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タイポグラフィ あのねのね*020|1921(大正10)年創業、 創業90周年を迎えた印刷会社三社|理想社・笹氣出版印刷・小宮山印刷工業

 

 1921(大正10)年創業、
創業90周年を迎えた 印刷会社 三社

株式会社理想社
   1921年(大正10)5月:東京市牛込区柳町において初代田中末吉が「理想社組版所」

  を創業。

笹氣出版印刷株式会社
  1921年(大正10)8月10日:、笹氣幸治の個人経営によって仙台市国分町に笹氣

  印刷所が創立された。

小宮山印刷工業株式会社
1921年(大正10)10月:小宮山幸造個人営業をもって小宮山印刷所を創立し、東京
  都新宿区早稲田鶴巻町371番地において一般印刷事業の経営に着手。
────

《なんの因果かしらないが、親しくおつき合いいただいてきた印刷会社が揃って創業90年》
もともと数字には弱いらしい。
たまたま 新宿私塾 フィールド・ワーク で理想社さんにでかけて、うかつなことに同社が1921年(大正10)の創業で、本年が創業90年のめでたい年にあたることを知った。

 
新宿私塾フィールド・ワーク。理想社で書籍製作をまなぶ。2012年5月12日

そこで フト 気づいた。まてよ……、親しくおつき合いいただいている笹氣出版印刷さん、小宮山印刷工業さんも、たしか1921年(大正10)の創業だとおもいあたった。両社のWebsiteをのぞいたら、はたしてこの三社はともに 1921年(大正10)創業で、そろって創業90年を迎えていた。

どうしてこの三社が1921年(大正10)に創業したのかを知ろうと『日本全史』(宇野俊一ほか、講談社、1991年3月20日)をみたが、さして印刷勃興に関連するような記事はなかった。むしろ大正モダニズムと新中間層の登場を紹介していて、「都市の生活」がはじまったことを重点に記録していた。すなわちこの三社が1921年(大正10)に創業したのは奇妙な偶然であり、活字版印刷術が明治初期からの第一世代から、ひろく本格普及をはじめた時代だったためかとみられた。

株式会社理想社、笹氣出版印刷株式会社、小宮山印刷工業株式会社(以下法人格・敬称略)は、いわゆるページ物印刷業者とされる。すなわち商業印刷を主体とする、あわただしい印刷所とはいくぶんことなり、顧客は比較的安定し、かつ固定化している。そのために営業人員よりも、印刷現場の人員が多く、印刷機は四六全判、菊全判などの大型印刷機が多く、多色刷りよりも単色印刷機が主体となっている。

三社に共通する特徴としてあげられるのは、創業まもなくから社内に組版部門を有し、学術書、専門書などに要求される、高度な組版を実施していることである。
理想社などは「理想社組版所」としてのスタートであった。もともと活字版組版にこだわりがつよく、活字版組版を主体とした企業として誕生し、印刷機などの設備はのちに導入しているほどの企業である。その文字活字を中心とする組版重視の伝統はいまなお同社にはのこっている。

つまり三社とも、金属活字組版の時代には、それぞれ戦前から活字母型を購入し、社内に活字鋳造機を所有して活字自家鋳造にあたっていた。また、本格ページ物のためには、欧文・和文の語別活字鋳植機(いわゆる欧文モノタイプ、和文モノタイプ)を設置・稼働させていた企業である。当然活字書体にたいする感度が鋭敏なことも特徴的なことである。

もちろん現在では、金属活字組版にかえて電子組版システムをもちいているが、それでもいまだに汎用機というより、組版専用機が主体で、積分記号や微分演算子など、表記がむずかしい数式や特殊記号をふくむ文書を編集・印刷するために、「TeX テフ」などの「文書整形ソフトウェア」を自在に駆使している。

また組版スキルのレベルは各社とも格段に高く、有力出版社・大学・研究学会・研究機関・官公庁・学術図書出版社などとの長年の取引で蓄積され、顧客それぞれの要求にあわせた、独自のハウス・ルールを所有している。
理想社などは電算写植時代の後期から、いまでいう「合成フォント」に近い技術で、顧客ごとに漢字と和字と欧字の字面率設定をかえているほどのものである。
この取引先各社の字面設定率を何度も田中社長にきいているが、そのつど「ワラ ゴマ」で躱カワされている。しかし同社の主要顧客である、岩波書店と、有斐閣の字面率はあきらかにことなり、そのために版面表情はすこしくことなっているようにみえるのだが。ウ~ン!

メディア産業に大変革の波が襲っているいま、印刷産業も寡占化と全体的な衰退の渦中にあり、1970年(昭和45)に1万2千社近くあった全国の中小印刷業者は、2012年現在は、半分以下の5,600社余りにまで減少しているそうである(全日本印刷工業組合連合会発表、『中日新聞』2012年4月17日)。

そんな悪条件のなか、前述三社の90年におよぶ健闘はひかる。またリーマン・ショックの経済苦境に続き、東日本大震災の影響が、仙台に本社・工場をおく笹氣出版印刷と、おなじく宮城県気仙沼市と仙台市内に主力工場をおく小宮山印刷工業にはきわめておおきかった。
そのため三社ともに、おおがかりな創業記念祭などはおこなってはいないようである。それだけに余計なお節介を承知で、この慶事をブログロール『花筏』読者の皆さまにご報告したかった。
以下創業順に、おもに各社のWebsiteから三社をご紹介したい。

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株式会社理想社
                  1921年(大正10)5月:東京市牛込区柳町において初代田中末吉が「理想社
                                                        組版所」を創業。
        代表取締役/田中宏明
        現所在地/東京都新宿区改代町24番地
        従業員数/46名(2011年6月現在)

【 ごあいさつ 】
代表取締役 田中宏明

代表取締役 田中宏明

理想社は1921(大正10)年に創業以来、より美しく読みやすい書籍印刷を提供することに専心し、わが国文化の向上に大きく貢献してきました。歴史、芸術、学術、文芸など、文化の芽をはぐくみ開花させるのは、言葉であり文字です。その文字の集成が書籍です。

創業者田中末吉は、常に文字品質の向上に傾注し「理想社書体」へのこだわりを追求しながら、先端技術の導入も積極的に行なってまいりました。そしてなによりもお客様に満足していただくために、“誠実に、より良い品質の書籍を提供すること”に情熱を注いできたのです。

現在は、多様化するメディアの中で、印刷業界も大きな変革の時期を迎えております。理想社はトータルな本作りはもちろんのこと、さまざまなご要望にお応えすべく、新技術、新サービスに対する研鑽を怠らず、常にお客様の信頼を得られるよう日々努めてまいります。

創業者が身をもって実践した「温故知新」「低處高思」という教え。その創業精神を堅持しながら、新たな課題へチャレンジする理想を社員一同共有し、社名ともども掲げながら着実に実現していきます。

蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
理想社は秀英舎の「舎弟」であった、初代・田中末吉(1892・明治25年12月4日-1959・昭和34年3月3日 享年67)がその基礎を築いた。田中末吉は「低處高思」の銘を掲げていたとされる。すなわち、身は低い処においているが、想いは常に高く掲げ、懸命の努力と精進をかさねていた。これがして社名を理想社と名づけたゆえんであろう。
この理想は初代・田中末吉の薫陶を受けた、第2代・田中昭三(田中末吉 長女 元子の女婿・昭和31年5月5日結婚)に受け継がれ、そして田中昭三の急逝をうけて急遽代表に就任した、3代目現社長・田中宏明にまで脈脈と継承されている。

理想社90年の歴史には、関東大震災での罹災があり、昭和15年ころからの「変体活字廃棄運動」の影響もおおきかった。また戦時体制下には「企業合同」によって、活字と印刷機の大半を没収され、従業員のおおくが徴兵・徴用された。さらに弱小印刷企業数社と合併されて、理想社の名前を剥奪されて、いかにもこの不幸な時代らしい「大和ダイワ印刷」に改組・改称を命じられ、また世田ヶ谷区大蔵への移転を強制されてもいる。

そんな理想社の記録として、創業50年にあたって刊行された『田中末吉』(理想社、昭和46年12月28日)がある。ついで創業60年にあたっては、『町工場六十年』(理想社、昭和56年10月20日)が刊行されている。
その際に既刊書『田中末吉』も改訂・増補・再刷され、この2冊を併せて『理想社印刷所六十年』と題したスリップケースにいれて関係者に配布した(非売品)。この『理想社印刷所六十年』は、大正期後期から昭和前期の印刷史・活字書体史研究には欠かせぬ貴重な資料といえる。

2011年10月20日、理想社は創業90年を迎えたが、東日本大震災ののちのことでもあり、社内会議室において簡素に創業90周年祝賀会を開催した(らしい)。初代・田中末吉は岩波書店の創業者・岩波茂雄の薫陶をうけ、いまもって理想社は岩波書店を主要顧客としている。
岩波書店出入りの印刷所では精興社も知られる。両社とともに取引があるやつがれからみると、理想社は歴代経営者が技術肌のひとで、歯痒いまでに謙虚で宣伝下手なところがみられる。それでも精興社に負けず劣らぬ実績をあげているのが理想社である。そして同社は創業100年にむけて、堅実な歩みをつづけている。

ところで、理想社・田中宏明社長には筆舌に尽くしがたい様様なご協力をいただいているが、理想社の記録が、創業50年、創業60年にまとめられているのに、今回の創業90年に際して予定されていないのはさびしいことである。
先代・実父の急逝をうけ、30代前半から理想社経営の重責を担ってきた田中宏明社長であり、まだ50代の前半の壮齢でもある。ぜひとも『理想社100年史』の刊行を望み、お手伝いもしたいところである(が、やつがれがそこまで持続するか、いささか不安でもある)。

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笹氣出版印刷株式会社
        1921年(大正10)8月10日、笹氣幸治の個人経営によって仙台市国分町
        に笹氣印刷所が創立された。
        代表取締役社長/笹氣幸緒
        現所在地/宮城県仙台市若林区6丁目西町8番45号
        従業員数/62名(2006年12月)


笹氣出版印刷創業まもなくの時代の社屋入り口・工場・事務所の写真。同社Websiteより。

【 90年目の笹氣 】
当社は創業以来、お客様に支えていただき、おかげさまで創立90周年の節目を迎えることができました。
印刷業界を取り巻く環境はここ数年で劇的に変化しています。
しかし、この変化をチャンスととらえ、今まで培ってきた技術を礎に、新しい情報発信にチャレンジをしています。
100周年企業の仲間入りを果たすべく、次なる10年を挑戦の10年に位置づけ、真にお客様のお役にたてる企業を目指していきます。

【 文字の笹氣 】
当社は創立以来、本づくりの過程において、文字の読みやすさにこだわり続けてきました。
古くは活字の時代から、昨今のDTPによる組版まで、「読みやすさ」に対する挑戦は今も続いています。
もちろんこうした挑戦と、そこから身に付いた技術は、本以外にも様々な当社の制作物に生きています。
これからもお客様の発信するメッセージが、読み手に違いなく届くよう、読みやすさへの挑戦は続きます。

 蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
杜モリの都、仙台発祥の笹氣出版印刷株式会社は、大正10年8月10日、初代・笹氣幸治の個人経営によって創立された。
筆者と親しくおつき合いいただいているのは只野俊裕(取締役)である。笹氣信三(専務取締役・東京営業所長)とも数度お会いしたことがあるが、同社を訪問したことはまだない。

7 年ほど前、小社で只野さんと旧晃文堂社長・吉田市郎さんが出会ったことがある。
「仙台の笹氣出版印刷のかたですか! 昭和30年頃、東北出張というと、真っ先に笹氣出版印刷さんをお訪ねしました。笹氣さんにはランストン・モノタイプの1号機があってねぇ、活字と組版にはとても厳格な企業でした。晃文堂の活字母型も積極的に購入していただきました」
吉田市郎氏は笹氣出版印刷・只野俊裕さんの名刺を手に、感に堪えないという面持ちであった。

笹氣出版印刷には、現社長・笹氣幸緒氏の父、笹氣直三(故人)氏の研究・試作・開発による「陶活字」がある。これは中国のふるい文献にみる「陶活字」を、実際に試作・再現し、印刷まで実施した、わが国では類例をみない貴重な資料である。
────
現代の中国では、印刷学院付属  中国印刷博物館(北京市・撮影不可)と、下記に図版紹介した、中国文字博物館(河南省安陽市、同館は開設からまもなく、図録などはきわめて未整備の段階)に「膠泥活字・陶活字」を復元したレプリカが展示されているが、知る限りでは印刷実験までなされた形跡はない。

中国/北京市 中国印刷博物館 地上3階・地下1階の大型施設であるが、印刷関連大型機器展示場の地階以外は撮影禁止で、 案内パンフレット、図録集などは無かった。併設の印刷学院ともどもわが国で知ることが少ないが、展示物は質量とも群をぬくすばらしさである。2011年9月

2010年10月に新設された「中国文字博物館」。甲骨文発見の地、河南省安陽市の駅前に巨大な外観を誇る。同館は必ずしも交通至便とはいえず、河南省省都・鄭州(テイシュウ  Zhengzhou)から電車でいく。さらに、甲骨文出土地として知られる、いわゆる安陽市小屯村 ── 中国商代後期(前1300頃-前1046)の都城「殷墟」までは、さらに駅前のターミナルから、バスかタクシーを乗り継いでいく必要がある。宿泊施設も未整備だとの報告もみる。したがって当面は鄭州からタクシーをチャーターして日帰りされるほうが無難である。2011年9月

《チョット寄り道。中国のふるい活字製造法とその消長》


畢昇の陶活字 レプリカ(『中国文字博物館』文物出版社 2010年10月)
左:右手に「膠泥活字」、左手に「膠泥活字植字盆」(10文字が入っている)を手にする畢昇銅像。右端上部は「膠泥活字の大小のレプリカ」。右端下部はネッキもある金属活字で、どうしてここに近代の活字が紹介されているのか不明。
『中国文字博物館』は、規模は壮大で、甲骨文に代表される収蔵物には目を瞠るものもあるが、まだコンテンツや解説は未整理な段階にあった。

中国南宋時代の古典書物『夢渓筆談 ムケイ-ヒツダン』に、南宋・慶暦年間(1041-48頃)に畢昇ヒッショウが「膠泥コウデイ活字」を発明したとする記述がある。ここにみる「泥」が、わが国では「水気があって、ねちねちとくっつく土 ≒ 土の状態」に重きをおくので、「膠泥活字」の名称をさけて、むしろ「陶活字・陶板活字」などとされることが多い。
ところが「泥」は、その扁が土扁ではなく、サンズイであるように、「金泥≒金粉をとかした塗料」「棗泥ソウデイ≒ナツメの実をつぶしたあんこ」「水泥≒現代中国ではコンクリート」など、むしろ「どろどろしたモノ」にあたることが多い。

昨年の秋、中国河南省安陽市に新設された「中国文字博物館」を訪れた。そこでみた畢昇の銅像と、手にしている「畢昇泥活字」は、ひと文字が5センチ平方ほどもある大きなもので、あまりに大きくて驚いた。またガラスケース越しではあったが、素材はよく中国でつくられる煉瓦の一種の「磚セン・甎セン」と同様の手法で、ドロドロに溶かした膠ニカワを型取りして固形化させたか、もしくは粘土を型取りして焼いたものとみられた。詳細な説明はなかった。

つづいて元の時代の古典書物『農書  造活字印書法』に、元朝大徳2年(1298)王禎オウテイが木活字で『旌徳県志  セイトク-ケンシ』という書物を印刷したことがしるされている。残念ながら畢昇の「膠泥活字」も、王禎の「木活字」も現存しないし、この木活字をもちいたとする書物『旌徳県志』も現存しないので、推測の域をでない。
──── 本題にもどろう。

笹氣出版印刷ではこの「陶活字」を中心に、2001年2月1日【美しき文字の調べ──笹っぱ活字館】をオープンさせた。
ここには故・笹氣直三の研究・再現・印刷実験による「陶活字」を中心に、ランストン・モノタイプ(語別活字自動鋳植機)の活字母型盤をふくむフルセットと、機械式活字父型母型彫刻機(いわゆるベントン彫刻機)、見出し用活字母型、活字鋳造機などが陳列されている。どうしても拝見したい貴重な資料である。

只野さんからは、タイポグラフィ現業者独特の、辛口の批評をしばしば頂戴する。
曰く 「パッケ出しが甘いですね」
曰く 「フォロー・バックがうまく機能していない」
いわれた直後はいささか腹がたつときもあるが、ありがたいことである。
そんな只野さんであるが、同社のランストン・モノタイプが、わが国導入1号機であるとされることには半信半疑だった。
「確かに、笹氣出版印刷社内では、このランストン・モノタイプが、わが国での導入1号機とされていますけど、世間では研究社さんが最初の導入社とされていますから……」

『笹氣出版印刷  経歴書』(2012年04月)には、要旨以下のように記録されている。
・大正10年08月
笹氣幸治、仙台市国分町に笹氣印刷所創業。
・大正12年
日本タイプライター社より「活字万能自動鋳造機」を購入。
・昭和02年
当時書籍印刷はほとんど東京に依存していた業界にさきがけて、日本タイプライター株式会社製「邦文モノタイプ鋳植機」を購入し、「常にあたらしい活字による印刷」[活字版の解版・戻しをしないで、いわゆる活字1回限りの使用]をはじめる。
・昭和03年
日本タイプライター社よりふたたび「活字万能鋳造機」を購入。
「ドイツ製二回転式印刷機」を設備。「あたらしい活字による印刷」にあわせ、「美麗なる印刷物」を推進。
・昭和06年03月
米国のモノタイプ・コーポレーション社より、日本でも珍しい「ランストン・モノタイプ」を購入。美しい欧文論文の印刷に「モノ式欧文活字自動鋳造植字機」がおおいに活躍し、業界に貢献した。
・昭和20年07月
仙台大空襲で工場全焼。
・昭和22年10月
東北地方の中心地、仙台市役所ならびに宮城県庁にほど近い上杉の地に本社営業所ならびに工場を落成、移転して業務を開始した。
・昭和25年03月
東北大学文学部の依頼をうけ、5年の歳月を費やし、『西蔵撰述佛典目録』を原本としてチベット文字を創刻し、活字母型をおこし、昭和35年5月これを印刷完了し各国に配布。この事業が学会に貢献した。
・昭和31年06月
インド・ナグプールのインターナショナル・アカデミー・オブ・インディアン・カルチャーの懇請をうけ、チベット語活字を、「河北新報社」を介し、インド大使館を通じて日印友好ならびに文化交流のために寄贈。
・昭和41年08月
全自動モノタイプを設備。邦文組版の文選・鋳造の能率効果をあげる。
・昭和49年03月
文字組版の画期的改革を企図し、電算写植機「サプトンA7262」を当社用に開発導入。
…………
・平成23年03月
3月11日東日本大震災によりオフセット印刷機が大破。およそ2ヶ月間の休業に追い込まれた。

ところが組織とは面白いもので、只野さんも筆者も所属しているタイポグラフィ学会の副会長/小酒井英一郎さん(研究社印刷社長)のお話しでは、
「本邦での欧文モノタイプ導入の最初は、仙台の笹氣出版印刷さんときいていますが……」
となります。

参照データ:タイポグラファ群像*001 加藤美方

高島義雄氏→加藤美方氏をへて譲渡された『TYPE FACES』
研究社印刷 1931年(昭和6)
B5判 160ページ かがり綴じ 上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。
研究社・小酒井英一郎氏によると、管見に入る限り、研究社の冊子型活字見本帳では
これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。
現在、整理がヘタなやつがれは、目下のところこの見本帳をしまい込んでいて
探し出せないでいるが、昭和6年の研究社では、行別活字鋳植機(ライノタイプ)が
主流であったと
記憶している。

また後述する小宮山印刷工業の「ご隠居」小宮山清さんも、
「ランストン・モノタイプの導入の最初は、仙台の笹氣出版印刷さんですよ」
とケロリとして断言されます。
もちろんこの両社は、東京におけるランストン・モノタイプ導入企業として、また本格欧文組版ではきわめて著名な両社である。

また印刷業界に欧文モノタイプと研究社の関連がひろく知られたのは、『欧文植字』(水沼辰夫編、工場必携シリーズA6 印刷学会出版部)だったとされる。筆者所蔵書は刊記ページを欠くが、同じ著者によるシリーズ図書『文選と植字』(水沼辰夫 工場必携シリーズA5 印刷学会出版部 昭和25年10月25日)があり、また『欧文植字』巻頭の「はしがき」附記に、編者しるす──として1949年3月の記載がある。したがって『欧文植字』は昭和24-26年頃の刊行とみたい。そこには、以下のような記述がみられる。

附記──[前略]本書中「モノタイプ」については、研究社印刷所のオペレーター鈴木金藏氏に負うところが多い。また組版・図版その他については研究社印刷所から多大の援助をこうむった。ここにしるして感謝の意を表する。
本文最終 p.196──以上、モノタイプについては概略を述べたが、複雑きわまりない構造と、その機能については、説いて尽くさざるうらみが多い。モノタイプは現在東京牛込の研究社印刷所に2台あるから、志ある人はついて見られたい。作業に妨げのない限り応じられると思う。

このように、戦後まもなくの時代、しかも現業者の水沼辰夫氏は、仙台・笹氣出版印刷のランストン・モノタイプの存在を知ることが無かったのかもしれない。その分だけ研究社印刷所を中心に記述したために、在京の印刷業者には笹氣出版印刷関連の情報が欠けたものとみられるのである。
現在わが国では欧文モノタイプを稼働させている企業は無いが、笹氣出版印刷、研究社印刷所、印刷博物館などでそのシステムを見学することができる。

ですから只野さん、なにも先陣争いをするわけではありませんが、どうやら笹氣出版印刷が、わが国でのランストン・モノタイプの導入の最初だったようですよ。

《2011年3月11日、あの日のこと……》
笹氣出版印刷は仙台市若林区6丁目西町8番45号に広大な本社・工場を置いている。あの日、2011年3月11日、仙台空港に津波が押しよせる影像が繰りかえし流れた。笹氣出版印刷は仙台市内から工場団地ともいえる海よりの敷地に移転したと聞いていたので、「もしかして……」というおもいから数度架電した。電話はまったくつながらず、@メールにも返信はなかった。

2011年3月19日、ようやく只野さんから
「只野  です」
と、いつもの穏やかな口調で電話をいただいた。
地震と津波のはなしは双方ともに避けた。どういうわけかタイポグラフィのはなしをしたことを覚えている。のちに「寒中見舞い」をいただいて、只野家は福島県の出身だということを知った……。
2012年2月17日、池袋サンシャインビルで開催された JAGAT『PAGE1012』の展観に只野さんが上京された。ほぼ1年ぶりの再会であった。タイポグラフィのはなしをするのが楽しかった。

────
小宮山印刷工業株式会社
        1921年(大正10)10月:小宮山幸造個人営業をもって小宮山印刷所を
                      創立し、東京都新宿区早稲田鶴巻町371番地に
                      おいて一般印刷事業の経営に着手
        代表取締役社長/小宮山恒敏
        現所在地/本社:東京都新宿区天神町78番地
                宮城工場:宮城県気仙沼市本吉町猪の鼻169-7
               KOPAS(仙台営業所):宮城県仙台市青葉区木町通2-5-19
        従業員数/251名

いきなりの 蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここまで紹介してきた理想社、笹氣出版印刷は、朗文堂ならびにやつがれにとっては、どちらかというと活字書体・組版・印刷実務が中心であり、タイポグラフィ学会系のおつき合いである。
ここからご紹介する小宮山印刷工業 2代目代表 /小宮山清さんは、朗文堂 活版印刷事業部/アダナ・プレス倶楽部の皆さんとのおつき合いが中心である。

《第11回 活版ルネサンス フェア》にご来場の折の写真。2012年3月30日 御年85歳。 

もしかすると「小宮山印刷のおじいちゃん」(失礼!)と呼んで、親しくおつき合いされているアダナ・プレス倶楽部の皆さんは、この情報と、小宮山印刷工業  のWebsite  の詳細をみて驚かれるかもしれない。
名刺には「小宮山印刷工業株式会社   小宮山  清」とだけしるされている。肩書きに類するものはまったくない。それでも小宮山 清(昭和6年2月26日うまれ  85歳)さんは、ページ物欧文組版、欧文印刷、高度学術書組版・印刷に関しては、わが国有数の知識と経験を有されている。

ランストン・モノタイプ社製 Type Lining Tester 活字列見。欧文のベースラインの揃いなどを確認・調整するための器具。実際の使用に際しては90度回転させて、マイクロ・ゲージが下部になるようにしてもちいる。小宮山清氏蔵。

参照資料:タイポグラフィ あのねのね*018  Inspection Tools 活字鋳造検査器具  活字列見

またその企業 小宮山印刷工業 とは、学術・研究書を中心にきわめて高い評価があり、小宮山清さんがときおり本郷あたりに出没すると、少壮研究者のころから、論文のまとめや執筆・刊行にお世話になったとして、並みいる大学教授が深深とお辞儀をするほどの人物であることはほとんど知られていない。
また小宮山印刷工業の一貫生産システム──  Komiyama Orijinal Printing Automation Systemは「KOPAS」と呼ばれ、同システムによる学術書出版への評価はたかく、スリランカ(旧・セイロン)にも関連企業を有している。
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小宮山清さんは、アダナ・プレス倶楽部主催のイベントには、しばしば気軽に足を運ばれている。そこで活版印刷実践者の若者たちと、あれこれと活字・印刷・製本などの技術を物語ることが至極楽しそうである。
ご本人はまったく偉ぶることが無いし、質問には懇切丁寧にこたえられ、自分の功績や会社の規模を誇ることはないから、アダナ・プレス倶楽部の会員の皆さんは、ほんとうに親しく「小宮山さん、小宮山印刷のおじいちゃん」として敬愛しているようである。

アダナ・プレス倶楽部 餅プレス大会で、威勢よく杵をふるう小宮山清さん。このとき御年83歳。お元気である。ともかく若者は、つきたてのおいしい餅を食べることと、呑むことに夢中なので、3臼ほどを小宮山さんが率先して搗きあげていた。2011年11月27日。足立区ママースの協力にて。

《2011年3月11日、あの日のこと……》
宮城県気仙沼市本吉町猪の鼻169-7 に主力工場を置き、仙台市に「COPAS  事業部」をおく小宮山印刷工業にも、あの日の被害はおおきかった。

小宮山清さんに、津波が近在の河川をつたって、本当に気仙沼工場の直下まで激しい勢いで押しよせた映像をみせていただいた。
「びっくりしたけどねぇ、それでも高台に工場をつくっていたから助かった。若い社員のみんなが頑張って、もうすっかり復旧させましたよ」
いつもの抑揚せまらぬ口調で、おおきな災害をかたられた。
小宮山印刷工業は、いまは小宮山清さんのご子息や甥の経営陣が主体であり、4代目にあたる孫世代への継承がつづいているそうである。小宮山清さんはそんな現状を、自分はやりきったおもいで心強くみまもるだけで、余計な口出しはしないそうである。ぜひとも小宮山清さんが、同社の創業100年祭にお元気で参加されることを祈ってやまない次第である。

タイポグラフィ あのねのね*018 活字列見

タイポグラフィ あのねのね*018

Type Inspection Tools   活字鋳造検査器具 

Type Lining Tester  活字列見

《これはナニ? なんと呼んでいますか?  タイポグラフィ あのねのね*016での問題提起》
2012年2月23日、タイポグラフィ あのねのね*016 において、下掲の写真を紹介するとともに、その呼称、役割、使途などを調査する一環として、金属活字鋳造、活字版印刷関連業者からのアンケートをしるした。 
その問題提起とアンケート結果は、上記アドレスにリンクを貼ってあるので、まだ前回資料を未見のかたは、ご面倒でも事前にご覧いただきたい。

簡略なアンケートながら、このちいさな器具の呼称は「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」などと、活字版印刷業者のあいだではじつに様様に呼ばれていたことがわかった。
140年余の歴史を有するわが国の近代活字版印刷術 タイポグラフィ と、活字鋳造業界には、じつに多様な業界用語があり、それがしばしば訛ってもちいられたり、省略されることが多い。まして金属活字鋳造業界はながい衰退期にあるため、情報の断絶がしばしばみられるのがつねである。

またその使途・用途は、アンケート結果をみると大同小異で、ほとんどが、
「活字の高さを調べる器具」
「活字のライン、とりわけ欧文のベースラインの揃いを確認する器具」
との回答をえた。

現在の電子活字、とりわけその主流を占めるアドビ社の「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」においては、ベース・ラインの設定は、全角 em を1000としたとき、120/1000の位置に設定される。欧文活字設計、欧文組版設計において、もっとも重視される基準線がベース・ラインであることは、昔も今もなんら変化がない。
そしていまや、和文電子活字、和文電子組版でさえ「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」が主流となったため、ベース・ラインはより一層その重要性をたかめている。

わが国の金属活字の時代も、当然ベース・ラインの揃いは重視され、すくなくとも『活字と機械』に紹介された図版をみると、1914年(大正3)には使用されていたことがあきらかになった。
しかしながら、拡大鏡をもちいるとはいえ、この簡便な器具での視覚検査だけではおのずと限界がある。したがって相当以前から、このほかにも「顕微鏡型」とされるような各種の活字鋳造検査器具が開発され、また鋳造現場での創意・工夫がなされ、随所にもちいられていたとみることが可能である。

《文献にみる、この器具の資料》
まだ精査を終えたとはいえないが、この器具はいまのところ外国文献には紹介を見ていない。しかし過去の例からいって、本格的に写真図版を紹介すると、やがて資料の提供があちこちからあるものと楽観している。
またのちほど紹介する、インチ目盛りのついた類似器具が、かつて学術書組版のために、欧文自動活字鋳植機(いわゆるモノタイプ)を使用していた、新宿区内の企業から発見されている。いずれ外国文献の報告はあるものと期待をこめてみていたい。

わが国の資料では、『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)の各章の扉ページ(本書にページ番号は無い。電気銅版とみられる同一図版が6ヶ所にもちいられている)にもちいられたカット(イラスト)の左上部、上から二番目に類似の器具が図版紹介されている。
今回の調査をもって、この図版にみる12点の器具すべての呼称と役割が判明した。それだけでなく、ここにある12点の器具は、すべて朗文堂アダナ・プレス倶楽部が所有し、いまもほとんどの道具や器具を使用している。すなわちわが国の活字印刷術とは、おおむね明治末期から大正初期に完成期を迎えていたとみなすことが可能である。
 
       

上左:『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)表紙には損傷が多く、若干補修した。本書にはページナンバーの記載は無い。
上右:『活字と機械』扉ページ。外周のイラストは電気銅版(電胎版とも)とみられ、同一の絵柄が都合6ヶ所にもちいられている。

『活字と機械』扉ページより、左上部2番目の器具を拡大紹介した。この時点ではまだ正式呼称はわからなかった。主要素材は銅製で、下のネジを回すと、手前の鉄片が上下する仕組みになっている。取っ手にみえる円形の輪は、この鉄片を固定する役割を担っている。
右最下部:「活字ハンドモールド──同社では活字台・活字スタンプ」と呼び、1902年(明治35)12月27日特許を取得している。また江川活版製造所創業者、江川次之進が、この簡便な器具を「活字行商」に際してもちいたことが、直系子孫が保存していた掛け軸の絵柄から判明している。2012年5月《活版凸凹フェスタ》にて詳細発表の予定。

《ついに発見! 晃文堂資料から──LININNG TESTER  列見》
これまでも筆者は、吉田市郎ひきいる晃文堂に関してしばしばふれてきた。ここでふたたび『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』(株式会社晃文堂 千代田区神田鍛冶町2-18、p.67、1959)を紹介したい。

わが国の近代活字は、幕末の導入からわずかに50年ほど、明治40年代のなかばになると、はやくもおおきな壁にぶつかっていた。その理由のひとつに、導入直後から東京築地活版製造所、秀英舎、大手新聞各社など、ほんの一部をのぞくと、もっぱら徒弟修行にもとづく、経験則の伝承にたよったために、情報収集・分析と解析能力、技術革新の意欲に欠けていたことを指摘せざるをえない。

またわが国への近代活字版印刷術、タイポグラフィの導入が、18-19世紀の産業革命の成果をともなった、高度量産型産業として導入されたために、タイポグラフィが本来内包していた「工芸」としての役割をみることが少なかった。工芸であれば、クラフトマン・シップであり、そこには身体性をともなった創造の喜び、無償の創作欲の発露の場にもなりえたであろう。
ところが、幸か不幸か近代活字版印刷術は、文明開化の時代の「近代産業」、すなわち工業として招来されたために、あたらしい技術に目を奪われ、ふるいとされた技術を弊履のごとく捨て去ることがこの業種のならいともなっていた。このことは、一面からみると不幸なことであった。

皮肉なことではあるが、高学歴で、情報収集とその応用能力にたけた人材と企業は、営利追究に敏であり、ながい衰退期というトンネルを経過しつつある活字版印刷術業界から、ほとんどが去っている。かれらの多くは、新技術としてのオフセット平版印刷業者に転じ、一部はより新鮮な電子情報処理への道をひたはしっている。

晃文堂は、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒の吉田市郎と、その軍隊仲間(おもに経理担当の主計将校であった)を中心として、戦後に創立した活字鋳造所であった。そのため海外情報に敏速に接することができ、他社が手をこまねいていた欧文活字の復元と新開発に意欲的に進出し、やがて欧文書体の権利関係が複雑になるにおよんで、和文活字の開発に転じている。もともと晃文堂は活字版印刷術の多彩な情報提供をおこない、また総合商社のような役割もはたしており、その一部が現在のリョービイマジクスのひとつの源流をなしている。

わが国戦後の活字見本帳の製作は、西では、かつての森川龍文堂経営者、森川健市が、岩田母型製造所大阪支店の名において、精力的に活字見本帳を製造していた。東では、やはり吉田市郎ひきいる晃文堂が、もっとも意欲的に活字と機械に関する見本帳を製造していた。
晃文堂は社歴があさかったために、研究社人脈、三省堂人脈、印刷局朝陽会人脈、科学技術試験所人脈などを積極的に取りこんで、知・技・美の三側面の充実を意識した活動がめだった。

『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』は、たんなる活字見本帳ではない。活字版印刷術 タイポグラフィを見据えた、総合技芸をサポートする豊富な内容となっている。そのp.67に問題の器具の写真が紹介されている。
左半分は〈INSPECTION TOOLS〉すなわち〈活字鋳造検査器具〉の各種である。
その(A
)に LININNG TESTER  列見 と紹介されている。 

中央部に(A)LINING TESTER  列見が紹介されている。
ここにみる機器は製造ラインが破綻したものもあるが、小社をふくめ、いまも活字版印刷所、活字鋳造所などでは現役でつかわれている。アダナ・プレス倶楽部では《活版ルネサンス》などのイベントに際し、陳列・展示、一部は水面下にあった製造ラインを復活 ルネサンスさせて、製造・販売にあたっているものである。

ようやく晃文堂が提示したこの器具の呼称があきらかにされた。いまならば和製英語としても「ベースライン・テスター」でも良かろうとおもわれるが、前述のように活字版印刷術の職人たちは、欧文を毛嫌いするかたむきがあり、あえて「欧文のベースラインの行の列をみる → 列見」としたようである。
そしてこれが訛って「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」などと呼ばれるようになったものとおもわれた。

《そろそろ脱却したい、「母型」の呼称》
『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』の裏表紙、〈営業品目〉のなかに、和文・欧文対訳で活字母型が3種類紹介されている。どういうわけか、相当の専門書であっても、こと活字に関しては単に「母型」としるされることが多い。
また『広辞苑』にも、
「母型」を「活字の字面を形成する金属製の型」との紹介をみる。ところが後半には「打込母型(パンチ母型)」とある。
すなわち以下のパラグラフで説明されるように、この記述は戦後、ある特定できる人物の記述による。いまや『広辞苑』第4版からのタイポグラフィ関連項目のこの執筆者をふくめて、そろそろ「母型」を特殊業界用語とすることは、一考を要する時代となっているとおもわれるがいかがであろうか。

すなわち様様な鋳物(金属活字も鋳物の一種である)、陶磁器、プラスチック製品などの量産製造のためには、複製原型としての父型(雄型)と、その複製の母型(雌型)があるからである。
ふるくは鋳型であり、雄型・雌型、オス・メスであった。また鋳型素材の多くが粘土であったために、砂型とも呼ばれた。また陶磁器業界・プラスチック業界などでは「成形型」と呼び、石膏製・素焼き製・金属製の三種類がある。

活字における「母型」の呼称は、おそらく明治初期の「MATRIX」からの訳語が印刷・活字界にひろがり、業界用語とされたものであろう。このとき隣接業界、なかんずく鋳物業者を調査したとはおもえない。
つまり、アダナ・プレス倶楽部にとっても、Adana-21J製造のための各種鋳型が山をなす。そこには当然、設計図と試作機があり、また数十点におよぶAdana-21J用父型と、Adana-21J用母型がある。

これが単に活字界での「母型」の独占では困るとするゆえんである。また、こうした業界特殊用語? をもちいてきたために、活字「母型」の製造は特殊化し、孤立・停滞し、 彫金業界などの他業界はもとより、鋳造業界など隣接業界との交流の妨げにもなってきたという不幸な歴史も指摘したい。
端的にいえば、彫金・鋳物業界にも文字活字を重くみる人士は多い。すでに台湾の日星鋳字行などでは、コンピューターの3Dソフトを駆使して、パソコン直結によって活字「母型」を製造している現状も報告したい。
ところがわが国では、戦後に普及した「機械式活字母型彫刻機、ベントンと俗称」にあまりにこだわりがつよかった。その
活字「母型」製造ラインがほとんど破綻した現在、隣接の彫金業界などと提携し、活字母型の製造を円滑化させ、より活発なものとする余地は十分にある。このテーマは検討に値するとおもうがいかがであろう。

晃文堂は、活字鋳造とその販売だけでなく、自家鋳造の大手業者にむけて積極的に活字母型の販売も実施していた。
◎PUNCHED MATRIX
和欧文パンチ母型。ここでの「パンチ母型」とは、欧米式の活字父型 Punch から、簡便な押圧式手法で活字母型 Matrix を製造するパンチド・マトリクス技法とは異なる。晃文堂は後述する国際マトリックス社・細谷敏治氏の特許・造語の技法による「パンチ母型」を積極的に販売していた。
◎ENGRAVED MATRIX
ベントン機械式活字彫刻母型(パントグラフ理論にもとづく機械式直刻活字母型)。これから焼結法によって活字父型をつくり、それをマテ材に打ちこんだのが細谷氏特許の「パンチ母型」である。すなわち「パンチ母型」は細谷氏の造語である。
価格面からみると、直刻母型は高額で、複製父型から製造される細谷式「パンチ母型」のほうが低廉であり、活字母型の不具合に際して、交換・補充が容易であった。おもに自動式活字鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)や、大手印刷所、新聞社などの自家鋳造に採用された。当時の品質評価は直刻式のほうが高かった。
◎GALVANIZED MATRIX
電胎母型(電鋳法による活字母型)。熱変化に弱く、耐用性の側面からみると、全国規模の活字鋳造所で限界にいたっていることが危惧される。

 LINING TESTER  列見の素朴なバージョン。付属のルーペでは拡大率が足りず、10-20倍のルーペで検品することがほとんどだったとされる。欧文活字の鋳造の際には必ずベースラインを検証したし、活字鋳型の交換に際しても検品するのが常だったと長瀬欄罫ではかたる。

 
リング状の輪を「固定ハンドル」と呼んでいたと長瀬欄罫ではかたる。同社では10ポイント活字の鋳造が多く、この「固定ハンドル」を10ポイント専用として、ベースラインの位置に固定させていたとする。

 東京都新宿区榎町のK印刷にのこされた「ベースライン・ゲージ」。モノタイプ社製で、柄の先端にインチ尺によるマイクロ・ゲージが付属している。撮影アングルは天地が逆向きといえ、「LINING TESTER  列見」と同様に、活字ベース・ラインを目視とあわせて、マイクロ・ゲージで検証するためのものだった。

  

タイポグラフィ あのねのね*016 これはナニ? 活字列見

 タイポグラフィ あのねのね*016

これはナニ? なんと呼んでいますか? 
活版関連業者からお譲りいただきました。

 

◎  元・岩田母型製造所、高内  一ハジメ氏より電話録取。(2012年01月04日)
《版見》と書いて《はんみ》と呼んでいました。
◎ 築地活字 平工希一氏談。(2012年01月10日)
ふつうは「はんめ」と呼んでいます。漢字はわかりません。ひとに聞かれると「活字の高さを見る道具」だと説明しています。
◎  匿名希望 ある活字店談。(2012年02月02日)
うちでは「はんめんみ」と呼んでいます。
漢字は不確かながら「版面見」ではないかとおもいます。
◎ 精興社 小山成一氏より@メール(2012年02月15日)
小社では《ハンミ》と呼んでいたようですが、元鋳造課長の75歳男に訊いたところ、判面(はんめん)と呼んでいたとのことでした。

★      ★      ★

活版愛好者の人気アイテムのひとつに《活字ホルダー》という簡便な器具があります。いまや《活字ホルダー》の名称とその役割は、ひろく知られるところとなりました。ところがこのちいさな器具は、5年ほど前までは使途も名称もわからなかったものでした。
会員の皆さまからの情報提供をいただきながら、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部が中心となって、ようやく、その歴史・名称・役割があきらかになって、いまでは活版実践者はもとより、製本・皮革などの工芸者全般がひろく利用する便利な器具として復興 ルネサンスをみました。

ところで上掲の写真です。この器具の主要部は銅製で、高さは100円ライターとほぼ同じ、ちいさなものです。
中央下部、脚部の中央にある円形のネジをまわすと、中央手前の鉄製の金属片が上下する仕組みになっています。
取っ手のようにみえるループ状の金属片は、取っ手ではなくて、おもに固定の役割をします。
またルーペが付属したものもありますが、実際の使用に際しては、もっと倍率の高いルーペをもちいることが多いようです。
現在でも活字鋳造所ではしばしば使用されています。また、かつて活字の自家鋳造を実施していた大手印刷所などの企業では、名称も使途もわからないまま、なんとなく捨てがたい、愛らしい形状をしているために保存してあるものです。

この写真の器具を、2011年いっぱいをもって廃業された「有限会社長瀬欄罫」様からお譲りいただきました。最後まで日常業務に使用されていたために、銅製品に特有の錆びはほとんどみられませんが、長年の酷使のためか、脚部が曲がっているものもあります。脚部の素材は銅ですから容易に修整できますが、機能に障害はないためにそのまま使用していたようです。
またこの写真のほかに、「ウ~ン、最低でも30年は前だったかなぁ」とされる、木製箱入りの未使用のものもひとつあります。これは供給の途絶を危惧して購入したものだそうですが、愛用の器具が酷使に耐えたので、しまい込んだまま(忘れて)こんにちにいたったものでした。

ついで、周囲の活字鋳造所や、かつて活版印刷に関係していた皆さんにアンケート。
「これはナニに使用しますか(しましたか)? ナント呼んでいますか(いましたか)?」
アンケートの結果はご覧のようになりました。業界用語とは面白いもので、各社それぞれ独自の呼称をもって「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、判面ハンメン」などと呼んでいますし、呼ばれていました。
使用目的・使用用途は、どの回答者も、いいかたは様様でしたが、まったく同じでした。

現在までの調査では、この器具を紹介した資料は、東京築地活版製造所の見本帳の電気版イラストによる紹介を、1914年(大正3)にみます。また1965年(昭和40)の晃文堂のカタログに、欧文表記と製品写真の紹介をみています。外国文献には、いまのところ紹介をみていません。
ところがきょう2月23日、数台の欧文モノタイプを稼働させていた、ふるい活版印刷業者(現在はオフセット平版印刷に転業)を訪問したところ、偶然ながら、まったく同じ用途にもちいられていた外国製の器具を、「クワタ箱」を転用した「活版印刷の忘れがたいお道具箱」のなかから発見しました。これらの報告は改めてということで……。
どうしても知らなきゃガマンがならぬ、というお気の短いかたは、『VIVA!! カッパン♥』p.114に簡略な報告がありますので、そちらをどうぞ。

タイポグラフィ あのねのね*015 『ハンドプレス・手引き印刷機』

タイポグラフィ あのねのね*015

 朗文堂書籍 新刊書

『ハンドプレス・手引き印刷機』 板倉雅宣著

板倉雅宣氏(1932年東京うまれ)の労作『ハンドプレス・手引き印刷機』が発売を迎えた。本書はわが国の明治初期における活字版印刷機の、導入・開発・普及・変遷を丹念に追い、それを通じて近代日本の成立の歴史を、ときに俯瞰し、ときに微細に記録したものである。

わが国の近代印刷の黎明は、板目木版への刻字から、金属活字文字組版への変革をもたらし、木版版木バレン摺りから鉄製活字版印刷機の使用への転換をともなった。蒸気機関や電動モーターの実用化に先だつこのころ、総鉄製とはいえ「手引き印刷機」とは、金属活字版を印刷版とし、人力をもっぱらとする、素朴な印刷機であった。
本書は幕末期に点描のように導入された輸入活版印刷機から説きおこし、1873年(明治6)長崎から進出した平野富二らによる「手引き印刷機/ハンドプレス  Hand Press」の本格開発と、その急速な全国への普及、追随した各社の動向を丹念に追っている。
ともすると従来の近代活字版印刷の研究は、活字とその書体形象に集中してきたきらいがあった。ここに活字版印刷術の車の両輪ともいえる、印刷機と活字に関する近代タイポグラフィの開発史研究が明瞭に姿をあらわした。

詳細 : 朗文堂ニュース9月2日

板倉雅宣著『ハンドプレス・手引き印刷機』の発売にともなって、エールの交換をおもいたった。すなわち、小社既刊書『VIVA !!  カッパン♥』において、〈アルビオン型手引き印刷機〉をカラー図版をともなって紹介していたので、その一部を紹介し、読者の理解の一助になればと愚考した。
機構が素朴かつ堅牢な「手引き式活字版印刷機」は、わが国でも、あるいはひろく欧米各国でも、いまなお愛着をもって活版印刷の実用機としてもちいられている。また、各地の博物館などでも、重要なコレクション・アイテムとして所蔵しているところが多い。
すなわち、慌ただしい現代にあって、ひとがつくり、ひとがもちいた、もっともプリミティヴな印刷機が熱く注目されている。前に進むために、ここはいったん立ち止まり、もっとも素朴かつ堅牢であり、印刷術、大量複製術の原点ともいえる「手引き式活字版印刷機」を再検証・再評価するときなのかもしれない。

エール交換 !!  朗文堂書籍

新刊書 ―― 『ハンドプレス・手引き印刷機』  板倉 雅宣著
既刊書 ―― 『VIVA !!  カッパン♥』 アダナ・プレス倶楽部 大石 薫著

    

VIVA !!  カッパン♥

アダナ・プレス倶楽部  大  石    薫 著
2010年5月21日発行   朗  文  堂
p.62  Column  コトとモノの回廊 #
05 より

 

アルビオン型手引き印刷機

「手引き印刷機 Hand Press」は手動で操作する印刷機の総称です。一般にはグーテンベルクがもちいたとされる印刷機のかたちを継承し、水平に置いた印刷版の版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機の一種とされます。そのため、厳密には手動式であっても「Adana-21J」や「手キン」など、印刷版の版面が縦型に設置される「平圧印刷機 Platen Press」とは区別されます。

グーテンベルクの木製手引き印刷機(1445年頃)は、ブドウ絞り機をヒントに考案されたネジ棒式圧搾機型印刷機(Screw Press)であったとされますが、その活字や鋳造器具と同様に、印刷機も現存していないため、あくまでも想定するしかできません。
現存する最古の手引き印刷機としては、ベルギーのアントワープにある、プランタン・モレトゥス・ミュージアムの木製手引き印刷機が知られています。また、アメリカの政治家として知られるベンジャミン・フランクリン(1706―90)も木製手引き印刷機をもちいて印刷業を営んでいたことが知られています。

グーテンベルクの活版印刷機の時代から、その後350年ほどは、細かな改良は加えられたものの、1798年にイギリスのスタンホープ伯爵が、総鉄製の「スタンホープ印刷機」を考案するまでは、活版印刷機の基本構造そのものには大きな変化がありませんでした。
その後の著名な手引き印刷機としては、「コロンビア印刷機」「アルビオン印刷機」「スミス印刷機」「ラスベン印刷機」「ワシントン印刷機」「ハーガー印刷機」(以上年代順)などがあげられます。

[板倉雅宣著『ハンドプレス・手引き印刷機』 p.22-23より抜粋]
アルビオン・プレス(Albion Press)――英国のアルビオン・プレスは、コロンビアン型のレバー式加圧を改良し、加圧機構を肘張継ぎ手にしたもので、英国のコープ(Richard Whitta Cope)が1820年(文政3)に発明したというが、確かな資料がない。アルビオンの最も古い、確かな資料に1822年にパリの工場で輸入申請許可を得るために作成された図面がある。この最も古い機種の No.132 は[日本の]印刷博物館に所蔵されている。
1832年に新聞広告を掲載しているが、
「構造がシンプルで、軽量小型で、階上の狭い部屋でも設置できる」
と宣伝している。この特徴があるのでアルビオン・プレスは普及したものと思われる。
コープの工場のホプキンソン(John Hopkinson)は1842年に改良を加えている。ウィリアム・モリスはこの機種で『チョーサー著作集』を印刷したという。(中略)
アルビオン・プレスを製作していたホプキンソンの死後、その機種の模作を規制しなかったために、キャズロン社などの多くの活字鋳造所のほか、海外でもアルビオンを製造販売するようになった。

[編者曰く……活字版印刷術のように、きわめて古い歴史を有する機器にあっては、かつては特許や実用新案などの法整備も十分ではなかった。また機器の製造に不可欠な鋳型が、高熱鋳造による熱変形を生じたり、損傷すると、原製造所であっても継続生産が困難となるばあいが現在でもままみられる。したがって需要に応えるかたちで、このような複製機の製造がしばしばみられた。そのため活版印刷機器の関連業界では、原製造所の製品を正式呼称で呼び、複製機の製品を、ほとんどが原製造所への畏敬を込めて、製品名に『型』をつけて呼称することが多い]

写真の活版印刷機は、イギリスの活字鋳造所フィギンズ社による1875年製のアルビオン型手引き印刷機です。印刷機としての実用面だけでなく、アカンサスなどの植物模様や猫脚などに装飾の工夫がみられます。
「アルビオン Albion」とは、ちょうどわが国の古称「やまと」と同様に、イングランド(英国)をあらわす古名(雅称)です。ラテン語「白 Albus」を原義とし、ドーバー海峡から望むグレート・ブリテン島の断崖が、白亜層のために白く見えることに由来します。

アルビオン印刷機は、これに先んじてアメリカで考案された「コロンビアン印刷機」を改良した印刷機です。アメリカ大陸の古名「Columbia」の名をもつ「コロンビアン印刷機」は、1816年頃にクライマーによって考案され、加圧ネジをレバー装置に置き換え、圧盤をテコの応用で楽に持ち上げるための錘オモリが、アメリカの象徴である鷲の姿をしています。
「アルビオン印刷機」は、この「コロンビアン印刷機」をもとに、圧盤を重い錘オモリのかわりにバネで持ち上げるなどの改良を加え、1820年頃リチャード・W・コープ(?―1828)によって考案されました。

19世紀末には、すでに動力による大型印刷機が商業印刷の主流でしたが、アーツ・アンド・クラフト運動を牽引した、ウィリアム・モリスは、手工芸の再興の象徴として、手動式で装飾的なアルビオン印刷機をもちいました。また、石彫家にしてタイポグラファでもあったエリック・ギルも同型機をもちいていました。

わが国でも「アルビオン型印刷機」との付きあいはふるく、明治初期に平野富二が率いた東京築地活版製造所によって、アルビオン型(複製)の手引き印刷機が大量につくられました。また秀英舎(現・大日本印刷)の創業に際してもちいられた印刷機も大型のアルビオン型印刷機であったことが写真資料で明らかになっています。

タイポグラフィあのねのね*013 マインツとグーテンベルク

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烏兎匆匆 ウト-ソウソウ

うかうか三十、キョロキョロ四十、烏兎匆匆

先達の資料に惹かれ、おちこちの旅を重ねた。吾ながらあきれるほど喰い
囓っただけのテーマが多い。いまさらながら馬齢を重ねたものだとおもう。
文字どおり 「うかうか三十、キョロキョロ四十」 であった。中華の国では、
歳月とは烏カラスが棲む太陽と、兎ウサギがいる月とが、あわただしくすぎさる
ことから「烏兎匆匆 ウト-ソウソウ」という。 そろそろ残余のテーマを絞るときが
きた。つまり中締めのときである。 後事を俊秀に託すべきときでもある。お
あとはよろしいようで……なのか、おあとはよろしく……、なのかは知らぬ。
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活字版印刷術と情報は、水の流れにも似て……
五体と五感をもちいたアルチザンの拠点

近代活字版印刷術 Typographyの始祖
グーテンベルクの生没地 マインツは、
ライン河畔に沿った街

16世紀、マインツ市の繁華を描いた木版画。手前がライン川で、
マインツ市はその水運を利用した物資の集散地として繁栄した。


ドイツ、マインツ市のグーテンベルク博物館のサイン

1639年の印刷工房を描いた木版画。左手と中央奥に木製の手引き式印刷機があり、
右手奥が校閲者、右手手前が植字作業を描いている。

◎ グーテンベルク(Gutenberg, Johann Gensfleisch  c1399—1468)
あれをバブルと呼ぶのだろうか? 小社の刊行書が欧州でよく売れて、毎年秋にフランクフルトで開催されるブック・メッセに9年連続出展した。
下見に出かけた時を合わせると、10年連続して初秋のドイツに出かけたことになる。1週間のメッセ期間が終わると、狭い展示スペースで立ちっぱなしなことと、馴れない外国語漬けのせいで、ひどく疲労をおぼえた。その疲労回復を口実に、いそいそとマインツ(あるいはふるい大学都市で、良い古書店があったハイデルベルク)に向かった。
マインツは近代活字版印刷発祥の地であり、またその始祖・グーテンベルクの生誕と逝去の街でもあった。

¶ グーテンベルクは1440-55年ころ、ブドウ搾り機から想を得て、ネジ式木製手引き印刷機を製作、金属と親和性のある油性インキを開発、鉛合金活字を鋳造するなどして、近代活字版印刷術 Typography を創始したとされる人物である。ただし、老舗の店舗にもよくあるように、「元祖・家元・創始者」などとする説には異論もあって、オランダなどは、いまもって「グーテンベルク近代活字版印刷創始説」を肯んじてはいない。
それでもマインツには、グーテンベルクの住居・工房跡や、通称『42行聖書』、『カトリコン』などの印刷された書物はよく保存されている。しかし相次いだ内乱や戦乱のためもあって、建物の一部と書物はのこったが、印刷機器や活字そのものはまったく現存していない。印刷と書物という、複製術の威力を痛感させられる街でもある。

¶ グーテンベルクの生誕地、逝去地は、ともにドイツ西部、ライン川左岸に沿った、ラインラント・ファルツ州の州都・マインツであった。マインツはラインの水利を利用した商工業が盛んで、ワインの集散地でもある。1994年の人口は18万4千人と記録され、知名度が高いわりには、こぢんまりと、閑静な街でもある。
自動車もないこの時代はもちろん、創始者のときから数百年にわたって、印刷機はもとより、印刷用紙、活字など、相当の重量のある活字版印刷術は、水運の便のよい地で発達した。

¶ マインツには「グーテンベルク博物館 Gutenberg-Museum Mainz」があり、同館には『タイポグラフィ学会誌 01-04』、大日本印刷から提供された日本語活字組版なども収蔵されている。また本稿の執筆中(これがまた、実にモタモタとやっていた)に、『VIVA!! カッパン♥』(大石 薫 朗文堂  2010年5月11日)、『der Weg nach Basel, the road to Basel, バーゼルへの道』(ヘルムート・シュミット 朗文堂 1997年6月3日)がパーマネント・コレクション(長期保存)されたという嬉しい知らせもあった。また、かつて印刷を地場産業としていた新宿区が、マインツと「姉妹都市」の提携を結んでいたが、現在の事情は不詳である。

¶ 近年、マインツ市は歴史的建造物と景観保存に注力し、グーテンベルク屋敷工房(生家)、フストとシェッファーとの共同印刷工房、最後の屋敷工房、埋葬地などが碑文をもって顕彰されており、それらの地を逍遙ショウヨウするガイドマップも完備したので、意外なほど狭隘なグーテンベルク時代の街を訪ね歩くのも楽しい。もちろん15世紀のひと、グーテンベルクも、徒歩か、せいぜい馬車で動き回っていたはずであり、ほとんどの史跡は徒歩で十分な近接地にある。

◎ 『42行聖書 ラテン語』(Biblia, latina, 42lines ― the Gutenberg Bible.  Mainz : Printer of the 42-line Bible, Johann Gutenberg and Peter-Schoefer c1455)
近代タイポグラフィの始祖とされるグーテンベルクはマインツの中産階級の家にうまれ、もともと鏡をつくったり、貨幣鋳造(個人が貨幣をつくって良いかどうかはさておき……)などにあたる金属細工士であったとされる。1434年ころから居をストラスブールに移し、印刷術の創始に没頭し、1440年には最初の活字版印刷に成功したことが裁判記録から推測されているが、実物は現存しない。1445年ころマインツに戻って、自宅に工房を開設して、印刷術の完成のためにさらに試行錯誤を続けた。

¶ グーテンベルクは生涯に6種類の活字セット(フォンツ)を製作したとされる。最初に製造した素朴な活字は、かつては「36行聖書の活字」と呼ばれていたが、現代ではDKタイプと呼ぶことが多い。このDKタイプは、ドナートゥス『文法書』『トルコ暦』などの小型印刷物(端物印刷)にもちいられている。

¶ 「42行聖書の活字」と呼ばれるものは、マインツの実業家ヨハネス・フスト(?-1466)からグーテンベルクが多額の出資を仰いで、生家の近接地にあらたな工房を開き、またパリ大学を卒業した能書家ペーター・シェーファー(?-1502/03)を校閲係として雇用してから製造されている。このあたらしい活字をもちいて、1454年末から1455年はじめのころに、最初の近代活字版印刷による本格的な書籍となった『42行聖書』(ラテン語ウルガタ訳)を完成させたとみなされている。

¶ こんにち『グーテンベルク聖書』として親しまれているこの聖書も「グーテンベルク博物館」でみることができる。同書は博物館本館中央のゆるやかな回廊をゆっくりと下降し、次第に暗がりに視力がなれてきたころ、特製ケースのなかで、淡い照明のもとでみられる。歯がゆいのは、稀覯書キコウショのために仕方がないとはいえ、ここまで出かけてきても、たったひと見開きを、薄暗い灯りのもとで、ガラスケース越しでしかみることができないことである。「もっと見たい、ページを繰りながらすべてのページを見たい」と、たれしもがおもう(はずである)。

¶ この聖書が通称『42行聖書』とされるのは、各ページのほとんどの行が42行で構成されているためである。同博物館資料によると、初版はほとんどのページが42行で構成されているが、旧約聖書の巻頭部分が40-41-42行に変化しているとしている。ところが第2刷りになると、すべてのページが42行に揃えられている。すなわち、1ページあたり42行、2段組、2巻、あわせて1282ページ。第1巻には旧約聖書の冒頭から詩編まで、第2巻には旧約聖書ののこりの部分と、新約聖書のすべてが収録されている。

¶ 活字はゴシック体(テクストゥール、典礼書体)で、1フォントで、300キャラクター以上の使用が確認されている。アルファベットは26キャラクターで、その大文字、小文字で、都合52キャラクターで済むとおもっていたら大間違いである。活字版印刷術創始者のときから、1フォントに300キャラクター余を製作していたのである。また1ページあたりでみると、およそ3,700本の活字が使用されている。これがして、全ページを見たくなるゆえんでもある。

¶  『42行聖書』はヴェラム製(子牛・子羊・子山羊などの皮を薄く剥ソいで、鞣ナメして筆記用としたもの。本来は子牛の皮をもちいたが、高級羊皮紙と表記される。装本材料にももちいられる)のものが30部、紙製のものが150部、都合およそ180部が印刷されたと推定されている。
また刊行から556年後の現在、『42行聖書』は47部の存在が確認されている。そのうち12部がヴェラム刷りで、のこりの35部が紙刷りとされる。活字版印刷はすべてスミ1色刷りの両面印刷であるが、ヘッドライン、イニシャル、とりわけ2巻の新約聖書篇には、ルブリケーター(装飾士)による、手彩色の赤と青の装飾が美しい。わが国でも、慶應義塾大学図書館が数億円を投じて購入した2巻揃いを、また早稲田大学図書館が、原葉1枚を所蔵している。

◎  『カトリコン』(Catholicon  Balbus, Johannes. Mainz : Printer of the ‘Catholicon’ 1460)
なにもできなかったなぁ、と苦いおもいがするのが『カトリコン』である。かつて町田市立国際版画美術館が「西洋の初期印刷本と版画展」(図録『書物の森』 1996)を開いて、早大図書館資料『42行聖書 原葉1枚』が展示された。またこれもグーテンベルクの刊行とされる、明星大学図書館蔵、バルブスのラテン語辞典『カトリコン』とともに黒山のひとだかりであった。

¶ この書物にもちいられた小型の活字は「カトリコン・タイプ」とされ、グーテンベルクが最後に製造した活字とされて争いはないようだ。しかし『カトリコン』には異本が多く、また印刷者名の記名もないことから、印刷者の名前はグーテンベルクではなく、「カトリコン・プリンター Printer of the ‘Catholicon’」と称されることが多い。

¶ 「カトリコン・タイプ」に注目したのは、その活字鋳型の製造者をおもったからである。グーテンベルクの死後まもなく、マインツに大規模な内乱が発生し、弟子や職人は欧州諸国にばらばらになって離散した。突然襲った内乱に際し、かれらが携行したであろう活字鋳型(ハンド・モールド)が、「カトリコン・タイプ」と極めて近似していることに気づいたためである。
すなわち初期印刷者たちは、「36行聖書の活字 DKタイプ」、「42行聖書の活字」と同寸の鋳型ではなく、「カトリコン・タイプ」とほぼ同寸の、ちいさなサイズの活字鋳型を携行してマインツを脱出し、欧州各地でそれをもちいて、独自の活字版印刷工房を開設したのではないかとみている。
これは活字父型や活字母型、つまり活字書体の形象(デザイン)をいっているのではない。鋳型が近似しているということは、活字のサイズが近似し、行間にインテルを挿入することがすくなっかった当時、行の送りが近似することになる。

¶ つまり、マインツから四散した初期印刷者たち、すなわちニコラ・ジェンソンらは、マインツの、名もない金属職人が製造した鋳型をたいせつにかかえて、欧州各地に四散したのではないかとおもっていた。イタリアのスビアコで、ベネチュアで、そして全欧州で展開した初期活字鋳造と、活字版印刷は、マインツの鋳型ではなかったか? そんなおもいでインキュナブラ(15世紀後半の書物・揺籃期本)をみていた。
しかしながら『カトリコン』の原本は所有していないし、インキュナブラも所有していないわが身にとっては、想像・想定以上に研究がおよぶことはなかった。あとはお任せ……の次第である。

◎ 資料紹介(やつがれの参考書だった。ご希望のかたには喜んでお見せしたい)
『欧文書体百花事典』(組版工学研究会朗文堂 2003年7月7日)
『グーテンベルク』(戸叶勝也 清水書院 1997年8月27日)
『Gutenberg  Man of the Millennium』(City of Mainz, 2000)
『ヨーロッパの出版文化史』(戸叶勝也 朗文堂 2004年10月13日)
『書物の森へ――西洋の初期印刷本と木版画』
       (企画構成・発行/町田市立国際版画美術館 1996年10月5日)
『The Gutenberg Bible』(Facsimle Bibla Sacra Mazarinea. France 1985)

◎ ファクシミリ版 『The Gutenberg Bible』

あらためて上記に参考資料を整理してみた。ほかにも何冊かドイツ語の資料はあるが、ほとんど読んでないし、気休めにしかすぎなかった。すなわちたいした書物はもっていない。すこしだけ愛用した資料は1985年、フランスで発行されたファクシミリ版 『42行聖書』 である。
本書は、フォリオ判(38×28.5cm)、2巻、正確な複写版で、重さは7キロほどもある。装本は素っ気ないほど地味だが、すべてが子牛のなめし革による堅牢な製本で、ドイツの製本所が担当した。幸運な偶然から吾輩の手許に転がりこんできたが、ファクシミリ版とはいえ、当時50-70万円以上で販売されていた書物である。
それでも、これなら気軽に、全ページを繰ってみることができる。意外とあたらしい発見があるものである。なんだ、これしかないのか、とあきれないでほしいのだ。吾輩はこれらをまとめきることができなかった。烏兎匆々ウト-ソウソウとしたゆえんである。