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朗文堂-好日録021 日藝 タイポグラフィ セミナー

       

日本大学藝術学部デザイン学科 特別講義

Typography Seminar
Helmut Schmid
Jiro Katashio
Akiteru Nakajima
2012年10月27日[土] 14:00-17:50
展示/デザイン・プレゼンテーションルーム
講演/日本大学藝術学部 江古田校舎 西棟B1
企画・進行/細谷 誠専任講師

                              [告知ポスター Design : 日大藝術学部デザイン学科 細谷 誠専任講師]

《日本大学藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar 前夜祭?》
爽やかな秋の毎日がつづいた。この時期は、梨、葡萄、柿とおいしい果物がたわわにみのり、食欲も意欲も増進するまいにちであった。まさしく食欲の秋である。
イベントもかさなり、ふだんからとことん出不精をきめこんでいるやつがれも、いやいやながら、なにかとかり出される季節でもある。
2012年10月27日、日本大学藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar が開催された。
第一報として《朗文堂 NEWS》には報告したが、ここでは気軽な内輪ばなしを中心に皆さまにご紹介しよう。

その前日、10月26日[金]には タイポグラフィ学会 月例定例会が夕刻から開催されていた。議題がほぼ終了し、雑談に移りかけていた 22 時ころ、翌日の講演会に備えて、南新宿のホテルに宿泊しているはずのヘルムート・シュミット氏が、突如タイポグラフィ学会定例会の会場に登場した。しかも桑沢デザイン研究所非常勤講師/阿部宏史さんと、その学生さんら数名と一緒の来訪であった。

たちまち狭い部屋は交流・懇親の会場に変貌し、シュミット氏お気に入りの赤ワイン「ラクリマ・クリスティー デル・ヴェスーヴィオ・ロッソ」 は店が閉まっていて買えなかったが、久しぶりの再開を祝して「とりあえずビール」での乾杯!
学生諸君は早めに引きあげたが、部屋の熱気はますばかり。熱いタイポグラフィ議論があちこちで交わされていた。

あ~あ、明日はシュミット氏もやつがれも、日藝講演会での講師だというのになぁ……。
結局皆さんはほぼ終電での帰宅。シュミット氏は酔い覚ましをかねて、新宿南口のホテルまでブラブラ歩きでひきあげられたのは、夜もだいぶ更けてからのことであった。
それにしても、年寄り モトイ 年輩者のほうが元気いっぱいなのはなぜだろう……。ト ふとおもう。


《 2012年10月27日、日大藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar 本番》
この日藝 Typography Seminar の企画・展示・進行は、同大の細谷 誠専任講師。
細谷 誠専任講師 は、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)アートアンド・メディア・ラボ科の学生だったころに、シュミット氏の『バーゼルへの道』(朗文堂、1997年6月初版、品切れ中、増刷予定あり)を購読されて大きな感銘をうけ、デザインの道へ本格的にすすむ決意をされたそうである。

お世辞半分としてもうれしいはなしであるが、その反面、版元としては襟を正さなければという責任をひしひしと感じさせられた。
『バーゼルへの道』は第一刷り、第二刷りと版をかさねたが、現在は残念ながら品切れ中である。いずれ機会をみて第三刷りにとりくみたいところである。

特別講義の講師は、中島安貴輝主任教授と、ゲストとして、中島さんと年代がちかく、長年にわたって親好がふかい(悪友 !?)関係だった、ヘルムート・シュミットさん、片塩二朗の 3 名。各講師30 分の持ち時間で講演のあと、トークセッションにはいる。

      

Typography Seminar は、展示会と特別講義・トークセッションで構成されていた。
展示会は、中島安貴輝主任教授の長年にわたるデザイン活動と、デザイン教育を綴り、それを記録・展示し、次代のデザインを背負う学生の皆さんと、あらたな方向性を模索するという、とても意欲に富んだ、内容の濃いテーマであった。

トークセッションでの招聘講師となった、シュミット氏とやつがれは、さしずめ刺身のツマといったところかな……。

『Picto Graphics 1, 2, 3 』(中島安貴輝、朗文堂、1988年11月刊、品切れ)
まだ IT  環境が未整備な1980年代後半には、おもに紙焼きカメラで図版を拡大・縮小して使用していた。そのため片面刷り裏白で複写に備え、ペラ丁合で一冊一冊 3 分冊の図版集をつくった。中島安貴輝氏畢生の大作であり、使用権つきの意欲的なピクトグラム作品集だった(品切れ)。

中島安貴輝主任教授 は、東京オリンピックの準備期間中には、まだ日藝の学生であった。それでもそのころから、勝美勝先生の門下生として「青年将校」のようなかたちで、東京オリンピックの広報部門に関わったという経験を持つ。まだグラフィックデザインの夜明け前であり、それだけにのどかで可能性の大きな時代であった。

その体験をもとに、のちに沖縄海洋博覧会のデザインディレクターとして活躍された。そのことを、別会場で開催されている展示会の作品をもとに丹念に事例報告され、
「デザインも、アソビも、めいっぱい」
と学生諸君を激励されていた。

《2012年10月27日、日藝デザイン学科 Typography Seminar トークセッション》
ヘルムート・シュミットさんは、いったん入学したスイスのバーゼル工藝学校での体験から、本格的なタイポグラファになろうと決意し、欧州各国での活版印刷所で「Compositor 植字工」として、数年、実地体験としての修行をし、ついにふたたび念願のバーゼルで、エミル・ルーダー氏の特別教育を受けるにいたった経緯を詳細に述べられた。
そして定員 3 名だけのちいさなタイポグラフィ夜間私塾、ルーダー氏のタイポグラフィ教育内容を、大量の写真データとともに紹介された。そして長年とり組んでいる「typographic reflection」シリーズの製作意図と、将来展開までをかたられた。
通訳にあたられたのは愛妻・スミさんであった。

写真上) パソコン映像だけでは物足りなくなり、立ち上がって説明するシュミット氏。
写真中) シュミット氏は愛用の「Composing Stick 組版ステッキ」を携え、各地の活版印刷会社で「Compositor 植字工」としての修行をかさね、そこの「Meister 親方」から技術認定の修了証明書にシグネチュア(サイン)をもらってあるくという、厳しい修行の旅であったという。
写真下) 憧れのルーダー氏のもとで学ぶことができた、充実の日日の若きシュミット氏(左)。

《予告!『japan, japanese』 著者講演会》


ここについでながらしるしておきたい。ヘルムート・シュミット氏の『japan japanese』 の著者講演会を、来春 3 月に、朗文堂主催での開催を予定している。その打ち合わせのために、シュミットデザイン事務所と@メールのやりとりが盛んないまでもある。
詳細はあらためて新春にお知らせしたい。
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「Typography Seminar」は、日大藝術学部の授業の一環であったが、外部からの参加も自由ということで、わずかに朗文堂社内に A3 判告知ポスターを出力して掲示しておいた。
そのために、新宿私塾塾生と、修了生がたくさん押しかけて、講義室は溢れんばかりの盛況となった。中島先生、細谷先生にはもろもろご迷惑をおかけすることとなった。ここにお詫びを申しあげたい。

あらためておどろいたが、新宿私塾の塾生には、日大藝術学部のデザイン科だけでなく、写真科、建築科、それに日大農学部などの学生・卒業生もたくさん在籍していた。そんなかれらが、全面改装がなった母校をみることを口実に、大挙して講演会に押しかけたようである。

トークセッションの終了後、長時間の禁煙強制にたまりかねた愛煙家有志?!  3 名が喫煙所の傍らで、携帯灰皿を片手におおわらわで吸煙開始。そこへシュミット氏が通りがかり、
「ミナサン、ナニヲ  シテイル ノ デスカ ?」
ヤレヤレ、中学生でもあるまいし、みっともない姿をパチリとやられてしまったという次第。
[モノクロ調写真提供:木村雅彦氏]

   

朗文堂ー好日録020 故郷忘じ難く候



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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《唐突に妹から架電 ── 雪の降る前に、ふるさと飯山にいかない …… 》
11月03日は文化の日で土曜日だった。前日に突然妹から架電があり、
「もうすぐ雪が降るから、あした、おばあちゃん(おふくろ)のお見舞いにいかない?」
昨春に兄貴が長逝し、なんとなく疎遠になっていたふるさとであった。ところが信州・長野の郷里には、100 歳を超えたおふくろが老人施設の世話になっていた。そのもろもろの世話を、血脈からいえば他人ともいえる兄嫁に押しつけていることが心苦しかった。

アニキ、やつがれ、妹は、三人兄弟として、千曲川にそった信州の北西のはずれ、豪雪地帯でなる 北信濃 飯山 でうまれそだった。アニキはいやいやオヤジの跡をついで開業医になったが、昨春にスキルス性胃がんでなくなった。次男坊がらすのやつがれと、薬剤師の妹は、気ままに郷里をはなれて東京にでていた。

ここのところ数年、3月と11月は一年のうちで、もっとも多忙な月である。なにかとイベントがかさなり、年度末対応・新年度対策や、年末年始進行を意識し、年賀状やクリスマス・カードの想を練るのも11月のことである。
だから往復 600 キロほどの長距離ドライブとなるが、日帰りの旅として、妹の亭主が運転する車に乗せてもらった。
旅の同行者は、はじめてやつがれの郷里をみることになったノー学部。
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関東平野から山河の邦・信州にはいる道はさまざまにあるが、妹夫婦は、はじめて飯山をたづねるノー学部のために、風景の単調な高速道路一本やりではなく、この時期ならではの、紅葉のきれいな草津・志賀高原ルートを予定してくれていた。

この道は2級国道292号線で、近年にできた高速道路にくらべると、山坂は急峻でカーブ箇所も多いが、群馬県草津温泉から、コバルトブルーで輝く白根山の火口をみて、長野県北部への直行ルートとなる。
群馬県側ののぼりには、伊香保温泉草津温泉などの名だたる名湯がある。また近年建設の続行が話題となった「八ッ場ダム ヤンバ・ダム」の工事現場も経由する。この工事のおかげで、すでに自然はずいぶん破壊されていたが、道路は格段によくなっていた。むずかしいものだ。
また 志賀高原 をへて信州側へのくだり坂には、高原一帯に大小さまざまな山の湖が点在し、そこに照り映えるナナカマドやダケカンバの紅葉は、たとえようもない見事さのはずであった。
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早朝 6 時半、調布駅前で妹夫婦と合流してそのまま出発。関越自動車道から分岐して、北陸自動車道をほんのすこし走って、渋川・伊香保で高速道路をおりて一般道にはいった。道は次第に狭隘となり、急峻な坂道がつづく。やがて道は軽井沢と草津温泉への分岐点となる。そこを草津温泉側に右におれて、国道292号線、いわゆる志賀・草津ルートにはいる。

この道は国道の中では日本一標高の高いところを通る道路でもある。国道最高地点の標高は 2,172メートルであり、上野コウズケ-ノ国・上州/群馬県と、信濃シナノ-ノ国・信州/長野県とをへだてる 渋峠 のちかくにある。その場所には「日本国道最高地点」の碑が建てられている。
かつては有料道路で快適なドライブを楽しめる道であったが、最近は無料で解放されている。だから時節柄「もみじ狩り」とおぼしき家族連れの車輌も、前後にたくさん連なっていた。

ところが……、草津温泉街をすぎてしばらくいくと、突然車止めがあって、係員に制止された。
「ここから先は、昨夜の降雪が凍結していて危険です。すべての車輌が通行止めです」
嫌も応もなかった。すべての車はそこからUターンを余儀なくされた。再確認すると、2012年11月03日、まだ降雪には早すぎる、秋分の日のできごとだった。
残暑のきびしいことしだったが、このときは意外にはやく降雪があったようである。いずれにせよ国道292号線は2012年11月15日-2013年4月25日まで本格的な冬期閉鎖期間となっている。

急遽予定を変更して、嬬恋村 ツマゴイムラ から 菅平高原 をへて、信州・須坂におりる一般国道に変更した。こちらには2,000メートルをこえるような高度はないが、菅平高原から須坂への最後の下り坂は急峻で、かなりのベンチャールートとなる。

草津・志賀高原ルートをあきらめ、群馬県側の嬬恋村 ツマゴイムラ をへて、県境の鳥居峠に辿りつく。そこで小休止して長野県側の菅平高原にはいる。最後の下り坂は、かつては山崩れがたびたびあって難所のひとつだったが、随分と道は整備されていた。
ようやく信濃の国、信州飯山市にたどりついたのは、すでに昼下がりのころであった。

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《 飯山は、日本のふるさと …… 》

ところで、南国の四国や九州出身のひとでも「ふるさと」というと、藁屋根に雪がこんこんと降りつもり、あといくつ寝るとお正月になるのかを、炬燵にあたって、ミカンを食べながらかぞえる情景をおもいうかべるらしい。そして春の小川には、どじょっこや、鮒っこが泳ぎまわるらしい……。
それはまさに、信州信濃の山奥の、ここ飯山の情景であることをおおくのひとは知らないでいる。

飯山市・信州中野市・木島平村の境ににそびえる休火山「たかやしろ 高社山 コウシャサン、別称・高井富士」。右のうしろがわには溶岩流が流れた美しい山裾がみられる。ここから4キロほど上流の旧飯山町内からは、左側の主峰はかくされて、右端の支峰だけが、まるでシルクハットを伏せたようにみられる。たかやしろは、飯山では東を指ししめす絶好のランドマークとなっている。

信州・いいやまは、日本の ふるさと とされる……。つまり典型的な田舎の風情がある。

ノー学部は、こういう阿呆なシロモノをどこにいってもいちはやく発見する。そしてこんな噴飯ものの呆けたおこないが好きである。やつがれはもうやけくそで「ヘソ丸出し、莫迦丸出し」の愚行に加えられる(撮影:鈴木 齊)。

老人施設に100歳超えのおふくろを見舞う。娘時代までの記憶はあるがおおかたの記憶はない。妹(娘)に「お名前は?」と聞かれると「藤巻のり(旧姓)」と応えるおおらかさである。やつがれ同様おふくろの眉毛もぶっといことを再確認した。それでもやつがれより元気なのではないかとおもえる壮健さが救いである。旅の主目的をここに達成。

おぼろ  月  夜

  菜の花畠に 入日薄れ
  見わたす山の端 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば、
  夕月かかりて、にほひ淡し

     二
     里わの火影ホカゲも 森の色も
     田中の小路を たどる人も
     蛙カワズのなくねも かねの音も
     さながら霞める 朧月夜

蛇  足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
小学唱歌『朧月夜 オボロ-ヅキヨ』 
作詞:高野 辰之 (明治09年4月13日-昭和22年01月25日)
作曲:岡野  貞一 (明治11年2月16日-昭和16年12月29日)
昭和08年(1933年)『新訂尋常小学唱歌 第六学年用』
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《高野辰之タツユキさんのこと と 高野辰之記念館 》
高野辰之さんの生家は、旧飯山藩藩領、長野県下水内郡豊田村のかなりゆたかな農家であった。
やつがれの生家は、豊田村から秋津村をはさんで、千曲川にそったもうひとつ下流で、東に千曲川、西には新潟県との県境につらなる山山にはさまれた下水内郡飯山町  → 現  飯山市である。

高野さんは、飯山中学(現飯山北高)、長野師範学校(現信州大学教育学部)卒。飯山町で教員生活をしたのち、東京音楽学校(現東京藝術大学)教授となり、在京時代は代代木駅前に居住していた。その代代木の木造の旧居には、3年ほど前まで記念柱があって保存されていた。
老境にいたり、郷里にちかい長野県上高井郡野沢温泉村の湯源の麻釜のちかくに陋屋をもとめ、それを「対雲山荘」と名づけて移住して、ここで老境をすごして永眠された。
現在野沢温泉には、遺著や遺作を収蔵する《おぼろ月夜の館 斑山ハンザン文庫》がのこされている。

高野辰之さんと、やつがれの母方の祖父/藤巻 一二 イチジ、その弟で大叔父/藤巻幸造は、旧制飯山中学の同窓で、よほど昵懇だったらしい。
またオヤジの郷里も長野県下高井郡野沢温泉村大字坪山のちいさな農家であり、また、飯山中学の後輩でもあった。だからしばしば大叔父/藤巻幸造や、父母に連れられて、野沢温泉の高野家隠居所「対雲山荘」を訪問した。昨年逝ったアニキは、高野さんに抱かれたことを覚えており、その写真も実家にある。
やつがれも抱かれたらしいが、なにぶん乳児のころとて記憶にない。わずかに「温泉のおばあちゃん」と呼んでいた高野未亡人に、おおきな温泉風呂にいれてもらったり、氷水やマクワウリをご馳走になったことをおぼろに覚えているくらいである。
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猪瀬直樹『唱歌誕生  ふるさとを創った男』(小学館、2008年08月)がある。
主人公は高野辰之さんと、真宗寺 元住職 井上円光氏。この浄土真宗西本願寺派・安養山 真宗寺の元住職は、1902-14(明治35-大正03)の頃、ここ草深い信州から旅だって「大谷探検隊」の一員として、敦煌莫高窟の調査にあたった奇特なひとである。

この真宗寺はふるく、島崎藤村の小説『破戒』の主人公・瀬川丑松の下宿先として描かれた寺でもある。『破戒』のなかでは真宗寺は蓮華寺とされているが、地元では蓮華寺=真宗寺であることは周知のことである。しかしながら島崎藤村の描写の一部に問題があるとして、真宗寺23世住職・井上寂英は激怒して、高野辰之氏までまきこんで、
「島崎藤村は仏法の敵である。藤村には二度と信州の敷居をまたがせない」
とまで怒ったと伝えられていた。
そこで地元の教育委員会が中心となって、真宗寺と島崎家の和解をはかり、1965年にようやく和解がなり、いまではご本堂右手に《破戒の碑》が建立されている。

真宗寺には、このほかにもおもしろい逸話がたくさんのこっている。
1868年(慶応4)幕末の戊辰戦争に際して、徳川幕府派の越後高田藩士/古屋作左兵衛門ら衝鋒隊 ショウホウタイ 隊士600名余が飯山城下に結集し、この上町 カンマチ(現 南町) 真宗寺を本陣としてたてこもったことがあった。

ときの飯山藩は親幕府派ともいえた存在だったようであるが、なにぶん藩兵150名たらずの小藩でもあり、心底困惑し、城をかたく閉ざして模様みをきめこんだらしい。ところが城下の住民は衝鋒隊に物心ともに助力することが盛んで、真宗寺の本陣に駆けつけて気勢をあげたりしたので、藩名をもって沈静を命じていた。

その鎮圧のため新政府軍として松代藩兵ら2,000余名が、千曲川右岸(東岸)の木島平に布陣し、時間的にはほんの少少の抵抗で、武力におとる幕府派衝鋒隊は鎮圧されたとされている。
その際飯山城下はおもに衝鋒隊による放火で炎上し、中町・肴町・愛宕町・神明町など、城下の山側半分を焼失した。俗にいう「幕末 飯山戦争」である。

「幕末 飯山戦争」に際して、飯山藩は局外中立をたもったとはいいながら、その大手門付近でも交戦があり、親幕府派のものか、新政府軍派のものかはわからないが、大手門の柱にはいくつもの刀傷や弾痕をのこしていた。
このかつての飯山城大手門はちいさなものではあるが、現在は長野市の信叟寺(長野市大字金箱 禅宗 万松山信叟寺)の山門としてのこされている。

そもそも 飯山藩 なぞ、北信濃4郡を支配した3-5万石そこそこの小大名にすぎず、城というのも哀れなほど、ささやかな小山を根拠地にしたにすぎない。
それでも飯山の住民は、いまでもひそかに、戊辰の戦争に際して、越後・長岡藩や陸奥・会津藩などの雄藩と同様に、小藩ながら孤軍奮闘、中央権力に抵抗したことを誇りとする異風がある。

変わり者、頑固者が多いのが飯山の特長とされる。「〇〇居士」を名乗るほうもたいがいだが、それを墓石に刻むことを許す寺も随分と鷹揚かも知れない。ふつうは整備されているがこのときはケヤキの大木の落葉が積もっていた。右奥の黒い小さな御影石が、やつがれの生家の墓標。

現在の真宗寺の住職は、26世・井上孝雄コウユウ氏である。このひとはやつがれより4-5歳年上で、かつては「孝雄 タカオ ちゃん」と呼ばれて、弟の「孝栄 コウエイ ちゃん」ともども、やつがれらと、大公孫樹イチョウによじのぼったり、ケヤキの大木に足場をこしらえて隠れ家をつくったりと、なかなかのやんちゃであった。

ところで、浄土真宗では、読経のあとに「お説教」という行事がある。これは文字どおり、読経のあいだの正座で、足がしびれて悲鳴ををあげているのに、さらに念入りに仏教行事として「ありがたいお説教をお垂れあそばされる」(ご法話)困った モトイ ありがたいしきたりである。
ところが、オヤジやアニキの法事などでの真宗寺26世・井上孝雄コウユウ住職の「お説教」は、しみじみとこころに沁みるものがあった。さすがである。

ここ、真宗寺は、1953年(昭和28)5月18日に「飯山大火」という、フェーン現象下でのおおきな火災で、飯山町の南側半分117戸とともに焼失した。当時やつがれは小学2年生であった。このときやつがれの生家は飯山駅前にあったが、3件隣で火は鎮火して焼失は免れた。
徴兵から復員後に借家で開業していたオヤジは、こののち、真宗寺の焼失地の一隅を購入して移転した。そのためにお寺と医者が隣接しているという奇妙な光景がうまれることとなった。
ここ、真宗寺に、やつがれのオヤジとアニキは眠っている。
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『おぼろ月夜 ♫ 菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし~』
『故郷フルサト ♫ 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川~』
『春の小川 ♫ 春の小川は さらさら流る 岸のすみれやれんげの花に~』
『春が来た ♫ 春が来た 春が来た どこにきた~』
『紅葉モミジ ♫ 秋の夕陽に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数あるなかに~』
以上の小学唱歌の作詞は、すべて高野辰之さんである。

猪瀬直樹(実は お~獅子シッシ と呼んでいた、高校の一級後輩)はしるす……。
「ほとんどの日本人は、ふるさとというと、たくまずして、山があり、川が流れ、雪がシンシンと降りつもる、ここ北信州・信濃の飯山周辺の情景をおもう。それは小学唱歌で刷りこまれた幼児時代の記憶であり、その作詞家・高野辰之の心象描写による」
と。お~獅子、エライ!(ここは選挙とは一切関係なし! 為念)。

《やつがれの方向感覚とランドマーク》

たかやしろこの山河の邦・飯山で中学時代までをすごした。ここはまた地勢的には飯山盆地とされる。
高校生になって30キロほど千曲川の上流で、すこし平野部のひろい善光寺平の長野にでた。
そのとき……、体内磁石というか、方向感覚が狂ったおもいがした。すなわち土地の目印というか、陸標というのか、ランドマークを喪失したおもいがした。

やつがれにとっての基準点とは、いまもって、あくまでも飯山町である。
そこでの東とは、まるでシルクハットのようにみえる、たかやしろ(高社山 コウシャサン、別称・高井富士)であった。それがすべてであり、西とは、まだらお(斑尾山 マダラオサン)であり、南とは、千曲川(新潟県では信濃川トモ)の上流で、北とは、千曲川の下流であった。
だから長野でも、その後あちこち移動して、東京にでてからでも40余年になるが、いまもって方向の認識は、いったん飯山の情景に置換してからになる。

山河がとぼしく、平野部が広大な関東平野や北海道出身のかたの体内磁石はどうなっているのだろう。太陽がでている昼間ならともかく、曇天や夜などは、どのように方角や方向を認識しているのか良くわからないままでいる。
関東平野のど真ん中、埼玉県の平野部出身の某氏にそれを聞いた。
「エ~と、駅の北口とか、西口とかあるじゃないですか。それが目印です」
やはり、そうか……、というおもいであった。認識と目印は違うんだけどな、というおもいで聞いていた。息子にも聞いたが、北とか東とかに、そんな興味はないという素っ気ない返答であった。

のっぺらぼうの東京、それも交通が便利なだけに移動圏がひろがり、ビルの乱立している近代東京では、富士山を望遠することも稀になった。したがってただの棒か点でしかない、東京タワーも、スカイツリーも、ランドマーク(地標)とはいいがたいものがある。
娘も息子も東京で生まれ育ったが、おそらくやつがれとは、方角の認識にたいする執着度がことなるのであろうか……。

《平成の大合併のもたらしたもの……》
ところで、北アルプスに源流を発する梓川と、中央アルプスに源流を発する千曲川は、長野市のあたりで合流して、新潟県にはいると信濃川となる。上流からみて、その左岸はふるくから、上水内カミミノチ郡、下水内シモミノチ郡、右岸は、上高井カミタカイ郡、下高井シモタカイ郡と呼ばれてきた。
このように千曲川に沿った地域では、川上・川下にたいする意識がつよく、それをつづめて「カミ、シモ」などともする。

千曲川をはさんだだけというのに、あまり橋もおおくなかったこの時代、これらの各郡はともに競合し、たがいになにかとライバル視する仲でもあった。もちろんそれは、県会議員の選挙区区割りや、通学圏、通婚圏や、ふしぎなことに文化圏や言語圏などにもその影響はおよんでいた。

高野辰之さんの郷里と、やつがれの郷里は、かつてはともに下水内郡であり、道路が整備されたいまでは車なら10分ほどの距離であり、実家の片塩医院の通院・往診範囲内であった。
ところがなんと、豊田村は2005年04月01日、いわゆる平成の大合併で、川向こうの旧下高井郡信州中野市と合併した。
したがって、かつて飯山市が中心となって設立した 高野辰之記念館 は、信州中野市の施設となっている。 

豊田村の合併にやぶれた飯山市は逆襲にでて、これもやはり川向こうの下高井郡にてをだして、野沢温泉村を合併しようとしたが、住民投票の結果合併は否定され、野沢温泉村は勇気ある孤立のみちを選んだ。
すなわちわがふるさと・飯山市は、豊田村を川向こうの中野市にうばわれ、ならば仕返しとばかり、川向こうの野沢温泉村に合併をしかけて袖にされた。豪雪の地、過疎の町・飯山は、あまりにあわれである。

オヤジが元気なころ、盆暮れには子供をつれてそんな飯山にたびたび帰省していた。オヤジが去って、アニキの代になると、次第に足が遠のいた。
まして昨年アニキが逝くと、ひとがいいとはいえ、兄嫁さんと甥・姪の家では、もうふるさととはいいがたいものがある。
てまえ自慢と同様に、いなか自慢はみっともないとされる。
されど、故郷  忘じ難く候!

朗文堂-好日録019 活版カレッジ台湾旅行 新活字母型製造法を日星鋳字行でみる

《CAD システムを駆使した日星鋳字行の活字母型製造法》
今回の台湾旅行の最大の目的は、台湾・台北市にある活字版製造所/日星鋳字行(代表/張 介冠氏 チョウ-カイカン)をたずね、パンタグラフの比例対応方式を応用した、機械式活字父型・母型彫刻法(以下ベントン彫刻と略称)にかわる、あらたな活字母型の製造法、すなわち  Computer Aided Design(CAD)方式の採用による「あたらしい活字母型製造法」を実地に体験して、それを学習することにあった。

既報のとおり、わが国における近代活字の活字母型製造法とは、なんの疑いもなく、西洋近代の文明開化を象徴する新技術として、明治最初期から「電鋳法(電胎法とも)活字母型 Galvanic matrix」がほとんどであった。
この方法は簡便ではあるが、「既成の活字から、それを複製原型として、あらたな活字母型、活字をつくる ──  Making Matrices from Type」、すなわち活字の不正複写が多発するとされて敬遠され、欧米ではオーナメントや精密画像の複製用などの「電気版 電胎版とも Electrotype」に使用される程度にとどまった技法であった。

ところがわが国では、近代タイポグラフィの導入期から、各地の活字鋳造所でひろくおこなわれていた活字母型製造法は、この不正複写問題が多発するとされ、欧米では敬遠された「電鋳法(電胎法とも)活字母型 Galvanic matrix」であったことは、そろそろ明確に記憶にとどめてもよいだろう(『Practical Typecasting』Theo Rehak, Oak Knoll Books, Delaware, 1993, p.152-163 )。

わが国では、ほかには「弘道軒清朝活字」を製造販売した「弘道軒活版製造所」など、ほんの数社が、欧米とおなじように、複製原型としての活字父型を彫刻して「パンチド・マトリクス方式  Punched Matrix」を採用して活字母型を製造していた。

すなわち世界的な規模において、近代タイポグラフィ界にあっては、ながらく、活字製造の複製原型は活字父型(木製のばあい種字とされることもある)であり、その活字父型(種字)の存在が、原鋳造所のなによりの誇りであり、証明となっていた。
当然活字父型はたいせつに保管されていたので、欧米各国の活字鋳造所、活字博物館、活字記念館などでは枢要な展示物として活字父型をみることができる。

わが国では、前述した弘道軒活版製造所の活字父型のほとんどは、関東大地震の被害をまぬげれて、神崎家 → 岩田百蔵氏 → 日本タイポグラフィ協会の手をへて、まだ未整理な段階にあるものの、現在は印刷博物館が所蔵している。
また岩田百蔵氏の時代、少数ながら弘道軒活版製造所のよく整理された資料が、女婿・平工栄之助の手に継承され、その資料は研究対象として現在朗文堂がお預かりして、公開展示や実際の印刷テストなどにももちいている(平工家蔵)。
【参考資料:「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌 04』(片塩二朗、タイポグラフィ学会、2010年11月1日)】

イタリアのタイポグラフィの王者、王者のタイポグラファと称賛される Giovanni Battista BODONI(1740-1913、パルマ)の「ボドニ活字博物館」の収蔵資料。同館ではボドニの活字父型、活字母型、鋳造活字、それで印刷された書物がすべてセットで展示されているのが大きな特徴である。

このパンタグラフの原理を応用した機械彫刻方式は、リン・ボイド・ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)によって、1884年に活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化された「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」であった。
しかしながらこの方式による機械式活字母型製造法は、安形製作所、協栄製作所などの彫刻技術者が2012年に相次いで逝去されたため、ここに、アメリカでの実用化から128年、国産化から62年という歴史を刻み、2012年をもって事実上幕をおろすこととなった。
【参考資料:花筏 タイポグラファ群像*004 安形文夫】

すなわち、これからのわが国での活字鋳造の継続を考慮したとき、いかに慣れ親しんだ技法とはいえ、残存するわずかな原字パターンの字体にも、常用漢字を中心に時代性と齟齬がみられたり、もはやあまりにふるい「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」という19世紀の活字製造周辺技術にすがることなく、いずれ、あらたな活字母型彫刻法を開発しなければならない状況にあった。
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台湾における活字鋳造会社、日星鋳字行の存在と、そのCAD方式をもちいたあたらしい活字母型製造法の情報は、だいぶ以前から林 昆範 リン-クンファン 氏(台湾中原大学助教授、タイポグラフィ学会会員)からいただいていた。
したがって、そもそもこの台湾旅行は、昨年中におこなわれる予定の企画だったが、2011年3月11日の東日本大震災の影響もあってのびのびになっていた。その間逆に、昨年末に数回、日星鋳字行の張 介冠 チョウ-カイカン 代表と、台湾活版印刷文化保存協会の 柯 志杰 カ-シケツ さんが、日本における活字鋳造の現状調査、台湾のテレビ局の取材の立ち会い、欠損部品の補充などを目的に、わざわざご来社いただくことが数度あった。

さらにふしぎなことに、昨2011年の年末、クリスマスの日も、年末をもって廃業される活字関連業者の設備移動に関して、急遽来日されたおふたりと過ごしていた。
なによりも日星鋳字行さんは《活版凸凹フェスタ2012》に独自スタンドをもうけて出展されており、アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕会員の皆さんとも、すっかり親しい間柄になっていた。
★アダナ・プレス倶楽部 活版凸凹フェスタ*レポート14 

  
  
  
上左・右)日星鋳字行のコンピューターで、あらかじめ送付しておいた原字データーに、鋳造活字にもとめられる「Bevel 傾斜面」のデーターを付加するなど、CAD彫刻方式に必要な画像処理が加えられていた。

中左)そののち、斬削加工機にデーターが搬送される。この斬削加工機はさして特殊なものではなく、金属加工業界ではふつうにもちいられている程度のものだそうである。
中右)所定の金属材料マテ(Material のなまり。ここでは真鍮の角材)を、定められた位置に正確に置いて固定する。それ以後は操作パネルの操作で、極細のドリルが降下してきて、あとは自動的に彫刻がはじまる。

下左)ドリルの移動は、ベントン彫刻機が手技によって輪郭線をなぞる作業からはじまるのにたいして、本機ではデジタル・スキャナーと同様に、ドリルは上部から下部にかけて、水平運動を繰り返していく。ドリルは作業中交換されることは無く、この1本のみで終了する。これで初号から、現段階では実験的ながら、六号サイズまでの活字母型彫刻に対応しているとのことである。
下右)彫刻を終えた活字母型は、検品・補修のうえ、すぐさま活字鋳造がはじまった。日星鋳字行には活字鋳造機が、台湾製/2台と、日本・八光活字鋳造機製作所(長野県埴科郡戸倉町に旧在した)による「全自動活字鋳造機 セルフデラックス」1台があった。今回の活字鋳造は八光活字鋳造機製作所のものがつかわれた。

日星鋳字行の活字鋳造機は、上掲写真右側の八光活字鋳造機製作所(長野県埴科郡戸倉町に旧在した)の製造による「全自動活字鋳造機 セルフデラックス」とほぼ同型の機種であった。

今回の参加者全員の原字データーは、いったんアダナ・プレス倶楽部に集約されて、かつてのベントン彫刻機のパターン製造のときと同様に、あらかじめ簡便な「文字作成ソフトウェア」をもちいて、2インチ角の枠と、センター・トンボをつけた文字データとして日星鋳字行に送付しておいた。
作成予定の活字母型と活字は、初号活字(42ポイント)であった。形象が複雑で、彫刻時間が長時間になるものは、あらかじめ日星鋳字行で機械彫刻が先行していた。

彫刻時間だけをみると、楷書体初号「朗」のひと文字を彫刻するのに15分ほど、おなじく「文」のひと文字を彫刻するのに10分ほどの時間がかかった。
斬削中はつねに操作面に機械油が注がれて、斬削粉の除去と、ドリルの加熱を防止していた。
なにぶん金属加工や機械関連には知識が乏しい。また、日星鋳字行の独自のノウハウも尊重しなければならない立場であった。そのため参考資料として【平田宏一氏 機械加工の基礎知識】をあげておいた。関心のあるかたは参考にしていただきたい。

《活版凸凹フェスタ2012》会場にて──2012年05月05日

上) 『昔字・惜字・習字』(臺灣活版印刷文化保存協會 2011年 中華民国100年12月
同書の序文に「鉛活字印刷技術之復興 ── 風行一時、日星又新」とある。
日台でのおもいは同じで、どちらも《活版ルネサンス》。柯 志杰さんによると、
いまの台湾では、活字鋳造、活版印刷の崩壊をあやうく防止できたという段階に
あり、これから徐徐に修復作業にとりかかり、将来課題として新刻作業に入る
段階にあるとのこと
である。
左) 日星鋳字行  張 介冠(チョウ-カイカン)代表

右) 台湾活版印刷文化保存協会  柯 志杰(カ-シケツ)さん

日星鋳字行地階の作業場にて。後列はアダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ修了生の皆さん。

前列右)日星鋳字行  張 介冠(チョウ-カイカン)代表
前列左)台湾活版印刷文化保存協会  柯 志杰(カ-シケツ)さん

  

  

 上左)日星鋳字行は活字版製造所(活字組版所)を兼ねているため、活字の在庫はふつうの活字鋳造所にくらべるときわめて多い。写真は文選箱を手に、ずらりと並んだ活字ケース架をぬって、台湾ならではの活字の購入に忙しい会員の皆さん。
上右)さまざまな国からの見学者が増え、カバンや手荷物が当たって活字の落下事故が増えているそうである。活字ケース架(ウマ棚)には手荷物の持ち込みはやめていただきたいとのこと。
また財政担当の張夫人がやつがれに、
「長時間見学や撮影だけして、なにも買わないか、せいぜい名前の活字2-3本だけ買って帰る人はねぇ」と、ポツリ……。結構こたえた!

下左)台湾では縦組み、横組みを問わず「句点  、」と「読点 。」も中央におかれる。そのための中付きの句読点の活字。
下右)台湾・日星鋳字行にもありました! 「活字列見」。
「やつがれ-これをナント呼んで、ナニに使っていますか」。「張代表-名前は知らないけど、欧文活字を鋳込むとき、ベースラインを見本活字とあわせるのに必ずつかっています」。「やつがれ-なるほど、日本とほとんど同じですね」。「柯さん-そうか、知らなかったなぁ」。

日本と台湾のタイポグラファの交流はこうして続いていく。

★タイポグラフィ あのねのね*016
これはナニ? なんと呼んでいますか?  活版関連業者からお譲りいただきました。

★タイポグラフィ あのねのね*018
Type Inspection Tools   活字鋳造検査器具  Type Lining Tester  活字列見

【この項つづく】

朗文堂-好日録016 吃驚仰天 中国西游記Ⅱ宋版図書 復活・再生の地 杭州・紹興

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《 海の日の休日を利用して、ふたたび 杭州 ・ 紹興への旅 》
フトおもいたって、昨年9月に訪れた杭州 ( Hangzhou ) と、紹興 ( Shaoxing ) にいきたくなった。
このまちは宋版図書の主要な製造地であり、その 「 復活 ・ 再生 」 のまちで、宋朝体と呼ばれる字様 ・ 活字書体を産んだまちのひとつでもある。

便利な時代になった。 杭州と紹興の中間地点までは ANA の直行便がフライトしている。
同行者はノー学部。 ノー学部は、なにやら中国史研究に遠大な構想 ( 夢想? ) をいだいているらしい……。 そのせいか最近は、書芸と中国史の学習にことのほか熱心にとり組んでいるのだ。

どうやらノー学部の研究テーマの主要項目に 「 美食 」 があるらしい。 旨いレストラン ( 中国のばあい、ほとんどすべてが 「 中国料理店 」 だが、都市ごとに味わいがことなり、どれもがおいしい ) や、スィーツ専門店を探すのに夢中になったりする。 また旅のスケジュールを、ともかく、めいっぱい、隙間無くうめる癖がある。これは勘弁だ。

やつがれは、そのまち、その場の空気を吸っているだけでいいという、呑気な性癖である。
したがってノー学部による分秒刻みのスケジュールに、真底辟易し、あえぎながら坂道をのぼり、歩き、走りまわることになる。これだけは本当に勘弁してほしい(怒)。
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上掲の彫刻写真は、2009年秋に再開発がなった 「 南宋御街 ギョガイ 」 でたまたまみかけたもの。 しかしこの彫刻は、書芸と詩作と 「 美食 」 にある程度造詣がないと、ほとんど意味をなさない。
やつがれは 「 美食 」 にはまったく関心が無いが、この前夜、前掲 「 書芸 ・ 詩作 ・ 美食 」 三単位初級編を、ホテルのすぐ近くの大衆レストラン ( もちろん中国料理店 ) で学習した ( つまり食した ) ばかりだったので、おもわず笑い転げてしまった。

東坡肉の実際。やつがれの食したのはもっと庶民的かつ素朴なものだった。
杭州では、ひと皿10元 ≒ 125円。 新宿の杭州料理店では 1,200 円だった。
例によって撮影失敗につき、 中国版Websiteより紹介。

このあたりは王城域とされ、杭州が南宋のみやこ ・ 臨安とよばれていたころは、王宮の内宮をでると 「 大廟 ダイビョウ 」 があった。 これに隣接して 「 察院前巷  サツインゼンコウ 」 とされる、おおきな宮殿と広場があった。
「 大廟 」 では、元旦 ・ 白馬 アオウマ ・ 踏歌 トウカ ・ 端午 ・ 相撲 スマイ ・ 重陽 チョウヨウ ・ 豊明 ホウメイ などの祝祭をおこなう 「 節日 セチニチ 」 に、皇帝が文武の百官をここの宮殿と おお広場で謁見した。
「 大廟 」 の左右には 丞相府 ( ジョウショウフ 首相官邸に相当 ) があり、ここから鼓楼へかけてのまっすぐな道が王宮中央通りとされて 「 御街  ギョガイ 」 と呼ばれていた。

ところが南宋末期、衛宗 祥興元年(1279)、臨安は蒙古族元軍の襲来をうけて、王宮はもちろん、大廟や丞相府や察院前巷も焼け落ちて、ながらく地下に埋もれていた。
ようやく近年発掘調査がおこなわれ、また再開発されて公開されるようになった。

いまこの周辺は観光地として拓けつつあるが、たれもがガイド ・ ブックに紹介された杭州にはたくさんある 「 名所 ・ 旧蹟 」 をみるのにせいいっぱいで、ガイド ・ ブックにも掲載が無く、ガイドも案内しない、こうした 「 現代彫刻 」 には、たれも足をとめない。

やつがれはこのあたりを、ほぼ2日間うろついていた。 人通りはそれなりに多いとおもっていたが、あらためて写真をみると閑散としたものでおどろいた。 そのためもあるのか、わが国にたくさんあるブログ版 「 中国旅行記 」 のたぐいの写真でも紹介されたことはないようである。

やつがれ、しばらく彫刻に足をとめ、涼風をもとめて石のベンチに腰をおろしていた。 そこに地元の家族連れがとおりかかり、ひとりの少女がここで立ち止まって、小首をかしげたりしながら熱心に彫刻をみていた。

ふつう女性がこうして腰に手をやってこちらを見据えると、危険信号である。
やつがれのとぼしい経験では、次のフェーズは  当然のように、怒りにまかせて手近の皿やコップがとんでくるものだ。
ところが少女は興味深そうに彫刻をみ、そして先にあるいていった母親のあとをいっさんに追っていった。 皿もコップも飛んでこなかった。 この敏捷で利発そうな少女は、将来、詩人か造形家か、はたまた政治家か料理人にでもなるのだろう。

彫刻左のおおきな像は、蘇  軾 ソ-ショク ( 号 ・ 東坡居士、唐宋八家のひとり。 蘇東坡 ソ-トウバ としても知られる。 官僚 ・ 詩人 ・ 文章家 ・ 書芸家  1036-1101 ) である。
下にあげた 『 食猪肉 』 の詩は蘇軾のもの。 ここでの猪は豚のことである。
すなわちこのまちの名物食品、豚の煮物 「 東坡肉 トン-ボー-ロウ 」 の考案者・蘇軾を、諧謔精神たっぷりに、おおきな彫刻をもって伝えたものである。

東坡肉 : 中国版画像 】
もしこの杭州のまちにいかれたら、ぜひとも 「 東坡肉  トン-ボー-ロウ 」 を食されることをお勧めしたい。
長崎卓袱 シッポク 料理の一部や、鹿児島の郷土料理に、豚肉と大根を煮込んだ類似のものがあるが、蘇東坡考案の杭州 「 東坡肉 」 は、豚の脂がくどくなくて、美味である!  ノー学部なぞ、画像のような 「 東坡肉 」 の大皿を、ふつかの間になんと 3 皿も食していたほどのものである。

   黄州好猪肉
     價賤等糞土
     富者不肯喫
     貧者不解煮
     慢著火少著水
     火候足時他自美
     毎日起来打一碗
     飽得自家君莫管
        ──  蘇  軾 『 食  猪  肉 』 

いずれにしても、近代造形と、歴史的言語性を考えさせられる 「 現代彫刻 」 ではあった。

《 北宋のみやこ 開封における出版事業の隆盛と消滅 》
中国における木版印刷術の創始には諸説あるが、おそらく唐王朝中期、7-8世紀には、枚葉の木版印刷から、木版刊本といわれる、素朴ながらも書物 ( 図書 ) の状態にまで印刷複製術は発展していたとみられる。
つづく五代といわれる混乱期にも、後梁、後晋、後漢、後周などの、現在の開封 ( カイホウ、 Kaifeng ) にみやこをおいた王朝を中心に技術が温存され、10世紀 ・ 北宋 ( 趙氏、9代、960-1127 ) の時代に、宋版図書といわれる中国の古典書物としておおきく開花した。
────────
北宋のみやこは五代の諸国と同様に、中国河南省中部、黄河の南方平野にある開封(カイホウ、 Kaifeng)であった。いまもなお開封は雄偉な城壁をめぐらす、おおきな城市(まち)である。
この城市がひらけたのは紀元前からとふるく、戦国七雄のひとつ 魏 ( 晋の六卿のひとり 魏斯が建朝。
前403-前225 ) が、安邑からこの地にみやこを移して 「 大梁 タイリョウ 」 と呼んだ。 魏は山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めたが、のちに勢いをました 秦によってほろぼされた。

やがて唐王朝の滅亡後、10世紀の初頭、五代 ・ 後梁のみやこ 「 東都 」 となり、つづいて後晋 ・ 後漢 ・ 後周もここにみやこをおいて 「 東京 」 と称した。
すなわち 「 分裂時代 」 とされる五代十国時代ではあるが、五代にわたる漢民族王朝のうち、洛陽にみやこをおいた 「 後唐  923-936 」 以外の四国は、開封 ( 東都 ・ 東京 ・ 汴 ) をみやことしたのである。

また十国とされたちいさな王朝でも、蜀の国 ( 現在の四川省 ) に建朝された 「 後蜀  934-965 」 では、965年ころには、あきらかに、
「 蜀地の文化の新 展開と、経書の印刷がおこなわれていた 」 ( 『 標準世界史年表 』 亀井高孝ほか、吉川弘文館、1993年4月1日 ) のである。
「 木版印刷の創始は宋代 」 からという説からは、そろそろ卒業したいものである。

そして宋代になってからも、この蜀の地で製造される大判の刊本は 「 蜀大字本 」 とされて、評価がきわめてたかかった。 そのひとつ 『 周礼 シュライ 』 がわが国の 静嘉堂文庫 ( 東京都世田ヶ谷区 ) に伝わり、重要文化財になっている。
それを参考資料として製作されたデジタル ・ タイプが 「 四川宋朝体  龍爪 」 ( 製作 ・ 欣喜堂、販売 ・ 朗文堂 ) である。これがして、やつがれが北宋 ・ 南宋の両方の宋王朝と、宋朝体に膠泥するゆえんのひとつでもある。

60年ほどつづいた五代にかわり、ふたたび統一王朝 ・ 宋を建朝したのは、後周の将軍であった 趙 匡胤 ( チョウ-キョウイン、太祖、在位 960-976 ) である。宋は五代の王朝のみやこを継承して、その名を 「 汴 ベン、東京開封府 トウケイ-カイホウフ
」 とした。
宋は軍閥の蟠踞をふせぐために、重文軽武 ( 文官優位の治世、シビリア ン・ コントロール ) につとめ、文治主義による官僚政治を樹立したが、外には 契丹 キッタン 族の遼、チベット系タングート族の 西夏 セイカ の侵略に悩まされ、内には財政の窮迫に苦しんでいた。

1127年、中国東北部にあって急激に勢力をました満州族の金 ( 女真族 完顔部  ジョシンゾク-カンガンブ、阿骨打 アグダの建てた国 ) が、会寧府 ( 吉林省阿城県 )、燕京 ( エンケイ、北京 ) を占拠して、遼、内モンゴルにつづいて 「 汴 ベン、東京開封府 」 を占拠して、宋 ( 北宋 ) を滅ぼした。
この北宋の滅亡に際しては 「 靖康 セイコウ の変 」 とされる悲劇が伝えられる。

北宋の風流皇帝と呼ばれた 徽宗 キソウ ( 趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 ) の書。
上から、「 穠芳詩巻 」 「 牡丹詩帖 」 「 楷書千字文 」。 徽宗帝 趙佶は書画にすぐれ、みずからの書風を 「 痩金体 」 と名づけた。

趙佶は初唐の書家 ・ 薛曜 ( セツ-ヨウ  生没年不詳 ) から学ぶところがあったとされる。 影印資料ではたしかに両者に類似性もみられるが つまびらかにしない。
「 楷書千字文 」 はいまは上海博物館の所蔵で、ここで真筆をみて、CDR版を含む、できのよい複製版を購入することができる。 『 宗徽宗書法全集 』 ( 王平川、北京 ・ 朝華出版社、2002年1月 )

北宋の靖康2年(1127)、金軍が前年の攻城戦と和睦に続いて、再度南下して大規模な侵攻をおこなって、ついにみやこの 「 汴 ・ 東京開封府 」 を陥れた。これが 「 靖康の変 」 とされる事件である。 ここに宋 ( 北宋 ) は 9 代をもって滅亡した。
その際、風流皇帝と呼ばれた先帝の上皇 ・ 徽宗 キソウ ( 趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 )、皇帝 ・ 欽宗 ( 趙 桓、在位 1125-27 ) をはじめ、廷臣 3,000 余人を虜囚として 北辺の僻地につれさって、主要な虜囚は極寒の地、五国城 ( 現黒竜江省 ) に幽閉した。

風流皇帝ともされ、芸術に惑溺した徽宗の在位は25年におよんだが、為政者としての評価はきわめてひくい。そのため汴の陥落直前に 趙桓 ( 欽宗 ) に帝位を譲って上皇となったが、「 靖康の変 」 に際しては上皇 ・ 皇帝ともに金国の虜囚となって、北辺の地で没した。 遺骸は満州族の風習にしたがって火葬に付されたのち、遺骨が南宋に送還された。
そのために趙佶は追尊されて徽宗帝とされ、その陵墓 「 永祐陵 」 は、旧南宋領内のみやこ  ・ 臨安のちかく、紹興城市の東南18キロほどのところにあるという(未見)。

《 版木ともども消滅した北宋刊本 》
[ 本項は 『 大観  宋版図書特展 』  台北 ・ 故宮博物院、2007年12月を主要資料とした ]
北宋のみやこ、開封でさかんだった刊刻事業 ( 出版 ) であるが、この時代 ( 10-12世紀 ) の木版刊本の書物 「 北宋刊本 ・ 北宋図書 」 は、ほとんど中国や台湾には現存しない。
たとえ刊記がなくても、字様 ( 木版刊本のうえにあらわれた字の形姿 ) や装本状態からみて、北宋時代のものと推定されるものをかぞえても 十指におよばず、ほんのわずかしかない。
その点においては、15世紀欧州の初期活字版印刷物 「 インキュナブラ 」 の稀覯性などとはとても比較の対象とならない。

図書や法帖の製作は、国子監だけでなく宮殿内でもおこなわれていた。
宋王朝第 2 代皇帝 ・ 太宗 ( 976-997 ) が、淳化3年 ( 992 ) に 宮廷の宝物藏 ( 内府 ) 所蔵の歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書 カンリン-ジショ であった王著 ( オウチョ   ?―990 ) に命じて、編輯、摹勒 ( モロク  摸倣によって木石に彫刻 ) させ、拓本とした集法帖10巻がある。
名づけて 『 淳化閣帖   ジュンカ-カクジョウ 』 である。

『 淳化閣帖 』 は、完成後にこれを所蔵した場所にちなんで 『 秘閣帖 』、『 閣帖 』 とも称した。
  同書は左右の近衛府に登進する大臣たちに賜った 「 勅賜の賜本 」 であった。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻 ・ 原拓本による全巻揃いの完本はみられないが、以下の 「 夾雪本 」 ( 東京 ・ 書道博物館 ) と、「 最善本 」 ( 上海 ・ 上海博物館 ) がわずかな残巻として日中に伝承されている。
【 参考資料 : タイポグラフィ あのねのね 001*淳化閣帖 】
【 参考図版 : 無為庵乃書窓  淳化閣帖 】

ところが1127年の靖康の変で、金が東京開封府を陥れたさい、金軍は上皇 ・ 徽宗帝、皇帝 ・ 欽宗はもとより、金銀財宝や人材だけでなく、宮殿の宝物蔵 「 内府 」 や、国子監などにおかれていた、すぐれた漢民族の文化資産も接収した。 この国はのちに女真文字 ( 満州文字 ) をつくるが、おそらくはそのための文化基盤も欲しかったのであろう。

つまり金軍は、『 淳化閣帖 』 などの法帖や、北宋版本はもとより、その複製原版としての、版石 ・ 版木のほとんどすべて、そしてその工匠の一部までも、根こそぎ、燕京、会寧府など、満州族の北のみやこにもちさり、つれさったものとみられている。
したがって、このとき失われたとされる 『 淳化閣帖 』 の複製原版が、石刻だったのか、梓 アズサや 棗 ナツメ材などへの木刻だったのかは、さまざまな議論はあるものの判明しない。

こうして、印刷術をおおきく開花させた宋 ( 北宋 ) の版本のほとんどは 「 汴、東京開封府 」 から消え去った。 わずかにのこった北宋刊本も、後継王朝の南宋で 「 覆刻術のために費消 」され、さらにその後も相次いだ戦禍と、中国歴代王朝、なかんずく清朝における 「 文字獄 」 によってほとんどが失われた。
そしてわずかに十指にあまる程度とはいえ、なぜか、とおい日本に 「 北宋刊本 」 がのこったのである。

すなわち、わが国では 「 文字獄 」 はおこなわれなかったし、その勢いはおよばなかった。
「 文字獄 」 に 花筏 新・文字百景*003  へのリンクを貼ったが、あまりに長文のなかで触れたことなので、以下に該当部を青色表示で引用提示した。
また 「 文字獄 」 が中国歴代王朝、なかんずく
清王朝初期の皇帝によって、いかに苛烈におこなわれ、どれだけ貴重な図書が失われていったのか、このテーマに関心のあるかたは 【 中国版  文字獄 】 をご覧いただきたい。驚愕されるデーターである。 

東漢のひと許慎著 『 説文解字 』 は西暦100年ころの完成とみられるが、中国 「 字学界 」 ではいまだに評価がたかく、必須の字学資料とされ、さまざまな編輯がこらされて、各社から刊行されている。
上写真)  『 説文解字 』 ( 清代の木版刊本からオフセット平版印刷、古装本仕上げ、4巻、合肥市 ・ 黄山書社、2010年8月 )。
下写真)  右下 『 黄侃手批説文解字 』 ( 木版印刷物に批評をしるし、それを版下としてオフセット平版印刷、北京 ・ 中華書局出版、2006年5月 )
左下        『 文白対照  説文解字 』 ( 部首別画引きが可能、北京 ・ 九州出版社 )

【参考資料:新・文字百景*001 爿ショウ と 片ヘン,かた  その《字》の形成過程をみる】

撮影のために、手もとの 『 康煕字典 』 をだしておどろいたが、写真のほかに、台北 ・ 商務印書館版、台北 ・ 大同書院版の 『 康煕字典 』 もあり、やつがれが 『 康煕字典 』 にこだわっていただけかともおもわされた。
右   『 康煕字典 』 ( 明治初期?  日本での木版印刷、19巻、版元名 ・ 刊記無し )}
左   『 康煕字典 』 ( 上海古籍出版社、1996年1月第1版、2011年1月第1版14次印刷 )

 《わが国にファンの多い『康煕字典』をみる》
どういうわけか、わが国においては「漢字字書」として『康煕字典』(清朝康熙55、1716)の「ファン」があまりにも多い。たしかに『康熙字典』は比較的近世の、木版印刷による刊本であり、その字様は楷書の工芸字様ともいうべき明朝体(中国では宋体)である。

明朝体は中国・台湾では、職業人は「宋体」とするが、ふつうの生活人は「印刷体」とすることが多い。すなわちわが国の「明朝体の風景」とは異なり、あまり重くみているわけではなく、生活人は、
「そこに、印刷のために、あたりまえに存在している、実用の字」
とすることが多い。
また『康煕字典』は音韻配列ではなく、部種別画数順配列であることも、「文と字 ≒ 漢字」への親近性においておとるわが国の関係者には、好都合な「字書」だったかもしれない。

しかしながら『康煕字典』の、肝心の帝の名前である「こうき」が、表紙・扉ページなど、いわゆる装幀とされる部分だけでも、「康熙・康煕・康熈」など、三例の使用例があって、「字書」としてはまことに頼りない。
そのためにわが国の文字コードでは、ほとんどこの用例のために、「康熙 シフトJIS EAA4」「康煕 シフトJIS E086」「康熈 シフトJIS E087」の、みっつものキャラクターを用意しているほどである。
これをもってしても、いまだにわが国の一部で「康煕字典体」などと崇め奉っているむきがあるのはいかがであろう。

また中国では古来、字に関して記述した書物は「字書」であり、「字典」というおもい名称をあたえたことはなかった。「典」は「典型」に通じ、書物としては、儒教・道教・仏教などの経典などの書物にはもちいられてきたが、ともかくおもい字義、字の意味をもった「字」が「典」であった。
したがって清王朝第四代皇帝・康煕帝が、勅命によって、「字書」にかえて「字典」としたことに、ときの中国の知識層は震撼し、ある意味では支配民族の増長、ないしは知識・教養不足のなせることとしてとらえた。

またその治世が62年とながかった清朝4代康煕帝(玄燁  1654-1722,在位1661-1722)は、紫金城内武英殿を摺印場(印刷所)として、いわゆる武英殿版ブエイデン-バン、ないしは殿版デンパンとされる、多くの書物をのこした。
そのかたわら、すでに3代成祖・順治帝(福臨 1643-61)からはじまっていた「文字獄」をしばしば発令して書物の弾圧に乗り出していた。「文字獄」では、すこしでも漢民族の優位を説いたり、夷族(非漢民族)をそしった書物は、徹底的に没収・焼却し、その著者と刊行者はもとより、縁族までも重罪としたひとでもあった。

この清王朝前・中期にしばしば発令された「文字獄 モジゴク」は、巷間しばしばかたられる 秦の始皇帝による「焚書坑儒」(前213)より、その規模と頻度といい、全土におよぶ徹底ぶりといい、到底比較にならないほど激甚をきわめたものであった。
そこにはまた「文と字」を産み育ててきたという自負心を内蔵している漢民族と、ときの支配民族としての満州族(女真族)との、微妙な民族感情の軋轢がみられたことを知らねばならない。

《 北宋刊本を 「 覆刻 」 という技法で復活させた、南宋臨安の刊刻事業 》
みやこ東京開封府をおわれた宋の残存勢力は、徽宗帝の第 9 子とされる皇族のひとり、趙 構 ( のちの南宋の高宗、在位1127-62 ) を擁して江南をさすらい、ようやく要害の地 ・ 臨安 ( 現 杭州 ) にみやこをさだめた。

杭州 ( Hangzhou ) は、ふるくは銭塘 ・ 臨安などと呼ばれたこともあったが、いまは中国浙江省の省都で、人口670万余のおおきなまちである。
杭州湾および銭塘江セントウコウを控え、まちの中央西部の 「 西湖 」 にのぞむ景勝地としても、ふるくから栄えたまちである。

わが国では 「 コウシュウ 」 あるいは広東省の副省級市の 「 広州 」 との混同をさけ、湯桶 ユトウ読みで 「 くいしゅう 」 ともされるが 「 ハンゾウ 」 と呼んだほうがなにかと都合が良い。
またふるくからの印刷術発祥地のひとつ 「 浙江刊本 」 の製造地にかぞえられ、北宋時代の大著 『資治通鑑  シジツガン』は、汴 ( 東京開封府 ) ではなく、このまちで刊行 ( 刻刊 ) されたものとされる。

河水(黄河)ぞいの東京開封府が陥ちたあと、南宋のみやこは長江(揚子江)の南、江南の臨安となった。開封をおとした金と南宋の国境線は、屈辱的な交渉をへて、淮河 ワイガによって南北にわかたれた。
それでもあたらしいみやこ、臨安における出版事業の「復活」は、浙江地方という、ふるくから文物がゆたかで、文化度もたかく、製紙や刊刻事業の基盤があったこの地方には好適な産業であった。

臨安や紹興では、多くの工匠が、北宋時代9代のあいだに刊行された書物を収集し、それをばらして原本としてあたらしい版木にはり、それを版下として上から「覆刻 ≒ かぶせぼり」にするという技術をもちいて刊刻事業を再開した。
このおもには覆刻による刊刻は製造効率がよく、編輯・校閲の手間なども大幅に軽減されたため、初代高宗、2代孝宗(趙 伯琮ハクソウ、1162-89)のわずか2代のあいだに、科挙の教科書、参考書などにもちいる主要な書物の刊行をほぼおえている。

この異常ともいえるほどはやかった「覆刻 ≒ かぶせぼり」方式による「官刊本」の復活・再生の刊刻事業がほぼおわると、民間の出版社ともいえる書房が次次と臨安城市に登場して、彫刻工、摺印工、製本工を中心に、すぐれた技芸者の奪いあいがはじまり、技術が一段と向上していった。
こうした民間出版社のほかに、国子監のちかくにあった仏教寺院・道教寺院などでも、失われた経典の刊行が盛んになった。

やつがれは、こうしたほとんどが失われた書物ではあるが、それをつくった書房や寺院の旧在地を調べたい、そしてできれば北宋・南宋時代の刊本を入手したいというのが長年の夢であった。
それでもかつての中国では、外国人が自由に動きまわることができなかったし、昨年は南宋時代の臨安の詳細図が入手できずに成果をみなかった。

今回ようやく現地の友人の協力をえて、杭州図書館で地図資料を入手して、南宋時代の王城域、城門、書房(民間出版社)、寺院などの旧在地を、古地図と照合しながらほぼ確定することができた。
ただし、いわゆる「宋版図書」を入手することは、まずもって刊本そのものがほとんど存在し無いという現状であり、いち個人のちからではとうてい不可能だということを改めて確認させられた旅ともなった。
その報告は、すこし整理の時間をいただきたい。

さりながら、こうした杭州での刊刻事業の動向は、意外に敏速にわが国へも伝わっていたとみられた。当時は公式・非公式を問わずに日宋間での貿易がさかんで、輸入品の主要項目に図書もあげられているほどのものであった。
また、臨済宗・栄西禅師や、曹洞宗・道元禅師ら、平安時代末期から鎌倉時代にわが国に禅宗をもたらした高僧も、この浙江地方の寧波ニンボ、ねいは・紹興・臨安などの各城市に修行にでかけていた時代であった。
したがって、しばらくのちの、わが国の京都五山版、鎌倉五山版など、わが国の刊本事業への影響もあったかもしれないとおもうとたのしいのだ。

杭州観光というと、これまでは風光明媚な西湖を中心とした観光と、文人・詩人の旧蹟をたずねるのが中心であったが、いずれ古都・臨安、杭州の本当の魅力は、おおきく南宋王朝文化の探求へとかたむく様相がみられる。写真は西湖白堤に咲く蓮の花。

白堤は中唐時代に杭州刺史(州の司政官)として赴任した白居易(官僚、詩人 772-846 )が築堤したとされる。
そのたもとには、イタリア、ヴェネツィアの商人、マルコ・ポーロ(1254-1324)の銅製の立像がある。マルコ・ポーロが臨安(杭州)を訪れたのは元軍による破壊と修復のあとであったが、帰国後に『東方見聞録』を口述して、このまちの美しさを絶賛して、欧州人の東洋感におおきな影響をあたえた。
また蘇軾(蘇東坡)が西湖の浚渫をおこない、その土砂をもって築造したとされる、白堤よりよほど大規模な「蘇堤」もあり、休日などは人混みで歩くのも困難なほどの多くの観光客を集めている。

東京開封府を追われて、江南の要害地として臨安をみやこに選んだ南宋は、1127年高宗・趙 構にはじまり、孝宗・光宗・寧宗・理宗・度宗・恭宗・端宗とつづいた。
9代目皇帝は1278-79年に在位した衛宗であるが、1279年、これも北漠の地からおこった蒙古族の元(世祖、フビライ、1279-94)によって臨安は襲撃された。元軍の猛攻によって臨安城市は徹底的に破壊された。

騎馬民族の元軍は、満州族の金軍よりよほど破壊力がつよく、金と南宋のあいだの暗黙の国境線ともいえた淮河ワイガを一気にこえ、さらに長江(揚子江)をこえて臨安に襲いかかった。そして城内のすべての宮殿を焼き、多くの民衆をもまきぞえにして殺戮のかぎりを尽くしたとされる。
蒙古族元軍の猛攻により、衛宗はその生没年も確実には歴史にのこらないまま、1279年9代で南宋王朝は崩壊をみた。
その戦禍のなかに、せっかく覆刻・新刻した南宋刊本と、その版木は、またまたほとんどが失われたのである。

元はその後、このまちの修復につとめ、城壁などは南宋時代よりも頑健なものとした。つづく明王朝も、杭州の運河や町並みの整備に努力した。
────
南宋のみやこ・臨安の王城域は、長らく発掘と再開発事業が進行していたが、杭州・中山路、南宋御街の再開発が2009年9月30日に完成して一般公開された。
前述のように「御街ギョガイ」とは、かつては皇帝専用の道で、800数十年以前の、南宋のみやこを東西につらぬく主軸のうえに御街は復活をみた。
もともとの御街は、地下10メートルほどのところに埋もれているが、近年発掘されて「南宋遺址陳列館」でその遺構の一部をみることができる。

  
左)杭州ではいちばんの古書店と友人に紹介された「杭州沈記古旧書店」沈店主と。
  北宋・南宋時代の刊本は、複製版でも扱ったことはないと筆談したが、やつがれは
店内で一冊
南宋刊本複製版を発見した。あまりに粘ったので沈店主には嫌われたが。
右)臨時ドライバーの王さんと喫煙のひととき。会話はすべて筆談だが、ふしぎに意思
  疎通にはこまらない。杭州でも喫煙者にはなにかときびしいゾ。

《紹興 ── 古代王朝 夏カのまち、そして王羲之と魯迅のこと》

 

「紹興酒ショウコウ-シュ」のことを、このまち紹興では「黄酒オウ-シュ」という。
そもそも「杭州空港」とはいうが、ほぼ杭州と紹興のまちの中間点にある。いまの紹興は人口550万ほどの大都市である。
今回の3泊4日のみじかい旅も、紹興からはじまった。
【昨年秋の旅行記:朗文堂-好日録 011 吃驚仰天 中国西遊游記Ⅰ】

ノー学部が昨秋にはじめて中国を訪れ、まち歩きをはじめたのも紹興で、空港からいきなり紹興の城市(まち)にはいり、五代十国のひとつ・越の宮殿跡(越王台)ちかくの、ちさな民家の立ちならぶ細い路地に降り立った。そこでタクシーを降り、はじめて「ニーハオ・トイレ」も経験した。
そのせいか、なにかと紹興が気がかりのようで、ここにいたく
こだわる。

中国三皇五帝の神話時代につづき、先史時代に、ここ紹興の会稽山カイケイザンあたりに、禹王ウオウが夏カ王朝を建て、夏は17代(禹―启―太康―仲康―相―少康―杼―槐-芒―泄―不降―扃―廑―孔甲―皋―発―癸―桀)430年にわたってつづいたとされる。
そのために初期有史時代(すなわち 文 と 字 が誕生していて、
記録がある)の、夏・商(殷)・周とをあわせて三代とも呼ぶ。

「字 ≒ 文字」がなかったために、記録はすくない夏王朝であるが、現代中国の歴史学者は、三皇五帝の神話時代のあつかいとはことなり、さまざまな「文 ≒≒ 紋、一定の社会集団が共有した意味性をもった記号。徴号トモ」の存在をみとめ、その解読にあたり、またさまざまな発掘の成果により、夏王朝の存在をほぼ史実としてみとめているようである。

《東晋のひと王羲之と、その従兄弟王興之の墓誌》
ここではなしがすこしずれるが、この江南の地から誕生した書風「碑石体」に触れたい。
どうやら現代の文字組版に関わるかたのうち、想像以上に多くの皆さんが、力感のある、やさしい、ヒューマン・サンセリフの登場をお待ちになっていたようである。

これまでもしばしば、十分なインパクトがありながら、視覚にやさしいゴシック体、それもいわゆるディスプレー・タイプでなく、文字の伝統を継承しながらも、使途のひろいサンセリフ――すなわち、わが国の電子活字書体にも「ヒューマン・サンセリフ」が欲しいとの要望が寄せられていた。
確かにわが国のサンセリフ ≒ ゴシック体のほとんどは、もはや自然界に存在しないまでに鋭角的で、水平線・垂直線ばかりが強調されて、鋭利な画線が視覚につよい刺激をあたえている。

2012年4月、欣喜堂と朗文堂が提案したデジタル・タイプ『ヒューマン・サンセリフ  銘石B』の原姿は、ふるく、中国・東晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種で、とくに「碑石体ヒセキ-タイ」と呼ばれる書風をオリジナルとしている。

魏晋南北朝(三国の魏の建朝・220年-南朝陳の滅亡・589年の間、370年ほどをさす。わが国は古墳文化の先史時代)では、西漢・東漢時代にさかんにおこなわれていた、盛大な葬儀や、巨費を要する石碑の建立が禁じられ、葬儀・葬祭を簡略化させる「薄葬」が奨励されていた。

そのために、この紹興のまちに会稽内史として赴任し、楷書・草書において古今に冠絶した書聖とされる王羲之(右軍太守  307?-365?)の作でも、みるべき石碑はなく、知られている作品のほとんどが書簡であり、また真筆は伝承されていない。
現在の王羲之の書とは、さまざまな方法で複製したもの、なかんずくそれを法帖ホウジョウ(先人の筆蹟を模写し、木石に刻み、これを木石摺り・拓本にした折り本)にしたものが伝承されるだけである。

王興之の従兄弟・書聖/王羲之(伝)肖像画。
同時代人で、従兄弟イトコの王興之も、こんな風貌だったのであろうか。

『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土した。王興之(オウ-コウシ 309-40)は、王彬オウ-リンの子で、また書聖とされる王羲之(オウ-ギシ  307-65)の従兄弟イトコにあたる人物である。

この時代にあっては、地上に屹立する壮大な石碑や墓碑にかえて、係累・功績・生没年などを「磚セン」に刻んで墓地にうめる「墓誌」がさかんにおこなわれた。『王興之墓誌』もそんな魏晋南北朝の墓誌のひとつである。『王興之墓誌』の裏面には、のちに埋葬された妻・宋和之の墓誌が、ほぼ同一の書風で刻されている(中国・南京博物館蔵)。

この墓誌は煉瓦の一種で、粘土を硬く焼き締めた「磚 セン、zhuān、かわら」に碑文が彫刻され、遺がいとともに墓地の土中に埋葬されていた。そのために風化や損傷がほとんどなく、全文を読みとることができるほど保存状態が良好である。

『王興之墓誌』の書風には、わずかに波磔ハタクのなごりがみられ、東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれている。遙かなむかし、中国江南の地にのこされた貴重な碑石体が、現代日本のヒューマン・サンセリフ「銘石B Combination 3」として、2012年4月、わが国に力強くよみがえった。


《王羲之の伝承墓のこと》
王羲之の従兄弟、王興之の墓から出土した『王興之墓誌』を紹介した。
ならば一族のひとであり、2歳ほど年長の王羲之の墓、および墓誌を紹介しないと片手落ちになる。

王羲之は4世紀の時代をいきたひとである。わが国でいえば古墳時代であり、まだひとびとは「字」をもたなかった時代のことである。
王羲之の墳墓の地と伝承される場所は紹興(会稽)周辺に4ヶ所ほどあるが、そのうちもっとも著名な浙江省嵊州ジョウシュウ市金庭鎭キンテイチン瀑布山バクフザンをたずねた。嵊州市は紹興から高速道路で2時間ほど、その嵊州市からさらに山間の道を東へ20キロほどいった山中にあった。

山を背に、爽やかな風が吹きぬける、立派な堂宇を連ねた道教の寺院であった。
墓地は山裾の高台にあったが、明代に「重修」したと墓碑の背後にしるされていた。墓地本体は「磚セン」を高くつみあげ、その上に夏の艸艸が密生した円墳がのっていた。

魏晋南北朝にあっては「薄葬」が奨励されたために、おおきな墳墓や石碑はほとんど見られないが、いささか立派すぎる墳丘であった。また墳丘を修理した際にも、この時代の墓地にほとんどみられるような「墓碑銘」出土の報告はない。この王羲之の墳墓とされる墓からは従兄弟や親族の墓地のような「墓碑銘」は出土しなかったのであろうか。
また中国の古代遺跡によくみられる大樹の「古柏」は、伝・蒼頡ソウケツ墓の寺院前の見事な「古柏」はもとより、北京郊外・明の十三陵の「古柏」より、よほど若若しい木だった。

墓地伝承地の周囲には、書芸家が寄進した書碑がたくさんみられたが、そのほとんどは、昭和期日本の書芸家の寄進によるもので、チョイともの哀しいものがあった。
ただ齢ヨワイをかさねた王羲之が、終ツイの栖家としたなら、この嵊州市郊外の山中の空間は、それにふさわしいものとおもえる場所ではあった。すなわち4世紀のひとの墳墓を、21世紀に、異国のひとがフラリとたずねたとしたら、この程度の収穫で我慢をすべきであろうとおもえる場所であった。

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ふたたび紹興で……。
紹興からは、近代になると魯迅(ロジン 1881-1936)がでて、日本に留学し、『阿Q正伝』『狂人日記』などをあらわし、またあまり知られていないが、装幀家としても活躍した。

写真は晩年の魯迅がかよったとされる「咸亨 カンキョウ 酒店」で。
ここでやつがれが腰をおろしたあたりが、かつての魯迅お気に入りの場所だったとされ、壁際には「黄酒」の甕がならぶ。地元客にも観光客にもひとしく人気の店らしい。
魯迅はたそがれどきになるとここにあらわれて、料理写真右端のナントカ豆をつまみながら、黄酒をチビチビやっていたらしい。

いまの「咸亨カンキョウ酒店」は店舗が拡張され、入口で飲み物とプリペイド・カードを買って店内にはいり、あとは調理人と会話しながら料理をオーダーして、セルフサービスでテーブルに運ぶ。精算は店外のカウンターでする。
真ん中は鶏の唐揚げ風? 最奥はその名もビックリ「臭豆腐」。
前からあちこちの看板で眼にしていたが、字(漢字)でこうもはっきり「臭豆腐」と書かれると、食欲も失せて敬遠していた。

いずれも魯迅のお気に入りだったとして、ドライバーから勧められた── というよりドライバーが剽げて鼻をつまみながら「臭豆腐」をどんどん運んできた。臭いを気にせず、美味しいから食べろと勧められた。
「臭豆腐」はききしにまさるすさまじい臭いで辟易するが、食すと好ハオ! ほぼやつがれひとりで食べてしまった。写真の料理はドライバーとの3人分で、日本円で2,000円ほどだったか?

ただし、入口で飲み物を「コーラ」と注文したら、ドライバーとノー学部ともども、ひどい勢いで店のオバハンから罵られたらしい。
「アナタガタ ココハ 紹興ヨ! 黄酒ヲ ノマナイデ ドウスル」
というような具合だったようであるが、やつがれはすでに店内にあって「臭豆腐」に挑戦中で、よくはしらない。
ともかく紹興のまちとひとは、しばらくノー学部に任せておこう。

朗文堂-好日録015 五日市ランドスケープ、佐々木承周老師

朗文堂─好日録015

ふしぎなエートスの存する町
五 日 市 イツカイチ
そして、佐佐木承周老師のことども

『風景資本論』刊行にちなんで

《『風景資本論』を鞄にしのばせて、ちいさな旅にでた》
『風景資本論』(廣瀬俊介著、朗文堂)が刊行された。著者の廣瀬俊介氏はこうかたっている。
「地域の資本となりうる風景ランドスケープとは、どのようなものか。風景の読み方、風景のデザインを、本質と事例から考察する」
この新刊書を鞄にしのばせ、やつがれ、つめたい雨のふるいちにち、晩秋の五日市にでかけた。行き帰りの車中で『風景資本論』をあらためて読み、さまざまなことどもを考えさせられた。

そしていま、それぞれの風景をあらためてこころに描き刻みつつ、震災におそわれ、原子力発電所の大事故におかされ、悩み苦しむこの国のこしかた、これからをおもった。
というわけで、今回は東京の西端の町、「五日市の風景」を紹介したい。

《山川の町に育ったせいか、近郊の五日市が好きになった》
雪ふるちいさな町、千曲川に沿った奥信濃の田舎町で育った。そのせいか、山と川のある風景がここちよい。
関東平野の東京に住んではや40年ほどになろうというのに、どうにもこうにも、こんなのっぺらぼうとした風景や風土に馴染めないでいる。東京のどこに立っても、東西南北が明確にわからない。要するに田舎もの。

やつがれの郷里、信州信濃の飯山では、千曲川の上流が南、下流が北、高社山タカヤシロが東、斑尾山マダラオが西と、山川による陸標、ランド・マークがはっきりしていた。
そして冬にはあたり一面丈余の雪にうもれ、春には野面をうめて香りたつ野の花が咲き、夏には灼けるような烈日が地をあつくし、秋には全山燃えたつがごとき紅葉と、四季折折の風情があり、季節にあわせた花卉や農作物がもたらされていた。

ところがやつがれ、格段には地理オンチとおもわないが、神田神保町ジンボウ-チョウの地下鉄道で下車して、迷路のような地下道をめぐりめぐって地上にでると、似たようなビルが立ちならんでいるばかり。こうしたユークリッド幾何的形態? の空間はまったく苦手である。だからいまもって、九段方向がどちらか、一ッ橋方向がどちらかがわからなくてこまる。

地理案内板、サインボードもあるにはあるが、林立するどぎつい色彩の広告看板に押しのけられて頼りない。かといって、東京タワーやスカイツリーのみえる範囲などたかがしれているし、そんなものを陸標ランド・マークとするのもなさけない。
そんなわけで田舎もの、遠出の旅はしんどくなったが、なぜか週末になると、関東平野を脱して、山川サンセンのある風土に身をおくと落ち着くのだ。

エートス Ethos はギリシア語で、エトスとも音される。ご存知のパトス Pathos 感情・激情の対語である。
すなわち簡略に述べると性格・心性であり、ある社会集団にゆきわたっている恒常的な感性・情念であり、ときとして色彩感覚や宗教観や死生観であろうか。

どうやらやつがれ、田舎育ちのゆえに、地霊・山霊・岩霊・艸霊・木霊・水霊のふところに身をゆだねると安堵するエートス──性癖ないしは心性があるらしい。こうした山川の地では、一木一艸がいとおしく、小川のせせらぎ、かすかな瀬音、どうということのない路傍の小石までがこころをなごませる。

      

東京都心から40-50キロほど、東京の西の端に「東京都 あきる野市 五日市」がある。JR五日市線の終点で、新宿から直通電車で800円ほどの電車賃でいける。駅から檜原ヒノハラ街道をたどると、すぐに杣山ソマヤマをぬうように急峻な坂道となり、奥多摩の切り込みのふかい山襞がせまってくる。
このあたりが、樹木を植えつけ材木をとるための「杣山ソマヤマ」として拓けたのはふるかった。また後背地の奥多摩のひろい林や森から伐採された木材・木炭が、五日市にあつめられ、そこから関東平野一円に出荷されたという。

寺社もおどろくほど多い。ふるく、源頼朝の命によって1191年に建立されたとされる真言宗「大悲願寺」は、鎌倉幕府開設──1192 イイクニ つくろう 鎌倉幕府──の前年のことである。この古刹にたつと、この寺に込められた源頼朝の「大悲願」とはなんであったのかを考えさせる寺でもある。

また五日市には、室町幕府の祖・足利尊氏(1305-58)がひらいたとされる臨済宗「光源寺」があり、ともに臨済宗の寺で、江戸初期の創建らしき、清楚なおもむきの「広徳寺」もある。

《五日市町からあきる野市へ──平成の大合併》
ゆたかな秋川渓谷の清流を水運として、ふるくから木材や木炭が五日市にあつめられたという。江戸時代には檜原ヒノハラ街道にそった五日市の町並みに、木材商と木炭商が軒を連ねて殷賑をきわめたそうである。したがって町制を敷いたのはふるく、1889年(明治22)町村制施行と同時に、神奈川県西多摩郡五日市村と、小中野村が合併して「五日市町」が誕生した。

この時代、いまこそ繁華なまちとしてしられる渋谷も八王子もまだ鄙びた村でしかなく、五日市が町として誕生したのはおどろくほどはやかったことになる。
またこのころは、多摩地区一帯は神奈川県に属していたが、上水道用水の大量確保をもくろんだ東京府が、1893年(明治26)、神奈川県から、西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡とともに、五日市町も東京府に編入せしめたものである。
林業の衰退とともに、往時の殷賑のおもかげはうすれたが、それだけに、落ち着いた、古き良きものが、さりげなく存在する町でもある。

五日市駅までは新宿から直通電車もあるが、東京駅からだと中央線の立川で乗り換えて拝島線に、さらに拝島で五日市線に乗り換えて終点までのちいさな旅となる。
この五日市鉄道(現在のJR五日市線)の敷設もはやかった。すでに1925年(大正14)には、五日市の木炭商らの出資によって、私鉄五日市鉄道(その後国有鉄道を経てJR)の敷設をみている。すなわち大量の木炭や木材の物資輸送に欠かせなかったのがこの傾斜のある鉄道路線であった。

1995年(平成7)いわゆる平成の大合併のさきがけとして、五日市町は隣接する秋川市と合併して「あきる野市」となった。このあらたな市名の由来は、このあたりがふるくは、「秋留アキル、阿伎留アキル」と呼ばれていたことに発したが、秋川市が主張した「秋留市」と、五日市町が主張した「阿伎留市」で議論が二分して、ひら仮名混じりの「東京都あきる野市」とすることで決着をみたそうである。

《茶房 むべと、高橋敏彦氏》
あきる野市一帯では、ある種のおだやかなデザインの統一がみられて、それがふしぎな「景観」をかもしだしている。たとえば、秋川谷口にある料理屋「黒茶屋」、併設されている「茶房糸屋」の看板や各種の印刷物、あきる野市と第三セクターが開発した「瀬音の湯」のカログラムなど数えきれない。
そこにもちいられている、てらいのない飄逸な書と、ほのぼのとした絵とが、CI とも町おこしともバナキュラともいわず、たくまずしてこのあたりの「景観」を形成していることに驚かされる。

これらの書藝や絵画を精力的に製作しているのは高橋敏彦氏という。1942年(昭和17)うまれ、御年69歳。ごま塩まじりの白髪で、美鬚のデザイナーである。
高橋氏はかつて都心部にデザイン事務所を構えたこともあったが、30年ほど前から、檜原村との境にちかい、見晴らしの良い高台の地に住まい、地元密着のデザインをねばり強く展開してきた。さらに自宅離れを改築して、自作の「ミニ・ギャラリー」と、「茶房 むべ」を開設した。

「むべ」とはこのあたりでは「アケビ、木通、通艸」のことである。むべは蔓状をなして山地に自生する。春たけなわのころ、あわい紅紫のちいさな花をつける。晩秋のころ、果実が紫に熟して縦に割れる。果肉は厚く、半透明の白色で、たくさんの黒色の種子を含んでおり、とろりとした甘味で食用になる。蔓は強靱で各種の細工にもちいられる。

やつがれ、五日市に出かける楽しみのひとつが、「茶房 むべ」の香味のつよい珈琲を味わい、高橋翁とのくさぐさのかたらいのひとときである。こんかいは庭先に「むべ アケビ」がブラリとさがっていた。それがなんともいえずよかった。
店内は禁煙なので、いつも(たとえ少少寒くとも)庭先の四阿アズマヤに腰をおろし、清澄な川面をわたる薫風や、山颪ヤマオロシの木の香を愉しむ。そして鳥や蟲の聲、かそけき渓谷の瀬音に耳をかたむけながら、一杯の珈琲を味わい、紫煙をくゆらすのを無上のよろこびとする。

2011年11月19日[土]折からの雨だったが、フトおもいたって五日市にでかけた。雨はきらいではない。むしろ人混みがすくなく、景観が落ちつき、しっとりしていてよいとおもう。町のあちこちに、映画『五日市物語』のポスターが貼られていた。タイトルの書はあきらかに高橋氏の手になるもの。サブタイトルに、
「五日市、それは時が止まったような、東京のふしぎなまち」
とあった。
そのフライヤーを四阿アズマヤでよくみたら、「プロデューサー:高橋敏彦」とあった。もちろん「茶房 むべ」のあるじ、高橋氏のことである。

高橋氏は字も書くし(書藝をまったく誇らないが良い字だ!)、ほっこりした絵も描く。そして陶芸もこなすらしい。つまりひと世代前の、図案屋さんとよんでいたような本物のデザイナーであり、なんでもかんでも造形家であり、技芸家でもある。すなわち誇り高きアルチザンである。
そして、その技倆と、知性が卓越していることが、このひとを特徴づけ、地元・地域の信頼をあつめている。今回は映画『五日市物語』のプロデューサーをつとめている。

主演女優は遠藤久美子であるが、ポスターにもちいた写真では、マグカップを両の手で抱えていた。この写真におもわず視線が釘づけ! これは高橋氏の製作に違いないとおもった。
やつがれ、10年ほど愛用していたお気に入りのマグカップ──軽井沢の車屋で買ったもので、立原道造モデルとして愛着があった──をわってしまって、さびしいおもいをしていた。

遠藤久美子はいかにもいとおしいという手つきで、木肌色のマグカップを両のてのひらに抱えていた。大きさといい、色味といい、質感といい、これは好みだ! もちろん遠藤久美子ではなく、マグカップ。
リンクを貼っておいたので『五日市物語』の公式サイトをぜひみていただきたい。
おもわず奪いとりたくなる逸品ではないか。
ウ~ン、映画鑑賞の前に、まずは高橋氏にこのマグカップをねだらなくてはならないようだ。

《西のほうの古都の名刹におとらない清楚な寺 広徳寺──そうだ! 五日市にいこう!》
晩秋のつめたい雨に濡れながら「広徳寺」をめざす。これまで五日市は何度か訪れたが、いわゆる観光や寺社巡りははじめてだった。
〔どうせ、山寺。たいしたことはなかろう〕
とおもいながら急峻な坂をのぼった。
傾斜がいくぶんなだらかになったとき、いきなり広徳寺の茅葺きの総門があらわれた。いかにも禅寺らしい簡素なたたずまいがよい。おもわず扁額に目を奪われる。コバルト・グリーンのような大胆な色彩で「穐留禅窟」とあった。

 

この扁額を書したのは、江戸後期の出雲松江の藩主・松平不眛公だと傍らの解説板にあった。
調べてみたら松平不昧フマイこと、松平治郷ハルサト(1751-1818)は、茶人としてしられ、号して不眛。茶道につうじて石州流不昧派をおこし、また禅道・書画・和歌にもつうじたひと。不昧公は江戸期の凡庸な譜代大名のなかにあって、傑出したひとであったそうな。

扁額にみる「穐留禅窟」の「穐」は、「秋・穐・龝」と同音同義の字で、いまは市名となったこのあたりの古名「あきる → 穐留」をあらわす。したがって「穐留禅窟」は、「あきる の 禅の 岩屋」ほどの意になろうか。
おおぶりな骨格といい、大胆な色遣いといい、この山の寺にふさわしいよい書であった。

ただし出雲の国の不昧公が、なぜこの山深い五日市の禅寺の扁額を書したのか、解説板にはなにも記述はなかった。それがいかにも自彊ジキョウをおもくみる禅寺らしく、
〔興味があるなら自分で調べよ〕(ムカッ)
といっているようでかえってよかった。だからやつがれ意地になって、不昧公や、「穐留禅窟」を調べたということ。

   
総門をぬけると、つぎに現れたのが、茅葺の屋根を持つ重厚な二層の山門。こぢんまりとしているが、これが江戸期の構築物かと疑いたくなるようなおだやかさがある。遠目にはそれと気づかない二層の屋根のわずかな反り具合と、それを支える肘木ヒヂキの文様が軽やかである。こまやかな肘木の組みあげも、この茅葺きの屋根をかろやかにみせている。

また上層にある唐様のふたつの窓と、そこに貼られた真っ白な手抄き紙が、この古風な山門に、明暗、印影、めりはりをあたえている。

山門からは右手に、鐘撞き堂、左手に経蔵をへだてて本堂が望めるが、そのひろびろとひらけた前庭に、まるで塔宇のように、公孫樹イチョウの大樹がふたつ並んでいる。かなりの雨降りだというのに、この一画では写生会でもあるのか、10数名のご隠居連が雨をさけながらスケッチブックをひろげていた。

 

すっかり色づいた公孫樹がハラハラと葉を舞い落とす。その黄色くくすんだ落ち葉を踏みしめながら本堂に達する。大屋根は苔むしてはいるが檜皮葺きヒワダ-ブキ。贅沢なものだ。
本堂をぐるりとまわりながら、裏手のお廊下と濡れ縁をさりげなくこする。

そして、佐佐木承周老師のことども

佐佐木承周老師(アメリカ版Websiteより)

上)  ロスアンジェルス「臨済寺」にて。1989年12月23日、老師82歳ころ。
下) ご本堂前、老師と当時45歳ほどの筆者。小型カメラに日付表示機能があった20年ほど前。
このとき老師は開口一番「ジロウちゃん、おねしょは治ったかね?」で辟易ヘキエキした。
12月23日にロスにいき翌日のクリスマスイヴ、先方の指定日時にサンフランシスコにいって、
「パソコンの奇才」 と会見した。懐かしい写真が偶然見つかったので、ここにアップした。
この翌日 「パソコンの奇才」と会見写真は撮影のふんいきもなかったので、無い。

実はやつがれ、ゴ幼少のみぎり、短期間とはいえ禅寺に押し込められたことがある。そのときいちばん辛かったのが、禅寺では東司トウスとよぶ便所の掃除と、ご本堂や庫裏の板敷きのお廊下と濡れ縁の清拭だった。
これらの苦役・雑役モトイ禅寺での作業は「作務サム」とよばれる。ご存知の「作務衣サム-エ」を身につけて、清掃はもとより、東司の汲み取りから農作業までを、仏道修行としておもくみる。

これが禅の修行の最初だと、クソ坊主 モトイ、モトイ! テイセイ-イタシマス 佐佐木承周ジョウ-シュウ老師にいわれた。もとより、あまりにわんぱくで、悪戯がすぎて、オヤジと旧知の佐佐木老師の禅寺に放りこまれただけで、禅僧になろうとは露ともおもわぬやつがれだった。
だから読経や座禅は逃げまくったが、鼻水をたらしながら、修行の最初とされる、拭き掃除、掃き掃除、すなわち作務ばかりをさせられた。その修行の甲斐はご存知のとおり、まったくなかった……が。

この佐佐木承周ジョウ-シュウ老師というひと、お化けだ。いや怪僧というべきか、名僧はたまた傑僧というべきか……。
死んだオヤジと同年の1907年(明治40)うまれだから、もう105歳になるはずだが、いまはアメリカ西海岸の、ボーイ・スカウトのキャンプ地の一部を改装したという、どうひいき目にみてもキリスト教会としかみえない、まことにもって奇妙な白堊の禅寺「臨済寺」の住職として居住している。

かつて、この「臨済寺」に老師をたずねたことがある。その折り、紅毛碧眼コウモウ-ヘキガンひとが、まるめたあたまに菅笠をかぶり、墨染めの衣をつけ、素足に草鞋ワラジをはき、ゾロゾロ連れだって托鉢タクハツにでかけたのでおどろいた。
ロスアンゼルスの町のたれが喜捨に応ずるのかわからなかったし、丈が足りないのか、衣の裾から毛ずねをむきだしにして歩みだした、紅毛碧眼ひとや、アフリカ系アメリカひとの雲水どもを唖然としてみおくった。
鐘楼は軒先にブラリとさがったふしぎなシロモノで、どこかの耶蘇ヤソの寺(教会かな?)からもってきたような珍妙な梵鐘を、大まじめで叩いて モトイ 撞いていた。

佐佐木老師は、やり手モトイ非凡なひとだから、ほかにも西海岸一帯に禅寺をいくつもひらき、105歳のいまもってきわめて壮健らしい。しかも4月1日のうまれだから? 悟りすましたようなことも平然といってのける。
また真偽のほどは保証のかぎりでない(つい先ほどノー学部に教えられたWebsite情報だ)が、映画『スターウォーズ』のヨーダのモデルは、この佐佐木老師だとされている!

書店に「赤いひと囓りのリンゴ」関連書が山積みなので、しばらくは避けたい。それでもいまの高揚期が落ちついたら、「赤いひと囓りのリンゴ」創業者のこととあわせて、本欄でも紹介したい、一代の化けもの モトイ 傑物が佐佐木老師であることだけは間違いない。
アメリカの一部では佐佐木老師をすっかり神格化し、ダライ・ラマ、ローマ法王、Sasaki Roshi  とならべて紹介している  Website  もあった。いくら幼少のときとはいえ、老師のさまざまな行蔵を間近でみてきたやつがれ、いささかウ~ンとうなるしかないアメリカでの過熱ぶりであった。

やつがれこのクソ坊主 モトイ 佐佐木老師には、さんざんゴツンとなぐられ、説教をくったが、寒さとさびしさ? のあまり、ついつい粗相した寝ションベン布団を、なんども干していただいたことがある。ともかく大恩のあるかたであることは間違いない。
もし、こんなことにご興味・関心のある、かわったかた?は、佐々木老師、佐々木承周 で検索してほしい。
やつがれ、五日市で雨宿りのおり、ノー学部に〈禅宗における、臨済宗と曹洞宗の違い〉を述べさせられた。かつて「赤いひと囓りリンゴ」の創業者も、佐佐木老師に関心を寄せたときがあり、おなじような質問を浴びせられたことがあった。
「門前の小僧、経を詠む」というが、禅宗臨済の寺では『観音経』ぐらいしか詠まなかった。そんなやつがれに、深遠な禅のこころなどわかるはずもなく、いずれもしどろもどろで答えた。

ところがそれにものたりず、また、つねづねやつがれが口にしていたクソ坊主、モトイ 佐佐木老師のことをふくめて、ノー学部があれこれと検索して、つい先ほど教えられたこと。ともかく佐佐木老師に関して、Websiteがひどいことモトイあつくなっていた。
やつがれはまったく知らなかった。まさか、かの佐佐木老師さまが、こんな話題のひとになっているとは!
英語版 Sasaki Roushi Joshu Sasaki だと、おどろくほどの数にヒットする!

禅寺、なかんずく戒律がきびしかった臨済宗妙心寺派の寺院では、雲水ウンスイはもとより稚児僧チゴ-ソウなぞは、足袋の着用などもってのほか。早朝の寒い北風のなか、サイズの合う作務衣がなく、ましてフリースなどという便利なものはなかった。だから、薄っぺらな「体育用トレパン」(古)を身につけ、シモヤケとアカギレの手で雑巾を固く絞り、駆けるようにすばやく、広い濡れ縁を駆け巡って清拭する修行はつらいおもいでとしてある。
この「修行」のおかげで、やつがれ、もっとも苦手な作業、モトイ修行乃至ナイシは作務サムが「掃除」となってしまったほどのものである。

ところが雨のせいもあったのか、「広徳寺」では、格別には雲水の姿はみかけなかった。それでも住持がなされているのか、ご本堂裏手の濡れ縁は清拭がゆきとどき、指先にはまったく埃がつかなかった。
これだけでやつがれいたく感嘆。西のかなたの観光寺院では、こんな簡単なテストでいつも失望させられているだけに、ただただ単純に、
〔すげえなぁ〕
とおもってしまう。

《大悲願寺でノー学部 異なもの発見!再訪確実となる》

    

いつのまにかやつがれ、撮影担当から追放された? そもそも写真を撮るつもりが動画画像になっていたり、ときおり撮影データをそっくり消去してしまうので、はたの信頼を失った。決定的だったのは、集合写真を撮った際。
「はい、チーズ!」
ト、責任と緊張に打ち震えながらも、自信満萬をよそおいつつ、至極にこやかに撮ったが、不幸なことにみんなの首から上が、フレームからはみでて、ちょん切れていた。別に悪意はない。至極真面目だった。

もとから極めつきの機械オンチであるから、臨場感のあるファインダーを覘くのならともかく、あのいろいろな情報が涌いてくる薄気味わるいガラス板を避け、被写体の皆さんをみつめながら、
「はい、チーズ!」 ── パチリ!
とやっただけ。

以前なら現像しないとわからなかった〔バレなかった〕ことだ。ときどき〔まれにかな?〕素晴らしい写真をとったこともあるほどだ。ところがどんな操作をするのかしらないが、最近のカメラは現像・停止・定着もしないで、直後に撮影結果がみれるようになっている。
そこで〔どうも吾輩の腕前を疑っていたらしい〕みんなが、やつがれからカメラをとりあげて、
「どれ ドレ?」
とのぞき込んだところ、(案の定)みんなの首から上がギロチンでサッパリと、斬首の刑のあとのように無かったという次第。やつがれまったく他意は無いのに、一斉につめたい視線をあび、侮蔑されるにいたった。
たかがスナップ写真の巧拙だけで、人格を云云ウンヌンするほどでもあるまいに……、ト、やつがれ悔しまぎれにおもうのだが、いつのまにか、さして使用していない新品同様のデジタル式ナイコンカメラを、《使う資格無し》としてとりあげられた。そして撮影担当から放逐された。

閑話休題 トコロデ── 撮影係のノー学部。やつがれの指示する撮影箇所を無視して、そこらの野艸ばかりを撮っている。はるか昔は昆虫少年だったから、トンボやチョウにはいささか詳しいが、艸木には疎い。だから「山茶花サザンカ と 枸橘カラタチ と 椿ツバキ」などを取り違えることもある。
そうするとノー学部出身をかさにきて、
「あれは山茶花です。椿じゃありません!」
ト、居丈高になるのは感心しないなぁ。
スミレもタンポポも、花をつければ、なべて、やつがれの大好きな「艸花」だ。

「大悲願寺」は、「広徳寺」とは秋川をはさんで対岸にある。真言宗の古刹である。寺伝によると、源頼朝の命によって1191年に建立されたとされる。
また、江戸時代初期、仙台藩主・伊達政宗(1567-1636)が鮎漁に秋川をおとずれ、庶弟が住持をつとめていたこの寺を訪れ、いっぷくの茶を服したという。その折り、庭に咲いていた白萩があまりに見事だったので、仙台にもどったのちに、この寺の白萩を所望したと伝える。その伊達政宗の書状も寺に保存されている。

その白萩は花のときを終え、こうべを垂れてつめたい雨にぬれていた。だから参拝者も観光客もたれひとり「大悲願寺」にはいなかった。それでもやつがれ、真言の寺は、その荘厳の大仰さと、さまざまないわくありげな象形のゆえに、いささか苦手とする。だから雨足がつよまったのを口実に、早早に「大悲願寺」を退散して雨宿り。

《そこでやつがれ、紫煙をくゆらせ夢想した……。》
五日市から檜原ヒノハラ村にかけては、ふるくは山塞だったとされる場所が多い。ちいさな石積みのうえに、山塁跡とおもえる平坦地があったりする。檜原村のひとなど、いまも「杣人 ソマウド」とよんだほうがよいほど、荒ぶる形相のひともいる。

かつて源頼朝が天下取りのいくさをはじめたとき、その呼びかけに応え、このあたりの屈強な杣うどどもが、一所懸命とばかり、鍬クワと鎌カマをなげだし、鉞マサカリと斧オノをほおり捨て、鎌倉街道をいっさんに頼朝のもとに駈け参じたのではないか……。

杣うどどもは、野馬にあわただしく鞍をのせ、野鍛冶がうった頑丈な大刀を帯び、むき身の大鎗をひっさげて、
「いざ、いざ、いかなむ、鎌倉へ!」
と、頼朝の陣へ、形相もすさましく、押し合いへし合いしながらはせ参じたのではないかと……。
そのために幕府開設前年の1191年、頼朝は屈強な兵士団をもたらすこの山間の地に、「おおきな悲願」をこめて真言の寺を設けたのではないのかと……。

とすると──、映画『五日市物語』のサブタイトル、
「五日市、それは時が止まったような、東京のふしぎなまち」
には、僭越ながら少少異論がある。

ここ五日市の時は決してとまっていない。耳を澄ませばとおいときの聲が、なんのまどいもなく聞こえる──。
いななく野馬の鳴き声。喚オめくがごときもののふの野太い雄叫び。くびきを接し、地響きたててひたはしる駒のひづめの音。そして空中に高鳴る鞭の音……。
大木をうち倒す斧の硬い金属音。白煙をあげる炭焼き小屋からは、薪にするノコギリの規則正しい往復音。野面にわく童ワラベどもの歓声……。

やつがれにとっての五日市とは、そんなふしぎなエートスが、大地の深くにまで刻みこまれた町である。源平の昔からの、心性や感性が刻みこまれた風土があり、それがいまの五日市の景観をなしている。すなわち五日市とは、古い時代の、いきざま、情念のごときエートスをふところふかく秘めた、時代とともにいきる町である。

そしてこの地のエートスは、一朝一夕に浸蝕され、消滅するはずはない。それはいまもこの地の山川に、そこにいきるひとびとのあいだに、脈脈と鼓動し、浸出し、おりにふれて噴出するはずのものである。
その刻みこまれたエートスのほんの少しを、さりげなく掘りおこしているのが、「茶房 むべ」のあるじにして、アルチザン、「高橋敏彦氏」ということになろうか。
五日市は、これからもいきつづける、ふしぎの町、あやかしの町、エートスを実感させる町として存在している。

ところでノー学部。まだ雨の降りしきる「大悲願寺」の庭をウロウロ。煙草をふかし、すっかり夢想にふけっていたやつがれをふいに呼び、庭の片隅にほとんどうち捨てられている、ふるぼけた掲示板をみろという。
驚いた。正直驚いた!──。まさしく新発見だった。
その報告はもうすこし調査を重ねてからにしたい。すなわち、五日市再訪は近いということになった。

◎ 本日11月23日 勤労感謝の日で休業。六白 先勝 みずのえ うま。
ET展 Embed Technogy がらみで来客多し。 おもしろき話題少なし。