この地はもと外浦町と呼ばれた
元亀二年(一五七一年)大村純忠の町割りに
より開かれた長崎最古の町である。
爾来糸割符会所、長崎奉行所等が
置かれ長崎で最も枢要の地として栄
えた。また幕末には海軍伝習所や医
学伝習所が設けられわが国文明開化
胎動の地ともなった。
昭和三十八年(一九六三年)町制変更によ
り万才町(現在地)、江戸町となり四百
年に及ぶその歴史を閉じた。
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[古谷昌二]
この碑文は、万才町の一画に設置されていた石碑の表面に刻まれた碑文を、朗文堂写真から判読したものである。
昭和三八年五月に町界町名変更があったが、それ以前にも、旧島原町が万才町に、町名の無かった出島が出島町になり、明治以前の古地図とは若干の相違が見られる。
この写真が撮影された2010年のころ、「旧 外浦町由来」碑は、長崎県庁前の「農林中央金庫長崎支店」(長崎市万才町5-26)の玄関脇に設置されていたという。
しかし平成25(2013)年5月7日に「農林中央金庫長崎支店」は長崎市出島町1-20に移転しており、現在この写真のビルは取り壊されて工事中(2016年6月30日閲覧)となっている。
したがってこの碑の所在はいまのところ不明である。
{新宿餘談}
この「旧 外浦町由来」碑の写真は2010年晩夏に撮影したものである。
同行したのは故 阿津坂 實 翁、元長崎県印刷工業組合事務局長/岩永充氏、それに大石とやつがれだった。
阿津坂翁の「活版さるく」は、いつも出島にある長崎県印刷会館からはじまり、「唐通詞会所跡」碑、「活版伝習所跡」碑(元興善小学校・新興善小学校。現 長崎市立図書館 脇 長崎市興善町1-1)から「活版さるく」をはじめるのを常とした。
ついで「本木昌造宅跡」「医学伝習所跡」碑(旧地名:外浦町5のあたり。万才町5、元グランドホテルの前に設置されていたが、のちに同ホテル内ロビーの一隅に移設された。現在はマンション工事中のため碑文の所在は不明)をまわるのが定番のコースだった。
2016年06月{崎陽探訪 活版さるく}では、「本木昌造宅跡」「医学伝習所跡」碑(旧地名:外浦町5のあたり。万才町5、元グランドホテルの前)も訪問した。ホテルは取り壊され、マンションの工事中であり、碑文は見あたらなかった。
そこから大通りの反対側、厳流坂の「新町活版所跡」碑(元長州萩藩蔵屋敷。長崎県市町村職員共済会館 長崎市興善町6)と、道をはさんで向かいあう「新塾活版製造所、長崎活版製造所跡」(元小倉藩蔵屋敷)を案内されるのを常とされていた。
これらの碑の建立に際しては、阿津坂翁が多大な尽力をなしていたことは紹介した。
「新町活版所」に関しては諸文献でも触れているので、ここでは「新塾活版製造所、長崎活版製造所跡」に関して『平野富二伝』(古谷昌二)から紹介しよう。
小倉藩蔵屋敷は明治維新後に小倉藩が退去し、その屋敷の一部を買収して本木昌造の経営する「新塾活版製造所」が設けられた。平野富二は後にこの活版製造所の経営を任せられることになる。
なお、活版所と活版製造所は明治28年(1895)9月に解散するまで存続した。
この場所は現在では興善町5番の区画に相当し、丸善ハイネスコーポと食糧庁長崎事務所が建てられている。
脚が弱られた阿津坂翁のために、このときの移動はもっぱらタクシーだった。
1997年に閉鎖された「新興善小学校」は、2008年にあらたに開設された「長崎市立図書館」にすっかり変わっていた。当然ふたつの碑文の位置もいくぶんかわっていた。
どこのまちでもありがちなことではあるが、本木昌造宅が外浦町5のあたりにあったことが確実視され、また生家の矢次家をでて独立し、別家平野家をたてたころの平野富二郎(平野富二)も居住していた「外浦町」のよみは、旧来「ほかうらまち」とされてきた。
この[明治4年・1871の暮れから戸籍届出の翌年2月までのあいだ]年、平野富次郎の身辺に大きな異動があった。年が明けて間もなく、長崎在住の安田こまと結婚し、それまで兄矢次重平の厄介として居住していた引地町ヒキジマチ50番地の生家を出て、外浦町ホカウラマチ94番地に家を求めて転居した。
また、この年はわが国で最初の戸籍編成の年に当り、その人別調べに幼名の富次郎を富二に改名して平野富二として届け出た。
『平野富二伝』(古谷昌二)
ところが近年、一部の長崎関連文書のなかで「外浦町 そとうらちょう」とする向きがみられたので、故阿津坂 實(1915-2015 行年99)氏にそのことを質したことがあった。
「本木昌造先生の旧宅と、平野富二さんの旧宅があった「ほかうらまち」が「そとうらちょう」になってしまったいるわけかな。それは困ったな…… 。
それなら県庁前に『旧 外浦町由来』の碑があるからそこに戻ってみよう。たしか『ほかうらまち』の振り仮名があったはずだ」
というわけで、急遽タクシーはUターンして、「旧 外浦町由来」碑をみるべく、長崎県庁前の「農林中央金庫長崎支店」(長崎市万才町5-26)の前に戻った。
「旧 外浦町由来」碑はつよい赤味を帯びた自然石に陰刻され、この建物の玄関脇に設置されていた。
大通りに停車していたタクシーを待たせないように慌てていたことにくわえ、この碑文の重要性を当時はさほど重視していなかったので、石碑背面の写真を撮影することを忘れていた。したがってこのビルが取り壊されている現在、「旧 外浦町由来」碑の建造者・建造年月日などの資料が背面にある可能性をのこすことになってしまった。
それでもこの「旧 外浦町由来」碑には、主題語「旧 外浦町由来」に振り仮名が刻されていたことによって、「ほかうらまち」のよみが確定した。また四百年の歴史を有した「外浦町 ほかうらまち」は、1963年(昭和38)の町制変更によって万才町マンザイマチ、江戸町エドマチとに分割されて、その歴史を閉じたことがわかった。
ただしまことに残念ながら、この「旧 外浦町由来」碑の所在はいまのところ判明しない。
そこからふたたびいつものように、大通りの反対側、厳流坂の「新町活版所跡」碑(元長州萩藩蔵屋敷。長崎県市町村職員共済会館 長崎市興善町6)と、道をはさんで向かいあう「長崎活版製造所跡」(元小倉藩蔵屋敷 長崎市興善町5)をたずねた。
「新町活版所跡碑」は改修され、向かって左側に活字を模したモニュメントが設けられていたが、それまで並立していた「詩儒 吉村迂齋遺跡」碑はすこし移動して、ビル正面側に設けられていた。
このあたりで阿津坂翁に疲労がみられたので、長崎駅前大黒町の自宅兼店舗「飛龍園」に車をまわした。
《長崎市の地名 ウィキペディア》
◎ 江戸町(えどまち)
1963(昭和38)年、江戸町、玉江町3丁目、外浦町の南半、築町の一部より発足。10街区。長崎県庁があり、町の半分近くを県庁が占める。
その他、東部に江戸町商店街があるなど、商店が多い。中央橋バス停・交差点があり、交通の要所である。
◎ 万才町(まんざいまち)
1963(昭和38)年、平戸町、大村町、万才町、本博多町、外浦町の北半より発足。8街区。
国道34号が縦貫する長崎市屈指のオフィス街で、長崎地方裁判所、長崎地方検察庁、長崎家庭裁判所、長崎県警察本部などの官公庁もある。
[付 記] 『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(長崎文献社)
現在の町名である万才(まんざい)町は、明治5年(1872)に明治天皇が長崎を行幸した折の萬歳(万歳)に由来しており、西道仙がその改名を提案したとされている。
当時、萬歳は呉音の「マンザイ」や漢音の「バンセイ」などと発声されていた。
「バンザイ」と発音されるようになったのは大日本帝国憲法発布の日の明治22年(1889)で、「マ」では腹に力が入らないという理由から、漢音と呉音の混用を厭わず「バンザイ」となったとされる。
◎ 興善町(こうぜんまち)
1963(昭和38)年、本興善町、新町、興善町の南半、豊後町の西半、引地町の西半、堀町の南半より発足。6街区。国道34号線が縦貫する長崎市屈指のオフィス街で、長崎市消防局、長崎市立図書館もある。
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活版印刷礼讃<Viva la 活版 ばってん 長崎>では、{崎陽長崎探訪・活版さるく}として、長崎を訪問した全国各地からの参加者、地元勢あわせて60名余でこれらの地を訪問した。
たくさんの新発見があったが、同時に、阿津坂 實翁は卒し、2010年の資料とくらべても、おおくの施設や碑文が移転していることがわかる。
創立10周年企画として<Viva la 活版 ばってん 長崎>に特別参加されたタイポグラフィ学会の皆さんとともに、さらなる資料整理が進行しているいまである。