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【文 ≒紋学】 フランス国立印刷所のシンボルロゴ/火の精霊サラマンダーと 王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ、そして朗文堂 サラマ・プレス倶楽部との奇妙な関係

サラマプログ

Nutrisco et Extinguo  我ハ育ミ 我ハ滅ボス

灼熱の炎に育まれし サラマンドラよ
されど 鍛冶の神ヴルカヌスは 汝の威嚇を怖れず
業火のごとき  火焔をものともせず
金青石もまた 常夜の闇の炎より生ずる
汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す
金青石は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する
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火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード・ギャラモンに 王のギリシャ文字を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり フランス国立印刷所のシンボルロゴでもある。 2008年アダナプレス倶楽部年賀状 裏2008年アダナプレス倶楽部年賀状 表朗文堂 アダナプレス倶楽部[2016年07月01日よりサラマ・プレス倶楽部に改称]では、2008年の年賀状で「活版印刷術とサラマンダーのふしぎな関係」を紹介した。
ここにあらためて、フランス国立印刷所であたらしく再生されたシンボルロゴと、わがサラマ・プレス倶楽部の「小型活版印刷機 Salama シリーズ」のシンボルロゴとの、奇妙でながい歴史を紹介したい。
[取材・翻訳協力 : 磯田敏雄氏]
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《 国立印刷所の新しいシンボルロゴ —— Le nouveau logo de l’Imprimerie Nationale 》

フランス国立印刷所は定款を変更して、あたらしいロゴとして、今回もやはり「サラマンダー」の意匠を採用した。
あたらしいシンボルロゴとして神話の生物サラマンダーを選定したのは、フランス国立印刷所のながい歴史と、象徴主義とふかく結びついている。

フランス国立印刷所 新ロゴ フランス ヴァロワ朝 フランス王、第9 代フランソワ1 世(François Ier de France,  1494-1547)は、フランスにルネサンスをもたらし、また1538年にフランス王室で印刷事業をはじめたひとである。 フランス国立印刷所は、この年1538年の創立をもってその淵源としている。

フランソワ1世は、みずからと、その印刷所の紋章として、フランス王家の伝統としての百合の花を象徴する王冠 【 画像集リンク : フランス王家の紋章 】 とともに、火焔のなかに棲息するサラマンダーを取りいれた。
そこにはまた、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)の活字父型彫刻による標語を<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす>付与した。

「Je me nourris de Feu et je L’éteins  意訳:我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす」 フランス国立印刷所 旧ロゴこのサラマンダーは何世紀もの歴史のなかで、すこしずつ意匠をかえて、フランス国立印刷所の紋章としてもちいられてきた。それらの意匠変遷の記録のすべてはフランス国立印刷所にのこされているが、21世紀のはじめに、どれもが幾分古ぼけた存在とみなされ、それを「モダナイズ」する計画がもちあがり、フランス国立印刷所のデザインチームが改変にあたった。

その結果よみがえったサラマンダーは、フランス国立印刷所の伝統を継承しつつ、かぎりなく前進をつづける、あたらしいフランス国立印刷所のシンボルロゴとして再生された。 saramannda- フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所シンボルロゴ《火の精霊 ― サラマンダーと、サラマ・プレス倶楽部のサラマくん》
フランス国立印刷所では21世紀の初頭にシンボルロゴを近代化して、Websiteに動画をアップした。同所のあたらしいシンボルロゴのモチーフは、1538年の創立以来変わらずにもちいられてきた「サラマンダー」である。

わが国では、このサラマンダーには TV CM でお馴染みのウーパールーパーという愛称があるが、正式には メキシコサラマンダー(Ambystoma mexicanum)とされ、もともとはメキシコ高地の湖沼に棲む、両生綱有尾目トラフサンショウウオ科トラフサンショウウオ属に分類される有尾類であり、その愛称ないしは流通名がウーパールーパーとされている。

ところで、灼熱の焔からうまれるイモノの「鋳造活字」をあつかうタイポグラファとしては、こと「火の精霊 ── サラマンダー or サラマンドラ or サラマンドル」と聞くと、こころおだやかではない。とりわけ今回はフランス国立印刷所からの、「王のローマン体、王家のローマン体  ローマン・ドゥ・ロワ or ローマン・ド・ロァ Romains du Roi 」のメッセージと図書も届いた。

Viva la 活版 Viva 美唄タイトルデザイン04 墨+ローシェンナ 欧文:ウンディーネ、和文:銘石Buu サラマンダーは、欧州で錬金術が盛んだった中世のころに神聖化され、パラケルススによって「四大精霊」とされたものである。
四大精霊とは、地の精霊:ノーム/水の精霊:オンディーヌ/火の精霊:サラマンダー/風の精霊:シルフとされる。

この「四大精霊」のことは欧州ではひろく知られ、アドリアン・フルティガーは、パリのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所で、活字人としてのスタートのときに、「水の精霊/オンディーヌ Ondine」と名づけた活字を製作していた。
この欧文活字「オンディーヌ」と、和文電子活字「銘石B」 をイベントサインとしてもちいたのが< Viva la 活版 Viva 美唄 > であった。
【 花筏 朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち

《サラマンダーに代えて Salama の登録商標を取得し、サラマくんのイメージロゴを製作》
サラマ・プレス倶楽部の製造・販売による小型活版印刷機は、「Salama シリーズ」として登録商標が認可されている。 また冒頭でご紹介した「Salama ペットマーク」はサラマ・プレス倶楽部 AD 松尾篤史氏の設計による。 DSCN0689 DSCN0741 DSCN1173もとより朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部では、ユーザーの皆さまには < SALAMA Salama サラマ> の名称を今後ともご自由にお使いいただきますし、現在OEM方式により製造 ・ 販売中の < Salama-21A,  Salama-LP,  Salama-Antiqua>を、「さらまちゃん、サラマくん」とでもご自由にお呼びいただき、ご愛用いただきたいと考えている。
わが家のウーパーウーパー/ウパシローは、シャイで気の弱い、わががまものである。

【資料紹介】 株式会社東京築地活版製造所第三代社長『曲田成君略傳』(松尾篤三編集兼発行 東京築地活版製造所印刷)

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曲田成 resized 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈陦ィ1 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈2 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈3 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈螂・莉・『曲田成君畧傳』(国立国会図書館 請求記号 特29-644)

本書は、東京築地活版製造所第三代社長/曲田 成(まがた-しげり 弘化三年一〇月一日〈西暦 1846年11月19日〉-明治二七年〈1894年〉一〇月一五日 行年四九)の略伝である。
序文を福地源一郎(櫻痴 三号明朝 字間 四分アキ)、本文を同社第四代社長・名村泰蔵(五号明朝 字間 四分アキ)で組まれている。
本文後半に弔文「曲田成君ヲ弔フ文」(東京活版印刷業組合頭取 佐久間貞一)、「曲田成氏ヲ追弔ス」(密嚴末資榮隆 不詳)がある。最後に「跋」がおかれ、ふたたび東京築地活版製造所社長の名で、名村泰蔵(三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。

刊記(奥付)には発行日として「明治28年10月16日」とあり、おそらく曲田成の一周忌に際して刊行されたものとみられる。
編集兼発行者は松尾篤三(東京市京橋区築地一丁目七番地)である。この松尾篤三に関して知るところは少ないが、谷中霊園の平野富二墓前の対の石灯籠の台座、東京築地活版製造所関連の名前の列挙のなかにその名をみることができる。
印刷者として支配人・野村宗十郎(東京市京橋区築地一丁目二〇番地)がある。
印刷所として東京築地活版製造所(東京市京橋区築地二丁目一七番地)がある。

『曲田成君畧傳』によって、今後本木昌造、平野富二関連文書の行間を大幅に補填することが可能となった。すなわち従来は平野富二と曲田成に言及するところがきわめて少なく、両者のであい、当初の器械設備、活字改良の次第などは暗中模索の状態にあった。
さらにことばをかさねれば、東京築地活版製造所から『平野富二伝』が発行されるにいたらなかった次第は、本書の中で名村泰蔵自身があきらかにしている。

ここに読者諸賢に『曲田成君畧傳』の存在をお知らせし、ともに『曲田成君畧傳』をタイポグラフィ研究に資することを期待したい。

【字学】 『安中翁紀念碑』より 明治長崎がうんだ出版人・印刷人・慈善家・篤志家にして〝ふうけもん〟安中半三郎

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安中半三郎resized安中 半三郎 (あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい)
1853年12月29日(嘉永6年11月29日)-1921年(大正10)4月19日 享年69

安中半三郎翁紀念碑『安中翁紀念碑』
長崎県立盲学校 校門左脇在

明治長崎の印刷・出版・文化史において看過できない人物に安中半三郎がいる。
これまではおもに「長崎学」の分野において、慈善家、篤志家、ときとして〝ふうけもん〟として、わずかに触れられる程度であった人物である。
先般長崎史談会顧問:宮川雅一氏より虎與号・安中書店店主/安中半三郎の資料を拝借することができた。

ここではまず安中半三郎の功績者としての側面を、長崎県立盲学校と、長崎県立ろう学校の資料「安中翁紀念碑」から紹介したい。
「安中翁紀念碑」は、大正11年(1922)11月、安中半三郎の一周忌に際して、長崎市桜馬場町「長崎盲唖学校」の校庭に、元長崎肓唖学校長:山本 明の撰、長崎市中野郷:福丸秀樹の書によって建立された。
この年はまた長崎慈善会の創立三十年と、肓唖学校の創立二十五年記念にあたる年でもあり「同志あい計り碑を校庭に建て、もってその功績を不朽につたえる」としるされている。

DSC_2488[1]『史跡 盲唖學校跡』 碑
この碑が設置されたのは、それほど昔ではないと思います。高さは一メートルにも満たない大きさで、桜馬場の住宅街の片隅にひっそりと立っています。 宮田和夫氏提供

そもそも県立学校に、創設者個人の顕彰碑が建立されていたり、それもふたつの施設の校友誌にほぼ同一記録をみることはめずらしい。
また長崎県立図書館も、その創立記録として安中半三郎の名をとどめている。

長崎慈善会による「長崎盲唖院」は、その後「盲・聾教育の組織分離」がなされたため、現在は大村湾に面した「長崎県立盲学校」(長崎県西彼杵郡時津町西時津郷873)と、長崎空港からちかい「長崎県立ろう学校」(長崎県大村市植松3-160-2 長崎新幹線の駅舎設置のため同市内に移転予定)のふたつの県立学校となっている。

「安中翁紀念碑」は時津町の 長崎県立盲学校 の校門左脇にあるという。
まだこの碑の実見にいたっていないのは断腸のおもいである。また訪崎の機会をえたらぜひとも訪問したいものである。

◎ 「長崎県立盲学校」 本校の歴史長崎県立盲学校 長崎県西彼杵郡時津町西時津郷873 WebSiteより一部引用)
<明治時代>
本校は、安中半三郎氏を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」として創立されました。同年9月12日開院、その安中氏に盲唖院設立を相談した、自らも視覚障害者である野村惣四郎氏の居宅(市内興善町)の一部を仮校舎として、授業が開始されました(以後この日が開校記念日)。

開院時の生徒数は13名、京都以西では二番目に設置された盲聾教育機関となります。
この年の11月28日には、電話発明者として有名なA・G・ベル博士が来院し、教師及び生徒に対して手話演説を行っています。
九州初の盲聾教育機関であったために、開院以来九州全域及び愛媛・広島からの生徒の入校もあり生徒数は年々増え続けました。そのため、校舎が手狭になり二度の移転を余儀なくされ、最終的には明治41(1908)年市内桜馬場町に新校舎が落成し落ち着くこととなりました。

校名も明治33(1900)年には「私立長崎盲唖学校」と改称。その後九州各地に相次いで開設された盲唖学校の中核的存在として、明治45(1912)年には第1回西部盲唖教育協議会を開催するなど、九州地区の盲・聾教育の研究、実践に大きな役割を果たしています。
<大正時代>
大正08(1919)年には「長崎盲唖学校」と改称。大正12(1923)年「盲唖学校及聾学校令」が公布されたのに伴い、翌年7月12日には盲・聾教育の組織分離がなされ、「長崎盲学校」及び「長崎聾唖学校」の両校が開設されました。
また、この法令には普通教育と職業教育の分離化とその指導充実が明確にうたわれ、それを受けて本校でも指導内容の充実が図られるようになり、修業年限も初等部6年、中等部鍼按科及び音楽科4年、別科按摩専修科2年となりました。
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◎ 長崎県立ろう学校
長崎県立ろう学校 学校沿革抄(長崎県大村市植松3-160-2 WebSiteより一部引用)

明治維新以来わが国の文化は日に月に進み目覚しい発展を遂げたが、わが同胞で耳が聞こえず目が見えぬため、終生人生の悲境に泣く人が顧みられなかったことは、人道を重んじ博愛の心あるものにとっては一日として見過ごするにしのびぬところであった。わずかに京都・東京において明治11年相前後して盲ろう教育の機関を設けたが、その以西にあってはいまだその施設があるを聞かなかった。長崎慈善会が特に率先して盲ろう教育に先べんをつけた動機は実にここに存したのである。

明治29年慈善会幹事安中半三郎らは、会の事業として盲唖院を経営することを提議したが、さいわいにして衆議もこれを容れ京都盲唖院を標準として調査を続け、一方同30年12月20日慈善会総会では安中半三郎ら9名を盲唖院創立委員にあて開校を促進するに至った。この間京都の盲唖院から寄せられた同情と支援は言葉に尽くせないものがあった。かくして明治31年開校の運びとなり、全国ろう教育史上4番目の伝統を誇る足跡が印されたのである。
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以下、資料 : 『明治維新以後の長崎』(著作兼発行者 長崎市小学校職員会 大正14年11月10日)と、『安中翁紀念碑碑文 原文』(手稿 宮川雅一氏資料)をもとに、まず平易な現代文で「安中翁紀念碑」から紹介する。原文は最後に置いたので参照して欲しい。
なお紀念碑には末尾に五言絶句様の漢詩があるようだが、『明治維新以後の長崎』はそれを収録していない。この部分は手稿原稿からの引用であることをお断りしたい。

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安中半三郎resized安中半三郎(あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい)
1853年12月29日(嘉永6年11月29日)-1921年(大正10)4月19日 享年69

翁の姓は安中(あんなか)、名は有年(ありとし)、通称半三郎、東来(とうらい)はその号なり。
嘉永六年十一月二十九日(西暦1853年12月29日)江戸神田相生町に、父為俊、母長沢氏の三男としてうまれた。6歳のとき父にしたがって長崎に来て家業をたすけるかたわら、長川東洲、池原大所(香穉・日南とも)に和漢の学をまなび、歌道にも通じた。
明治のはじめ、皇道の由来を悟り、父にすすめて祖先の祭祀を神式にあらためた。明治19年(1886)書籍・新聞・文具などの業を営業しこんにちにおよぶ。

安中家墓地長崎市本蓮寺脇にある神式の特設墓地「安中家と安中半三郎の墓碑」。
本蓮寺は日蓮宗の名刹で、勝海舟が幕末の海軍伝習所にまなんだときここに寓居した。
また長崎史談会の故古賀十二郎もこの本蓮寺墓地にねむるという。

翁はうまれつき剛直にしてすこぶる義気にとみ、公共のことに尽くすことが多かった。すなわち市会議員に選出され、市参事会員にあげられて多年にわたって市政に貢献した。また商業会議所議員、その副会頭(現在の長崎商工会議所の前身。会頭は松田源五郎)として商工貿易の進展に参画した。また(長崎十八銀行頭取)松田源五郎翁らと電灯会社をおこし、長崎の灯明の新世紀をひらいた。

十八銀行本店前「長崎商工会議所発祥の地」碑

松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影上) 「長崎商法会議所発祥の地」碑 十八銀行本店前
下)松田源五郎「明治10年内国勧業博覧会」 上野彦馬撮影 : 松尾 巌氏蔵  長崎商法会議所 年代不明02 宮川資料 長崎商業会議所会員 年代不明 宮川資料長崎商法会議所前にて 年代不詳ながら1879年(明治12)10月以降の明治初期
下図は上掲写真の部分拡大。当時は写真撮影をすると指先から魂を抜かれる、レンズに心胆をのぞかれるなどの迷信があり、長崎の有力財界人であっても、レンズから視線をそらし、手指を袂にいれて隠すふうがあった。
長崎商法会議所 年代不明03 長崎商法会議所 裏面に明治39年(1906)01月の書き込みがある。
手指をだし、おおかたのひとの視線がカメラ目線に変化していることがわかる。
長崎県立図書館落成記念写真 宮川資料長崎地名考 扉[1] 長崎地名考 付録1[1] 長崎地名考 刊記[1] ORAYO-GO[1] 長崎安中半三郎は「安中書店「虎與號 とらよ-ごう」の名称で『長崎地名考』(香月薫平)、『類代 酔狂句集 初編』(素平連 安中半三郎)など何冊かの図書の刊行と、「虎與号」から販売もしている。安中半三郎における印刷・出版・文化人といった面からの研究は未着手である。

長崎慈善会「軍人家族贈呈衣類収容所」右手最奥に安中半三郎 宮川資料長崎慈善会「軍人家族贈呈衣料収容所」。左手最奥部、裏庭のまえに、手帳を片手にうつむき加減の安中半三郎がみえる。東来半三郎は写真を苦手としたか?  明治27年12月1日

いっぽう文雅同好の士(西道仙、香月薫平ら)とともに「長崎文庫」をはじめ、それは現長崎県立図書館の源流となった。そのほかにも神社の振興や名所旧蹟の保存にも尽力した。
そのほかにも特筆すべきこととして、明治24年(1891)尾濃震災(のうび地震)に際しては、同志とともに音楽会や幻灯会を催して金品をあつめて罹災民の支援にあたった。これをはじめとして明治26年(1893)に「慈善会」を創設して、各地の天災地変や出征兵士の慰問などに金品を寄付すること30余回におよんだ。

櫻馬場盲聾学校校舎 年代不明 宮川資料櫻馬場盲聾学校校舎 明治41年(1908)以降。年代不詳

明治31年(1898)「慈善会」の事業として「盲唖学校」(現:長崎県立盲学校長崎県立ろう学校)を創立し、資金の蒐集と学位資格管理に苦心した。このようによく一生の心血をそそぎ、おおくの可憐な子女を教養してこんにちにあることに尽くした。 その期間実に三〇年および、長崎市における社会事業のさきがけとも、経営の柱石ともなった。そのため巷間では狂とも奇とも呼ばれることもあったがそれを厭はなかった。

このように功労は常人の及ぶところではなく、特殊堅実なる守操がなければこのような事業を成し遂げられなかった。
大正四年十一月国家の大典(大正天皇即位式)に際し、その功績が表彰された。
大正十年に入り、病を得て四月十九日ついに歿す。享年六十九。
その死にいたるまで一日も病床に就かず、端座してよく簿冊を管理していた。その剛健さと黽勉ビンベン(努力)はいつもこのようであった。 その妻ジウ子もまた翁の志をうけ、内助の功が多かった。翁とのあいだに長男生逸があり家を継承した。

翁が逝去して一周年、あたかも慈善会の三十年と肓唖学校の二十五年記念にあたる年であり、同志あい計り碑を校庭に建て、もってその功績を不朽につたえる。

   瓊浦の水洋々   峨眉の峰清秀   偉才其間に出づ   嗚呼安中君
   力を公事に致し  其績歴たり     銘を負石に勒し    以て来世に告く

         大正十一年十一月    元長崎肓唖学校長  山 本   明 撰
長崎市中野郷     福 丸 秀 樹 書
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三四 長崎盲唖学校

安中翁紀念碑

翁姓ハ安中名ハ有年通称半三郎東来其号ナリ嘉永六年十一月二十九日江戸神田ノ相生町ニ生ル為俊翁ノ三男ニシテ母ハ長沢氏タリ翁六歳ニシテ父ニ従フテ長崎ニ来リ家業ヲ助クル傍長川東洲池原大所ニ従ヒ和漢ノ学ヲ修メ心ヲ歌道ニ潜ム明治ノ初年皇道ノ由来ヲ悟リ父ヲ勧メテ祖先ノ祭祀ヲ神式ニ改メ同十九年書籍新聞及文具等ノ業ヲ営ミシヨリ連綿トシテ今日ニ及ヘリ翁天資剛直ニシテ頗ル義気ニ富ミ公共ノ事ニ尽セシコト甚多シ即チ市会議員ニ選ハレ市参事会員ニ挙ケラレテ多年市政ニ貢献シ又商業会議所議員及其副会頭ニ推サレテ商工貿易ノ進展ニ参画シ先進松田源五郎翁等卜謀リ電灯会社ヲ起シテ本市灯明界ノ新紀元ヲ開キ文雅同好ノ士卜共ニ長崎文庫ヲ創メテ図書館ノ萠芽ヲ育成セリ其他神社ノ振興ニ或ハ名所旧蹟ノ保存ニ力ヲ致セシコト亦少ナカラス而シテ其特筆スヘキハ明治二十四年尾濃震災ノ際同志ト共ニ音楽幻灯会ヲ催フシ金品ヲ集メテ罹災民ヲ賑ハシタルヲ始メトシ同二十六年ニハ慈善会ヲ創設シ爾来同会ヨリ各地ノ天災地変及出征兵士ノ慰問等ニ金品ヲ寄附シタルコト実ニ三十余回ノ多キニ及ヒ越エテ三十一年会ノ事業トシテ盲唖学校ヲ創設セシヨリ資金ノ蒐集卜学位ノ管理トニ一層ノ苦心ヲ加ヘタルモ克ク一生ノ心血ヲ濺キテ多数可憐ノ子女ヲ教養シ以テ今日アルヲ致セリ其間実ニ三十年本市ニ於ケル社会事業ノ魁トナリ其経営ノ柱石トナリ狂ト呼ハルヽモ厭ハス奇卜其功労常人ノ及フ所ニアラス特殊堅実ナル守操アルニ非スンハ曷ソ能ク此ノ如クナルヲ得ンヤ宜ナルカナ大正四年十一月国家ノ大典二際シ其功績ヲ表彰セラレタルコト大正十年ニ入リ病ヲ得四月十九日遂ニ歿ス享年六十九其死ニ至ルマテ未タ一日モ寝ニ就カス端座シテ克ク簿冊ヲ理ム其剛健黽勉始終此ノ如シ室ジウ子亦翁ノ志ヲ承ケテ内助ノ効多ク長子生逸家ヲ継ク翁逝テ一周年恰モ慈善会ノ三十年卜肓唖学校ノ二十五年紀念ニ当ル乃チ同志相謀リ碑ヲ校庭ニ建テ以テ不朽ニ伝フ
大正十一年十一月    元長崎肓唖学校長  山 本   明 撰
長崎市中野郷     福 丸 秀 樹 書

宮川氏原文
資料:『明治維新以後の長崎』(著作兼発行者 長崎市小学校職員会 大正14年11月10日)
『安中翁紀念碑碑文 原文』(手稿 宮川雅一氏資料)

DSCN7439{宮川雅一氏 略歴紹介}
1934年(昭和9)長崎市の老舗の酒類・食料品店に生まれる。勝山国民学校・新制長崎中学校・長崎東高等学校卒。
1957年(昭和32)東大法学部卒業後、自治庁(現・総務省)に入る。以来、自治省・大蔵省(現・財務省)・公営企業金融公庫(現・地方公共団体金融機構)・福岡・滋賀・愛媛・香川各県庁に勤務。
1979年(昭和54)川脯日本都市センター研究室長から長崎市助役に就任。1986年(昭和61)長崎市助役を退職し、長崎都市経営研究所を設立。

現在、長崎史談会会長を経て同相談役、長崎釈尊鑚仰会事務総長、長崎近代化遺産研究会会長、唐寺研究会代表幹事、長崎聖福寺大雄宝殿修復協力会世話人代表、長崎ちびつ子くんち実行委員会会長、出雲大社長崎分院・松森天満宮・伊勢宮の各責任役員など。
著書に『宮川雅一の郷土史岡目八目』(宮川雅一 長崎新聞社 平成25年9月1日)、『長崎散策』シリーズほか。

{ 関連資料 : 文字壹凜 安中半三郎の肖像紹介 『東来和歌碑』釈読紹介 宮川雅一氏

【資料発掘】 活字のうた―或る植字工これをつくる 『活字界』 Vol12-3 / No.47 p.5 昭和51年4月5日

ここに紹介する詩は、ある大手の印刷会社の植字工を永年やっていた故松崎映太郎が、昭和23年,復興経済労働問題講座の席上発表したものといわれる。
印刷同友会の市村道徳会
長がこの詩を高く評価し、印刷同友会20年史に所載したものを、同氏のご好意により本誌に転載させていただいた。{活字界 編集部}

『活字界』合本。

活   字   の   う   た

(或る植字工これをつくる)

ケースにいっぱい詰っている活字は
満開の桜のように美しい
その一本一本が生きもののように
生命をもっている
活字とはいみじくも名づけられたもの
その一本一本の活字の望みは
花のように美しく植えられることにある
幼い苗を植えて
豊かな果樹園を実らせるように
立派に組み上げられた活版
そしていっぱいに盛り上る文化
しかもむだ花として散ってしまうのではなく
再び解きほぐされて息吹きかえす
小さな不死鳥よ フェニックス ────────── 活字。

太初に道あり ―― はじめに ことば あり
ことばは神と共にあり
と、ヨハネ伝はかく誌シルす
マインツのダーテソベルクが
最初の活版印刷を発明した時に
先づ刷ったものは聖書だったという。
ああ 近代印刷の技術の泉は
まぶしいような神の言葉と共に湧いたのだ。
活字を植える人よ

印刷するひとよ
此の古い事実に深い意味をさぐれ。
 『ルラ』(ローラー)が一回転して紙がその上を通れば
そこには取り返しのつかぬ歴史が生れることを
汚ないインキのしみを
人類の文化になすりつけることに心せよ
ケ-スにいっぱい詰まっている活字は
輝やく眼マナコで原稿をきびしく査シラべ
ステッキの中に組まれた活字は
やがて世の中へ出てゆくものの倫理を叫ぶ
活字が紙幣サツを刷るに役立たぬことは
いかにうれしい宿命であろう。

ああ活字
可憐な、きよらかな文化の釘
賤イヤしいただの金儲けや
恥知らずの本造りブックメーカーの手から
お前を護ろう
巨人ゴリアテを仆タオした
ダビデの掌の中の小さい石のような
正義の武器 活字を
人々よ いつくしみ育てて
新しい日本の大きい組版の中に
星のように輝やかしくちりばめようではないか

【新資料紹介】 {Viva la 活版 ばってん 長崎}Report 14  ことしは平野富二生誕170周年、生家跡資料発掘・現地訪問。タイポグラフィ学会創立10周年 盛りだくさんのイベント開催

長崎タイトル 平野富二初号
ことしは明治産業近代化のパイオニア ──── 平野富二の生誕170周年{1846年(弘化03)08月14日うまれ-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47}である。

ここに、新紹介資料にもとづき、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと {崎陽探訪 活版さるく} で訪問した、平野富二(矢次 ヤツグ 富次郎)生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介したい。

Print長崎諸役所絵図0-2 長崎諸役所絵図8 肥州長崎図6国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)、『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>では5月7日{崎陽長崎 活版さるく}を開催したが、それに際し平野富二の生家の所在地がピンポイントで確認できたというおおきな成果があった。
これには 日本二十六聖人記念館 :宮田和夫氏と 長崎県印刷工業組合 からのおおきな協力があり、また東京でも「平野富二の会」を中心に、国立公文書館の原資料をもとに、詰めの研究が進行中である。

下掲写真に、新紹介資料にもとづき、 {崎陽探訪 活版さるく} で、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと訪問した、平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介した。
平野富二<平 野  富 二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47
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今回の参加者には平野正一氏(アダナ・プレス倶楽部・タイポグラフィ学会会員)がいた。
平野正一氏は平野富二の玄孫(やしゃご)にあたる。容姿が家祖富二にそれとなく似ているので、格好のモデルとしてスマホ撮影隊のモデルにおわれていた。

流し込み活字とされた「活字ハンドモールド」と、最先端鋳造器「ポンプ式ハンドモールド」
そして工部省の命により長崎製鉄所付属活版伝習所の在庫活字と設備のすべてが
東京への移設を命じられた

平野富二はヒシャクで活字地金を流しこむだけの「活字ハンドモールド」だけでなく、当時最先端の、加圧機能が加わった「ポンプ式活字ハンドモールド」を採用した。
これは活字鋳造における「道具から器械の使用への変化」ともいえるできごとで、長崎製鉄所で機械学の基礎をまなんだ平野富二ならではのことであった。
印刷局活版事業の系譜上掲図) 国立印刷局の公開パンフレットを一部補整して紹介した。
【 参考 : 朗文堂好日録042 【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

「ポンプ式活字ハンドモールド」は、長崎製鉄所付属活版伝習所に上海経由でもたらされたが、1871年(明治4)1月9日、工部省権大丞 : 山尾庸三の指示によって、在庫の活字は大学南校(東京大学の前身)を経て、大学東校(幕末の医学所が1869年[明治02]大学東校と改称。東京大学医学部の前身)へ移転された。

医学所と大学東校は秋葉原駅至近、千代田区神田和泉町におかれた。長崎からの活字在庫とわずかな印刷設備を入手した大学南校・大学東校は、たまたま上京していた本木昌造に命じて「活版御用掛」(明治4年6月15日)としたが、本木昌造はすでに大阪に派遣していた社員:小幡正蔵を東京に招いた程度で、どれほど活動したかは定かでない。
大学東校内「文部省編集寮活版部」は翌明治05年「太政官正院印書局」に再度移転し、結局紙幣寮活版局に吸収された。

ほとんどの活字鋳造設備と活版印刷関連の器械と、伝習生の一部(職員)は工部省製作寮活字局に移動し、その後太政官正院印書局をへて、紙幣寮活版局(現国立印刷局)につたえられた。
これらの設備のなかには「ポンプ式活字ハンドモールド」はもとより、もしかすると「手回し活字鋳造機=ブルース型手回し式活字鋳造機」もあったとみられる。また活字母型のほとんども移動したとみられ、紙幣寮活版局(現国立印刷局)の活字書体と活字品質はきわめて高品質であったことは意外と知られていない。

しかも当時の紙幣寮活版局は民間にも活字を販売していたので、平野活版製造所(東京築地活版製造所)はいっときは閉鎖を考えるまでに追いこまれた。そのため東京築地活版製造所は上海からあらたに種字をもとめ、良工を招いてその活字書風を向上させたのは明治中期になってからのことである(『ヴィネット04 活字をつくる』片塩二朗、河野三男)。
20160907161252_00001 20160907161252_00002 20160907161252_00003右ページ) 大蔵省紙幣局活版部 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版見本』明治10年04月 印刷図書館蔵)
左ページ) 平野活版所 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版様式』明治09年 現印刷図書館蔵)

BmotoInk3[1] BmotoInk1[1]したがって1871年(明治4)1月、新政府の命によって長崎製鉄所付属活版伝習所の活字、器械、職員が東京に移転した以後、長崎の本木昌造のもとに、どれだけの活版印刷器械設備と活字鋳造設備があり、技術者がいたのか、きわめて心もとないものがある。
財政状態も窮地にあった本木昌造は、急速に活版製造事業継続への意欲に欠けるようになった。

おなじ年の7月、たまたま長崎製鉄所をはなれていた平野(矢次富次郎)に本木昌造は懇請して、新塾活版所、長崎活版製造所、すなわち活字製造、活字組版、活版印刷、印刷関連機器製造にわたるすべての事業を、巨額の借財とともに(押しつけるように)委譲したのである。
このとき平野富二(まだ矢次富次郎と名乗っていた)、かぞえて26歳の若さであった。
それ以後の本木昌造は、長崎活版製造所より、貧窮にあえぐ子弟の教育のための施設「新町私塾 新街私塾」に注力し、多くの人材を育成した。そして平野富二の活版製造事業に容喙することはなかった。

平野富次郎は7月に新塾活版所に入社からまもなく、9月某日、東京・大阪方面に旅立った。それは市況調査が主目的であり、また携行したわずかな活字を販売すること、アンチモンを帰途に大阪で調達するなどの資材調達のためとされている。

その折り、帰崎の前に、東京で撮影したとみられる写真が平野ホールに現存している。
平野富二の生家:矢次家は、長崎奉行所の現地雇用の町使(町司、現代の警察官にちかい)であり、身分は町人ながら名字帯刀が許されていた。
写真では、まだ髷を結い、大小の両刀を帯びた、冬の旅装束で撮影されている。
平野富二武士装束ついで翌1872年(明治5)、矢次富次郎は長崎丸山町、安田家の長女:古まと結婚、引地町の生家を出て、外浦町に家を購入して移転、平野富二と改名して戸籍届けをなしている。
さらにあわただしいことに、事業継承から一年後の7月11日、東京に活版製造出張所を開設すべく、新妻古まと社員8名を連れて長崎を出立した。
平野富二、まだ春秋にとむ27歳のときのことであった。

この東京進出に際し、平野富二は、六海商社あるいは長崎銅座の旦那衆、五代友厚とも平野家で伝承される(富二嫡孫 : 平野義太郎の記録 ) が、いわゆる「平野富二首証文」を提出した。その内容とは、
「この金を借り、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる」
ことを誓約して資金を得たことになる。そしてこの資金をもとに、独自に上海経由で「ポンプ式ハンドモールド」を購入した。まさに身命を賭した、不退転の覚悟での東京進出であった。

この新式活字鋳造機の威力は相当なもので、活字品質と鋳造速度が飛躍的に向上し、東京進出直後から、在京の活字鋳造業者を圧倒した。
【 参考 : 花筏 平野富二と活字*06 嫡孫、平野義太郎がのこした記録「平野富二の首證文」


この「ハンドモールド」と「ポンプ式ハンドモールド」は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場で、一部は実演し、さらに双方の器械とその稼動の実際を、1920年に製作された動画をもって紹介した。

federation_ 03 type-_03 ハンドモールド3[1]
長崎製鉄所における先輩の本木昌造と、師弟を任じていた平野富二

<Viva la 活版 ばってん 長崎>の三階主会場には、平野ホールに伝わる「本木昌造自筆短冊」五本が展示され、一階会場には  B 全のおおきな平野富二肖像写真(原画は平野ホール蔵)が、本木昌造(原画は長崎諏訪神社蔵)とならんで掲出された。
本木昌造02
本木昌造短冊本木昌造は池原香穉、和田 半らとともに「長崎歌壇」同人で、おおくの短冊や色紙をのこしたとおもわれるが、長崎に現存するものは管見に入らない。
わずかに明治24年「本木昌造君ノ肖像幷ニ履歴」、「本木昌造君ノ履歴」『印刷雑誌』(明治24年、三回連載、連載一回目に製紙分社による執筆としるされたが、二回目にそれを訂正し取り消している。現在では福地櫻痴筆としてほぼあらそいが無い)に収録された、色紙図版「寄 温泉戀」と、本木昌造四十九日忌に際し「長崎ナル松ノ森ノ千秋亭」で、神霊がわりに掲げられたと記録される短冊「故郷の露」(活字組版 短冊現物未詳)だけがしられる。

いっぽう東京には上掲写真の五本の短冊が平野ホールにあり、またミズノプリンティングミュージアムには軸装された「寄人妻戀」が現存している。
20160523222018610_000120160523222018610_0004最古級の冊子型活字見本帳『 BOOK OF SPECIMENS 』 (活版所 平野富二 推定明治10年 平野ホール蔵)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>を期に、長崎でも平野富二研究が大幅に進捗した

ともすると、長崎にうまれ、長崎に歿した本木昌造への賛仰の熱意とくらべると、おなじ長崎がうんだ平野富二は27歳にして東京に本拠をうつしたためか、長崎の印刷・活字業界ではその関心は低かった。
ところが近年、重機械製造、造船、運輸、鉄道敷設などの研究をつうじて、明治産業近代化のパイオニアとしての平野富二の再評価が多方面からなされている。
それを如実に具現化したのが、今回の<Viva la 活版 ばってん 長崎>であった。

DSCN7280 DSCN7282DSCN7388 DSCN7391平野正一氏はアダナ・プレス倶楽部、タイポグラフィ学会両組織のふるくからの会員であるが、きわめて照れ屋で、アダナ・プレス倶楽部特製エプロンを着けることから逃げていた。
今回は家祖の出身地長崎にきて、また家祖が製造に携わったともおもえる「アルビオン型手引き印刷機」の移動に、真田幸治会員の指導をうけながら、はじめてエプロン着用で頑張っておられた。

1030963 松尾愛撮02 resize 松尾愛撮03resize 松尾愛撮01 resize長崎諸役所絵図0-2長崎諸役所絵図0国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)
国立公文書館蔵『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

上掲図版は『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184:0288)から。
同書は経本折り(じゃばら折り)の手書き資料(写本)だが、その「引地町町使屋敷 総坪数 七百三十五坪」を紹介した。矢次家は長崎奉行所引地町町使屋敷、右から二番目に旧在した。敷地は間口が三間、奥行きが五間のひろさと表記されている。

下掲写真は平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町、現長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)の現在の状況である。
長崎県勤労福祉会館正面、「貸し会議室」の看板がある場所が、『長崎諸役所絵図』、『肥州長崎図』と現在の地図と照合すると、まさしく矢次富次郎、のちの平野富二の生家であった。

今回のイベントに際して、宮田和夫氏と長崎県印刷会館から同時に新情報発見の報があり、2016年05月07日{崎陽探訪 活版さるく}で参加者の皆さんと訪問した。
この詳細な報告は、もう少し資料整理をさせていただいてからご報告したい。
15-4-49694 12-1-49586平野富二生家跡にて矢次家旧在地 半田カメラ
 <Viva la 活版 ばってん 長崎> 会場点描1030947 1030948 1030949 10309541030958 1030959【 関連情報 : タイポグラフィ学会  花筏