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【字学】〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟情報過多の時代の活字と書物

Print〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟
情報過多の時代の活字と書物
成果無き大量書き込み・無責任投稿・上書き・削除・埋没のループ現象。

記憶は消える 記録は残る
されど、この現代の記憶媒体の有効期間はいつまでだろう ?

19世紀世紀末英国街頭風景『Printing  1770 – 1970』 より
18-19世紀イギリスの印刷・出版・広告界の混乱は、現代では想像を絶するものでありながら、どこかまた現代とも通底するところがある。

上図は1835年(江戸後期 天保6)、産業革命後イギリスの負の側面が露呈した、まさに狂奔というべき状況を記録したもので、「ビラ貼り職人」が街頭で競ってビラを貼っている様子をあらわす。
ビラを貼るそばには、ライバル企業のそれを剥がす専門のものいて、さらにその跡や前のビラの上に無遠慮にビラを貼るものがいたと記録されている。
ちなみに1835年には「Hand bill  (手で配る広告、ちらし 1753年初出)」はあったが、まだポスターということばの使用は記録されていない。

上図から三年ほどのち、1838年に Post の派生語として Poster なることばが誕生した。
下図は、1874年(明治7)蒸気機関車がみられる駅頭に掲出された巨大ポスター。これらのポスターの一部は、わが国の印刷博物館にも展示されているが、ともかく想像を絶する巨大なものである。
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もうひとつ図版を紹介したい。
上図は1829年(江戸後期 文政12年)印刷地は不明ながら、米国における「Auction sale の告知」(Sales notices  15”×12”)であるが、そのオークションの内容たるや「奴隷市」というすさまじいものである(Printed Ephemera, John Noel, W.S.Cowell Ltd., 1962 p.81)。
この Sales notices にはまだサンセリフ体の使用はみられないが、書物ではあまりみられなかった、おおきなサイズ、太い活字書体がもちいられている。

こうした旺盛な商業広告のなかから、それまでの書物の活字「テキスト・タイプ」にかえて、サン・セリフ体をはじめとする「ジョブ・タイプ 広告・端物用活字書体」が誕生し、巨大サイズの木製の活字も大量に生産された。
しかしこれらが書物と公版印刷に与えた影響とは必ずしも好ましいものではなく、19世紀世紀末から21世紀初頭にわたって展開された、「個人印刷所運動 Private press movement」、「金属活字改良運動  スタンリー・モリスンらのフラーロン派など」の動向をまって落ち着きをみせた。

『新英和大辞典』(第六版 研究社)によると、書物・図書としての Book の初出は、あまりにふるくて判明しないとされる。
いっぽう雑誌・Magazine は、ラテン語 Magazzino(仮設置き場・倉庫・雑貨店)から発し、英語での初出は1731年に仮置き場・情報保管庫の意からの初出がみられるとする。
また上述したように、ビラの淵源になったともくされる Hand bill  (手で配る広告、ちらし、ビラ ≒小型販促印刷物)は1753年に初出がみられるが、それがいっそう大型化し、掲出されるようになった Poster は、1838年 Post の派生語として初出がみられるとする。

すなわち産業革命を主導した英国においては、新聞・News peper は1670年の初出で346年ほど、雑誌・Magazine は285年ほど、ビラ・Poster は178年ほどの歴史しかなく、書物・図書の製造をもっぱらとしていた近代活字版印刷術 Typography の620年ほどの歴史とくらべると、いずれも比較的あたらしいメディアであることがわかる。

わが国への近代活字版印刷術 Typography 伝来の起点をどこに置くかは議論のあるところだが、いちおう1869年(明治2)10月上旬のころ、長崎製鉄所付属活版伝習所における迅速活字版製造の技術の伝習とすると、上掲図の10年後のこととなる。
また下掲図の駅頭に掲出された巨大ポスター1874年(明治7)とは、数えて27歳、青年平野富二が1871年(明治5)新妻 古ま と長崎新塾活版所の社員8名をつれて長崎を出立してから2年後、東京築地に「築地活版所」をもうけて、活版製造と関連印刷機器の製造に目途がついたころにあたる。

わが国への近代活字版印刷術 Typography の伝来は、おもに欧米諸国の租借地だった上海からもたらされた。この上海の租借地とは、欧米先進諸国が租借国となり、原則的にそこでは統治権を行使したので、ある意味では占領地にちかいものであった。
しかしながら、その背後の英国と米国の状況とは、両図にみるような混沌としたものだったことは忘れられがちである。
東京新聞
参議院議員選挙、気候不順などの話題がかさなってめだたなかったが、先般英国は国民投票によってEC(European Community)からの離脱を決定した。もしかすると、また欧州混乱の序章の幕開けを予想させる事態であった。
また、『東京新聞 2016年7月8日』には、<町の書店経営悪化>がおおきく報道された。
これは日本書店商業組合連合会(日書連)による全国4,015店の書店の実態調査で、
「ここ数年間の経営状態が悪化したとする回答が85%をこえたことがわかった」
としている。

経営悪化の原因としては、客の数やひとり当たりの購入額の減少だけでなく、雑誌の売り上げの低迷、ネット書店の台頭、後継者不足をあげる声が多数をしめたという。
10年前の同様の調査でも、すでに「客数の減少」「大型店の出店」が憂慮されていた。
同紙はまた【出版不況】について出版科学研究所の調査をひいてその不振とともに、雑誌と書籍の売上高が逆転したことを報告している。

それによると書籍と雑誌をあわせた出版物の2015年の推定販売金額は1兆5220億円で、その市場規模はピークだった1996年(平成8)の6割弱まで縮小しているとした。
また特に深刻なのは、これまで出版界を支えてきた雑誌で、出版取次(問屋)大手の日本出版販売が6月に発表した15年度決算において、雑誌の売上高が32年ぶりに書籍を下回ったと報じている。
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〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟
情報過多の時代の活字と書物
成果無き大量書き込み・無責任投稿・上書き・削除・埋没のループ現象。

記憶は消える 記録は残る
されど、この現代の記憶媒体の有効期間はいつまでだろう ?

これまで産業革命がもたらした書物と印刷・活字における負の側面をみてきた。
産業革命(Indusrial revolution)とは、1760年代の英国にはじまり、1830年代以降欧州諸国に波及したもので、ちいさな手工業的な作業場にかわって、産業の技術的な基礎が一変し、機械設備による大工場が成立し、社会構造が大きく変化したことをいう。

とかく、活字離れ、町にみえている書店の不振ばかりが話題になるが、いっぽうでは電子技術の進展と利便性を「IT 革命」として歓迎するむきもある。
それでなお、取次中堅業者(図書の問屋)が倒産したり、集合化している深刻な事態は看過され、印刷所・出版社・新聞社・メディア関連業界が気息奄奄たる状況にあることは見逃されている。
小社も零細とはいえ出版社である。この危機的状況の埒外にあるわけではない。
いいたいことは山ほどあるが、たれのせいでもない、傍観も看過もできないが、いったそばから天に唾するがごとく、わが身にふりかかる難問でもある。

〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟―― 孔子『論語』にみられる警句である。
「海の日」にちなんだ三連休、近場への外出はあったが、カレル・チャペックKarel Čapek, 1890-1938)の著作を文庫版で三冊買いこんで読了するつもりだった。

『園芸家12ヶ月』、戯曲『ロボット (R.U.R.)』と二冊まではおもしろく読みすすんだが、楽しみにしていた小説『山椒魚戦争』で行きづまった。

これは著者のせいでも訳者のせいでもない。この翻訳書は世評のたかい版元であり、印刷所だったが、この印刷所の活字書体と組版にはどうしてもなじめなかった。
『山椒魚戦争』は、原著のチェコ語版を含めて、いくつかの言語の版を「みてきていた」。みるだけでおもしろく、楽しい書物だった。それだけに残念で、月曜深夜というより、火曜朝までなんとか読もうとねばったがとうとうあきらめた、
「よむため」に、別の版元からでている翻訳書を購入することにした。
出版人として、タイポグラファとして、まだやることがあるとおもって朝をむかえた。

【字学】 『株式会社秀英舎 創業五十年誌』より 秀英舎は佐久間貞一・大内青巒・宏仏海・保田久成らにはじまり、こんにちの大日本印刷につらなった

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創業50年誌 創立者『 株式会社秀英舎 創業五十年誌 』
B五判 上製本 120ページ 基本 : 活字版印刷 図版 : コロタイプ、オフセット平版印刷

[奥付刊記]
昭和二年三月十五日 印刷
昭和二年三月二十日 発行         非売品
発行者  株式会社 秀 英 舎
       右代表  杉山 義雄
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
印刷者  佐久間衡治
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
印刷所  株式会社 秀 英 舎
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
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由来

 

       社名及商標ノ由来

吾カ秀英舎ノ名称ハ幕末ノ偉人勝安房伯ノ命名セル所ニシ

テ創業当時伯ハ舎長佐久間貞一ニ対シ将来英国ノ右ニ秀ツ

ル意気ヲ以テ事業ノ発展ヲ期セヨト激励シ毫ヲ揮ヒ秀英舎

ノ三文字ヲ題シテ与ヘラレタルニ由来シ其ノ商標ノ 生 字ハ

秀英ノ反切ニシテ創業発起人安田久成ノ起案ニ係ル所ナリ

【 意読 一部を常用漢字にした p.4 】  基本組版 10pt. 明朝体 26字 字間四分
秀英舎の社名および商標の由来
わが秀英舎の名称は、幕末の偉人 勝 安房伯爵(かつ-やすよし 海舟とも 1823-99)が命名したものです。創業にあたって勝伯爵は、舎長の佐久間貞一(1848-98)に対して、当時強勢を誇っていた英国より将来は上位になり、さらに秀でた存在になるとの意気をもって事業の発展を期すように激励し、筆を揮って「秀英舎」の三文字を題して与えられたのに由来します。
秀英舎の商標「生」の字は、「秀英」の 反切 で、創業発起人の保田久成(佐久間貞一の義兄 1836-1904)の起案にかかれるところです。

[ 付記  反切 ハンセツ について ]
わが国で漢和辞書が本格登場したのは明治後期であり、それまでは漢字音を示すのにほかの漢字を借りてする法があり、それを「反切」と呼んだ。
ここでは「秀」の字の声(頭の子音)と、「英」の字の韻を組み合わせた発音が「生」の字となるとしている。ところが現代中国音では「秀」はxiu 、「英」はying 、「生」はsheng であるから、かならずしも当てはまらないことになる。
したがって現代では「反切」はほとんどもちいられず、やや「死語」と化しているともいえる。詳しくはリンク先でご覧いただきたい。
一部に「反切」を「半紙」と読みかえた紹介をみるが、疑問がのこる。

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口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」

創立者

       沿  革  略  誌

明治九年十月九日佐久間貞一大内青巒宏佛海保田久成ノ四名金壹千円ヲ共同出資シテ高橋活版所ノ事業及設備ヲ買収シ今ノ京橋区当時ノ東京府第一大区八小区弥左衛門町十三番地ニ活版印刷ノ業ヲ創ム是即チ株式会社秀英舎ノ濫觴ナリ当時社名ヲ単ニ秀英舎ト称シ四六判八頁掛手引印刷機半紙倍判掛手引印刷機械及半紙判掛手引印刷機械各一台竝ニ四号五号ノ活字若干ノ設備ヲ有スルノミニシテ従業員亦二十余名ノ少数ニ過キサリキ

【 意読 一部を常用漢字にした 口絵 p. 1 】  基本組版 14pt. 明朝体 34字 字間四分
沿  革  略  誌
明治09(1876)年10月09日、佐久間貞一(口絵上右 さくまーていいち 元幕臣・彰義隊隊士、初代舎長・社長 1848-98)、大内青巒(口絵上左 おおうち-せいらん 1845-1918)、 宏 仏海(口絵下右 ひろし-ぶっかい 曹洞宗僧侶 『明教新誌』社主兼印刷人 1838-1901)、保田久成(口絵下左 やすだーひさなり 元幕臣・学問所教授 佐久間貞一夫人 て津 の実兄 秀英舎第二代社長 1836-1904)の四名が発起人となり、金壹千円を共同出資(おもに保田久成が資金提供)して、東京府第一大区八小区山城町(いまの泰明小学校のあたり)の高橋活版所の事業および設備を買収し、それをもっていまの京橋区西紺屋町角(数寄屋河岸御門外弥左衛門町)、当時の東京府第一大区八小区弥左衛門町十三番地(現東京都中央区の晴海通りに面し、数寄屋橋交番の前にあたる)に活版印刷の業をはじめた。これがすなわち株式会社秀英舎、現大日本印刷株式会社のおこりとなった。
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創立当時の社名は単に秀英舎と称し、そのトップを舎長と呼んでいたが、明治27(1894)年01月15日から株式組織となり、初代社長に佐久間貞一が就き、明治31(1898)年11月28日第二代社長に保田久成が就任して、こんにちにいたる基盤を構築した。

創立当時の設備は高橋活版所から譲渡を受けたもので、四六判八頁掛手引き印刷機(おおむねB三判)、半紙倍判掛手引き印刷機(おおむねA三判)、半紙判掛手引印刷機(おおむねA四判)印刷機がそれぞれ一台ずつと、四号、五号サイズの活字が若干あるのみであった。また従業員も20余名の少人数であった。

{新宿餘談}
平野富二の事績調査にあたっていた際、わが国近代産業の開発者にして、現 IHI につらなる巨大企業の創始者:平野富二と同様に、秀英舎創業者:佐久間貞一らに関する公開資料もきわめて少ないことにおどろかされた。

佐久間01佐久間貞一肖像写真
『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 明治43年12月15日)

佐久間02佐久間貞一肖像画 木口木版 生巧館 : 合田 清(1862-1938)
『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 明治37年11月3日)

やつがれは『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷株式会社  発売 : トランスアート 2004年12月12日)を著し、上掲のことどものあらかたをしるしたつもりだった。
爾来10年余が経過し、二次循環でも『秀英体研究』が入手難だとも聞くこのごろである。
BsyueiPH2[1]さりながら依然として、東京築地活版製造所の創立者にして、現 IHI につらなる巨大企業の創立者 : 平野富二と同様に、秀英舎創業者 : 佐久間貞一に関する公開資料がきわめて少ない現状がある。これがしてここに再びデーターを開いた次第である。

『株式会社秀英舎 創業五十年誌』の本文用紙はきわめて上等な、いくぶん厚手で生成りの非塗工紙であるが、筆者旧蔵書は、口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」に関しては、どういうわけかひどく「アカヤケ・紙ヤケ」して、劣化がめだっていた。
たまたま古書カタログで「極美麗書」とされた『株式会社秀英舎 創業五十年誌』が紹介されていたので、重複を承知で購入した。

新『株式会社秀英舎 創業五十年誌』は某団体への寄贈書で、収蔵印はあったが、ほとんどたれも手にしたことがないとおもわれるほどの「極美麗書」であった。
案の定というか、「アカヤケ・紙ヤケ」がめだった、口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」のページの前に、「いわゆるウス、グラシン紙」がそのまま挿入されており、おそらくそれが酸性紙であって、対抗ページの本文用紙の劣化を招いたとおもわれた。
すなわち劣化の原因は判明したが、残念ながら良い状態での紹介はできなかった。

佐久間貞一は真言宗円明山西蔵院(台東区根岸3-12-38)にねむる。
ここには佐久間家歴代の墓、そして焼夷弾の焼損によるとおもわれる損傷がいたいたしい、秀英舎の創業者/佐久間貞一の墓があり、境内には榎本武揚による巨大な顕彰碑がある。
黄泉にあそぶひととなった偉人は、塋域がもっとも雄弁にその人物像をかたりかけてくることがある。
dc66f84aa4d9497c09d1fe6d07666210[1]また、幕末の敗者となった、彰義隊士や新撰組隊士を、官許をえてまつることで知られる、曹洞宗補陀山円通寺 (荒川区南千住1-59-11)には、『佐久間貞一君記念之松』碑(明治33年5月13日建立)がひと知られずにある。松はいまはみられない。

佐久間貞一は彰義隊士ではあったが、水戸に蟄居した徳川慶喜に同行したために上野戦争には参加しなかったとされる。
それでもいっときは追補される身となり、その後企業人として成功した。しかし没年の二年ほど前に彰義隊士の寺院に記念植樹を寄進したこころ根には熱いものがあったとおもえる。
 しばらく 佐久間貞一にこだわってみたいゆえんである。

【字学】 秀英舎(現 大日本印刷)初代舎長・社長/佐久間貞一遺墨 『送 太田温郷之帰省』、『法の序』 をみる

Print極めつけの悪筆ゆえ「書は以て姓名を記するに足るのみ」といっている。もちろん負け惜しみの減らず口である。
ところが「書は体を表す」ともいう。
たしかに肉筆からは、
それをしるしたひとの人柄を、ある程度推しはかることができる。

佐久間02佐久間貞一肖像画 木口木版 生巧館 : 合田 清(1862-1938)
『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 明治37年11月3日)

秀英舎の創業者 : 佐久間貞一(1848-98)の遺墨とされるものは少ない。
わずかに見るのは、その七回忌に際して発行された『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 印刷所・秀英舎 明治三七年一一月三日)の口絵である。
しかしながら石版印刷によるとみられる複写図版は、あまりに不鮮明で解読に難航して紹介をえなかった。

佐久間01佐久間貞一肖像写真
『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 明治43年12月15日) 

もうひとつは一三回忌に際して発行された『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 印刷所・秀英舎第一工場 明治四二年一二月一五日)の口絵にみる、佐久間貞一の遺墨二点である。こちらを紹介させていただく。

そのひとつは静岡で読まれた七言絶句である。韻を踏んでまことに堂々としたものである。
静岡時代の佐久間貞一は、戊申の役に際し、彰義隊隊士として敗北を喫し、追捕の身となって流浪を重ねていた時代のことであった。
佐久間貞一、ときに数えて二一歳、血気と侠気盛んな青春のときでもあった。

佐久間貞一筆書01この書をみると、まさに痩勁である。裂帛の気合いのこもった、まさに痩勁な書である。
友人(詳細不詳)「太田温郷」との別れに際してのこしたものであろう。詩もほれぼれするほど良い。
その読み下しを古谷昌二氏の助力をえて試みた。もとよりこの分野は専門ではない。識者の叱正を待ちたい。

送 太田温郷之帰省
杜鵤啼度客樓遣  祝席傷心首夏天
男子常慙児女態  如今臨別転凄然
    静岡
貞一   再拝

ほととぎす啼きて客楼にわたらしむ
祝席にあって傷心、夏のはじめの天

男子はつねに慙ハジる 児女の態タイ
別れに臨みて淒然とすること今の如し

もうひとつは、宿痾の病としていた肺結核が進行し、死期を悟ったときのもの、あるいは辞世の句とも読める悲壮なものである。
弱〻しい筆で入って、それでも気力を振り絞ってしるしたような、これまた痩勁な書である。おそらく宿願であった「工場法」の制定をみないままに果てる無念さをうたったものか。

佐久間貞一筆書02
ありし日に 逢見し老いの おはりにと
法の 序 の かなしかりける

「対づ  ついづ」とは(順序よく)定めるの意である。つまり労働者にあたたかい視線をむけていた佐久間貞一の宿願であった「労働法」の成立をみなかった無念をあらわす。
佐久間貞一がのこしたこのふたつの書に、筆者は秀英体活字書風の遠い源流をみる。

BsyueiPH2[1]【 参考 : 『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷株式会社  発売 : トランスアート 2004年12月12日) 9-1 佐久間貞一の墨書の源流  p.652-660 】

【字学】 本木昌造関係家系図、そのおいたち、その肖像・銅像

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本木昌造02◎ 本木昌造の肖像写真
この写真は長崎諏訪神社につたわった写真である。これと同一原板によるとみられる写真が、『贈従五位本木昌造先生略傳』(東京築地活版製造所)にも掲載されているが、これには裏面を写した写真も紹介されている。裏面には「内田九一製」と印字されている。

◎ 本木昌造の上京中の肖像写真
本木昌造(1824-75)は、東京に滞在中に内田九一ウチダ-クイチ写真館で記念写真を撮影したらしく、その肖像写真が長崎諏訪神社にのこされている。
この写真には撮影年月日が記されていないが、本木昌造の容貌は、目が落ち窪み、頬がこけて、病み上がりの状態であるように見られる。時期としては最晩年の明治七年(一八七四)に上京したときの可能性が高い。
 
◎ 長崎にうまれ東京で活躍した写真士 : 内田九一
内田九一(1844-75)は、弘化元年(一八四四)長崎に生まれ、松本良順等から湿板写真の手ほどきを受け、上野彦馬に師事した。
最初に大阪で開業し、次いで横浜馬車道に移り、明治二年(一八六九)東京浅草瓦町に洋式写場を開いた。

明治五年(一八七二)と同六年(一八七三)には明治天皇と昭憲皇太后の写真を撮影している。その後、築地にも分店を設けていることから、この本木昌造の写真は築地の写場で撮った可能性もある。内田九一は明治八年(一八七五)に没した。

【本木昌造関係家系図】

参考資料 : 長崎諏訪神社蔵『本木氏系図』
「櫻痴、メディア勃興の記録者」『ヴィネット00』(片塩二朗 朗文堂)
『文明開化は長崎から 上』(広瀬 隆 集英社)
本木家系図

【本木昌造の生い立ち】

本木昌造は、文政七年(一八二四)六月五日、長崎会所請払役 ナガサキカイショ-ウケバライヤク : 馬田又次右衛門 バダ-マタジエモン の二男として、長崎新新石灰町 シン-シックイ-マチ (現在の油屋町アブラヤ-マチ)にうまれた。幼名は作之助、成人して元吉モトキチと改めた。

その後、長崎新大工町((現在の長崎市新大工町)乙名 オトナ : 北島三弥太 キタジマ-ミヤタ の仮養子となり、ついで阿蘭陀 オランダ 通詞 : 本木昌左衛門久美の婿養子となった。
仮親の北島三弥太は、馬田又右衛門の実兄で、本木昌左衛門久美の従姉 繁 を妻にしていた。繁は、一説では久美の祖父本木栄之進良永の長男の娘で、幼くして父を失い、叔母(良永の長女)に養なわれていたとされる。元吉が本木家に養子に入るに当たって、本木家の長男の家系に属する 繁 を元吉の仮親とし、本木家と縁続きであることとしたと見られる。

なお、久美の父 : 本木庄左衛門正栄は、本木家と血脈のつながる 法橋 ホッキョウ 西 松経 ニシ-ショウケイ の三男で、本木栄之進良永の長女を娶って本木家を嗣いだが、早く妻を亡くして、長崎宿老 シュクロウ 徳見尚芳の娘 綾 を迎え、その長男光芳は徳見家を嗣ぎ、二男昌左衛門久美が本木家を嗣いだ。
久美も早く妻を亡くして 萬屋 ヨロズヤ 浅右衛門の娘 たま を後妻とし、その間に生れた娘 縫 を娶わせるために元吉(昌造)を迎えた。〈「蘭皐本木君墓碑」、「蘭汀本木君墓表」、「阿蘭陀通詞由緒書」など。一部推測による〉
 
昌造は、本木家に入って養父昌左衛門の「昌」の字を貰って改名したもので、諱 イミナ は永久 ナガヒサ、雅号は梧窓 ゴソウ 、堂号は點林 テンリン、戯号は 笑三、咲三と多くの名を持っているが、戸籍名は昌三に改めている。
明治五年(一八七二)、戸籍編成の際に作成されたと見られる資料には、
「 平民
    実父元長崎会所吟味役馬田又次右エ門亡二男
    本木昌三
  壬申四十九歳 」
とあり、さらに続けて、父は隠居した本木昌栄、母は たま と記録されている。
父は隠居後に昌左衛門久美を改めて昌栄としたことが分かる。
この記録においては、実父馬田又次右衛門(故人)は元長崎会所吟味役と記録されているが、請払役の後に、より高位の吟味役になったと考えられる。

また本木昌造の異母弟には、松田雅典 マツダ-マサノリ (八歳下、国産缶詰製造の始祖)、伊藤祐吉、長川東明(大蔵省出仕)、柴田昌吉 シバタ-ショウキチ (一七歳下、外務省権大書記官、岩倉全権大使に随行、『英語字彙』を編纂)がいる。
 
本木昌造の祖父にあたる 本木栄之進良永は、平野富二の生家、矢次 ヤツグ 家五代目 矢次関次と一緒に仕事をすることが多く、本木家と矢次家とは、少なくともその頃から付き合いがあったことが分かる。
DSC00889 14-4-49348 ◎ 本木昌造の銅像
この銅像は長崎公園に設置されている本木昌造の銅像である。戦時中に金属供出された坐像にかわって、昭和二九年(一九五四)九月に立像として再建された。 

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朗文堂愛着版 『本木昌造伝』
島屋政一著  朗文堂刊
A5判 480ページ 上製本 スリップケース入れ 輸送函つき
口絵カラー写真20点、本文モノクロ写真172点、図版196点

残部僅少。ご希望の方は直接朗文堂ヘお申し込みください。
直販のみで書店では取り扱っておりません[詳細:朗文堂ブックコスミイク]。

[本項には古谷昌二氏、春田ゆかり氏から情報を提供していただいた]

【字学 活字と機械論攷シリーズⅡ】 長崎川柳吟社 素平連 SUPEREN 「故本木昌造翁の功績を追懐して 贈位報告祭に活句をよみて奉る」

統合長崎諏訪神社所蔵
「本木昌造関係文書集」より

故本木昌造翁の功績を追懐して
贈位奉告祭に活句をよみて奉る
長崎素平連
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點林の枯骨   贈位の花か咲き       紫泉
本木にて朽ちぬは   文字の元祖也    鈍々
文学の修業場   巌流坂に建て       藤覚
鋳上けた活字   銅像と成て立ち      應来
贈位の御沙汰   文明の日の本木     躬之
ステロ版本木の  末に流れ出て      豊舟
本木から枝葉   繁る新聞紙        竹仙
発明の活字を  積て位山           我天
名の如く永久  朽ちぬ君か功        和薩
摩滅せぬ偉勲  活字の発明者       東籬
活字版桜木    よりも世に薫り       東来

統合

「川柳吟社 素平連 スペレン 」は明治期長崎にあった川柳・狂句の会で、虎與號トラヨゴウ・安中ヤスナカ書店/安中半三郎(号:東来トウライ 嘉永六年十一月二十九日[西暦1853年12月29日]-1921年4月19日 行年69)が主宰した{花筏}。

もともと「川柳吟社素平連」は知るところがすくなかったが、故阿津坂 實氏の紹介をえて、わずかにこれらの句を『活字をつくる ヴィネット04』(片塩二朗・河野三男 2002年06月06日 朗文堂 p.207)でも紹介した。
ようやく長崎でも「ふうけもん 安中半三郎」が注目されるようになり、今般長崎で一次複写資料を入手したので、ここに古谷昌二氏の釈読で紹介した。
しかしながら、依然としてこれらの句をのこした「川柳吟社素平連」の会員名は「安中半三郎=東来」以外の詳細は不明である。

冒頭に、「故本木昌造翁の功績を追懐して 贈位奉告祭に活句をよみて奉る」とあるのは、明治45年(1912)2月26日に本木昌造に従五位を追贈する旨が通達された。
東京築地活版製造所では同年5月25日「本木昌造翁贈位祭典」が星野 錫、野村宗十郎、松田精一、三間ミツマ隆次を発起人として「上野精養軒」で盛大な祝賀会が催されている。
おそらく地元長崎でもこのような祝賀会が催され、「川柳吟社素平連」も句を寄せたものであろう(『本木昌造伝』島谷政一 朗文堂 p.218-228)。