウ-エンジュ しだれえんじゅ」(画像集)がこんもりと繁っていた。

この低灌木は、冬になって剪定されると形相をかえて、鋭い龍の爪のように変貌する。このことは、<花筏 聚珍倣宋版と倣宋体-04 宋朝体活字の源流:四川宋朝体龍爪 と 龍爪槐をめぐって>で紹介した。
龍爪パッケまたことしの五月末にでかけた北京清華大学の指定ホテル「甲所」の前にも、生け垣のようにして龍爪槐がたくさんあった。

DSCN7899DSCN8137陽ざしはつよかったが、こうして平成館の前庭をぐるぐるまわり、喫煙所で一服をかさねた。
一時間余ののち、鑑賞をつづけていたつれあいが図録を重そうにかかえてはしりでてきた。
どういうわけか、「エジプト展」とならんで「ギリシャ展」はいつも混雑がひどい。
家に帰って図録鑑賞をゆっくり楽しもうとこころにきめた。

【朗報】 4月22日[金]-5月24日[火] 東京都立美術館に40万の観覧者をあつめた『若冲 Jakuchu 展』図録が特別追加販売

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伊藤若冲(1716-1800)は、18世紀の京都で活躍したことで知られる画家です。
繊細な描写技法によって動植物を美しく鮮やかに描く一方、即興的な筆遣いとユーモラスな表現による水墨画を数多く手掛けるなど、85歳で没するまで精力的に制作を続けました。

本展では、若冲の生誕300年を記念して初期から晩年までの代表作89点を紹介します。
若冲が京都・相国寺に寄進した「釈迦三尊像」3幅と、「動植綵絵」30幅が東京で一堂に会すのは初めてです。
近年多くの人に愛され、日本美術の中でもきら星のごとく輝きを増す若冲の生涯と画業に迫ります。
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『生誕300年記念 若冲展』日本経済新聞社 展覧会図録(代引き発送)
◎ 展覧会会期 : 東京都美術館 2016年4月22日(金)-5月24日(火)
◎ 図録仕様 : サイズ  A4 判変形、(約)縦29.7×横22.5×厚さ2.3cm、 327頁
◎ 価   格 : 3,900円(消費税 8%込)
【 詳細 : 日経アート社

★        ★        ★        ★

{新宿餘談}
この『若冲展』のことは、本欄でも二度にわたって紹介した。
会期二日目にいったが、すでに相当の混雑で、図録を購入するのにも長蛇の列だった。
本項末尾には<見逃すなかれ 若冲展>と強調しておいた。

20160424142155830_000420160424142155830_0005生誕三百年記念 若冲 じゃくちゅう 展
04月22日― 05月24日
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伊藤若冲(1716―1800)の生誕三百年を記念して、初期から晩年までの代表作を紹介します。
若冲が京都・相国寺に寄進した「釈迦三尊像」三幅と「動植綵絵」三〇幅(宮内庁三の丸尚蔵館)が東京で一堂に会すのは初めてです。
近年多くの人々に愛され、日本美術の中でもきら星のごとく輝きを増す若冲の生涯と画業に迫ります。
東京都美術館展覧会
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{新宿餘談}
若冲が気になって、「若冲展」二日目、23日[土]に東美(東京都美術館)にでかけた。
できたらとなりの国博(東京国立博物館)の「黒田清輝展」もいっしょに見ようと、はやめに上野公園に向かった。
曇天だった。国博の入場口は閑散としていた。言問通りでタクシーを捨てた。
東美の裏側から回りこんでいったら、入場券売り場から長蛇の列だった。会場内はギッシリ満員。ひとにアタル(中毒)やつがれ、入場前からすでに疲労困憊。

若冲の絵画には息をのんだ。すごかった。
したがって画像記憶許容量をたちまちこえて、脚がなんどもすくんだ。
気がついたら階上のレストランにいて、デザートに旨いティラミスを摂っていた。国博行きはこの瞬間にあきらめた。
見のがす無かれ、若冲展。

──────────   <5月24日掲載分>

「長崎松の森なる千秋亭にて いと厳粛に …… 」と綴った〝ふうけもん〟福地櫻痴。大石は長崎のパワースポットと評す

「長崎松ノ森ナル千秋亭ニテ」(千秋亭は1889・明治22年、総理大臣伊藤博文の命名により富貴楼と改名)ときいて、ハッと反応するような奇妙人を、長崎では〝ふうけもん〟という。
松の森には放し飼いの「若冲 じゃくちゅう」 が数羽いた。おおむねひとになついていたが、一羽挑みかかる鶏がいた。その不届きもんの鶏を「若冲一」と名づけ、以下五羽の鶏と、モソモソとあるく烏骨鶏ウコッケイとしばし戯れた。

東京都美術館の若冲展 は好評だったがきょう(05月24日)で終わり。
会期二日目(4月23日)に参観して息を呑んだやつがれ、「見逃す無かれ 若冲展」として本コーナーでも紹介した。会期後半の週末などは入場に五時間待ちという混雑だったときいた。巡回展が期待されるところである。
そして「長崎松の森なる千秋亭」への再訪の機会をうかがうやつがれがここにいる。
長崎タイトルresize20160424142155830_0005DSCN7620 DSCN7623 DSCN7738 DSCN7728

北方謙三<大水滸伝>全51巻完結! 伝説も去りて、残るは物語のみ。君に語れ、漢オトコらの物語。

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20160607224214284_00012016年05月16日、『 岳飛伝 17 星斗の章 』の公刊をもって、ついに北方謙三 「 大水滸伝 」 全51巻が完結した。 十余年におよぶながいつき合いだった。 『 水滸伝 』(全19巻)、『 楊令伝 』(全15巻)、『 岳飛伝 』(全17巻)である。
集英社の特設WebSite <大水滸伝> などは、この終巻をもって、嬉しいのか、哀しいのか、さびしいのか知らないが、阿鼻叫喚、まるでお祭り騒ぎである。

北方謙三の < 大水滸伝 > は、まず『小説すばる』に連載され、連載中に並行して四六判書籍が発行され、書籍刊行終了後に文庫版が順次発売されていた。
したがって北方謙三は版ちがいのたびに文章に手をいれており、将来全集でも刊行されるなら、文庫版に記載されたものを定稿としてほしいとしばしばつづっている。

やつがれはといえば、ゴチャゴチャとした雑炊のような文芸雑誌は苦手なので、『 小説すばる 』 はときおり立ち読みし、四六判書籍、文庫版ともに刊行直後に購入してきた。愛読書ではあるが愛書家ではないので、あちらの本棚、こちらの片隅と、未整理なまま山積みになっている。
この作家は、冗長と過剰をきらうので、四六判書籍のときすこしテンポが遅いな、とおもわれた箇所などが、文庫版となるとバッサリ切りすてられていることに驚いたこともあった。

司馬遼太郎(1923-96)が卒したころ、北方謙三は 『 楊家将 』 の連載中だったとおもう。
ほんとうに偶然だった。 所在のないままなんとなく書棚から、ハードボイルド作家だとおもっていたこのひとの作品 『 楊家将 』 を取りだしたのがはじまりだった。ともかくダイナミックな中國歴史演義であり、登場人物のあしらいが鮮明で、読みやすかった。
のちに 『 楊家将 』 は吉川英治賞を受賞しているが、まさかそれから10年余におよぶ 『 水滸伝 』 『 楊令伝 』 『 岳飛伝 』 の <大水滸伝> シリーズにつらなり、ずっと付きあうことになるとはおもってもいなかった。

歴史を作るのは英雄だけじゃない。
歴史に名を残した武人から、人知れず消えていった民草まで。
ここにあるのは「人間」の物語だ。
駈けよ。──── 夢追いし者、永久に。
生きる。──── 去りし者のぶんまで。  [集英社WebSiteより]

ともあれ、これから 『 岳飛伝 』 文庫版の刊行がはじまるとおもうが、やつがれとほぼ同世代の北方謙三は <大水滸伝> 51巻を完結した。 この間やつがれはなにをなし得たかというと忸怩たるものがある。
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そこで、『 岳飛伝 』 の主要な舞台のひとつ、岳飛の墓所がある杭州 (Hangzhou) を紹介しよう [撮影 : 2011年09月]。
岳飛は北宋を滅亡させた女真族金国(満州族王朝 前金)に抵抗して軍閥をなし、「 盡(尽)忠報国 」 の四文字を背に刻んで 「 抗金 」 をさけんでいたとされる。
その墓は杭州西湖のほとり、岳飛廟に息子の岳雲の墳丘とならんである。夜になると岳飛廟のすぐ近くの湖畔で 「 水上ショー 」 が開催され、内外の観光客であふれる。

この街ではかつて、あまたの南宋刊本が刊行され、小説とはことなるが岳飛が刑死した。
やがて南宋も金国もたおれたのち、元(蒙古族王朝 1271ー1368)の時代にやってきたマルコ ・ ポーロが、「 世界でもっとも美しいまち 」 と評した西湖のほとりに、南宋の宮殿跡も、「岳飛廟」もある。

“ Hangzhou, The mosut beatiful and splendid city in the world. ”    Marco polo

その西湖には、白楽天の築造とされる 「 白堤 」 があり、わずかな期間の中華民国時代、そのなかの小丘で、丁 補之・丁 善之兄弟によって、近代宋朝体活字(中国では倣宋体とする)が誕生したことは意外に知られていない。

それを追ってやつがれがはじめて杭州の地をおとづれたのは、もうかれこれ35年余も前のことになる。
その紹介の役割は、できたら辞退したいところであるが、たれも名乗りをあげないまま20余年が経過した。
それよりなにより、これからたれの小説を読めばいいのかというのが喫緊の課題である。

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北京清華大学美術学院からの招聘で昨週いっぱい特別講義。無事に帰国いたしました

DSCN8230DSCN8234DSCN8173ここしばらく中國(中国)とのやりとりや往復がふえている。
2016年三月下旬に 方正字庫 (FOUNDER 方正 北京大学全額出資のIT企業)と、中國美術大学の最高峰のひとつとされる 中央美術学院 の招聘で一週間の北京滞在となった。
前半の3日間は、北京大学キャンパス内、方正字庫の主催で<字体大赛 ≒ 書体大会>の国際審査員としての参加。

後半の1日は、天安門の間近にある巨大な 中國國家大劇院 に会場を移し、前日までの<字体大赛の審査結果>が、信じがたいほどのはやさながら、発表され、展示され、受賞者の表彰式があり、審査員講演がなされと、なんともあわただしく、おおがかりなイベントが続いた。
講演の一番手はやつがれ。いい訳はしたくないが諸諸あって講演は失敗だったとおもう。

最終日は大石が担当。中央美術学院の大ホールで<小型活版印刷機による印刷演習>。
ここでも 字体大赛 の審査員四名の講演もあったが、最終講演となった大石担当分は、おおきな会場に、あまりにちんまりとした小型活版印刷機での講演とエクササイズであった。
この日の大石は五時間余におよぶ講演会の最終担当とあって、企業人はさすがに退席が目立ったが、学生諸君は、もっともわかりやすく、関心があったようで過熱気味であった。

なにしろ中國は国家体勢がいくぶん異なるので、北京大学(北大と略称)、中央美術学院、方正字庫との関連性や、書体コンクールの意味性が判然としなかった。
もちろん会場の知人にこの関連性を質問したが、「これが中國です」とかわされてしまった。
また一週間というもの、連日連夜の懇親会(大宴会)がつづき、下戸のやつがれにはかなりこたえた。
この三月下旬の喧噪にみちた訪中報告は、気持ちと情報の整理がつかないまま、いまなお実現していない。
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五月上旬は<Viva la 活版 ばってん 長崎>で長崎に全力投球であった。
そして五月下旬、清華大学美術学院の招聘で、また北京行きとなった。
もともと、この
の招聘は本コーナーでもお馴染みの、清華大学美術学院視覚伝達系の原 博(Yuan Bo)助教授のお招きで、昨年の暮れにはスケジュールが決定していた。
したがって北京大学系のイベントへの突然の招聘は、多分に清華大学行きを聞きつけての決定ともおもわれた。

ともあれ北京大学系のときは、連日連夜の宴会でとても疲労した。
ところが清華大学は原博先生はもちろん、主任教授の趙 健教授とも親しかったので、意志の疎通はスムーズで、夜は到着初日の歓迎会以外はほおっておいてくれるので助かった。

月・火・水と講義がつづいた。どこで聞きつけるのか知らないが、学内正規授業に位置づけられているのに、清華大学の学生だけでなく、中央美術学院、印刷大学ほかの大学の教授、学生、IT 系企業人も講義に参加していた。
三日間とも受講者は50-60名。集合写真を呼びかけ 「日本の WebSite にアップしますよ~」 といったら、女子学生を中心にキャッキャと逃げていった。いずこもおなじ学生諸君であった。 DSCN8089ホテルは同大内・指定の「甲所」。ここは広大なキャンパスの中央部に位置し、おもに招聘教師たちが宿泊する森の中の簡素なホテル。
留学生など短期滞在の学生は真向かいにある「丙所」を利用するようだが、カフェ兼レストランは教師陣と学生との共有で「甲所」にあるので、活気と国際色に満ちており、また中國の大学では卒業式を間近にひかえており、にぎやかだった。

わたしたちももっぱらこの「甲所餐庁 甲所レストラン」で朝食をとり、お茶・食事・懇談などをかわした。つまりキャンパスからほとんど出なかったが、ともかく無事終了でひと安心。 DSCN8137 DSCN8118 DSCN8152 DSCN8165 DSCN8056上掲写真の白い彫刻は原 博(Yuan Bo)先生のご主人にして、同校教授の陳 輝(Chen Hui)先生の作品。その後方に美術学院棟が四棟ならんでいる。キャンパス案内では、指定ホテル「甲所」からはここまで徒歩25分だが、やつがれには無限に遠い場所だった。

講義には方正字庫のスタッフも3名ほど参加していた。かれらは朗文堂のWebSiteをみているようで、なぜ報告記事が掲載されないのかとただされた。つまりすごいことだと報告しろと迫られた。ところがやつがれは実感無し。方正字庫のときも、清華大学のときも、いつもと、つまり新宿私塾と同じですから。 DSC04193しばらくしたら、原博先生から当日の写真データーを受領・紹介しますが、それまでのあいだ、下掲の記事は、前回も、今回も、連日参加されていた、中央美術学院の刘 釗(Liu Zhao 上掲写真右端)教授のブログサイトをご紹介。
刘女史は大石の講座を間近にみるのははじめてとあって、活版エクササイズには夢中でとり組まれていたので、その紹介は遅れ気味らしい。
刘女史のおはなしでは、このサイトには一日5,000件以上のヒットがあるそうです。
よろしければご笑覧を。結構笑えますよ。中国までいって恥をかくなよ ト。
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◯05月29日[日] 羽田発、北京入り。
◯05月30日[月] 北京清華大学美術学院 第一講座
学科長:趙 健先生挨拶、片塩講義大石担当でエクササイズ
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi4u.html
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi6f.html
◯05月31日[火] 北京清華大学美術学院 第二講座
原 博(Yuan Bo)先生挨拶 終日大石担当日 活版演習
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi6m.html
◯06月01日[水] 北京清華大学美術学院 第三講座
原 博(Gen Bo)先生挨拶、 片塩講義、大石担当でエクササイズ
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wil7.htm

長崎報告とあわせ、北京報告もお楽しみに。   朗文堂  片塩二朗  大石 薫