カテゴリー別アーカイブ: 活版凸凹フェスタ

活版凸凹フェスタ*レポート12

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たいへん遅くなりましたが《活版凸凹フェスタ2012》レポートを再開します。
五月の薫風にのせて、五感を駆使した造形活動、参加型の
活字版印刷の祭典《活版凸凹フェスタ 2012》 は
たくさんの
来場者をお迎えして終了しました。
ご来場たまわりました皆さま、
ありがとうございました。
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【レポートの中断と、報告遅延のお詫び】
《活版凸凹フェスタ2012》は、5月の連休のさなか、5月3日-6日にかけて開催されました。事前・途中経過の報告は、この朗文堂 タイポグラフィ・ブログロール『花 筏 』に《活版凸凹フェスタ2012*01-11》として掲載されています。
来年こそ《活版凸凹フェスタ》に出展しよう、来年こそ来場しようというご関心のあるかたは、ご面倒でも『花 筏 』のアーカイブ・ページを繰ってご覧ください。

また、なにかとイベントがかさなるGWのさなかのことでもあり、ご遠方のかた、家族サービスなど、さまざまなご事情で来場できなかったお客さまから、寸描でもよいから、会場やイベント内容を報告してほしいとのご要望がありました。
ところが、アダナ・プレス倶楽部は、5-6月と、さまざまなゼミナール、イベント、出荷、取材に追われ、 報告が遅滞してご不便をおかけしていました。

また今回はスタッフが、活版ゼミナールや接客に追われ、撮影担当者を特定していなかったという失敗がありました。そのために写真資料をアダナ・プレス倶楽部会員の皆さんからご提供をもとめ、ようやく準備が整った次第です。
ここから『花筏』から、本来のステージ『アダナ・プレス倶楽部NEWS』に舞台をもどして、なにかと多忙な大石にかわり、やつがれ(片塩)が《活版凸凹フェスタ2012》レポートを継続します。

活版凸凹フェスタ*レポート11

五月の薫風にのせて
五感を駆使した造形活動、参加型の活字版印刷の祭典
活版凸凹フェスタ 2012 は
たくさんのご来場者をお迎えして無事終了いたしました。
ご来場たまわりました皆さま、ありがとうございました。
出展者の皆さま、ご苦労さまでした。

来年も、活版凸凹フェスタ 2013 でお会いしましょう。
それまで、できることから 一歩 ずつ。

活版凸凹フェスタ*レポート10

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本情報のオフィシャルサイトは アダナ・プレス倶楽部ニュース です。
ここ、タイポグラフィ・ブログロール《花筏》では、肩の力をぬいて、
タイポグラフィのおもしろさ、ダイナミズムなどを綴れたらとおもいます。
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活版印刷の祭典 ですが
活版凸凹フェスタ2012のキーワードは
プライヴェート・プレス・ムーヴメント と
身体性 と 五感を駆使した創造の歓喜、
手引き活版印刷機です。
そして 活字にはじまり 活字におわります。  

 《きっかけになればいい……、それでも全力投球》
19世紀世紀末、
英国における造形運動のひとつに、アーツ&クラフツ・ムーヴメントがあり、プライヴェート・プレス・ムーヴメントがあった。このふたつの運動は、ほぼ表裏一体のものであった。
19世紀世紀末といえば、わが国は明治20年代にあたり、むしろ積極的に産業革命の成果を導入・享受し、富国強兵、殖産興国にひたはしっていた時代であった。当然彼我の環境にはおおきな相異があり、これらの「個人による運動」などは顧慮されるはずもなかった。

20世紀の初頭、アーツ&クラフツ・ムーヴメントは一周おくれで、ようやくわが国に到達した。しかしそれはジョン・ラスキンの唱導した造形運動を、バーナード・リーチ氏などによって「翻案」されたものであり、やがて民芸運動や工芸運動の一環として埋没し、費消されていった。
また武者小路実篤らの「新しき村」にも、調和的な共同体の理想を掲げ、都市をはなれて田園にむかうとする姿勢にも、アーツ&クラフツ・ムーヴメントの影響を看てとることができる。

いっぽう、プライヴェート・プレス・ムーヴメントに関しては、それなりの紹介書もあり、その「作品」もすくなからずわが国にも現存している。ただし、わが国の活字版印刷術≒タイポグラフィとは、産業革命の成果を十二分とりいれたもので、それをなんの疑いもなく受容してきたという経緯がある。
またタイポグラフィが本来内包している、技芸者・工芸者の誇りは持つゆとりもなく、「工業・産業」として経済利得追究の対象・手段になってきた、という不幸な歴史を背負っている。
すなわち、プライヴェート・プレス・ムーヴメントの「人物紹介」「作品紹介」はあっても、その精神はほとんど語られたことはない。

《かなりの粘着力をもって、プライヴェート・プレス・ムーヴメントに集中しました》
上野・日展会館で、来場者は活字版印刷術のいまを、様様な面からご覧になるはずである。そして企画展示の様様な告知物もご覧になるはずである。そこから、なにを読み解き、どう行動するのかは、まったく観覧者の自由意志に任されている。
なにもすべての船舶が、ひとつの港をめざして航海することはないように。それぞれがめざす母港は様様であって良い。

プライヴェート・プレス・ムーヴメントのメンバーは、
・なぜ、最初に活字(私家版活字、ハウス・フォント)をつくったのか。
・なぜ、それらの活字書体はほとんど現存しないのか。
・なぜ、ダヴス・プレスのコブデン-サンダースンと、エマリー・ウォーカーは、工房の閉鎖に際して
     そのハウス・フォント「ダヴス・ローマン」をテムズ河に投棄したのか。
・なぜ、ほとんどのプライヴェート・プレスはエドワード・プリンスに活字父型彫刻を依頼したのか。
・なぜ、ともに15世紀個人印刷所ニコラ・ジェンソンをモデルとしたダヴス・ローマンと、ゴールデ
     ン・タイ
プは、ともにエドワード・プリンスが彫刻したのか。そしてなぜ、かくも異なった表
     情をみせるのか。
・なぜ、プライヴェート・プレス・ムーヴメントのメンバーは、かくまで強く、動力式シリンダー印刷機  
     や、動力式プラテン印刷機ではなく、手引き印刷機の使用にこだわったのか。
・なぜ、かれらは労働の歓びを唱え、手引き印刷機の使用から、五感による造形の歓喜を謳歌し
     たのか。

これらの疑問は、会場にご来場いただけたら、ほとんど氷塊する疑問かもしれません。
そして出展者・出展企業・アダナ・プレス倶楽部がご提供する、活字版印刷術の実体験のチャンスを、ぜひとも有効にご利用ください。

《会場に足をお運びください。そして様様な印刷機と、印刷システムをご体験ください》

【使用活字書体】
アルバータス・タイトリング(Albertus Titling)  60pt.
アルバータスは、ベルトルド・ウォルプ(Berthold Wolpe 1905―1989年 ドイツ)によって設計された活字書体です。1932―40年にイギリスのモノタイプ社から数種類のシリーズ活字として発売されました。
今回使用する活字は、アルバータスの中でもタイトリング用の活字であり、大文字のみの活字書体です。ですから60pt. とはいえ、ディセンダーの部分がほとんど無い(ベースラインが下がっている)活字ですから、ほとんど72pt.もありそうな、迫力十分の活字です。

書体名「アルバータス」は13世紀のドイツの神学者であり哲学者であったアルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus 1193頃―180年)に由来します。
ディスプレー・ローマンとして4ウェートが開発され、終筆の分厚いターミナルは、セリフとはまたちがった、とてもつよい力感があります。「M」の中央のストロークは中間より上部で留まり、「U」はスモール・レターの形象を踏襲しています。


Berthold Wolpe 1905―1989    Stefan Wolpe Society

ウォルプは、ドイツ・フランクフルトの近郊都市、オフェンバッハの出身で、前半生はドイツと英国を拠点に活動しました。1932年、ドイツに全体主義勢力の擡頭をみて英国に逃れました。
そこでウォルプは、スタンリー・モリスンの指名によって、金属板の上に文字を浮き彫りにするという画期的な手法で、最初のアルバータスを製作しました。すなわちアルバータスは、最初から彫刻の手法がもちいられて誕生した稀有な活字ともいえます。
活字はモノタイプ社でカットされ、1988年にはロンドン市のサイン用制定書体として、ストリート・ネームを含むひろい範囲でもちいられました。

それでは皆さま、上野・日展会館《活版凸凹フェスタ2012》の会場でお会いしましょう!

活版凸凹フェスタ*レポート09

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やつがれ、風邪をひき、喘息の発作が……。
ようやく戦線復帰をしてみれば、
なんとまぁ、こんなことを、ノンビリと !?
手引き印刷機のインキング、インキボール製作
 

《チョイと頑張りすぎたかもしれない。咳と鼻水が垂れていたぞ!》
9日からの週、すこし無理をしたのかもしれない。11日[水]に長野県白馬村に日帰り取材。
春眠暁を覚えずというのに、ナント早朝6時起きで長距離バスに乗った。この早起きがつらく、ましてこの日の東京は氷雨が降りそそぎ、白馬村の残雪にはもっとふるえあがった。お訪ねした冨澤ミドリさんに、
「カタシオさんは、白馬よりもっと雪がふかい、飯山のご出身でしょう?」
と呆れられたが、ともかくやつがれ、雪よりも寒いのが
苦手なのだ。

ちなみに白馬村の冨澤ミドリさんのペンション「ブラン・エ・ヴェール」(白と緑。里見弴命名)は、1998年に開催された長野オリンピックのスキー・ジャンプ台のすぐ近くに立地している。だからスキーヤーにはいいだろうが、郷里をでて数十年、次男坊ガラスにとって信州信濃は寒いのだ。

《関西地区、まとめて出張》
週末14日[土]関西出張。大石は3年前に西宮の大型幼児教育施設に納入したAdana-21Jの定期点検に出張。以下、アダナ・プレス倶楽部 大石  薫の出張報告です。 

今春もはるばるやってきました。
「Adana-21J のイチバンのヘビー・ユーザーさん」での定期点検。
活版凸凹フェスタの準備の合い間をぬって、兵庫県まで出張です。
ここは子供の王国なので、日ごろは一般の大人は入れません。
広報管理もきびしい施設なので、内部の写真影像も割愛させていただきます。
この日は向かいの野球場でデーゲーム。往き帰りは阪神ファンで鮨詰め電車に乗ります。 

 この施設は、一年365日まったく休み無し、朝9時から夜9時までともかくフル稼働。
お子様たちは Adana-21J に興味シンシンです。ただなにぶんご幼少のこととて
力加減は情け容赦もなく、ガシャン、ガシャンと、きわめて楽しそうですが、正直ハラハラ。
稼働時間といい、操作状況といい、かなりハードな使用状況下ですが
オープンから3年経ったこんにちまで、たいした故障もなく、手前ミソながら、
あらためて小社の Adana-21J の頑丈さをひそかに自負するばかりです。

やつがれは、大阪府吹田市に『japan japanese』の著者ヘルムート・シュミット氏のアトリエを訪ねて、増刷と次作の打ち合わせをした。いつのまにか話題はデザイン全般におよび、時間はアッというまにすぎる。

夕刻6:30、アダナ・プレス倶楽部 Adana-21J の「シリアルナンバー0001番」のたいせつなユーザー、大阪・江戸堀印刷所の取材で、全員江戸堀印刷所で合流。

江戸堀印刷所は「アサヒ高速印刷」(代表:岡 達也 )さんが事業主体で、2007年4月、Adana-21J の発売と同時に購入のお申込みをいただきました。ですから江戸堀印刷所の Adana-21J は、栄光のシリアル・ナンバー「0001」が納入されています。
岡社長は「江戸堀印刷所」の構想を胸に、まず先駆けとしてAdana-21J を導入され、 次第に電動プラテン活版印刷機、半自動足踏み活版印刷機、電動箔押し機、小型断裁機、バーコ熱加工機などを設置した印刷工房「江戸堀印刷所」として、2011年秋に開設をみました。

江戸堀印刷所は、岡  達也社長、小野香織店長のご意向で、おおがかりな工房開設披露会などはしないで、いまも活字などの設備の充実に尽力されています。
やつがれは候補地としての「江戸堀印刷所」はみていましたが、夜でも一燈だけともされたあわい電燈のもとで、内部空間と設備概略が通行人からもみられるという、開放型の店舗設計には感動しました。

この工房は、昼も夜も、その姿を、通りがかるすべてのひとに解放しています。
その夜は大阪のあたらしい流行発信地・靫ウツボ公園脇のレストランで、小野店長のお心くばりの中国料理に満腹。

《忙中に閑あり、大阪府池田市での散歩》
15日[日]はひさしぶりのホリデイとした。
キタのターミナル梅田から阪急電鉄に乗って、およそ20分、大阪府池田市にある「阪急・東宝グループ」の創立者/小林一三(イチゾウ 1873-1957)の旧宅を開放した「小林一三記念館」と、収集品を展示する「逸翁イツオウ美術館」をみた。
逸翁美術館は「継色紙 あまつかぜ」(伝・小野道風筆)、「古筆手鑑 谷水帖 二十四葉」などを収蔵する(いずれも重要文化財)。ところがなにか熱っぽく、
もうひとつのりきれなかった。
そこで通りをはさんで向かいにある、旧宅を改装した「小林一三記念館」に集中した。

それにしても、私営鉄道の創業者たちは、どうしてかくも巨万の富をのこしたのだろう……。
東急電鉄の五島慶太(1882-1959)は「五島美術館」をのこし、東武鉄道の根津嘉一郎(1860-1940)は「根津美術館」をのこし、阪急鉄道の小林一三は「逸翁美術館」をのこした。
ただひとり「ピストル堤」の異名をもつ堤康次郎(1889-1964)は、政治の世界にはいり、また妻妾10人ともされる艶福家で、みるべきものはのこしていない。

《おもしろい らしい! ラーメンの記念館》
ノー学部はコトお散歩というか、町あるきとなると熱中するたちらしい。あちこちから資料をかき集めて、ともかく駈けまわることになる。
ノー学部、池田駅からすぐ近くの「インスタント・ラーメン発明記念館」でひどくごきげん。団体バスが次次とやってきて、館内はチビッコを中心に大盛況。
不滅の「チキンラーメン」を発明し、軽便食品で世界を制覇したカップ・ヌードルの発明者とは安藤百福翁だそうな。そしてカップ麺の極意とは、麺が宙づり状態になっていることにあるらしい。どうでもよいことではあるが為念。
以下、入場無料、製造参加費300円の「マイ・カップヌードル・ファクトリー」での情景。
やつがれは館内滞在5分ほど、ほかはもちろん外で休養 兼 喫煙をばなす。

《劇旨! おやじカレー 》
ノー学部、これもロード・マップからひろって評判の良いカレー店があると、テクテクと。
この時期、珍しいことに鹿肉の燻製、鹿肉のタタキが食べられるという。タタキは生肉提供がむずかしく、軽く熱をとおしていたが、旨し。ウメ~。やつがれ「邸宅レストラン 雅俗山荘」の仏蘭西料理で妥協して、プチ贅沢するか、ココノトコ忙しかったしな……、とおもったことをいたく反省。

ところで、ここのところ北方謙三(ケンゾー、ケンゾ~)につかまっている。『揚家将』『水滸伝』『揚令伝』と続いた、中国宋代の物語りのなかで、北方メ、いったい何千頭の鹿を射ころし、罠に嵌め、それをナマで食し、焼いて食する場面を活写してきたことか。梁山泊の兵士などは、骨つきの鹿肉を手づかみでむしゃぶりつくことが最高のご馳走だったらしい。
この関西への出張に際しても、鞄のなかには『揚令伝 八』(上製本・文庫本ともにあるが、旅には文庫本)を入れていた。ここでは梁山泊(叛乱軍)の若頭領・揚令が、棗強ソウキョウの戦場に、禁軍(近衛軍)元帥・童貫を伐つ場面が登場する。

童貫。間近だ。雷光が、全力を出した。
自分がどう動いたのか。まだ、雷光の上にいた。雷光は、命じてもいないまま、自ら棹立ちになり、反転した。
童貫の馬。馬だけだ。
戦場が無人のように静まり返った。揚令に、なにも聞こえなくなっただけなのか。
黒騎兵が、馬を降り、倒れている人の躰に近づいた。ゆっくりと、抱き起こす。
「宋禁軍、童貫元帥です」
しんとしていた。黒騎兵も青騎兵も赤騎兵も、声ひとつださない。
揚令は、吹毛剣を鞘に収め、雷光を降りた。
…………
具足ごと、首から胸まで、揚令は斬り降ろしていた。
「下馬」
史進の声がした。
全員が直立していた。揚令も、立ちあがり、直立した。
「宋禁軍、童貫元帥に、敬礼」
史進の声は、かすかに嗄シワガれていた。
戦場には、風が吹き抜けている。

この場面、漢オトコ かくあるべしと、啼けるのである。何度読んでも、泣くのである。
そして、ともかく北方謙三の中国史ジャンルとされる小説には、鹿を旨そうに喰うはなしが頻出するのである。

やつがれ、はじめて鹿肉を食し、ケンゾーの鹿肉へのこだわりをまったき理解するにいたった。ただし、やつがれケンゾ~のようには喧伝しない。旨いところは荒らされるからな。
「おやじカレー」だ。おぼえておこう。ノー学部に連れていかれただけだから、池田市のどこかもわからん。考えてみたら、阪急の池田駅で降りてから、一度も乗り物に乗らず、ただ歩いていた。

またそれにしてもである。
……それにしても吾がタイポグラフィの先達のなんと清貧であることか。
東京築地活版製造所の創業者/平野富二は、ほとんど造船に資金を投じて、さしたる資産をのこさずに急逝した。
秀英舎の創業者/佐久間貞一は「裸で産まれてきたから、裸で死ぬさ」と実に恬淡としていた。仮名垣魯文にいたっては「遺言 人間本来空 財産無一物」として長逝した。

こんなことどもを、たった一代で巨万の富をなした「インスタントラーメン発明王」自宅の前、喫煙所でボンヤリかんがえて紫煙をくゆらしていた。めずらしくケンゾ~に集中できなかった。
煙草がまずかった。やつがれの健康のバロメーターは煙草である。すこし熱があったようだ。

《16日からの週、風邪が引き金となって喘息ひどし》
この週内に、一本依頼原稿を仕上げなければならなかった。すでに約束の期限はすぎ、ギリギリ引っ張っての約束だった。ところが咳込みがひどく、もはや莫迦というしかないが、咳をしながら煙草を吸うので、吸気は煙草だけ、あとは咳の呼気ばかりで、ついに呼吸困難、酸素不足となってめまいがしてきた。約束破りはついに三跪九拝でご容赦願うしかないところまできた。
ゴホン、ゴホン、すう~、ゲホォ、ゲホォ、ゴホン、ゴホン、すう~、ゲ~ッ、ゲホォ、ゲフォ……。

ホント、莫迦なのです。
たまらずに廣岡奴のところに駆けこんで、風邪薬4日分処方。薬のせいか睡魔がおそう。21日[土]、22日[日]の両日、アダナ・プレス倶楽部会員、活版カレッジ修了生の皆さんが集まって製作に余念がなかったが、やつがれ完全にダウン。ダウンついでに空中庭園でパチリ。

《23日からの週、余喘はあるものの、体調戻る》
いよいよ《活版凸凹フェスタ012》最終コーナーの雰囲気。問い合わせが切れ間無く続く。後手後手になっていた企画展、すなわち朗文堂 アダナ・プレス倶楽部の展示とゼミナールのツメがようやく手についた。
江川活版製造所と手引き印刷機と、ハワイにわたった印刷機の担当はやつがれだったが、大石が一部ピンチヒッターに。結局しばらく始発電車で帰宅のはめになったが、なんとかメドがついた。最大の企画だけに、これが終わればあとは一気呵成、なだれ込み作戦だ。

────
24日[火]、イヤー、驚きました。真底あきれかえりました。やつがれなんぞ、依頼原稿ドタキャンのためもあって、なにかと焦り気味なのに、夕方からアダナ・プレス倶楽部会員の田中智子さんと大石とで、なにやらガサガサ、ゴソゴソ。

猫の手も借りたい慌ただしさというのに、ふたりはときおりお菓子などをほお張りながら、のんびり、ポワァ~と、なにやら皮革工芸に励んでおりました。隣室では新宿私塾が開講中でしたが、手のつけようもないほど雑然とした仕事場で、ここだけは15世紀、ドイツ・マインツのグーテンベルク工房さながらの世界が現出していました。

ふたりがつくっているのは「インキボール」といいます。せっかく250キロもある手引き印刷機を《活版凸凹フェスタ2012》の会場に運ぶのなら、インキング(活字に活字版インキを付着させること)も、簡便かつ安全なインキ・ローラーをもちいるのではなく、手引き印刷機考案の時代と同様に、「インキボール」をもちいて来場者にご披露しようということ。

かくて「活版ゼミナール」の集計もでてきました。ほとんどの講座がほぼ定員となっています。またずいぶん遠方からのお申込みが多くおどろいています。ここは風邪になど負けていられません。
キリッ!!
 

 

上図) インキ・ボールを造るの図。
下図)万力の操作。手引き印刷機も同様な仕組みとなっている。
『Mechanichs Exercises』 Herbert Davis, Harry Carter  1958, London  

《本情報のアップ後に、またまた仰天!》
4月25日[水]、夜10時、江川次之進と江川活版製造所、ハワイ・Mānoa Press に関してのデーターを揃えて、この特別展示企画ビジュアル担当の松尾篤史さんと打ち合わせ。
「江川次之進の新資料公開だけでもいっぱいなのに、手引き印刷機のこと、ハワイにわたった江川活版製造所の印刷機のことまでいっしょじゃ、どんなにスペースがあってもたりません」
とすっかり開き直られた。しかしそれはいつものこと。バッカス松尾、なんとかするでしょう。

それからなにやかにやと雑事に追われ、本情報は4月26日[木]01時03分にアップした(こんなこともわかるんですね、新発見。でもきっと、ほかのひとでもわかるんでしょうけど)。帰宅前に一服しながら@メールのチェックをした。友人から妙な@メール。

「新聞広告に見る文昌堂と江川活版」というブログがあり、書き出しが、「片塩二朗様  前略」になっています。面白い内容ですのでアドレスを添付。

やつがれ、ほとんどネット・サーフはしないので、最初は、いつもいつも出所はおなじ、横丁の与太ばなしのたぐいかとおもった。
ところがまったく違った。ブログ名は『日本語練習中』、執筆者は以前数度@メールの交換があった内田明さんであった。
内田明さん、情報のご提供ありがとうございました。こころより感謝しております。一部印刷機の図版が入っている新聞は、別のかたから情報提供をいただいておりましたが、江川活版製造所の営業展開の時間軸がわかるうれしい資料でした。あらためて@メールをしたためます。
それよりなにより、すこしご遠方ですが《活版凸凹フェスタ2012》ご来場いただきたいものです。そしてよろしければ、活版印刷実践者の皆さんと交流していただければ、ご成果はおおきなものとおもいます。ともかく、驚きましたし、ありがとうございました。擱筆

活版凸凹フェスタ*レポート07

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アダナ・プレス倶楽部が使用している活字たち
活字と 活字組版・活版印刷がお好きな あなたにむけて

《 Adana-21J の制定書体 》
上掲の写真にみるように、小型活版印刷機 Adana-21J には、格別にはカログラム(ロゴタイプ)や、モノグラム(シンボル・マーク)はもうけていません。むしろできるだけ原鋳造所による、正規の活字をもちいて、
活版印刷によって得られた印刷物を優先しています。
そして、機番銘板、
カタログ、広報物などの正式な印刷物にもちいる Adana-21J には、できるだけ欧文活字の「ギル・サン  GILL SANS」をもちいるように心がけています。

ところが厄介なことに、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部は[活版ルネサンス]を標榜しているちいさな事業部ですから、できるだけ金属活字による「ギル・サン」をもちいますが、状況によっては柔軟に、電子活字の「ギル・サン」も使用しています。

「ギル・サン」は、エリック・ギル(Arthur Eric Rowton Gill  1882-1940)の設計によって、英国・モノタイプ社が1928-30年にかけて製造した活字書体です。そのベースとなったのは、エドワード・ジョンストン(Edward Johnston 1872-1944) との共同で製作にあたった、いわゆる「ロンドン地下鉄道用書体」(Type Faces for the London Underground Railwais 1918年、木活字による特注サイン用書体として完成)にあります。

最上部Adana-21Jは、活字清刷りから「1, J」の形象と、レター・スペースに加工をくわえたもの。
ほかは「ギル・サン」の電子活字書体です。

エリック・ギルは、彫刻家であり、石彫り職人でもあったひとで、また『エッセイ・オン・タイポグラフィ』をはじめとする、多くの著述ものこしています。また、アルビオン型手引き印刷機を縦横に駆使して、多くの私家版書籍ものこしています。
ギルが製作した活字書体には、以下のものが知られています。
「Gill Sans  1927-30」「Golden Cokerel Press Type  1929」「Perpetua  1929-30」「Solus  1929」「Joanna  1930-31」「Aries  1932」「Floriated Capitals  1932」「Bunyan/Pilgrim  1934」「Cunard/Jubilee  1933/4」。

   小型活版印刷機 Adana-21J、栄光の一号機の機械銘板(大阪・江戸堀印刷所)

「ギル・サン」のおもな特徴は、サン・セリフ ≒  ゴシック体でありながら、「a」「g」などのフォルムに、色濃くオールド・ローマン体の伝統を継承していることにあります。
その形象をみますと、
まず画線の切り口が水平と垂直になっています。つぎにビッグ・レターの字幅がやや広めに設計されています。そしてアセンダーとキャップ・ハイト、すなわちスモール・レターの上に突きでた部分と、ビッグ・レターの高さが等しいことです。
また「V,v」「W,w」の下端が一点のみでベース・ラインと接しています。それでもこのふたつのキャラクターが、文字列のなかで浮きあがってみえないのは、巧まざる角度調整をほどこしてあるためです。

数字「1」の上端は、ロンドン地下鉄道書体では斜めにカットされ、「ギル・サン」金属活字の初期は、水平にカットされていました。小社には電子活字書体「ギル・サン」を、ふたつのベンダーが製造した製品を所有していますが、そのいずれも「1」の上端は水平にカットされています。
しかしいつのころからか、原鋳造所のモノタイプ社の金属活字では、「1」の上部にアペクスのような突起をもつようになりました。この原因は、おそらく「I アイ、l エル」と混同されやすかったためで、「判別性 Legibility」 に配慮した結果だったとみられます。
アダナ・プレス倶楽部が所有している「ギル・サン」金属活字の活字母型も、モノタイプ社の製造によりますが、やはりオールド・ローマン体の「i,j」などと同様のアペクスを有しています。

この「ギル・サン」の簡素なたたづまいと、おおきな屋根に押しつぶされそうになりながらも、けなげに頑張っている、ふるいフォルムをもった「a」がかわいくみえます。
Adana-21J は、このタイプの小型活版印刷機を製作した創始者/Donald A. Aspinall へのオマージュと、21世紀の日本で、あらたに製造された印刷機であることを示しています。ですから利便性に考慮して、ディセンダーに突きでたビッグ・レター「J」にデジタル加工を加えて、ベースラインと揃えました。

また Donald A. Aspinall がこのタイプの小型印刷機の原型を製造したのは1922年のことでした。 それから6年後、1928年に、ところも同じイギリスで誕生した活字書体が「ギル・サン」です。そんな時代的な共通背景も参考にしながら、Adana-21Jには、レター・スペースを相当慎重に調整して、もっぱら「ギル・サン」をもちいています。 

《朗文堂  アダナ・プレス倶楽部 によく使用している書体》
株式会社 朗文堂の活字版印刷事業部(そんなに大袈裟なものではありません)が、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部です。単なるいち事業部としないで「倶楽部」の名称をもちいているのは、ゆるやかな会員制のクラブ「アダナ・プレス倶楽部会員」の皆さんと、双方向の情報交換と、活版印刷復興に向けた連帯をもとめたからです。

「朗文堂 アダナ・プレス倶楽部」には、いわゆる「合成フォント」をもちいています。すなわち、漢字書体は旧晃文堂、リョービイマジクス製の「MRゴシック-M Ⅱ」をもちい、「アダナ・プレス」のカタ仮名の部分には、欣喜堂・今田欣一氏製の「くろふね」をもちいています。

「MRゴシック-M Ⅱ」のとおい原姿は藤田活版製造所にあります。同社が紹介されることはほとんどありませんが、1920-30年代の東京にあって、きわめて積極的にゴシック体の整備・拡張にあたった中堅の活字鋳造企業です。
目下わずかな残存資料をあつめ、また同社の関係者からも取材をつづけていますが、なにぶんゴシック体は昭和15-20年にかけて猖獗ショウケツをきわめた「変体活字廃棄運動」の大敵とされてきましたので、調査は難航しています。

スパッとしるせればきらくなのですが、すこしキーボードが重くなっています。戦後すぐの創業期、晃文堂と藤田活版とは縁戚関係にありました。海軍主計将校から活字界に転進した吉田市郎氏にとっては、岳父が率いる藤田活版製造所は心強い後ろ盾でした。
また後継者に恵まれなかった藤田活版製造所にとっても、子女が嫁し、将来を嘱望された名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)卒の、新知識人としての吉田市郎と、そのグループに期待するところがおおきかったはずです。

しかしながら、この縁戚関係は不幸なことに、避けがたがった結核による病死がもととなって、長続きしませんでした。また藤田活版製造所も「変体活字廃棄運動」の傷跡がおおきく、再建に手間取って、昭和30-40年代に事実上活動を停止しています。

いっぽう、欧文活字を中心に展開していた晃文堂は、次第に和文活字の開発と製造に軸足を移していました。明朝活字の開発には、しばしば触れているように、三省堂整版部の杉本幸治氏が協力しました。そしてゴシック体の原姿とは……、まだしるしにくいところがありますが、藤田活版製造所の「四号ゴシックだったか、12ポイントゴシック……」が原姿となっています。

昭和の70年代にはいると、写真植字書体が盛んに登場し、おもにレタリング系のデザ-ナーによる、骨格の脆弱なゴシック体がシェアを占めるようになりました。そうなると藤田活版製造所から継承して、晃文堂/リョービが製造していた古拙感と力感のあるゴシック体は、ふるいフォルムだとされ、またレタリングに独特な柔軟な線質に較べると、彫刻刀の冴えがほとばしるリョービ・ゴシック体は「硬い線質」だとされて忌避されるかたむきもみられました。

すなわちこのゴシック体は、藤田活版製造所の「四号ゴシック」に源流を発し、晃文堂でまず電鋳法による活字母型を製造し、続いて、三省堂・杉本幸治氏の指導をうけながら、機械式彫刻法による活字彫刻母型が製造されました。
晃文堂がリョービ・グループに参入した1970年代にはいると、パターン原図をもととして、リョービ社内デザインチームによって、仮名書体を中心に文字形象が検討され、また、字画の整理など、数次の改刻が繰りかえされて、こんにちにいたっています。

このいかにも「彫った文字」という表情をもった、機械工業にふさわしいゴシック体が好みです。また広めにとったカウンターや、フォルムの処理が、いかにも技術者の手になったものといえる整合性に富み、その硬めの線質が、かえって古拙感と統一感のある活字書風として魅力となっています。

和字(ひら仮名・カタ仮名)は、数次におよぶ改刻の結果、柔軟性を帯びた「MRゴシック-M Ⅱ」の随伴仮名書体にも捨てがたい味がありますが、あえて「和字  Succession 9」から、「くろふね」を採用して、組み合わせて使用しています。

和字書体「くろふね」は、欣喜堂・今田欣一氏の製作によります。この和字は草間京平(1902-71)『沿溝書体スタイルブック』から想を採ったもので、謄写版の「ガリ版切り」に適した書体として提案されたものを、ゴシック体の仮名書体としてあらたに提案したものでした。

ガリ版切りは鉄片に刻まれた溝に沿って書かれていきますから、そこから「沿溝書体」と草間京平は名づけたのでしょう。ある意味では現在のビットという、ちいさな素片にふりまわされる電子活字の現状とも似た面がみられます。
それだけに和字「くろふね」は、素朴な文字形象で、いかにも鉄製の印刷機にはもってこいの、硬質感と、なんともいえない飄逸感、ユーモアのある表情がありました。
その詳細は「和字──限りなき前進」『タイポグラフィ-ジャーナル ヴィネット14 』(今田欣一、朗文堂、2005年9月)に紹介をみます。

《通称  活版おじさんのポスター使用活字について》

この「活版オジサンのポスター」は、会場の広さや、目的にあわせて、B全判、A全判、A半裁判、A3判などの各種のサイズがつくられてきました。たいていのばあい、印刷はしないで、プリンター出力によって間に合わせていますが、皆さんもどこかの会場でご覧になったことがあるかもしれません。

このポスターの背景色は「黄色から赤にかけての無限の階調色」とされる、朗文堂コーポレート・カラーによります。
真ん中で「諸君!」と語りかけている出っ腹・短足おじさんは、『活版見本』(東京築地活版製造所 明治36年11月)の「電気銅版 p.B98」から採ったものです。
この出っ腹・短足おじさんは、国産電気銅版(電胎版ともする)か、外国製のものか、同一ページの日本的な絵柄と較べてもにわかに判断できません。それでも明治20年代の東京築地活版製造所でも気に入っていたとみえて、『印刷雑誌』『花の栞』などにもしばしば登場して「諸君!」とかたりかけていたものです。

また周囲を囲む櫻花の花形活字は、同書「花形活字 p.A68 」からいくつかのピースをとりだして、デジタル処理を加えて採ったものです。
いずれも単なる複写ではなく、慎重な画線補整を加えながらもちいています。
飾り枠内部の書体は、イベントの都度かわりますが、ここに図示しているのはDNP「秀英体初号明朝体」です。
また最下部に「MRゴシック-M Ⅱ」と「くろふね」の合成フォントによる「アダナ・プレス倶楽部」の制定書体がみられます。

 

《活版凸凹フェスタ2012 告知 はがき/ポスター》
イベント告知はがき、絵柄面2色、宛名面1色の印刷は画期的でした。とりわけ絵柄面の人名や団体名が列挙された部分には  5pt. という極小サイズの「杉明朝体」が使用されました。
ふつうのビジネス用パソコンには 8pt.-72pt. が設定され、それ以下、それ以上のポイントサイズの出力には、ちょっとした操作が必要です。すなわち、あまり日常業務にはもちいられない極小ポイントサイズということになります。

もし、ご関心のあるかたは、すこし長文のテキストを用意して、お手許の書体の 5pt. での出力を試みられと面白い(ゾッとする)かもしれません。
筆者も開発に関わった書体もあり、軽軽にはかたれませんが、大半の書体(細明朝・細ゴシックとされているものを含めて)が  5pt. のサイズになると、漢字の画数が混んだものは潰れ、細い画線や、起筆・終筆に「切れ字」の現象がみられることに慄然とするかもしれません。

畢生の名書体「杉明朝」を小社にのこされて、杉本幸治氏は昨年の関東大地震の翌翌日に長逝されました。今回の告知はがきは、印刷条件、用紙条件など、厳しい面もみられましたが、「杉明朝体」はそんな難関を平然としてのりこえていました。
タイポグラファ群像*002「杉本幸治」

杉  本   幸  治
1927年[昭和2]4月27日ー2011年[平成23]3月13日

1927年(昭和2)4月27日東京都台東区下谷うまれ。
東京府立工芸学校印刷科卒(5年履修制の特殊な実業学校。現東京都立工芸学校に一部が継承された)。
終戦直後の1946年( 昭和21)印刷・出版企業の株式会社三省堂に入社。今井直一専務(ナオ-イチ 1896-1963.5.15 のち社長)の膝下にあって、本文用明朝体、ゴシック体、辞書用の特殊書体などの設計開発と、米国直輸入の機械式活字父型・母型彫刻システム(俗称:ベントン、ベントン彫刻機)の管理に従事し、書体研究室、技術課長代理、植字製版課長を歴任した。
またその間、晃文堂株式会社(現・リョービイマジクス株式会社、2011年11月から株式会社モリサワに移乗されモリサワMR事業部となった)の「晃文堂明朝体」「晃文堂ゴシック体」の開発に際して援助を重ねた。

1975年三省堂が苦境におちいり、会社更生法による再建を機として、48歳をもって三省堂を勇退。その直後から細谷敏治氏(1914年うまれ)に請われて、日本マトリックス株式会社に籍をおいたが、2年あまりで退社。
そののち「タイポデザインアーツ」を主宰するとともに、謡曲・宝生流の師範としても多方面で活躍。
「晃文堂明朝体」を継承・発展させた、リョービ基幹書体「本明朝体」の制作を本格的に開始。以来30数年余にわたって「本明朝ファミリー」の開発と監修に従事した。

2000年から硬筆風細明朝体の必要性を痛感して「杉明朝体」の開発に従事。2009年9月株式会社朗文堂より、TTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。同年11月、OTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。
特発性肺線維症のため2011年3月13日(日)午前11時26分逝去。享年83。
浄念寺(台東区蔵前4-18-10)杉本家墓地にねむる。法名:幸覚照西治道善士 コウ-ガク-ショウ-サイ-ジ-ドウ-ゼン-ジ。

◎        ◎        ◎        ◎

東日本大震災の襲来からまもなく、特発性肺線維症 のため入退院を繰りかえしていた杉本幸治氏が永眠した。杉本氏は、わが国戦後活字書体史に燦然と輝く、リョービ基幹書体「本明朝体」をのこした。また畢生ヒッセイの大作「硬筆風細明朝 杉明朝体」を朗文堂にのこした。
わたしどもとしては、東日本大震災の混乱の最中に逝去の報に接し、万感のおもいであった。これからは30年余におよぶ杉本氏の薫陶を忘れず、お預かりした「杉明朝体」を大切に守り育ててまいりたい。

在りし日の杉本幸治氏を偲んで

杉明朝体はね、構想を得てから随分考え、悩みましたよ。
その間に土台がしっかり固まったのかな。
設計がはじまってからは、揺らぎは一切無かった。
構造と構成がしっかりしているから、
小さく使っても、思い切り大きく使っても
酷使に耐える強靱さを杉明朝はもっているはずです。
若い人に大胆に使ってほしいなぁ。

-杉本幸治 83歳の述懐-


上左)晃文堂明朝体の原字と同サイズの杉明朝体のデジタル・データー
上右)晃文堂が和文活字用の母型製作にはじめて取り組んだ「晃文堂明朝」の原字。
(1955年杉本幸治設計 当時28歳。 原寸は2インチ/協力・リョービイマジクス)

2つの図版を掲げた。かたや1955年杉本幸治28歳の春秋に富んだ時期のもの。
こなたは70代後半から挑戦した新書体「杉明朝体」の原字である。

2003年、骨格の強固な明朝体の設計を意図して試作を重ねた。杉本が青春期を過ごした、三省堂の辞書に用いられたような、本文用本格書体の製作が狙いであった。現代の多様化した印刷用紙と印刷方式を勘案しながら、紙面を明るくし、判別性を優先し、可読性を確保しようとする困難な途への挑戦となった。制作に着手してからは、既成書体における字体の矛盾と混乱に苦慮しながらの作業となった。名づけて「杉明朝体」の誕生である。

制作期間は6年に及び、厳格な字体検証を重ね、ここに豊富な字種を完成させた。痩勁ながらも力感に富んだ画線が、縦横に文字空間に閃光を放つ。爽風が吹き抜けるような明るい紙面には、濃い緑の若葉をつけた杉の若木が整然と林立し、ときとして、大樹のような巨木が、重いことばを柔軟に受けとめる。

《杉明朝体の設計意図――杉 本  幸 治――絶 筆》

2000年の頃であったと記憶している。昔の三省堂明朝体が懐かしくなって、何とかこれを蘇らせることができないだろうかと思うようになった。 ちょうど 「本明朝ファミリー」 の制作と若干の補整などの作業は一段落していた。 しかしながら、そのよりどころとなる三省堂明朝体の資料としては、原図は先の大戦で消失して、まったく皆無の状態であった。

わずかな資料は、戦前の三省堂版の教科書や印刷物などであったが、それらは全字種を網羅しているわけではない。 したがって当時のパターン原版や、活字母型を彫刻する際に、実際に観察していた私の記憶にかろうじて留めているのに過ぎなかった。

戦前の三省堂明朝体は、世上から注目されていた「ベントン活字母型彫刻機」による、最新鋭の活字母型制作法として高い評価を得ていた。この技法は精密な機械彫刻法であったから、母型の深さ[母型深度]、即ち活字の高低差が揃っていて印刷ムラが無かった。加えて文字の画線部の字配りには均整がとれていて、電胎母型[電鋳母型トモ]の明朝体とは比較にならなかった。

しかしながら、戦後になって活字母型や活字書体の話題が取り上げられるようになると、「三省堂明朝体は、ベントンで彫られた書体だから、幾何学的で堅い表情をしている」とか、「 理科学系の書籍向きで、文学的な書籍には向かない」 とする評価もあった。

確かに三省堂明朝体は堅くて鋭利な印象を与えていた。しかし、それはベントンで彫られたからではなく、昭和初期の三省堂における文字設計者、桑田福太郎と、その助手となった松橋勝二の発想と手法に基づく原図設計図によるものであったことはいうまでもない。

世評の一部には厳しいものもあったが、私は他社の書体と比べて、三省堂明朝体の文字の骨格、すなわち字配りや太さのバランスが優れていて、格調のある書体が好きだった。そんなこともあって、将来なんらかの形でこの愛着を活用できればよいが、という構想を温めていた。

三省堂在職時代の晩期に、別なテーマで、辞書組版と和欧混植における明朝活字の書体を、様様な角度から考察した時、三省堂明朝でも太いし、字面もやや大きすぎる、いうなれば、三省堂明朝の堅い表情、すなわち硬筆調の雰囲気を活かし、縦横の画線の比率差を少なくした「極細明朝体」をつくる構想が湧いた。

ちなみに既存の細明朝体をみると、確かに横線は細いが、その横線やはらいの始筆や終筆部に切れ字の現象があり、文字画線としては不明瞭な形象が多く、不安定さがあることに気づいた。そのような観点を踏まえて、まったく新規の書体開発に取り組んだのが約10年前からの新書体製作で「杉本幸治の硬筆風極細新明朝」、即ち今回の 「杉明朝体」という書体が誕生する結果となった。

ひら仮名とカタ仮名の「両仮名」については、敢えて漢字と同じような硬筆風にはしなかった。仮名文字の形象は、流麗な日本独自の歴史を背景としている。したがって無理に漢字とあわせて硬筆調にすると、可読性に劣る結果を招く。 既存の一般的な明朝体でも、仮名については毛筆調を採用するのと同様に、「杉明朝体」でも仮名の書風は軟調な雰囲気として、漢字と仮名のバランスに配慮した。

「杉明朝体」は極細明朝体の制作コンセプトをベースとして設計したところに主眼がある。したがってウェート[ふとさ]によるファミリー化[シリーズ化]の必要性は無いものとしている。一般的な風潮ではファミリー化を求めるが、太い書体の「勘亭流・寄席文字・相撲文字」には細いファミリー[シリーズ]を持たないのと同様に考えている。

「杉明朝体」には多様な用途が考えられる。例えば金融市場の約款や、アクセントが無くて判別性に劣る細ゴシック体に代わる用途などがあるだろう。また、思いきって大きく使ってみたら、意外な紙面効果も期待できそうだ。

《活版凸凹フェスタ012 告知ポスター 裏面の書体 》
ここにもちいた書体は、「ヒューマン・サンセリフ 黒船B」です。シースルー・レイヤードとされた印刷方式にもよく耐えてくれました。目下販売注力中電子活字書体なので、リンクではなく、ここにも同一ページをご紹介いたいします。

『 ヒューマン・サンセリフ 銘石B Combination 3 』
 好評発売中です!
お申込み、ご購入は、朗文堂 タイプ・コスミイク までお願いいたします。
──
『 ヒューマン・サンセリフ 銘石B Combination 3 』
くれたけ銘石B、くろふね銘石B、くらもち銘石B

 《ついにわが国でもヒューマン・サンセリフが誕生!── 銘石B》
どうやら想像以上に多くの皆さんが、力感のある、やさしい、ヒューマン・サンセリフの登場をお待ちいただいていたようです。
これまでもしばしば、十分なインパクトがありながら、視覚にやさしいゴシック体、それもいわゆるディスプレー・タイプでなく、文字の伝統を継承しながらも、使途のひろいサンセリフ――すなわち、わが国の電子活字書体にも「ヒューマン・サンセリフ」が欲しいとされる要望が寄せられていました。
確かにわが国のサンセリフ、≒ゴシック体のほとんどは、もはや自然界に存在しないまでに鋭角的で、水平線・垂直線ばかりが強調されて、鋭利な画線が視覚につよい刺激をあたえます。

今回欣喜堂・朗文堂がご提案した「銘石B」の原姿は、ふるく、中国・晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種で、とくに「碑石体ヒセキ-タイ」と呼ばれる書風をオリジナルとしています。

『王興之墓誌』。この裏面には、のちに埋葬された
妻・宋和之の墓誌が、ほぼ同一の書風で刻されています(中国・南京博物館蔵)。

『王興之墓誌』拓本。右払いの先端に、隷書に独特の
波磔のなごりがみられ、多くの異体字もみられます。

『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土しました。王興之(オウ-コウシ 309-40)は王彬オウ-リンの子で、また書聖とされる王羲之(オウ-ギシ  307-65)の従兄弟イトコにあたります。


この墓誌は煉瓦の一種で、粘土を硬く焼き締めた「磚 セン、zhuān、かわら」に碑文が彫刻され、遺がいとともに墓地の土中に埋葬されていました。そのために風化や損傷がほとんどなく、全文を読みとることができるほど保存状態が良好です。

王興之の従兄弟・書聖/王羲之(伝)肖像画。
同時代人でイトコの王興之も、こんな風貌だったのでしょうか。

魏晋南北朝(三国の魏の建朝・220年-南朝陳の滅亡・589年の間、370年ほどをさす。わが国は古墳文化の先史時代)では、西漢・東漢時代にさかんにおこなわれていた、盛大な葬儀や、巨費を要する立碑が禁じられ、葬儀・葬祭を簡略化させる「薄葬」が奨励されていました。
そのために、書聖とされる王羲之の作でも、みるべき石碑はなく、知られている作品のほとんどが書簡で、それを法帖ホウジョウ(先人の筆蹟を模写し、石に刻み、これを石摺り・拓本にした折り本)にしたものが伝承されるだけです。

この時代にあっては、地上に屹立する壮大な石碑や墓碑にかえて、係累・功績・生没年などを「磚セン」に刻んで墓地にうめる「墓誌」がさかんにおこなわれました。『王興之墓誌』もそんな魏晋南北朝の墓誌のひとつです。

『王興之墓誌』の書風には、わずかに波磔ハタクのなごりがみられ、東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれています。遙かなむかし、中国江南の地にのこされた貴重な碑石体が、現代日本のヒューマン・サンセリフ「 銘石B Combination 3」として、わが国に力強くよみがえりました。

《レポート07 を執筆していたら、暇人扱いされて……》
チョイと風邪気味が、どうやらやばくなってきた。持病の喘息の発作がはじまってきた。それでもここまで懸命に《活版凸凹フェスタ*07》をしるしていたら、スタッフが通りかかって、
「暇そうですね……」
と突き放された。確かにアダナ・プレス倶楽部会員も、スタッフも、顔つきが変わってきた。いよいよ追い込みである。

されど、皆が皆、波長をあわせて駈けまわっていてもしかたない。ここはひとりぐらい、ゆったりノンビリ構えていたほうがよかろうとおもう。
ホラ、ミロ、肝心のキャラクター紹介を忘れていたではないか。

ここに見る2012の数字は「ユニバース・ボールド」。下の行の欧文は1929年 A. M. Cassandre(ロシア系フランス人。1901-68)がパリのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所から発表した、エレガントで、好もしくおもっている書体「ビフィール Initiales Bifur,  1929」である。
「ビフィール」にはビッグ・レターしかない。それもきわめて大胆なフォルムである。
「K」にはステムが無い。「A」にはバーが無い。「N」にいたっては中心線のストローク一本しか無い。ただ万線で半分隠された形象と組み合わされると、見慣れた全体のキャラクターが現出する。そのために「ビフィール」は「Stencil Letter  刷り込み型書体」ともいわれている。

活版凸凹フェスタ*レポート06

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ここ、タイポグラフィ・ブログロール《花筏》では、肩の力をぬいて、
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出展企業と出展団体のご紹介

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《江戸堀印刷所》
小型活版印刷機 Adana-21J 第一号機ユーザーの初登場です。
昨2011年の秋11月、大阪・中之島と、靫ウツボ公園に囲まれた人気のエリア“江戸堀”(大阪市西区江戸堀1-26-18-104)に、印刷工房「江戸堀印刷所」がオープンしました。
この工房は、なにわ筋に面した一階店舗、およそ 50m2 のスペースに、 印刷工房、打ち合わせスペース、小さなギャラリー・スペースなどがあります。


名刺・ポストカード・リトルプレス・ZINE・絵本などのカスタマイズ製品、オリジナル・ステーショナリーなど、活版印刷・オフセット印刷・デジタル印刷を自在に駆使し、それらの印刷方式を、目的と用途にあわせて採用・併用した印刷と、製本がお得意です。

「江戸堀印刷所」の事業本体は、すぐ近くの「あさひ高速印刷株式会社」(代表・岡 達也氏 )です。同社は従業員数100余名を数え、大型オフセット平版印刷機などを何台も設置している有力印刷会社です。
2007年4月、Adana-21J の発売と同時に購入のお申込みをいただきましたので、江戸堀印刷所の Adana-21J は、栄光のシリアル・ナンバー「0001」が納入されています。

  

  

当時から岡  達也社長と、ご担当の小野香織さんは、ともども、
「当社には、オフセット印刷をはじめ、オンデマンド印刷など、さまざまな印刷方法がありますが、活版印刷は、なにより印刷の原点です。それを、誰にでも、一番わかりやすい形で伝えられる印刷機として、まずは手許にこの小型活版印刷機を置いておきたい」
とされてご購入いただきました。
「この  Adana-21J  を中心に、徐徐に活版印刷関連機器などの設備を導入して、いつの日か、皆さんの目に見えるところに展示して、たくさんの人に、印刷の原点、おもしろさを知っていただきたい」
ともされていました。

こんな経緯があって、納入から4年ばかりの年月が過ぎた2011年秋に、Adana-21J だけでなく、自動プラテン活版印刷機、半自動足踏み活版印刷機、電動箔押し機、小型断裁機、バーコ熱加工機などを設置した、印刷工房「江戸堀印刷所」が完成しました。

目下のスタッフは、元企画部におられた小野香織さん、ベテラン印刷職人/長岡さん、それに活版印刷が大好きな岡  達也社長ご自身が奮闘されています。
あいにく岡社長は出張中でしたが、土曜日の夕方の取材に、小野香織さんが休日出勤で対応していただきました。
印刷物の仕上がりは、どれもセンシブルで、美しいものでした。ありがとうございました。 今回は、プライベート・プリンターの皆さまとの交流と親睦を目的に、初参加いただきました。

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《版画工房 フジグラフィックス》
株式会社フジグラフィックス(代表者・楚山俊雄氏)の版画工房フジグラフィックスは、1983年台東区入谷に、リトグラフ、シルクスクリーン、銅版画の版画工房を開いて以来、多くの作家、ギャラリー、出版社などと共に版画作品を制作している、知るひとぞ知る、きわめてすぐれた版画工房です。

代表の楚山俊雄さんは、版画制作はデリケートな手仕事で、メカニズムではできないものだ、とかたられます。そして平版(リトグラフ)、凹版(銅版画)、孔版(シルクスクリーン)印刷の達人で、温厚なお人柄ですが、そこにさらに凸版(活字版印刷術)を加えようと、アダナ・プレス倶楽部の「活版カレッジ」を受講された、意欲的なかたでもあります。

すでにアダナ・プレス倶楽部の会員のなかには、フジグラフィックスさんをお訪ねして「版画印刷体験講座」を受講されたかたもいらっしゃいます。また、版画の魅力を楽しんでいただけるように、初心者にも体験講座・工房見学も開催されています。 

      
同社Websiteより。リトグラフの印刷風景。

《活版凸凹フェスタ2012》では、ご出展とあわせて、5月5日[土]、活版ゼミナール【印刷の四大版式を学ぼう】のご担当をお願いしました。
凸版印刷の一種である「活版印刷」をより深く理解していただくためには、ほかの版式や技法に接することも重要です。「版画工房  フジグラフィックス」の楚山俊雄さんのご協力のもと、印刷の四大版式「凸版・凹版・平版・孔版」すべての印刷体験を通して、その違いや特性を学ぶ、アダナ・プレス倶楽部ならではのゼミナールが開催されます。

───
《株式会社エスアールジー》
株式会社エスアールジー(SRG CO., LTD.  代表取締役・呉藤伸二氏)は、イギリスと日本と
のインターフェースに尽力されている企業です。大分と東京に本拠をおき、代表の呉藤さんを陣頭に、東奔西走の間に、イギリスへの仕入れ交渉に出かけるなど、とても多方面で活躍されています。
大分の直営店の
店内では、輸入雑貨、アンティーク・グッズ、ポスター、ステーショナリー、ポストカードなどを販売されています。また、常設のフレーミング工房では額装もおこなっていますし、各種のワークショップも展開されています。

同社Websiteより POP-UP LONDON

呉藤さんは、デパートや画材店をはじめ、高感度ショップなどの催事に積極的に出展・進出されています。昨年からは、そこに容易に運搬・搬送できる、小型活字版印刷機 Adana-21J という、あたらしい集客パワーが加えられました。
《活版凸凹フェスタ》には、はじめてのご出展ですが、できるだけ「木活字」をたくさん出品していただけるようにお願いしています。 

────
《タイポグラフィ学会》
タイポグラフィ学会(会長・山本太郎氏)は、
「タイポグラフィという技芸に学問的な基盤を与え、その成果を実技・実践に生かし、有効で豊かな展開を通して社会に貢献することにあります」。
という趣旨に賛同した、タイポグラフィをおもくみる会員によって組織された任意団体です。

研究のための学会というと、なにか厳めしい感がありますが、山本太郎会長をはじめ、松尾篤史事務局長、春田ゆかりさん、小酒井英一郎さん、木村雅彦さん、渡辺優さん、板倉雅宣さん、笈川道義さん、田中宏明さん、中村将大さん、川崎孝志さん、押手恒さんなど、多くの会員の皆さんが、これまでの《活版凸凹フェスタ》にも、さまざまなご協力をいただいてまいりました。
そして今回の《活版凸凹フェスタ2012》にも、最大限の協力をいただいています。

タイポグラフィとは、狭義に解釈しますと「活字版印刷術」となります。そしてこの「術」の部分に重きをおいている技芸がタイポグラフィですから、活字版印刷術、活版印刷、活版、カッパン、そして《活版凸凹フェスタ》ともきわめてつよい関連があります。
ここに【タイポグラフィ学会 概要】の全文をご紹介します。

【タイポグラフィ学会 概要】
2005年8月に「タイポグラフィ学会」が設立されました。学会設立の目的は、タイポグラフィという技芸に学問的な基盤を与え、その成果を実技・実践に生かし、有効で豊かな展開を通して社会に貢献することにあります。
当学会の活動は、上の目的の達成のためにタイポグラフィを専門的に研究発表する場または真摯な議論と考察の結果を表明する場を設けて、広く深い認識を共有することに主眼があります。
タイポグラフィは複製手段である印刷術の現場から生まれたことばであり、印刷術の実践の歴史とともにあります。西洋では550年、わが国では130年の歴史を有しています。タイポグラフィは活字の設計・製造からその有効で的確な使用法を模索し実践する技芸であり、人々の知的生活を支える書籍・雑誌・新聞の普及に貢献し、報道・文芸・学術・教育・商業・娯楽などの分野で不可欠な要素となっています。

21世紀に至り、技術革新は実験と試用の時代を経て実用の時代に入り、それに伴いタイポグラフィは時代の抱える新しい課題への対応が求められています。将来の活字文化と文字情報社会の充実に積極的に参加するために、先人による蓄積を尊重し学びつつ、そこに再検討を加える研究や新しい視点からの研究さらには批評的なまなざしを忘れずに、関連する他の分野との学際的な交流を通して、人々の暮しと文化的な活動を支える必要があると考えます。

以上の観点に立って、タイポグラフィに関する課題やテーマに専門家諸氏の英知を結集して研究の光を当て考察を加え、洋の東西にとらわれない学術研究を体系的に推し進める機関を設けるべく、ここに意を決して集まりました。

活版凸凹フェスタ*レポート05

今年の五月の連休も活版三昧!!

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未来のカッパン技師です!

前回の会場風景。天候に恵まれ3,000人を超えるお客さまにご来場いただきました。

和紙系極薄手A3判用紙に、樹脂版による凸版印刷。オモテ・スミ1色、ウラ・紅赤、特金2色
手差し菊四裁活版印刷機を使用し、See-through Leyerd 印刷方式による。
詳細は、活版凸凹フェスタ*レポート01 をご覧ください。

 
前回の出展作家ブース。作品談義が交わされ、ひとの輪ができ、歓声があがっていました。

前回の出展企業・団体ブース。熱心な来場者に業界人も疲労気味の場面もみられました。

ことしも、このサイン・ボードが活躍します。
そして アダナ・プレス倶楽部名物【出っ腹 活版オジサン ボード】も出没予定!

活版印刷のビギナーはもとより、中級程度の技倆のかたでもおおいに有効な、朗文堂  アダナ・プレス倶楽部・大石  薫著《活版印刷の専門書》が『VIVA!! カッパン♥』です。
アダナ・プレス倶楽部では、初心者に向け、6ヶ月コースの「活版カレッジ」、一日速習コースの「Adana-21J 操作指導教室 」の講座を開設しています。そこでの必須のテキストが『VIVA!! カッパン♥』です。
詳細 : 朗文堂ブック・コスミイク

 ★      ★      ★      ★

◆特別企画展示◆
活字版印刷術の知と技と美をご紹介いたします。
     ・詳細は、このページに、順次掲載いたします。

 

◆活版ゼミナール◆
会期中は、毎日、楽しい活版ゼミナールを開催いたします。
詳細は順次発表いたします。
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【アルビオン型手引き活版印刷機による印刷実演】
会期中連日 適宜開催
事前予約不要 
参加費:印刷体験希望者は  1回1,800円(税込)。
ご見学はご自由にどうぞ。

19世紀に、英国で製造された鉄製の「アルビオン型手引き印刷機」を会場に搬入し、写真の印刷機をもちいて、欧文大型活字による印刷実演をおこないます。
印刷された作品はお持ち帰りいただきます。


英国/フィギンズ社、1875年製造「アルビオン型手引き印刷機」
「手引き印刷機 Hand press 」は手動で操作する印刷機の総称で、一般にはグーテンベルクらがもちいた印刷機のかたちを継承して、水平に置いた印刷版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機です。
アルビオン型印刷機は、重い圧盤を引き上げるための、バネを内蔵した突起を頭頂部に有することが特徴で、すでに動力機が主流となった19世紀世紀末にも、ウィリアム・モリス工房や、エリック・ギルらのプライベート・プレス運動家が、五感を駆使した造形にこだわりがあって、この「アルビオン型手引き印刷機」をもちいたことが知られます。
わが国でも、東京築地活版製造所・平野富二らが、明治7年頃から製造していたことが明らかになっています。秀英舎(現:大日本印刷)の創業時の印刷機も、残存写真資料から「アルビオン型印刷機」であったことがわかります。
また、明治中期に江川活版製造所が製造した類似機を、ハワイ/Mānoa Press が所有していて、今回の《活版凸凹フェスタ》に図版参加が決まっています。


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 【印刷人掃苔会(そうたいかい)ツアー2012】 
5月3日(木・祝) 13 : 00(展示会場に10分前に集合)―
15 : 00  雨天決行
定員:15(予約制) 参加費:2,000円(税込)
「掃苔会の栞」付き


谷中霊園、通称碑文通りにある巨碑。現在もおこなわれている「左起こしの横書き」のはじまりが、大蔵官僚だった渡部欽一郎によって洋式帳簿のなかではじめれらたことを、時の大蔵大臣が碑文に撰しています。
ご案内は、タイポグラフィ学会事務局長/松尾篤史さんです。

テクテク歩いて、よ~く見て、ハイ ご苦労さま!
印刷人掃苔会 参加証。熊さん活字はアメリカ製。

 【ご紹介者予定 順不同】
岸田 吟香  新聞人・ヘボン博士助手・点眼薬製造者・慈善事業家・『東京日日新聞』主筆
内田 嘉一  福澤諭吉門下、文部官僚、「かな の くわい」幹事、秀英体に影響を与えたか
平野 富二  東京築地活版製造所、IHI創設者、日本近代産業の開拓者
平野義太郎  法学者・平和運動家・平野富二長男
井関 盛艮  初代長崎県令として本邦初の日刊新聞『横浜毎日新聞』発行
鏑木 清方  画家・條野傳平の子息
陽  其二   『横浜毎日新聞』編集兼発行にあたる。『穎才新誌』発行
田口 卯吉  経済学者、『東京経済新聞』創刊者
重野 安繹  歴史学者、政治家、内閣修史局編輯長
條野 傳平  粋人、戯作者、新聞人。『江湖新聞』『東京日日新聞』(現・毎日新聞)創刊者
渡部欽一郎  大蔵省書記官。知られざる左起こし横書きの創始者。
高橋 お伝
藤野 景響  西南戦争の電信技師。池原香穉の撰幷書の墓碑が美しい。
宮城 玄魚  粋人。書家。初期かな活字の形成に影響がおおきかった。
福地 櫻痴  本名:源一郎。粋人。新聞人、政治家。小屋芝居を常設の歌舞伎座とした
中村 正直  啓蒙思想家、教育者。お茶の水女子大創設者
沼間 守一  政治家、新聞人
小室 樵山  書芸家。弘道軒清朝活字の原字製作者
巻  菱湖   書家。幕末の三筆。門人一万と号す
仮名垣魯文  粋人。新聞人。文筆家。少し離れています。余力があったらいきましょう! 

掃苔ソウタイとは、墓石の苔コケを掃くことで、転じて清掃・墓参りを意味します。《活版凸凹フェスタ2012》の会場「日展会館」のまわりには、印刷人が多く眠る「谷中霊園」や、お寺、印刷関連の石碑も豊富な「上野公園」などがあります。
本来の掃苔会は、勝手にどんどん不定期開催ですが、外部の皆さんをお誘いするかたちでの開催には、あまりにマニアックだとして異論がありました。ところが前回は満員御礼の盛況でした。そこで今回も「5人くらいお集まりいただければ……」と気軽にかまえています。
タイポグラフィ学会事務局長の松尾篤史さんの解説とともに、「日展会館」周辺の印刷人ゆかりの地をめぐる、とてもマニアックで、充実したツアーです。
皆さんもごいっしょに、わが国の印刷の発展に尽力した先達を偲び、石碑に刻まれた書体の秘密を解明してみませんか。

お申し込みしめきり日:4月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ 掃苔会(そうたいかい) 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

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【花型活字を使ってオリジナルレターセットをつくろう!】
5月3日(木・祝) 
① 10 : 00―12 : 00 
② 14 : 00―16 : 00
定員:各回4名(予約制) 参加費:3,000円(税込)


花型活字と欧文活字を使って、お名前入りの素敵なオリジナルレターセットをつくりましょう。
お申し込みしめきり日:4月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ 花型活字レターセット 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

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 【2種類のハンドモールドで活字をつくろう!】
5月4日(金・祝)
① 13 : 00―14 : 30
② 15 : 00―16 : 30
定員:各回6名(予約制) 参加費:5,000円(税込) テキスト2種付

ハンドモールド(手鋳込みの活字鋳造器)を用いて活字鋳造の体験をおこないます。今回は、初期の活字鋳型の研究をされている元三省堂印刷の伊藤伸一さんと、タイポグラフィ学会会員の渡辺 優スグルさんのご協力のもと、2種類のハンドモールドをもちいて、活字鋳造体験を予定しています。
ひとつは、15世紀半ばに西洋式活字版印刷術を開発した、ドイツのグーテンベルクがもちいたとされる「手鋳込み式活字鋳造器」の想定図をもとに、渡辺優さんが復元したものです。

『グーテンベルクのハンドモールドをつくる』 PDFデータ

もうひとつは、伊藤進一さん所有のハンドモールドで、スミソニアン・国立アメリカ歴史博物館の学芸員で、初期活字鋳型の世界的な研究者である、スタン・ネルソンさんによって復元されたものです。できあがった活字を使って、小型活版印刷機 Adana-21J で記念カードの印刷もおこないます。

お申し込みしめきり日:4月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ ハンドモールド 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

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【印刷の四大版式の違いを学ぼう!】
5月5日(土・祝) 13 : 00―16 : 00
定員:8名(予約制) 参加費:5,000円(税込)

凸版印刷の一種である「活版印刷」をより深く理解していただくためには、ほかの版式や技法に接することも重要です。
「版画工房  フジグラフィックス」の楚山俊雄さんのご協力のもと、印刷の四大版式「凸版・凹版・平版・孔版」すべての印刷体験を通して、その違いや特性を学ぶゼミナールです。

             
株式会社フジグラフィックスWebsiteより。リトグラフの作業風景。写真は楚山俊雄さん。

お申し込みしめきり日:4 月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ 印刷の四大版式 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

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【記念カードを印刷しよう!】
5月6日(日)11 : 00―12 : 00、13 : 00―14 : 00 内の随時
事前予約不要 参加費:無料
活字版印刷機 Adana-21J を使って記念カードの印刷を体験していただきます。

  

◆カッパン・ルネサンス・フェア 12th Times◆
カッパン実践家のための、新旧の活版印刷関連資材・関連機材の展示即売会です。どんな新開発機器、関連資材、また掘り出し物があるのか、ご来場のうえお楽しみください。
小型活版印刷機をお持ちのかたは、インテル、ファニチュアなどの選択の目安として、ご自分の活版印刷機のチェース内枠の大きさを、紙に筆記具で型取りしたものを持参ください。

活版凸凹フェスタ*レポート04

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本情報のオフィシャルサイトは アダナ・プレス倶楽部ニュース です。
ここ、タイポグラフィ・ブログロール《花筏》では、肩の力をぬいて、
タイポグラフィのおもしろさ、ダイナミズムなどを綴れたらとおもいます。
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「江川次之進活字行商の図」を拝見してお預かりした。 左:冨澤ミドリさん、右:片塩二朗

《ご退屈でしたか? 活版凸凹フェスタ*03》
もしかすると、4月11日にアップした「活版凸凹フェスタ*03」は、一部の読者さまには退屈だったかもしれません。しかしながら江川次之進と江川活版製造所、その機械「手引き式活版印刷機」と、その活字製造は、今回の《活版凸凹フェスタ1012》の枢要な企画展示となっています。
ご来場いただいて、会場でとまどう
ことができるだけ少ないように、これまであまり紹介されたことのない、江川次之進と江川活版製造所のあらましをご紹介しました。

これまで江川次之進に関しては、ほとんど『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉、津田三省堂、昭和9年11月25日)に紹介をみるばかりで、その余の資料は、ほとんどすべてが三谷幸吉からの引用にとどまっていました。
今般、ご親族からの資料提供をうけ、またさまざまなお話しをうかがうなかから、江川次之進の紹介に際して、どうして三谷幸吉は、その出身地、生年月日をしるしたあと、なぜかおおきく飛んで、にわかに31歳になった江川次之進を紹介したのかがぼんやりとみえてきました。

この時代にはまだ結核という宿痾のやまいもあり「人生50年」とされていました。ですから31歳とは、もはや中年といえ、あらたな職業に就くことは少なかった時代です。その厄介で難解な理由がようやく理解できる手がかりが発見できたようです。
すなわち三谷幸吉の記述の行間に、今回の資料のご提供と、ご親族からの聞き書きによって、わずかに資料を補足することができましたが、まだまだ現地調査や精査が必要な事項がたくさんのこされています。

江川次之進氏[1851-1912]は、福井県坂井郡東十郷村の人、由右衛門氏の次男として、嘉永四年[1851]四月二十五日に生れる。
> > > > > > > > > > > > > > > > > > > >
明治十四年[1881]、三十一歳と云う中年で俄かに志を樹てゝ上京、某医師の書生を勤め、又は横浜に出て、運送店の書記に住込む等、此間容易ならぬ難行苦行を重ねたのである。

すなわち、江川次之進は1851年(嘉永4)、福井県坂井郡河和田村(現福井県坂井市坂井町河和田)の庄屋、江川家の次男として誕生しました。当時の風習で、次男のことですから、家格のつり合いがよい、福井県坂井郡本荘ホンジョウ村藤沢(現福井県坂井市三国町藤沢)の庄屋、旦丘アサオカ家の養子となって、おそらく31歳になって上京するまでは、養家の旦丘アサオカ姓を冒していたものとおもわれます。上京時にはふたたび江川姓をもちいて別家・江川家をたてています。

旦丘家には男子の誕生が少なく、何代にもわたって江川家から養子を迎えたことがあり、また旦丘家の戸主は、代代旦丘治良右衛門アサオカ-ジロウエモンと名乗るのが習慣でした。
その逆に、江川家でも必ずしも男子の誕生にめぐまれず、旦丘家から養子を迎えたこともあったとされます。

旦丘アサオカ家における次之進の妻女の名は現時点の調査では不詳ですが、ここで長男・旦丘督三郎(のちに江川活版製造所朝鮮・京城支店長に就任)、次男・旦丘貫三郎(のちに別家・江川姓となり江川貫三郎。次之進とともに江川姓にもどって上京した。江川活版製造所第二代代表。三谷幸吉は終始この貫三郎をもって長男とし、旦丘督三郎をもって異兄としている)のふたりの男子をあげています。この江川貫三郎につらなるご親族がいまも東京におられて、江川家墓地には香華が絶えません。

『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉、津田三省堂、昭和9年11月25日)の執筆に際して、三谷幸吉は「明治四十五年[1912]二月八日」に逝去した江川次之進との面識はなく、次男江川貫三郎(旧姓・旦丘)からの取材ができたとも考えにくいところがあります。
詳細は江川貫三郎の生没年調査を待ちたいところですが、おそらく当時の江川活版製造所の代表・深町貞治郎からの聞き書きと、三谷独自の関係者からの取材で構成したものとみられます。しかしながら、その記述は比較的精度のたかい取材であったことが、さまざまな記録からあきらかになりました。
また、江川活版製造所は現在は存続しませんが、藤井活版製造所の藤井三太夫にその一部が継承され、そのお孫さんが現在も都内新宿で活字商を営んでいます。

福井の江川家(本家)はいまも存在していますが、そこでは江川次之進は上昇意欲のつよいひとで、福井に逼塞するのに耐えられずに上京したひとだったと伝承されています。
藤沢村(現三国町)の庄屋、旦丘アサオカ家の養子となって、おそらく世襲名の旦丘治良右衛門を名乗っていた「旦丘次之進」は、31歳とき養家を出て別家「江川家」をたてて江川姓にもどりましたが、妻女と長男・督三郎を旦丘家にのこし、次男・貫三郎をともなって上京しました。

このあたりの状況は、矢次ヤツグ家の次男であった矢次富次郎(のちの平野富二)が、吉村家に養子に行き、「故あって養家をでて、とおい先祖の名をとって平野家をたてた」とする記録と共通するものがあって、興味深いものがあります。
また「旦丘次之進」は、長男に「督三郎」とし、次男にも「貫三郎」としていますが、その次第は「変わったひとだった」程度にしか伝わっていないようです。

以上が今回の調査であきらかになりました。また、菩提寺の所在地も判明しましたので、これから、ゆっくり、あわてず、江川次之進と江川活版製造所の事蹟を調査したいと考えています。

また、『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)の主要活字書体は、新鋳造の「江川行書」活字ですが、後半部にみる、
●  改良型手引きハンド印刷機(八ページ、四ページ)製造発売
とある印刷機は、アルビオン型手引き印刷機を指し、その4ページ掛け(およそB4判)の印刷機を、とおくハワイのジェームス・ランフォード氏主宰の印刷工房「Mānoa Press マノア・プレス 」が所蔵しており、《活版凸凹フェスタ1012》に画像出展が実現しました。

ハワイのジェームス・ランフォード氏が主宰するMānoa Press 所有のアルビオン型印刷機の正面図。 上部銘板に鋳込まれた「丸にT」のプリンターズ・マークがみられ、まぎれもなく 江川活版製造所製造の「手引き式ハンド・プレス」です。
江川活版製造所が活版印刷機を製造していたとする記録はポツポツみられますが、実機の存在報告はなく、これがはじめての紹介となります。
《活版凸凹フェスタ2012》にはジェームス・ランフォード氏の絵本、それに本機の画像などが出展されます。



1875年、イギリス/フィギンズ社製造〈アルビオン型手引き印刷機〉

《活版凸凹フェスタ012》には、江川次之進の製造した手引き式活版印刷機と同様なアルビオン型手引き印刷機を搬入し、ご来場者の有志には大型欧文活字を使用して、印刷体験もしていただけます。

 

上図:軸装された「江川次之進活字行商の図」。
下図:「江川次之進活字行商の図」部分拡大。端正な顔立ちの人物であったことがわかります。また、肖像写真とも、とてもよく似た顔立ちで描かれています。背景の右うしろ、暖簾に「たばこ」が「ひら仮名異体字」で描かれてます。三谷幸吉は江川次之進がもっぱらたばこ店に行商にまわったことをしるしていますので、その記述が正鵠を得たものであることがわかります。

『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉、津田三省堂、昭和9年11月25日)より
当時は煙草が民営であったから、其の袋に販売店の住所番地が一々筆書されてある。それを今日のゴム印の様に、活字をスタンプに入れて押すと、頗スコぶる便利だと云うことに気付いて、毎日小さな行李コウリに活字とスタンプを入れて、各店舗を廻ったものである。
それに又質屋を訪問して、質札や帳簿に年号なり家名なりを押すことを勧誘したので、何れも其の便利なのに調法がられて、急に流行の寵児となったのだから、氏の慧眼ケイガンには生き馬の眼を抜くと云う江戸ッ子の活字屋も推服したものだそうな。

一昨年の最初のお便りでは、家伝の資料に「江川次之進の活字行商図」とされているお軸があるのですが、左手に洋傘を握り、右手に床屋のバリカンのような奇妙なものをもっているのですが、これは何なのでしょうか?」というものでした。当時は「活字ホルダー」の名称も、役割も、活版実践者のあいだでもほとんど知られていなかったのが実情です。

《江川次之進活字行商の図の作者に関して》
「江川次之進活字行商の図」の画幅には、「興宗」とみられる署名と落款がありました。書画はまったく専門外ですが、「興宗」とした日本画家は今村興宗(1873-1918)、草彅興宗(1904-1936)のふたりがいて、画風と年齢からいって今村興宗ではないかとおもわれました。
今村興宗、今村紫光の兄弟には研究者もいらっしゃるようです。ご関心があるかたは、しばらく小社がお預かりしていますのでご連絡ください。また神奈川県立図書館のWebsiteにはPDF版で  飯田九一文庫の百人 今村興宗   にきわめてよく似た図版紹介もあります。



冨澤ミドリさんに曾祖父・江川次之進にならって、活字ホルダーを手にして立っていただきました。

昭和8年のおうまれですが、とてもお元気で、姿勢が良く、相当の読書家でいらっしゃいました。

《江川次之進活字行商の図》
2012年04月11日[水]、長野県北安曇郡白馬村みそら野のペンション「ブラン・エ・ヴェール」に冨澤ミドリさんをお訪ねしました。
冨澤さんは明治の有力活字商、江川活版製造所の江川次之進の係累(玄孫・ヤシャゴ)にあたるかたで、「江川次之進肖像写真」、「江川次之進活字行商の図」などの貴重な資料を所有されていらっしゃいました。
ここにいたる次第は「活版凸凹フェスタ*レポート03」にしるしてあります。

 
江川次之進(1851-1912)

江川次之進の画幅は2点存在したようですが、1点はあまりに損傷がひどいので破棄し、もう一点の軸装された「江川次之進活字行商の図」は、あらたに業者に依頼して軸装しなおしたものだとされました。
また江川次之進の肖像写真は、上図右のものがオリジナルとして冨澤家に存在しますが、ご覧のように損傷が激しいものでした。これをご親族にカメラマンがおられ、その方に依頼して丁寧な修整を加え、紙焼き出力とデジタルデーターを保存されていました。

冨澤ミドリさんとは、お手紙のやりとりや、お電話をしばしば頂戴していましたので、はじめてお会いするかたというより、親しいお仲間とのかたらいのような、素晴らしくも貴重なひとときを、白馬村で持つことができました。
またこのペンション特製のロール・ケーキをご馳走になりました。これは絶品! スキーに、森の散策に、北アルプス登山の基地に、ぜひとも「ブラン・エ・ヴェール」のご利用をお勧めします。

雪の白馬村をご紹介する前に、まず東京の爛漫の櫻をご紹介しましょう。バスで3時間ほど、白馬村にはまだまだたくさん残雪がのこるというのに、東京では春うらら、爛漫の櫻です。日本列島、それなりにひろいものだと実感させられました。



昨秋、友人・バッカス松尾さんににいただいた櫻の鉢植えが一輪ほころんでいます。バラ科の櫻には品種がおおく、どんな品種だったのか松尾さんもわすれたそうです。
遠くにみえるのは染井吉野櫻の満開の様子。
「櫻切る莫迦、梅切らぬ莫迦」と俚諺にいうので、こんなに枝を切り刻んだ鉢植えの櫻が咲くのだろうかと半信半疑、疑問におもって見守っていました。うれしいことに4月12日早朝、こんなにあでやかな花をつけてました。
この前日の11日は、東京も白馬村も終日つめたい氷雨がふりそそぐ、とても寒い日でした。

吾が空中庭園は、いま、まさに花盛りで、名も知らぬ草花が絢爛と咲きほこっています。やつがれは雑草という名の草はないとしていますから、水と肥料はやりますが、草抜きはほとんでしません。ですからある意味では吾が空中庭園は雑草園ともいえます。

 《残雪のこる白馬村に、冨澤ミドリさんを訪問》
4月11日[水]、早朝8時半の長距離直行バスで、長野県北安曇郡白馬村まででかけました。東京では櫻開花宣言がなされ、あちこちの櫻が満開を迎えているのに、この日は折悪しく氷雨のようなつめたい雨が降りそそいでいました。

このペンションは、おふたりとも東京うまれの冨澤夫妻が、30年ほど前に、おおきな夢をいだいて白馬村に開設されたものです。
その名「Blanc et Vert ブラン・ェ・ヴェール」は里見弴氏(小説家・文化勲章受章者。「善心悪心」「多情仏心」「極楽とんぼ」など。1888-1983)の命名で、白馬村の真っ白い雪景色と、そこに住むことになった冨澤ミドリさんへのプレゼントとして、フランス語で「Blanc  白」 et, &  「Vert 緑」、すなわち「白と緑」と名づけられています。
またお父上・旦丘俊治郎氏が英文学者だったために、里見弴を慕う関係者や、英文学関係者が、しばしばこの可憐なペンションを利用されているようです。

冨澤ミドリさんは、どちらかというと江川家というより旦丘アサオカ家の係累のかたで、江川次之進(当時は旦丘次之進)を曾祖父とし、その長男・旦丘督三郎を祖父、その長男、旦丘俊治郎(英文学者)を父とされます。
また冨澤ミドリさんの叔父、旦丘政次氏がまた逆に、福井の江川家の養子となっておられます。ですからこの両家の家系略図をつくりますと、少少混乱するほど、江川家・旦丘家は密接な関係にあり、また東京・江川家に係累がすくなく、そんないきさつから、冨澤ミドリさんが貴重な資料を保存されていたことになります。


作家・里見弴による「Blanc et Vert ブラン・ェ・ヴェール」命名由来記。
これも貴重な里見弴の自筆原稿である。

《余談ながら……狩人 あずさ2号のこと》
今回の白馬村行きは、往きは長距離バスであったが、戻りのバスが夕方4時台しかないということで、それでは白馬村での滞在時間があまりに短すぎるので電車でもどることになった。18:05発、JR大糸線白馬駅から信濃大町へ、そこで松本行きに乗りついて新宿にもどることにした。
冨澤ミドリさんと名残惜しいままお別れして、タクシーを呼んだ。車中ドライバーに、
「電車でお帰りですか? この便だと、松本から  8時ちょうどのあずさに  なりますね」
といわれた。おもわず狩人の「あずさ2号」(作詞:竜真智子、作曲:戸倉俊一)のせつない歌詞と、メロディーをおもいだした。

♫ さよならは いつまでたっても
とても言えそうにありません
……
8時ちょうどの あずさ2号で
私は 私は あなたから旅立ちます。♫

松本駅から、本当に8時ちょうどのあずさに乗った。すでに2号ではなく「スーパーあずさ36号」であった。車中は平日のこととて空いていた。やつがれ情緒に耽るいとまもなく爆睡におちいった。

活版凸凹フェスタ*レポート03

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本情報のオフィシャルサイトは アダナ・プレス倶楽部ニュース です。
ここ、タイポグラフィ・ブログロール《花筏》では、肩の力をぬいて、
タイポグラフィのおもしろさ、ダイナミズムなどを綴れたらとおもいます。
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直系子孫により発掘された
江川活版製造所:江川次之進関連資料

本項はタイポグラフィ・ブログロール《花筏》
タイポグラフィ あのねのね*008(2011年04月08日)に加筆・修整したものである。 
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《きっかけは活字ホルダーの紹介からはじまった》
朗文堂とアダナ・プレス倶楽部のWebsiteでは、数度にわたって《活字ホルダー》を取りあげてきた。当初のころは、この簡便な器具の正式名称すらわからなかった。
その後、アメリカ活字鋳造所(ATF)や、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所の、20世紀初頭のふるい活字見本帳に紹介されている《活字ホルダー》の図版を紹介し、その名称と使用法は広く知られるようになった。
またアダナ・プレス倶楽部では、故・志茂太郎氏の遺品から《活字ホルダー》を復元して、あらたな活版ユーザーに向けて製造販売にあたっている人気アイテムのひとつである。


『VIVA!! カッパン♥ 』(アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月21日 P.64)
に紹介された「活字ホルダー」

《ご先祖様の遺影と肖像画があるのですが……》
ある日、アダナ・プレス倶楽部のWebsiteをご覧になった、江川活版製造所の創業者・江川次之進の直系のご子孫だという女性から、お電話をいただいた。
「曾祖父の江川次之進の遺影と、掛け軸になった肖像画があるんですが、右手に持っているものがなんなのかわからなくて。どういう情景を描いたものかが分からなかったのですが、これが[活字ホルダー]なんですね。おかげで、曾祖父が若い頃に活字の行商をしていたという、わが家の伝承がはっきりしました」

この女性は、現在は長野県北安曇郡白馬村でペンションを経営されている。最初にお電話をいただいてから少し時間が経ち、先日、お身内のカメラマンの手による、江川次之進の遺影と肖像画の鮮明なデジタルデータをご送付いただいたのでご紹介しよう。


江川次之進(1851-1912)

《新紹介資料/江川次之進 活字行商の肖像画》 

軸装された江川次之進の活字行商時代の肖像画。

肖像画の部分拡大。当時としてはハイカラな洋傘を左手に、右手には活字ホルダーを握りしめている。重い活字を背負っているせいか、小腰をかがめているが、晩年の江川次之進の肖像写真とにた、端正な顔立ちである。

《圧倒的に資料不足な、江川次之進と江川活版製造所の業績》
「江川行書活字」「江川隷書活字」と、活版印刷関連機器の開発でしられる江川活版製造所は、いっときは東京築地活版製造所、秀英舎に次ぐ、業界第3位の売上げを誇った活字鋳造所とされる。
そうした歴史のある江川次之進と江川活版製造所であるが、その業績をかたる資料や活字見本帳のたぐいは極めて少ない。人物伝としては、わずかに三谷幸吉の『本邦開拓者の苦心』にその紹介をみる程度である。
すこし読みにくい文章だが、これをお読みいただくと、「活字行商」からはじめ、「江川活版製造所」を日本有数の活字鋳造所に発展させた、江川次之進の背景がおわかりいただけるはずである。これは句読点を整える程度の修整をして、全文を後半で紹介したい。

また印刷関連の業界誌では、明治24年(1875)『印刷雑誌』に、江川活版製造所ご自慢の新書体「江川行書」による1ページ広告が3号連続で掲載されている。
また、江川家一族が経営権を深町貞次郎に譲渡したのち、昭和13年[1938]『日本印刷大観』の差し込み広告として、これも1ページ大の広告が掲載されている。こちらの社長名は深町貞次郎になっている。

この深町貞次郎時代の江川活版製造所が、いつ廃業したかの資料は目下の所見あたらない。いずれにしても深町貞次郎の晩年か、逝去ののち、良き後継者の無いまま、戦前のある時点において廃業を迎え、戸田活版製造所、藤井活版製造所、辻活版製造所などに継承されたものとみられる。
ただし、江川活版製造所仙台支店は、やはりそのころに分離・独立したものとみられるが、同社は「江川活字製造所」として2003年-5年ころまで、仙台市内(仙台市青葉区一番町1-15-7)で営業を継続しており、東北方面一円への活字供給にあたっていた。


『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)
主要書体は、新鋳造の「江川行書」活字である。

『日本印刷大観』(東京印刷同業組合 昭和13年8月20日)差し込み広告。
社長名は深町貞次郎になっている。
事業内容は平凡で、なんら特色のないものになっている。

さて、肖像画において、江川次之進が右手に持っている《活字ホルダー》であるが、わが国でも相当古くから製造販売されていたとおもわれる。
『活字と機械』(東京築地活版製造所 大正3年6月)の扉ページ「印刷機械及器具」の、外周イラストの下右隅に、あきらかに《活字ホルダー》が存在している。
江川次之進はこうした簡便な器具と、重い活字を携行して、煙草屋や質店などに活字販売をして資金を蓄積し、本格的な活字鋳造所を起業したことになる。
三谷幸吉が『開拓者の苦心 本邦 活版 』にのこした伝承が、今回の肖像画の発掘によって証明されたことになった。  

       
「印刷機械及器具」『活字と機械』扉ページ。右下隅に《活字ホルダー》が紹介されている。
ここにみるイラスト図版の器具類は、ほとんど現在も使われている。(右図は部分拡大図)

★    ★    ★

行書体活字の創製者 江川次之進氏
―敏捷奇抜の商才で成功す―

『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日)
p.173-180 より全文紹介。
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江川次之進氏[1851-1912]は、福井県坂井郡東十郷村の人、由右衛門氏の次男として、嘉永四年[1851]四月二十五日に生れる。

明治十四年[1881]、三十一歳と云う中年で俄かに志を樹てゝ上京、某医師の書生を勤め、又は横浜に出て、運送店の書記に住込む等、此間容易ならぬ難行苦行を重ねたのである。

一日碇泊の汽船に乗組んで作業中、過って船底に墜落して既に一命を抛ナゲウったかと思ったが、幸いにして命拾いをしたので、再び上京、古帽子の色揚げなどで其日を糊して、眞ん底から憂き世の辛酸を嘗めつくしていた。然るに其頃、[銀座]文昌堂におった山口定雄氏の奨めによって、活字の販売に従事することゝなったが、店舗を開く迄の資金が無かったので、活字行商と云う珍思考を案出したのである。氏がこれに着眼した動機が如何にも面白い。

当時は煙草が民営であったから、其の袋に販売店の住所番地が一々筆書されてある。それを今日のゴム印の様に、活字をスタンプに入れて押すと、頗スコぶる便利だと云うことに気付いて、毎日小さな行李コウリに活字とスタンプを入れて、各店舗を廻ったものである。
それに又質屋を訪問して、質札や帳簿に年号なり家名なりを押すことを勧誘したので、何れも其の便利なのに調法がられて、急に流行の寵児となったのだから、氏の慧眼ケイガンには生き馬の眼を抜くと云う江戸ッ子の活字屋も推服したものだそうな。

此時氏の受売りをした活字は、築地活版所と印刷局と文昌堂[東京築地活版製造所・昭和13年廃業、印刷局・現独立行政法人国立印刷局、文昌堂・銀座に旧在した活字商]の三ヶ所の製品であった。

斯カくて一年足らずの間に意外に儲け出して、相当の資本も出来た。従って印刷局や築地活版所も、氏を信用すると云う極めて良い條件に恵まれたので、在来の行商式を廃し、両国広小路、上野広小路、浅草広小路、新橋附近などの、人通りの多く、且つ交通便利な場所へ、さゝやかながら店舗を張ることにした。
当時既に欧米の文化が急速度に消化され、印刷物の需要が多々益々増大されたので、活版所も勿論これに伴って続設、濫設されて、活字の供給迅速を要求することになった。そこで勢い買入れに便利な活字屋へ顧客が集中したのだから、江川氏の策戦は見事にあたって、店勢日に日に旺盛を極むるにいたったのである。

而して動ヤヤともすれば、印刷局なり、築地活版なりの受け売りだけでは、間に合わぬ場合が生じたり、其他何かと不便を感じたので、将来身を活字販売に委ねる以上、寧ムシろ自家鋳造[活字母型を購入し、自社内で活字鋳造をする]を断行するに如かずと決意することゝなった。

其頃の印刷局の活字は大きさも高さも不統一であったから、大きいのは一々鑢ヤスリで削り、高いのは尻を鉋カンナで削って、築地製品に合わせて販売すると云う、中々面倒な手数が掛かったとのことである。
これは築地製は明治十四年[1881]米国から買入れたカスチング[ブルース型手廻し活字鋳造機]で機械的に造ったから、規格が揃っていたのに反し、印刷局製は手鋳込み[手鋳込み式ハンドモールドのこと。ただし東京築地活版製造所と印刷局は創立以来ポンプ式ハンドモールドをもちいたとみられる。またブルース型手廻し式活字鋳造機を東京築地活版製造所が先行して1台は輸入した記録はあるが、本格導入は、両社とも大川光次らによる国産機の開発を待った。その導入はほぼ同時期とされる]で造った関係からではないかと云われている。

明治十六年[1883]、総べての準備が整ったので、愈々イヨイヨ活字の自家製造を開始すべく、日本橋区境町四番地に江川活版製造所を創設したのである。工場主任として母型師字母駒ボケイシ-ジボ-コマ(有名な字母吉ジボ-キチの弟)を招聘ショウヘイし、これに当時東京印刷関係職工中の最高級の五拾銭を支給したと云うから、江川氏の意図が奈辺にあったかゞ判るではないか。
其頃はアリ(ガラハニーの這入るボテの凹部)切り[電鋳法による活字母型をマテ材に嵌入させる凹部をつくる器具]もなく、皆鑢ヤスリで削り、十本宛仕上げしたとのことである。

明治十八年[1885]、弘道軒で楷書活字を販売[神崎正誼創設の弘道軒活版製造所。清朝活字の開発で著名]しているのに対抗して、行書活字の創製に着手したが、さてこれが完成する迄の苦慮は狭隘キョウアイの紙面では記述し尽せぬものがある。
当初書体の下書を中村正直[洋学者・教育家。号して敬宇。1866年幕命により渡英。明六社を組織して啓蒙思想の普及に努力。東大教授・貴族院議員。訳書『西国立志篇』『自由之理』など。1832-91]先生に依嘱して種字を造ったが、書体が細いのやら、太いのやら、丸いのやら角なのやらが出来て、使用に堪えぬので、遂に中止してしまった。

これが為に多大の損害を蒙むったとのことである。而かも行書体の種字は筆法が太いために、黄楊ツゲに彫っては木目が出て面白くないところから、鉛の彫口を微かい砥石で砥ぎ、それに種字を彫付けてガラハニーとした[いわゆる地金彫り。活字地金などの柔らかい金属に、種字を直刻して種字として、電鋳法により活字母型をつくった]と云うから、其苦心の並々でなかった一端を知ることが出来よう。

翌十九年[1886]、業務拡張の為に、日本橋区長谷川町に引移った。其年著名な書家其頴久永氏[久長其頴ヒサナガ-キエイ 書家 詳細不詳 乞う情報提供]に、改めて行書種字の揮毫を依頼し、此に初めて現今伝わっている様な行書々体が出現することゝなったのである。

斯くて此間三、四年の星霜を費やして、漸く二号行書活字を完成し、次ぎに五号行書活字も完備することゝなったので、明治二十一年[1881]秋頃から、「江川の行書」として市販し出したところ、非常に人気を博し、売行亦頗ぶる良好であったと云う。明治二十五年[1892 ]十一月十五日引続き三号行書活字を発表した。

然るに昔も今も人心に変りがないと見え、此行書活字が時好に投じ、前途益々有望であることを観取した一派は、窃ヒソカにこれが複刻[いわゆる種字盗り。活字そのものを種字代わりとして、電鋳法によって活字母型を複製して活字鋳造をした]を企画するにいたり、殊に甚だしきは、大阪の梶原某と云う人が、凡ゆる巧妙な手段を弄して、行書活字を買い集め、これを種字となして遂に活字として発売したから、此に物議を醸すことゝなった。
即ち江川では予め行書活字の意匠登録を得ていたので、早速梶原氏に厳重な抗議を提起したが、その結果はどうなったか判明しない。

これより前、明治二十二年[1889]に横浜伊勢崎町で、四海辰三外二名のものをして活字販売店を開かしめ、同二十四年[1891]、大阪本町二丁目にも、淺岡光をして活字販売店を開設せしめ、地方進出に多大の関心を持つことゝなった。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。商売に放胆な江川氏は、売行の如何を考うるまでもなくこれを快諾したそうである。

同二十六年[1893]、長男貫三郎氏の異兄をして福井県三国町に支店を開かしめ、続いて廿七年[1894]山田朝太郎氏に仙台支店を開設せしめた[江川活版製造所仙台支店は江川活字製造所と改組・改称されて、仙台市青葉区一番町1-15-7で2003-5年頃まで営業を持続して、東北地区一円の需要を担った]。


東京築地活版製造所が製造した「乙菊判四頁掛け足踏み印刷機械」≒B3寸伸び。
江川次之進が製造した活版印刷機も、これに類似したものだったとおもわれる。
『活字と機械』(東京築地活版製造所 大正3年6月)

PS:掲載後に読者より江川活版製造所による印刷機の写真画像提供を受けた。続編に紹介したい。

尚二十九年[1896]には、隷書活字の創製所たる佐柄木町の文昌堂(元印書局の鋳造部技手松藤善勝氏村上氏等が明治十三年[1880]に設立したもの)を買収したる外、松山氏に勇文堂、柴田氏に勇寿堂を開店せしむる等、巨弾又巨弾を放って販路の拡大に努力する有様、他の同業者の心胆を寒からしめた由である。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

此頃は江川活版製造所の全盛時代で、すること為すこと成功せざるはなしと云う盛運を負っていたのである。然しながら月満つれば欠くの譬タトエの通り、同氏の才気に誤算を生ずるようになってからは、事、志と異う場面が逐次展開されて来た。

明治四十年[1907]この数年以前から、東京の新聞社は、活字を小さくして記事を多く詰める傾向となり、「萬朝報ヨロズ-チョウホウ」の如きは、秀英舎に註文して、既に三十七年二月[1904]から、五号横二分四分の活字(平型)[いわゆる扁平活字]を使用して好評を博したので、氏も亦五号竪二分四分活字[いわゆる江川長体明朝活字]を創製するにいたった。

然し此活字は一般の趣向に合致しなかったものか売行が思わしくなく、加うるに二三の地方新聞に納入した代金が回収不能となったので、断然製造を中止することになった。[江川長体明朝は、国内での販売がおもわしくなく、都活字などの手を経て、当時邦人が進出していたハワイやサンフランシスコの邦字紙などで主にもちいられたとされる。『開拓者の苦心 本邦 活版 』津田伊三郎の章にその記録がのこる。また、後年津田伊三郎はあらたに長体明朝の開発をおこなっている]。斯くして此年、営業権を長男貫三郎氏に譲り、悠々自適の境遇に入ったのである。

明治四十二年[1909]、創立当時より在店する某が、隠居江川氏に向い、時の支那公使李慶均の証明書を提出し、当時茗荷谷ミョウガ-ダニにあった支那人経営の新荘街と云う印刷所を弐拾万円の株式会社に組織変更するに就き、運動費の提供を求めた。依って十二月二十八日に壱万円、翌年二月に壱万五千円、同四月に壱万円、五月末に壱万円都合半年間に四万五千円を出資したが、其後有耶無耶になってしまったので、これらが原因となり営業上に一大支障を生ずることゝなった。そこで親族会議の結果、江川の家名を穢したくないとの理由で、江川活版製造所閉鎖の議が出たが、結局親族宇野三郎氏、加藤喜三郎氏等が経営の任にあたった。然しこうなっては、隠居の恩顧に預った人達も、何んとなく腰が落ち着かず、心平らでないまゝに、誰れ彼れとなくこゝを却シリぞいて、各々自活の道を講ずることになったから、折角の復興策も思うように行かなかった。

ところが、多年扶殖した努力と信用の惰力により、兎に角江川の名は引続き業界に喧伝されていたのである。尤もこれには明治二十六年(九歳)から奉公している甲州出身の深町貞次郎氏が、温厚実直で且つ経営の才があったから、先輩の退散にも滅げず、江川をこゝまで頑張らしめて来たのである。茲ココに於いてか、大正十一年[1922]、親戚一統協議の結果、江川当主を差しおいて、深町氏に一切の営業権を譲渡し、氏をして自由に商才をふるわしむるにいたった。

それはさておき、隠居次之進氏は、明治四十五年[1912]二月八日、淀橋拍木[新宿駅西口近く]で、六十二歳を一期として黄泉の客と化せられたのである。

法名 繹乗誓信士

── 挿  話 ──

足踏ロールを東京で初めて販売した人は江川氏であるそうな。当時四六判四頁が一台百六拾円であったが、取扱った当初は不振で殆んど売れなかった。
然るに、其後二、三年経過してからは、トントン拍子に売れたのだから、そうなると中島氏が高くとまって註文品を送って来ないと云う始末。尤 も其頃中島では発動機に手を出し、其方に資金が膠着したらしいので、江川氏は屡々シバシバ前金を渡して製品を急がせたことがあったそうな。

而して中島氏の曰くには「印刷機械は十貫目拾五円にしかならないが、発動機の方は十貫目四拾五円だから三倍になるからネ」と意味深長な言葉を洩らした由である。これに依って見ると、印刷機械が他の機械に比して廉価であることは、昔からの伝統とも見えるのである。

江川次之進氏は組合役員や其他の名誉職を各方面から持ち込まれたが、無口の方であった為か、一切顔を出さなかった。宗教には深い関心を持ち、本願寺へは毎年千五百円宛寄附され、同寺では中々良い顔立をしていられたとのことである。

現在の江川活版製造所は深町氏によって隆運を続けている。又、戸田活版製造所、藤井活版製造所、辻活版製造所等は何づれも江川の出身である。

活版凸凹フェスタ*レポート02

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《活版印刷の車の両輪、活版印刷機械製造と活字製造》
活版印刷の中核は、なんといっても活版印刷機と活字です。小型活字版印刷機 Adana-21J を製造・販売しているアダナ・プレス倶楽部では、つねに、もっとも心強いパートナーとして、活字鋳造所の存在をおもくみています。
うれしいことに《活版凸凹フェスタ012》では、活字鋳造所として、これまでの2社に加えて、あたらしい有力活字鋳造者2社をお迎えすることができました。

◎ 有限会社佐々木活字店
1917年(大正6)創業の 佐々木活字 さんは、東京都心部、新宿区榎町75に本社工場を構えています。佐々木社長、塚田さんの、ベテラン・コンビによる、該博な知識と、悠揚迫らぬ円熟したご対応は、活版実践者の皆さんはよくご存知ですし、活版初心者からもおおきな信頼をあつめています。
また、こころ強いことに、近年佐々木社長のご子息が、次世代の佐々木活字店の継承にむけて入社されました。現在はまず Facebook を開設され、デジタル通信環境も急速に整備されています。

佐々木活字店の活字鋳造機の一部。『VIVA♥!! カッパン』の撮影にもご協力いただきました。
左:トムソン型全自動活字鋳造機、右:ブルース型手回し式活字鋳造機

以下3点の写真は、同社FACE BOOK より。

佐々木活字店の前身、佐々木活版製造所は、日清印刷(現在の大日本印刷榎町工場)鋳造部の責任者であった佐々木巳之八氏が、1917年(大正6)に独立して設立されました。
いまや活字販売店は都内でも数えるほどとなりましたが、佐々木活字店では、活字鋳造・販売はもとより、植字(組版)から印刷・製本にまでいたる、活版印刷の全工程をおこなっている、貴重な存在の企業です。
佐々木活字店さんとアダナ・プレス倶楽部とは、おつきあいがながく、初回の《活版凸凹フェスタ》から出展をお願いしてきましたが、今回ようやくご参加が実現しました。

◎ 日星鋳字行+台湾活版印刷文化保存協会(台湾)
台湾で唯一の活字鋳造所であり、活字販売店が日星鋳字行ニッセイ-チュウジ-コウさんです。「鋳字」は活字鋳造で、「行」はお店の意です。すなわち日本風にいいますと「日星活字鋳造店」ということになります。
日本との違いは、台湾ではいつのころからか、活字店が活字鋳造だけでなく、文選・植字までの作業をおこない、まだ10数軒あるという活字版印刷所では、印刷・製本作業担当と役割分担が分かれています。

すなわち、これが本来の活字版製造所、略して活版製造所だということになります。わが国では「活字鋳造」と、それを文選・植字(組版)してつくりあげる「活字版製造」が早期から分離し、また「活字版」を「カッパン」と略称してきましたので「活版製造所」と「活字鋳造所」の文意、相違がわかりにくくなっています。

すなわち台湾では、明治最初期のわが国の「活版製造所」と同様のワークフローがのこっていると考えたほうが、適切かつわかりやすいかもしれません。
あるいはカッパン印刷に不馴れなかたは、オフセット平版印刷における、印刷版の元・版下をつくる版下業者と、印刷版をつくる写真製版所と、ロール印刷所の役割分担にちかいワークフローができているとお考えになると、わかりやすいかもしれません。

同社Websiteより:左は鉛字(活字)・右は銅模(電鋳法活字母型)

日星鋳字行の存在は、数年前にタイポグラフィ学会会員・林昆範(台湾在住)さんからご報告があり、一部では良く知られた存在でした。その後雑誌での報道などもあって、多くの日本の活版愛好家の皆さんが同社を訪問されているようです。
同社には併設して 台湾活版印刷文化保存協会 がおかれています。

台湾活版印刷文化保存協会は、台湾の活版印刷産業を保存するための民間団体です。新しいアイデアを次次と提案し、活版印刷文化に新たな生命力を注入し、将来目標として「台湾活版印刷工芸館」の設立を目指しています。

当面は、電鋳法(電胎法)による繁字体(わが国の旧漢字に近い)の、ふるい活字母型の損傷の修復と、一部台湾政府の援助をうけて、活版印刷関連機器と関連資料の収集に注力されています。
現在の日星鋳字行さんの活字母型製造技術は、いわゆるベントン彫刻法によるものではなく、コンピュータ3Dソフトを駆使した斬新な手法によっています。日本と台湾、とても近くて親しい間柄です。多くの皆さんとの交流をもとめてご参加されました。

◎ 株式会社築地活字 平工希一さん
築地活字は1919 (大正 8)年の創業から、まもなく 90 周年を迎える老舗活字鋳造所が、横浜の 築地活字 さんです。アダナ・プレス倶楽部とも創設以来親しくおつきあいいただき、《活版凸凹フェスタ》には初回からのご参加をいただいています。

築地活字さんの90年余の歴史の間には、関東大震災による罹災があり、太平洋戦争の空爆による被害も甚大なものがありました。そのほかにも、活字鋳造と活版印刷には、いうにいえない栄枯盛衰のときがありました。それでも平工希一さんを陣頭に、家業としての活字鋳造と印刷材料販売を粘り強く展開されています。

築地活字には豊富な活字書体と、各種のサイズがあり、その見本帳も充実しています。また今回は、企画商品「新 活字ホルダー」も展示されます。

◎ 株式会社中村活字/中村明久さん
京橋区木挽町1丁目に1910年(明治43)に創業され、すでに100年余のながい歴史を刻んできた活字鋳造所が 中村活字 さんです。代表の中村明久さんは、あかるく屈託のないお人柄で、多くの若者に取りかこまれていると嬉しいそうです。
「最近、活版印刷の仕事が忙しすぎて、若いひととゆっくりはなしができなくて、つまらない」
とも語られます。よいお人柄です。

今回は銀座夏祭りの役員としてご多忙のため、差し入れはしてくださるようですが!? 「活版工房」の一員としてのご参加です。
同様に真映社さんも神田祭りの役員で、こちらは兄弟で役割分担を。ご長兄が夏祭り担当、ジョームが活版祭り《活版凸凹フェスタ》のご担当となりました。
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あす4月11日[水]に、急遽長野県松本市のちかく、白馬村までバスで日帰り往復することになりました。今回の企画展示の資料譲渡をうけるためです。
したがって、この《花筏》の更新は、あすはおそらく不可能かとおもわれます。
その間の時間を利用して、《活版凸凹フェスタ2012》の企画展示と密接に関係する、江川活版製造所、江川次之進、江川行書、江川隷書、活字ホルダー、深町貞一郎などのキーワードにご興味がおありのかたは、次ページにふるい資料に補筆したものをアップしました、お時間が許せばご覧いただきたいとぞんじます。

活版凸凹フェスタ*レポート01

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《さぁ、活版凸凹フェスタ2012準備の開始》
ことしの冬は、ことのほか寒さがきびしく、雪国からは大量積雪のたよりがしばしば寄せられていました。そんななか、年明け早早から《活版凸凹フェスタ2012》の準備がはじまりました。
《活版凸凹フェスタ》は活字版印刷術(以下カッパン、活版とも)にまつわるさまざまを集めた、楽しいお祭りです。

活字をもちいて印刷をおこなう「活字版印刷術 Typographic Printing」と、各種の凸版類をもちいて印刷をおこなう「凸版印刷 Letterpress Printing」を中心に、凸版・凹版・平版・孔版といった、さまざまな印刷版式の紹介と、版画や製本といった関連技術も含めた作品と、製品を展示し、一部は販売もおこないます。

《五月の連休は活版三昧ザンマイ》をスローガンとして開催された《活版凸凹フェスタ》は、2008-9年に四谷・ランプ坂ギャラリーを会場として開催し、2010年には上野・日展会館に会場を移して開催されました。昨2011年は東日本大震災のために、申込者の集計もおわっていた段階で、被災地の皆さまと、出展者のお気持ちに配慮して、残念ながら中止といたしましたが、ようやく満を持してふたたび日展会館で再開の運びとなりました。

2012年2月16日、アダナ・プレス倶楽部のニュースに《活版凸凹フェスタ2012 出展者募集》が告知されました。お申込みの締め切りは2月29日。
このころはまだ東日本大震災から一年を経過していなくて、震災被害の爪痕がおおきく、景気は足踏み状態でした。また昨年の中止のあとだけに、どれだけの皆さんがご出展されるか不安がありました。ところが嬉しいことに、初回の2008年から参加されている皆さんを中心に、あたらしいメンバーからもたくさんのお申込みをいただきました。

3月の初旬から、広報・告知態勢が話しあわれました。活版印刷の祭典として位置づけられる《活版凸凹フェスタ》では、従来どおり紙媒体を中心に訴求し、それに加えて、あたらしいメディアも有効に活用することを確認し、デザインの確定、印刷用紙の手配、印刷担当企業との交渉と、作業は徐徐に進行しました。

《活版印刷なら任しとけ! 強力メンバー、そろい踏み》
なにぶん、活版印刷の祭典ですから、紙情報による広報態勢に困惑するわけはありません。すべてがお仲間、出展者との話し合いで円滑に進むはずでした。あくまで予定では、です……。
つまり、やはり、例年どおり、いよいよ《活版凸凹フェスタ2012》協奏曲(狂想曲?狂夢曲?)のはじまり、はじまり~、となっただけのことでした。

  ・アートディレクター   松尾篤史さん(バッカス松尾)
  ・印刷用紙提供     アワガミファクトリー/中島茂之さん
  ・ポスター印刷協力   弘陽/三木弘志さん
  ・はがき印刷協力    大伸/大澤伸明さん(若旦那)
  ・写真製版協力     真映社/角田光正さん(ジョーム)
  ・ムササビ・ベイシズ  日吉洋人・玉井一平   
  ・広報(後方)支援    朗文堂/鈴木 孝・片塩二朗(やつがれ)
  ・コンダクター       アダナ・プレス倶楽部/大石 薫

《アートディレクター/松尾篤史さんのこと》
アダナ・プレス倶楽部創設のときから、アートディレクションを松尾篤史さんにお願いしています。図書『VIVA♥!! カッパン』(大石薫、朗文堂)も松尾さんのディレクションによるものです。
かつての松尾さんは、クリエーターズ・ネームとして「バッカス松尾」(ともに酒の神とされる)を名乗るほどの酒豪でした。ですから、飲み屋の階段からころがり落ち、高額の壺を割って弁償させらりたり(ついでに怪我もしたが、たれも同情せず)、バイク(自転車)でフラフラ走って生け垣に突っこんで、これも高額な愛車を駄目にした(このときも顔中アザだらけ、仝前)こともありました。
気の毒なことに、アダナ・プレス倶楽部の会員は、壺やバイクといったモノの被害には、
「ワァー、たいへんだぁ。それっていくらかかったの」
と心配しても、バッカス松尾の怪我や躰のことは、またか! と洟にもかけません。独身時代の酒席での失敗談には事欠きません。

こんなこともありました。和民ワタミでかなり盛りあがって帰ろうとしたとき、バイクの脇でなにやらゴソゴソ、モゾモゾ。
「カラシロさ~ん、ヘボ、いや~、ヒボナッチは~、いくつーでしたっ  ケ?」
「いくつったって、黄金律のことだろう」(こっちは しらふ)
「そうじゃなく~って、カ~ズ、カズですよ~」
「ヒトヨ-ヒトヨニ-ヒトミゴロか、1.618のどっちかだろぅ」(こっちも いいかげん)
「そうれす、1618でした~」
こうしてバッカス松尾は、バイクをガードレールにつないでいたワイヤーのロック(キーナンバー/1618 すでに廃車)を外して、フラ~リ、フラッフララと帰っていったのでした。

このように松尾さんの独身時代の酒席での失敗談をあげればきりがありません。ところが前回の《活版凸凹フェスタ2010》の直後、福島由美子さんと結婚され、アダナ・プレス倶楽部では 松尾夫妻の結婚を祝う会 を開催しておふたりを祝福しました。そしていまでは由美子夫人の管理よろしきをへて、毎日愛妻弁当持参で出社され、お酒も煙草もほどほど──というところです。  

閑話休題トコロデ、本談にもどって……、 松尾篤史さんは、日ごろは知的でスタティックなデザインを展開されています。ところがアダナ・プレス倶楽部では、
「なにがスタティック(静的)よ。う~んと大胆に、もっともっとダイナミック(動的)にやって欲しい」
という、コンダクター/オーイシが待ち構えています。それでもそこはプロフェッショナル松尾。一見やんわりオーイシの意見を取りいれ、ダイナミックにみせながらも、実はきわめて周到な、こだわりの強いデザインを展開しています。

すなわちA3判レタープレス、オモテ1色/ウラ2色のポスター《活版凸凹フェスタ2012》においても、裏面紅赤色の、色ベタ内枠の天地は「わが国の活字の原器 504pt. の2倍 」、すなわち1,008pt. になっています。
当然内枠の左右は、1,008pt. から導きだされたルート比をもちいていますので、A3判という、ルート比例にもとづいたこのポスターサイズのなかで、内枠の色ベタは、とても座りがよい感じにみえてきます。このようなみえない仕掛けが随所にこらされているのが、松尾デザインの特徴です。

このタイポグラフィ・ブログロール《花筏》をよく閲覧いただいている読者ならご存知のように、わが国の活字の最小公倍数は504pt. である……、という紹介が年末年始にあって、ちいさな世界の、おおきな話題となりました。その報告は タイポグラフィあのねのね*019 【活字の原器と活字のステッキ 活字の最小公倍数504pt. とは】で、つい先ごろ本欄でなされました。

こうした金属活字の最小公倍数を駆使し、そのグリッド(格子)から導きだされた数値は、現代のDTP組版においても多いに有効なものだということが、この報告以後、各方面で急速に、追試・実証・実用されています。
この《活版凸凹フェスタ2012》ポスターは、504pt. の倍角=1,008pt. においても、デザイン・メソッドとしてきわめて有効な数値であることを、巧まずして実際のポスターとして証明しています。

《アワガミファクトリー/中島茂之さんのこと》
出展者の確定と、デザインラフ案の完成をまって、3月6日  アワガミファクトリー  の中島茂之さんと打ち合わせ。A3判ポスター用紙小数500枚+予備紙、A5判はがき用紙小数5,000枚+予備紙のご提供をお願いしました。

中島さんは体育系大学のご出身で、快活なご性格と、フットワークの良さが身上です。
申込みを快諾していただき、はがき用紙はアワガミファクトリー積極展開中の、竹の繊維を素材とした「竹和紙」にすんなり決定。
あわせてアワガミファクトリーが、活版印刷適性を検証するためと、販売促進をかねた、はがき大の作品提供の依頼を受けました。
これは直前で中止となった《活版凸凹フェスタ2011》で予定されていたプロジェクトでしたから、樹脂凸版によるレター・プレスを条件に、アダナ・プレス倶楽部会員、亀井純子さん、玉井玉文堂さん、成田長男さん、バッカス松尾さん、春田ゆかりさん、横島大地さんに製作担当をお願いしました。

活版印刷 弘陽さんの愛用機、菊四裁判(A3伸び)手差し活版印刷機 

ここまではなんの問題もなかったのです。本当に。ここから協議は次第に妙な方向に向かい、危険ゾーンに踏みこんでいきました。
ディレクター/松尾篤史さんと、コンダクター/大石薫は、ほぼ同世代ですが、アワガミファクトリーの「和紙見本帳」を繰っているうちに、ごくごく薄手の和紙、ふつう印刷・出版業界では「ウス」と呼んで、しばしば肖像写真の前に挟みこむ用紙に目をつけたのでした。

大石:「これにシー・スルー・レイヤード See-through Leyerd で印刷してみたら、面白い効果があるんじゃないかなぁ」
片塩:「なに、そのシー・スルー・レイヤードってのは。そんな印刷方式があるの?」
大石:「透けるようで、透けない。透ける効果と、透けない効果が面白いとおもうけど」
片塩:「なんだ造語か! 今回は失敗は許されんぞ。時間も無いし、予算も無い。しかもこんなウスは、手引き活版印刷機か、手差しの活版機でなけりゃ、エア抜けして印刷できないんだからな」
大石:「でも、和紙に印刷っていうと、いわゆる和風になることが多いけど、シー・スルー・レイヤードでやったら、この薄い和紙がおもしろい効果を発揮しそう。もしかしたら岩か岩盤のような、強靱な感じになりそう。松尾さんそんなデザインに変えられるでしょう?」
松尾:「いい書体があるから、きっとうまくいくと思うけど」

アワガミファクトリーの中島さんまですっかり乗り気になって、
中島:「3月19-21日に徳島本社に出かけますので、そこでわたしが断裁して、発送します」
ヤレヤレ。アラフォー3人組みの盛り上がりをよそに、やつがれはひとり、手差し活版印刷機と口走ってしまっとことを悔いていた。これがオフセット平版印刷なら、昼寝をしていても良いが、ウスに印刷となると、ハラハラ、ドキドキ、心配の種は尽きない。
実は前回《活版凸凹フェスタ2010》のポスター印刷に際して大失敗を演じた。いいわけができない、やつがれの管理ミスであった。それだけに今回は危ない橋は渡りたくなかったのだが……。

かつて四谷舟町だったか坂町に、三松堂という活版所があって、そこには手差しの活版印刷機があった。近在の最大手をふくめた印刷会社からの仲間仕事が中心で、用紙自動搬送装置つきの印刷機がエア抜けがあって不得手とする、ウスや和紙系用紙への印刷をウリにしていた。
三松堂では、チョウの羽のように、ヒラヒラと舞いあがりそうなウスに、同寸のアテ紙を添えて、一枚一枚手差しで印刷している風景をしばしばみたし、3度ばかり発注もしたことがある。
自伝・遺稿集・叙勲記念誌・受賞記念誌などの巻頭には、肖像写真が掲載されることが多い。その写真の前にウスは挿入される。印刷は名前だけのものが多かったが、写真のぬしが生存者ならスミインキ、物故者なら薄ネズインキで印刷することがならいであった。

ところがまずいことに、手差し印刷機と口走った瞬間に、これとまったく同じ、菊判四裁手差し活版印刷機が身近にあることをおもいだしたのである。それもアダナ・プレス倶楽部とはきわめて親しい、しかも《活版凸凹フェスタ》には初回からずっと参加されている企業に……。
キタッ!!
大石:「今回のポスターは弘陽の三木さんにお願いするつもりですけど、弘陽さんの手差しは菊四裁も刷れましたよ  ネ?」

《弘陽/三木弘志さんと活版工房》
活版印刷  弘陽 の代表、三木弘志さんは、手差し活版印刷機を所有され、身体性をともなった活版印刷をたいせつにされているかたです。また  ワークショップ 活版工房 も主宰され、多くの活版愛好者があつまる場の提供もされています。
《活版凸凹フェスタ》には、銀座・中村活字さんともども、初回から積極的にご参加いただいている企業です。

前述のようないきさつがあって、《活版凸凹フェスタ2012》のポスターは弘陽の三木さんにお願いしました。三木さんは困難で繁多な作業をいとわず、快くお引き受けいただき、無理な注文に名人技を発揮していただきました。また、排紙のスノコ取りのため、乾燥・定着をまちながら3回予定される印刷のたびに、大石が立ち会い兼お手伝いに参上することになりました。
以下立会場所、弘陽さんからの大石携帯報告と、帰社してからの協議をあわせて記録します。

・3月26日[月]────裏面 特色紅赤  ベタ版印刷
    大石:「水蜜桃の皮肌みたいないい感じ。おもしろくあがっている」
        「シースルー効果は、ドライダウンを確認するまで分からない」        
        「これだけ紅赤がオモテに透けると、逆にオモテ墨版文字のウラ抜けが心配」
        「オモテ墨版の色替えを検討しませんか?」
    松尾:「このままでいけるとおもいます。オモテの墨版も初志貫徹でいきましょう」
・3月28日[木]────表面 スミ版印刷
    大石:「墨版のウラ抜けは、おもったより少ない」
        「ウラ面のマニフェストと、出展者名簿の刷り色を十分考慮したい」
・4月 3日[火]────裏面 特色銀版印刷(この日爆弾低気圧襲来。猛烈な風と雨)
    大石:暴風雨のなか、特色銀、特色金、オペーク白などの1キロ缶インキを携帯して出発
        「刷り色は全色テストの結果銀に! 両面とも干渉しながらなんとか読めます」
    中島:見学兼立ち会いで弘陽さんを訪問。即刻スノコ取りの助手に変身。
    大石:夕刻タクシーで刷り本を抱え、ずぶ濡れで帰社。即刻松尾氏@メール、即来社。
    松尾:「ヤッタ-、いいじゃないですか、ネ!」

大石「ネ?」にはじまり、松尾「ネ!」に終わった、印刷新方式「シー・スルー・レイヤード See-through Leyerd」による、ハラハラ、ドキドキの10日間ほどのポスター製作の点描でした。

 
弘陽さんでの印刷の状況。左:弘陽 三木弘志さん、右:中島茂之さん 

 《写真製版所  真映社さんと、角田光正さん》
活版印刷に必要な、亜鉛凸版・樹脂凸版などを提供されている 写真製版 真映社 さんは、神田の印刷関連機器の老舗企業です。現在は写真製版が主業務で、ご兄弟で経営にあたられていますが、弟さんの角田光正さん(ジョーム)ご自身が、ふるくからの活版実践者でもあり、活版初心者にも親切に対応されています。
今回の《活版凸凹フェスタ2012》のポスターと、はがきの写真製版も真映社さんにお願いしました。また、出展者の多くが真映社さんを利用されていますから、活版愛好家の動向を真映社さんは意外なほど正確に把握されています。

ポスター印刷担当の弘陽さん、はがき印刷担当の大伸さんともに、ご昵懇ですので、真映社さんにデーターを送付すると、弘陽さんにも大伸さんにも凸版(ハンコ)が直送されて便利です。
前回の《活版凸凹フェスタ2010》の出展に際して、キャッチフレーズに【春のハン祭り】と謳って喝采をあびていました(山崎さんではなくて角田さんですけど)。あのジョームのことですから、ことしの《活版凸凹フェスタ》でも、なんとか皆さんをアッといわせようと秘策(オヤジ-ギャグかも?)を練っているようです……。

《通称 活版印刷屋 大伸/大澤伸明さん》
イベント告知はがき、絵柄面2色、宛名面1色の印刷は大伸さんにお願いしました。大伸さんは、「通称 活版印刷屋 大伸」ですが、さらに正確にしるすと「通称 活版印刷屋 大伸 三代目 若旦那 大澤伸明」さんとなります。

大澤さんは、一見豪放磊落にみえます(みせています)が、とてもこころの襞が繊細なかたです。またともかく照れ屋さんでもあります。また「ガツンと食い込んだ活版印刷」がキャッチ・フレーズですが、勢いあまって印圧をあげすぎて、まだまだ現役の大澤親分(二代目・お父さん)にお目玉を食らうことがあるそうですし、なにより愛妻家兼恐妻家でもあります。そんなわけで、今回のはがきの印圧は、適度に、軽めにとお願いしました。

大伸さんは、もともとはがき印刷は得意のジャンル。ですからすっかりお任せしていました。4月4日[水]、三代目若旦那みずからバイクでお届けいただきました。写真のような自身ありげなお顔(通称 ドヤガオ)を拝見すれば、もう安心でした。5ポイントという、出展者・出展企業のちいさなお名前も、潰れなく、丁寧に印刷していただきました。

4月6日[金]、出展者の皆さまを中心に、宅配便にてあらかたの発送を終えました。このブログロールをご覧いただく頃には、皆さまも、ご友人やお仲間と《活版凸凹フェスタ2012》のポスターやはがきをご覧になっているかもしれません。拙いものですし、簡素なものですが、こんな背景をもって懸命に製作しました。お楽しみいただけましたら嬉しくぞんじます。

《今回はイベント告知広報物製作の背景を紹介。次回は個人印刷者をご紹介》
今回のご出展者には、ハワイ、台湾、イギリスといった海外からの参加もあります。その関連の郵便物や@メールが盛んに交換されています。また個人の印刷者が懸命に作品製作のピッチをあげています。会期中の活版ゼミナールや、企画展のご紹介もいたします。そんなご報告を次回から順次いたしたくぞんじます。