カテゴリー別アーカイブ: 字学

【寄贈式】 江川活版製造所、江川次之進活字行商の図-武蔵野美術大学美術館・図書館と冨沢ミドリさん

『タイポグラフィ学会誌 07』所収、研究ノート「江川次之進の事績と江川活版製造所の変遷」(タイポグラフィ学会 江川活版製造所研究会/板倉雅宣、内田 明、大石 薫、片塩二朗、松尾篤史 2014年11月30日)の資料となった「江川次之進活字行商の図」が、2015年06月12日、武蔵野美術大学美術館図書館に寄贈され、江川家縁者/冨沢ミドリ氏ほかも列席されて寄贈式が終了いたしました。

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この画軸は江川家・旦丘アサオカ家曽孫/冨沢ミドリ氏が長年にわたってたいせつに所蔵されていたものですが、右手に描かれていた「活字ホルダー」が奇縁となって、一旦朗文堂が保管にあたり、タイポグラフィ学会の資料として提供させていただいたものです。

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【 関連情報 : タイポグラフィ学会 NEWS
 

ここに『タイポグラフィ学会誌 07』所収、研究ノート「江川次之進の事績と江川活版製造所の変遷」(江川活版製造所研究会/板倉雅宣、内田 明、大石 薫、片塩二朗、松尾篤史)も発刊されましたので、所蔵者:冨沢ミドリ氏のご意向をうけ、長期保存に対応していただける寄贈先を探しました。

幸い武蔵野美術大学/新島実教授をつうじて、武蔵野美術大学美術館・図書館への所蔵をひきうけていただき、同館館長/赤塚祐二教授、司書長/本庄美千代様、新島実教授、寺山雄策教授のお立ち会いをいただき、タイポグラフィ学会からは、山本太郎会長、小酒井英一郎理事、大石 薫、片塩二朗が同席いたしまして、無事に寄贈式を終了いたしました。

この間、タイポグラフィ学会、江川活版製造所研究会の皆さまの多大なるご協力をいただきました。箱書きは会員/伊藤 恵さんにお願いいたしました。皆さまのご協力にふかく感謝をいたします。
DSCN9980 DSCN9981 DSCN9983 DSCN9982 DSCN9993 DSCN9990DSCN9976 箱書き表 箱書き裏
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【再掲載】 平野富二と活字*16 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅲ 明治初期の偉人たち-2

『VIVA!! カッパン』活字ホルダー紹介 活字ホルダーをもって立つ冨澤ミドリさん 江川次之進活字行商の図 部分拡大s 江川次之進活字行商の図 全体図s 江川次之進活字行商図 江川次之進肖像写真

《すべてのきっかけは活字ホルダーと、一本のお電話からはじまった》
朗文堂 アダナ・プレス倶楽部のWebsiteでは、数度にわたって〈活字ホルダー〉を取りあげてきた。当初のころは、この簡便な器具の正式名称すらわからなかった。
その後、アメリカ活字鋳造所(ATF)や、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所の、20世紀初頭のふるい活字見本帳に紹介されている〈活字ホルダー〉の図版を紹介し、いまではふたたび、その名称と使用法は広く知られ、新製品も発売されるようになった。

『VIVA!! カッパン♥ 』 (アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月21日 p.64)
〈活字ホルダーの紹介。下部は〈活字狂を自他共にゆるした故志茂太郎の愛蔵品〉

《ご先祖様、江川活版製造所:江川次之進の遺影と肖像画があるのですが…… 》
ある日、アダナ・プレス倶楽部のWebsiteをご覧になった、江川活版製造所の創業者・江川次之進の直系のご子孫だという女性から、お電話をいただいた。
「曾祖父の江川次之進の遺影と、掛け軸になった肖像画があるんですが、右手に持っているものがなんなのかわからなくて。ですからこの絵がどういう情景を描いたものかが分からなかったのですが、これが〈活字ホルダー〉なんですね。おかげで、曾祖父が若い頃に活字の行商をしていたというわが家の伝承がはっきりしました」

この女性は、現在は長野県北安曇郡白馬村でペンションを経営されている。最初にお電話をいただいてから少し時間が経ち、お身内のカメラマンの手による、江川次之進の遺影と肖像画の鮮明なデジタルデータをご送付いただいた。
また掛け軸は江川家側で修復されたものをお預かりした。この貴重な資料は研究レポートの刊行後に、しかるべき施設に寄贈の予定(今般、武蔵野美術大学美術館・図書館に寄贈)となっている。

【タイポグラフィ・ブログロール 花筏 ──── 関連情報】
◎ タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料
◎ タイポグラフィあのねのね*010 江川次之進とアルビオン型印刷機
◎ タイポグラフィ あのねのね*018 活字列見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート02
◎ タイポグラフィ あのねのね*020 活字列見 or 並び線見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート09

《江川活版製造所と江川次之進の研究は一瀉千里で進行した》
その後、江川活版製造所とその創業者:江川次之進の研究は、やはりWebSiteをご覧になったハワイの造形家から、江川活版製造所が製造したアルビオン型手引き印刷機の画像が紹介されるなどして、一瀉千里の勢いで進行した。
その研究成果は、まもなく公表・公刊されると仄聞している。楽しみにまちたいものである。(『タイポグラフィ学会誌 07』所収、研究ノート「江川次之進の事績と江川活版製造所の変遷」 タイポグラフィ学会 江川活版製造所研究会/板倉雅宣、内田 明、大石 薫、片塩二朗、松尾篤史 2014年11月30日)
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この間も苔掃会は、地道に基礎資料の発掘にあたっていた。とりわけ苔掃会肝煎り/松尾篤史氏は、既存の資料にたよらず、谷中霊園周辺の墓地を丁寧な観察をつづけていた。
 ここでは、こうしてあらたに発掘された資料を中心に紹介したい。

谷中霊園とその周辺の寺からは、江川次之進があたらしい活字書体の開発のために、最初に着目した、書家にして教育者:中村正直マサナオが撰ならびに書をのこした碑文があらたに発見された。
また江川活版製造所の特徴ある「隷書活字」の版下をのこした久永其頴ヒサナガキエイと、印刷史研究家:川田久長の墓所もみつかった。
今回は平野富二そのものというより、その周辺にいた人物を中心に紹介したい。

B江川次之進肖像 B人物 B全体原寸サイズ B広告-第九号 B器具-扉 B扉-ホルダー 印刷大観広告  Egawa egawa    Egawa sun Egawa side egawa base VIVA62 B江川広告

《久永其頴 ヒサナガ-キエイ の墓所の発見》
知るところがまことに少ないのが久永其頴 ヒサナガ-キエイ である。
久永其頴は書芸家というより、むしろ実用の書、版下の書を多くのこした。また本名は久永多三郎であり、雅号として久永其頴をもちいていたことが墓地の発見からも明確になったが、墓誌は損耗がはげしく、また剥落が多くて、生没年などの読み取りは困難を極める。

久永其頴には、文字標本というか、著作というのか、『楷書千字文』、『行書千字文』、『帝国作文大全』などの書物がのこされている。そのうち発行部数が多かったとみられる『楷書千字文』はやつがれも所有しているが、本来入手を望んだのは久永其頴『行書千字文』であったこともあり、現在は探し出せないでいる。

幸い現在では〈国立国会図書館デジタルコレクション 久永其頴『行書千字文』〉は、デジタルデータで公開されているので、その特異な書風の一部を知ることができる。
また朗文堂タイプコスミイクでは、久永其頴の個性ある仮名書風をデジタルタイプとして再現した、欣喜堂:今田欣一氏の設計による、『和字 Ambition 9  ひさなが』 の販売もおこなっている。


ひさなが
久永其頴の墓所は、東京都台東区谷中6-2-8 自性院墓地にあることが今回松尾篤史氏によって報告された。自性院は川口松太郎『愛染かつら』ゆかりの寺であり、参拝客も多い。
また久永家の墓地は独特の書風の墓標で、現在も香煙がたえない。
墓誌は損耗が著しくてよみとれないでいるが、いずれご家族から取材ができたら、さまざまな資料が発掘される可能性もありそうである。

DSCN4040 DSCN4044 DSCN4039 DSCN4023 DSCN4029 DSCN4031【 関連情報 : タイポグラフィ学会 NEWS  「タイポグラフィ学会誌07」を刊行 2014.12.16 】
【 関連情報 : タイポグラフィ学会 NEWS  「江川次之進活字行商の図」寄贈式が終了いたしました  2015.07.13 】
【 関連情報 : タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料 2011.04.26 】
【 関連情報 : 花筏 平野富二と活字*16 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅲ 明治初期の偉人たち-2 2014.05.09 】

【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*04 島屋政一『本木昌造伝』における活字ボディサイズの新考証

『本木昌造伝』(島屋政一、朗文堂、2001年08月20日) は、1996(平成08)年07月、名古屋の旧津田三省堂(現ナプス)の筐底にひめられていた、島屋政一による未発表自筆稿本を原稿として刊行された。この時点で島屋政一氏はすでに物故していたとみられ、そのため著者校正を経ておらず、在庫僅少のいまではあるが、一部に正誤表を発表する必要が発生している。

すでに島屋政一『本木昌造伝』をご購入済みのかたは、お手数をかけて恐縮ながら、お申し出をたまわれば、正誤表とともに、板倉雅宣氏のご協力による索引を献呈させていただきたい。
あわせて島屋政一『本木昌造伝』には、わが国の活字ボディサイズと、そのシステムに関し、類書にない貴重な資料が掲載されていることが、いまさらながら判明した。
目下読者の一部と考査中であるが、追試をかさねてみると、きわめて注目すべき論考であり、精度の高い資料であることがあきらかになりつつある。ここにその一部を紹介したい。
20150421193950685_0003島屋政一『本木昌造伝』の序文にあたる「例言」には、このようにある。

筆者はすでに『印刷文明史』を著わし、本木昌造のことをしるしたが、いささか冗長にながれ、またいささかの訛伝の指摘もあった。
さらには畏友にして活字界の雄たりし、青山進行堂活版製造所・青山容三〔督太郎〕氏、森川龍文堂・森川健市氏の両氏から、活字の大小の格〔活字ボディサイズ〕のことのあらたな教授もえた。

この「例言」をうけたとみられる記述が『本木昌造伝』 p.117-120 にみられる。
そこでの島屋政一は、大阪の活字鋳造業者/青山容三〔督太郎〕氏、森川健市氏の両氏から、活字の大小の格〔活字ボディサイズ〕のことのあらたな教授をえて、
<わが国では近代活字版印刷の創始のころから、 号数制金属活字とは本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である >
としたそれまでのさまざまな著作、とりわけ『印刷文明史』での立場を捨てている。
それに代えて島屋政一は、

英国においてはトーマス・ハンサード(Thomas C. Hansard)が1825 年(文政08)に 『Typographia』 (原著:p.387–8) を著し、活字の標準化を提唱して、1 フィートにたいする活字の全角の個数〔本数〕の標準をつぎのように定めていた。
○ 一号  1 ft に32 本        Two-Line English 
○ 二号  1 ft に41 本1/2  Two-Line Small Pica
○ 三号  1 ft に56 本1/4     Two-Line Brevier
○ 四号  1 ft に64 本         English
○  五号  1 ft  に83 本    Small Pica
○ 六号  1 ft に112 本1/2    Brevier

とし、これまで<名前はあるけれど、寸法が無い>とされてきた、わが国の号数制活字の淵源を、「English 系統 一号、四号」、「Small Pica 系統  初号、二号、五号、七号」、「Brevier 系統 三号、六号、八号」であることを解明し、それぞれの活字ボディサイズを解明している。

ただしここで触れられた資料は、英国キャスロン社をはじめ、英国における大手の活字鋳造所において、すでに(1825年当時において)百年ほど、スタンダードとして採用されてきたものであるとされている
ところが「Small Pica 系統 初号、二号、五号、七号」は、こののちに、上海美華書館の技士/ウィリアム・ギャンブルによって、英国由来のものから変更乃至はあらたに追加され、米国 MSs & J 社の活字母型サイズの10.5 pt 基準によってボディサイズが制定されたとみられるので、初号、二号、五号、七号の活字ボディサイズに関しては後述をお待ちいただきたい。
 
さいわい原著『Typographia』 (Thomas C. Hansard,  1825 年(文政08),   原著:p.387–8)を所有していたため、遅ればせながら原典照合をしたところ、一部に著者によるあきらかな転記ミスがみられたので、下掲図にそれを正した図版をかかげ、また正誤表を作成した。
ハンサード扉 Typographia
現在、<朗文堂ちいさな勉強会 平野富二の会>の会員を中心に、この島屋政一説を追試・検討をかさねている。
現段階では、本項一回目に問題提起をした、
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム 】
のうち、わが国の近代活字が三つのグループに大別される理由として、ここに島屋政一が提起し活字ボディサイズにもとづくスケールをもちいての調査では、
① 一号活字、四号活字        → English 系統
② 三号活字、六号活字、八号活字 → Brevier 系統
とほぼみなしてよかろうという段階まで調査が進展している。

ところが現状では、わが国の五号活字のボディサイズは、明治最初期に本木昌造・平野富二らによって体系だてられてからずっと、Small Pica 10.5 pt 基準 とみられるものの、ほんの一部ながら、異なったサイズの標本がみられ、それが島屋政一が紹介した「五号 1 ft に83 本 Small Pica」にちかい数値を示していることまでが判明している。

以下は平野富二の東京本格進出を控えて急遽作製されたとみられる「天下泰平國家安全」の活字販売用見本(『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 巻末口上。ともに壬申二月〔明治05 年02 月〕)の製作のときに完成していた、活字ボディサイズの該当部を抜粋して紹介した。
この調査・研究はまだ端緒についたばかりであり、ひろく『本木昌造伝』愛読者、有意の皆さまの参加をお待ちしたい(サイズ分析の二画面は PDF 画面がひらきます)。

20150421193950685_000320150601175842929_0001 20150601175842929_0002『 新塾餘談 初編一 』巻末口上(活字ボディサイズ見本ならびに価格表 壬申二月〔明治05年02月、1872〕 刊、印刷博物館蔵 ) PDFデータ  】

◎ 関連既出情報
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*01 考察のはじめに 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*03   〔川田久長〕 活字の大きさとシステム
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*04  島屋政一『本木昌造伝』における活字ボディサイズの新考証

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朗文堂 愛着版

本 木 昌 造 伝

島 屋  政 一 著
朗 文 堂 刊

A5判 480ページ
口絵カラー写真20点、本文モノクロ写真172点、図版196点
上製本 スリップケース入れ 輸送函つき
背革にベラムのバックスキンをもちいて

ヒラにはコッカレルのマーブル紙をもちいました。

本書(索引・正誤表つき)は在庫僅少で、輸送箱の一部に汚損があるため、直販のみとし、一般書店では取り扱っておりません。
恐縮ながら、本書の入手をご希望の方は直接 朗文堂 ヘお申し込みください。
本体価格:16,000円(税・送料別)
【 詳細情報 : 朗文堂ブックコスミイク 本木昌造伝

【 目  次 】
・ 本木昌造の誕生から通詞時代

・ 長崎製鉄所時代の本木昌造
・ 近代活字創製の苦心
・ ガンブルの来日と活版伝習所の創設
・ 新街私塾と長崎活版製造会社
・ 長崎から東京へ/活版印刷術の普及
・ 本木昌造の終焉と本木家のその後
・ 凸版印刷と平版印刷、ライバルの登場
・ 印刷界の二大明星
・ 本木昌造をめぐるひとびと
・ 野村宗十郎とアメリカン・ポイント制活字
・ 印刷術の普遍化とわが国文化の向上
・ 印刷界の現状
・ 編集子あとがき

【 例    言 - はじめに 】
島 屋  政 一
わが国の印刷事業は、とおく奈良平安朝のむかしに寺院において創始され、久しきにわたって僧侶の手中にあった。 江戸期にはいって勅版がでて、官版および藩版がおこり、ついで庶民のあいだにも印刷事業をはじめるものがあらわれた。
寛文(1661-72)以後、木版印刷術おおいに発達して、正徳、享保時代(1711-35)からは木版印刷術が全国に普及をみたが、それは欧米諸国の近代活字版印刷術にくらべてきわめて稚拙なものだった。

幕末の開国とともに洋学が勃興して、印刷術の改善にせまられた。そのときにあたり、近代活字鋳造と近代印刷術の基礎をひらき、善く国民にその恩恵をひろめたものが本木昌造翁だった。

筆者はすでに『印刷文明史』を著わし、本木昌造のことをしるしたが、いささか冗長にながれ、またいささかの訛伝の指摘もあった。
さらには畏友にして活字界の雄たりし、青山進行堂活版製造所・青山容三〔督太郎〕氏、森川龍文堂・森川健市氏の両氏から、活字の大小の格〔活字ボディサイズ〕のことのあらたな教授もえた。
さらに筆者は、すぐる太平洋戦争において、おおくの蔵書を戦禍にうしなった。また青山進行堂活版製造所、森川龍文堂の両社はその活字の父型や母型のおおくをうしなっている。

このときにあたり、ふたたび、日本の近代文明に先駆して、開化の指導者としておおきな役割を演じた本木昌造の功績を顕彰し、それに学ぶところは大なるものがあると信ずるにいたった。
本木昌造はひとり近代印刷術の始祖にとどまらず、むしろ研究者であり教育者でもあった。
本木昌造の設立にかかる諸施設とは、むしろ「まなびの門」でもあったのである。

そうした本木昌造のあらたな側面を中枢にすえて本書をしるした。

  昭和24年10月20日
                              著 者 識

【 本木昌造伝 修整部 PDF  motogi-denn-syuusei 】

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【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*03 〔川田久長〕 活字の大きさとシステム

 


《 印刷史研究に独自の視点で臨んだ川田久長の紹介 》
川田久永『活版印刷史』初版20140523121747341_0001川田久長 『 活版印刷史 』 初版本  組版データー
大日本印刷印刷、印刷学会出版部発行 昭和24年03月20日
B6版 並製本

本文 : 9pt  明朝体活字 一行45字、16行、行間 7.5pt
第二次世界大戦の敗戦からまもない
ころに発行されたこの図書は、印刷用紙が劣悪だったために、酸化が発生しており、またカーボン不足から印刷インキが灰色がかった発色を呈する。 製本もほぼ破損寸前の状態となっている。 そのため本論考にさいしてはもっぱら下掲の再版書をもちいた。
DSCN3964DSCN3967DSCN3970川田久永『活版印刷史』増刷20140523121747341_0002川田久長 『 活版印刷史 』 再版本  組版データー
杜陵印刷印刷、印刷学会出版部発行 昭和56年10月05日
B6版 上製本 スリップケース付き

本文 : 9pt 明朝体活字 一行45字、21行、行間 4.5pt
参考 : 印刷を担った杜陵印刷と小社とはながい取引関係にある。 この時代の杜陵印刷の工場は小石川にあり、そこには A全判、A半裁版の活版印刷機が数台あって、本文活字の一部は自家鋳造、ほとんどが外注による自動活字鋳植機 ( KMT ) であった。またムラ取り時間短縮のために、紙型鉛版方式 ( ステロ版 ) での活版印刷〔凸版印刷〕が多かった。  本再版書もステロ版印刷とみられる。
DSCN4054DSCN4045 DSCN4051川田家墓地。 川田久長もここにねむる。 所在地 : 東京谷中霊園 甲3号4側
写真) 掃苔会肝煎り : 松尾篤史氏提供。

20140508172450578_0001 20140508172450578_0002 集合写真「 印刷産業綜合統制組合屋上にて : 矢野道也氏を送る会 」 ( 1946年03月25日 )
写真) 敗戦からまもなく、子息が居住していた九州へ移転のため、矢野道也が印刷学会会長職の辞任を申し出た日に。 当時の印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也(前列中央)。 その背後、後列中央の、白髪で長身のひとが川田久長である。  
前列左より : 佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より : 馬渡 努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

著作や著述が多い割に、川田久長の人物像は知るところがすくなかった。 痩身で大柄なひとであったようである。 集合写真 : 「 この一冊の書物から 05 ──── 印刷所は金属鉱山-変体活字廃棄運動の禁句 」 『 印刷情報 』 ( 片塩二朗 2007年07月号 ) より部分拡大。
以下に略歴をしるす。

川田久長 かわだ-ひさなが
1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日
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明治23年05月25日  東京牛込区にて、父 : 麹町区長 ・ 川田久喜、母 ・ むめ子の長男として誕生。
大正02年09月     東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。 浅沼商会入社。 製版材料調査に従事。
大正12年        秀英舎 ( 現 大日本印刷 ) 入社。 同社関連企業の活字製造所 : 製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月     印刷図書館初代館長に就任。 のち 「 文部省認可 財団法人 印刷図書館 」 ( 昭和24年設立 ) となる。
昭和24年03月20日  著作 『 活版印刷史 』 ( 初版 ・ 並製本 印刷学会出版部 ) 刊行。
昭和37年07月05日  逝去。 享年72。 墓は谷中霊園 甲 3 号 4 側 に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作 『 活版印刷史 』 ( 再版 ・ 上製本 印刷学会出版部 ) 刊行。

◎ 関連既出情報
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*01 考察のはじめに 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*03   〔川田久長〕 活字の大きさとシステム
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川田久長 『 活版印刷史 』

ここから『活版印刷史』(川田久長、印刷学会出版部、初版 ・ 昭和24年03月20日、再版 ・ 昭和56年10月05日)を本格的に紹介したい。
同書の初版は紙やけがひどいので、再版書により、旧漢字を常用漢字とし、適宜改行と段落を加えた。 

松本八郎『エディトリアルデザイン事始』のなかでは、おもに三谷幸吉をひいて、わが国の活字が鯨尺や曲尺によるものとする説に疑念を呈していた。
ところが松本はいっとき大日本印刷に籍をおいたことがあり、先輩にあたる川田久長には遠慮があったようで、川田説への言及はすくない。

ここでは『活版印刷史』「本編の三」から、
三 昌造自筆の活字文献と活字の規格及び書体(全)   p. 94-99
四 長崎活字の東京進出 (後述)
五 「活字局」の活字と「印書局」の鉛版(部分)                   p. 100-102
を引用したい。三項では活字の規格を述べており、五項では活字鋳造のための機器の種類とその数量の概略がしるされている。

ここで図版をひきたいところだが、川田久長『活版印刷史』には初版・再版ともに図版は一切無く、丹念に文章をもって述べられている。したがって読者諸賢にとってはつらいかもしれないが、ここではまだ図版や画像は提示しない。もうしばらく我慢していただきたいとお願いしておく。
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三 昌造自筆の活字文献と活字の規格及び書体

本木昌造は邦文活字の完成に努力を傾け、現在なお少なからず使用されている号数活字の規格の土台を定めたのであるが、彼が自から活字のことについて書いたものとしては、その自筆稿本なるものが、東京築地活版所に所蔵されておったのである。

しかしそれは関東大震災の時、全部烏有に帰した 〔 花筏 : [字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム を参照。 この本木昌造自筆稿本は、現在<本木家文書>の一環として現存し、長崎歴史文化博物館が所蔵している 〕が、その一部分がかつて 『 大阪印刷界本木号 』 〔「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 ( 大阪印刷界 明治四五年六月一七日)、印刷図書館所蔵 〕に転載されたことがある。 今それを更に引抄する。

活字判の便利なるは、数種の版校を蓄積するに及ばず。 其彫刻に時日を費す事なく、且木版は一度彫刻する処の文字を以て他に用ふる事能はず。 活字は然らずして、彼是の別なく是を摺りたるの後は、其文字を取て又彼に用ふる事を得る益あり。 殊に一度字母を製し得る後は幾千万と雖イエとも同種の文字を得る事容易なり 〔 字母、活字母型のうち、本木昌造らがもちいた電鋳母型は、のちの彫刻母型にくらべると耐久性に劣り、実際には五千-一万字を鋳造すると熱変形が発生するために交換することがふつうだった〕。

其文字は木材ならずして鉱類を用ふ。 是を製するに、往時は欲する処の字画を鋼鉄に彫刻し 〔 活字父型の製造。 市販の針金程度の鉄をもちいたとみられる。 それを焼きなましによって軟鉄とし、そこに字画を裏文字として彫刻、それを焼締めて硬化させた。 punch 〕、是を銅板に打込み 〔 活字母型の製造。パンチのことばから連想されるような「打ちこむ」というより、簡便な器具で、できるだけ深度を一定になるように押し込んだ。  matrix 〕、以て字母を取り、此字母を鋳型の底に填め、鉱類を鋳込み、以て其文字を得るなり。

方今〔現在は〕此字母を製するに往時の如く鋼鉄を以てせずして、普通木版の如く木に彫刻し、是を蝋を以て押形を取り、此蝋形に彼のガルファニの機活を以て鍍銅し、是を以て字母を製するなり。 其製法其他活字判に関係する件々を以て爰ココに示す。 其事件は洋書中より訳するものにあらず。 実地即ち製する処のものにして、其便利を広く知らしめんが為なり〔「蝋型電胎法による母型製作 本木活字の復元へ向けて」『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(小塚昌彦、近代印刷活字文化保存会、p. 184-213)に詳しい〕。

      蝋形を取る文字の製法
黄楊ツゲを以て、其欲する処の文字の大小に随て正しく四角の駒を製す。 其長は好に応ずべし。
但し予の製する処のものは西洋の活字に倣い、其長七歩八厘あり。 此駒に文字を刻す。 其文字は成べく深く刻するを良とす。 凡二歩五厘角の文字は、其深五厘余、五歩角のものは其深一歩余にして、左右上下勾配〔ヴェベル〕を施し、以て蝋形を取るに及んで能く蝋より抜出る様に彫刻するなり

      駒を組込む法
前の駒を第一に鉄のワク中に組込むなり。 其ワクは長外法一尺五歩、幅八寸五歩、鉄の厚五歩幅一寸あり。 駒を組込むには、駒の左右上下に込物を以て駒に間隙を施す。 左右の込物は厚二歩、上下の込物は厚一歩あり。 其幅は駒と等しく、其高は駒の高より一歩を減じ、駒を突出せしむ。
且駒の上下には込物の外に将棋頭の如きものを組込むなり。 其厚は四歩ありて頭の所に勾配を施し、頂の幅二歩あり。 其高は駒と等し。

此の如く込物を以て駒の間隙を施すは 鍍銅の後、文字を切断つに遊隙を得んが為なり。 其将棋頭の如きものを用ふるは、字母を其處に慎むるに及んで、能く沈着せしめ、以て抜出る事なからしめんが為なり。 如此して駒を組込むの後、鉄ワクの四方にクサビ打込み、以て駒の拔出ざる様に能く締付るなり。                                         

なお昌造自筆の稿本には 「蝋形を取る盆の製法」、「蝋形を取る法」、「蝋形に鍍銅する法」、「ガルファニバッテレイの法」 の各項目について記述されているとのことであるが、これ等は〔「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 ( 大阪印刷界 明治四五年六月一七日)には〕全く転載されていないので、ここに引抄する便宜を得ない。

しかし明治五年(西暦一八七二年)の二月に新塾活版製造所から刊行された、昌造自著の『 崎陽新塾餘談初編 二 』 の中に 「 ガルファニ鍍金銀の法 」 と 「 銅を以て器物を摸する法 」 と題して ガルファニバッテレイによる電胎法について述べてある。
『 新塾餘談 』 は昌造みずから理化学に関する啓蒙的な記事を取集め、毎月一、二度活字を以て摺り、塾生の閑散に備えるための、各冊十枚の紙数を以て限度とした、四六判の薄っぺらな小冊子である。

「 ガルファニバッテレイの機活によって原型から銅製の模型を得る」 電胎法は、活字の鋳造に志した昌造が、その母型を作るための手段として第一に知ろうとした秘法であった。 そしていろいろ手段をめぐらした結果、ガンブル〔 William Gamble  1830-86/中国表記:姜別利 jiāng bié lì  以下ギャンブルとする〕 の指導を受けてようやくこれに成功をしたのは周知のとおりである。

この昌造の過去の苦心を思う時、彼が自から執筆した 「 ガルファニバッテレイ 」 による電胎法の説明を読むことはまことに興味深いものがあるが、その 〔「 ガルファニ鍍金銀の法 」 『 崎陽新塾餘談初編 二 』 の〕 原文を転載することはこれを省略する〔ヴィネット04『活字をつくる』片塩二朗、p. 156-159に全文紹介ならびに現代通行文による読みくだしがある。〕。

さて以上引抄した昌造執筆の活字関係の各種の文献を検討して見ると、まず 「 蝋形を取る文字の製法 」 と題する種字彫刻に関する記事の中に、「 予の製する處のものは西洋の活字に倣ひ、其長七歩八厘あり 」 と述べているが、この 「 七歩八厘 」 はすなわち曲尺の七分八厘であって、それは二三 ・ 三一七ミリに該当し、また〇 ・ 九一八インチにも当り、英米の活字の標準の高さに倣ったものであることがわかる。

その初めは専らオランダの活字によって活版術を知った昌造も、実際に電胎母型の作り方や活字鋳造の灸所を教えて貰ったのがアメリカ人のガンブルであったから、従って昌造が準據した活字の高さも、大陸型のオランダのそれによらず、ガンブルの指示に従って英米型の〇 ・ 九一八インチを採用したものと推定される。

また同じくその種字彫刻法の中に、「 凡二歩五厘角の文字は其深五厘余、五歩角のものは其深一歩余にして 」 とあるが、「 二分五厘角 」 とあるのは、曲尺の二分五厘を意味して 「 二号活字 」 に当たり、また 「 五分角 」 というのは、同じく曲尺の五分角であって 「 初号活字 」 にあたる。
すなわちこれによって見ても、昌造が最初に鋳造に着手したのは二号活字と初号活字であったと考えてよかろう。 ところがその後次第に大小各種の活字を揃えてゆくに従って、各号開の差を曲尺カネジャク五厘に取ることは大き過ぎるので、改めて鯨尺クジラジャクの二厘五毛を以てこれに換え、各号の活字のボディーの角を次に示すような寸法に定めたのである。

初号活字    鯨尺 四 分 角 ( 曲尺五分 )
一号活字    鯨尺 二分五厘角
二号活字    鯨尺 二 分 角   ( 曲尺二分五厘角 )
三号活字    鯨尺 一分五厘角
四号活字    鯨尺 一分二厘五毛角
五号活字    鯨尺 一 分 角
─────────
( 六号活字   鯨尺 七厘五毛角 )
( 七号活字   鯨尺 五 厘 角 )

三号から七号まではいずれも鯨尺二厘五毛の差、一号から三号までは鯨尺二厘五毛の二倍、すなわち五厘の差、初号と一号の差は鯨尺二厘五毛の六倍(五厘の三倍)、すなわち一分五厘である。

号数活字中の基準活字ともいうべき五号活字は、ガンブルが上海の美華書館館長時代に苦心して創案した小型活字に凖據したものである。 元来ガンブルの工夫完成した小型漢字の活字は、欧文活字のスモール ・ パイカと組合せるのに都合がよいように作られたもので、ヘボンの 『 和英語林集成 』 〔 James Curtis Hepburn、1815-1911 は、米国長老派教会の医療伝道宣教師であり、 ヘボン式ローマ字の創始者。 医師。 わが国初の大型和英辞典 『 和英語林集成 』 は上海美華書館で活字組版 ・ 印刷され1867年 ( 慶応03 ) 完成 〕 に使われたことはすでに述べたとおりであるが、有名な支那学の大家 アレキサンダー ・ ワイリーの如きは、それまでに鋳造されたいずれの漢字活字にもまして、欧文の活字と併用するのに最も便利なものであることを、彼自身の著書の序文の中で推奨している。

ところがスモールー ・ パイカはアメリカン ・ ポイントの十一ポイントに相当し、その大きさは三 ・ 八六五四ミリであって、ほとんど鯨尺の一分に該当するところから、恐らく昌造はガンブルの小型漢字の活字に範を採った五号活字のボディーの寸法を鯨尺一分角と定めたものと推定される。
〔 このパラグラフはおおいに議論の余地がある。 当初の赴任地 寧波 ニンポウ から移動したのち、上海時代に William Gamble が Small pica  としたものは、のちにアメリカン ・ ポイントとして1886年(明治19)に制定された 10.5 ポイントと同様のサイズであり、11 ポイントではなかった。 ご希望の向きには実際のパイカ ・ ポイントスケール提供したいが、計測してみるとギャンブル時代の上海美華書館の  Small pica とは10.5 ポイントであり、これがわが国では五号活字とされたものである。 ここではしばらく宿題とさせていただきたい 〕。

また昌造が活字の書体に明朝を採用したことについては、種字の版下に 『 康煕字典 』 を用いたことによると伝えられているが、上海の美華書館、あるいは香港の英華書院の如き英米伝道団経営の印刷所では、つとに明朝体の漢字活字を鋳造しており、特にガンブルと昌造との関係を考える時、明朝体の採用はむしろ美華書館製の漢字活字に倣って、これを行ったものと見るのが至当であろう。

更にまた新塾活版製造所で鋳造した平仮名の活字は、昌造の友人で彼の和歌の師であった池原香穉カワカの筆に成る版下を以て種字を彫った由であるが、これは変体の平仮名で、現在使用されている活字とは全く別種の観を呈して、明朝体との調和を欠いている。

しかしとにかく、昌造が邦文活字に一つのシステムを作り、倍数関係を定めたことは、恐らくガンブルの示唆に負うところであり、欧文活字のそれをまねて試みたものには相違ないが、これによってわが邦の洋式の活版術が、実際に工業的に利用される第一歩を踏み出したことを思えば、彼を日本のグーテンベルグなりと称しても敢えて不当ではあるまい。

また本木時代の活字の鋳造は、最初の頃は小銃の散弾を鋳るのと同じ調子で、手持ちの鋳型に母型をはめこみ、鍋の中に熔かした活字地金を杓子で汲み出してその上から注ぎこんで鋳造していたが、そのうちに手押ポンプで地金を注ぎこむようになり、二号活字ならば一日に千本くらい鋳造できるようになった。
このポンプ〔式活字鋳造機の〕時代に、東京で和田國雄という人が手持鋳型にポンプ鋳込みで一日に五千本を鋳造して最高レコードを作ったが、今もなお使われている手廻しのカスチングは本木昌造が明治四年(西暦一八七一年)に英国から取寄せたのが最初であろうと 〔 東京築地活版製造所第四代社長の 〕 野村宗十郎は語っている〔ここで触れられているポンプ式活字鋳造機、手回し式活字鋳造機、カスチング、などは、近近動画をふくめて紹介したい〕。

四 長崎活字の東京進出

五 「活字局」の活字と「印書局」の鉛版

明治四年(西暦一八七一年)の十一月二十二日、赤坂溜池葵町の旧伊万里県出張邸趾に開かれた、工部省勧工寮の「活字局」は、前に述べて置いたとおり、長崎製鉄所附属の活版伝習所においてガンブルの指導を受けた人たちの一部がその中心を成していたのであるから、やはり本木系の一分派と見倣されるべきである。
そして平野富二が長崎製の活字を携えて東京に上り、活字の鋳造販売を企てるまで、この「活字局」は東京における唯一の活字の供給源であった。

工部省勧工寮の「活字局」の諸設備は、長崎製鉄所にあった「活字一課の諸器械」なるものをそのまま移管したものであるが、活字局備付けの諸設備として次のようなものが挙げられている。

一、 二号字母            凡五千個
一、 三号字母            凡六千個
一、 四号字母            凡三千個
一、 五号字母            凡五千個
一、 七号字母            凡三百個
一、 西洋字母            凡三百個
一、 ハンド・マシーネ・ポンプ     壱 丁
一、 メタル釜                壱 ツ
ー、 カスチング・マシーネ       壱 丁
一、 鋳  型               拾 丁
一、 銅判〔版?〕裹削鉋共       壱 組
一、  活字尻切道具           壱 揃
一、 紙 〆                壱 挺
一、 ハンド・マシーネ          壱 丁
一、 ガルハ用型蝋型〆        壱 ツ
一、 ロール・マシーネ          弐 丁
一、   スペーシ鋳型           弐 挺

勧工寮の活字局は太政官の印書局、あるいは大学南校の活字掛、各府県の布告、布達類の印刷工場などに活字を供給することをその主要の仕事としたのであったが、民間の印刷工場にもその製品の一部を払下げたことはさきに述べたとおりである。
「東京日日新聞」の如き〔は〕、明治五年(西暦一八七二年)の二月二十一日の創刊で、創刊後しばらくして鉛活字を使用し始めたのは勧工寮の製品を買入れてからのことであった。

当時その社は浅草の蔵前にあり、そこから赤坂溜池の勧工寮まで活字を買いに行くのは相当手数が掛ったようである。しかもその活字は組合せるとガタガタして使用に骨が折れたので、これを全部長野県の布告を印刷する御用達の商人に譲り渡し、その後は専ら築地の平野活版所から活字を購入して組版にあてたとのことであるから、その当時の勧工寮活字局製の活字は、鋳造の技術にどこか不完全なところがあり、長崎新塾活版製造所の直系である平野活版所の製品の方に、一日の長があったのであろう〔以下略〕。

【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム

昨秋逝去した松本八郎は、朗文堂に公刊書 『 エディトリアルデザイン事始 』 ( A5判 224ページ 1989年09月08日)をのこした。
その第三章に 「 活字の大きさとシステム 」 (p.39-53 ) があった。
この章の初出はふるくて、多川精一氏らによるジャーナル 『 E + D + P 』 (1980年09月第05号、同1981年06月第07号) に連載したものを 加筆修整して、 『 エディトリアルデザイン事始 』 に紹介された。

松本八郎_顔松 本  八 郎 (1942-2014 ) 遺 影
(  大枝 隆司郎氏 提供  )

ジャーナル 『 E + D + P 』 のころから、松本八郎とはこの 「 活字の大きさとシステム 」 では議論をかさねた。 ときには第三者もまじえて激論になったこともあった。
そしていま、 松本八郎 『 エディトリアルデザイン事始 』 第三章 「 活字の大きさとシステム 」を再度紹介して、 わが国の号数制の金属活字が、鯨尺クジラジャクや曲尺カネジャクを基本尺度とした、尺貫法にもとづいた製品であるという 「 神話 」 を再検証してみたい。
9784947613219エディトリアルデザイン事始 』 の刊行はもう四半世紀も前になる。 さほど売れた図書ではない。 だからいまでも30冊ほどの在庫があるほどのものだ。
しかし一九六〇-七〇年代うまれのグラフィックデザイナーのおおくは、本書でエディトリアルデザインを知り、その初歩をまなんだはずである。 図書とはもともとそんな存在である。

松本八郎とは、これも黄泉のひととなった 加藤 美方 ( かとう-よしかた 1921-2000 ) の紹介で知りあった 【 花筏 タイポグラファ群像*001 加藤美方氏 】。
どこで勘違いをしたのか知らないが、筆者は松本と同年うまれだとしばらくはおもいこんでいた。
したがっていまとなれば汗顔のきわみであるが、本人を眼前にしても気軽に 「 ハッちゃん 」 などと呼んでいた。 どこかで勘違いに気づいてお詫びしたが、松本は嫌がるふうもなく、おもしろいつきあいをかさねた。

ともあれ松本八郎は先に逝ってしまったが、遺著にのこされた 「 活字の大きさとシステム 」 をさきがけとして、いくつかの論考や資料を紹介したい。 そこでの論点は <「  活字の大きさとシステム  」 + 活字鋳造機器 > となる。
さいわい、古谷昌二 『 平野富二伝-考察と補遺 』 (朗文堂 2013年11月12日) の刊行をきっかけとして、自発的に参集した有志が、この <「 活字の大きさとシステム 」+活字鋳造機器> をテーマとして、さまざまな資料をもとに研鑽をつづけている。 その研究の進捗と、諸賢の検証をまちながら、本論をすすめていきたい。

わが国における <号数制金属活字が、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品であるという 「 神話 」 > は、本木昌造の稿本、仮称 『 本木昌造活字版の記事 』 にその淵源をみるものである。
爾来、この稿本 ( 手書きの原稿本 ) は地元の長崎に埋もれていたが、大阪の印刷業界誌に、「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 ( 大阪印刷界 明治四五年六月一七日) として、その一部 ( 前文とあわせて全六章のうちの三章 ) がちいさく不鮮明ながらも 影印資料とともに、活字となって紹介された。

阿津坂実氏阿津坂 実氏 (『 ヴィネット〇四 活字をつくる 』 より )
( 元長崎県印刷工業組合専務理事、本木昌造顕彰会相談役 1915年09月12日-)
──────────
本項掲載後に長崎印刷界の重鎮/阿津坂実氏が天寿をまっとうされ逝去されました。
ご冥福を祈るとともに、ここにご報告いたします。
阿津坂 実 1915年09月12日-2015年05月07日 行年99 
20150423164159195_0002

「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 のなかには、「 本木昌造翁はその活字に関する著述を公にした。 その書名は逸してわからない 」 としているが、それから百年余の歳月をへても、こうした 「 本木昌造の活字に関する公刊書 」 の発見の報告はみない。
またこのオリジナル資料は、どういうわけか長崎から、東京築地活版製造所の手にわたったとされ、
「 それは関東大震災のとき〔1923年09月01日〕に全部烏有に帰した 」 ――  『 活版印刷史 』 ( 川田久長、印刷学会出版部、初版 ・ 昭和24年03月20日、再版 ・ 昭和56年10月05日。 初版は紙やけがひどいので、再版書によった  p.94 ) とされてきた。

ところが、俗称 『 本木昌造活字版の記事 』が焼失することなく、長崎市立博物館の<本木家文書>のひとつとして、畳紙タトウに 『 本木昌造活字版の記事 』の仮題を付された状態で収容されているとの報告が、阿津坂実氏 ( 元長崎県印刷工業組合専務理事、本木昌造顕彰会相談役 1915年09月12日-)によってなされた。

20150423164159195_0002 20150423164159195_0001その報告をうけて、板倉雅宣氏 ( 元東京書籍。 タイポグラフィ学会 ・ 印刷学会会員。 1932-) ならびに筆者が長崎にかけつけて、二〇〇〇年に 「 長崎市立博物館 ( 現在は長崎歴史博物館が所蔵。目下のところ非公開 )」 に、 「 本木家文書 」 として現存していることを報告した。
また、その存在の事実と、巻首ページだけを原寸で、縮小したものの比率を表示して、全ページの影印図版紹介、その平易な読みくだしを 「 本木昌造の活字づくり 」 『 ヴィネット 〇四 』 ( 片塩二朗、朗文堂、二〇〇二年六月六日) に紹介した。
【 関連情報 : 花筏 タイポグラフィあのねのね*005  長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』

なにしろ一四〇年余にわたり、本木昌造活字版印刷術創始のことはかたられつづけてきた。そして、わが国における <号数制金属活字が、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品であるという 「 神話 」 > は、オリジナル資料が焼失したと訛伝されたまま、「故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 からの、さらにその一部だけの引用、引抄がかさねられてきた。

これから、<わが國における号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である >  という「神話」の解明にむけて考察を開始する。
まずは、松本八郎が問題提起した、

◯ <なぜ、 「四号」 〔 活字の 〕  下 〔 うしろ 〕 がないのか> の紹介をつうじて、
◯ <なぜ、明治最初期からスタートしたわが国の号数制活字のうち、 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、のちの一八八六年(明治一九)に制定された、アメリカン ・ ポイントシステムとボディサイズが極似ないしは合致しているのか>
◯ <なぜ、わが国の号数制活字は三つのグループに大別され、そのグループ間に共用性がとぼしいのか>
の諸問題の解明を 蟷螂の斧を振りかざしてはかりたい。
筆者は精緻な検証作業には向いていないことを十分に自覚している。 江湖のご支援を期待するゆえんである。

──────────

〔松本八郎〕 エディトリアルデザイン事始
                                活字の大きさとシステム

20150421193950685_0002
なぜ 「四号」 〔 活字の 〕  下 〔 うしろ 〕 がないのか
私はときおり、つまらないことに疑問を持つくせがある。 それでいて実用的で実際的なことがらには何ひとつ疑問を感じないまま やり過ごしてしまって、間のぬけたことをして失敗する。
でも、時にはこのつまらないことで勉強をさせられることもあって、けっこう 「 頭の体操 」 くらいにはなっている。

もはや今日 〔一九八九年〕 となればどうでもいいことなのだが、「 活字 」 のことでどうしても理解できないことがある。
号数活字の大きさのとりきめについてである。
以前はよく講師に行った〔武蔵野美術大学などの〕学校などで、活字について教えなければ先に進まないことがあった。 本木昌造の名を出し、ついでに号数活字を中国より導人したことに掛れ、黒板に、

                           一号活字 ―― 四号活字
  初 号活字 ―― 二号活字 ―― 五号活字 ―― 七号活字
                三号活字 ―― 六号活字 ―― 八号活字

と、わかったような顔をして書き記す。
学生たちは必死でノー卜をとる。「 質問はありませんか?」。 無言である。 ホッと安堵する。
なぜ四号の下でなく 五号の下〔うしろ〕に七号があるのか? なぜ四号の下〔うしろ〕は空いているのか? だれも聞いてこない。 そのあと、

「 五号は鯨尺 クジラジャク の一分にあたり、これが基本となって大きさが決められ、五号の倍数が二号で、そのまた倍数が初号です」
などといっているうちに、なぜかみな 納得したような顔になる。 内心はいつ質問が飛びだすかと、ドキドキしながらおちつかない。
20150421193950685_0003『 エディトリアルデザイン事始 』  p.40 挿図

「 もっともこのごろでは、普通の印刷所 〔 大手の印刷所 〕 は みなポイント活字に切りかわっていて、号数活字などは町の小さな名刺屋さんぐらいでしかお目にかかりません。 ですから活版印刷の歴史の一端として、この表ぐらいは覚えておいてください」
と、なおも追い討ちをかけると、全員まったく素直にうなずいてくれる。
十数年間の教師稼業をしていた後半、こうしたテクニックばかりが冴えわたり、どうにも行きづまってしまった。

学生時代、印刷関係の入門書を何冊も丹念に買い求めた記憶がある。 するとかならずこの号数活字の表がついている。 それなのに、どの本も この四号下 〔 うしろ 〕 の空欄については触れていない。 買い求めた本の数だけ苛立ちが増したことを覚えている。

つい最近出された 〔 タイポグラフィ関連の 〕 本にも、「 三号、四号、五号、六号、七号の大きさの間隔は それぞれ二厘五毛 」 とは書かれているものの、やはり四号下 〔 うしろ 〕 の空きの疑問には答えてくれず、「 三号、二号、一号の間隔はそれぞれ五厘、一号と初号のそれは一分五厘である 」 と終わっていて、なぜそういう間隔をもって 〔 活字が 〕 作られたのか、ということに触れていない。

こういう教科書的なものですら、「 なぜそうなのか 」 ということが往々にして書かれていない。 その成り立ちを解き明かしてこそ、本を新しく出すことの意味があるのではないか?
日本の活字印刷の始まりから百年以上もたっていながら、なお一律にこのていどの記述である。

一、号数活字の基準
一九三三年(昭和八)に出された 『 本木昌造 ・ 平野富二詳伝 』 ( 三谷幸吉編 ) という本がある。 その中に 「 我国最初の日刊新聞社を創立す 」 という項目があり、そこに 「 編者曰、註 」 として、活字の大きさの決定について記された一文が載っている。
『 活版印刷史 』 〔 川田久長、印刷学会出版部、昭和二四年 〕 にもいま少し詳しく、本木昌造の活字規格について記されている。 いずれも本木昌造が自ら著した活字製法によっているが、号数活字の成立を解き明かすには欠かすことのできない記録である。

三谷幸吉氏などは、その 〔 紹介に 〕 あたり得意絶頂のおもむきで、次のような付記まである。
「 されば本木昌造先生が 活字の高さは 西洋(外国)の活字の高さに倣はれたが、大きさは日 本の物差に依られたのであって、外国の活字の大きさに倣って、五号活字を スモールパイカ と パイカの中間等と言ふ 、永い間の歴史は誤伝であったと云ふことが判然したのである ( 編者は此研究のために費やせし時間、労力、苦心は 到底他人の窺ひ知ることの出来ないことであった。 今茲ココに之を発表することを得たのは、本木昌造先生の加護と、編者の苦心の結晶であることを承知ありたし)。」 ( 原文正字。一部句点を加えた )

では、その〔本木昌造の〕自筆稿本の一節を〔「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 から三谷幸吉が引用したものを 〕再録してみよう。
「 蝋形を取る文字の製法
黄楊ツゲを以て其欲する処の文字の大小に随て、正しく四角の駒を製す。 其長は好に応ずべし。 但し予の製する処のものは 西洋の活字に倣ひ、其長七歩八厘あり、此駒に文字を刻す。 其文字は成べく深く刻するを良とす。 凡二歩五厘角の文字は 其深五厘余、五歩角のものは 其深一歩余にして、左右上下勾配を施し、以て、蝋形を取るに及んで 能く蝋より抜出る様に彫刻するなり。」 ( 原文正字 ・ 句読点引用者 )

ここで 「 二歩五厘角 」 とあるのは 曲尺カネジャクの二分五厘角をさし、「 五歩角 」 とは同じく曲尺の五分角のことである。 前者が二号活字、後者が初号活字にあたる。 これによって本木昌造の号数活字の最初は、二号、初号から作られたと推測される。
その後大小の活字を造るのに際しては、各号の間の差を曲尺の五厘にとるとその差が大きすぎるので、鯨尺クジラジャクの二厘五毛として系列が整えられた。

ちなみに、曲尺の五分と鯨尺の四分は同じ長さである。

『 本木昌造 ・ 平野富二詳伝 』 の三谷幸吉氏の 「 註 」 から、鯨尺と曲尺の寸法を比較した数値表を転記すれば、以下のようである。

初号活字   鯨尺  四分        曲尺  五分
一号活字   鯨尺  二分五厘     曲尺  三分一厘二毛五糸
二号活字   鯨尺  一分五厘     曲尺  二分五厘
三号活字   鯨尺  一分五厘     曲尺  一分八厘七毛五糸
四号活字   鯨尺  一分二厘五毛  曲尺  一分五厘六毛二糸五忽
五号活字   鯨尺  一分        曲尺  一分二厘五毛
六号活字   鯨尺  六厘五毛     曲尺  九厘三厘五毛
七号活字   鯨尺  五厘        曲尺  六厘二厘五毛
(引用者〔松本〕注/鯨尺の六号および、曲尺の六号と七号は誤植?)
〔 以下 略 〕

松本八郎は六号活字、七号活字の一部に誤植の疑念は呈したが、ママとして数値に補整は加えていないが、初号活字から五号活字の寸法例にならって算出した数値を以下に掲げる。
六号活字   鯨尺  七厘五毛     曲尺  九厘三毛七糸五忽
七号活字   鯨尺  五厘        曲尺  六厘二毛五糸 

【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*01 考察のはじめに

《 活字における尺貫法と ヤード ・ ポンド法、 基本尺度の相違 ―― どこかで見た風景 》
本項の初出は、そのまま掲載してあるが、<花筏 平野富二と活字*08 天下泰平國家安全 新塾餘談初編 一、二 にみる活字見本(価格付き) 2013年12月05日>であった。

平野富二伝 考察と補遺初出では 『 平野富二伝 考察と補遺 』 ( 古谷昌二、朗文堂、2013年11月22日 ) での指摘をうけ、文例を <天下泰平國家安全> とした 口上 ( 活字ボディサイズ、価格付き ) が、たれの発案と要請によってなされたのかをさぐった。
その結果は古谷氏の指摘どおり、すでに1872年 ( 明治04年 ) 07月に、
ふたまわりほど年下の平野富二 ( 当時26歳 ) に、「 新塾活字製造所 」 の事業の一切を委任していた本木昌造 ( 当時48歳 ) の発案ではなく、後継者として活字をひろく公開し、販売しようとした、平野富二の発意によるものであることを検証した。

20150423111842098_0001ここに本稿を再登場させたゆえんは、金属活字のアメリカン ・ ポイントシステムだけでなく、現在のコンピューター上の DTP ポイント とされるデジタルタイプのサイズと、『 新塾餘談 初編一 』 巻末口上 ( 活字ボディサイズ見本ならびに価格表  壬申二月 〔 明治05年02月、1872 〕 刊、印刷博物館蔵 )にみる <天下泰平國家安全> とは、一部の活字のボディサイズがきわめて酷似しているためである。
20150421193950685_0003『 エディトリアルデザイン事始 』 ( 松本八郎、朗文堂、1989年09月08日) p.40 挿図

すなわち金属活字号数制のうち、五号活字を中心として、その倍数関係にある 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、なにゆえ、この 「 口上 」 の発表から14年ほどのちの1886年 ( 明治19 ) に、アメリカン ・ ポイントシステムとして制定された活字と、ボディサイズが極似し、それは現在のデジタルタイプのシステムとも極似しているのかを実証的に検証するためである。
──────────
《 金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムと、コンピュータ上の DTP ポイントシステムの相違 》
タイポグラフィにおける現今の話題は、コンピューター一色であり、おおかたは、そこにおける DTP ソフトウェアなどへの対応と、デジタル書籍への対処が中心のようである。
デジタル書籍への対処はひとまず措いて、金属活字組版が写真植字法をへて、コンピューター上のデジタルタイプになって、なにが変わったのかをみると、相変わらずヤード・ポンド法の長さの単位、インチ ( Inch ) と パイカ ( Pica ) と ポイントサイズ ( Pointsize ) を基本としており、大きくはなにも変わっていないことがわかる。

20150424155225361_0001すなわち基本尺度の 1 pt ≒  1/72 in ( 0.3514 mm ) から、 およそ( ≒ )が、正確な( = ) になっており、あいまいさが回避された功績はおおきいが、金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムの概念を DTP システムも継承し、組版寸法と計測単位だけをみると、相変わらずインチ、パイカ、ポイントとしており、大差のないものとなっている。
◯ アメリカン ・ ポイント制  1 pt  ≒   1/72 in  ( 0.3514 mm )
◯ DTP ポイント制          1 pt  =   1/72 in  ( 0.352777……. mm ) 20150423164159195_0002<本木家文書>より 本木昌造自筆稿本。 俗称 『 本木昌造活字版の記事 』 第一葉。
この稿本は関東大震災で焼失されたとされていたものである。 実際には、長崎県立図書館 → 長崎市立博物館 → 長崎歴史博物館と所蔵先が変わったが、<本木家文書>のひとつとして現存している。
『 ヴィネット 04   活字をつくる 』 ( 片塩二朗/河野三男、朗文堂、2002年06月06日)  p.102に、巻首部の原寸紹介と、全ページにわたる縮小紹介、ならびに平易な読みくだしがある。

わが国では近代活字版印刷の創始のころから、 <号数制金属活字とは本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である > とされ、号数制活字が親しまれてきた。
わずかに大正期から、大手印刷所、新聞社などではポイント制活字の採用がみられたが、わが国の基本尺度が、前半期は尺貫法のもとにあり、後半期はメートル法のもとにあったために、寸法基準があいまいなままに普及した。
したがって明治最初期から、ヤード ・ ポンド法にもとづくポイント制金属活字への習熟がすくないままに、メートル法を基本尺度とした写真植字法が普及したという側面は看過できない。

「 あいまいなままに 」 としたのは、版面寸法を表す基本単位として 「パイカ pica 」 、すなわち12 pt の大きさに相当する基本尺度をもちいていた、わずかな欧文印刷専門業者をのぞくと、おおかたの印刷 ・ 活字界では、号数制活字のころから 一本一本の活字そのものの寸法ないしは活字ボディサイズは、すでに自明の理として、寸法を問うことにとぼしく、「 四号 ◯◯倍 」、「 五号 ◯◯倍 」 のように、使用活字の倍数を基本尺度としてきた歴史があった。

そのために号数制活字の 「 活字倍数尺 」( 多くは金属製 ) などがのこされているが、そこに基本尺度を明示した資料は、すくなくとも号数制活字では管見に入らないのである。
その反面、(  アメリカン ) ポイント制のスケールは、メーカー製のものばかりでなく、ポイントシステムとパイカルールをわかりやすく説き、顧客に配布した、小宮山印刷、萩原印刷、笹木出版印刷などによる自社製のスケール ( 多くはフィルム製 ) はいまでもたくさんのこっている。

わが国における <号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である > とする 本木昌造活字版印刷術創始のことは、140年余にわたってかたられつづけてきた。
そしてオリジナル資料の本木昌造自筆稿本、俗称 『 本木昌造活字版の記事 』 が焼失したと訛伝されたまま、「故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 から、さらにその一部だけの引用、引抄、ときには潤色までがかさねられてきた。

すなわち幾度も、幾重にもわたって、上書きにつぐ上書きが重ねられてきて、いまや 「 神話 」 と化したものが、<わが国における号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である > とする説である。
この強固な壁に立ちむかうのには相応の慎重さと覚悟が必要なようである。

もとより筆者は、精緻な検証作業には向いていないことを十分に自覚している。 できたらほかのかたにお任せしたいテーマであるし、多くのかたにこのテーマの解明に向けて参画していただきたいとおもっている。
なにぶん140年余にわたって語られつづけてきたテーマである。 こころからご支援をお願いしたいと念願する次第である。

こんにち組版システムの主流の座を獲得したコンピューター上のデジタルタイプも、 DTP ポイントシステムが一般的である。
これはヤード ・ ポンド法の長さの単位であり、本来メートル法に換算するものではない。 したがって 1 pt = 1/72 in ( 0.352777……. mm ) とされる。
この DTP  ポイントシステムは、1981年にゼロックス社が発売した世界初のビットマップ ディスプレイを実装した製品である Xerox Star ( ゼロックス ・ スター ) で採用され、以後 DTP アプリケーションなどにおいても標準となったものである。

その変更に際して、わが国では20世紀後半のメートル法にもとづく写真植字法、「 Q 数体系 」 をもちいていた造形者は混乱をみせ、その混乱はいまだに収束していないようである。
昭和うまれの造形者の多くは、メートル法のもとで育ち、メートル法によった写真植字に馴れていた。

1 Q  =  1 歯  = 0.25 mm

そこではタイプの大きさとして 「 Q 数 」( Quarter 四分の一 の略。 1 Q = 0.25mm 角 ) を、タイプや版面の寸法として、これまたメートル法にももとづく 「 歯数 」 ( 写真植字機のラチェット ・ インディケーターの歯車のひと刻みから。 1 歯= 0.25 mm ) をもちいていた。

つまり写真植字法のユーザーは、インチやパイカのスケールを持たないままに ( メートル法を採用しているわが国では、インチスケールの製造 ・ 輸入 ・ 販売が、おおやけには規制されていると仄聞するが…… )、相変わらず 30 cm の定規を手にして、その利便性によって急速に普及した、ヤード ・ ポンド法の長さの単位、インチ ( Inch ) と ポイントサイズ ( Pointsize ) と パイカルール ( pica ) を基本とするほとんどのコンピューターと、 DTP アプリケーションと対峙することを強いられることになった。
もとより多くのアプリケーションはメートル法に対応しているとはいえ、基本的には ヤード ・ ポンド法を、無理矢理メートル法に換算して、ないしは置換させて、アプリケーションを操作していると指摘することも可能であろう。

この奇妙な状況を風景としてとらえると、幕末から明治最初期の金属活字のおかれた風景に似ていることに気づく。
つまりその開発者のひとり、本木昌造は、尺貫法のもとにうまれ、鯨尺や曲尺しかもたないまま、欧米諸国からもたらされた、この時代の最先端技術であった金属活字製造と、活字版印刷術の開発に対峙したはずである。
それをもたらした欧米諸国には、鯨尺も曲尺も存在しなかったことは自明の理である。また、本木昌造らがその最初期にもちいた活字鋳造器機は、当時の工業技術の水準からみても、諸外国からの輸入品とみられ、当然ながら活字鋳型や活字ボディサイズは、鯨尺や曲尺に準拠したものではないこともまた自明の理であろう。

わが国の最初期の近代活字開発者はほとんど文書記録をのこさなかった。
そのなかでひとり、本木昌造だけが、教育施設としての 「 新街私塾 」 をひきい、その門人への教育資料の一環として、俗称 『 本木昌造活字版の記事 』 をのこし、その一部が 『 崎陽 新塾餘談 初編一、二 』 ( 壬申二月  明治05年02月) にも掲載されたものであろう。
したがって俗称 『 本木昌造活字版の記事 』 が尺貫法でとかれ、今日的な視点で齟齬がみられるとしても、それを責めることはできないであろう。

むしろ本木昌造とその一門がのこしたその活字と組版をしっかりと検証 ・ 計測し、本来の数値に置きかえることなく、 <わが国の号数制金属活字とは本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である > として、
ただその一部だけを、引抄につぐ引抄をつづけた、後続の印刷 ・ 活字ひとこそその責務を問われてしかるべきかもしれない。
その最末尾に筆者もわずかに存在している。

スケール写真上) 中国北京で購入した cm,  INCH 併用の金属製スケール。上部がメートル法で、下部が INCH スケール。 1 feet は 12 inch,  30.48 cm。   1 inch は 1/12 feet 。 新宿の画材店では見かけないが、おおくの百円均一ショップでは同種のものを販売しているという。
写真下) 1980年代の末に米国の画材店で購入した INCH スケール。 デザイン用に特化したもので、最下部に DTP Point スケールがある。
かつてある画材店の国際部が輸入をはかったが、所轄官庁から輸入 ・ 販売の許可がおりなかったとされた。 そのため数セットを米国で購入して、周辺のタイポグラフィに厳格なデザイナーに配布したこともあった。

このある意味では混乱期ともいうべき時代に、奇妙な逆転現象がおこった。
すなわちパーソナルコンピューターの能力と精度が向上し、1 pt  = 1/72 in (逆にいえば、1 in = 72 pt ) と正確に表示 ・ 再現できるようになったいま、わが国の号数制活字のうち、中核を占める五号活字を中心とした 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 は、「 ほぼ ・ およそ 」 こそいまだにつくものの、いくら検証をくりかえしても、そっくりそのまま DTP ポイントに移行できたのである。

換言すると 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、それと知らぬまま、のちにアメリカン ・ ポイントとして採用 ・ 制定されたサイズとおなじ大きさの活字を、鋳造し、使用していたことになる。 
これは故松本八郎ともよく議論をしたことだが、そもそも活字のボディサイズを  72 のグリッドで分割する考えかたはふるくからあり、フランスの ピエール ・ シモン ・ フールニエ、ファルミン ・ アンブロア ・ ディドなどの名が知られる。
この 1 pt  = 1/72 in (逆にいえば、1 in = 72 pt )という考えのなかには、おもわぬ精緻な合理性がひめられている。

72 = 23 × 32

上掲の式によって、72 という数は、多くの数値 ( 素因数 ) に分解できる。 すなわち、二、三、四、六、八、九、一二、一八、二四、三六などの数でいずれも割り切れるのである。
またこの数値を活字組版にもちいれば、大きさのことなった文字活字を組みあわせても、組版の揃った、整然とした文字組版を獲得できるわけである。

これから <号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である >  という 「 神話 」 の解明にむけて考察を開始したい。
まずは、故松本八郎が問題提起した、

◯ <なぜ、 「四号」 〔 活字の 〕  下 〔 うしろ 〕 がないのか> の紹介をつうじて、
◯ <なぜ、明治最初期からスタートしたわが国の号数制活字のうち、 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、のちの1886年(明治19)に制定された、アメリカン ・ ポイントシステムとボディサイズが極似ないしは合致しているのか>
◯ <なぜ、わが国の号数制活字は三つのグループに大別され、そのグループ間に共用性がとぼしいのか>
◯ <なぜ、長崎由来とことなる号数制活字を採用していた、神崎正誼マサヨシの弘道軒の活字ボディサイズは、いまだに曲尺準拠説のもとにあるのか>
◯ <なぜ、長崎製鉄所新聞局の活字製造部門を吸収して、1971年(明治04)発足した勧工寮活字局の活字ボディサイズは問われぬまま放置されているのか>

これらの諸問題の解明を 蟷螂の斧を振りかざしてはかりたい。  江湖のご支援を期待するゆえんである。

《 本格考察にはいる前の予備知識として、予習ないしはおさらいをかねてお読みいただきたい 》

基本 CMYK20150423111842098_0001『 新塾餘談 初編一 』 巻末口上 ( 活字ボディサイズ見本ならびに価格表 )
壬申二月 ( 明治05年02月 ) 刊、印刷博物館蔵

9784947613547
上掲図版は 『 本木昌造伝 』 ( 島谷政一 2001年08月20日 ) より。 同書p.134-5 ページには組版原寸で紹介されている。
このうち 初号活字、二号活字、五号活字は、アメリカンポイント制活字と極似し、それぞれ 42 pt,  21 pt,  10.5 pt の値となる。

その追試検証にさいしては以下の数値をもちいれば、容易に検証作業がパソコンでもできる。 作業にさいしてはできたらメートル法に置換することなく、Inch 方式を採用し、字間に 適度のトラッキング ( 見本が二分、四分アキ、字割りなどのため ) をもうけて欲しい。
◯ アメリカンポイント制  1 pt ≒  1/72 in = 0.3514 mm
◯ DTP ポイント制     1 pt = 1/72 in = 0.352777 …….. mm
長崎港のいま
長崎港のいま。本木昌造、平野富二関連資料にしばしば登場する 「 崎陽 キヨウ」 とは、長崎の美称ないしは中国風の雅称である。 ふるい市街地は写真右手奥にひろがる。

新塾餘談 初編一新塾餘談 初編一 口上 新塾餘談 初編一 活字見本 新塾餘談 初編一 売弘所 新塾餘談 初編二 新塾餘談 初編二 口上 新塾餘談 初編二 活字見本 新塾餘談 初編二 売弘所『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』  ともに壬申二月 ( 明治05年02月) 牧治三郎旧蔵

◯ 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 壬申二月  明治05年02月 牧 治三郎旧蔵
同書は、「 緒言-明治壬申二月 本木笑三ママ 」、「 燈火の強弱を試る法 図版01点 」、「 燈油を精製する法 」、「 雷除の法  図版02点 」、「 假漆油を製する法 」、「 亜鉛を鍍する法 」、「 琥珀を以て假漆油を製する法 」、「 口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」が収録されている。
また図版として計03点が銅メッキ法による 「 電気版 」 としてもちいられている。

『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は第 1 丁-10丁までが丁記 ( ページナンバー ) を付せられてあるが、11丁からは急遽追加したためか、あるいは売り広め ( 広告 ) という意識があったのかはわからないが、丁記が無く、そこに 「 口上 」 がしるされている。
製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽(塩)屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 の名がある。

◯ 『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 壬申二月  明治05年02月 牧 治三郎旧蔵
同書は、筆者手許資料は第01- 9 丁までを欠く。 10-20丁からの記述内容は、もっぱら電気鍍金法メッキの解説書である。  「口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」 は 21丁にあるが、ここからは丁記は無い。

「 口上 」 の記載内容は 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 と同一で、発行もおなじ壬申二月 ( 明治05年02月 ) であるが、製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽(塩)屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 のふたつの名が追加されている。
銅メッキ法による 「 電気版 」 は19丁に、電解槽とおぼしき図版が印刷されている。

また最終丁には、長丸印判によって 「 定價永三十六文 」 と捺印されている。
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新町活版所跡碑部分上掲図版は、長崎の新街私塾 ( 新町活版所 ) から刊行された 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( ともに壬申二月  明治05年02月 平野富二このとき27歳 ) の巻末に掲載された 「 崎陽 新塾活字製造所 」 の「口上」のある活字見本 ( 価格付き ) である。
この図版は、これまではしばしば本木昌造の企画として紹介され、文例から 「 天下泰平國家安全 」 の、本木昌造による活字見本として知られてきたものである ( 筆者もそのように紹介してきた。 ここに不明をお詫び申しあげたい )。

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。平野富二 ( 富次郎 ) が、市場調査と、携行した若干の活字販売のために大阪経由で上京した1871年 ( 明治04 ) 秋、26歳のときの撮影と推定される。 知られる限りもっともふるい平野富二像。
旅姿で、月代 サカヤキ をそらない丁髷に、大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。 撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は 「 A. Morikawa TOKYO 」 である。

廃刀令太政官布告は1876年(明治09)に出されたが、早早に士籍を捨て、平然と 「 平民 」 と名乗っていた平野富二が、いつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である。
平野富二の眉はふとくて長い。 目元はすずやかに切れ長で、明眸でもある。 唇はあつく、きりりと引き締まっている ( オリジナル写真は平野ホール蔵 )。

本木昌造は、このころすでに活字製造事業に行きづまっており、1871年(明治04)06-07月にわたり、長崎製鉄所を辞職したばかりの平野富二 ( 富次郎 ) に、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 への入所を再再懇請して、ついに同年07月10日ころ、平野はその懇請を入れて同所に入所した。
これ以後、すなわち1871年 ( 明治04) 07月以降は、本木は活字鋳造に関する権限のすべてを平野に譲渡していた。

また本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放する意志はなく、「 新街私塾 」 一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていた。
そのことは、『 大阪印刷界 第32号  本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 )、 『 本木昌造伝 』( 島屋政一 朗文堂 2001年 ) などの諸記録にみるところである。

長崎活版製造会社之印長崎港新町活版所印新街私塾

『 本木昌造伝 』 ( 島屋政一 朗文堂 2001年08月20日 ) 口絵より。 元出典資料は 『 大阪印刷界 第32号 本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 ) であり、『 本木昌造伝 』 刊行時に画像修整を加えてある。 上から 「 長崎活版製造会社之印 」、「 長崎港新町活版所印 」、「 新街私塾 」 の印章である。
長崎の産学共同教育施設は、会社登記法などの諸法令が未整備の時代のものが多く、「 新街私塾 」 「 新町私塾 」 「 長崎新塾 」 としたり、その活字製造所、印刷所なども様様な名前で呼ばれ、みずからも名乗っていたことが、明治後期までのこされたこれらの印章からもわかる。

苦難にあえでいた 「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 の経営を継承した平野は、従来の本木時代の経営を、大幅かつ急速に刷新した。
またこの前年、1871年(明治04)の秋の上京に際して、東京を中心とする関東での市場調査と、携行した若干の活字販売をしているが、その際平野は販売に際して、カタログないしは見本帳の必要性を痛感したものとみられる。
それが 「 活字見本 ( 価格付き )」 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( 壬申二月  明治05年02月)につらなったとの指摘が、諸資料を十分検討したうえで 『 平野富二伝 』 で古谷昌二氏よりなされた。

長崎に戻った平野は、それまでの本木の方針による 「 活字を一手に占有 」 することをやめて、ひろく活字を製造販売し、あわせて活字版印刷関連機器を製造し、その技術を公開することとした。
本木の行蔵には、どこか偏狭で、暗い面がみられ、高踏的な文章もたくさんのこしている。
ところが、その事業を継承した平野は、どこかわらべにも似て、一途な面が顕著にみられ、伸びやかかつおおらかで、なにごともあけっぴろげで明るかった。

1871年 ( 明治04 ) 07月10日ころ、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 へ入所し、事業の一切を継承したた平野は、早速市場調査と、活字の販売をかねて09-10月に上京した。 この旅から平野が長崎にもどったのは11月01日 ( 旧暦 ) とみられている。
そのとき、長崎ではまだのんびりと 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 の活字組版が進行していたとおもわれる。  また 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 の緒言に、本木は 「 本木笑三 」 という戯号をもちいて、なんらの緊張感もない序文をしるしていた。

長崎にもどった平野は、本木とその協力者 ( 既存の出資者 ) に 「 活字見本 ( 価格表付き )」、すなわち活字販売用のカタログを緊急に製作する必要性を説き、その承諾をえて、『 崎陽新塾餘談 初編一 』  『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 (壬申 二月  明治05年02月)の両冊子の巻末に、急遽 「 販売を目的とする価格付きの活字見本 」 を印刷させ、まずは活字を、ついで活版印刷機器を、ひろく需用者に販売することにしたものとみられる。
長崎港のいま 新町活版所跡の碑 活版伝習所跡碑 本木昌造塋域 大光寺 本木昌造銅像 長崎諏訪公園このような活字を製造し、販売するという平野富二の最初の行動が、この活字見本 ( 価格付き ) であったことの指摘が、『 平野富二伝 』 ( 古谷昌二編著 朗文堂 p.136-7 ) でなされた。  これはタイポグラファとしてはまことに刮目すべき指摘といえよう。

掲載誌が、新街私塾の 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』、『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 であり、販売所として、初編一では長崎 ( 崎陽 ) の 「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 であり、初編二には前記二社のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 の名が追加されている。
これらの販売所はすべて本木昌造とその一門が関係していた企業であり、当然その効果は限定的だったとみられるが、これが平野のその後の事業展開の最大のモデルとなったとみられ、貴重な資料であることの再評価がもとめられるにいたった。

補遺4 活字の販売 
明治5年(1892)2月に新街私塾から刊行された小冊子 『 新塾餘談 初編一 』 の巻末に、
「  口上
此節雛形の通活字成就いたし片仮名平仮名とも大小數種有之候間  御望の御方へハ相拂可申右の外字體大小等御好の通製造出申候
   壬申 二月          崎陽 新塾活字製造所 」
という記事があり、続いて、初号から五号までの明朝体と楷書体活字を用いた印刷見本と、その代価が掲載されている。

この広告文は、活字を一手占有するという本木昌造の従来の方針を改め、世間一般に販売することにした平野富次郎による経営改革活動の一環と見ることができる。 東京で活字販売の成功と事業化の見通しを得たことが、本木昌造と協力者の方針を変更させ、このような活字販売の広告を出すに至ったものと見られる。              ( 『 平野富二伝 』 古谷昌二 p.136-7 )

壬申、1872年(明治05)、平野富二はたかだかと口上をのべた。このとき平野数えて27歳。
「 口上  ――  [ 意訳 ] このたび見本のとおり活字ができました。 カタ仮名活字、ひら仮名活字も、活字サイズも大小数種類あります。 ご希望のお客さまには販売いたします。 そのほかにも外字やサイズなど、お好みに合わせて製造いたします。
明治五年二月  崎陽 新塾活字製造所 」
以上をのべて、本格的な活字製造販売事業を開始し、あいついで活版印刷関連機器の製造販売事業をはじめた。

この 「 口上 」 という一種のご挨拶は、本木の高踏的な姿勢からは発せられるとは考えにくく、おそらく平野によってしるされた 「 口上 」 であろう。
同時に平野は、東京への進出に備えて、あらかじめ1872年(明治05)8月14日付け 『 横浜毎日新聞 』 に、陽其二 ヨウ-ソノジ、ミナミ-ソノジ らによる、長崎系同根企業の 「 横浜活版社 」 を通じて、同種の広告を出していた。

同年10月、平野は既述した 「 平野富二首證文 」 を担保として、上京のための資金 「 正金壱千円 」 余を調達した。 その調達先には、長崎六海商社と、元薩摩藩士で関西経済界の雄とされる五代友厚の名前があがっているが後述したい。
そして、退路を断った東京進出への決意を胸に秘めて、新妻 ・ 古ま ほか社員08名 ( のち02名が合流 ) をともなって上京した。

上京後の平野は、ただちに同年10月発行の 『 新聞雑誌 』 ( 第66號 本体は木版印刷 ) に、同種の 「 天下泰平國家安全 」 の活字目録を、活字版印刷による附録とし、活字の販売拡大に努めている。
このときの 『 新聞雑誌 』 の発行部数は不明だが、購読者たる明治の教養ひとにとっては、木版印刷の本紙の付録として添付された、活字版による印刷広告の鮮明な影印は、新鮮な驚きがあったであろうし、まさしく文明開化が具現化したおもいがしたのではなかろうか。

この 「 壬申 二月 」、1872年(明治05)02月とは、わが国の活字と活版印刷術が、平野富二の手によって、はじめて、おおらかに、あかるく、ひろく公開され、製造販売が開始された記念すべき年であったことが、本資料の再評価からあきらかになった。
これからは時間軸を整理し、視点を変えて、再検討と再評価をすべき貴重な資料といえる。