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朗文堂-好日録030 漱石公園-夏目漱石終焉の地 漱石山房と、イオキ洋紙店



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《夏目漱石 と 方丈記》
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例タメシなし。
世の中にある、人と栖スミカと、またかくのごとし。
                 『方丈記』(鴨  長明、1212年[建暦24]作、1155-1216)

昭和は、もう遠くなったのかも知れない……。
上掲写真はイオキ洋紙店(162-0805 東京都新宿区弁天町111に2011年まで旧在)の、ありし日の姿である。

初代・伊尾喜イオキ氏(名前を失念/のちほど調査記入予定)は、用紙販売業界の大手「大文字洋紙店」から、戦後すぐに暖簾わけのかたちで独立開業して、市谷・榎町・早稲田・江戸川橋など、近在一帯の印刷・出版業者からの信頼をあつめた。
小社は初代・伊尾喜さんの時代から「二十日会ハツカカイ――大正製薬・中外製薬などの紙器印刷会社・西武堂主催の無尽講だった」の会員として親しくおつき合いし、二代・伊尾喜章社長(70歳で退任したが、ふるい顧客は終始アキラさんと呼んだ)とも親しくおつき合いしてきた。小社の印刷用紙も、ながらくこのイオキ洋紙店から購入していた。

印刷とその関連業界とはふしぎな業界で、ふるい体制がそのままのこっている。
とりわけ印刷用紙の製造販売は、明治初期の「洋紙製造」が「国策(国営)」からはじまったという歴史があり、どことなく硬直した上意下達のおもむきがあり、つい最近まで「山陽国策パルプ」などの社名までがのこっていた。
イオキ洋紙店は、出身の「大文字洋紙店」にならって「洋紙」を社名にもちいていた。すなわち「イオキ洋紙店は、印刷・出版用紙を販売していた」ことになるが、ここでの「洋紙と用紙」のつかいわけは厄介であり、しばしば混同・誤用されている。

流通販売経路も古色蒼然としたもので、製造会社 → 代理店 → 府県商フケンショウ → 紙販売店の流通経路は、流通革命といわれた時代を経て、ネット通販全盛のいまなお盤石のようにみえる。
「府県商 フケンショウ」の名は、かつて印刷用紙販売が「統制下」にあり、(都道)府県知事の許認可を必要としたためで、その認可をうけている用紙販売業者を業界用語で「府県商」と呼んだ。
「イオキ洋紙店」も府県商であった。

画材店や文具店などの、少量の用紙を扱う業者は、ふつう「紙販売店」とされる。「紙販売店」は、容易には府県商を飛びこえて、代理店やメーカーから直接に仕入れることはできない仕組(商慣習?)になっている。
これは出版社や印刷会社のほとんども同様で、府県商を飛びこえて、代理店やメーカーとは容易に取引ができない仕組み(商慣習?)がある。
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インキにも似たような例がみられる。すなわち「印刷用インキ」は、いまもって、かたくなまでに「印刷用インク」とはいわない !? 
近代活版印刷 ≒ タイポグラフィは、鎖国下にあった江戸期に、オランダから開港地の長崎に、ほそぼそともたらされた。オランダ語では「Inkt  インキ」、英語では「Ink  インク」とされる。

近代医学もほぼ同様に、シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 鎖国下で出身を隠していたが正確にはドイツ人、1796-1866)や、ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)らによってもたらされ、蘭法医学と呼ばれてひろまった。

蘭法医は奇妙な金属製の器具をもちいて、それを消毒と称して熱湯のなかで煮沸シャフツした。それは V 字の形状で、バネ(発条)をそなえていて、「Pincet  ピンセット」というものだと教えられた。
活版印刷でも、活字版組版の結束や、活字の差しかえに際して、やはりピンセットをもちいた。
そのためにピンセットは、長崎の医術用や活版用からはじまり、やがて長崎をでて、各種の小細工にももちいられるようになったが、それでも「ピンセット」と呼ばれてきた。
のちに英語の「Tweezer トゥイーザー」も知ったが、すっかり人口に膾炙カイシャした「ピンセット」の名称は不動にみえる。

ところで「Inkt  インキ」である。「印刷用インキ」業界には「府県商」こそ存在しないが、こちらも印刷用紙と同様に、製造会社 → 代理店 → インキ販売店の流通販売経路が厳然として存在する。
1970年代からつづく活版印刷業務の衰退にともなって、活版印刷用インキの販売にあたっていた「活版印刷資材販売業」は、ほぼすべての企業が「オフセット平版印刷資材販売業」などに転廃業をしている。
それでもまだまだ印刷業界では「インクよりインキ」が優勢であるが、「インクジェット」などのあたらしい機器が登場するにおよび、次第に頑固頑迷な業界でも「インキ → インク」への転換もみられる昨今である。

「活版ルネサンス」を標榜し、あたらしい活版造形者とともに活版印刷を継承していこうとする朗文堂 アダナプレス倶楽部にとって、この「活版用インキ」の確保が困難な状況になりつつある。
すなわち大手のインキ製造会社は、統廃合を繰りかえし、採算性が悪化した「活版用インキ」の製造を廃色・中断・終了にすることが多い。
それも唐突に一枚のファクシミリ(@メールにあらず)が届いて、
「店頭在庫をもって、製造・販売を終了します」
という「通告」型が多いのが悩みの種である。この時点ではすでに製造は終了し、倉庫はおろか、流通在庫などもほとんど無い状態になっている。
そのために「活版用インキ製造の継続」をメーカーと粘りつよく交渉しているが、いくら親しくなっても、大手のメーカーからの直接仕入れはできない慣習があるらしい。

最近は、活版印刷関連機器はもとより、活版印刷用インキに関しても、外国からの問い合わせ、注文が多い。いずれの国でも、あたらしい活版造形者の増加とともに、中古機市場は部品供給などに難があるために縮小している。
また印刷インキにも、かつての活版印刷業者では考えられなかったような、特殊な色彩展開を計るかたも増えている。そのご熱意はわかるものの、その「高度なご要求」の問い合わせには、上述の理由もあって、なかなか対応が困難なばあいが多い。
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《45年ちかくにおよんだ牛込柳町公害問題の解消》
もうかれこれ45年になることにおどろく……。「牛込柳町鉛公害」と、「光化学スモッグ」がおおきな話題となった。
東京の自動車保有台数が200万台を突破したのが1969年(昭和44)であった。翌1970年4月、新宿区牛込柳町で、当時はハイオクタン・ガソリンなどに含有率の高かった、鉛を含んだ自動車の排気ガスによって鉛公害が問題となり、同7月には、環状七号線に沿った杉並区を中心に、広い地域で光化学スモッグが発生した。

ときの東京都知事は美濃部亮吉氏だったと記憶している。環境問題、とりわけ大気汚染がおおきな話題となりはじめたひとつのきっかけでもあった。
ところが「光化学スモッグ」はまだ記憶にあたらしいが、「牛込柳町鉛公害」は、対象地域が狭いせいもあって、おおかたからは忘れられているようだ。なにせ45年も前のことであるから、ネット上の若者などは、おおきな話題となったことも知らない時代となっている……。

しかし「牛込柳町鉛公害」をうけて、東京都からはさっそくさまざまな対策が打ちだされた。まずガソリンの品質が問題となり、無鉛ガソリンが普及した。
牛込柳町交差点は、外苑東通りと大久保通りが交差しているが、どちらも交通量が多く、しかも地形がすり鉢状になっていて、風の吹きぬけがわるいために、排気ガスが滞留しているとされて、大久保通りでの停止線が、坂の上の、交差点からは遠くに引かれて奇妙な景観を呈した

いっぽう外苑東通りは道路幅の拡張がはかられた。外苑東通りは、信濃町から四谷三丁目を経由して、靖国通りとの立体交差の曙橋をすぎ、市谷中之町までは片側二車線で、歩道もゆったりとられている。
すぐに市谷中之町の交差点に達する。ここを左折すると女子医大方面に、右折すると大日本印刷の本社や市谷工場がひろがる。
この市谷中之町交差点から牛込弁天町交差点までのあいだ、およそ1キロほどの外苑東通りが、突然片側一車線になり、歩道もせまく、しかも繁華な商店街がつづいているために、駐停車お車もあって渋滞が激しかった。

この箇所の拡幅工事は、個人経営の商店が多かったためもあって、立ち退きが難航し、1970年代の初頭から、断続的に40年ほどのちのいまもつづいている。それでも完成はいつになるのかわからない状態である。
イオキ洋紙店はこの外苑東通りに面しており、この拡幅工事の影響をもろにうけた。すなわち倉庫のほとんどと、本社ビルの大半が立ちのきを終始迫られることになり、ついに2011年をもって、暖簾と社員と顧客を親族企業に譲渡し、70年ちかくにわたった「イオキ洋紙店」の看板をおろした。
さきに紹介した『方丈記』は以下のようにつづく。

玉敷タマシキの都のうちに、棟を並べ、甍イラカを争へる、高き、賤しき、人の住まひは
世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
或いは去年コゾ焼けて、今年造れり。或いは大家オオイエ亡びて、小家コイエとなる。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は
二、三十人が中ウチに、わづかに一人二人なり。
朝アシタに死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。
                 『方丈記』(鴨  長明、1212年[建暦24]作、1155-1216)

《夏目漱石と愛猫家 漱石終焉の地》
世の中には、愛猫家 アイビョウカ と愛犬家がいる。やつがれはなまくらで、猫も犬も好きであるから、ながらく犬と猫をいっしょに飼っていた。
ところが風邪が引き金でひどい喘息になって、呼吸困難に。ついには入院騒ぎとなって、医者に犬猫などのペットの飼育を固く禁じられた。犬猫のフケ、抜け毛、寄生しているダニの死骸などが呼吸器官にはいって、喘息を引きおこすのだそうである。

そんなわけで、いまは犬猫の飼育をあきらめている。その分、愛猫家と愛犬家を冷静にながめることができるようになった。
愛猫家は、ともかく感情の起伏が激しく、猫と同様に、ときおり爪を立て、引っ掻いたり、噛みついたりするから厄介だ。愛猫家を、ゆめ、こころやさしきひとなぞとおもわぬほうがよい !?

やつがれの娘は極端な愛猫家である。それがどうしてか猫どもにはわかるらしい。娘時代には、ちかくの遊歩道で、
「おいで」
と、ひとこえかけると、どこにいたのか野良猫が四五匹でてきて、ゾロゾロと娘のあとをついて歩くのは不気味でさえあった。やつがれがいくら呼んでもノラどもはわいてもこないが……。
いまは結婚して杉並区のマンション11階が住まいであるが、ベランダ一面にネットを張って、猫(いずれも捨て猫・ノラ猫だった)を三匹ほど飼っている。当然猫と同様に感情の起伏が激しく、ときおり爪を立て、引っ掻いたり、噛みついたりするから極めつきに厄介だ。

いっぽう愛犬家は……。これはやめておこう。愛犬家が気がついていないことだから。

かつて、外苑東通りの弁天町にイオキ洋紙店があったころ、その倉庫裏からでると、すぐのところが「新宿区立 漱石公園――夏目漱石終焉の地、漱石山房」だった。漱石も愛猫家であったようである。

夏目漱石の小説が好きだったころがある。
最初のころは『吾輩は猫である』『倫敦塔』『坊つちやん』など、初期の時代の作品が好きだった。
次第に年を重ね、漱石が逝去した数えの50歳(漱石は満49歳10ヶ月で卒した)を越えるころになると、漱石後期三部作とされる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』などを好んで手にした。


 

 
 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5)12月9日は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助(きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。

なにしろここは、イオキ洋紙店のすぐ裏手で、倉庫の裏からでるとすぐそこだったので、商用がおわるとしばしばここをたずねた。あかるくて、なんにもなくて、よいところである。
漱石の生誕の地も、ここからあるいて10分とかからない。
漱石は英国に留学したり、松山の英語教師になったりしているので、英語通で旅好きなのかとおもっていたら、どこにいっても、すぐさまこの牛込界隈に、まるで家に駆けこむ猫のように立ち戻っていた。それはまるで「猫はひとではなく、家につく」といわれるようなもので、そしてここに歿した。

この近くには佐々木活字店もある。活字店訪問のおり、久しぶりにここをたずね、すっかり更地になって、はやくも夏の野艸が生い茂っているイオキ洋紙店の跡と、漱石公園・漱石山房をたずねた。そしてフト『方丈記』の一節がおもいうかんだ次第である。
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行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例タメシなし。
世の中にある、人と栖スミカと、またかくのごとし。
玉敷タマシキの都のうちに、棟を並べ、甍イラカを争へる、高き、賤しき、人の住まひは
世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
或いは去年コゾ焼けて、今年造れり。或いは大家オオイエ亡びて、小家コイエとなる。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は
二、三十人が中ウチに、わづかに一人二人なり。
朝アシタに死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。
                 『方丈記』(鴨 長明、1212年[建暦24]作、1155-1216)

朗文堂好日録ー029 宮澤賢治とピンセット

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、
日日のよしなしごとを綴りたてまつらん
本稿は「あの日、2011年03月11日」から間もなく
2011年04月28日掲載文の修整一部再録です
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文豪/宮澤賢治大先生へ
たかが……、されど、貴重なピンセット
かなり苦労しております。

 《苦労しています! 活版用ピンセット》
¶ 活版印刷材料商がほぼ全面的に転廃業をみた現在、「活版用ピンセット Tweezer  Pincet」はとても入手に困難な器具のひとつである。

『VIVA!! 活版♥』(アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年05月11日、以下写真同じ)

みた目は医療用やデザインにもちいるピンセットと類似しているが、これはバネの弾力が強く、先端内側の刻みが深くて、生まれも育ちも「活版用ピンセット」である。
アダナ・プレス倶楽部の発足当時に「活版用ピンセット」の流通在庫を探したが、いくら探してもどこにもなく、新規製造を交渉したら、500―1,000本が最低製造ロットだとされて困惑した。

すべての製造業界が一括大量生産型に変貌した現代工業では、少少割高でも少量製造に応じてくれる業者を探すのはとても困難になっている。これは「活版印刷ルネサンス」を標榜しているアダナプレス倶楽部にとっては、いつも悩みの種である。
ようやく探しあてた金属加工商に相当数の在庫があったが、宅配便の手配などをいやがる高齢の経営者だったので、現金を持って訪問しては購入していた。ところがある日、
「あの活版用ピンセットが全部売れちゃってね、悪いけどもう在庫はないよ」
との架電があった。あまりに唐突だったので唖然とした。

¶ 園芸用ピンセットに変貌した活版用ピンセット
しばらくして、最低でも50本ほどはあった「活版用ピンセットを買い占めた」のは、大手の園芸業者であり、芝生などに生える野草(雑草)を引き抜くのにピッタリだとして、全量を購入したことがわかった。
折りしもサッカー・ブームである。あの巨大なピッチの芝に紛れこむ野草とは、相当しっかりした根をはるらしい。それを始末するのに「活版ピンセット」は十分な強度と耐久性を持っていた。
朗報もあった。園芸業者の購入意欲は強く、相当数の「園芸用ピンセット=活版用ピンセット」を新規製造することになったのだ。もちろん仕様は「活版用ピンセット」と同一である。ヤレヤレと胸をなでおろした。

¶ 文豪・宮澤賢治先生に苦情をいうわけではないが……。
活版印刷とピンセットというと、活版の非実践者は「活字を拾う――文選作業」に用いるものだと誤解している向きが多い。ところが和文・欧文を問わず、意外に軟らかな活字を拾う(採字)ためにはピンセットはまったく使わない。
Websiteでも《活版印刷今昔01》 http://blue.ap.teacup.com/masamichi/472.html の執筆者は、文選作業でピンセットを使用している写真画像に相当お怒りのご様子である。

すなわち活版印刷にはピンセットは必需品だが、その用途は、活字組版の結束時や、校正時の活字類の差し替え作業にもちいることにほぼ限定される。
この活字文選とピンセットの相関関係の誤解は、意外に読者層に多い。その原因はどうやら宮澤賢治の童話『銀河鉄道の夜』に発するようである。

¶ 宮澤賢治(1896-1933)は、岩手県花巻市生まれ、盛岡高等農業学校卒。早くから法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身した。詩『春と修羅シュラ』『雨ニモマケズ』、童話『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などがある。
ここで『新編銀河鉄道の夜』(宮澤賢治 新潮社 平成元年6月15日)を引きたい。ご存知のように宮澤賢治作品のほとんどは、30代の若さで逝去したため、生前には未発表の未定稿であり、数年あるいは十数年にわたって宮澤賢治の手もとに留めおかれ、しかも数次におよぶ宮澤賢治自身による推敲スイコウ・改稿・改作を経ている。

没年の翌年からはじまった刊行作業のために、編集者はたいへんな苦労をしながら校訂をしてきた。以下に紹介する『銀河鉄道の夜』は、『新修宮澤賢治全集』(筑摩書房 1972-77)を底本としており、多くの流布本や文庫本とくらべると、比較的未定稿の原姿を留めた書物といえる(天沢退二郎氏評)。
この「活版所」『銀河鉄道の夜』に問題の記述がある(改行段落を一行アキとし、適宜ふり仮名を付した。アンダーラインは筆者による)。

活 版 所

ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜 カラスウリ を取りに行く相談らしかったのです。

けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度をしているのでした。

家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中はまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。

ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込む小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。

ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。

六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。

ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。

 ¶  『銀河鉄道の夜』は、孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語で、宮沢賢治童話の代表作のひとつとされている。
ところが宮澤賢治の生前(1896年08月27日-1933年09月21日、満37歳で歿)とは、ほど無名にちかい存在だったといえて、ほかの多くの宮澤賢治の著作と同様に、その生前に書物として刊行されることはなかった。
それが逝去ののちに、草野心平らの尽力で、その多くの未刊作品群の存在が知られ、世評もたかまって書物として刊行されたものがほとんどである。『銀河鉄道の夜』もそんな作品のひとつである。

¶ すなわち、『銀河鉄道の夜』は宮澤賢治の生前には刊行されず、事前の校閲や著者との合議がなかったから、没後に発表された刊行書の随所に、ことばの不統一がみられる。
まず、章題の「活版所」は、本文中では「活版処」とされている。
明治の大文豪が「吾輩・我輩」を混用して書物を刊行したが、その没後、大文豪の書物の刊行にあたったある大手版元の校閲部では、有無をいわせず「吾輩」に統一して、一部から顰蹙をかったことがあった。

また、やつがれが敬愛する司馬遼太郎氏などは、送り仮名も、漢字のもちいかた、漢字と仮名の使いわけも、あちこちにバラツキがみられるが、生前のご本人はほとんど気にしなかったようである。もちろん並の校閲者では手も足も出なかったとみえて、「不統一のママ」で刊行されている。なんでも揃えるという考えには賛成しかねるゆえんである。

「ひとつの小さな平たい函」とあるのは、前後の脈絡からみても、おそらく「文選箱」のことであろう。ガキのころから活版所を遊び場のひとつとしていたやつがれは、10歳のころには「文選箱」を宝物にしていた。また、いまもって文選箱を持つと、妙に気持ちが昂ぶる悪弊がある。

「たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと」とある。これも、傾斜のある「活字ケース架 俗称ウマ」に向かって、文選作業のために立ったのであろう。
ふつう文選作業にあたって、使用頻度が低く、最下部に配される「外字」や、より使用頻度がすくなくて、特定の部所(活字ケースの縦の段)をもたず、部首別にだけわけて配列される「ドロボー・ケース、無室ケース」の採字以外は、活字ケース架の前にしゃがみこむことはあまりない。
活字文選作業は使用頻度の高い字種ほど採字しやすいところにあって、立ってなされることがほとんどである。

「たくさんの輪転器がばたりばたりとまわり」とある。
活字版印刷機にも、印刷版が往復運動をする通常型の平圧印刷機のほかに、シリンダー型印刷機(円筒印圧機)もあるので、それを「ばたりばたりとまわり」としたのかもしれない。ただしこれらの印刷機は「輪転器」とはいわない。
また新聞社などでは、かつては活字版から紙型をとり、そこに活字地金を流し込んで円筒形の印刷版(ステロ版)として、輪転印刷機をもちいることが多かった。

また近年では、品質の悪い用紙でも印刷対応ができ、印刷版が比較的安価な樹脂凸版などでも対応でき、設備投資がすくなく、技術者の養成が比較的短期間ですむ「活版輪転機、俗称・かつりん」の使用がみられる。
これらの「機械」はいずれも相当大型であり、「器具」とはいいがたい「機械」であるので、「輪転機」とあらわされるのがふつうである。

¶ ついに問題の箇所である。
ジョバンニは「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」とある。
既述したが、わが国でも欧米でも、活字の文選作業は手で拾う作業である。
鉄製がほとんどのピンセットをもちいて活字を拾うと、鉄より相当軟らかな鉛を主成分とする活字の面ツラを傷つけるおそれがあるためである。
活版印刷全盛の時代には、床に落下した活字を拾うことさえ禁じられていた。
落下した活字には、汚れが付着するだけでなく、活字面 type face にキズやカケが発生している可能性があり、そのまま印刷して活字の面のキズやカケによるクレームがないように、灼熱地獄行きの「地獄箱 Hell Box──多くは林檎箱や石油缶だった」に活字を投げ入れた。
この活字は捨てられるのではなく、溶解され、怪獣サラマンドラのごとく甦るのである。

したがって、活版印刷の現場では、古今東西を問わず、活版用ピンセットは、組版を結束したり、校正時の差し替え作業にもっぱら使われる器具である。
したがって、宮澤賢治は活版印刷所の内部にはあまり立ち入ったことが無く、当時は盛んだった活版印刷の現場を取材しなかったことが推測される。

また、もし作者の生前に『銀河鉄道の夜』の印刷・刊行をみていたら、編集者・校閲者・文選工・組版工・印刷工といった、たくさんのひとの手と作業工程を経るなかで、たれかがこの、
「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」
とされる問題点を、謙虚に、そして小さな声で、ひそかに指摘したとおもわれる。

「あのですね、宮澤先生。ピンセットで活字を拾ったら、活字が泣きますよ」と……ネ。
まぁ、『銀河鉄道の夜』は、幻想・夢想のなかにたゆたうような名作である。あまり目くじらをたてる必要も無いが……。
それにしても、造形者や編集者が「印刷処・印刷所」にほとんど足を運ばなくなってひさしいものがある。この現状をひそかに危惧するいまである。

朗文堂好日録-028|がんばれ ! ひこにゃん !!|彦根城、徳本上人六字名号碑、トロロアオイ播種

愛すべき ゆるキャラ「ひこにゃん」のことは、かつてこの《花筏》でもしるした。当時は知識不足で「ヒコニャン」とカタ仮名表記してしまったくらいで、さほど関心があったわけではない。
★ 朗文堂-好日録 010  ひこにゃん、彦根城、羽原肅郎氏、細谷敏治翁 2011年08月27日

ところが昨今の報道では、絶対の人気をほこった滋賀県彦根市の「ひこにゃん」が、熊本県の「くまモン」の人気にすっかり押され気味だという。
くまモン」とは熊本県庁が2010年から「くまもとサプライズ」キャンペーンにおいて展開している、熊本県のPRマスコットキャラクターである。こちらはまだ実物はみていないが、下の動画をみるとなかなかのおもしろさである。見てみたい気も ムニャムニャ モゴモゴ なくはないぞ。。
★  「くまもとサプライズ くまモン オフィシャルサイト」 くまモン体操  3:01  YouTube

R J C リサーチの調査によれば、P R キャラクター総合力ランキングの地域ジャンルにおいて「くまモン」は 2011年 の 46 位から、2012年は 43 ランクアップして、彦根市の ひこにゃん、奈良県の せんとくん に次ぐ 3 位になったとしている。2013年、ことしはどのような具合であろう、チョイト心配だ。
それでも最近の報道では、2013年の年賀状が「ひこにゃん」宛てに 1 万 891 通も届き、バレンタインデー・チョコレートも 228 個届くほどの人気ではあるらしい。
★ ひこにゃん、自由すぎる!  2:53  YouTube  
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「ひこにゃん」に関しては、原作者と彦根市が、類似グッズの販売をめぐって、著作権と商標権を裁判で争い、ようやく和解にいたったようである。

それを受けて、彦根市はそのWebsiteに「ひこにゃん 公式サイト」をもうけて、そこに「ひこにゃん 商標使用のページ」をおいて、くわしく使用法をといている。

いっぽう「くまモン」は、あらかじめ熊本県がデザイナーから商標権を買い取り、熊本県のブランド力向上つながると判断したものについては、商標の使用権を無料にしていて、すでに認可件数は6,000件を超しているとのことである。

小社のようなちいさな企業でも、出版部(Book Cosmique)、活字部(Type Cosmique)で、類似の問題がまれに発生することがある。だから無関心ではいられないテーマである。ともあれ小社では、こうした問題には、できるだけオープンにすることを基本として、問題がおきたら、ともかく誠意をもって、慎重に対応することにしている。

そこで、ようやく紛争を解決した「ひこにゃん」を応援すべく、ふるい資料で恐縮だが、上述の「朗文堂好日録 010」を再編集して、ここに「ひこにゃん」応援のためにあらためて紹介したい。

★      ★       ★

¶ 2011年07月某日、関西方面出張。
この年は「東日本大震災」の年であった。例年の新年度のイベントや、GW 恒例開催の「活版凸凹フェスタ 2011」も中止としていた。なんとなく全般に意気消沈して低調な東日本だった。

ところがその間、意外なほど西日本各地では活況を呈していた。朗文堂 サラマプレス倶楽部はそれを受け、2011年07月某日、タイポグラフィゼミナール、活版ゼミナールを兼ねての強行軍での関西出張となった。
たまたまほぼ同じ時期でのおはなしだったので、スケジュールを集約調整して、大阪 3 ヶ所、京都 2 ヶ所、滋賀 1 ヶ所を駈けまわるという強行スケジュールとなった。

京都駅に降りたっておどろいたのは、駅舎もまちも明るいことだった。計画停電、節電下の関東地区とは大違いだった。このころの東京の駅舎は昼でも夜でも減燈され、まちなみは暗く、活気にとぼしかった。
なにはともあれ交通の便だと、オノボリサン丸出しもいいところで、京都駅前の「京都タワーホテル」を根拠地とした。
これはのちほど、京都育ちのHさんに、古都の景観を損傷した京都タワービルには入ったこともない …… と呆れられたが。ともかくそこをベース・キャンプにして仕事に集中。

それから 4 日間というもの、大阪・京都・大津といったりきたり。それなりの成果もあったし、充実感もあった。
されど、ここで仕事のはなしをするのは野暮というもの。なにせノー学部といっしょだったから、忙中に閑あり。やってくれました !
なんともまぁ、唖唖、こんなこと !!

¶ なにかおかしいぞ……、と、嫌な予感はした。ノー学部の巧妙な誘導質問だった。
「京都から大津にいって、そこから彦根にいくって、たいへんですか」
「直線距離ならたいしたことはないけど、なにせ琵琶湖の縁をこうグルッとまわってだね……、結構面倒かな」
「彦根城には、いったことはあるんでしょう。前に好きなまちだと聞いたことがあります」
「水戸天狗党の藤田小四郎のことを調べていたころに、敵対した井伊大老の居城ということで 1 回だけいった」
「じゃぁ、日曜日が空いているから、京都観光巡りじゃなくて、彦根城にいきましょう」

やつがれ、なにを隠そう、ちいさいながらも城下町で育ったせいか、彦根のふるい家並みのまちが好きである。ここには大坂夏の陣で破れた忠義の武将、木村重成公の墓(首塚)もあるし、お馴染みの「徳本 トクホン 行者 六字名号碑   南無阿弥陀仏」もある。それよりなにより、近江牛のステーキは垂涎ものである! それにしても、なんのゆえありて、彦根ではなく、
「じゃぁ、日曜日が空いているから、京都観光巡りじゃなくて、彦根城にいきましょう」
ト、彦根城とのたもうたのか、考えなかった時点でもはや敗北。

¶ 雨中の江州路をゆく……。
こうしるせば、ふみのかおりたかいのだが、実相は違った。ハレ男を自認しているやつがれにしては、この日はめずらしくひどい雨がふっていた。
「並んで、並んで。ハイハイ並んでくださ~い」。

やつがれ、駅からタクシーで彦根城にきて、いきなりわけもわからず傘をさしたまま、雨のなかのながい行列に並ばされた。2-300人はいようかという大勢の行列である。みんな「ひこにゃん」なるものを見るのだそうである。
きょうは雨なので、お城に付属した資料館のようなところ(彦根城博物館ホール)に、50人ほどの来館者を次次と入れて、そこに「ひこにゃん」なるものは登場するらしい。
濡れながら行列に並んで、やつがれはまだ「ひこにゃんとは、いったいなんぞい」とおもっていた。

ところがナント、まことにもって不覚なことながら、やつがれ(順番の都合で偶然とはいえ)、最前列に陣どって、ともかく嗤いころげて「ひこにゃん」をみてしまったのだ。要するにかぶり物のキャラクターだったが、ちいさな仕草がにくいほどあいらしかった。

かつて徳川家康の麾下にあった井伊直政は、徳川四天王とされ、その麾下は勇猛で、つねに先鋒の役をつとめたとされる。井伊家の軍勢とは甲斐武田勢の一部を継承したもので、「井伊の赤備え」と敵方からおそれられた赤い兜も、愛嬌のあるものにかわっていた。
ここではうんちくは不要だろう。ともかく「ひこにゃん」はあいらいく、おもしろかったのだから。

       エッ、この人力車に乗ったのかって ── 乗るわけないでしょうが、いいおとなが ── 。ところがやつがれ、こういうキッチュなモノが意外と好き。
ハイハイ正直に告白。「ひこにゃん」も大わらいして見ましたし、この人力車にも乗りましたですよ、ハイ。チト恥ずかしかったケド、しっかりとネ。

ともかく急峻な坂道を天守閣までのぼり、さらに内堀にそってずっと玄宮園のほうまで歩いたために、足が棒になるほど疲れていた(言い訳)。
実際は、なによりもはやく旨い近江牛を食しに、このド派手な人力車に乗って、車中堂堂胸をはって(すこし小さくなっていたような気もする ケド)いった。ステーキはプチ贅沢、されど旨かった。
────────────────
あとはもうやけくそ! 字余り、破調、季語ぬけおかまいなしで、一首たてまつらん。

雨中に彦根城を訪ねる   よみしひとをしらず
    ひこにゃんに 嗤いころげて 城けわし
    青葉越し 天守の甍に しぶき撥ね
    湖ウミけぶり 白鷺舞いて 雨しげく

木邨重成公の墓に詣る  よみしひとをしらず
    むざんやな 苔むす首塚 花いちりん

   

 

¶  簡素な浄土宗の寺、宗安寺
彦根市本町2丁目3-7に 宗安寺 はある。この通称赤門とされる「山門」は、石田三成の居城、佐和山城の正門を移築したものとされる。
その脇には徳本トクホン行者の筆になる六字名号「南無阿弥陀仏」の巨大な碑がある。このひとと、この六字名号碑に関しては、いずれ本格的にとり組みたいとおもっている。

ご本堂向かって左手奥の墓地には、戦国武将・木村長門守重成( ? -1615)の首塚が、ひっそりとたたずんでいる。重成は豊臣秀頼の家臣として、大坂冬の陣で善戦し、その和議に際しては徳川家康の血判受けとりの使者をつとめた知略のひとであった。
翌年大坂冬の陣若江堤で戦死し、首実検ののちに安藤長三郎が譲り受け、代代安藤家の墓域で守護をつづけているものであった。どちらもあっぱれ、忠義の家というべきだろう。

¶  2013年02月17日、トロロアオイの種子をテストで 播種
2011年、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部では、五月の連休恒例の〈活版凸凹フェスタ 2011〉の開催を、震災後の諸事情を考慮して中止した。
それにかえて、会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2011』に、被災地の復興・再建の夢と、活版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。

まもなく仙台市青葉区在住の女性会員の O さんから、
「トロロアオイの種子が元気よく発芽しました」
との写真添付 @メール が送られてきた。

O さんは毎年〈活版凸凹フェスタ〉にはるばる仙台から駆けつけてくださる、熱心な活版ファンである。また O さんご自身も「東日本大震災」ではなんらかの被害にあわれたかとおもえたが、それに関してはお触れにならなかった。

ことしもサラマ・プレス倶楽部会員のご希望のかたにはトロロアオイの種子をお配りしたいとおもっているが、昨年は開花期に中国にいったりして十分な水遣りができず、種子の大きさも小ぶりになったような気がしている。
そこですぐにも霙ミゾレになりそうな寒い雨の日だったが、発芽テストのために、ひとつまみの種子を黒ポットに植えた。元気に発芽してくれるように、しばらくは家の中で育ててみたい。

朗文堂好日録-027 台湾再訪Ⅱ 吾、佛跳牆を食す。「牆」と異体字「墻」のこと。台湾グルメ!

《そも  佛跳牆-ブッチョウショウ とはなんぞや ? 》
この中国料理は近年わが国でも次第に知られるようになったが、説明と発音が面倒なためか、最近の中国や台湾向け観光旅行のガイドブックなどでは「ぶっとびスープ」などと紹介している。
そこには以下のような説明が加えられることが多い。
◉  特殊な料理なので、どこの店でも扱っているメニューではない。
◉ 10日から1週間前、最低でも 4 日程度前には予約をする必要がある。
◉ 予約をしても、食材が揃わないとして断られることがある。
◉ ホテルのレストランなどでも「佛跳牆」をみるが、期待はずれに終わることが多い。

なにやら面倒な料理のようだ。
検索してみたら、東京・丸の内には クリスマス・メニューで 1 杯 5 万円の「佛跳牆」もあるという。
もちろん『花筏』は観光ガイドではないし、ましてやグルメガイドでもない。公式にはタイポグラフィ・ブログロール『花筏』と称しているのである。
また本稿は二部構成となっており、その前半はグルメ記録というより、林昆範氏とやつがれとの、まことに真摯なタイポグラフィ研究の学徒たる!? 一面を記録したものである。
★朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で

したがって、すこし煩瑣ではあるが、まず上掲の第一部の記録をご覧いただき、そののちに「佛跳牆 ブッチョウショウ、fótiàoqiáng、別名;ぶっとびスープ」を、すこしくタイポグラフィカルに、個個の「字」から紹介しよう。

【 佛 跳 牆 】

◎ 佛
佛は「仏」の異体字であり、もちろん「仏跳牆」でもかまわない。しかし台湾では繁字体 ≒ 旧漢字の使用が中心なので、ここでは「佛跳牆」でとおしたい。なお、大陸中国では、簡体字の使用によって「佛跳墻」とあらわされるが、その理由は後述する。ここでの「佛」は戯画化してえがかれたもので、単独ではさしたる意味はない。

一部にこの「佛」にひかれたのか「佛跳牆」を精進料理とする解説をみる。精進料理とは、肉や魚介類をもちいないで、穀類・野菜類・海草類・豆類・果実類などの精進ものを食材とする料理である。したがってこの解説にはチト疑問がある。
「佛跳牆」は、もともと中国広東省から福建省あたりの祝膳料理として発祥し、山海の珍味をベースとして、肉や魚介類を豊富にもちいて、滋養に富んでおり、医食同源とする漢族のあいだでは、むしろ「薬膳料理、祝膳料理」とされる。

◎ 跳
「跳」は常読で「チョウ」であり、意読では「とぶ、はねる、おどる」などとされる。「ぱっととびはねて、足が地からはなれる → 跳躍」であり、「はねあがっておどる → 跳舞」となる。
すなわち「佛跳」となると
「佛さまが  はねあがって  舞い踊る」の意となる。
したがって、たれが名づけたのか知らぬが、台湾ガイドが常用する「ぶっとび」とは、字音と字義をうまくとらえた、できのよい愛称といってよい。
ただし類語の「ぶっとぶ」は「飛ぶ」の意をつよめていう語であり、漢の字と併用すると「打っ飛ぶ」とあらわされるので、注意が必要である。
それでは「佛が、どこで、なぜ、舞い踊ったのか」を調べてみよう。

◎ 牆
「佛」「跳」にくらべると、「牆」はチト厄介である。
すなわち「牆」の漢字音には「ショウ(シャウ)、ゾウ(ザウ)、qiáng 」などがあるが、和訓音はなく、習慣的に意読として「かき、へい」とよんでいる。
そもそも漢字部首「爿ショウ部・片ヘン部」の漢の字が意外と厄介なことは、すでにこの『花筏』にも何度かしるした。



 
★  新・文字百景*001 爿・片 許愼『説文解字』
★  新・文字百景*003 いろいろ困っています「片」の字

そもそも漢字部首「爿」と、その「爿」を意符や音符として字画の一部に含む漢の字は「將軍 → 将軍、莊園 → 荘園、裝束 → 装束」のように、常用漢字ではほとんど「丬」に置きかえられている。
しかも漢の字「牆  部首爿部  シフトJIS E0AD」には、異体字「墻  部首土部  シフトJIS 9AD4」がある。「墻」は「牆」の異体字とはいいながら、もちろん同音同義の字である。それでなお「牆・墻」は、漢字部首まで「爿ショウ部、土ツチ部」とおおきく異なるのである。

ついでながら、繁体字をもちいる台湾では「佛跳牆」であり、大陸中国では簡体字(わが国では異体字)とされる「墻」をもちいて「佛跳墙」とあらわされる。
もちろん大陸中国では、メニューにも「佛跳墙」とあらわされるので注意が必要である。

余談をかさねると、「ラチもない」をおもいだした。地方によっては「らっちもない」とする。
「ラチもない」とは、仕事の糸口がつかめない、乱雑である、つまらない、仕事がはかどらないの意となるが、漢の字をもちいると「埒が無い」となる。

類語に「埒を明ける(開ける)」がある。これはものごとのきまりをつけること、はかどらせることである。また立派に申し開きをするの意にももちいられる。
「埒」(JIS第2水準、シフトJIS 9ABD)とは、低い垣、かこいのことであり、わが国ではふるく、馬場の周囲のかこいのことをいった。
かこいの無い馬場では、馬丁などの仕事がはかどらないことは当然であろう。

「牆・墻」は、ともに「石や土で築いた細長い へい」の意であり、「牆垣 ショウエン」「囲牆 イショウ」のように、いずれも「周囲をとりまいた へい」のことである。もちろん「埒」よりも壮大なものをいう。また「無 喩 我 牆 → 我ガ牆ヲ 喩ユル無ケレ」(詩経)のような使用例もある。
中国では古来、堤防・城壁・土塁・家屋・寺院・墳墓・道路など、巨大構造物をの多くを、板を積みかさね、その間に粘土質の土を入れて、堅く突き固める工法  版築 法が用いられた。そしてそれらの構造物を「牆・墻」などと称したのである。

中国河南省省都・鄭州にみる「鄭州商代牆(墻)曝露地」。古来からの版築法によって修復・再現作業が展開していた。版築法における工具の木材に注目すると「牆」となり、素材の土に注目すると「墻」となる。漢の字における同音同義の異体字とは、このようにして誕生する。

この漢の字「牆・墻」は、わが国では「石や土で築いた(巨大で)細長い へい」より、生け垣や竹垣のように、より軽便なものをもちいるために ── つまり「牆・墻」に匹敵するような巨大な「石や土で築いた細長い へい」自体があまり無いために、ほとんど使われることがない。

むしろ童謡「たきび」(作詞 ; 巽 聖火、作曲 ; 渡辺 茂)の、
♫ かきねの かきねの まがりかど たき火だ たき火だ おちばたき ♫ 
のように、垣根とか、塀、屏、あるいはせいぜい石垣ないしは土塁などをもちいることが多い。

《中国 河南省省都 鄭州に「牆」をみる》
かつて中国 河南省省都 鄭州「テイシュウ Zheng Zhou」のことをこの『花筏』で紹介した。その際、「このまちは、わかりにくい」としるした。
★ 朗文堂好日録011 吃驚仰天 中国西游記Ⅰ  2011.10.04 

すなわち、土中から発掘されるふるい商代(前商、前殷とも)の鄭州の文物には「文はあるが、字はない」からである。中国ではわが国でいう「文字」はあまり使われず、「文」と「字」は、それぞれの発祥と意味をもつ。
ここでは「牆・墻」の実物、遺構がたくさんみられる鄭州のことを、あたらしい写真とともに再録したい。

★      ★      ★

《文 ≒ 紋様学、字 ≒ 文字学、あわせて 文字 の研究の旅》
やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。われわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。したがって甲骨文・金文・石鼓文は、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としてのまっとうな扱いはうけずに「文」と表記される。

つまり鄭州の遺跡で発掘される、商(殷)・周時代初期の土器や銅器などにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などは、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。

 

 

まして中国では甲骨文 ── くどいようだが甲骨文字ではない ── を大量にのこしたことでしられる《殷》は、本来は《商》と自称した古代国家であった。司馬遷『史記』の殷本紀によれば、湯王が《夏カ》を滅ぼして、紀元前16世紀ころに商王朝を創始し、30代にわたる王をもった。

商は巨大かつ大量な武器や青銅器を製造し、本来錆びに弱いはずの青銅器が3000年余も腐食しないほどの、高度な防錆術(メッキ法。クローム・メッキの一種か?)をもっていた。
また安陽を都とした商代の後半(後商、後殷)となると、甲骨で占いをなし、その占いの結果を「甲骨文」としてのこした。また数頭の馬が牽引する大型戦車も所有していた。ところが紀元前11世紀ころ、殷王・紂(チュウ、辛シンとも)にいたって、周の武王に滅ぼされた。
《殷》とはこの国を滅ぼした《周》が、《商》にかえて意図的に名づけた悪相の字である。また甲骨(甲 ≒ 海亀の腹部、骨 ≒ おもに牛の大腿骨)にのこされた記録は「甲骨文」であって、甲骨文字とはいわない。

殳 ──── シュ、ほこづくり・ほこ・るまた
許慎『説文解字』によれば、「殷」は会意で、字の左の部分(扁とはいわない)は「身」の字の逆形(躰を反対にねじる)である。また「殷」の旁ツクリには「殳シュ」がみられる。

殳とはもともと武器を持つ形を象どったもので、『部首がわかる字源字典』(新井重良、2007、木耳社)をみても、この殳を旁にもつ字には、「殺・殴・殻」など、あまり良相とはいえない字がならぶ。殷もそのひとつの例としてあげられる。

 

 
やつがれ、2011年09月の中旬、ひさしぶりの中国旅行とは、結局のところ「文+字の旅」となったが、いままで報告されなかったり、ほとんど報告がなかった各地の碑林・碑坊、字発祥の地、墓所、博物館などを訪ねることができた。

河南省の省都「鄭州 Zheng Zhou」は、中原を東流する黄河の南岸に位置し、東は開封市、西は洛陽市、北は新郷市、南は許昌市と接する。人口はおよそ750万人。
この鄭州では、前期の商(前商、前殷)の遺跡を訪ねあるいた。やつがれはこの鄭州城市訪問は3度目だが、ともかくこのまちはわかりにくいとしかいえない。なによりもこのまちでは、つくづく「文」と「字」の違いをおもいしらされるのである。

すなわちこの城市は黄河の南岸にあり、あいついだ黄河の氾濫のために分厚い土中に埋もれているが、城市自体が紀元前3500年ころの遺蹟のうえにあり、前期の商(殷)もここを都とした。
すなわち鄭州城市の地上のあちこちに、いまでもかつての城壁の牆(現代中国では簡体字によって「墻」とする。高い土塁といったらおわかりいただけるだろうか……)がみられるが、それは全体の1/3-1/4ほどの高さでしかなく、ふつうのビルの6-8階分に相当する、峨峨として巨大な「牆」のほとんどは地中ふかくに埋もれている。
そしてこのまちのあちこちから、饕餮文トウテツ-モンを中心とする、「文」をともなった青銅器や陶器が発掘されている。しかしながら「字」は、この前商時代の鄭州の遺蹟からは発見されたという報告はない。

河南省北部の「安陽市 Anyang」は、前述の鄭州から近く、列車かタクシーで日帰りできる。その安陽市北西郊外(俗にいう小屯村)に、紀元前14-11世紀に商(後商・後殷)が鄭州から移動して都をおいた。ここでは甲骨文発見地たる王城域、歴代の王の墓域-王陵域、そして安陽駅に隣接して新設成った《文字博物館》を訪ねた。
繰りかえすが、ここは《文 ≒ 紋学、字 ≒ 字学、あわせて、文字の博物館》である。
活字キッズやモジモジ狂は、はじき飛ばされること必定の施設であった。


上掲の写真は、すべて鄭州市内のものである。このまちのあちこちで商代の「牆」や、あるいはのちに興亡をくりかえした各王朝も、ここを都としたり、主要都市として「將・墻」を築いたために、幾重にもかさなった「牆」がある。その一部は石積やコンクリートで補強されているが、ほとんどは地中に没し、わずかに地上にでている原型のままの「牆」がみられる。

「牆」の一部は公園化されている。昇ってみると遊歩道のように整備されていて、わが国の「スーパー堤防」ほどの広さがあるが、高さはかなり高い。
また一部の「牆」は、景観保存のために、古代からの版築法によって復元されていたりする。こういう情景を考古学者は「鄭州商代牆(墻)曝露地」とよんでいる。

後半に紹介した「河南省文物考古研究所」(所長・王 潤杰 オウ ジュンケツ)は、まさしくそうした「鄭州商代牆曝露地」の一画をおおい占めた建物のなかにある。
所内の展示場には王 潤杰氏が多年にわたって発掘してきた石器・土器・青銅器などがならぶが、そこにはさまざまな意味を内包した「文 ≒ 紋様」はみられるが、後代のものをのぞいて「字」をみることはない。

河南省文物考古研究所の扁額や図録の題字は 郭沫惹(カクマツジャク 1892-1978)氏の筆になるものである。郭沫惹氏は中国の文学者・政治家で、毛沢東の信任があつく、ながらく中日友好協会会長をつとめた人物である。
その業績と評価は、文化大革命時代の行蔵もあって多様にわたるが、「甲骨学」の研究者としての評価はゆるがないものがある。

甲骨文を研究する学問を、中国では「甲骨学」とし、その著名な開拓者の4名を「四堂一宣」シドウイッセン とよんで尊敬している。四堂とは、羅 振玉/雪堂、王 国維/観堂、董作賓/彦堂、郭沫惹/鼎堂であり、一宣とは、胡厚宣のことである。
わが国ではあまり知られていないが、「甲骨学 四堂一宣」の大家、郭沫惹が書した「殷虚」は、悪相とされる漢の字の形象・字画を巧妙にさけて、ご覧のような「好字、好相の字」におきかえている。ところがこれらの「好字、好相の字」は、残念ながらあたらしいメディア上では表示できない。

うんちくが長くなった。整理しよう。  

【 佛 跳 牆 】

あまりの香りのよさに誘われて、佛さまや修行僧が、寺院の石や土で築いた細長いへいの「牆」に跳びあがって、舞い踊りながらやってくるほどおいしい料理です。

 《佛跳牆の味自慢が、ノー学部にはよほど羨ましかったらしい》
佛跳牆 ブッチョウショウ をはじめて食したのは、10年ほどまえに 林 昆範 リン クンファンさんの兄弟と、台北の湖南省料理のレストランで、忘れられない味の料理をご馳走になったのが最初である。
林さんの一家は優秀で、父親は「中醫學博士」で、弟さんはアメリカで近代医学の「医学博士」号を取得していて、当時はそのレストランからほど近い病院の勤務医だった。当時の林昆範さんは、まだ日本大学藝術学部大学院で、博士号取得のために研鑽中であった。

「佛跳牆」はスープの部の順番にでてきた。
「この料理は、もともとは福建省や広東省や湖南省あたりのお祝いの料理で、1月1日の中華民国開国記念日、2月10日頃の春節(旧正月)、清明節、端午節、中秋節などに、一族が寄り集まってたべるものでした。佛跳牆には、あわび、フカヒレ、乾燥ナマコ、マツタケなどの乾燥食材のほかに、高級漢方薬の 冬中夏草トウチュウカソウ などもはいっていて、喘息や気管支炎に有効です。またコラーゲンがたくさん含まれていますから、老化防止や、女性の美肌効果がおおいにあります」

漢族には古来医食同源とするならいがある。いわゆる漢方医薬師、中醫學博士の家にうまれた林さんの弟、近代医学博士のありがたい解説のあとで食した「佛跳牆」は、蓋つきのスープ皿で、上品に(少量が)供されたが、それはそれは、芳ばしく、美味しく、忘れがたいものだった。
 それでもその湖南省料理店は相当の格式で、ご馳走になったとはいえ、メニューでチラッと「佛跳牆」などの価格を見てしまった。つまりかなり高額の支払いが予測された。
「このレストランの予約も支払いも弟がしましたから。弟は医者で、収入も多いから気にしないで」
林さんの兄は最初にそういった。林さんの弟はうなずいていた。そういうものらしい ? ……。
ついでながら、中国でも台湾でも、ほとんど「割り勘」という習慣はない。

そんな「佛跳牆」の忘れがたい味を、しばしばグルメ大好きのノー学部にはなしたおぼえがある。
いまにしておもえば迂闊であり、無警戒だったが、急遽今回の台湾再訪が決まったとき、いつのまにか呆れるほど、徹底的に調査してあった「佛跳牆関連資料」のコピーをもちだして、台北市中山北路二段137巷18號の「明福餐廳 メイフクサンチョウ」にどうしてもいきたいといいはった。
しかもあちこちに@メールを送りつけて、強引に予約を取りつけていた。だからこうして、林昆範さんともどもここにいる。
────
「明福餐廳」の外観は、まったくどうということなない、ふつうの大衆中国料理店にみえた。
しかしここには、台北では著名で頑固な店主 兼 調理人、阿 明 師(阿は名の前につける尊敬と親愛をこめていう愛称、師はここではシェフ。阿 明 師は台湾では一流シェフとして著名だという)がいて、店舗の改装や拡張はほとんどしないが、政官財の著名人がひそかに通う店とされる。
なかでも 元 中華民国総統・陳水扁氏 のお気に入りの店としてしられ、昼間の時間帯は地元客が多いと聞いたし、店内にも陳水扁 チン スイヘン 氏の写真と書額が飾られていた。

また日本の美食家、とりわけ女性のあいだでは「明福餐廳」の名前はつとに知られていたらしい。もちろん狙いは「美肌効果 !!」。
ともかく女性の美にたいするあくなき執着には、男どもは畏れいるしかなし、触らぬ神にたたり無しとおもったほうがよい。
また口のおごった日本のタレントなども相当押しかけているようだった。だから 渡辺満里奈志村けんお笑いトリオ・ネプチューン研ナオコ ら、日本の芸能人の写真がさりげなく置いてあったりする。
────
まだ夕方もはやいというのに、「明福餐廳」の店内は、香港からの団体客30名余と、テーブル席に12名の団体、そしてわれらが一行、林昆範さん、ノー学部、やつがれの3名でいっぱい。

別にコース料理を取ったわけではないが、ノー学部情報で次次と(勝手に)料理を注文した。
前菜ででたのが、台湾の高山地帯 花蓮 で採れるという 山菜「山蘇 サンソ」をサッと油通ししたもの。「山蘇」の見ためはワラビのような山菜だが、ぬるぬるしていながら、シャキシャキした歯ごたえがたまらない。これもはもうひと皿追加注文した。

 

一の皿という感じて供されたのが「とこぶしとマヨネーズ あぶり焼き」。
台湾マヨネーズと、とこぶしの取り合わせの旨さがグッとくる。焼き加減も、店頭の水槽で活きているとこぶしの鮮度をいかしたもので、その癖のない味つけに、やつがれ、いつのまにか「これは、すこし違うぞ !!」と、椅子に深深と座りなおして身構えることになった。

悪い癖で、料理の合間にときおり店外にでてベンチで喫煙していたが、その折りにみかけた光景は、最低でも四組30名ほどの団体客が「明福餐廳」押しかけ、いずれも予約外ということで、すげなく門前払いを喰らっていた。これには呆れるというか、おそれいってしまった。

二の皿。「紅蟳 コウジン 炒飯」── コレハ コレハ。おもわずホッコリした。
あまりひとにかたりたくない味だ。つまりひとには秘密にしておきたい、癖になる味だ。
ひごろ衣食住に関心が無いとうそぶくやつがれは、海底を徘徊する、エビ、カニのたぐいは苦手とするが、これには一本とられた気分。もちろん美食できこえた清朝の西太后でさえ、おそらくびっくりの旨さ(チト大仰かな?)。

ともかく、これでもかというまでに、ご飯にたっぷりまぶされたカニのたまごと、ほんの少量の油で炒めたこの炒飯は、はるかに炒飯のカテゴリーを超越していた。
なにぶん店頭の水槽で活かされているカニをたっぷり使うので、荒天がつづいて出漁できなかったあとや、注文が集中したら、すぐにオーダーストップだそうである。だから値段は「時価」。
もっとも「明福餐廳」の「時価」はリーズナブルな価格で、さほど驚くようなものでは無い。むしろどこぞの国の鮨屋の「時価」のほうがよほどおそろしい。
────
ここまでしるしてきたら、もはや「佛跳牆」のことをかたる勇気が失せてきた。ここまで繊細で芳香に満ちており、上等な料理をかたる資格はやつがれにはない。
やつがれは、料理とは、ただの料理であり、命をつなぐためにあるものだとおもっている。つまり敗戦の直後にうまれたやつがれは、飢餓のこわさをおぼろに記憶している。だから料理とは腹が減ったら食べるものだというくらいにおもっている。
いちおうそれが満たされたら、旨いにこしたことはない。つまり料理とは、ただの料理で、せいぜい愉しむくらいでよいとおもっている。それ以上料理に拘泥するのは卑しいことだとおもっていた。

ところがノー学部はもはや陶然としているし、日ごろ冷静沈着な林昆範さんまでが、
「これはおいしいですねぇ~」
と、何杯もおかわりしながら食していた。
こうなると、衣食住にさほどの関心はないなどと、日ごろからうそぶいているやつがれは顔色をうしなう。

しいていえば「明福餐廳」の「佛跳牆」は、ホテルのレストランで供される「佛跳牆」などのように、排骨(豚のリブ)やタロイモを入れて煮込んだ、とろ味のあるスープとは異なり、おもには乾物の、干しあわび、乾したフカヒレ、干しなまこ、ホタテの乾燥貝柱、干し貝各種、干しマツタケ、漢方薬の 冬中夏草トウチュウカソウ などの高級食材を10数種類ももちいて、これらの乾燥食材をまず水にもどしてから、トロ火でたっぷり時間をかけて煮込んで、旨み成分を十分にとりだしたものらしい。もちろん、価格はリーズナブルであった。
したがってコラーゲン独特の粘りはあるが、ゆたかな香りと、清よらかに澄んだスープは、あっさりとして、筆舌につくせぬうまみがあった。

提供された「佛跳牆」はもちろん事前にノー学部が予約しておいたものだったが、料理の最後のほうに、ド~ンと大きな壺に入ってでてきた。
最少のサイズで注文したというが、どうみても5-6人用で、それまでにさんざん料理を食べまくってきた3人で食すにはいかにも多かった。それでも何杯もおかわりして、あらかた壺の底がみえるまで食べまくった。

そうこうしているうちに、いつのまにか隣席の香港チャイニーズの皆さんともうち解けて「ドゥ ── 日本のVサインにかえて、親指を突きだして ドゥ という」のエール交換。
こうして台湾の夜を「明福餐廳」で、こころゆくまで満喫したのであった。

《ホテルは近代的だったが、窓があかないことと、禁煙強制で、すっかりまいった》
今回のホテルは「台北 美麗信花園酒店 Miramar Garden Taipei」。前回宿泊した「圓山大飯店」とちがって、市民大道三段83號と、まちなかの高層近代ホテルだった。ところが近代高層建築にありがちの、窓がすべてはめ殺しになっていて開けることができなかった。
当然ながら、ロビー、カフェはもとより、全館全室全面禁煙。たばこ税高額納税者の愛煙家を、かくまで虐めて、なにがおもしろいのかとおもうのだが……。

それでもホテルの外に、お情けのように灰皿をひとつだけポツンとおいてあって、そこで喫煙が可能だった。みんなが寝静まってからも、ここだけは深夜まで賑わっていた。もちろんやつがれもしばしばここを訪れた。というより、ここの常連だった。
ちょいとまいったのは窓がまったく開かないこと。別に閉所恐怖症ではないが、近ごろの高層オフィスビルでは会議中に酸欠状態を感ずることもある。こういう高層ビルの、空気が循環するだけのエアコンで馴致されていたら、おそらく長寿は望めないとおもうほどである。
だから部屋はそこそこ広かったが、ともかく息苦しくて寝付きが悪かった。やはり次回の台北行きは「圓山大飯店」がいいとおもう。窓とは、ひろびろと開けはなってこそ窓であるから。 
★ 朗文堂好日録-025
  台湾の活版印刷と活字鋳造 日星鋳字行 +台湾グルメ、圓山大飯店、台湾夜市、飲茶

   

台湾大学、台湾工業大学、日星鋳字行、それに前回は資金不足で買えなかった図書をもとめて「古今書廊二手書店」などにもいったが、ここでは仕事の報告を含めてすべて割愛。
食の繊細さに、この歳になってようやくめざめたやつがれである。ここはともかく意地でもグルメ紹介に徹したい。

ふつう、旅先での朝食は、ホテルで摂るほうがなにかと無難だが、なにせノー学部は、スケジュールのエクセル・プリントに空白部があると気に入らないらしい。そこですこしホテルの近くを散策してから、まちの中心部の「鼎泰豊本店 ディンタイフォン」の軽食をとることになっていた。

  

ホテルを出ると、すぐ隣がひろい空き地になっていたが、そこにパパイヤの木がたくさん実をつけていた。やはり台湾は南国だなぁ、と感心しながら歩いていたら(内心は、ここは空き地だし、採って喰いたいとおもういじましさ)、チョット面白い看板「日式鍋料理 涮涮鍋」を発見した。

台湾では「日式」というと日本風ということになるが、台北のまちに写真のような「日式鍋料理 涮涮鍋」のお店があった。 林 昆範 さんの解説によると、
「涮涮鍋はシュワンシュワン-グヮ といいます。みんなが涮涮鍋は日本の料理だと知っていますし、ここは人気のある、しゃぶしゃぶ料理のチェーン店です。意味からいうと 涮鍋 でもでいいのですが、涮涮 シュワン シュワン と繰りかえすことで、スープのなかで、サッサ、サッサと肉をゆする行為をうまくあらわしていますね。
台湾には似たような鍋料理に、涮羊肉 サンヨウニク, シュワン-ヤン-ロウ, shuàn yáng ròu という、蒙古族の民族料理、羊の肉の火鍋料理もありますから、蒙古族や女真(満州)族の料理が日本にわたって変化したものかもしれません」

どうやらあまりみかけない字「涮」がキーワードのようなので、帰国後に調べてみた。
涮  JIS 第4水準 画区点 2-78-66、U+6DAE
漢字音読み:サン、セン、セツ、セチ。 和訓読み:なし

[説文解字風にまとめてみた]
許慎六書の法でいう会意を3回繰りかえした字。
「氵」は水(ここではスープ、だし汁)をあらわす。
「刷」はサッとこすり取るが原義。はく、清める、サッとなでてゴミを取りさる。する「印刷」
左側は「尸シリ+布ヌノ」の会意の字で、人が布でお尻の汚れを拭きとる意をしめす。
刷はそれに刀をくわえた字で、刀のような細長いもので、サッと汚れをこすりとる意。
────
ところでわが国の肉の鍋料理「しゃぶしゃぶ」の起源は意外にあたらしく、1952年(昭和27年)に大阪のスエヒロが、自店の料理に「しゃぶしゃぶ」と命名したものがはじまりとされている。
同店では1955年(昭和30)に「しゃぶしゃぶ」ではなく「肉のしゃぶしゃぶ」の名で商標登録をしているが、ここでも「しゃぶしゃぶ」はひら仮名であらわされている。
もし「涮涮」の名前で商法登録したら、ここまでの定着をみなかったかもしれない。それよりなにより、役所が「涮涮」の漢字登録を受けつけてくれなかったかもしれない。

《ついでに……、スキヤキの漢字表記》
2012年12月22日[土]新宿私塾第21期生 懇親忘年会が開催された。
例年12月の声をきくと、あちこちで新宿私塾修了生が、同期ごとに懇親会を兼ねた忘年会を開催しているようだ。それぞれの期ごとに幹事が工夫して、安く、楽しく、お酒もたくさん呑める会場をさがしての開催である。
★ 新宿私塾忘年会 +涮涮ってなに? スキヤキの漢字は?     

おおむね女性が幹事だと、しゃれた、グルメ調の洋風の店になり、男性が幹事だと、大衆居酒屋のようなところになるようである。
新宿私塾第21期生の「懇親忘年会」は、ビルのなかにある、清潔でおしゃれなお店であったが、やつがれも招かれて参加した。料理の中心は「スキヤキ風しゃぶしゃぶ」(写真:町田さん提供)。

宴たけなわ、お酒もだいぶまわってきたころに、チョイと意地悪な質問をした。
「このコースターの裏に、スキヤキ を漢字で書いてください!」
「え~ぇ、スキヤキに漢字なんてあるんですか~?」
とワイワイガヤガヤやって、できたのが下の図版である。残念ながら全員アウト! 


牛・鶏肉などに、ネギ・焼き豆腐などを添えて、鉄鍋で煮焼きしたもの。
明治維新の前、まだ獣肉食が敬遠されていたころ、屋外で鋤スキの上に獣肉をのせ、焼いて食べたからとされる。また肉をすき身(薄切り)にしたからともいう。〔広辞苑〕 
────
《行列をし、開店をまって飛びこんだが、すぐに満員となるほどの人気店だった》
「鼎泰豊本店 ディンタイフォン」は飲茶ヤムチャが中心の店で、そんなに早くから開店するお店ではない。それでも遅い朝食を摂ろうと、大安区信義路二段194號の本店前についたとき、すでに客の行列がはじまっており、店舗の脇では多くの支店へ食材を配送するための軽トラックが次次と横着けされていた。ノー学部にいわせると、
「ここは支店がいくつかあるけど、やはり本店がいちばん美味しいらしい」
とのことである。ちなみに、このお店はなんと、新宿髙島屋にも支店があるそうだ。

ところでノー学部。写真の小籠包ショウロンポウのような「ゆるキャラ」が大好きときている。だから行列にならぶのをやつがれに押しつけて、こんな妙なゆるキャラの撮影に夢中なのだから、まったくもって嫌になる。
かつて滋賀県の彦根城にいったときも、やつがれはわけもわからず「ひこにゃん」なるものの、ながい列にならばされた。

ところが彦根市の「ひこにゃん」ですっかりゆるキャラに目覚めてしまったやつがれ、
「この小籠包の、ぽっちゃり旨そうなキャラクターもいいなぁ」
と、アホ面をさらして眺めていたのだから、なにもいえない。

だいぶ歩いてくたぶれていたし、おまけに行列にまでならばされて不機嫌になっていたが「鼎泰豊 ディンタイフォン」に入って、まず前菜ででてきた料理 ── クラゲとなにかの食材をいためたものか ── が出たとたん、すっかり機嫌がなおった。さっぱりしていて旨かったのだ。

やがて「鼎泰豊」自慢の小籠包がでてきた。アチチ、アチチといいながら、ジューシーな味わいの小籠包のとりこになる。ともかく皮が薄く、それでいて破れず、とろけるような味といったら「鼎泰豊」の人気のほどがおわかりいただけようか。
そしてエビ焼売シュウマイ。もともとやつがれは焼売が好きだが、ここの焼売は小籠包に似てジューシーな味わい。
ウ~ン、真っ昼間から飲茶でこんなに食べまくっていては確実に太るなぁ。でも旨いんだから、まぁしょうがないか……。

《林東芳牛肉麺を食し、遼寧夜市を散策》
あまり詮索することが得意でないやつがれも、この頃になると、ノー学部はどうして今回のホテルを、さしたる特徴もない「台北 美麗信花園酒店 Miramar Garden Taipei」に決めたのか察しがついてきた。すなわち、このホテルはどこのグルメ拠点からも近いのである。
このように呆れるしかないが、ノー学部は5,000年におよぶ中華文化の深淵をさぐるために、あえていえば食文化 !? からの視点でみることが中心となっているようである。

ホテルから徒歩圏内、500メートルほどのところに「林東芳牛肉麺 リンドウハン ニュウロウメン」がある。「牛肉麺」とは、わが国のラーメンにも似て、台湾のひとが好んで食する大衆食品である。
ラーメンに豚肉をトッピングに加えたチャ-シュウ麺があるが、あれをたっぷりの牛すじ肉の煮込みでつくったとおもえば近いかもしれない。

 

「林東芳牛肉麺」の店舗はとても狭く、しかも一軒だけほかの店を夾んで、ちいさな二店舗が並んでいる。だから客は店頭にたっている小娘シャオジェの指示で、左右どちらかの空いた店に入るが、タクシードライバーなども立ち寄る、安くて、早くて、おいしい人気店である。

つまり大衆食堂だが、最近は日本人観光客にも人気があって、なかなか店内には入れないほどの活況を呈していた。
ここはチト狭くて慌ただしかったが、ディッシュ ? の牛肉麺の前菜としてとった「小皿」が、どれも質・量・味の三拍子がそろっておいしかった。
おもうに、近ごろのわが国の奇妙な「ラーメン文化」をかたり、行列に連なるやからなぞは赤面してしまうかもしれない。つまりラーメン一杯だけで1,000円余も支払い、咥え楊枝でのれんからでてくる、オヤジやオヤジギャルの姿なぞはあまりみたくない。

ちょっとスパイシーな牛肉麺を楽しんだあとは、腹ごなしのために「遼寧リョウネイ夜市」をブラブラあるいてホテルまで戻った。
きょうもよく食べた。まぁ食欲は健康の印、食もまた文化なりということにして、タバコも我慢して寝てしまおう。

 

《とどめとして、帰国前の朝の朝食に、台湾おかゆの人気店にいった》
明日は帰国という前夜に、ノー学部がのたもうた。
「明日の朝は6時に起きてください。朝ご飯を忠孝東路一段108號の 阜杭豆漿 フーハン ドゥジャンのおかゆを食べにいきます。朝5時半からの開店だそうで、ものすごく混むようですから早くにいきます。ホテルから近いので、歩いていけます」

   

中国や台湾では、朝食に外食、それもおかゆ料理を摂ることが多い。「阜杭豆漿」は華山市場ビルの2階にある地元客相手の店だったが、最近では評判店として観光客も押しかけて、えらい人気になっている店だそうである。
地図でみるとさほどの距離にみえなかったが、「阜杭豆漿」までは徒歩だと30分以上かかり、店に着いたときは、それこそ階段から店外にまで行列が伸びていた。店内はひろくて清潔で、オープンキッチンでは観光客が撮影に夢中になっていた。

地元客は自宅に持ち帰って食べるひとのほうが多い。観光客は1-2割弱かとおもえたが、おおかた写真のような品をオーダーしていた(ここまで多くはないが……)。
やつがれは、これが最後とばかり、豆乳粥にパンとごま団子まで摂って朝から大満足。
このあと荷物をまとめて、あわただしく空港に駆けつけて帰国した次第である。
明日からはまた、東京でのあわただしい毎日がまっている。

朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で  

 

《ようやく活版カレッジ台湾訪問記を『花筏』にアップ完了後なるも……》
いずれも昨年のこととて、いささか旧聞に属して恐縮だが、2012 年10月06日-08日にかけて「アダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ  Upper Class」の皆さんが台湾旅行にでかけた。

まさかその翌月に台湾再訪となるとはおもわなかったが、所用があって  2012年11月23-25日、2泊3日の慌ただしい日程でまた台湾にでかけた。
その所用は1日で済んだので、その後は旧友の林昆範との再会を楽しみ、さらにおいしいものに目が無く、グルメ大好きであり、前月の旅ですっかり台湾グルメに惚れ込んだらしいノー学部とも合流して、台北のまち歩きを楽しんだのち、結局のところやつがれの苦手とする「グルメ三昧」となった。
その報告は「朗文堂 NEWS」12月08日に前半部分だけを掲載した。それをここ『花筏』に移動して掲載し、あわせて後半部分もつづいて掲載することとした。

ここしばらく、台湾と中国もの、それもグルメに関する話題が続きそうな『花筏』の怪しい気配ではあるが、ご用とお急ぎでないかたは、まぁ一服でもしながら、ごいっしょに 文+字  文字談義などはいかがでしょう。

★      ★      ★

《2012年11月23-25日、台北の茶館で林昆範氏と歓談》
関与先の台湾企業から、急遽訪台の要請があり、11月22日の最終航空便の手配をされた。翌 23 日[金]は早朝からその用件に追われたが、ここで報告するような内容ではないので割愛。

24日[土]からは解放され、また運良く連休の週末だったので、久しぶりに 林昆範 さんとお会いすることにした。
夕方からはノー学部も台北で合流することになっていた。ノー学部は台湾再訪が決定して、こんなみじかい期間に、よくもまぁ……、とおもうしかない強行日程を、それもグルメ中心のスケジュールを勝手に組んでいた。このノー学部と合流後の阿鼻叫喚は後編にゆずりたい。
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林昆範 リン-クンファン さんは、日大藝術学部大学院の修士課程・博士課程の履修期間中と、その後しばらくの6年半ほどのあいだ、当時の指導教授・松永先生のご指示で、実に律儀に、誠実に、夏休みもなく朗文堂に毎週1回かよわれたかたである。

博士課程履修期間の後半は「グループ 昴スバル」の一員としても活躍され、その成果を朗文堂 タイポグラフィ・ジャーナル ヴィネットに、『中国の古典書物』『元朝体と明朝体の形成』『楷書体の源流をさぐる』『石の書物-開成石経』などにまとめられた。
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林さんは博士号取得後に帰国され、現在は台湾中原大学助教授として、しばしば学生を引率して大陸中国で「中国少数民族の文化」の調査・研究にあたっており、今回は中国南西部での調査から、前日に帰国されたばかりであった。
それでも長旅の疲れもみせず、ホテルのロビーまでピック・アップにきていただいた。
★朗文堂ニュース:林昆範関連図書のおすすめ 2010年03月11日

久しぶりの再会のあと、この日の午後の日程管理は林さんにお任せ。夕方の18:00からはノー学部と合流して、林さんと3人での食事会を予定していた。
「きょうは 大藝埕 ダイゲイテイ にいきましょう。もともと日本統治時代に開発され、銀行や商事会社がたくさんあったまちですが、いまは東京の代官山のように再開発がすすんで、若者に人気のお店がたくさんあります」
「大藝埕は、日本のガイドブックには、美食街とされていたまちですね」
「美食はカタシオさんは苦手でしょう。ご案内したいのは道教の施設、隍廟(コウビョウ 道教)の隣の、ちょっとオシャレな茶館です。ここは日本統治時代のビルを改装して、現代台湾のデザインショップや、ギャラリーもありますし、なによりも、ふるい臺灣と、あたらしい台湾がみられますから……」

しばらくふたりで大藝埕 ダイゲイテイのまちをぶらついて、隍廟 コウビョウの隣のふるいビル・民藝埕 ミンゲイテイにはいることにした。
このあたりは日本統治時代の築70年余のふるいビルを丁寧に改装した建物が多いが、さりとて日本風というわけではなく、コロニアル・スタイルというか、大正ロマンというか、アールデコというか、つまり無国籍な、ふしぎな感じをうける。
漢方薬や書画骨董品などの、日本人観光客めあてのお店もあるが生彩はない。いまはガイドブックの紹介も減って、日本人の姿はあまりみかけないまちになっている。

ブック・カフェやデザイン小物の店がならぶ、まちあるきのあいだに、林さんの教え子や現役の学生たちとしばしば出会った。なかにはかつて林さんに引率されて、朗文堂まで研修にこられたもと学生もいて、うれしい再会となった。
そのなかの、日本へも留学されたおひとりに、道教の廟「台北霞海城 隍廟」で、道教式の礼拝の作法を教わった。

道教は漢民族の伝統宗教で、黄帝や老子を教祖として仰ぐ。さらに古来の巫術(フジュツ、シャマニズム)や老荘思想の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想までを加味したものであって、やつがれにとってはきわめてわかりにくいものであった。
理解できる範囲でいうと、現世利益 ── 不老長寿、富貴、子孫繁栄、商売繁盛などをねがい、符呪や祈祷などをおこなうものである。

道教は東漢末の社会不安のなかから、漢中あたりで勃興した五斗米道 ──  ゴトベイドウ、張陵 チョウリョウ が老子から呪法を授かったとして創始した。五斗米道の名は、入門の際に五斗の米を納めさせたからいう。天師道とも ── にはじまり、北魏の寇 謙志之 コウケンシ によって改革され、さらにインドからもたらされた仏教の教理などをとりいれて次第に成長した。
唐代には宮廷の格別の保護をうけて全盛となり、現在でも漢民族のあいだの民間宗教としてひろくおこなわれている。

上掲写真の「隍廟」は、台北でも有数の道教の拠点の「廟」であり、見た目よりは奥行きがあって内部はひろい。そこには、それこそ善男善女、老若男女が、たくさん列んだ神像の前で祈祷を繰りかえしていた。それでもいくらひろいとはいえ、廟内は香華と人混みで、むせかえるほどの盛況であった。

     

台北の街角には、大小さまざまな道教の施設がある。
写真上)は、高速道路下の「八徳市場」の入り口にあった施設。こうした少し大きめな施設は「廟」といい、線香・供え物・おみくじなどを販売する道士なのか管理人 ? のようなひともいる。写真のように供物と香華が絶えることはない。
ちいさなものは、無人で「祠」とされるが、この規模でも香華は絶えない。この「祠」は、クリスマスツリーを飾られておおらかなもので、さしずめわが国のまち角の「お地蔵さん」か「お稲荷さん」のような感じだった。

また商店などにも、わが国の神棚のような位置に道教の神像が祀られていることもおおい。

「林さん、このあたりの 埕 テイ とはどういう意味ですか ?」
「商店街とか、マーケットということでしょうか」
帰国後に調べてみた。「埕」とは本来口が細長い素焼きの酒瓶であり、海水を細長い水路で砂浜に導き入れてつくる、ふるい製法の塩田の名称にももちいられている。この「細長い」の意から、細長くつづく商店街やマーケットのことになるようであった。

民藝埕 ミンゲイテイにはいくつもの商店やギャラリーが入っていた。ちょうど土曜日だったためか、ギャラリーから若者が溢れていた。なにかとおもったら、台湾で著名な若手造形家のギャラリー・トークが開催されていた。
ところが、どの施設も、あまりにむき出しで、素朴な、バウハウス・スタイル、1925 年代国際様式、あるいは「白の時代」で溢れていて、こちらが照れてしまうほどであった。

なによりも、この店のとなりには、先に紹介した、強い色彩と、インパクトのある装飾に充ち満ちた「台北霞海城 隍廟」があるのである。
それでも茶館「陶一進民藝埕 トウイッシン-ミンゲイテイ」に入って、しばらくして「なるほどなぁ」と納得させられることになった。

ちなみに、茶館「陶一進民藝埕」で、80 種類ほどもある「お茶」のメニューのなかからオーダーしたのは、写真手前が林さんのもので、インド北東部ヒマラヤ山脈南麓産の「ダージリン紅茶」であった。
写真奥がやつがれのもので、中国江蘇省蘇州産の緑茶「璧羅春 ヘキラシュン」である。なかなか国際色ゆたかであった。
茶館「陶一進民藝埕」のパンフレットを簡略に紹介すると以下のようになる

当店は台湾民藝 100 年の伝統と、現代日本のデザインを弁証法的に融合させた茶館です。
日本の民藝と美学の大家である 柳 宗悦氏、工藝デザインの大家の 柳 宗理氏の父子両代にわたる理論と作品の数数と、喫茶を通じて対話していただけます。

つまりこの茶店「民藝埕」に関与したとされる、民藝と美学の大家である 柳 宗悦、工藝デザインの大家 柳 宗理の父子を理解しないと、この「陶一進民藝埕」、ひいては大藝埕のまちなみのことを理解しがたいことになる。

柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889 年 3 月 21 日-1961 年 5 月 3 日)は、旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。
のちに香港うまれの英国人で、画家・デザイナー・陶芸家として知られる バーナード・リーチ の知遇をえて、その縁から英国 19 世紀世紀末の「アーツ&クラフツ運動」に触発されて、手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合って「民藝運動」を起こし、生活に即した民藝品に注目して「用の美」を唱えた。また 1936 年(昭和 11 )東京都目黒区に「日本民藝館」を設立して、1957 年(昭和 32 )文化功労者となった。

またその子息、柳 宗理 (やなぎ そうり、本名 : 宗理 むねみち、1915 年 6 月 29 日- 2011 年12 月 25  日)は、惜しいことに一昨年の暮れに亡くなったが、日本の著名なプロダクトデザイナーであった。
柳宗理は 1934 年東京美術学校洋画科入学。バウハウスまなんだ水谷武彦の講義によってル・コルビジェの存在を知り、工業デザインに関心を持つようになり、プロダクトデザイナーとして活躍したひとである。

柳宗理の師となった 水谷武彦 (みつたに たけひこ、1898 年-1969 年)は、日本の美術教育、建築の教育者である。また日本人として最初にバウハウス(Bauhaus)へ留学した人物としても知られる。帰国後には様様な活動をつうじて、日本にバウハウスを紹介し、その教育を実践した人物である。

これらの19 世紀世紀末「アーツ&クラフツ運動」や、1925 年代「バウハウス国際様式」にまなんだ人物が、どのようなかたちで、どこまで「大藝埕」の景観づくりと、「民藝埕」ビルと、茶館「陶一進民藝埕」などの再開発に関わったかは不詳である。
それでも「国際様式」とは、たれが名づけたものか知らないが、全体に激しい色彩と、インパクトの強い形象が目立つ台湾のまちのなかで、この大藝埕あたりのランドスケープは、かなり異なった風合いがあった。

茶館「陶一進民藝埕」の食器(テーブルウェア)は、すべて柳宗理のデザインによるものであった。その純白の器のなかに、お茶の淡い色彩が幻想的に浮かびあがる。
おおきな急須に、従業員がときおりお湯を注いでくれるので、ほどよく蒸れたころ、それをガラスの器にうつして、ちいさな茶碗で喫茶する。
「陶一進民藝埕」では 3時間余も、写真のお茶をおかわりするだけで長居したが、べつに嫌がられもせず、つぎつぎとお湯を注いでくれた。料金はそこそこの値段で、お菓子もついて日本円でひとり500円ほどだったであろうか。
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林さんとのはなしに夢中になっているうちに、いつの間にか、かつての新宿邑の、雑然とした朗文堂にいるころとおなじように、たがいにあつくなって、タイポグラフィ論議を展開した。
テーマのほとんどは 文 + 字 = 文字 であった。蒼頡 ソウケツ 神話をかたり、そして許愼 キョシン『説文解字』をかたりあった。
「糸 繪  文 糸 紋 宀 子 字」そして「文 + 字、文字」であった。

先述したように林昆範さんは、中国大陸における観光産業との共同作業で「中国少数民族の文化」を考察・研究されていたが、その途中経過をモバイルメディアの画面に提示しながら、中間報告をしていただいた。
中国にはいまでも54ほどの少数民族があって、それぞれに守護神をもち、それを象徴化した図画・紋様をもつということである。そしてその民族が守護神を失ったとき、その紋様とともに滅亡にいたる……。すなわち伝統紋様とは守護神が視覚化されたものだという報告は新鮮であった。
────
帰国からしばらくして、写真が添付された@メールに、以下のようなうれしい報告があった。

久しぶりにゆっくりおはなしができて、刺激的でしたし、発奮しました。
近年、大陸における観光産業との共同研究で、中国少数民族の文化を考察しています。それらの考察はデザインに使われる素材〔紋様〕として扱い、その素材収集が中心でしたが、このままでは研究とはいえなくて悩み、まして論文発表までは考えてもいませんでした。
ところが、片塩さんのご指摘により、伝統紋様は原始の〔ことば〕であることを理解しました。即ち、「文」の造形性が強調されて「紋様」になりました。そして「文」の記号性が強調されて「字」になりました。この両者が結合したものが「文字」ということです。
来年の夏までに、先日のご指摘と、これまでの収集の成果を見なおして、なんらかの発表ができるようにまとめることに全力をあげます。
日本と台湾でお互いにがんばりましょう。 林  昆範
(この項の写真は、すべて林昆範氏撮影)