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本情報のオフィシャルサイトは アダナ・プレス倶楽部ニュース です。
ここ、タイポグラフィ・ブログロール《花筏》では、肩の力をぬいて、
タイポグラフィのおもしろさ、ダイナミズムなどを綴れたらとおもいます。
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アダナ・プレス倶楽部が使用している活字たち
活字と 活字組版・活版印刷がお好きな あなたにむけて
《 Adana-21J の制定書体 》
上掲の写真にみるように、小型活版印刷機 Adana-21J には、格別にはカログラム(ロゴタイプ)や、モノグラム(シンボル・マーク)はもうけていません。むしろできるだけ原鋳造所による、正規の活字をもちいて、活版印刷によって得られた印刷物を優先しています。
そして、機番銘板、カタログ、広報物などの正式な印刷物にもちいる Adana-21J には、できるだけ欧文活字の「ギル・サン GILL SANS」をもちいるように心がけています。
ところが厄介なことに、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部は[活版ルネサンス]を標榜しているちいさな事業部ですから、できるだけ金属活字による「ギル・サン」をもちいますが、状況によっては柔軟に、電子活字の「ギル・サン」も使用しています。
「ギル・サン」は、エリック・ギル(Arthur Eric Rowton Gill 1882-1940)の設計によって、英国・モノタイプ社が1928-30年にかけて製造した活字書体です。そのベースとなったのは、エドワード・ジョンストン(Edward Johnston 1872-1944) との共同で製作にあたった、いわゆる「ロンドン地下鉄道用書体」(Type Faces for the London Underground Railwais 1918年、木活字による特注サイン用書体として完成)にあります。
最上部Adana-21Jは、活字清刷りから「1, J」の形象と、レター・スペースに加工をくわえたもの。
ほかは「ギル・サン」の電子活字書体です。
エリック・ギルは、彫刻家であり、石彫り職人でもあったひとで、また『エッセイ・オン・タイポグラフィ』をはじめとする、多くの著述ものこしています。また、アルビオン型手引き印刷機を縦横に駆使して、多くの私家版書籍ものこしています。
ギルが製作した活字書体には、以下のものが知られています。
「Gill Sans 1927-30」「Golden Cokerel Press Type 1929」「Perpetua 1929-30」「Solus 1929」「Joanna 1930-31」「Aries 1932」「Floriated Capitals 1932」「Bunyan/Pilgrim 1934」「Cunard/Jubilee 1933/4」。
小型活版印刷機 Adana-21J、栄光の一号機の機械銘板(大阪・江戸堀印刷所)
「ギル・サン」のおもな特徴は、サン・セリフ ≒ ゴシック体でありながら、「a」「g」などのフォルムに、色濃くオールド・ローマン体の伝統を継承していることにあります。
その形象をみますと、まず画線の切り口が水平と垂直になっています。つぎにビッグ・レターの字幅がやや広めに設計されています。そしてアセンダーとキャップ・ハイト、すなわちスモール・レターの上に突きでた部分と、ビッグ・レターの高さが等しいことです。
また「V,v」「W,w」の下端が一点のみでベース・ラインと接しています。それでもこのふたつのキャラクターが、文字列のなかで浮きあがってみえないのは、巧まざる角度調整をほどこしてあるためです。
数字「1」の上端は、ロンドン地下鉄道書体では斜めにカットされ、「ギル・サン」金属活字の初期は、水平にカットされていました。小社には電子活字書体「ギル・サン」を、ふたつのベンダーが製造した製品を所有していますが、そのいずれも「1」の上端は水平にカットされています。
しかしいつのころからか、原鋳造所のモノタイプ社の金属活字では、「1」の上部にアペクスのような突起をもつようになりました。この原因は、おそらく「I アイ、l エル」と混同されやすかったためで、「判別性 Legibility」 に配慮した結果だったとみられます。
アダナ・プレス倶楽部が所有している「ギル・サン」金属活字の活字母型も、モノタイプ社の製造によりますが、やはりオールド・ローマン体の「i,j」などと同様のアペクスを有しています。
この「ギル・サン」の簡素なたたづまいと、おおきな屋根に押しつぶされそうになりながらも、けなげに頑張っている、ふるいフォルムをもった「a」がかわいくみえます。
Adana-21J は、このタイプの小型活版印刷機を製作した創始者/Donald A. Aspinall へのオマージュと、21世紀の日本で、あらたに製造された印刷機であることを示しています。ですから利便性に考慮して、ディセンダーに突きでたビッグ・レター「J」にデジタル加工を加えて、ベースラインと揃えました。
また Donald A. Aspinall がこのタイプの小型印刷機の原型を製造したのは1922年のことでした。 それから6年後、1928年に、ところも同じイギリスで誕生した活字書体が「ギル・サン」です。そんな時代的な共通背景も参考にしながら、Adana-21Jには、レター・スペースを相当慎重に調整して、もっぱら「ギル・サン」をもちいています。
《朗文堂 アダナ・プレス倶楽部 によく使用している書体》
株式会社 朗文堂の活字版印刷事業部(そんなに大袈裟なものではありません)が、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部です。単なるいち事業部としないで「倶楽部」の名称をもちいているのは、ゆるやかな会員制のクラブ「アダナ・プレス倶楽部会員」の皆さんと、双方向の情報交換と、活版印刷復興に向けた連帯をもとめたからです。
「朗文堂 アダナ・プレス倶楽部」には、いわゆる「合成フォント」をもちいています。すなわち、漢字書体は旧晃文堂、リョービイマジクス製の「MRゴシック-M Ⅱ」をもちい、「アダナ・プレス」のカタ仮名の部分には、欣喜堂・今田欣一氏製の「くろふね」をもちいています。
「MRゴシック-M Ⅱ」のとおい原姿は藤田活版製造所にあります。同社が紹介されることはほとんどありませんが、1920-30年代の東京にあって、きわめて積極的にゴシック体の整備・拡張にあたった中堅の活字鋳造企業です。
目下わずかな残存資料をあつめ、また同社の関係者からも取材をつづけていますが、なにぶんゴシック体は昭和15-20年にかけて猖獗ショウケツをきわめた「変体活字廃棄運動」の大敵とされてきましたので、調査は難航しています。
スパッとしるせればきらくなのですが、すこしキーボードが重くなっています。戦後すぐの創業期、晃文堂と藤田活版とは縁戚関係にありました。海軍主計将校から活字界に転進した吉田市郎氏にとっては、岳父が率いる藤田活版製造所は心強い後ろ盾でした。
また後継者に恵まれなかった藤田活版製造所にとっても、子女が嫁し、将来を嘱望された名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)卒の、新知識人としての吉田市郎と、そのグループに期待するところがおおきかったはずです。
しかしながら、この縁戚関係は不幸なことに、避けがたがった結核による病死がもととなって、長続きしませんでした。また藤田活版製造所も「変体活字廃棄運動」の傷跡がおおきく、再建に手間取って、昭和30-40年代に事実上活動を停止しています。
いっぽう、欧文活字を中心に展開していた晃文堂は、次第に和文活字の開発と製造に軸足を移していました。明朝活字の開発には、しばしば触れているように、三省堂整版部の杉本幸治氏が協力しました。そしてゴシック体の原姿とは……、まだしるしにくいところがありますが、藤田活版製造所の「四号ゴシックだったか、12ポイントゴシック……」が原姿となっています。
昭和の70年代にはいると、写真植字書体が盛んに登場し、おもにレタリング系のデザ-ナーによる、骨格の脆弱なゴシック体がシェアを占めるようになりました。そうなると藤田活版製造所から継承して、晃文堂/リョービが製造していた古拙感と力感のあるゴシック体は、ふるいフォルムだとされ、またレタリングに独特な柔軟な線質に較べると、彫刻刀の冴えがほとばしるリョービ・ゴシック体は「硬い線質」だとされて忌避されるかたむきもみられました。
すなわちこのゴシック体は、藤田活版製造所の「四号ゴシック」に源流を発し、晃文堂でまず電鋳法による活字母型を製造し、続いて、三省堂・杉本幸治氏の指導をうけながら、機械式彫刻法による活字彫刻母型が製造されました。
晃文堂がリョービ・グループに参入した1970年代にはいると、パターン原図をもととして、リョービ社内デザインチームによって、仮名書体を中心に文字形象が検討され、また、字画の整理など、数次の改刻が繰りかえされて、こんにちにいたっています。
このいかにも「彫った文字」という表情をもった、機械工業にふさわしいゴシック体が好みです。また広めにとったカウンターや、フォルムの処理が、いかにも技術者の手になったものといえる整合性に富み、その硬めの線質が、かえって古拙感と統一感のある活字書風として魅力となっています。
和字(ひら仮名・カタ仮名)は、数次におよぶ改刻の結果、柔軟性を帯びた「MRゴシック-M Ⅱ」の随伴仮名書体にも捨てがたい味がありますが、あえて「和字 Succession 9」から、「くろふね」を採用して、組み合わせて使用しています。
和字書体「くろふね」は、欣喜堂・今田欣一氏の製作によります。この和字は草間京平(1902-71)『沿溝書体スタイルブック』から想を採ったもので、謄写版の「ガリ版切り」に適した書体として提案されたものを、ゴシック体の仮名書体としてあらたに提案したものでした。
ガリ版切りは鉄片に刻まれた溝に沿って書かれていきますから、そこから「沿溝書体」と草間京平は名づけたのでしょう。ある意味では現在のビットという、ちいさな素片にふりまわされる電子活字の現状とも似た面がみられます。
それだけに和字「くろふね」は、素朴な文字形象で、いかにも鉄製の印刷機にはもってこいの、硬質感と、なんともいえない飄逸感、ユーモアのある表情がありました。
その詳細は「和字──限りなき前進」『タイポグラフィ-ジャーナル ヴィネット14 』(今田欣一、朗文堂、2005年9月)に紹介をみます。
《通称 活版おじさんのポスター使用活字について》
この「活版オジサンのポスター」は、会場の広さや、目的にあわせて、B全判、A全判、A半裁判、A3判などの各種のサイズがつくられてきました。たいていのばあい、印刷はしないで、プリンター出力によって間に合わせていますが、皆さんもどこかの会場でご覧になったことがあるかもしれません。
このポスターの背景色は「黄色から赤にかけての無限の階調色」とされる、朗文堂コーポレート・カラーによります。
真ん中で「諸君!」と語りかけている出っ腹・短足おじさんは、『活版見本』(東京築地活版製造所 明治36年11月)の「電気銅版 p.B98」から採ったものです。
この出っ腹・短足おじさんは、国産電気銅版(電胎版ともする)か、外国製のものか、同一ページの日本的な絵柄と較べてもにわかに判断できません。それでも明治20年代の東京築地活版製造所でも気に入っていたとみえて、『印刷雑誌』『花の栞』などにもしばしば登場して「諸君!」とかたりかけていたものです。
また周囲を囲む櫻花の花形活字は、同書「花形活字 p.A68 」からいくつかのピースをとりだして、デジタル処理を加えて採ったものです。
いずれも単なる複写ではなく、慎重な画線補整を加えながらもちいています。
飾り枠内部の書体は、イベントの都度かわりますが、ここに図示しているのはDNP「秀英体初号明朝体」です。
また最下部に「MRゴシック-M Ⅱ」と「くろふね」の合成フォントによる「アダナ・プレス倶楽部」の制定書体がみられます。
《活版凸凹フェスタ2012 告知 はがき/ポスター》
イベント告知はがき、絵柄面2色、宛名面1色の印刷は画期的でした。とりわけ絵柄面の人名や団体名が列挙された部分には 5pt. という極小サイズの「杉明朝体」が使用されました。
ふつうのビジネス用パソコンには 8pt.-72pt. が設定され、それ以下、それ以上のポイントサイズの出力には、ちょっとした操作が必要です。すなわち、あまり日常業務にはもちいられない極小ポイントサイズということになります。
もし、ご関心のあるかたは、すこし長文のテキストを用意して、お手許の書体の 5pt. での出力を試みられと面白い(ゾッとする)かもしれません。
筆者も開発に関わった書体もあり、軽軽にはかたれませんが、大半の書体(細明朝・細ゴシックとされているものを含めて)が 5pt. のサイズになると、漢字の画数が混んだものは潰れ、細い画線や、起筆・終筆に「切れ字」の現象がみられることに慄然とするかもしれません。
畢生の名書体「杉明朝」を小社にのこされて、杉本幸治氏は昨年の関東大地震の翌翌日に長逝されました。今回の告知はがきは、印刷条件、用紙条件など、厳しい面もみられましたが、「杉明朝体」はそんな難関を平然としてのりこえていました。
タイポグラファ群像*002「杉本幸治」
杉 本 幸 治
1927年[昭和2]4月27日ー2011年[平成23]3月13日
1927年(昭和2)4月27日東京都台東区下谷うまれ。
東京府立工芸学校印刷科卒(5年履修制の特殊な実業学校。現東京都立工芸学校に一部が継承された)。
終戦直後の1946年( 昭和21)印刷・出版企業の株式会社三省堂に入社。今井直一専務(ナオ-イチ 1896-1963.5.15 のち社長)の膝下にあって、本文用明朝体、ゴシック体、辞書用の特殊書体などの設計開発と、米国直輸入の機械式活字父型・母型彫刻システム(俗称:ベントン、ベントン彫刻機)の管理に従事し、書体研究室、技術課長代理、植字製版課長を歴任した。
またその間、晃文堂株式会社(現・リョービイマジクス株式会社、2011年11月から株式会社モリサワに移乗されモリサワMR事業部となった)の「晃文堂明朝体」「晃文堂ゴシック体」の開発に際して援助を重ねた。
1975年三省堂が苦境におちいり、会社更生法による再建を機として、48歳をもって三省堂を勇退。その直後から細谷敏治氏(1914年うまれ)に請われて、日本マトリックス株式会社に籍をおいたが、2年あまりで退社。
そののち「タイポデザインアーツ」を主宰するとともに、謡曲・宝生流の師範としても多方面で活躍。
「晃文堂明朝体」を継承・発展させた、リョービ基幹書体「本明朝体」の制作を本格的に開始。以来30数年余にわたって「本明朝ファミリー」の開発と監修に従事した。
2000年から硬筆風細明朝体の必要性を痛感して「杉明朝体」の開発に従事。2009年9月株式会社朗文堂より、TTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。同年11月、OTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。
特発性肺線維症のため2011年3月13日(日)午前11時26分逝去。享年83。
浄念寺(台東区蔵前4-18-10)杉本家墓地にねむる。法名:幸覚照西治道善士 コウ-ガク-ショウ-サイ-ジ-ドウ-ゼン-ジ。
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東日本大震災の襲来からまもなく、特発性肺線維症 のため入退院を繰りかえしていた杉本幸治氏が永眠した。杉本氏は、わが国戦後活字書体史に燦然と輝く、リョービ基幹書体「本明朝体」をのこした。また畢生ヒッセイの大作「硬筆風細明朝 杉明朝体」を朗文堂にのこした。
わたしどもとしては、東日本大震災の混乱の最中に逝去の報に接し、万感のおもいであった。これからは30年余におよぶ杉本氏の薫陶を忘れず、お預かりした「杉明朝体」を大切に守り育ててまいりたい。
在りし日の杉本幸治氏を偲んで
杉明朝体はね、構想を得てから随分考え、悩みましたよ。
その間に土台がしっかり固まったのかな。
設計がはじまってからは、揺らぎは一切無かった。
構造と構成がしっかりしているから、
小さく使っても、思い切り大きく使っても
酷使に耐える強靱さを杉明朝はもっているはずです。
若い人に大胆に使ってほしいなぁ。
-杉本幸治 83歳の述懐-
上左)晃文堂明朝体の原字と同サイズの杉明朝体のデジタル・データー
上右)晃文堂が和文活字用の母型製作にはじめて取り組んだ「晃文堂明朝」の原字。
(1955年杉本幸治設計 当時28歳。 原寸は2インチ/協力・リョービイマジクス)
2つの図版を掲げた。かたや1955年杉本幸治28歳の春秋に富んだ時期のもの。
こなたは70代後半から挑戦した新書体「杉明朝体」の原字である。
2003年、骨格の強固な明朝体の設計を意図して試作を重ねた。杉本が青春期を過ごした、三省堂の辞書に用いられたような、本文用本格書体の製作が狙いであった。現代の多様化した印刷用紙と印刷方式を勘案しながら、紙面を明るくし、判別性を優先し、可読性を確保しようとする困難な途への挑戦となった。制作に着手してからは、既成書体における字体の矛盾と混乱に苦慮しながらの作業となった。名づけて「杉明朝体」の誕生である。
制作期間は6年に及び、厳格な字体検証を重ね、ここに豊富な字種を完成させた。痩勁ながらも力感に富んだ画線が、縦横に文字空間に閃光を放つ。爽風が吹き抜けるような明るい紙面には、濃い緑の若葉をつけた杉の若木が整然と林立し、ときとして、大樹のような巨木が、重いことばを柔軟に受けとめる。
《杉明朝体の設計意図――杉 本 幸 治――絶 筆》
2000年の頃であったと記憶している。昔の三省堂明朝体が懐かしくなって、何とかこれを蘇らせることができないだろうかと思うようになった。 ちょうど 「本明朝ファミリー」 の制作と若干の補整などの作業は一段落していた。 しかしながら、そのよりどころとなる三省堂明朝体の資料としては、原図は先の大戦で消失して、まったく皆無の状態であった。
わずかな資料は、戦前の三省堂版の教科書や印刷物などであったが、それらは全字種を網羅しているわけではない。 したがって当時のパターン原版や、活字母型を彫刻する際に、実際に観察していた私の記憶にかろうじて留めているのに過ぎなかった。
戦前の三省堂明朝体は、世上から注目されていた「ベントン活字母型彫刻機」による、最新鋭の活字母型制作法として高い評価を得ていた。この技法は精密な機械彫刻法であったから、母型の深さ[母型深度]、即ち活字の高低差が揃っていて印刷ムラが無かった。加えて文字の画線部の字配りには均整がとれていて、電胎母型[電鋳母型トモ]の明朝体とは比較にならなかった。
しかしながら、戦後になって活字母型や活字書体の話題が取り上げられるようになると、「三省堂明朝体は、ベントンで彫られた書体だから、幾何学的で堅い表情をしている」とか、「 理科学系の書籍向きで、文学的な書籍には向かない」 とする評価もあった。
確かに三省堂明朝体は堅くて鋭利な印象を与えていた。しかし、それはベントンで彫られたからではなく、昭和初期の三省堂における文字設計者、桑田福太郎と、その助手となった松橋勝二の発想と手法に基づく原図設計図によるものであったことはいうまでもない。
世評の一部には厳しいものもあったが、私は他社の書体と比べて、三省堂明朝体の文字の骨格、すなわち字配りや太さのバランスが優れていて、格調のある書体が好きだった。そんなこともあって、将来なんらかの形でこの愛着を活用できればよいが、という構想を温めていた。
三省堂在職時代の晩期に、別なテーマで、辞書組版と和欧混植における明朝活字の書体を、様様な角度から考察した時、三省堂明朝でも太いし、字面もやや大きすぎる、いうなれば、三省堂明朝の堅い表情、すなわち硬筆調の雰囲気を活かし、縦横の画線の比率差を少なくした「極細明朝体」をつくる構想が湧いた。
ちなみに既存の細明朝体をみると、確かに横線は細いが、その横線やはらいの始筆や終筆部に切れ字の現象があり、文字画線としては不明瞭な形象が多く、不安定さがあることに気づいた。そのような観点を踏まえて、まったく新規の書体開発に取り組んだのが約10年前からの新書体製作で「杉本幸治の硬筆風極細新明朝」、即ち今回の 「杉明朝体」という書体が誕生する結果となった。
ひら仮名とカタ仮名の「両仮名」については、敢えて漢字と同じような硬筆風にはしなかった。仮名文字の形象は、流麗な日本独自の歴史を背景としている。したがって無理に漢字とあわせて硬筆調にすると、可読性に劣る結果を招く。 既存の一般的な明朝体でも、仮名については毛筆調を採用するのと同様に、「杉明朝体」でも仮名の書風は軟調な雰囲気として、漢字と仮名のバランスに配慮した。
「杉明朝体」は極細明朝体の制作コンセプトをベースとして設計したところに主眼がある。したがってウェート[ふとさ]によるファミリー化[シリーズ化]の必要性は無いものとしている。一般的な風潮ではファミリー化を求めるが、太い書体の「勘亭流・寄席文字・相撲文字」には細いファミリー[シリーズ]を持たないのと同様に考えている。
「杉明朝体」には多様な用途が考えられる。例えば金融市場の約款や、アクセントが無くて判別性に劣る細ゴシック体に代わる用途などがあるだろう。また、思いきって大きく使ってみたら、意外な紙面効果も期待できそうだ。
《活版凸凹フェスタ012 告知ポスター 裏面の書体 》
ここにもちいた書体は、「ヒューマン・サンセリフ 黒船B」です。シースルー・レイヤードとされた印刷方式にもよく耐えてくれました。目下販売注力中電子活字書体なので、リンクではなく、ここにも同一ページをご紹介いたいします。
『 ヒューマン・サンセリフ 銘石B Combination 3 』
好評発売中です!
お申込み、ご購入は、朗文堂 タイプ・コスミイク までお願いいたします。
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『 ヒューマン・サンセリフ 銘石B Combination 3 』
くれたけ銘石B、くろふね銘石B、くらもち銘石B
《ついにわが国でもヒューマン・サンセリフが誕生!── 銘石B》
どうやら想像以上に多くの皆さんが、力感のある、やさしい、ヒューマン・サンセリフの登場をお待ちいただいていたようです。
これまでもしばしば、十分なインパクトがありながら、視覚にやさしいゴシック体、それもいわゆるディスプレー・タイプでなく、文字の伝統を継承しながらも、使途のひろいサンセリフ――すなわち、わが国の電子活字書体にも「ヒューマン・サンセリフ」が欲しいとされる要望が寄せられていました。
確かにわが国のサンセリフ、≒ゴシック体のほとんどは、もはや自然界に存在しないまでに鋭角的で、水平線・垂直線ばかりが強調されて、鋭利な画線が視覚につよい刺激をあたえます。
今回欣喜堂・朗文堂がご提案した「銘石B」の原姿は、ふるく、中国・晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種で、とくに「碑石体ヒセキ-タイ」と呼ばれる書風をオリジナルとしています。
『王興之墓誌』。この裏面には、のちに埋葬された
妻・宋和之の墓誌が、ほぼ同一の書風で刻されています(中国・南京博物館蔵)。
『王興之墓誌』拓本。右払いの先端に、隷書に独特の
波磔のなごりがみられ、多くの異体字もみられます。
『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土しました。王興之(オウ-コウシ 309-40)は王彬オウ-リンの子で、また書聖とされる王羲之(オウ-ギシ 307-65)の従兄弟イトコにあたります。
この墓誌は煉瓦の一種で、粘土を硬く焼き締めた「磚 セン、zhuān、かわら」に碑文が彫刻され、遺がいとともに墓地の土中に埋葬されていました。そのために風化や損傷がほとんどなく、全文を読みとることができるほど保存状態が良好です。
王興之の従兄弟・書聖/王羲之(伝)肖像画。
同時代人でイトコの王興之も、こんな風貌だったのでしょうか。
魏晋南北朝(三国の魏の建朝・220年-南朝陳の滅亡・589年の間、370年ほどをさす。わが国は古墳文化の先史時代)では、西漢・東漢時代にさかんにおこなわれていた、盛大な葬儀や、巨費を要する立碑が禁じられ、葬儀・葬祭を簡略化させる「薄葬」が奨励されていました。
そのために、書聖とされる王羲之の作でも、みるべき石碑はなく、知られている作品のほとんどが書簡で、それを法帖ホウジョウ(先人の筆蹟を模写し、石に刻み、これを石摺り・拓本にした折り本)にしたものが伝承されるだけです。
この時代にあっては、地上に屹立する壮大な石碑や墓碑にかえて、係累・功績・生没年などを「磚セン」に刻んで墓地にうめる「墓誌」がさかんにおこなわれました。『王興之墓誌』もそんな魏晋南北朝の墓誌のひとつです。
『王興之墓誌』の書風には、わずかに波磔ハタクのなごりがみられ、東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれています。遙かなむかし、中国江南の地にのこされた貴重な碑石体が、現代日本のヒューマン・サンセリフ「 銘石B Combination 3」として、わが国に力強くよみがえりました。
《レポート07 を執筆していたら、暇人扱いされて……》
チョイと風邪気味が、どうやらやばくなってきた。持病の喘息の発作がはじまってきた。それでもここまで懸命に《活版凸凹フェスタ*07》をしるしていたら、スタッフが通りかかって、
「暇そうですね……」
と突き放された。確かにアダナ・プレス倶楽部会員も、スタッフも、顔つきが変わってきた。いよいよ追い込みである。
されど、皆が皆、波長をあわせて駈けまわっていてもしかたない。ここはひとりぐらい、ゆったりノンビリ構えていたほうがよかろうとおもう。
ホラ、ミロ、肝心のキャラクター紹介を忘れていたではないか。
ここに見る2012の数字は「ユニバース・ボールド」。下の行の欧文は1929年 A. M. Cassandre(ロシア系フランス人。1901-68)がパリのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所から発表した、エレガントで、好もしくおもっている書体「ビフィール Initiales Bifur, 1929」である。
「ビフィール」にはビッグ・レターしかない。それもきわめて大胆なフォルムである。
「K」にはステムが無い。「A」にはバーが無い。「N」にいたっては中心線のストローク一本しか無い。ただ万線で半分隠された形象と組み合わされると、見慣れた全体のキャラクターが現出する。そのために「ビフィール」は「Stencil Letter 刷り込み型書体」ともいわれている。