カテゴリー別アーカイブ: 字学

【北京空港のサインからⅠ】 チェックインカウンター表示 A,B,C,D,E,F,H,J,K,L あれっ! G, I はどこに ?

DSCN8499 DSCN85055月29日-6月3日にかけて北京清華大学美術学院の招聘にこたえてでかけた。
ことしから中國も喫煙にきびしくなって、吸烟区(喫煙所)以外、「屋根のある建物の下では喫煙禁止」となっている。
当然レストランやカフェも禁煙で、さらにいくぶん寛容な「分煙制 喫煙席」などは皆無なので愛煙者にはつらい。それでも街角のゴミ箱の上に灰皿があるので、途中退席・外出して一服となる。

写真は北京空港での「最後の一服」。フランス、ベルギーでのテロ事件以降、北京空港の保安チェックは厳格をきわめ、混雑のせいもあって、チェックイン、パスポートチェック、保安検査と、搭乗手続きに二時間では到底足りないほどのきびしさとなっている。
したがってここでの喫煙は暫時の妄想にふける貴重ないっときである。機内持ち込みは軽便ラーター、燐寸のたぐいはまったく禁止・厳禁であるから、「吸烟区」の付近には軽便ライターが大量に放置されている。

一服の途中で背後のカウンター案内の掲示板を見るともなくみていた。三月の下旬にもおなじ中華航空で訪中していたので、北京空港のチェックインカンターに「G」が無いことは知っていた。このことを帰国後に知人とはなしたことがあった。
「歳をとったのと、若干糖尿のケがあるので視力がおちたのか、駅や空港の案内板(サイン)で、 G と C を間違えたことがある。とくにゴシック(サンセリフ)だとわかりにくい」
別の友人はこうかたった。

「遠くからだと、大文字の B と、アラビア数字の 8 の見分けがつかないときがある。O と Q もよく間違える」

そんなことを想起しながら掲示板を A から順番に ボ~とみていたら、
「あれっ! H のあとの I アイ も無いぞ !! 」
たしかに巨大な北京空港のチェックインカウンターには、「G 列」も「I 列」もなかった。
DSCN8507 DSCN8505【 参考 : 朗文堂 タイポグラフィ 実践用語集 カ 行 活字書体の判断における三原則 より 】

活字書体の判断における三原則
レジビリティ、リーダビリティ、インデユーシビティ:
legibility, readability and inducibility


これらのタイポグラフィ専門用語の外来語は耳慣れないことばかもしれません。本来は活字版印刷の業界用語でしたから、一部の英和辞典や和英辞典には掲載されていないものもありますし、紹介があっても混乱しがちです。
したがって、その翻訳語としての紹介(日本語)は混乱の極致にあります。
その結果わが国における活字書体の差異判別や特徴をかたることばも混乱しがちです。
しかし活字書体の評価や判断にあたってはたいせつなことばです。タイポグラファなら、ぜひとも記憶していただきたいたいせつなことばです。

◎ 判別性   Legibility    レジビリティ
   活字書体におけるほかの文字との差異判別や、認識の程度。

◎ 可読性   Readability   リーダビリティ
   文章として組まれたときの語や、文章としての活字書体の読みやすさの程度。

◎ 誘目性   Inducibility   インデューシビリティ
   視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度。

《 判別性 Legibility 》    可読性 Readability と 誘目性 Inducibility はリンク先で

判別性は、大文字の B 8 に見えたりするときや、大文字の I アイ、小文字の l エル、アラビア数字の 1 が混同したり、ローマ大文字 O オーとアラビア数字の 0 ゼロ が明確に判別できないときにもちいられます。
わが国では、漢字の網と綱の差異判別や、カタ仮名のロと漢字の口が混同しないように製作したり、議論するときにもちいます。
Legibility の和訳語はなかなか定着せず、従来は可視性・視認性・識別性などともされてきました。

Legibility は形容詞 legible から派生した名詞で、文字が読みやすいこと、読みやすさ、判別や識別の程度、判別性・識別性などをあらわします。活字版印刷術が創始されてから、すなわち 1679 年にその初出がみられます。
形容詞の legible は筆跡や印刷された文字が看取される、識別可能なという意味です。そのほかにも、容易に読める、読みやすいという意味で、後者の比較語(confer)としては readable があげられます。

[この項つづく]

北京清華大学美術学院からの招聘で昨週いっぱい特別講義。無事に帰国いたしました

DSCN8230DSCN8234DSCN8173ここしばらく中國(中国)とのやりとりや往復がふえている。
2016年三月下旬に 方正字庫 (FOUNDER 方正 北京大学全額出資のIT企業)と、中國美術大学の最高峰のひとつとされる 中央美術学院 の招聘で一週間の北京滞在となった。
前半の3日間は、北京大学キャンパス内、方正字庫の主催で<字体大赛 ≒ 書体大会>の国際審査員としての参加。

後半の1日は、天安門の間近にある巨大な 中國國家大劇院 に会場を移し、前日までの<字体大赛の審査結果>が、信じがたいほどのはやさながら、発表され、展示され、受賞者の表彰式があり、審査員講演がなされと、なんともあわただしく、おおがかりなイベントが続いた。
講演の一番手はやつがれ。いい訳はしたくないが諸諸あって講演は失敗だったとおもう。

最終日は大石が担当。中央美術学院の大ホールで<小型活版印刷機による印刷演習>。
ここでも 字体大赛 の審査員四名の講演もあったが、最終講演となった大石担当分は、おおきな会場に、あまりにちんまりとした小型活版印刷機での講演とエクササイズであった。
この日の大石は五時間余におよぶ講演会の最終担当とあって、企業人はさすがに退席が目立ったが、学生諸君は、もっともわかりやすく、関心があったようで過熱気味であった。

なにしろ中國は国家体勢がいくぶん異なるので、北京大学(北大と略称)、中央美術学院、方正字庫との関連性や、書体コンクールの意味性が判然としなかった。
もちろん会場の知人にこの関連性を質問したが、「これが中國です」とかわされてしまった。
また一週間というもの、連日連夜の懇親会(大宴会)がつづき、下戸のやつがれにはかなりこたえた。
この三月下旬の喧噪にみちた訪中報告は、気持ちと情報の整理がつかないまま、いまなお実現していない。
──────────
五月上旬は<Viva la 活版 ばってん 長崎>で長崎に全力投球であった。
そして五月下旬、清華大学美術学院の招聘で、また北京行きとなった。
もともと、この
の招聘は本コーナーでもお馴染みの、清華大学美術学院視覚伝達系の原 博(Yuan Bo)助教授のお招きで、昨年の暮れにはスケジュールが決定していた。
したがって北京大学系のイベントへの突然の招聘は、多分に清華大学行きを聞きつけての決定ともおもわれた。

ともあれ北京大学系のときは、連日連夜の宴会でとても疲労した。
ところが清華大学は原博先生はもちろん、主任教授の趙 健教授とも親しかったので、意志の疎通はスムーズで、夜は到着初日の歓迎会以外はほおっておいてくれるので助かった。

月・火・水と講義がつづいた。どこで聞きつけるのか知らないが、学内正規授業に位置づけられているのに、清華大学の学生だけでなく、中央美術学院、印刷大学ほかの大学の教授、学生、IT 系企業人も講義に参加していた。
三日間とも受講者は50-60名。集合写真を呼びかけ 「日本の WebSite にアップしますよ~」 といったら、女子学生を中心にキャッキャと逃げていった。いずこもおなじ学生諸君であった。 DSCN8089ホテルは同大内・指定の「甲所」。ここは広大なキャンパスの中央部に位置し、おもに招聘教師たちが宿泊する森の中の簡素なホテル。
留学生など短期滞在の学生は真向かいにある「丙所」を利用するようだが、カフェ兼レストランは教師陣と学生との共有で「甲所」にあるので、活気と国際色に満ちており、また中國の大学では卒業式を間近にひかえており、にぎやかだった。

わたしたちももっぱらこの「甲所餐庁 甲所レストラン」で朝食をとり、お茶・食事・懇談などをかわした。つまりキャンパスからほとんど出なかったが、ともかく無事終了でひと安心。 DSCN8137 DSCN8118 DSCN8152 DSCN8165 DSCN8056上掲写真の白い彫刻は原 博(Yuan Bo)先生のご主人にして、同校教授の陳 輝(Chen Hui)先生の作品。その後方に美術学院棟が四棟ならんでいる。キャンパス案内では、指定ホテル「甲所」からはここまで徒歩25分だが、やつがれには無限に遠い場所だった。

講義には方正字庫のスタッフも3名ほど参加していた。かれらは朗文堂のWebSiteをみているようで、なぜ報告記事が掲載されないのかとただされた。つまりすごいことだと報告しろと迫られた。ところがやつがれは実感無し。方正字庫のときも、清華大学のときも、いつもと、つまり新宿私塾と同じですから。 DSC04193しばらくしたら、原博先生から当日の写真データーを受領・紹介しますが、それまでのあいだ、下掲の記事は、前回も、今回も、連日参加されていた、中央美術学院の刘 釗(Liu Zhao 上掲写真右端)教授のブログサイトをご紹介。
刘女史は大石の講座を間近にみるのははじめてとあって、活版エクササイズには夢中でとり組まれていたので、その紹介は遅れ気味らしい。
刘女史のおはなしでは、このサイトには一日5,000件以上のヒットがあるそうです。
よろしければご笑覧を。結構笑えますよ。中国までいって恥をかくなよ ト。
================
◯05月29日[日] 羽田発、北京入り。
◯05月30日[月] 北京清華大学美術学院 第一講座
学科長:趙 健先生挨拶、片塩講義大石担当でエクササイズ
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi4u.html
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi6f.html
◯05月31日[火] 北京清華大学美術学院 第二講座
原 博(Yuan Bo)先生挨拶 終日大石担当日 活版演習
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi6m.html
◯06月01日[水] 北京清華大学美術学院 第三講座
原 博(Gen Bo)先生挨拶、 片塩講義、大石担当でエクササイズ
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wil7.htm

長崎報告とあわせ、北京報告もお楽しみに。   朗文堂  片塩二朗  大石 薫

新書体『元朝体 志安』発売/欣喜堂:今田欣一製作、白井敬尚形成事務所:パッケージ平面設計、朗文堂:発売 電子活字シリーズの記録

この<花筏>の図版はスライドショーでもご覧いただけます。

金属活字が、写植活字時代をへて、いつのまにか電子活字(デジタルタイプ、フォント)となってひさしい。電子活字時代になってからもフォーマットの変化はつづいた。ビットマップ、トゥルータイプ、オープンタイプと変化のあゆみはとどまることをしらない。

そしてこれもまたいつのまにか、活字は Type としての物体性を失い、デジタルデータの一種となって、定まったカタチ Type がないまま、流通し、販売され、デジタル機器などによってもちいられる時代となった。ひとはこれを「フォントのダウンロード方式」などと呼ぶ。
和字Revision9

欣喜堂 : 今田欣一製作、白井敬尚形成事務所 : パッケージデザイン、朗文堂 : 発売による電子活字シリーズの最初は、2002年08月発売開始の<和字 Revision 9>であった。
「和字」とはひら仮名とカタ仮名の集合であり、「漢字」の対語である。これは今田氏の提唱による呼称で、これらの記録は『挑戦的和字の復刻』(Vignette 05、今田欣一、2002年7月23日)に詳細にのこされている。
銘石B

いっぽう漢字・和字・欧字を含んだ書体を「総合書体」と呼んでいる。
総合書体<HUMAN Sans Serif  銘石 B>は<和字 Revision 9>の発売から10年余ののち、2012年03月の発売であった。
この間、当初のトゥルータイプからオープンタイプにフォーマット変更があり、ユーザーにむけて「パッケージを提示していただければ新フォーマット版に無償交換」という、大胆な試みができたのも、実体のあるパッケージの存在がおおきかった。

総合書体<HUMAN Sans Serif  銘石 B>の発売から四年余ののち、すなわち2016年05月末、いつものスタッフで、次の書体、「元朝体 志安」が完成し、本格発売がまもなくはじまろうとしている。
そんな「元朝体 志安」のプロジェクトに集中しているいま、あらためて考えると15年ほどの期間、この三者協力態勢がつづいてきたことに驚かされる。その記録の意を含め、ここに<朗文堂・欣喜堂シリーズ>を、順不同ながら、総合書体、和字書体の全15パッケージの紹介をしたい。
また朗文堂では、簡略ながらプリントメディアで『robundo type cosumique』、『robundo book cosmique』を製作している。ご請求いただけたら幸甚である。

《 総合書体 》
元朝体パッケ表1 元朝体ロゴ

銘石B 龍爪パッケ 正調明朝体 正調明朝体B 清朝官刻体

《 和字書体 》
基本 CMYK 和字たおやめ7 和字ますらお9 和字おゝことのは9 和字おゝくれたけ9 和字Tradition9 和字Succession9 和字Ambition9 和字Revision9

【会員投稿】 掃苔会新会員/時盛 淳さん、平野家塋域 単独代参参上の記録

DSC_1010東京谷中霊園中央園路に面して建立されているおおきな石碑が、平野富二の十三回忌に際して、株式会社東京築地活版製造所有志、株式会社東京石川島造船所有志の拠金による「平野富二君之碑」(甲01号01側)である。
篆額の揮毫は榎本武揚、碑文の撰幷書は福地源一郎(福地櫻痴)による。
この項の詳細は古谷昌二『平野富二伝』(p.810 – 18)を参照願いたい。

DSC_1012 DSC_1013 DSC_1014平野家塋域は東京都谷中霊園の東北部、乙11号14側にある。
中央の平野富二の墓石の表面には、吉田晩稼の筆になる「平野富二之墓」が陰刻され、向かって右側面には、法名の「修善院廣徳雪江居士」が刻まれている。
吉田晩稼(1830-1907)は長崎興善町うまれ。陸軍・海軍に奉職したのち辞して書芸をもっぱらとした。大楷書を得意とし、筆力雄勁にして並ぶものなしと評された。また本木昌造とは歌友であり、東京九段の靖国神社の標柱、大阪四天王寺の本木昌造像の台座の書も晩稼による。
──────────
{新塾餘談}
「平野富二墓」は太平洋戦争の際、上野駅周辺に無数に投下された焼夷弾をあびており、焼損が見られるのは残念である。平野家一門には再建の議論もあったが、この墓石は本来浅草雷門再建のために切りだされた房州の小松石をもちいた由緒あるものであり、また吉田晩稼の書の典型例としてやつがれは再建には反対してきた。
それでも近年碑面にも剥落がみられるようになり危惧をいだいている。なにかよい保存法があればご提案いただけたら幸甚である。
DSC_1032

DSC_1036 DSC_1024 DSC_1025平野家塋域はいってすぐ左脇に法名「妙清古登童尼」と陰刻されたちいさな墓標がある。
裏面には「平野富二長女 古登子 享年三歳 明治八年七月七日歿 大正二年三月再建」とある。
明治05-08年という、もっとも平野富二が多忙をきわめた時期にうまれ、そして夭逝した「長女 古登子 琴 コト」の墓である。戸籍が未整備な時代だったため、明治五年の何月のうまれかは記録にない。

塋域右奥には「平野鶴類墓」がある。のちに平野家を継承した平野津類は長女古登の逝去から三ヶ月後の1875年(明治08)09月30日に誕生した。明治12年ころに編成された京橋区戸籍記録には長女:古登の記録はなく、二女津類が「長女」として記録されている。
──────────
平野津類は青森県出身の勇造(旧姓境、のち離別)と結婚して、嫡孫:平野義太郎が1897年(明治30)03月05日に誕生して、平野家第三代を継承した。
平野義太郎は高名な法学者であったが、その妻:嘉智子とともに、塋域右奥にねむる。

DSC_1022 DSC_1023DSC_1045

【 参考資料 : 花筏  平野富二と活字*13 掃苔会の記録 『苔の雫』Ⅰ 平野家関連 】

【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*05 アメリカン・ポイントシステムの規準

《 金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムと、コンピュータ上の DTP ポイントシステムの相違 》
タイポグラフィにおける現今の話題は、コンピューター一色であり、おおかたは、そこにおける DTP ソフトウェアなどへの対応と、デジタル書籍への対処が中心のようである。

デジタル書籍への対処はひとまず措いて、金属活字組版が写真植字法をへて、コンピューター上のデジタルタイプになって、なにが変わったのかをみると、相変わらずヤード・ポンド法の長さの単位、インチ ( Inch ) と パイカ ( Pica ) と ポイントサイズ ( Pointsize ) を基本としており、大きくは金属活字時代のアメリカン・ポイントシステムとはなにも基本的には変わっていないことがわかる。

20150424155225361_0001すなわち DTPポイント とは、金属活字時代の基本尺度の 1 pt ≒  1/72 in ( 0.3514 mm ) から、 およそ( ≒ )が、正確な( = ) になっており、あいまいさが回避された功績はおおきいが、金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムの概念を DTP システムも継承し、組版寸法と計測単位だけをみると、相変わらずインチ、パイカ、ポイントとしており、大差のないものとなっている。

◯ アメリカン ・ ポイントシステム    1 pt  ≒   1/72 in  ( 0.3514 mm )

◯ DTP ポイントシステム            1 pt  =   1/72 in  ( 0.352777……. mm ) 

20150828173130703_0001
大正13年版 『活字と器械』 口絵 (東京築地活版製造所)

──────────
つまり、欧文組版でも、和文組版でも、アメリカン・ポイントシステムを規準としたばあいには、

72 points = 1 inch

であり、以下の公式だけを丸暗記しておけばよいことになる。
こだわりのあるかたで、簡便ながら正確な透明スケールをご希望のかたは、ご来社いただければ頒価500円[税込]で進呈したい。

pika