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タイポグラフィあのねのね*012 平野富二と李白 春夜宴桃李園序

活版製造所 平野富二の活字組み見本にみる
李白 春夜宴桃李園序

◎『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の概略紹介
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)を再再紹介してきた。これは、俗に『平野富二活字見本帳』(活版製造所 平野富二 推定明治9年 St. Bride Library蔵)、『改定 BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 明治12年 印刷図書館蔵)とともに、冊子型活字見本帳としてはわが国最古級のものとされている。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所 平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)は平野富二の旧蔵書であった。また筆跡からみて、平野富二の自筆とみられる書き込みが、一部に鉛筆によってしるされている。本書は平野富二の逝去後も、東京築地活版製造所に隣接した平野家に保存されていたが、1923年(大正12)関東大地震の火災に際して消火の水をかぶったため、表紙を中心に損傷がみられる。しかしながら貴重書として、平野家歴代にわたってよく保存され、こんにちなおその資料性を失っていない。

巻頭第Ⅰにみる木版画による本社社屋。

巻頭第Ⅱにみる小扉。円弧に沿って活字組版をするのは
相当の技倆を必要とする。

巻頭第Ⅲにみる本扉。たくさんの種類の活字をもちいた、多色刷り
となっており、4-6度刷り作業をおこなったとみられる。

第1ページにみる「第初號」[明朝体活字]
これは鋳造活字ではなく、木活字とみられている。

最終丁にみる刊記。住所と「活版製造所 平野富二」とある

◎『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の造本仕様紹介

本文仕様    天地228mm×左右168mm(各ページに若干の異同有り)
輸入紙とみられる厚手の非塗工紙に片面刷り。
基本的にスミ1色刷り。扉・装飾罫ページには特色使用。
本文112丁 キリ状のもので2-4穴をあけ糸を通して綴ったものとみられ
る。穴の痕跡は明確に残るが、糸は存在しない。
最終ページに装飾枠に飾られた刊記あり。
「東京築地二丁目二十番地 活版製造所 平野富二」

装本仕様      損傷が激しく、推定部分が多いことを事前にお断りしたい。
装本材料、本文用紙などは輸入品とみられる。
芯ボール紙に代え、薄い木材片を表紙芯材として、表紙1-4に使用。
芯が木材とはいえ、皮をまいた、本格的な皮装洋装本仕立てである。
表紙1-2 オモテ表紙には、小扉ページと同様な絵柄が、空押し
もしくは、箔押しされたとみられるが、箔の痕跡はみられない。
BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO が楕円形で組まれ、
その中央に《丸に も》形のマークが月桂冠の装飾によっておかれ、
その中央にブラック・レターのHがある。最下部に、住所標記として
「Tsukiji Tokio. Japan」がある。
表紙3-4 ウラ表紙には、文字活字が印刷もしくは型押しされた痕跡は無い。
背にあたる部分は存在しない。

また、俗に『活字見本帳』(活版製造所平野富二 推定明治9年  St. Bride Library蔵)とされる活字見本帳は、10年ほど前までは英国St. Bride Libraryにあり、表紙の撮影だけが許されていた。しかし近年大勢出かけている留学生や旅行者の報告では、「収蔵書が多すぎて整理が追いつかなく、同書は収納場所がわからないので閲覧をお断りする」との回答が報告されている。St. Bride Libraryにはさまざまな経済的な荒波が襲ったと仄聞するが、その一刻も早い公開が待たれるところである。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)は、平野富二の曾孫にあたる平野正一氏が、関東大震災当時、平野家土蔵に収蔵されていて被害がなかった、膨大な平野富二関連資料(書画・証書・表彰状類が多い)の山を整理されたおり、その一隅から偶然、損傷の激しい本書を発見されて、公開されたものである。それを長らく小生が拝借してきたが、そろそろ平野家にお返ししないと、いくらなんでも心苦しい時期になってきた。それよりなにより、平野家から、本書の影印複製本の作成を許諾されているのに、いまだに図書販売環境にとらわれて、その刊行ができないでいることもあわせて心苦しいのだ。

◎東京本格進出5年後、32歳の平野富二の挑戦
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』は、長崎のひと、若干27歳の平野富二が、六海商社ないしは五代友厚に「平野富二首証文」(嫡孫・平野義太郎記述、本ブログロール A Kaleidoscope Report 001-7 までを参照)を提出し、それを担保として創業資金を借財し、1872年(明治5)7月に「神田佐久間町三丁目の門長屋」(現在の秋葉原駅前・和泉公園の前あたりと推定される)に鋳造活字製造工場を設け、翌1873年(明治6)築地二丁目二十番地に煉瓦造りの工場を新築し、活字の鋳造ならびに関連機器の製造販売、すなわち、のちの東京築地活版製造所を創業したことに端を発する。

平野富二が築地川沿い、万年橋東角のこの地を、活字版印刷術関連機器製造販売、ならびに活字鋳造販売の本格展開の場所に選んだのは、これまで見落とされていた事実があったことが、『活字界』の連載を調査するなかから浮かび上がってきた(本ブログロール A Kaleidoscope Report 001-7 までを参照)。
すなわち1872年(明治5)2月26日、銀座・築地・日本橋周辺において大火災が発生し、折からの強風もあって、旧京橋区・旧日本橋区一帯が焼亡した。政府は同年7月布告を発して、この地区に再建される建築物を、できるだけ新技術で、耐火性にすぐれた、煉瓦造りにするように命じた。また同時に、東京・渋谷に火災の被害にあった墓地の移築を命じた。これが青山墓地のおこりとなり、さらに同年11月28日、雑司ヶ谷と駒込にも大型墓地を設けて、移築をなかば強制した。
この結果、築地本願寺は大きく敷地を削られ、付属する墓地のない現在の姿となった。また京橋区・日本橋区、すなわち現在の中央区には、墓地はもちろん、社寺地がいちじるしく減少して、一大町人地となった。それがして、こんにちの銀座一帯のきわめて繁華な商業地をもたらすおおきな原因となった。

すなわち、1873年(明治6)、28歳の青年・平野富二は、焼亡した広大な敷地のなかから、もっとも水運に恵まれた、築地二丁目二十番地、万年橋東角に、耐火性をおもんぱかって煉瓦造りの工場を新築し、活字版印刷術関連機器製造販売、ならびに活字鋳造販売、すなわちのちの東京築地活版製造所を創業したことになる。

さらに興味深い事実を指摘しておこう。平野富二が最初の拠点とした「神田佐久間町三丁目の門長屋」(現在の秋葉原駅前・和泉公園の前あたりと推定される)のすぐ裏には総武線の線路が走るが、かつてここには江戸城の外堀をなした運河があった。江戸末期の古地図(江戸切り絵図)を調べると、同所から、築地二丁目二十番地の前を流れていた築地川(現在は高速道路として利用)までは、相当な規模の舟が運航できたものと見られる。
活字の製造設備をはじめ、印刷・組版関連機器、活字などの重量はそうとうなものとなる。神田から築地への比較的近距離への移転とはいえ、自動車や起重機などの陸上交通機関が未発達なこの頃、同社の移転はもとより、その後の隆盛に向けて、水運の利便性は極めて重視されたことが想像される。

ところが、『活字界21号』(編集・発行 全日本活字工業会 昭和46年5月20日)で牧治三郎は、平野富二が求めたこの土地を以下のように紹介し、やがて野村宗十郎社長時代にこの地に1923年(大正12)に新築された本社ビルが、移転の当日に関東大震災に襲われただけでなく、方位学からみると「呪われたビル」であるとした。
《移転当時の築地界隈》
平野富二氏が買い求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切り絵図によれば、神田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)の中奥御小姓屋敷の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の屋敷で多くの武士が切腹した因縁の地で、あるじ無き門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]を中心として、末派の寺と墓地のみで、夜など追いはぎが出て、ひとり歩きができなかった。

しかしながら碩学の牧治三郎も、1872年(明治5)2月26日、銀座・築地・日本橋周辺に大火災が発生していた事実を見落としたようである。この大火後、前述のように墓地はもとより、社寺地は大きく減少している。また『実測東京全図』(地理局 明治11年)をみても、現在の中央区の区画は、関東大震災の復旧に際して設けられた昭和通りをのぞくと、ほぼ現在の区画に近い。すなわち、この周辺にはすでに江戸切り絵図の姿とは異なり、寺や墓地はなかったはずである。

もともと鋳物士(俗にイモジ)・鋳造業者とは、奈良朝からのふるい歴史をゆうする特殊技芸者であり、いわば験ゲン担ぎの職能人ともいえた。その系譜を継承した活字鋳造業者も、火を神としてあがめ、火の厄災を恐れ、不浄を忌み、火伏せの神・金屋子カナヤコ神を祭神とするきわめて異能な集団であったことは報告(A Kaleidoscope Report 002)した。
平野富二と初期東京築地活版製造所の面々も、陽の力、すなわち太陽がもっとも低くなる冬至に際し、「鞴フイゴ祭、蹈鞴タタラ祭」を催し、強い火勢をもって祭神に「一陽来復」を願っていた。したがって、かれらは猛火の火によって十分に除霊されたこの地を、機械製造や活字鋳造に最適な場所として選んだとみてよいであろう。

同社の創業当時の社名は様々に呼び、呼ばれていたようである。本書口絵に相当する板目木版画には、右端にちいさな看板が紹介されているが、そこには「長崎新塾出張活版製造所」とある。かれらは東京進出後もながらく、「長崎の新街私塾[長崎新塾]が、東京に出張して開設した活字版製造所」という意識があったものとみられる。このように、同社は設立当初から、廃業に追い込まれる1838年(昭和13)の直前まで、長崎系人脈と長崎系資本との密接な関係がみられた。そしてその人脈と金脈が枯渇したとき、同社は巨木が倒れるようにドウと倒れたとみてよいだろう。

また同書巻末の刊記には「東京京橋二丁目二十番地活版製造所 平野富二」とあるが、発行日は記載されていない。同書が推定明治10年版とされるのは、紹介されたカレンダーの年号からと、本書の改訂版が明治12年に発行されているためである。いずれにしてもこの時代は、平野活版所ないしは平野活版製造所、あるいは単に活版所と呼ばれることが多かったようである。

そろそろ平野家にお返しする(つもりだ)から、名残り惜しくて、しばしば『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』を開いてはため息をつく。その都度、いまでもあらたな発見がある。紹介された印刷関連機器、さりげなく置かれた装飾罫、欧文活字の招来先、印刷されていない込め物の分割法、そして活字書風などである。
そもそもこの時代には、まだ「明朝体」をふくめて活字に定まった名称はなかった。『本木昌造伝』島屋政一の報告では、「長崎活字・平野活字・崎陽活字・近代活字」などとさまざまに呼ばれていたようである。活字の書体名として「明朝風」ということばがはじめて登場するのは、1875年(明治8)本木昌造の逝去を報じた、福地櫻痴筆とみられる『東京日日新聞』「雑報」が最初であることは報告した。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』では、漢字活字、和字活字(ひら仮名・カタ仮名)、欧字活字(欧文)は明瞭に切り分けられて紹介されている。むしろ現在のデジタル・タイプの環境下のように、明確な根拠もなく普遍化? した「漢字書体に随伴する仮名書体」、「従属欧文」という考え方などよりも、ある面では明確かつ明快といえるかもしれない。
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の漢字活字の文例は、よく知られた『李白 春夜宴桃李園 序』が、すべての漢字活字書体および漢字活字サイズの紹介に使用されている。
漢文紹介とその読み下しには、異本紹介や、異論がつきものだが、ここではいちおう、はるかな昔、漢文の教師(古ッ)が抑揚たっぷり、朗々と吟じた名調子を思いだしながら紹介したい。
そこで思いだしたことがひとつ。この李白を引いたとされる松尾芭蕉『奥の細道』を指導した古文の教師(古ッ)は、過客をカ-キャクというか、むしろ明けガラスの鳴き声のように「クヮ-キャク」と読んでいた。漢文の教師は故事成句にならって「カカク」といっていた。それをどこにでもいる勘違い男が、どちらの教師にか忘れたが、「クヮキャク」と「カカク」の違いに関して余計な質問をして食い下がっていた。そんなものは自分で辞書でも調べろ、とおもって鼻をほじっていたが、いまもってどうでもいい気がしないでもない。

第5ページにみる「第3号」[明朝体活字]。第3号からは
李白『春夜宴桃李園 序』が全文にわたって紹介されている。

長崎造船所出身の平野富二は、造船と機械製造にすぐれた手腕を発揮した。
ともすると東京築地活版製造所は
活字を中心に語られるが、はやくも1873年(明治6)
6月には、同社は上図のような、英国製を摸倣した国産機、アルビオン型手引式活字版
印刷機を製造・販売していたことが、諸記録からあきらかになっている。したがって
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治
10年 平野ホール藏)は、上図のような国産印刷機で印刷したものとみなされる。

◎盛唐の詩人・李白(701-62年)の序文『春夜宴桃李園 序』
「春の夜に、桃李トウ-リ、モモ-ヤ-スモモの園にて 宴ウタゲをする の 序」

◎ 江戸の俳人・松尾芭蕉(1644-94年)『奥の細道』
「月日は百代の過客カカクにして、行きかう年トシもまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ 馬の口をとらえて老オイを迎える者は、日々旅にして旅を栖スミカとす」

*     *     *

夫天地者萬物之逆旅     夫れ 天地は 萬物の逆旅ゲキリョ、タビ-ノーヤドにして
光陰者百代之過客      光陰は百代の 過客カカク、トオリスギシ-ヒト、タビビトなり
而浮生若夢      而して 浮生フセイ、ウキヨは 夢の若し
爲歡幾何          歓ヨロコビを為すこと 幾何イクバクぞ
古人秉燭夜遊     古人は 燭を秉トり 夜に遊ぶ
良有以也       良マコトに 以ユエ有る也ナリ
況陽春召我以煙景   況イワんや陽春の我を召すに 煙景エンケイを以てし
大塊假我以文章          大塊タイカイの我を仮すに 文章を以てする
會桃李之芳園     桃李トウリの芳園ホウエンに会し
序天倫之樂事     天倫テンリンの楽事ラクジを序す
群季俊秀       群季グン-キ、ムレヲナスの俊秀シュンシュウは
皆爲惠連       皆惠連ミナ-ケイ-レンたり
吾人詠歌       吾人ゴジン、ワレワレの 詠歌は
獨慚康樂       独り康樂コウガクに 慚ハじる
幽賞未已       幽賞 未だ 已ヤまざるに
高談轉清       高談 転たウタタ、ツギツギ-ト 清し
開瓊筵以坐花     瓊筵ケイエン、ブンガ-ナ席を開いて 以て花に坐し
飛羽觴而醉月     羽觴ウショウ、サカヅキを飛ばして 月に酔う
不有佳作       佳作有らずんば
何伸雅懷       何ぞ雅懷ガカイ、フウガナ-ココロを伸べん
如詩不成       如しモシ 詩成らずんば
罰依金谷酒數     罰は 金谷キンコクの酒の数に 依らん

タイポグラフィあのねのね*011 活字書体判断3原則 判別性・可読性・誘目性

活字書体判断における三原則

1.  判 別 性  Legibility    レジビリティ
活字書体におけるほかの文字との差異判別や、認識の程度。

2. 可 読 性  Readability   リーダビリティ
文章として組まれたときの語や、
文章としての活字書体の読みやすさの程度。
3.誘 目 性  Inducibility     インデューシビリティ
視線を補足して活字書体などの情報に誘うこと。
またはその誘導の程度。

★   ★   ★

これらの外来語由来のタイポグラフィ専門用語は、耳慣れないことばかもしれない。また、本来は活字版印刷術 ≒ タイポグラフィの業界用語であったから、簡易版の英英辞典や英和辞典には掲載されていないものがあるし、紹介があっても混乱しがちである。

したがって、その翻訳語としての紹介(日本語)は混乱の極地にある。なにも外来語をありがたがるわけではないが、近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィが、江戸最末期から明治初期に海外諸国から招来されたため、その基本用語のおおくが外来語になっている。それは現代のパソコン業界用語とされる、 PostScript, PDF, DDCP など、もはや翻訳語すら追いつかなくなった現状に鑑みたら仕方ないことだろう。
そのためもあって、わが国における活字書体の差異判別や特徴をかたることばは混乱しがちであり、あいまいな感覚語をもちいたり、共通基盤を有さない印象論が大手をふるってかたられている。しかしこれらのことばは活字書体の評価や判断にあたってたいせつなことばである。タイポグラファなら、あるいはタイポグラファたらんとする有志の皆さんは、ぜひとも記憶していただき、適切に使用していただきたい。

《 詳 細 解 説 》

《判別性 Legibility レジビリティ》
判別性は、大文字の「B」が、数字の「8」に見えたりするときや、大文字の「I」 アイ、小文字の「l」 エル、アラビア数字の「1」イチがはっきりと区別できなかったり、大文字「O」オーと、数字の「0」ゼロが明確に区別・判別・識別できないときなどにもちいられる。わが国では、漢字の「網」と「綱」、「ー」オンビキ、チョウ- オン-フ と「-」ダッシュの差異判別や、カタ仮名の「ロ」 ロ と、漢字の「口」 クチが見分けられるように、活字を製作したり、それを議論するときなどにもちいられる。Legibility の和訳語はなかなか定着せず、従来は可視性・識別性・視認性などともされてきた。

Legibility は形容詞 legible から派生した名詞で、文字が読みやすいこと、文字の読みやすさ、文字の判別や識別の程度――判別性・識別性などをあらわす。活字版印刷術が創始されてから間もなく、すなわち1679年にその初出がみられる。形容詞の legible は、筆跡や印刷された文字が、看取される、判別可能な-という意味である。そのほかにも、容易に読める、読みやすいという意味で、後者の比較語(confer)としては readable がある。

こうした判別性を、19世紀末から20世紀初頭に活躍した、英国のタイポグラファのエリック・ギルは、
「A は A、B は B である」
というフレーズをしばしば挑発的に口にしたとされる。また著書『エッセイ・オン・タイポグラフィ』にも各所にしるしている。この「A は A、B は B である」とは、たとえば A という文字を成立させている、画線の組合せでしかない図形を、どう書けばもっとも A らしくなるのかということである。逆にいえば、A を構成しているどの線をどう歪め、どうくずせば A ではなくなるのかという、字体(文字の骨格)の限界の追求を、アルファベットのすべてについて試みることであろう。

文字が成立した長い歴史におもいをはせれば、文字誕生の神秘とその洗練の過程には、確たる文字の姿(字体)を獲得するにいたった人間の工夫と、そのために「定まった字型 Type」をもつ活字のはたした役割の重要性に気づくはずである。文字はひとしく万人のものであり、それゆえに公的な存在であり、その最大多数が迷うことなく、ひとしく判別できる字体(文字の姿・骨格)を探し出す努力は、タイポグラフィの実践者や、活字書体設計にたずさわる者にとっては、基本的な問いかけといえよう。

《可読性  Readability   リーダビリティ》
可読性とは、漢語調で、いかにもふるくからあったという語感で納得させられるが、意外にあたらしい活字版印刷界の業界用語である。もとはドイツ語で Lesbarkeit の英訳語の名詞で、読みやすいこと、読めること、可読性という意味と、面白く読める、面白く書いてあることをあらわすのが原義である。

英語での Readability の初出はあたらしく、 1843年にはじめての使用をみる。わが国ではおそらく明治期に、たれかが Readability に「可読性」という、じつにうまい訳語をあたえたものと想像される。『広辞苑』には 「かどく-せい 【可読性】 読み取れる性質・度合い」 とされている。また一部にこれを「速読性」としたいというむきもある。

1980年代後半、アナログからDTPへの過渡期――技術の継承期――には世界規模での混乱がみられた。そのころ膨大に出版されたアメリカの資料の一部には、レジビリティはフォントを表わし、リーダビリティはファンクションを表す――などという記述も見られた。なにをいっているのか分からなくなる記述が出現し、困ったことに、いまでもそうした資料を引くむきがみられる。

要するにこのことばは、文字の見分けやすさと、文字の読みやすさのこと。つまりタイポグラフィの基本的役割に関わる用語である。したがってタイポグラフィ関連やデザイン関連の洋書に触れると頻出するので、あらためて確認していただきたい。すなわち、あまりこれらのことば自身を難しく考えないで、むしろタイポグラフィの基本的な役割が「文字の見分けやすさと、その読みやすさ」であることを確認したいものである。

《誘目性  Inducibility   インデューシビリティ》
英語の形容詞 「Inducible = 誘致[誘引]できる;誘導できる;帰納できる」の名詞形である。名詞形の Inducibility としての初出はきわめてふるく、印刷術の創始から間もない1643年のこととされる。すなわち「視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度」をあらわすために、活字版印刷の業界用語として登場したので、簡易版の英英辞書、英和辞書などには未紹介のものが多いようである。

誘目性が重視されるのは、サインデザインや広告の世界が多い。空港や駅頭で、的確な情報を提供し、そこに視線を誘導することは、文字設計者の重要な役割でもある。またポスターやカタログなどの商業広告においても、旺盛な産業資本の要請にこたえて誘目性を重視した書体も開発されてきた。

産業革命以後、この誘目性が活字書体設計に際して「ディスプレー書体」などとして強く意識されるようになり、黒々とした、大きなサイズの活字が誘目性に優れているという誤解も生じた。しかしながら、もともと「Display」は動物の生得的な行動のひとつで、威嚇や求愛などのために、自分を大きく見せたり、目立たせる動作や姿勢のことで、誇示・誇示行動をあらわす。

もちろん、現代では「Display」は、表示・展示・陳列などの意でも用いられるし、コンピューターの表示・出力として、図形・文字などを画面に一時的に表示する装置にも用いられる。ところが原義とは怖ろしいもので、ディスプレー書体の多くは、誘目性を過剰に意識するあまり、あまりに太かったり、奇妙・奇抜なデザインに走って(判別性と可読性に劣ったために)、一過性の流行の中に消滅してしまったものも少なくはない。活字の世界で求められるのは、まず第一義的には、判別性と可読性であり、誘目性はむしろ抑制したほうが無難なようである。

ところが近年、バリア・フリーの考え方が進化して「ユニバーサル・デザイン」が提唱されるにおよんで、電子活字書体の一部が「UDフォント」などと称しはじめた。ここでの文字情報の役割は、判別性とともに、誘目性が重視されるようになった。まだわが国の「UDフォント」は開発の第一段階にあるようだが、ここにあげた《活字書体判断における三原則》に立ち帰り、地に足のついた、真の「UDフォント」の開発をめざして、進化・発展して欲しいものである。

タイポグラフィあのねのね*010 江川次之進とアルビオン型印刷機

江川活版製造所と江川次之進
タイポグラフィあのねのね*008
その後のおもわぬ展開
Aloha, 江川製 Albion Hand Press

《ハワイから Aloha! の @メールに 吃驚仰天!》
このブログロール「花筏」は、締め切りもなく、また、ほとんどなんの制約もなく、のんびり、ゆっくり書き進めようとおもっていた。しかしながら、なにぶんデジタル弱者ゆえ、ブログの構成はきわめて拙いし、まして、やつがれの拙文では、おおかたの評価はないものとおもっていた。ところが意外に熱心な読者がおられて、「最近、アップの速度が少し落ちていますね。なにぶんわたしは激甚被災地にいますので、書物も読めなくなって、『花筏』を読むことを楽しみにしていますから、もっとアップを!」という東北地方居住のかたからの@メールや、記述の齟齬や遺漏への、建設的かつ率直なご指摘・ご提案を、リアルタイムでいただけるのはうれしいことだ。

とりわけ前掲の「タイポグラフィあのねのね*008」には、「江川活版製造所がなにかと気になっていたのですが、やはり資料は少ないようですね」などと、若い読者からのお便りもたくさん頂戴した。そんな情報のひとつに、Website情報、「書体の覆刻--『日本の活字書体の名作精選』の制作にまつわることなど」(小宮山博史)に、「江川活版三号行書仮名の存在があった。これはかつてどこかで読んだ記憶もあったが、デジタル仮名活字の覆刻(かぶせ彫り)制作の経緯をのべたもので、興味深く読ませてもらった。小宮山氏もやはり文中に、「江川活版製造所の本格的活字見本帳は実見したことがない」ことを述べていた。

やつがれも印刷図書館所蔵の花形活字(オーナメントなど)の小冊子はみているが、やはり文字活字のまとまった資料に接したことはない。むしろ、江川活版製造所の広告資料などと比較しても、関西系の業者の活字見本帳のなかに、あきらかに江川活版製造所の摸倣活字とみられる例をみることのほうが多い。したがって江川活版製造所の資料不足は、一朝一夕には解消しないようだ。しかしながらやつがれの経験上、たれかが問題提起をし、それを根気よく続けていると、必ず、どこからか、資料や情報の提示があるものだ。いまはしばらく、引き続いて江川活版製造所の問題にかかわっていきたい。

ところで、「タイポグラフィあのねのね*008」に、『直系子孫によって発掘された江川活版製造所:江川次之進関連資料』をアップして間もなく、ハワイから一通の@メールを頂戴した。これには腰を抜かすほど吃驚仰天ビックリ-ギョウテンした。またやつがれが、そこで江川活版製造所関連資料の不足を嘆いたために、友人・知人から、資料提供や、資料の所蔵先を紹介いただいた。
そもそも「Websiteとは Interactive インタラクティブ だ」とされる――これはInter とActiveの合成語か? すなわちコンピューター業界用語では「対話方式の」であり、Interactively では、「相互に作用して、互いに影響しあって」の意とされる。ツイッターをやるにはチト恥ずかしいし、まずもって携帯電話を「無用の長物なり」として処分したほどのアナログ派のやつがれには、この程度の軽便なブログロールが「相互に作用して、互いに影響しあって」いて手頃なようだ。

アルビオン型手引き印刷機を紹介した『VIVA!! カッパン♥』
(アダナ・プレス倶楽部 2010年5月21日 朗文堂)
1875年英国の活字鋳造所フィギンズ社製造。写真のマシンはLiugua Florence 所蔵。
まずここで、アルビオン型手
引き印刷機の概略と歴史を知っていただきたい。

2011年5月16日、ハワイで個人印刷工房マノア・プレスを主宰されている、ジェームス・ランフォード(Manoa Press, James Rumford)氏から@メールが到着した。
Dear Robundo,
I am sorry that my Japanese is not very good.  I only can read a little bit.
I wanted to tell you about my printing press, an Albion, made by Egawa around the year 1900. It came to Hawaii before World War II, and so survived the war.

どうして日本語だけの本稿を、ジェームス氏が読み解いたのかわからぬまま、やつがれも、まもなく返事をジェームス氏に送った。向こうが母語たる英語でしるしてきたから、こちらも最初の2行を別にして、すべてやつがれの母語たる日本語でしるした。
Dear James,
I am sorry that my English is not very good.  I only can read a little bit.
あなたからのお便りにとても驚き、嬉しくおもいました。江川活版製造所がアルビオン型活字版印刷機をつくっていたという記録はみたことがなく、まして1900年(明治33)ころに製造されたとする、江川活版製造所のアルビオン型手引き印刷機が、はるばるとハワイにわたり、第二次世界大戦の被害もなく、いまも大切に保存・使用されていることを知って、ほんとうに嬉しくおもいます。

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機
正面 江川の文字と商標 がみられる。

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機
背面 旧日本海軍艦隊旗がみられる

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機 側面
頭頂部にバネを内蔵した突起がみられるのが、アルビオン型手引印刷機の特徴。

木製とおもわれる部材に刻印された、江川の商標 と社名。マノア・プレス蔵。

その後 マノア・プレス のランフォード氏との@メールのやりとりが続いている。かれは1900年(明治33)ころに、江川活版製造所がつくった アルビオン型手引き印刷機 を所蔵 しているという。 なぜだかしらないが、ランフォード氏は語学がやたらと巧みで、アラビア語や中国語を相当読みこなせるらしい。しかも日本語でも漢字を拾い読みして、大方は理解できるらしい。したがってやつがれが苦手とする「漢文調?」の文章で日本語をしるすと、理解しやすいそうである。――日本語の根底には漢文がドテッと居座っているからか……。
それでも理解できない部分は、ハワイ在住の日系人に翻訳してもらっているとのことである。またランフォード氏は、ちょうど日本語の習得につとめていたので、「花筏」をテキスト代わりとして、日本語学習のテキストとして読みすすめているそうである。やつがれの拙文がテキストではチョイと困ってしまうけど。

また、マノア・プレスのWebsiteには、米国映画『HAWAII』の動画サイトYou-Tubeへのリンクがある。『HAWAII』は、『サウンド・オブ・ミュージック』のエーデル・ワイスの曲でお馴染みの女優/ジュリー・アンドリュースと、『偉大な生涯の物語』のマックス・フォン・シドーが主演しているが、現在では人種問題の扱いなどに問題があって、あまり上映されない映画のようである。その分You-Tubeにはたくさん紹介されているが、『HAWAII-Part 10』 の開始からしばらく、5-6分ころにかけて、なんと、くだんの江川型アルビオン型印刷機が画面に登場する。
映画のなかでの印刷作業の手つきは、手引きというより、手押しになっていて怪しい。(そういえば、渥美清の寅さんの映画でも、裏のタコオヤジのアオリ型円圧活字版印刷機の操作が怪しくて辟易ヘキエキしたが……)。ジェームス氏にもまだ十分に確認していないが、ともかくここに登場する、まぎれもないアルビオン型印刷機は、わが国の江川活版製造所が製造したものとされているのには驚いた。

しかもである。ジェームス氏は小社のWebsiteから、例年5月のGウィークに開催されていた「活版凸凹フェスタ」のことを知ったらしい。そして、今年は東日本大震災の被害者をおもんぱかり、また、活版実践者の精神的衝撃が深刻で、製作に集中しがたい状況を考慮して、苦渋の検討を重ねた結果、開催中止を決断したことを知ったという。
そして、被害者の皆さんの一刻も早い災害からの復興を望むとともに、日本での活版実践者とそのファンとの交流のために、来年5月開催予定の「活版凸凹フェスタ」に、「ハワイに渡った江川活版製造所製のアルビオン型手引き印刷機」を持って来日したいのだという。江川アルビオンはおよそ500パウンド、250キロ。すなわちハワイ出身の巨漢力士だった小錦ふたり分ほどの重量だそうである。ジェームス氏、ともかくすごい熱のいれようだ。

《調査不足を猛省! 明確な記述があった江川手引き印刷機》

『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)
社名の前の行に「●改良手引ハンド(八ページ・四ページ)製造販売」とある。
これは江川活版製造所が手引き式印刷機―アルビオン型?を
製造・販売をしていたことを想像させる記録であった

上記の図版は「 タイポグラフィあのねのね*008」にも紹介したものである。その際、キャプションとして、
「『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)。主要書体は、新鋳造の「江川行書」活字である」
とだけ紹介した。ここでのやつがれは、ついつい江川行書のインパクトに引きずられて、活字印象だけをかたっていた。すなわち江川行書活字は、明治初期のひとびとのあいだに、まだ、篆書・隷書・行書・草書・楷書などの読み書きの素養があった時代に誕生した、きわめて勁烈な筆運びの活字書体である。すべからく、活字書体や書風とは、時代の風や空気を背景として誕生する。その見本のような活字書体が江川行書活字であった。したがって現代の視点では、むしろその勁烈さゆえに、あまりに強すぎる活字書体とみられていた。

しかもそれを実際にテキストとして読もうとすると、行書活字はともかく、それに組み合わされた仮名書体、なかんずくひら仮名異体字(変形仮名)の読み取りに苦労することになり、活字印象派の諸君のように、活字の影印印象だけをかたって、その記述内容の紹介は誤謬をおそれておろそかにした。そこで今回は引用図版から、誤謬をおそれず、ひら仮名交じりの現代文に直しながら全文を紹介しよう。

諸賢のますますのご清適を賀し奉りそうろう。さて、拙者製造の行書活字は、発売以来ことのほかご好評をこうむり、需要日に増加し、業務繁栄におもむき千万センバン、ありがたく謝し奉りそうろう。そもそも右行書活字の義は、筆力遒勁シュウ-ケイ、トテモ-ツヨイ、おのずから雅致あるをもって、これまではおもに名刺に用いられ、大いに江湖コウコ、セケンの喝采を博し、石版[印刷]よりも尚鮮美なりとの高評を辱ふせられそうろうところ、右は独り名刺のみならず、書籍そのほか広告文などに御用いになられることそうらはば、更に美妙に之あるべくそうろう間、多少を論ぜず陸続倍旧ご注文仰せ付けくださるよう希望奉りそうろう              敬 白

追白 右行書活字の義は、拙者種々シュジュの困苦を嘗め、経験を積み、莫大の資本を費やし、明治20年の頃より活字母型製造に着手し、ようやく発売の運びに至りそうろう処、昨今大坂地方にて右に類似の活字を製造販売致し居りそうろう者之有り趣オモムキにそうらえども、右はみずから巧拙、良否の区別之有り。拙者製造のものとは、大いに相違致しおりそうろうあいだ、御購求の際は呉々もご注意然るべしと存じ奉りそうろう也
●改良手引ハンド(八ページ/四ページ)製造発売
東京日本橋区長谷川町
江  川  活  版  製  造  所
大坂東区本町二丁目堺筋
東 京 江 川 支 店 朝 日 堂

やつがれは恥ずかしいことに、この江川活版製造所の広告を何度も見ていながら、そこに、
「●改良手引ハンド(八ページ/四ページ)製造発売」
とある、重要な記録を見落としていた。すなわちタイポグラフィを総合技芸として把握する努力を怠っていたことを猛省させられた。もしかするとこの手引ハンドとは、ハワイのマノア・プレスに現存する「江川アルビオン型活字版印刷機ハンドプレス」のことであることも想像された。

また手引きハンドプレスのチェース、すなわち印刷版の収納サイズをあらわす、八ページはB3判ほど、四ページはB4判ほど、とおもってよいだろう。ここでの手引き印刷機とは、現代の事務用コピー複写機程度のちいさな印刷機だったとみてよい。
ただし、後述する『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日 p173-180)に紹介された、江川活版製造所における活版印刷機関連の記述をみると、同所は明治24年(1891)には、まだ活版印刷機を製造する態勢を築いていたとはおもえない内容である。推測ではあるが、活字の供給と同様に、すでに同型機を製造・販売していたことが、さまざまな資料から類推される、東京築地活版製造所から、現在のOEMのような状態で供給を得た可能性のほうが大きいとみたい。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。

また、マノア・プレスのジェームス・ランフォード氏は、ハワイの同型機を1900年ころの製造としている。そうすると三谷幸吉の紹介する本林機械製作所の製造によるものである可能性があることになる。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』
(平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)
本書は平野富二の旧蔵書で、ところどころに自筆の鉛筆の書き込みがみられる。
関東大地震で消火の水をかぶったが、なんとか修復してある。
管窺に入る限り、本邦唯一本である。

同書口絵ページ、板目木版印刷
看板の商号は「長崎新塾出張 活版製造所」であり、同社には最初から最末期まで
長崎の「新街私塾から出張ってきた活版製造所」との意識があった。

同書小扉ページ 金属活字を円弧に組版するのは、昔も今も相当の技倆を必要とする。
MOTOGI & HIRANO 両氏の名前を強調している。住所は Tsukiji Tokio. Japan である。

同書本扉ページ 活字版多色刷り印刷。
平野富二の東京進出から6年ほどだが、19世紀のタイポグラフィに特有の
一行ごとに書体と刷り色をかえるなど、
高度な組版・印刷技術である。

同書「第初號」とされた、木活字による初号明朝体。
まだ鋳造技術が未熟で、大型活字のツラに「ヒケ、オチョコ」の発生を防げず、
初号・一号は木活字を使用していた。

巻末部に紹介された活版印刷関連器機。
これらの器機は現在でもほとんどが使用されている。

巻末部に紹介された活版印刷関連器機。
これらの器機は現在でもほとんどが使用されている。

平野富二と東京築地活版製造所が明治10年ころから
アルビオン型手引き印刷機を意識し、
それを摸倣して製造? していたことをうかがわせる図版。
この図版とほぼ同一の、同社製のアルビオン型手引き印刷機は、現在でも
長崎印刷工業組合、水野プリテック、府中歴史博物館などに現存する。

欧文活字収納用ケース

木製部材と金属を併用したプレス機。

《江川活版製造所の印刷機械製造の記録》
ここでふたたび『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日 p173-180)「行書体活字の創製者 江川次之進氏――敏捷奇抜の商才で成功す――」から、活字鋳造と、大坂方面における「種字盗り」の記録、印刷機の製造・販売に関する記録の部分を紹介しよう。

明治十九年[1886]、業務拡張の為に、日本橋区長谷川町に引移った。其年著名な書家其頴久永氏[久長其頴 ヒサナガ-キエイ 書家 詳細不詳 乞! 情報提供]に改めて行書種字の揮毫を依頼し、此に初めて現今伝わっている様な行書々体が出現することゝなったのである。

斯くて此間三、四年の星霜を費やして、漸く二号行書活字を完成し、次ぎに五号行書活字も完備することゝなったので、明治二十一年[1881]秋頃から、「江川の行書」として市販し出したところ、非常に人気を博し、売行亦頗ぶる良好であったと云う。明治二十五年[1892 ]十一月十五日引続き三号行書活字を発表した。

然るに昔も今も人心に変りがないと見え、此行書活字が時好に投じ、前途益々有望であることを観取した一派は、窃ヒソカにこれが複刻[いわゆる種字盗り]を企画するにいたり、殊に甚だしきは、大阪の梶原某と云う人が、凡ゆる巧妙な手段を弄して、行書活字を買い集め、これを種字となして遂に活字として発売したから、此に物議を醸すことゝなった。即ち江川では予め行書活字の意匠登録を得ていたので、早速梶原氏に厳重な抗議を提起したが、その結果はどうなったか判明しない。

これより前、明治二十二年[1889]に横浜伊勢崎町で、四海辰三外二名のものをして活字販売店を開かしめ、同二十四年[1891]、大阪本町二丁目にも、淺岡光をして活字販売店を開設せしめ、地方進出に多大の関心を持つことゝなった。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。商売に放胆な江川氏は、売行の如何を考うるまでもなくこれを快諾したそうである。同二十六年[1893]、長男貫三郎氏の異兄をして福井県三国町に支店を開かしめ、続いて廿七年[1894]山田朝太郎氏に仙台支店を開設せしめた[江川活版製造所仙台支店は江川活字製造所と改組・改称されて、仙台市青葉区一番町1-15-7で2003年頃まで営業を持続して、東北地区一円の需要を担った]。

尚二十九年[1896]には、隷書活字の創製所たる佐柄木町の文昌堂(元印書局の鋳造部技手松藤善勝氏村上氏等が明治十三年[1880]に設立したもの)を買収したる外、松山氏に勇文堂、柴田氏に勇寿堂を開店せしむる等、巨弾又巨弾を放って販路の拡大に努力する有様、他の同業者の心胆を寒からしめた由である。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

ここで、真田幸文堂から提供いただいた、江川活版製造所の印刷機に関する新資料を紹介したい。この記録は明治の末、上野池之端で大々的に開催された「東京博覧会」の記録である。ここには江川活版製造所の活版印刷機の写真が、不鮮明ながら石版印刷で紹介されている。
また江川長体明朝の数少ない資料として『印刷世界』から、活字広告を紹介しよう。このような埋もれていた記録が、これからも陸続と紹介できそうで楽しみなことである。また、板倉雅宣氏は2003年ころより手引き印刷機の所蔵先の調査をされている。この本格的な発表もまたれるいまである。

「江川の印刷機械と國華社の美術木版」『東京博覧会大画報』
(第6巻第3号 冨山房 明治40年 真田幸文堂蔵)

江川印刷機械所主・江川次之進氏は、明治16年斯業シギョウを創立し、独立独行幾多の困厄と奮闘して、爾来ジライ20有余年。この間幾多の改良を加え、以て製造に注意せる結果、今や江湖の信用最も厚く、内地は勿論、支邦、朝鮮などにまで分工場を起こし、業務日に月に益々隆盛に趣きつつあり。上図はすなわち出品の機械類なるが、上は足踏みロール印刷機械、下は新型のロール印刷機械なり。(以下國華社分 紹介略)

The Yegawa Type Foundry の雑誌広告 江川長体明朝の管窺にいるかぎり唯一の資料。
『印刷世界』(第2巻第1号 明治44年1月0日 佐藤タイポグラフィ研究所蔵)
「各種活字 印刷機械 附属品一式」――二号江川行書 行間二分
「本文:弊所は明治十六年の創業~」――五号江川長体明朝 行間二分

タイポグラフィあのねのね*009 活字ステガナ、ナミガナ、促音、拗音

活字《捨て仮名》《並み仮名》は様々な名称で呼ばれる!
捨て仮名派・半音派・促音派・寄せ仮名派・拗促音派?・無名派!
あなたは促音・拗音の仮名文字活字をどう呼びますか?

《促音・拗音・撥音と「捨て仮名」活字》
ここでは別に、国語表記論や、音韻論を展開しようというものではない。タイポグラフィの実践の現場で、日日処理をせまられる事柄を検証してみただけである。すなわち、ながらく筆者は、なんの疑いもなく、促音・拗音をあらわす「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」など、小さなサイズの仮名文字活字のことを「捨て仮名」と呼び、そのほかの、ふつうの大きさの仮名文字活字を「並み仮名、乃至ナイシは まれに、直音チョク-オン仮名」と呼んできた。ところが先般イベントの打ち合わせ中に、写植活字からスタートした活字書体設計者(50代後半かな?)に、「カタシオさん、どうして拗促音ヨウ-ソク-オンのことを、捨て仮名というんですか?」と、かなり強い口調で質問(詰問?)を受けた。

同席していたほかの書体ベンダーのかた(50代かな?。写植世代人)に「アレッ、オタクでは促音や拗音の活字のことを捨て仮名っていわない?」と問うと、「ウチでも拗促音です」といわれた。前者はさらにことばを継いで「捨て仮名っていわれると、なにか拗促音を軽視されているような気がする」ともいわれた。もちろん筆者は「捨て仮名」活字を軽視するわけではないし、促音・拗音・撥音ハツ-オン(日本語の語中または語尾にあって、1音節をなす音。ひら仮名では「ん」、カタ仮名では「ン」であらわす)のことはひととおり知っているつもりだったが、「拗促音」なるチョイと便利そうな合成語? は知らなかったので、奇異におもった。

ちなみに「拗促音」は『広辞苑』(申し訳ない。主として電子辞書第4版を使用している)にも、印刷業界の用語集『印刷事典』(第5版 日本印刷学会 印刷朝陽会 平成14年1月7日)にも紹介されていない。そしてTさんやIさんが辛い評価をくだした「捨て仮名」は、両書にしっかりと紹介されていた。少し退屈かもしれないが、まず国語辞書や印刷業界の用語集では、これらのことばをどう扱っているのか見て欲しい。

そく-おん【促音】――広辞苑(第4版)
語中にあって次の音節の初めの子音と同じ調音の構えで中止的破裂または摩擦をなし、一音節をなすもの。「もっぱら」「さっき」のように「っ」で表す。また、感動詞「あっ」「っ」で表す音のように、語末で急に呼気をとめて発するものにもいう。つまる音。つめる音。促声。

よう-おん【拗音】――広辞苑(第4版)
(「拗」は、ねじれる意)〔言〕
国語のア〔a〕ウ〔u〕オ〔o〕の母音の前に半母音〔j〕を伴った子音が添っている音節。「や」「ゆ」「よ」の仮名を他の仮名の下に添えて表し(現在は一般に小さく書く)一音節をなす。すなわち「きゃ〔kja〕」「きゅ〔kju〕」「きょ〔kjo〕」、その他「ぎ」「し」「じ」「ち」「に」「ひ」「び」「ぴ」「み」「り」に「や」「ゆ」「よ」が添うもの。開拗音。
「か」「が」「け」「げ」の子音と母音との間に〔w〕の音の挿入された音節。「くゎ〔kwa〕」「ぐゎ〔gwa〕」「くゑ〔kwe〕」「ぐゑ〔gwe〕」。現在は、方言に「くゎ」「ぐゎ」が残るのみ。合拗音 ⇄ 直音

よう-そく-おん【拗促音】――広辞苑(第4版)
記載なし
そくおん  促音/ようおん 拗音/ようそくおん 拗促音―-印刷事典(第5版)
記載なし

すて-がな【捨て仮名】――『広辞苑』(第4版)[傍線筆者。以下同じ]
① 漢文を訓読する時に、漢字の下に小さく添えて書く送り仮名。すけがな。
② 促音・拗音などを表すのに用いる小さな字。「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」の類。
すてがな 捨て仮名―――『印刷事典』(第5版
一般に半音と呼んでいる拗ヨウ音、促音のこと。縦組みは右横付き、横組みは下付きに鋳込まれる。

はん-おん【半音】――『広辞苑』(第4版)
〔音〕[音楽用語の解説のみ。以下略]
はんおん 半音―――――『印刷事典』(第5版)
記載なし

ちょく-おん【直音】――『広辞苑』(第4版)
日本語の音節の一種。拗音・促音以外の音。1音節が、かな1字で表される音。
ちょくおん-ひょうき【直音表記】――『広辞苑』(第4版)
拗音に撥音されたと考えられる漢字音を、直音のかなで表記すること。シャ(者)・シュ(主)・ショ(所)を、サ・ス・ソと書く類。
ちょくおん 直音/ちょくおんひょうき  直音表記―――――『印刷事典』(第5版)
記載なし

★     ★     ★

造本と印刷』(山岡勤七 印刷学会出版部 昭和23年1月25日)
敗戦直後で書物が少ない時代にあって、本書は出版・印刷人が争って求めたとされる。本文用両仮名活字は凸版印刷勤務時代のミキ イサムによる「横組み用9ポイント新刻仮名活字」で、本書にのみ使用例をみるもので、原資料・活字母型・活字は保存されていないとされる(凸版印刷談)。装幀:原 弘





『造本と印刷』第六章:当用漢字・新かなづかい、68項:新かなづかい(現代かなづかい)について――は、昭和21年9月、国語審議会の答申に基づき、内閣訓令、告示により「現代かなづかい」と「当用漢字表」が公布されたのをうけてしるされている。p84第9. ヨウ音をあらわすには、ヤ、ユ、ヨを用い、なるべく右下に小さく書く。第10. ソク音をあらわすには、ツを用い、なるべく右下に小さく書く。――とある。ここには正式な名称は与えられていないし、なるべく……など、あいまいな記述が目立つ。この文部科学省のあいまいな姿勢は「現代仮名遣い」昭和61年7月1日 内閣告示 にも継承されて現在にいたっている。

ここまで調べてきて、どうやら明治からの文部省・文部科学省が、促音と拗音を表記する、仮名文字活字の名称とその定義を明確にしてこなかったために、民間で混乱がおこっているらしいことに気づいた。これについては、いずれ明治からの仮名遣いに関する公文書を紹介して整理したい。それでも気になって、あれこれ調べることになった。冒頭に掲げたように、『広辞苑』では「捨て仮名」はしっかり紹介されていた。もちろん『広辞苑』がすべてのことばを包含・包摂するわけではないが、すくなくとも小社では、現代通行文として「芝居を観て、感動して家にもどつた」としるせば、「つ」の部分に、横組みなら「」、縦組みなら「」のような校正記号で朱記がはいるか、あるいは「つ」に丸記号がしるされ、そこから枝のように伸びた修整指示として「捨て仮名にカエ」、あるいは単に「ステ」という指示が入ることになる。その逆に、歴史的仮名遣いなどでは「芝居を観て、感動して家にもどった」とあれば、前記と同様の記号とともに、「並み仮名にカエ」、あるいは単に「ナミ」という指示が入る。すなわち「捨て仮名活字 ≒ 促音・拗音をあらわす小さなサイズの仮名活字」と「並み仮名活字・直音仮名活字 ≒ ふつうのサイズの仮名活字」のふたつのことばはセットでもちいられる。したがって「拗促音にカエ」などの指示はしたことはないし、これが当たり前だとおもっていた。そこで簡単な調査であったが、近接業界のひとに直接取材した。

★     ★     ★

「捨て仮名活字」派は、比較的高齢な出版人・編集者・校閲者に多い。また、活版印刷時代からの歴史を有する書籍印刷所では、いまでもふつうにもちいられている。これらの職業人は、ほぼ全員が「捨て仮名/並み仮名・直音仮名」という、サイズの異なる仮名活字を意識して併用していた。また、このグループのひとたちは、「促音」「半音」「寄せ仮名」も理解していたが、通常「捨て仮名」が第一位で、相手によって「促音」をつかいわけるとした。またおひとり「一部で『拗促音』というが、促音と拗音は明確に異なるから、安易な合成語は疑問。しかも『拗促音』は、字音(読み)を表すが、意味範疇が活字の形象に及んでいないから意識して使わない」とするひと(学生時代は音韻論を専攻)もみられた。

金属活字業者・活版印刷業者・オフセット平版印刷業者は「半音ハン-オン仮名活字」派が圧倒的多数派。ほかにも「小仮名活字・寄せ字・寄せ仮名活字・捨て仮名活字・促音活字」などと、実にさまざまな呼称をもちいている。 ここで印刷業界の業界用語集『印刷事典』を再度紹介する。
すてがな 捨て仮名―――印刷事典(第5版)
一般に半音と呼んでいる拗ヨウ音、促音のこと。縦組みは右横付き、横組みは下付きに鋳込まれる。
この『印刷事典』にあるように、印刷業界ではいまでも「促音・拗音[にもちいる仮名活字]を、一般に半音 乃至ナイシは 半音仮名活字と呼んでいる。また促音「っ」を吃音キツオンとしたり、「ぁぃぅぇぉァィゥェォ」の文字列を「半母音ハン-ボ-イン、ハン-ボ-オン」とする例もみられた。また「半音」にたいして「直音・全角」があり、「五号明朝の半音活字の『っ』と、直音(全角)の『つ』の仮名活字」のようにつかいわけていた。校正指示記号や金属活字の発注にあたっては、「半音/直音(全角)」と表記すればこと足りる。この金属活字を使用するグループの標本数は8例と少ないが、現在はオフセット平版印刷に転じているものの、社内に組版部を有する中規模の書籍印刷所5社も同様の傾向をしめした。都合16例のうち2例をのぞき「拗促音」は理解されない。

写植活字時代になると、どこかの写植メーカーがそう呼称したのか、比較的高齢者の写植業界人や、周辺のグラフィックデザイナーを中心に、「拗促音」派が存在する。 写植世代といえるかどうか、おおむね45歳-団塊世代 60代前半の、かつて文字組版として写植活字を主にもちいていた層、ないしは、商業印刷のデザインが中心だったグラフィックデザイナーの比較的高齢者の一部が、促音と拗音をつづめて「拗促音」ということがわかった。この「拗促音」と呼ぶひとたちに特徴的なのは、たれも「拗促音活字」とはいわなかったことである。すなわちこれ(拗促音)が字音をあらわすだけで、文字形象には及ばないことを理解していないようであった。また「捨て仮名/並み仮名」「半音仮名活字/直音仮名活字・全角仮名活字」といった対語を「拗促音」は持たず、「仙台にいった」の文例から、「っ 」は、すみやかに「拗促音」と答えるが、「仙台にい○た」のほかの仮名部分の名称をもたず、「う~ん、ふつうの仮名かな」「こういったふつうの仮名に名前なんてあるの」という答えがおおかった。「最近では、拗促音だと、クライアントやスタッフとコミュニケーションがとれないから、できるだけ促音といっている」という例もあった。また、このグループに顕著だったのは「歴史的仮名遣い」への理解と経験の不足であった。

いました!「無呼称・無名」派。20-30代のDTP世代に意外と多くいる! 驚いてはいけない。パソコンの登場期以後の若い世代に「仙台にいった」の文例をみせて、「っ」の名称を聞いたところ、「こういうのって、なにか名前なんてあるんですか?」、「う~ん、小さな つ かな?」という答えが多かった。なかには「Xのキーボードを押して、 TU を入力すると出る字」、「いや、L のキーを押してから、TUのほうが楽だよ」「KYA, KYU, KYO でも きゃ、きゅ、きょ がでてくるし……」。パーソナル・コンピュータと、ワード・プロセッシング・ソフトウェアという便利な道具をはじめから獲得していた世代にとっては、まれに「ボスが時々促音とかっていっています」程度の関心しかないようである。つまり、かれらは手段・方法だけをかたっていた。この世代人にとっては、捨て仮名と並み仮名を差異化して処理する必要に迫られたことがないのであろうか。こうしたひとはウェヴ・デザイナーやDTPデザイナーに多くみられたので、将来の国語表記に漠然とした不安をいだかせた。まことにやれやれであった。されど、きちっと体系立ててこの国のタイポグラフィの基盤を構築してこなかった責任を感ずるものの、目下のところ唖然とするばかりでなにもいうこと無し。諸君の未来に幸多かれと祈るばかりである。次回は、江戸中期から平成の世までの「促音と拗音の仮名活字表記の歴史」を検証したい。

タイポグラフィあのねのね*006 「てにをは」、「ヲコト点」

「てにをは」と「ヲコト点」

タイポグラファなら、文章作法の初歩として、「てにをは が 合わない」とされるのはまずいことぐらいは知っている。ところがこの漢文訓読法――漢字に日本語をあてて読むこと――の「(隠された)記号」ともいえる「てにをは」とはなにか、を知ることは少ない。そもそも漢文そのものに触れることが少なくなった現代においては、「てにをは」を、「弖爾乎波、天爾遠波」のように漢字表記しようとすると、結構苦労することになる。もちろんふつうのワープロ・ソフトでは変換してくれない。しかも歴史上、漢文の訓読は、諸流・諸家によって微妙にことなり、また、それぞれの漢文の訓読法をながらく秘伝としていたからより一層やっかいである。

「てにをは」を知るためには、すこし面倒だが「ヲコト点 乎古止点」を知ると容易に理解できる。ここからは『広辞苑 第4版』を案内役としたい。ただし、同書電子辞書をもちいると、第5版をふくめ、ほとんどの電子辞書には図版がないために、理解しにくくなる。ここは面倒でも重い紙の『広辞苑』の出番となる。

また文献としては、『てにをはの研究 日本文法』(広池千九郞 ヒロイケ-セン-クロウ 1866-1938 早稲田大学出版部 明治39年12月 国立国会図書館 請求記号YMD78491)がある。Website情報で簡便に知りたければ、松本淳氏の「日本漢文へのいざない」 が平易でわかりやすく説いている。

以下に〔乎古止点〕の図版を2点紹介する。下図1はポイントを点(ドット)であらわしており、上部右肩を上から順によむと「ヲコト」となり、「ヲコト点、乎古止点」の語源となったものである。

下図2はポイントを横棒(バー)であらわしている。このうちのいくつかは、のちに紹介する、いわゆる「カタ仮名合字」の元となったと考えられる。

を-こと-てん【乎古止点】  漢文の訓読で、漢字の読みを示すため、字の隅などにつけた点や線の符号。その形と位置とで読みが決まる。たとえば、もっとも多くおこなわれた博士家点 ハカセ-ケ-テン では、「引」の左下の隅に点があれば「引きて」と読み、左上の隅に点があれば「引くに」のたぐいとなる。したがって「ヲコト点、乎古止点」とは、図に表した右上の2点をとって名づけられた。なお漢字の「乎古止」は、「ヲコト」の万葉仮名表記である。

て-に-を-は【弖爾乎波、天爾遠波】  漢文の訓読で、漢字の読みを示すため、字の隅などにつけた点や線の符号。その形と位置とで読みが決まる。たとえば、もっとも多くおこなわれた博士家 ハカセ-ケ がもちいた「ヲコト点」の四隅の点を、左下から時計回りに順に「てにをは」と読んだことに由来する名称。