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【アダナ・プレス倶楽部】 中国 上海の活字製造と活版印刷情報

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《錯綜する中国の活字製造と活版印刷関連情報》
なにしろ広大な国土の中国のことであり、活字製造と活版印刷関連情報とひとくちにいっても、とかく情報が混乱して錯綜していた。
比較的情報がはいりやすい北京とその近郊には、すでに活字製造業者、活版印刷業者
が存在しないことは確実とみられるが、
「中国東北部の吉林省や遼寧省では、まだ活版印刷業者があって、活字も供給されているようだ」
「中国西部の四川省でも、まだ金属活字の製造が継続しているようだ」
といった、伝聞や風評ばかりで、歯がゆいものがあった。

ところで、上海で活躍する版画家:楊 黙さんと畠中 結さんのご夫妻は、2012年の暮れに、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部から<小型活版印刷機 Adana-21J >を購入された。
上掲写真のように、 Adana-21J は楊 黙さんのスタジオに設置されて、その造形活動の拡大に貢献している。そんなおふたりから今般上海郊外の活字鋳造所の現況報告と写真をご送付いただいた。

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★ YANG MO  楊 黙
★ エッ、いまごろお正月 !? 上海在住の会員がご来社に。そして「老北京のご紹介」 2014年02月10日
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★ 中国 上海の活字製造と活版印刷関連情報 ── 畠中結さんからのご報告

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楊 黙  Yang Mo ┊ 1980年中国うまれ
中国上海在住。日常生活のすべてを芸術、デジタル・デザイン、版画製作に捧げているアーティスト。
楊氏は南京芸術大学を卒業し、そののち版画製作の最先端の研究を、ドイツ中央部、芸術と大学都市、カッセル(Kassel)で続行した。同地で日本から留学中の畠中 結さんと知り合って結婚した(中国では夫婦別姓がふつう)。
中国に帰国後、ふたりは上海にアトリエを開設して、中国各地でいくつかの展覧会を開催した。また2012年の東京TDC賞にも選ばれている。
楊氏はおもにデジタル・デザイナーとして活躍しているが、常に彼自身の版画作品をつくって、現代中国では顧みられることの少ない、あたらしい版画芸術を提案し続ける、意欲にあふれる造形家である。
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《上海郊外にある、いまでも実際に稼働している活字鋳造所》
下掲の写真は、おそらくわが国では、はじめて紹介されるものとおもわれる。
撮影は今春に、この活字鋳造所を訪問された楊 黙さんによるものである。
中国では〈活版ルネサンス〉のうごきははじまったばかりであるが、写真でみる限り、この活字鋳造所には10台以上の活字鋳造機があるようにみられる。
また「活字母型タンス」もしっかり管理されているようであり、もう少し中国における〈活版ルネサンス〉の動向が顕著となって、既存の活版印刷業者の奮起と、あたらしい活版造形者が増加すれば、ふたたび活性化することは可能のようにみられる。
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西欧諸国からもたらされた近代印刷術に関していえば、わが国では「江戸期通行体 お家流」の可読性と判別性がひくかったために、明治新時代の民衆の旺盛な読書需要にこたえるために、お家流のような連綿形ではなく、一字一字が独立して、また明確な矩形による明朝体活字を中心とした活字版印刷の普及に積極的であった。

それにたいして、清国末期から中華民国初期の時代(明治時代から大正初期)の中国では、まず膨大に存在した古文書の影印本(古文書の文面を、写真術によって複写・製版・印刷した複製本)の製作に熱心で、活版印刷より石版印刷の普及に意欲的だったという非我の相異がみられた。

そんな社会風潮もあって、中国における近代活字版印刷術の開発と普及は遅延した。ところが1940年代の後半からの新中国では、民衆のリテラシーの向上が国是となって、活字製造と活版印刷は急速に普及した。
まず楷書体が注目され、さまざまな企業が開発にあたったが、なかでも上海漢文正楷書書局の開発による製品名「正楷書」活字がおおきな成功をおさめた。

近代中国の活字書風の「楷書体」は、北宋の皇族の末で、清朝の乾隆帝・康煕帝などによってたかく評価された、元朝の書芸家「趙松雪チョウ-ショウセツ(趙子昴チョウ-スゴウ、趙毛頫チョウ-モウフ トモ)の柔軟な書風をもととして、「矩形にまとめられた柔軟な楷書  ≒ 軟字・軟体楷書」を源流とするものが多い。
とりわけ上海漢文正楷書書局の「正楷書」(正楷書は製品名)
活字は、昭和前期に名古屋・津田三省堂などによってわが国にも導入されて、やはり「正楷書活字」と呼ばれて、それまでにわが国にも存在していた「楷書体活字」との競争に互角の勝負をいどみ、いまなお楷書活字の基本となっている。
[この項参考資料:ヴィネット09 『楷書体の源流をさぐる』 林 昆範、朗文堂、p.84-]

また北宋王朝刊本に源流を発する、彫刻の特徴が際立った、工芸書風としての倣宋版活字(倣はならう・まねる ≒ 模倣)が積極的に開発された。
著名なものとしては華豊書局製造の「倣宋版活字」(わが国では森川龍文堂の導入によって龍宋体とされた)、「商務印書館の倣宋体」、「中華書局聚珍倣宋版、倣宋版」(わが国には昭和前期に名古屋:津田三省堂らによって導入されて宋朝体とされた)の開発に集中していたようである。
その反面、わが国では意欲的に開発がすすんだ、「宋体-わが国の明朝体」、「黒体-わが国のゴシック体」の開発には消極的であった。
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ともあれ、現代中国でもあたらしい活版造形者が増加するかたむきをみせはじめている。そんな背景もあって、楊 黙さんのスタジオには最近中国メディアからの取材が盛んだとお聞きした。
これを好機として、ここに声を大にして、字の国、漢字の国、中国の活字鋳造所の復活と交流を望みたいところである。 できたらことし中に、上海に楊 黙さん・畠中 結さんをおたずねして、この活字鋳造所を訪問したいものである。
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タイポグラフィあのねのね*007 活字における「捨て仮名」の誕生

活字《捨て仮名》の誕生は意外と新しい !?

この記事は2011年04月20日に初掲載されたものである。
なぜか、ここのところ「捨て仮名、促音・拗音」活字の
創始に関するお問い合わせがつづいたので

若干の補整をくわえて、2014年5月08日ここに再掲載したものである。

すて-がな【捨て仮名】――広辞苑
①  漢文を訓読する時に、漢字の下に小さく添えて書く送り仮名。すけがな。
②  促音・拗音などを表すのに用いる小さな字。「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」の類。

このタイポグラフィ・ブログロール「花筏」―― 「タイポグラフィ あのねのね*005 音引き・長音符「ー」は、「引」の旁からつくられた 『太陽窮理解説』」 において、長崎のオランダ通詞・本木良永が、天文学書の翻訳『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』(1792年 寛政4  長崎歴史博物館蔵)のために、下記のような記述法を創意・工夫・考案し、それを「凡例」のような形で文書化して巻首にのこしていることを報告した。

本稿は本木良永が縦組みの手書き文書のなかで考案した、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が、旧仮名遣いとされる文書や印刷物のなかでは、わずかな例外は当然あったにしても、一般にはなかなか普及をみずにいたものが、いつから印刷物の中――活字書体として採用され、実施されたのかを探るために記述した。
そこで本木良永『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』から、もういちど復習して、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が普及したのかを、まず実際の印刷物から考察してみたい。

『太陽窮理了解説』和解草稿2冊にみる意外な記録

  • アラビア数字を、活字(金属活字か? 捺印式)をもちいて紹介した。
  • カタ仮名の濁音[ガギグゲゴの類]を、「〃」のように、母字に2点を加えることと制定した。
  • カタ仮名の半濁音[パピプペポの類]を、「°」 のように、母字に小圏(小丸)を加えることと制定した。
  • カタ仮名の促音を、角書きツノガキにならって小さく表記すると制定した。
  • 長音符号(音引き)を、引の字の旁ツクリからとって、「ー」と制定した。
  • オランダ語の詠みを、カタ仮名表記と併せ、漢字音を借りて(当て字)併記して表記した。

明確な記録が存在する、
新聞組版における捨て仮名の初使用

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)

「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」

中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――引用紹介 「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)

『印刷雑誌』1949.9 表紙・本文ページ(印刷図書館蔵)

『日本印刷技術史年表』』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日)は、 1945-80年までの印刷関連の歴史資料を編纂したもので、以下の8項目に分けて簡潔に記述されている。
調査・編集にあたったメンバーは、おもに東京高等工芸学校(旧制高等学校のうち、大学にならなかった数少ない高等学校。一部の教職員と在校生が千葉大学工学部に移動したために、同校は東京高等工芸学校・現千葉学大工学部と表記されることが多い)の出身者で、それぞれが下記の8項目を分担して、調査・編集にあたっている。
「文字組版」の担当は加藤美方(カトウ-ヨシカタ 1921-2000)であった。

  • 原稿作成・デザイン・出版     小柏又三郎
  • 文字組版                  加藤 美方
  • 写真製版                    板倉 孝宣
  • 凸 版                       坪井滋憲・新木 恒彦
  • 平 版                       飯坂義治・佐藤富士達
  • 凹版・グラビア                市川家康(凹版)・飯坂義治(グラビア)
  • 特殊印刷・製本・加工        山本隆太郎
  • 教育・資材その他          川俣 正一

中國新聞 昭和24 年5 月23日号
中國新聞 昭和24年5月24日号
中國新聞 昭和24年5月25日号
中國新聞 昭和24年5月26日号
『中國新聞』 (国立国会図書館蔵)

上記の記録を得て「中國新聞社」に架電したところ、同紙の戦後版は国立国会図書館にマイクロフィルムがあるとの情報を得た。そこで昭和24年5月26日の前後、数日分の複写記録を取得した。その複写資料が上記に紹介した『中國新聞』である。

興味深かったのは5月23 日までは、見出し・本文ともに捨て仮名活字の使用はみられないが、5月24日号の見出し活字の一部が捨て仮名活字になっており、本文中には、捨て仮名と並仮名――(促音と拗音であっても)ふつうの大きさの仮名活字、おもに捨て仮名にたいしていう――活字が混在していたことであった。
そして翌日の5月25日号では、
またすべて並仮名活字の使用にもどり、5月26日号からは、見出し、本文ともに、促音と拗音のすべてが捨て仮名活字になっていた。

その理由は分明しないが、捨て仮名活字の鋳造が間に合わなかったというより、おそらくは5月24日号で捨て仮名への移行が試行され、その読者の反応と社内体制の進捗具合を確認して、昭和24年5月26日号から、『中國新聞』において、見出し・本文活字ともに本格的に「捨て仮名」活字の使用がはじまったものとおもわれた。

このように、新聞に関しては、促音と拗音が、並仮名活字から捨て仮名活字への切り替え時期に関する明確な記録があったが、書籍印刷、商業印刷、端物印刷における捨て仮名活字の移行期はなかなか判明しない。そもそも先に紹介した新聞に関する原記録では、
新聞整版では、一般に促音拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年  昭和24年9月号 p.30)
とあり(アンダーラインは筆者による。以下同)、「新聞整版[活字組版]では、一般に促音拗音の小活字が用いられない」とされている。

また、「だんだん復活のきざしが生まれている」という結びの部分も気になる。
すなわち、換言すれば、
「一般図書や端物印刷では、ふつう促音・拗音に小活字[捨て仮名活字]が用いられている」
「新聞組版は捨て仮名活字を用いた時期もあったが、中國新聞社が復活させた」
とも読める。したがってかなり悩ましい記録であることが判明する。

また初出が「促音拗音」だったのが、加藤美方による以下の引用文、
「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会 印刷図書館 昭和59年3月30日 p.17)

ここにおいては、「促音と拗音」の順序が変わり、「と」のひと文字が省略されて、「拗促音」なる合成語に変わっている。それでも加藤美方はあくまでも「拗促音の小活字」としており、現在一部で活字用語の省略語としてもちいられている、いささか横着な「拗促音」のように、音≒声と、字の形姿、活字形態とを混同しているわけではない。
この促音・拗音・撥音・拗促音の活字表記の名称の混乱に関しては、国語教育の問題と関連づけて、いずれ再度本欄で取りあげてみたい。

手がかり難な一般図書の捨て仮名の初使用

書籍印刷、商業印刷、端物印刷における「捨て仮名」活字の移行期はなかなか判明しないことは既述した。そこで筆者の手許資料『理想社印刷所六十年』(田中昭三 理想社)から、ひとつの手がかりを紹介したい。
同書は創業者の一代記ともいえる内容の文書記録『田中末吉』(創業50周年記念 昭和46年12月28日)と、新本社工場ビルの竣工を記念した写真記録『町工場六十年』(創業60周年記念 昭和56年10月20日)との二分冊となってケースに入っているが、おもに文書記録『田中末吉』から紹介しよう[『理想社印刷所六十年』(田中昭三 理想社)は2013年オンデマンド印刷方式によって増刷された]。

『町工場六十年』口絵の田中末吉
理想社の創業者/田中末吉(明治25年―昭和34年、昭和16年ころ)

昭和10年ころの理想社印刷作業場風景(中央・田中末吉)
昭和10年ころの理想社文選作業風景
昭和10年ころの理想社植字作業(奥)、カエシ作業(手前)

理想社は1921年(大正10)の創業で、岩波書店、有斐閣などを主要顧客とする書籍印刷の中堅印刷業者である。
創立者の田中末吉は1892年(明治25)12月4日、牛込市ヶ谷加賀町にうまれた。1905年(明治38)秀英舎(現大日本印刷)に文選見習い工として入舎して、入退舎を繰りかえしながら、日本新聞社(神田)、三光舎(春日町)、文明社、中外印刷、丸利印刷、東洋印刷(芝)、凸版印刷(本所)、博文館(小石川、現共同印刷)、その他を転転として修行をかさねた。

さらに1909年(明治42)には、徒歩で、横浜・横須賀・小田原・静岡・京都・大阪などの、秀英舎の修了生が経営・在勤する工場を、文選箱、セッテン、組版ステッキだけを携行して訪ね歩き、活版印刷全般の研鑽を重ねたとされる(田中昭三)。
この時代の秀英舎には、包丁一本を抱えて修行に研鑽した、日本料理職人の修業にも似た、現場修行を重んじるよき慣習があった。また同舎の修了生は、こうして訪ねてくる「舎弟」の面倒をよくみていたことが、長野市の柏与印刷の社史などにも記録されている。

田中末吉が満を持して「理想社組版所」の看板を牛込柳町に掲げたのは1921年(大正10)のことだったが、幸い関東大地震の被害が軽微であり、また岩波書店の強い後援もあって、次第に大型活版印刷機を導入するなどして発展を続け、19331年(昭和8)現在地の新宿区改代町に移転した。

昭和10年(1935)当時の同社の記録(田中末吉筆)をみると、
活版印刷機四六全判、菊全判6台、活字鋳造機[自家鋳造用、トムソン型か]を7台に増設し、活字1回限りの使用とした。従業員70余名を使用する小工場を経営することとなる。
当時のおもなお得意先は、岩波書店、東京堂、誠文堂新光社、古今書院、長崎書店、理想社出版、創元社、白水社、有斐閣、帝大出版部、大村書店、早大出版部、羽田書店、栗田書店など、数十社のごひいきを賜る-としている。

昭和17年(1942)それまで順調な進展をかさねてきた理想社におおきな不幸が見舞った。第二次世界大戦による「企業統合」である。
理想社は軍需工場への転換を拒否し、苦渋の決断として「企業統合」の道を受け入れた。そのため設備と在庫と在版の大半を「供出」させられ、社員の相当数を「軍役召集」と「勤労奉仕」によって失い、同業数社と統合されて、世田ヶ谷区祖師谷大蔵に「疎開」を命じられた。

(田中末吉筆) 戦時体制により、印刷業界も企業統制下に置かれることとなる。この機に当面し、崩壊する民間企業に立ち、 ひとり前記のお得意先を支持し、率先して理想社を主体とした、内田ほか2業者を合併し、株式会社大和ダイワ印刷を興し、世田ヶ谷区の労働科学研究所内に全工場を統括疎開し、事業を継続する。この間大和印刷社長に就任。また戦後の苦難を嘗める。

活字・捨て仮名は、理想社の創意によるもの !?

『田中末吉』の p.83-96に、「戦前の理想社」と題する座談会が収録されている。出席者は以下の6名である。
松浦  元  大正15-昭和27年在社 当時文殊印刷社長
石渡  光  昭和8年-20年在社 元植字職長
三須  力     昭和8年-36年在社 元文選職長
建守 正好  昭和8年-18年在社 元営業
田中 昭三  理想社2代目社長(田中元子の婿)
田中 元子  田中末吉の長女

『田中末吉』 p.94より

田中昭三: 理想社印刷所が大正3年、故田中末吉によって設立されてから、今年でちょうど創業50年になります。これを記念して、先代社長の回想を兼ねて、当社の歴史的側面を記録しておくことにいたしました。
大正末期から昭和初期の、いわゆる理想社の基礎を築いた時代の諸先輩の皆さまにお集まりいただき、色々な想い出を話していただきたいと存じます。(中略)
田中昭三: オヤジは亡くなる前、入院中でも、校正刷りを持ってこさせて、それをみては、この[活字]母型を直せとか、これを検査してみろと、色々指示していましたが。
三 須:  それは真剣にやっていた。うるさかったですよ。文選ケースも自分でよく工夫されていた。活字が悪かったら、印刷が良くても駄目だと良く主張していた。
石 渡:  [活字]母型はたくさんの種類をもっていた。田端の木村さんによく新しく彫刻させていたんです。それと五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくったのは社長[先代田中末吉]だったね。あれなんかは他社ではやっていませんでした。(後略)

石渡  光(昭和8年-20年理想社在社 元植字職長)の口からでた、おもわぬことばがここに記録されている。 石渡 光は「昭和8年-20年在社 元植字職長」とされている人物である。
すなわち昭和24年5月26日『中國新聞』における「捨て仮名」の採用に先立って、昭和8年・1933-昭和20年・1945のいずれのときかに、
「五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくった」
のは理想社社長、田中末吉の創意と工夫であり、同社によって「捨て仮名」活字の使用がはじまったとしている。

理想社は現在、田中末吉の嫡孫・田中宏明ヒロアキがひきいており、2008年までは四六全判活字版印刷機も轟音をひびかせて稼働していた。
同社長によると、理想社では現在も促音・拗音の仮名を「捨て仮名、半音、まれに、寄せ仮名・促音・小仮名」活字と呼ぶそうである。
また、活字母型製造は知る限り飯田活字母型製造所に依頼していたとするが、「田端の木村さん」という活字母型製造所が、飯田活字母型製造所をさすのか、あるいはほかの活字母型製造所なのかはわからないそうである。

繰りかえしになるが、新聞媒体に「捨て仮名」活字の使用がはじまったのは、以下の比較的信頼すべき媒体に紹介されたように、1949年(昭和24)5月26日、中國新聞によりはじまっている。

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。 ――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)
「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9) ――「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)

それにたいして、ここに、書籍印刷のなかではじめて「捨て仮名」活字の使用がはじまった時期は、昭和8年・1933-昭和20年・1945のいずれのときかに、理想社社長、田中末吉の創意と工夫によって「捨て仮名」活字の使用がはじまったとする記録が存在していることを紹介した。

五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくったのは社長[先代田中末吉]だったね。あれなんかは他社ではやっていませんでした。
――石渡 光 昭和8年-20年 理想社に在社 植字職長

この記録は座談会のなかでのものであり、いささか厳密さに欠ける。
またこの程度の工夫なら、同時多発的に、各地・各所の印刷所や新聞社においても実施された可能性を否定できない。
当然手書き文書のなかには、ほとんど無意識であろうが、促音・拗音を小振りに、右寄せ(縦組み)にしたものは、先行事例としてたくさんみる。
したがって、理想社/田中末吉の創意と工夫とは、活字組版におけるたくさんの創意と同様に、手書き文書の慣行を、無理なく活字組版に取り入れたものとみなすのが順当であろう。

理想社は、戦時体制下における企業統合の際に、「印刷所保存版書籍」のすべてを没収されており、戦前の同社の記録はきわめて乏しい。
しかしながら、「捨て仮名」活字を「寄せ仮名」活字と呼称する印刷所や出版社もいまでも多数あり、すでに「片寄せして……」とした石渡 光の発言は無視できないものがある。
田中末吉が詳細に紹介した有力取引出版社の過半は現存している。理想社の「印刷所保存版書籍」は没収されているが、「版元用保存版書籍」をたどれば、出版物における「捨て仮名」活字の使用時期がわかりそうである。手がかりとは、こんな些細な記録に埋もれていることが多いのである。
問題提起をここにした。皆さんの助力を願うゆえんでもある。

タイポグラフィ あのねのね*020 活字列見 or 並び線見

【初掲載:2013年07月07日 改訂版:2013年07月20日掲載】

《きっかけは2011年12月をもって第一線を退いた 長瀬欄罫製作所 の提供の品であった》
2011年、あのおおきな地震と、原子力発電所の大事故が03月11日に発生した年であった。
東京都文京区関口にあった「長瀬欄罫ランケイ製作所」が、設備の老朽化と、経営者と従業員の高齢化、後継者不在のために、2011年の年末をもって閉鎖することが夏頃から書状をもって公表されていた。

長瀬欄罫製作所 第二代/長瀬 慶雄ナガセ-ヨシオ(昭和17年/1942年/8月8日 東京うまれ)とやつがれとは、ほぼ同世代であり、ながいつきあいになる。
長瀬欄罫は戦前は文字どおり活版印刷用の「欄罫製造業者」であった。戦後は大日本印刷の外注企業として、おもにページ物に使用する金属インテルや、日本語モノタイプ(自動活字鋳植機、通称:小池式 KMT 邦文活字自動鋳植機)をもちいて、各社に本文用活字を供給していた。

長瀬慶雄氏は、親子二代にわたって長年使用してきた「インテル鋳造機、欄罫鋳造機、KMT邦文活字自動鋳植機」などの廃棄をきめていたが、やはり長年にわたって愛用してきた機器に愛着があり、無償でよいからと、継続して使用する業者に譲渡される方途を探っていた。
やつがれも、友人・知人をあげて引き受け手を探したが、活版印刷関連業者はどこも現状維持が精一杯で、まして大地震と大事故のあとのことでもあり、無償でもこれらの大型機器の引き取り手は無かった。
────────
ところが暮れも押し詰まった2011年12月24日に、台湾の「日星鋳字行」という活字版製造所が、インテル鋳造機の引き取りに名乗りをあげて来日された。
12月24日とはクリスマス・イヴであった。
どうしても年内いっぱいには工場を閉めたいという、長瀬さんのつよいご希望があり、あわただしく「乙仲業者」を起用して、台湾にむけてインテル鋳造機を梱包発送できたのは、2011年12月29日というギリギリの日程であった。

台湾・日星鋳字行にもありました! このちいさな器具が。
「やつがれ-これをナント呼んで、ナニに使っていますか」
「張介冠チョウカイカン代表-名前は知らないけど、欧文活字を鋳込むとき、ベースラインを見本活字とあわせるのに必ずつかっています」
「やつがれ-なるほど、日本とほとんど同じですね」
「柯 志杰カシケツさん-そうか、知らなかったなぁ」
【参考資料:朗文堂-好日録019 活版カレッジ台湾旅行 新活字母型製造法を日星鋳字行でみる 2012年10月22日

大型機器が搬出された工場内は、ガランとした空間になったが、そこに前から気になっていた、ちいさな「器具や道具」が数個のこされていた。長瀬氏も「欧文活字の検査に使っていた」とされたが、名前は忘れたということであった。
「あした産業廃棄物業者がきて、全~部持っていくから、それはあげるよ」
ということで、その「器具」をいただいて、あわただしい師走の街並みをぬって帰ってきた。
【参考資料:タイポグラファ群像*005 長瀬欄罫製作所/小池製作所を記録する
───────
年が明けて、名前が分からないままというのも落ち着かない気分だったので、年始の挨拶などの会話で、この「道具」の名前の取材からはじめた。
その記録は、
タイポグラフィ あのねのね*016 これはナニ?  2012年02月23日
タイポグラフィ あのねのね*018 2012年03月13日
の2回にわたって『花筏』に発表した。掲載記事にリンクするとともに、要点だけを以下に挙げた。

タイポグラフィ あのねのね*016 要旨

これはナニ? なんと呼んでいますか? 
活版関連業者からお譲りいただきました。

◎  元・岩田母型製造所、高内  一ハジメ氏より電話録取。(2012年01月04日)
   《版見》と書いて《はんみ》と呼んでいました。
◎ 築地活字 平工希一氏談。(2012年01月10日)
   ふつうは「はんめ」と呼んでいます。漢字はわかりません。
   ひとに聞かれると「活字の高さを見る道具」だと説明しています。

◎  匿名希望 ある活字店談。(2012年02月02日)
   うちでは「はんめんみ」と呼んでいます。
   漢字は不確かながら「版面見」ではないかとおもいます。
◎ 精興社 小山成一氏より@メール(2012年02月15日)
   小社では《ハンミ》と呼んでいたようですが、元鋳造課長の75歳男に訊いたところ、
   判面(はんめん)と呼んでいたとのことでした。
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タイポグラフィ あのねのね*018 要旨

Type Inspection Tools   活字鋳造検査器具 

Type Lining Tester  活字列見

《これはナニ? なんと呼んでいますか?  タイポグラフィ あのねのね*016での問題提起》
2012年2月23日、タイポグラフィ あのねのね*016 において、下掲の写真を紹介するとともに、その呼称、役割、使途などを調査する一環として、金属活字鋳造、活字版印刷関連業者からのアンケートをしるした。 
その問題提起とアンケート結果は、上記アドレスにリンクしてあるので、まだ前回資料を未見のかたは、ご面倒でも事前にご覧いただきたい。

簡略なアンケートながら、このちいさな器具の呼称は、
「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」
などと、活字鋳造業者、活版印刷業者のあいだでは様様に呼ばれていたことがわかった。
140年余の歴史を有するわが国の近代活字版印刷術 タイポグラフィ と、活字鋳造業界には、じつに多様な業界用語があり、それがしばしば訛ってもちいられたり、省略されてもちいられることが多い。まして金属活字鋳造業界はながい衰退期にあるため、情報の断絶がしばしばみられるのがつねである。

『VIVA!! カッパン♥』(アダナプレス倶楽部・大石薫、朗文堂)は、「活版印刷の入門書」とされるが、大半を活版印刷に使用する(された)機器の紹介が占めている。あらたな事象を知るためには、迂遠なようでも、まず関連機器の正式な名称とその役割を知ることがたいせつと信じてのことであった。

またその使途・用途は、アンケート結果をみると大同小異で、ほとんどが、
「活字の高さを調べる器具」
「活字のライン、とりわけ欧文のベースラインの揃いを確認する器具」
との回答をえた。
現在の電子活字、とりわけその主流を占めるアドビ社の「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」においては、ベース・ラインの設定は、全角 em を1,000としたとき、120/1000の位置に設定されている。欧文活字設計、欧文組版設計において、もっとも重視される基準線がベース・ラインであることは、昔も今もなんら変化がない。
そしていまや、和文電子活字、和文電子組版でさえ「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」が主流となったため、ベース・ラインはより一層その重要性をたかめている。

わが国の金属活字の時代も、当然ベース・ラインの揃いは重視され、すくなくとも『活字と機械』に紹介された図版をみると、1914年(大正3)には使用されていたことがあきらかになった。
しかしながら、拡大鏡をもちいるとはいえ、この簡便な器具での視覚検査だけではおのずと限界がある。したがって相当以前から、このほかにも「顕微鏡型」とされる、より正確な、各種の活字鋳造検査器具が開発され、また鋳造現場での創意・工夫がなされ、随所にもちいられていた。
そのひとつは「ライン顕微鏡 Lining microscope」とされ、アダナプレス倶楽部が所有している。

  

《文献にみる、この器具の資料》
まだ精査を終えたとはいえないが、この器具はいまのところ外国文献には紹介を見ていない。しかし過去の例からいって、本格的に写真図版を紹介すると、やがて資料の提供があちこちからあるものと楽観している。
またのちほど紹介する、インチ目盛りのついた類似器具が、かつて学術書組版のために、欧文自動活字鋳植機(いわゆる欧文モノタイプ)を使用していた、新宿区内の企業から発見されている。いずれ外国文献の報告はあるものと期待をこめてみていたい。

わが国の資料では、『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)の各章の扉ページ(本書にページ番号は無い。電気銅版とみられる同一図版が6ヶ所にもちいられている)にもちいられたカット(イラスト)の左上部、上から二番目に類似の器具が図版紹介されている。
今回の調査をもって、この図版にみる12点の器具すべての呼称と役割が判明した。それだけでなく、ここにある12点の器具は、すべて朗文堂アダナ・プレス倶楽部が所有し、いまもってほとんどの道具や器具を使用している。すなわちわが国の活字印刷術とは、おおむね明治末期から大正初期に完成期を迎えていたとみなすことが可能である。
 
       

上左:『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)表紙には損傷が多く、若干補修した。本書にはページナンバーの記載は無い。
上右:『活字と機械』扉ページ。外周のイラストは電気銅版(電気版、電胎版とも)とみられ、外周部の同一の絵柄が、都合6ヶ所にもちいられている。

『活字と機械』扉ページより、左上部2番目の器具を拡大紹介した。この時点ではまだ正式呼称はわからなかった。主要素材は銅製で、下のネジを回すと、手前の鉄片が上下する仕組みになっている。取っ手にみえる円形の輪は、この鉄片の上下動を固定する役割を担っている。

右最下部:「活字ハンドモールド──同社では活字台・活字スタンプ」と呼び、1902年(明治35)12月27日に特許を取得している。

また江川活版製造所創業者、江川次之進が、この簡便な器具を「活字行商」に際してもちいたことが、直系子孫が保存していた掛け軸の絵柄から判明している。2012年05月《活版凸凹フェスタ》にて詳細な発表をした。また近近江川活版製造所に関する論文発表の機会も得たい。

《ついに発見! 晃文堂資料から──LININNG TESTER  列見》
これまでも筆者は、かつて吉田市郎がひきいていた「晃文堂」に関してしばしばふれてきた。
ここでふたたび『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』(株式会社晃文堂 千代田区神田鍛冶町2-18、p.67、1958)を紹介したい。

『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』は、たんなる活字見本帳ではない。活字版印刷術 タイポグラフィを見据えた、総合技芸をサポートする豊富な内容となっている。そのp.67に問題の器具の写真が紹介されている。
左半分は〈INSPECTION TOOLS〉すなわち〈活字鋳造検査器具〉の各種である。
その(A)に LININNG TESTER  列見 と紹介されている。 

左図の中央部に、(A)LINING TESTER  列見が紹介されている。(B)「ライン顕微鏡 Lining microscope」である。この類似機をアダナプレス倶楽部が所有している。

ここにみる機器は製造ラインが破綻したものもあるが、小社をふくめ、いまも活字版印刷所、活字鋳造所などでは現役でつかわれている。アダナ・プレス倶楽部では《活版ルネサンス》などのイベントに際し、陳列・展示、一部は水面下にあった製造ラインを「復活 ルネサンス」させて、製造・販売にあたっているものである。

ようやく晃文堂が提示したこの器具の呼称があきらかにされた。いまならば和製英語としても「ベースライン・テスター」でも良かろうとおもわれるが、前述のようにかつての活字版印刷術の職人は、欧文を横文と呼んで毛嫌いするかたむきがあり、あえて「欧文のベースラインの行の列をみる → 列見」としたようである。
そしてこれが訛って「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」などと呼ばれるようになったものとおもわれた。
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 《『印刷事典』第1版と、『印刷事典』第5版の記述の紹介》
「活字列見」は、ご覧のように愛嬌のある姿をしているので、『花筏』での紹介後に人気をあつめたとみられ、何人かのかたが「つぶやき プロフィール・アイコン」などに使用されているらしい。
そんなうわさを聞くと、責任も発生してくるので、晃文堂カタログに紹介された「LINING TESTER  列見」をもとに外国文献にもあたってみた。
図版紹介はないものの、「lining gauge, aligning gauge ; Linienmaß」の名称での説明が関連用語として外国文献にも紹介されていた。

ついで和洋折衷ともいえる『英和  印刷-書誌百科事典』(日本印刷学会、印刷雑誌社、昭和13年1月12日──印刷学会出版部では同書を『印刷事典 第一版』とする)と、『第五版 印刷事典』(日本印刷学会、印刷朝陽会、平成14年1月7日)にあたってみた。

あたりまえといえばそれまでだが、事典や辞書とは、名前から引いて表題語にたどりつくものである。したがって狭隘な自分の経験即だけでかたられたり、業界用語として訛ってもちいている用語では、目的語にたどり着けないことがある。いかに「ウンチク派」とそしられようとも、やはり正式な名前とその機能を知ることは肝要である。
結果は以下にご覧のとおりで、おもわず苦笑するしかなかった。

ついでながら『英和  印刷-書誌百科事典』の刊記(奥付)をご覧いただくとわかるが、同書は1938年(昭和13)という、活版印刷が奈落に突き落とされる寸前の、もっとも高揚期に刊行された書物で、秀英舎から大日本印刷に衣替えした直後、しかも矢野道也、郡山幸夫、川田久長ら、日本印刷学会の創立者たちの名前がしるされている。
とりわけ印刷者として、川田久長の個人名と自宅住所がしるされているのは興味ふかい。また1938年(昭和13)における、活版印刷の和欧混植組版の技倆はかるための、最適の資料ともいえる。



『英和  印刷-書誌百科事典』のp.330から Lining の解説がはじまり、p.332 にいたって図版入りで以下のように解説がなされている。

lining gauge (Linienmass
活字の Line を測定する器具。aligning gauge ともいふ。

図版は、これまで紹介したものより、「榎町のおじいちゃん、小宮山のおじいちゃん」の所蔵品の「モノタイプ・コーポレーションの純正測定器」として紹介したものに近似している。


ついで、『第五版 印刷事典』(日本印刷学会、印刷朝陽会、平成14年1月7日)にあたってみた。同書p.381には、【ならびせん 並び線 (同)ベースライン】の記述に続いて、以下のように図版入りで解説されている。

【ならびせんみ 並び線見  lining gauge, aligning ; Linienmaβ
欧文活字の並び線を測定する器具。(同)版面見、筋見
─────
さて、ここで整理してみよう。
『花筏』での紹介後、あちこちで図版や図像としてご利用いただいたのは嬉しいが、情報の提供はいただけなかった。
できたら過誤のご指摘をふくめて、情報のご提供をいただけたら嬉しい。

◎  『英和  印刷-書誌百科事典』(日本印刷学会、印刷雑誌社、昭和13年1月12日)
    lining gauge (Linienmass
    活字の Line を測定する器具。aligning gauge ともいふ。[図版あり]
◎  『第五版 印刷事典』(日本印刷学会、印刷朝陽会、平成14年1月7日)
    ならびせんみ 並び線見  lining gauge, aligning ; Linienmaβ
    欧文活字の並び線を測定する器具。(同)版面見、筋見[図版あり]
◎ 『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』
  (株式会社晃文堂 千代田区神田鍛冶町2-18、p.67、1958) 
    LINING TESTER  列見[写真図版あり]


◎ まとめ
この器具は、活字鋳造現場、とりわけ欧文活字のベース・ラインの測定・設定にもちいられる。英語では Lining gauge, Aligning, Lining tester などとされ、 ドイツ語では Linienmass とされる。わが国では「並び線見、版面見、筋見、列見」などと呼んだ。

【講演録】文字と活字の夢街道


『四天王寺』所収。講演録「文字と活字の夢街道」
2004年01月05日  片塩二朗

大阪市天王寺区に聖徳太子建立の寺とされる四天王寺がある。
四天王寺は593年、一説には623年ころに創建されたとみられ、山号を荒陵山とする。
もちろん著名な名刹のお寺で、伽藍の配置は塔・金堂・講堂が、中心線上に一直線にならんだ「四天王寺式」とされる荘重なものである。

堂宇は幾度も焼失したが、第二次大戦後に復元建造がなり、いまは正式には「和宗総本山 荒陵山 四天王寺」という。気取りのない親しみやすいお寺であった。

 この四天王寺では毎月第二土曜日に、各界から講師を迎えて「四天王寺仏教文化講演会」を開催している。この講演会はすでに数百回を数えているが、過去の講演記録をみると、必ずしも仏教関係者ばかりではなく、キリスト教関係者を含むひろい範囲にわたっている。

あるご縁があって、やつがれがこの「四天王寺仏教文化講演会」の講師として招かれたのは、もうふるいはなしで、平成11年(1999)6月のことであった。
前の月の講演者が、建築家の安藤忠雄氏だとうかがって、肩にちからが入ったことを覚えている。それでも当時50歳代なかばの年齢で、日ごろから冠婚葬祭を苦手とすることを広言し、しかも不熱心ながら浄土真宗の門徒たるやつがれが、どうして「四天王寺仏教文化講演会」の講師に選ばれたのかはいまだによく解っていない。

ただ、講師控え室でお抹茶をいただきながらうかがった寺僧のはなしでは、しばしば講演中に居眠りをしたり、座布団を枕に、横になる老人がいるそうである。ある講師はそれに憤慨して、講演を中断して、途中で帰ってしまったことがあったとされた。

 「この講演会は、土曜日の午後に、家にいてもなにかと居心地のわるい、ご高齢の皆さんへの仏さまの功徳なのです。ですからご講演中にご高齢者が居眠りをされても、どうぞご寛容に……」
とのはなしが印象的であった。 
────────
そんなわけで、おもに関西の文字と活字 ── いつものとおりタイポグラフィのはなしをさせていただいた。畳敷きの大広間で、来場者は150名あまりいらしていた。やつがれの教え子などの関係者をのぞけば、おそらく講堂のなかではやつがれがもっとも若輩だったかもしれないが、みなさん居眠りをされることなく、興味ふかそうに聴いておられた。
講演後の懇話会では、元教職にあったというかたも多く、相当の教養人がお集まりだったことを知って慌てたほどだった。

すでにふるいはなしでもあり、この講演会のことはほとんど忘れていたが、四天王寺勧学部の担当者から連絡があって、月刊誌『四天王寺』に講演録として掲載するとのことであった。
よくわからないまま気楽に承諾したが、通巻699号という、歴史のある立派な月刊誌に掲載されていた。
担当者は、90分ほどの、それもとりとめもないやつがれのはなしを、とてもよくまとめていた。また写真のいくつかは、わざわざ現地に出向いて追加取材をされたようで、掲載誌ではやつがれの写真ではなかった。したがって四天王寺勧学部の担当者は、相当の力量のあるかたとみられたし、またご熱意のほどがしのばれた。
またその後にも、再度の講演を慫慂されたが、
「滅相もございません」
と、仏教用語でお断りした。相手もすぐにわかったようで、お互いに大嗤いした。

というわけで……、たまたまふるい資料がでてきた。あのころ、片塩二朗は大阪にいって、やはりひとつばなしで、こんなはなしをしていたのか ── とわれながらあきれる内容ではある。
────────
ここに紹介した写真のほとんどは、2012年に関西を再訪し、いつものコースを巡ったときのものである。ところが、黄檗山萬福寺宝蔵院オウバクサン マンプクジ ホウゾウイン『鉄眼一切経テツゲンイッサイキョウ』の原本となった中国福建省『嘉興蔵カコウゾウ』が、いつのときか、同書を中国から購入していた北陸地方の黄檗宗の末寺から、本山たる同寺に贈呈されて「萬福寺宝物館 文華殿」に展示されている。そのために原本(オリジナル)とならぶことになった、覆刻版『鉄眼一切経』は、どうにも微妙な立ち場になっていた。
また、「王仁博士」の伝承墓地は、20年ほどまえには訪れるひともほとんどいない、閑静な場所だったが、いつのまにか妙に大仰かつ華美になっていて、なにか落ち着かないものがあった。

さいきんは、関西圏でもあたらしい活版造形者の増加がみられるし、一部ながら、若者に背を押されるように、ふるくからの活版印刷業者が後継者を得られて活性化され、元気になられていることはうれしいことである。
そんな関西圏の皆さんへの連帯と、エールの意を込めて、できるだけ講演録を優先し、若干の修整をくわえてご紹介したい。

★      ★      ★      ★

 四天王寺仏教文化講演会 聴講録 ③ 

文字と活字の夢街道

片塩 二朗

《大阪からはじまる、わたしの夢街道》
わが国ではあまり知られていない学問ですが、わたしの専門はタイポグラフィです。
このタイポグラフィということばには、うまい翻訳語がありません。明治の翻訳者は「活字版印刷術」と訳しました。何か職人さんの秘術か秘技のようですね。

タイポグラフィは、本来は印刷という「技芸」であり、それをもととした学問・研究だったものです。ところが残念なことに、わが国では近代印刷そのものが、欧州での産業革命期を経た、完成された「産業」、それも「文明開化」の象徴として、書籍印刷、新聞印刷、雑誌印刷、商業印刷にまでわたり、なにもかもが一緒に導入されたために、キリスト経典の写経からはじまる、書籍印刷のなかで培われた「印刷における技芸」という側面を知ることが少なく、多くの誤解に包まれています。

わたしは「タイポグラフィ ≒ 書籍形成法」ということばを使っています。形を成す、形成ということばは、ドイツ語では「ゲシュタルト」です。ドイツのわたしの友人は、ほとんどゲシュタルタ、またはタイポグラファと呼ばれています。

わたしの会社は新宿の朗文堂というちいさな出版社です。つくっている書物の大半は書籍形成法、タイポグラフィに関する書物です。売れているとはあまり自慢できませんが、専門書出版社として、そこそこの評価はいただいております。
おおきな出版社ですと、企画部があり、編集は編集部、営業は営業部などと分担して担当しますが、わたしどものような零細な出版社ですと、企画を立て、執筆者を捜す。見つからなければ仕方がないから自分で原稿を書く。そして、パソコンを叩き、組版システムを使って、印刷・製本となります。世界規模でもタイポグラフィ専門書の出版社は似たような規模です。

完成した書物は、書籍の問屋さん ── 取次トリツギのコンピュータまかせの配送(委託配本)をせずに、各地の書店さんを訪問し、実物をご覧いただき、いただいた注文数だけ、一店一店、できるだけ丁寧に取次経由でお納めしています。
この方式は限られた読者層を前提とする専門書の版元がよく採用していますが、大量一括販売を目的とする前者を委託配本方式、わたしどものような方法を注文配本方式と呼んでいます。

このような事情で、しばしば大阪の書店さんをお訪ねしています。大阪では書店向け営業の仕事が終わりますと、それからがわたしのひそかな楽しみの時間です。
おおむね、こちらの四天王寺さんに足を運びます。ここからわたしのタイポグラフィの夢街道がはじまることになります。

 《この町から文化文明の再発信を》
大阪は出版の町、印刷と出版の発信地でした。
「でした」という過去形なのが残念ですが……。
いまでも大阪はとても活力ある「商都」ですが、美術館や博物館、コンサートホール、あるいは大阪発のメディアが少ないようです。
近代金属活字版印刷術、タイポグラフィの歴史は、江戸時代の開港地、長崎で揺籃期ヨウランキをすごして、ここ大阪の「大阪活版製造所」から本格開花しました。
すなわち大阪城大手門前に、明治4年(1871)に大阪活版製造所が開設され、ついで青山進行堂、森川龍文堂などの著名な活字鋳造所が大阪の印刷・出版・新聞文化を支えました。

ところが近年は、大阪の情報発信力は低下しています。例えば活字メディアとしてのタウン誌です。一見地味な存在ですが、各都市や地域で魅力的なタウン誌がたくさん発行されています。発行にはご苦労があるようですが、それが都市や地域を活性化させ、特色ある存在にしています。
大阪にもいくつかはあるのですが、まだまだ数が足りないのではないかとおもいます。

江戸期の大坂は町民文化の花が開いた町でした。
江戸前期の浮世草子作者・俳人の井原西鶴(イハラサイカク 1642-93)は『好色一代男』『西鶴諸国ばなし』などを著しました。
浄瑠璃・歌舞伎脚本作者、近松門左衛門(1653-1724)は『曾根崎心中 ソネザキシンジュウ』『国姓爺合戦 コクセンヤガッセン』『心中天の綱島 シンジュウアマノツナシマ』などで大活躍しました。
また難波の旅舎で歿した松尾芭蕉(1644-94)は『のざらし紀行』『笈オイの小文』『奥の細道』などをのこしています。

これらの書物のほとんどは木版刊本ですが、すばらしい出版物が大坂からたくさん発行されました。そして、京阪神地区の読者の需要をみたすと、その印刷版としての版木が「くだりもの」として江戸に搬送されて珍重され、江戸でも刊行されていました。江戸に搬送する価値はないものと評価されると「〇〇〇〇」とされたようです。

江戸には幕府・行政機関がありましたから、官僚の町ですね。あるいは職人の町、消費の町でした。ですから、江戸期から明治初期までは、書物を通じて大阪から文化が発信されていたことになります。
ところがここのところ、大阪発の情報が少ないようにおもいます。これは残念なことです。聖徳太子ゆかりの、この四天王寺さんをはじめ、伝統ある大阪のまちから、ぜひとも、もう一度、文化文明の発信をしていただきたいとおもうのです。
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わたしは信州信濃、長野県の北部で生まれました。越後新潟県との県境で、豪雪地帯で知られ、また島崎藤村の『破戒』や『千曲川のスケッチ』の舞台になった 飯山 というちいさなまちです。
高校生になってまちを出たときは人口4万3千人ほどでした。現在は近隣の町村を合併しても2万3千人ほどです。豪雪地帯で、過疎化がどんどん進んでいます。
過疎地というだけでなく、小説の舞台であろうがなかろうが、悲しいことに、文化文明をそこ飯山からは発信できない辛い現実があります。

なぜならわたしの郷里には、印刷の強固な基盤がありません。
印刷という技芸や技術はとても大きな総合産業で、おおきな裾野、関連産業、関連文化を必要としますので、本格的な出版となりますと、とても一社だけで孤立してはできません。ですからわたしが郷里に帰って情報発信しようとしても、なかなかできないわけです。

その点、大阪府の人口はおよそ880万人、周辺都市人口をあわせれば1,000万人余の巨大都市です。とりわけ大阪市の人口は270万人ほど、これは英国のロンドンとほぼ匹敵する、規模のおおきなまちです。十分に情報発信ができる基盤があるはずです。
しかし、それが難しくなった理由というのはたったひとつです。それはここからすぐそこ、この四天王寺さんの境内にある『本木昌造 モトギ ショウゾウの碑』に象徴的に表れています。

《近代印刷版印刷術の始祖・本木昌造モトギショウゾウ》
四天王寺さんのご境内、ここからすぐのところです。
いまは墓地にのみ込まれたかたちになっていますが、明治のころには、ご境内の参道の一部だったようです。そこに本木昌造記念碑と、等身大の本木昌造さんの銅像が立っています。
本木昌造は正式な士族ではありませんが、長崎阿蘭陀通詞オランダツウジとして苗字帯刀と士装が許されていました。陣笠をかぶり、大刀と小刀を携えた旅姿としてのこされています。家紋は本木昌造の裏紋で、活字界ではよく知られたもので、俗に「まる に も」とされる家紋です。

明治30年(1897)の創建でして、台座には篆書で「日本鋳造活字始祖」とあります。撰文は何禮之 ガ レイシ、書は吉田晩稼 バンカ による、おおぶりで勇壮な楷書です。いずれも長崎の本木一門の出身者で、明治期に活躍したかたたちです。台座はいくぶん損傷がみられますが、創建時の姿を保っています。

本木昌造(1824-75)は、徳川幕府の長崎在勤のオランダ語の通訳、阿蘭陀通詞で、このかたが近代活字版印刷術、つまりタイポグラフィを日本にひろめたひととされています。
ですからこのかたを、わたしたちはたんに「日本鋳造活字始祖」としてではなく、もうすこし積極的に「日本近代活字版印刷術の始祖」と讃えています。
かつて、昭和60年代の末ころまでは、毎年10月1日、ここ四天王寺さんで、大阪の印刷・活字・出版関連業者が集まって「本木昌造祭」が営まれていました。
まず、長崎うまれのこのかたの銅像が、なぜこちらの四天王寺さんにあるのかということを、おはなししたいとおもいます。

本木昌造記念碑は、大阪在住の4人が発起人となって明治26年(1893)、本木会を結成したことにはじまりました。当初は、この碑と銅像を高麗橋のたもとに立てようとしたようです。というのは高麗橋が大阪ではじめての鉄橋で、この鉄橋の建造に尽力したのも本木昌造だったからです。

しかし当時の価値観で、位階(地位・身分の序列で等級の意)がないひとの銅像建立はまずいということになりました。同じ理由で、中之島公園、天王寺公園と相次いで断られました。それで四天王寺さんにお願いして、ようやくこちらの境内の一画をお借りしたようです。
ついでですが、本木昌造は明治最末期になって従五位下を、後継者の平野富二(東京築地活版製造所、石川島平野造船所/現 IHI の創業者)も従五位を追贈されています。

碑面には明治30年9月建立となっていますが、現在立っている銅像は三代目です。最初の銅像は日清戦争(明治27-8、1894-5)の影響で、台座だけが先行して、実際に銅像が建立されたのは明治33年(1900)に銅像が建立され、完成をみたと記録されています。
不幸なことにこの銅像は、戦時中の金属供出令により軍需物資として供出されてしまいました。昭和27年(1952)に仮再建されましたが、これは簡易的なものでした。そして昭和60年(1985)に戦前の姿を再現して建立されてこんにちにいたっています。

本木昌造は幕末の混乱でとても苦労されたかたですが、オランダ通詞としての本木家の伝統もあって、西洋の近代活字版印刷の書物に触れる機会がおおかったせいでしょうか、活字鋳造とタイポグラフィに興味を持ったとされています。
このように幕末から明治最初期の、日本における近代活字版印刷術を担ったほとんどのかたは、徳川幕府の旧官僚でした。
ところが明治維新の結果、中央官庁は戊辰戦争に勝利した、薩長土肥を中心とした旧西南雄藩の新権力が握りました。もちろん旧徳川系の士族の多くは失業したわけですね。けれども、活字鋳造、活字組版、印刷は、読み書きの能力が相当高度でないとできません。それには旧徳川系の失業士族にはピッタリの職種でした。

当時の日本は世界でも有数の識字率を誇っていましたが、印刷士という職業は、世界的にリテラシーの能力の優れた人が担う技芸であり、産業でもあったわけです。ですから戊辰の戦争に敗れたとはいえ、読み書き能力にすぐれた旧徳川の官僚団がその任に就きました。
ゆえに印刷士は、わが国のばあい、いまもって、どことなく、反権力、反中央志向がございます。これが典型的に表出したのが大阪の地です。

本木昌造の本拠は長崎でしたが、明治4年、大阪に印刷所を開設しました。「長崎新塾出張大阪活版所、のちの大阪活版製造所」であり、日本における本格的な印刷所の最初です。
この開設には薩摩藩の出身ながら、官界につくのを潔しとせずに、関西財界の雄となった 五代友厚 (ゴダイ トモアツ、大阪商工会議所初代会頭、天保6年12月26日(1836年2月12日)- 明治18年(1885年)9月25日)の要請と資金支援があったとされています。

その後、本木昌造は京都に「点林堂テンリンドウ」という印刷所を開設しました。点林堂とは一種の洒落でして、「林」という字の左側に点を打って、すこし離すと「本木モトギ」になるわけです。当時の印刷人は酒落が得意で、反骨精神に富んでおりました。
それはさておき、大阪市東区大手前に誕生した日本初の本格的印刷所では、廃藩置県の太政官布告が印刷されています。廃藩置県はじつは大阪から発せられていたわけです。

ところが昭和期前半、戦前の大阪で不幸な事件がありました。東京のある印刷業者が、
「金属活字は贅沢だ、文字のサイズの大小や、楷書だ明朝だと能書きをいうな、活字は一種あればいい。ほかの金属活字は国に寄付(献納・売却)して、聖戦遂行だ」
と提唱しました。それを官僚が巧妙に利用して、昭和13年(1938)ころから、官製の国民運動「変体活字廃棄運動」が興りました。

この運動に東京の活字鋳造関係者は相当はげしく抵抗しました。また実務にあたった印刷同業組合、活字同業組合のお目こぼしもあって、東京の活字と活字母型は結構戦争の中でも生きのこっています。
ところが大阪では、中央から派遣されていたひとりの高級官僚が、この運動(活字と活字母型の献納・売却)を一種の使命感をもって強力に推進し、活字母型はほぼ全面的に没収されました。
最近明らかにされましたが、これらの資材は、実際には戦時物資として使われることもなく戦後をむかえましたが、戦後の払い下げでも混迷があり、結局有効に利用はされていません。

このように「変体活字廃棄運動」は、発信地の東京よりも、たったひとりの中央官僚が、きわめて精力的に「運動」を推進したために、大阪で猖獗ショウケツをきわめました。東京では「印刷業者の企業合同」はかなり強引にすすめられましたが、活字業者はなんとかその難を逃れたケースが多くみられます。

その結果、大阪の活字鋳造の基盤がゆらぎ、脆弱となり、戦後の復興にあたってみられた「出版物渇望時代」に、大阪では活字の供給がおもうに任せない面がありました。
金属活字は使用すると損耗します。その活字が無ければ、印刷も出版も新聞発行もできませんから、多くの出版社や新聞社は、その軸足を、活字の供給が円滑な東京に移してしまいました。これは不幸なことでした。文化文明の根底には、なんといっても活字と書物があります……。

昭和20年までの大阪には、多くの出版社がありました。変体活字廃棄運動で活字がなくなったから東京へ行った出版社がたくさんあるのです。すなわち文化文明の根底には活字があります。そしてはっきりと目に見える物として、書物が生まれる。それが文化文明をさらに発展させるのではないかとおもいます。
この魅力に富んだ大阪に、もう一度活字と印刷と書物を見直す気運が高まり、活力ある文化文明を作っていただきたいというのがわたしの願いです。

《世界最古の印刷物のナゾ》
奈良の法隆寺に「百万塔陀羅尼 ダラニ」という重要文化財に指定されている小塔があります。重要文化財といってもその一部であり、同じ形のものがいくつかあり、かつて奈良の骨董店では60-100万円くらいで販売していました。この金額の差は何かといいますと『無垢浄光大陀羅尼経 ムクジョウコウダイダラニキョウ』という仏教経典が中にあるかどうかです。

なぜ世界最古かといえば、『続日本紀』につぎのような記録があります。
「はじめ天皇の八年、乱平らげるとき、すなわち弘願を発して三重の小塔百万基を作らせたもう。高さ四寸五分、根元の径三寸五分、露盤の下に各々の根本・慈心・相輪・六度などの陀羅尼を置く。ここに至りて功(工)終わり、諸寺に分置す」。

ここでの乱とは恵美押勝エミオシカツ(藤原仲麻呂 706-64)の乱のことです。この戦乱が治まったことに感謝し、国家の安泰を祈って、770-71年につくられたものとされています。
塔は木製のくりもので、標準的な高さは21.4センチ、基底部の直径は10.5センチほどのちいさなもので、全体に白土ハクドが塗布されていましたが、剥落したものも少なくありません。

これを百万塔作り、それぞれの塔心部に四種の陀羅尼を丸めて収め、十寺に十万基ずつ賜った ── すなわち都合百万枚の印刷物を収容した百万塔となったわけです。
おなじ『続日本紀』宝亀元年4月26日(770年5月25日)の条には、完成した百万塔を、大安寺・元興寺・興福寺・薬師寺・東大寺・西大寺・法隆寺・弘福寺・四天王寺・崇福寺の10の官寺に置いたことがしるされています。
すなわちいまなお、百万塔の「印刷物」は、製造年代の明確な資料が存在する最古の印刷物であることに争いはありません。

ところがこの四天王寺をふくめて、これらの大きなお寺の伽藍の多くは、何度にもおよぶ焼失の歴史を持っており、小塔もほとんどが失われました。現存するのはわずかに法隆寺だけになっています。明治はじめの調査では、四万数千基あったとされています。
しかし、ほぼ同時期に廃仏棄釈運動があり、そのときに法隆寺も荒廃したようです。貴重な品だから売れば儲かるぞと、何人かが小塔を持ち出してしまったわけです。
法隆寺に残存した小塔には『無垢浄光陀羅尼経』の六種の呪(陀羅尼)の印刷された経文が入っていています。経文は写真の通り、あまりお上手な字でも、印刷物でもございません。

昭和27年(1952)、大阪の印刷学会西部支部でこの経の研究が行われました。これは印刷物とされているが、印刷版は何だろう。印刷法はどうしたのだろうという研究です。
ある方は粘土に文字を浮き出しで作り、陶器のように焼き固めたのではないかといい、ある人は銅板を叩き出すようにした、あるいは凹ませた物の中に銅を流して印刷版をつくったのではないかという説。しかし、これらの説は否定されました。

最後まで残ったのが板目木版印刷版と、銅と錫の合金によろ印刷版説、あるいは膠のような物を固めて印刷版として使ったのではないかという説です。
印刷法も、捺印のように押圧したのか、紙片を上に置いてバレンのようなもので擦ったのか、議論はさまざまになされましたが、結局さしたる成果をあげないまま、研究会は解散しました。
したがいまして、今もって、どのようにして印刷版がつくられ、印刷(摺印、押印)されたのか定かではない、ふしぎな重要文化財です。

《現存する世界最古の印刷物は、韓国の陀羅尼経?》
日本の歴史教科書の多くは、法隆寺の百万塔陀羅尼が770年または771年に作られた世界最古の印刷物であるとしています。ところが、これを世界最古としているのはほぼ日本だけです。
残念ながら、現在世界最古の現存する印刷物、ただし明確な文書記録はないものの──は、韓国の『無垢浄光陀羅尼経』とされてほぼ争いのない現実があります。こちらは早い説をとれば705年、遅い説をとれば751年の板目木版印刷物です。
もちろん文化と文字の伝播の歴史からみて、中国にはよりふるいものがあったものとみられていますが、現在までに中国からの確実な報告はありません。

1) 新羅のみやこ、慶州にある仏国寺全景。
2) 仏国寺石橋。春は櫻、秋はもみじの名所でもある。
3) 仏国寺大雄殿前の釈迦塔(韓国国宝第21号)。
   この下部から二層めの基壇から経典が発見
された。
4) 経典は鍍金された金属製容器に入れられて、密閉された状態で発見された。
    推定ながら板目木版印刷とされている。

5) 仏国寺釈迦塔出土『陀羅尼経』(統一新羅、8世紀、長さ≒60センチ)韓国国宝第126号 
[引用資料:『慶州』(宇進文化社、1992)。『国立慶州博物館』(通川文化社、1988年)]

『無垢浄光陀羅尼経』は、韓国の中東部、慶州にある仏国寺の講堂前、釈迦塔の第二層目から1966年に発見されました。こちらの方が古いことは寺伝をふくむさまざまな論拠から証明されているのですが、日本の学者や学会はこれを頑として認めていません。
わが国ではこの発見の報に接したとき、最初のうちは新羅の僧が中国に行き、中国からお土産でもらってきたものを塔の中にしまいこんだのだろうとしました。それがこの塔が建立されたとされる705-751年ぐらいだったのではないか……。そこまではしぶしぶ認めたわけです。
しかし、この推測も否定されました。否定したのは皮肉なことに日本の通産省(現経済産業省)の下部機関です。

この経緯を説明しますと、まず韓国政府からこの紙の成分の研究依頼があったことにはじまりました。そこで高松の通産省紙業技術研究所で手漉き紙の研究をされている方たちが、ソウルの中央博物館に行って調査・研究されました。その調査を経て、紙の素材は韓国産のコウゾに間違いないということが通産省の技官から発表されました。

当時の日本の紙は、コウゾとガンピの混合材科を使っています。日本の紙は世界でも優秀な品質と評価されますが、その評価の元はガンピの混入です。ですから調査した紙は韓国固有の紙であるとして製紙業界では異論はなかったわけですが、東洋史、仏教史を研究されている方はこれに関しては沈黙を守っておられます。
あるいは、法隆寺百万塔には『続日本紀』などの信頼にたる文書記録があるのにたいして、慶州仏国寺釈迦塔には寺伝程度しか文書記録がないことを理由にあげて、その製造年代に疑念を呈しています。

仏国寺から発見されたこの経典は、ソウルの中央博物館に収蔵されています[この建物は取り壊されて現存しない]。
この博物館は少し問題のある建物です。というのは、ソウルの中心、李王朝の宮廷の真ん前に、当時の日本政府が朝鮮総督府としてこの巨大な建物を建てたわけです。戦後、韓国はこれを中央博物館として使っていましたが、現在は、取り壊され、建て替え中のようです。

わたしはソウルの書店にも営業に行きますが[現在はほとんど行かないが……]、時問が空きますと中央博物館によく行きました。
かつて親日家の友人に現地で聞いたはなしですが、そこではおもしろい話がありまして、建設当時、中央博物館の中央ホールの壁をぐるりと取り巻く彫刻絵柄をつくっているとき、日本の某大佐が、
「この花はどうも桜では無いようだ。何の花だ」
と訊ねたそうです。
「大佐殿は関東のご出身でいらっしやいますか」
「そうだ」
「関東では吉野桜しかないようですが、ここに描いたのは関西方面で咲く牡丹桜です」
という説明をしたそうです。
これは当時の韓国の人のひそかな抵抗だったようで、そこに刻まれたのは吉野桜でも牡丹桜でもなくて、まぎれもない韓国の国花、ムクゲでした。晩夏に薄紫の可愛い花をつけます。

《王仁博士の中国千字文》
そんな韓国の国花ムクゲが豪華に咲き誇る場所が関西にあります。場所は大阪府枚方市藤阪東町2丁目。JRの長尾駅からゆっくり歩いて15分ほどです。そこに王仁ワニ博士の伝承上の墓地があります。
「なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな」(『古今和歌集』仮名序)
という有名な歌がありますが、これが王仁博士の作と伝えられています。

王仁(ワニ、生没年不詳)は、『古事記』と『日本書紀』の双方に記述されている人物で、百済から日本に渡来して、『千字文』と『論語』を伝えたとされるひとです。
『日本書紀』では王仁ワニ、『古事記』では和邇吉師ワニキシと表記されています。
『古事記』には以下のように紹介されています。

又、科賜百濟國、若有賢人者、貢上。故受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十卷・千字文一卷、并十一卷、付是人即貢進。
〔此和邇吉師者、文首等祖〕 
読み下し:天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。それで、その命を受けて[百済が]献上した人の名は和邇吉師ワニキシという。『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を、この人に附けて献上した。
〔この和邇吉師が、文首フミノオビトの始祖である〕
──『古事記』(中巻・応神天皇二十年己酉)

このように応神朝オウジンチョウ(5世紀前後に比定されている)に、皇子の教育係として派遣されてきたとされる人物が王仁さんです。彼は日本の史書には『論語十巻』と『千字文一巻』を持ってきたと書いてあります。しかし、この『千字文一巻』のくだりは疑わしいというのが歴史研究者、東洋史のかたの見解のようです。
そもそも『千字文』というのは四字を一句として二百五十句で構成された、文字の勉強のための教則本です。
日本の東洋史の方がなぜ信用できないとおっしゃるかというと、その当時、つまり5世紀前後とされる応神天皇の頃には、6世紀中葉、中国でできたとされる『千字文』はまだ成立していなかった。したがって、これは後世に書かれた古事記の作者の創作だろう、というのがほとんどの方の見解のようです。

『千字文』とは、中国南朝のひとつ梁(みやこは建業・南京 502-557)の 周興嗣 シュウコウシが、梁の武帝の命によって撰した韻文一巻です。四字一句、250句、重複のない一千字からなり、「天地玄黄 宇宙洪荒……謂語助者 焉哉乎也」におわります。
初学の教科書や習字手本として流布したものですが、周興嗣の作以前にもあった可能性が指摘されています。しかも中国の千字文というのは一つではなく、別種の千字文がございます。中国では最近も発見されておりますが、十種類ぐらいはあったのではないかという説が多くございます。
ともあれ、5-6世紀の事象であまり最古論争をしても収穫は少ないものです。これは歴史のロマンということでソッとしておきたいところです。

 《隠元インゲン和尚のもうひとつのおみやげ》
つぎに江戸時代前期、鉄眼禅師テツゲンゼンジが17年もの歳月をかけて覆刻開版(原本どおりの複製版の作成。鉄眼は覆刻法・かぶせ彫りという方法によった)した重要文化財『鉄眼一切経テツゲンイッサイキョウ』についておはなしいたします。

鉄眼(テツゲン 諡号:宝蔵国師、1630-82)さんは、寛永7年、今でいう熊本でお生まれになり、13歳で出家、23歳で黄葉宗 オウバクシュウ の隠元禅師 インゲンゼンジ に帰依されたかたです。
現在は萬福寺マンプクジ境内に宝蔵院 ホウゾウイン という塔頭があり、その後背地に重要文化財『鉄眼一切経版木収蔵庫』と、墓地(開山塔)があります。

一切経 イッサイキョウ とは、別称大蔵経 ダイゾウキョウ ともいわれ、仏教聖典の総称とされています。経蔵、律蔵、論蔵の三蔵と、それらの注釈書を網羅した仏教の大全集です。
日本の遣隋使、遣唐使たちは、仏教経典を一生懸命に日本に運んでいらっしゃいますが、江戸時代になっても、仏教大全集というべき一切経は、高価な中国製の刊本を購入するしか無く、まだ日本製の物がなかったわけです。

京阪線に黄葉駅があります。駅の近くに黄葉山萬福寺があり、これが隠元(中国明代の福建省の僧侶。1592-1673)和尚創建の寺です。隠元和尚はインゲン豆だけでなく、スイカをもたらしましたし、喫茶のふうをひろめて普茶フチャ料理ももたらしました。

隠元和尚はまた、福建版一切大蔵経(嘉興蔵カコウゾウ)を持ってきました。とても大量の経典です。それを日本の若い僧侶・鉄眼が複製版をつくりたいと願い出てゆるされました。
鉄眼は綴じられていたもとの経典を外して、それを裏返して桜材の板目木版の上に置いて、漆と膠で貼り付け、それをなぞって彫刻しました。これが覆刻法──かぶせ彫りという複製法です。
版木はおよそ六万枚で、今日でもほとんどが保存されていますし、印刷(摺印)も続いています。

これには楷書体、明朝体という二種類の字様(木版刊本上では書体を字様とする)が使われています。こんにちの日本でもとてもよく使われる書体ですが、こんにちの活字明朝体とはすこし異なっています。
近代明朝体、とりわけ金属活字の明朝体は、西洋価値観が外国占有地・租界の上海で浸透していて、当時の欧米活字の主流であった「モダンスタイル・ローマン」に倣って、水平線・垂直線で構成されるものとなり、『鉄眼一切経』にみる字様とはかなり異なります。
ですから中国の人は、金属活字明朝体を「印刷体・倣宋体」と呼び、大袈裟で、内容が空疎で、どうにもできが悪い書風だという風に見ているようです。
────────
日本人の文字と活字書体を見る眼は特異です。すなわち仏の慈悲を説く仏典と、神の愛を説く聖書が、まったくおなじ活字書体であっても違和感を抱かないようです。
あるいは行政や司法の担当者が使っている書体と、日常生活で使われる書体、クッキング・ブック、ガーデニング・ブック、自動車やコンピューターのマニュアルなどが同じ活字書体──ほとんどが明朝体でも頓着しないようです。

こういう活字書体にたいする認識度というのは世界的にあまり例がありません。先進国の中でこういう国は日本だけだといっても乱暴ではないようです。これは良いとか悪いというわけではありません。わたしは若干残念だとおもっているのですが、やはり好きな作家の文章は、好きな活字書体で読みたいな……、とおもうのです。

日本の文字活字の風景を変えるちから、それは行政のまち、官僚のまち、そして硬直してしまった東京では、もはや困難かもしれません。
関西圏のながい文字と活字の歴史をおはなししてきました。みじかい雌伏のときをへて、いまは大阪を中心とする関西圏が、もう一度文字と活字に活力を取りもどす起点になっていただきたいとおもう次第です。                      
※平成11年6月12日のご講話より

タイポグラフィ あのねのね*019 わが国の新号数制活字の原器 504 pt. , 42 picas

 これはナニ? なんと呼んでいますか?
仮称「活字の原器」 と「活字のステッキ」
わが国新号数制
活字の最小公倍数 504pt., 42 picasとは

活版関連業者からお譲りいただきました。

2012年03月17日 掲出/2012年12月25日 修整版


《この「活字のステッキ」!? 差しあげますよ……。そしてもっともたいせつな「活字原器」》
2011年の暮れ、年内いっぱいでの廃業を告知していた有限会社長瀬欄罫製作所の残務整理を手伝った。その際同社第 2 代社長:長瀬慶雄ナガセ-ヨシオ氏が、自動活字鋳植機(小池式和文モノタイプ)の作業台にあった器具を差し出し、
「コレは大事にしていたものです。名前はわからなくなったけど、いわば《活字の原器》と《活字のステッキ》だけど、必要ですか?」
ときかれた。

「HAKKO」の刻印から、この器具の製造所は、かつて長野県埴科郡ハニシ-グン戸倉町戸倉3055に存在した活字鋳造機器の有力メーカー、株式会社八光活字鋳造機製作所の製造であることが判明した。

2012年4月7日追記:
アダナ・プレス倶楽部恒例の《活版ルネサンス》(2012年3月30-31日)に際して、長瀬欄罫の諸資料を整理したところ、さらにふるいものとみられ、メッキが施されていない、いくぶん錆びの発生がみられる総鉄製の「活字の原器・活字のステッキ」を1セット発見した。
これは持ち手のつけ方からみて、左利きのひとのために製造された「活字のステッキ」だと想像された。

製造年月日はどこにも記載がなかった。
素材はスチールにクロームメッキを施したものとみられたが、ひとつで2キロほどの重量があってひどく重かった。また留め金はふたつのネジできつく締められ、ほとんど固定されていた。
写真奥は右利きのひと用で、手前は左利き用だとする。ずいぶんと親切なものだった。

《ふつうの「ステッキ Composing Stick」と、特殊な「活字のステッキ」》
活字版印刷術の現場でのふつうの「ステッキ  Composing Stick」とは、和文の組版では植字チョクジ(組版)の現場でもちいられる器具である。
欧文組版ではステッキに活字を拾いながら組み並べるが、和文組版では文選を終えた活字をステッキに移動して、活字組版の行長を一定に揃えて組むための道具である。

ふつうは左手にこれを持ち、右手で活字・込め物・罫線などをステッキの上にのせて、左手の親指でクリックしながら組み並べ、いっぱいになったら取りだしてゲラに移すものである。
そのために「ステッキ」は、できるだけ軽量であることが求められ、なおかつ行長によって変化する組幅を固定するための留め金を、しっかり保持するだけの十分な強度を求められる。
そのために素材は、鉄製・アルミ製・ステンレス製などがあるが、ほとんど製造ラインが停止していたものを、アダナ・プレス倶楽部が近年復活させて、製造・販売にあたっている。

ところが長瀬欄罫製作所の「活字のステッキ」は、「の」のひと文字が入っている分だけ「組版ステッキ」とはおおきく異なるものであった。
まず、なによりその重量である。鉄製とおもわれる素材に、クローム・メッキがほどこされ、2キロはたっぷりあって、片手で長時間保持するものではないことは明らかであった。

また「組版ステッキ」の留め金は、行の組み幅によって可変できるようにスライド式になっていて、固定する留め金は、ネジ式・小型レバー式などがある。ところが「活字のステッキ」の留め金は、きわめて頑丈なもので、締めつけもきつく、ほぼ本体にがっちりと固定されていた。

 この「活字のステッキ」のなかに、「組版ステッキ」であれば最初におこなう作業 ── 組みたいとおもう行長に相当する込め物を並べ入れて、留め金を固定する ── における、「行長を固定するための込め物」に相当するのが「鉄製の金属片、活字の原器」である。これを「活字のステッキ」に入れる。
もちろん留め金は、はじめからほとんど固定されているので、1キロほどの重量の金属片は、ぎりぎり「活字のステッキ」に差し込むことができる。すなわち「活字の原器」と「活字のステッキ」は、ふたつが揃ってはじめて意味をなす、活字鋳造現場での検査器具である。
────
ここでひとつお断りがある。ここでいう「活字の原器」「活字のステッキ」とは、あくまでも仮称である。「活字の原器」とは、上図「活字のステッキ」の奥にはめ込まれた金属片である。これは長瀬氏談からとったものである。
その際の状況は、暮れもすっかり押し詰まった2011年12月29日、本品の譲渡作業後にちかくの喫茶店に移動して、筆者にこの器具の名称と役割をくどく聞かれて、苦しそうに、
「ふつうはアテとかアテガネっていってたかな。まぁ活字の原器のようなものですよ」
と述べたことによる。
こうした背景から、ここでは「活字の原器」「活字のステッキ」とも、まだ正式名称ではないが、そのまま借用することにした。

『VIVA!! カッパン』より、活字と活字の大きさ、号数制活字とポイント制活字

この「活字原器」に刻印された数字との関連から、この器具は、活字の大きさや高さに日本工業規格(JIS規格)が適用された1962年(昭和37)以降の活字、いわゆる「新号数制活字、JIS規格活字」に対応するものではなく、現在でも関東近辺で採用されている、いわゆる「旧号数制活字」に対応する測定器具だと推定された。
またもっともふるくから開発された号数制活字ながら、イングリッシュ系とされて、ながらく他の号数制活字となにかと「相性」のわるい、四号と一号活字が「活字の原器」の測定範囲に入っていないことも印象的なものだった。これに関しては後述する。

2012年12月25日追記:
上記のパラグラフには問題がある。どう計算しても、この「活字の原器・活字のステッキ」は「新号数制活字、JIS規格活字」に対応するものであり、むしろ「新号数制活字、JIS規格活字」が導入された1962年以降に、その趣旨を徹底させ、また端境期における混乱を収束させるために製造されたとみられるからである。

「新号数制活字、JIS規格活字」の原案は、札幌・株式会社ふかみやの初代社長・深宮榮太郎の考案によるもので、はやくも昭和4年に「深宮式新活字」として誕生している(「深宮式の新活字」『フカミヤ八十年史 1918-1998』 p37-41)。
すなわち「旧号数」と「新号数制活字、JIS規格活字」の歴史的背景をもうすこし研究・分析・取材しなければならなくなった。
したがってまことに申し訳ないが、もうしばらく、上記1パラグラフは保留にさせていただきたい。

この金属片「活字の原器」は、きわめてたいせつにされていて、使用しないときには中面にラシャを貼った専用の木製ケースにはいっている。木製ケースには「HAKKO」の社名か、マークが、焼き印で刻されている。
購入価格も「活字の原器と活字のステッキ」のセットで、とても高額だったとされる。
「そうだなぁ、見習いの給料と、職人の給料の間くらいの感じだったかな」
「そうすると、いまなら20万円ほどですか?」
「そう、いまなら15-20万円くらいの感じかなぁ。ともかく高かったんだよ」

「活字のステッキ」にはめ込まれた「活字の原器」。
この左右の数値、504pt.と177.135mm に注目していただきたい。

《わが国の金属活字ボディサイズの最小公倍数、504pt.》
わが国の近代活字版印刷術の開始以来、活字ボディサイズには混乱がみられ、「大きさはあっても、寸法のない活字」と酷評されたり、大正期からさまざまな議論が交わされてきた。しかも製造現場での混乱が収束しても、活字ボディサイズに関する議論はやむことはなかった。
しかしながら、これらの議論とは、かくいう筆者をふくめて、活字版印刷術の現業経験に乏しい論者によってなされることが多く、ありていにいえば、活字鋳造現場の実態を熟知しないままの議論が多く、生煮えであり、成果に乏しく、空理空論とされても仕方がない側面がみられた。

すなわち、この「活字の原器、活字のステッキ」の登場によって、タイポグラフィ研究者を自認するほどのひとならば、全面的に議論の再構築を求められることになった。
もちろん活字鋳造に際しては、ノギスやマイクロメーターも使用されている。しかしながらこうした機器での計測だけでは十分とはいえないのが活字でもある。

活字鋳造の現場では、すでに、遅くとも1955-1962年頃から「活字の原器を、活字のステッキに入れて、そこに鋳造活字を指定の個数分組み並び入れて検証する」という、現業者に特有の「きわめて即物的かつ明快な方法」、それだけに議論の余地のない方法によって、活字のボディサイズの測定と検証がなされ、こうした検証を経た活字が印刷現場に供給されていたのである。────
ここで筆者をはじめ、読者諸賢にも「最小公倍数」(Least Common Multiple, L.C.M)を復習していただきたい。最小公倍数とは、ふたつ以上の整数または整式が与えられたとき、それらの公倍数のうち、正で最小または最小次数のものをいう〔広辞苑〕。

すなわちこの「活字の原器」に刻された504pt. , 177.135mm とは、わが国の主要活字の最小公倍数として提示されていることになる。
そして明治最初期からもちいられてきた四号サイズと、その倍角の一号サイズは除外されていた。それは上掲の『VIVA!! カッパン』の「活字の大きさ:号数制」をご覧いただくと、四号と一号は(アングロ・アメリカン)ポイントサイズにおいて、≒オヨソの印つきとはいえ、ほかの号数活字とは異なっており、最初から最小公倍数となるべきポイントの整数ではなかったためではないかとおもわれた。

「活字の原器」の中央部の数字は、G は号数をあらわし、P は(アングロ・アメリカン)ポイントをあらわす。つまり最小公倍数504 pt.の「活字の原器をいれた活字のステッキ」のなかに、さまざまな号数とポイントの活字が、何本はいるのかを、実際の活字をもって検査・検証するためものである。
そしてその際の公差は、右下隅に表示された+0.015mm 以下でないと不合格とされてきたほど厳格なものであった。

製造元の八光活字鋳造機製作所は19461年(昭和21)の設立であるが、その設立者・酒井修一は戦前からの活字鋳造機製造所として著名だった林栄社の工場長経験者であり、この両社ともほとんど記録をのこさず1965-75 年の間に閉鎖された現在、この「活字の原器と活字のステッキ」がいつから発売されたかはわからない。
しかしながら長瀬氏の記憶によれば、おそらく1955年(昭和30)ころから、こうした検査・検証をへて、わが国近代の活字がつくられていたことを示す物的証明のひとつが出現したことになる。

504pt. の意味するところ

七号活字      96本    9ポイント活字   56本
六号活字      84本    五号活字      48本
7ポイント活字   72本    三号活字      32本
六号活字      64本    二号活字      24本
8ポイント活字   63本

これからここに提示された504 pt.の最小公倍数にもとづいて、さまざまな研究がはじまることになる。まことに楽しみなことである。
繰りかえしになるが、筆者がこの「活字の原器をいれた、活字のステッキ」の譲渡をうけたのは、2011年の暮れも押し詰まった12月29日であった。そして正月をはさんで「活字の原器をいれた活字のステッキ」は、しごくちいさなグループの間の、おおおきな話題となっていた。
あきれることに、何人かは正月の屠蘇気分はどこえやら、「活字の原器をいれた、活字のステッキ」で鳩首し、さまざまな検証をかさねていたのである。諸賢の研究の一助になればとご紹介した。

おひとりはアドビシステムズ株式会社の山本太郎さん。もうおひとりは、21世紀の、そして平成の日本で、最初の金属活字鋳造見習工として勇気ある精進をつづけている日吉洋人さん(武蔵野美術大学基礎デザイン学科助手)です。

★     ★     ★

 ◎送信者:山本太郎 2012年01月05日 10:55
片塩二朗様
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

さて、504 ptのステッキの件ですが、504という数を素因数分解すると、2^3 x 3^2 x 7 = 504となります(ここで、x^yは、xのy乗の意味です)。このことから、次の事が言えるでしょう。

45 pt以下で、このステッキの長さが整数のボディサイズの倍数と一致するのは以下のサイズに限られます。
2, 3, 4, 6, 7, 8, 9, 12, 14, 18, 21, 24, 28, 36, 42

整数ではない10.5も、21の1/2なので、割り切れます。

このステッキは、日本におけるポイント制活字の実用的な多くのサイズに対応しているという意味では、よく考えてあり、興味深いものがあります。

ただし、「504 pt」と明記している以上、これはあくまでポイント制を基準にしたものだという点は明らかです。
号数活字との対応についても、JISが行っているのと同様、ポイント単位に換算した対応関係を基にしたものでしかありません。10.5 の整数倍が504に一致するからといって、それは「10.5 pt = 5号」ということを初めから前提にしているから5号と一致するに過ぎません。
他方で、「10.5 pt = 5号」という関係がポイント制成立以前に存在しなかったこともまた自明のことです。もちろん、JISがはっきりと明記してしまったように、「10.5 pt = 5号」という想定を無条件に受け入れた上で、それを慣習として倣って作られた5号活字が10.5 ptと一致することもまた自明なことです。つまり、既製のポイント制および号数とポイント制との慣習的な対応関係を受け入れた上で、後付けで作られたものと考えられます。

JISにおける号数とptとの対応関係のようなものが受容され、普及していたのであれば、このステッキが便利で機能的であったであろうことも、十分予想できます。
ただ、そのこととSmall Picaや5号の歴史的なボディの大きさの議論とは、関連はありますが、少し論点が異なるように思います。
───
◎ 送信者:日吉洋人  2012年01月09日@メール
片塩さま
日吉です。
例の504グリッドを制作していて気づいたのですが、6号=7.875アメリカンポイントだよってことですか?

片塩さま
何度もすいません。日吉です。
先ほどのつづきですが、6号が7.875ポイントで、5号が10.5ポイントだとしますと、名刺を組版する際に使うインテルの長さが、5号24倍なので……、8ポイントだと二分あまりますが、6号だとピッタリおさまりますので気持ちがいいですね。
今後DTPで本文を組版する時には、あえて実験的に本文の文字サイズに7.875ポイントを使ってみたいと思います。

片塩さま
日吉です。これが最後です。
まだ旧号数のすべてで計算したわけではありませんが、例えば、5号24倍(252ポイント)で割り切れないところ(例えば、8ポイント、10ポイント、11ポイントあたり)に突如「号数」が現れるような印象を受けました。
なぜ号数がそのように現れたかと考えますと、単純に複数のサイズの活字を一緒に組んだときに、分物を使わずにすむからだと思います。ならば初号とは何かってなりますが……。
それでは失礼します。お休みなさい。

504pt.と  五号24倍の相関関係の考察表  日吉洋人

2012年12月25日 修整版  



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2012年04月07日追記:
グラフィックデザイナー K 氏。ご来社のうえ談。

わたしはパッケージのデザインが多いのですが、その際、基本尺度としてメートル法だけでなく、曲尺カネジャク単位を考慮します。曲尺の一尺、およそ30.303センチと、この504pt.の表にあらわれる号数制活字は、なにか関連があるようにかんじました。
きょう「活字の原器と活字のステッキ」の実物を拝見しましたので、これから調査に本腰をいれたいとおもいます。