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タイポグラフィあのねのね*005 長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』

長音符「ー」は、「引」の旁ツクリからつくられた
『太陽窮理了解説』和解草稿2冊
『日本の近代活字』――「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」の補遺として

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』
(発行:近代印刷活字文化保存会、 2003年11月7日)

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(発行:近代印刷活字文化保存会、発売:朗文堂 2003年11月7日 版元在庫品切れ)がある。この書物は「本木昌造・活字復元プロジェクト」の一環として編纂された。

「本木昌造・活字復元プロジェクト」――肩書きはいずれも当時のもの
主 唱:本木昌造顕彰会(会長・内田信康)/株式会社モリサワ(会長・森澤嘉昭)/印刷博物館/全日本印刷工業組合連合会(会長・中村守利)
編纂委員会:委員長・樺山紘一(国立西洋美術館長)
委員:板倉雅宣(印刷文化研究家)、片塩二朗(タイポグラファ)、小塚昌彦(タイプデザインディレクター)、小宮山博史(佐藤タイポグラフィ研究所代表)、鈴木広光(奈良女子大学助教授)、府川充男(築地電子活版代表)、高橋律男(株式会社アルシーヴ社)

編著者:『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』編纂委員会
発 行:NPO法人 近代印刷活字文化保存会
発 売:株式会社 朗 文 堂
発売日:2003年11月7日

稿者(片塩二朗)はその編纂委員会のメンバーであり、「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」(p286-331)の章を執筆した。
いいわけめいて恐縮だが、この書物のツメの段階にあたって、筆者は病を得て病床にあった。元を正せば永年の不摂生がたたったのだろうが、2002年9月、残暑がとりわけ厳しい年だった。
このとき長崎の小さなビジネス・ホテルに滞在して、長崎県立図書館、長崎市立図書館、長崎市立博物館、長崎印刷工業組合、飽アクの浦近辺の立神ドッグほかの跡地、通称寺町通り近辺の「本木家の菩提寺:大光寺」、「西 道仙 ニシ-ドウセン の菩提寺:大音寺」、「矢次家 ヤツグ-ケ(平野富二の生家)の菩提寺:禅林寺」などを駈けまわっていた。

長崎の市街地は、海岸に沿ったほんのわずかな地域をのぞくと、平坦地はほとんど無い。市街地をちょっとでもはずれると、まるですり鉢からせりあがるように、凧合戦で知られる風頭山 カザ-ガシラ-ヤマ をはじめ、稲佐山 イナ-サ-ヤマ、星取山 ホシ-トリ-ヤマ などの急峻な山脈がいきなり迫る。それらの山山を総称して後山 ウシロ-ヤマ と呼ぶこともある。
寺町はそんな長崎の風頭山の山裾を巡って点在する。しかも、大音寺や禅林寺など、ほとんどの寺院の墓地は、山裾から頂上部にかけて這いあがるようにして存在する。したがってこれらの寺では、日頃から運動不足のわが身にとっては、墓参や調査というより、むしろ登山・登頂といったほうが似つかわしい難行になる。それを連日の残暑のなかで、登ったり降ったりを繰りかえしていた。

ともかく残暑の厳しい9月初旬であった。そんな「登山」を終えて、汗みずくになってホテルにもどり、シャワーも浴びず、エアコン冷房を最強にして、バタン・キュー状態でうたた寝をした。ところがビジネス・ホテルのちいさな部屋でエアコンは効きすぎた。おかげで一発で風邪をひき、それでもこりずにかけずり回っていたら、ひどい肺炎になって、帰京を長崎の医師に命じられた。それで緊急入院してから、院内感染を含むさまざまな病にとりつかれた。

これ以上、いいわけや「病気自慢」をしてもつまらない。病は2009年に手術を経て完治した(とおもっている)。ともかく振り返れば、不覚なことに、『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』刊行の折、多くの関係者に多大な迷惑をかけながら、筆者は駒沢にある国立東京療養センター呼吸器科病棟に入院していた。
したがって「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」の章は、スタッフがパソコンからデータを取り出して、編集を担ったアルシーヴ社にファイルを渡して進行した。校正紙は病床に届いたが、意識が混濁していてほとんど校正もできない状況にあった。当然この章だけがレイアウトも若干まとまりのないものとなったが、収集した資料は、できるだけほかの執筆者に利用していただくこととした。

ところで『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』のうち、拙著「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」p321に、「まどい星の翻訳と音引きの制定者・本木良永」の節がある。この紹介がまことに中途半端な紹介となって、刊行後に読者から何度かお問い合わせをいただいた。それがいつも気になっていた。

2010年7月、ようやく復調して、ぜひとも「近代活字版印刷術発祥の地・長崎」を訪問したいとする「活版カレッジ」の皆さんの、頼りはないがガイド役として、懐かしい長崎を訪れた。筆者にとっては、かねがね気になっていた「まどい星の翻訳と、音引きの制定者・本木良永」の再調査がかくれた目的でもあった。

長崎の本木昌造顕彰会の皆さんをはじめ、長崎史談会の皆さんも、8年余の空白をわすれさせる歓迎をしていただいて嬉しかった。ほんとうの同学・同好の士との邂逅とは心温まるものであった。また同書に「長崎と阿蘭陀通詞本木家 ─── 本木昌造のルーツ」の章(p240-269)を執筆された、元・長崎市立博物館館長/原田博二氏には、「長崎歴史文化博物館」に移行した資料「本木家文書」の閲覧許可の取得にたいへんご尽力いただいた。

ちなみに、グーグル検索エンジン(2011年3月9日調査)によると、「本木昌造 ── 82,400件」、「本木良永 ── 270,000件」となる。
2019年03月12日にも再調査を試みた。「本木昌造──21,000件、本木良永──20,800,000件」であった。本木昌造のヒット件数が大きく減少しているがその理由は判明しない。
タイポグラファのあいだでは、長崎のオランダ通詞として本木昌造がよくしられるが、じつはその曾祖父にあたる、本木良永が3倍強の数値でヒットすることにおどろく。本木良永は天文学関係者のあいだでは極めてよく知られた人物だったのである。しかもその本木良永が訳語を制定した「惑星 ── 訳出時にはマドヒホシとふり仮名がある」にいたっては、7,760,000件(2019年03月12日 37,600,000件)と、とてつもなく膨大な数にのぼる。

すなわち、タイポグラフィあのねのね*005は、『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」p321、「まどい星の翻訳と音引きの制定者・本木良永」の節の、補遺[もらし落とした事柄を、拾い補うこと。また、その補ったもの ── 広辞苑]である。

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『太陽窮理了解説』和解草稿2冊にみる意外な記述

アラビア数字を、活字(金属活字か? 捺印式)をもちいて紹介した。
カタ仮名の濁音を、〃のように、母字に2点を加えることと制定した。
カタ仮名の半濁音を、° のように、母字に小圏(小丸)を加えることと制定した。
カタ仮名の促音を角書きツノガキにならって小さく表記すると制定した。
長音符号(音引き)を、引の旁ツクリからとって、「ー」と制定した。
オランダ語の詠みを、カタ仮名表記と併せ、漢字音を借り(当て字)併記して表記した。

『太陽究理了解説 和解草稿』 凡例に相当するページ
(長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 筆者立ち会い)

『太陽究理了解説 和解草稿』 本文ページの一例。惑星が紹介されている。
(長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 筆者立ち会い)

本木昌造の曾祖父にあたる本木良永 ヨシナガ/リョウエイ がしるした『太陽窮理了解説』和解 ワゲ 草稿上下2冊(翻訳の下書き書)がある。天文学の分野では「惑星 モドヒホシ/ワクセイ」をはじめて紹介した書物としてしばしば取り上げられる書物である。
かつては長崎市立博物館が所蔵していたが、現在は長崎歴史文化博物館の所蔵となっている。200年以上前の、1792年(寛政4)にしるされた手稿であるが、そこには実子の本木昌左衛門によるヒレ紙(附箋)がある。本体ともども虫食いが激しいが、大意次のようにある。
「お役所に差しあげ置き品は、外にこれあり候とも、父御自筆なれば、大切に直し囲い置いた」

この翻訳はオランダ甲必丹 カピタン、すなわち阿蘭陀商館長が、天球儀と地球儀を長崎奉行に呈上したために、その用法を長崎奉行が本木良永に命じて記述させたものとされる。本草稿は太陽系に関する諸説の変遷を述べ、コペルニクスの地動説をもって終わっている〔原田博二〕。
また長崎学の古賀十二郎は、この原著を『Treatise on the Construction and Use of Globes』(George Adams 1766)に擬し、本木良永は同書のオランダ語版『通俗基礎太陽系天文学』(オランダ語の書名は不詳)から和訳したとする。

本木良永はこの翻訳にあたって、天文学の訳語とその記述法に困惑して、さまざまな工夫を凝らした。その結果が『太陽窮理了解説』和解草稿下巻の冒頭にみる「凡例風」の記録としてのこったわけである。本木良永は困難を乗りこえて翻訳を終え、1792年(寛政4)に『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』として、老中松平定信に献上したとされているが、本書はその草稿にあたる。

なお幕府献上本『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』は、当時の幕府の施設「天文方」に託され、現在は国立天文台が所蔵すると一部で記録されている。そこで、今回国立天文台を訪れてマイクロ・フィッシュを取得したが、国立天文台所蔵資料は『太陽窮理了解説』和解草稿、すなわち現在の長崎歴史博物館所蔵資料からの大正期の写本であって、正本ではないことが判明した。また同天文台の所蔵書は下巻を欠いていた。
ただし『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』に関して、グーグル検索エンジンではフランス語と中国語? の2件の文献にヒットするので、どこかに正本が存在する可能性は否定できない。

『太陽窮理了解説』和解草稿の山下満津丈による写本(国立天文台蔵)

『太陽窮理了解説』の正本『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』は、幕府天文方に献上されたものであるから、その機構の一部を継承した国立天文台(東京都三鷹市大沢2-21-1)に存在すると一部の記録にみる。そのために同所の所蔵書も調査してみたが、同所蔵書の巻末に「大正3年10月、長崎公園内長崎市役所仮庁舎ニテ 山下満津丈 識 シルス」とあり、その跋 バツ/アトガキ によると、国立天文台所蔵書は「正本」ではなく、長崎の『太陽窮理了解説』和解草稿(現長崎歴史q博物館蔵)の写本であるとしていた。
また同一ページ最終部に「東京天文台暦研究課」による小さな書き込みがあって、「昭和36年1月11日、東京本郷◯◯古書店より購入」とあり、ここで取りあげる「凡例」を含んだ、肝心の下巻は残念ながら発見できなかった。

◎『太陽窮理了解説』和解草稿にみる興味ぶかい記述

『太陽窮理了解説』和解草稿の原文はカタ仮名混じりであるが、若干意訳して紹介する。
ちなみに本木良永は西家から本木家に養子にはいった。曾孫にあたる本木昌造も、やはり他家(馬田家から・北島家からとする両説がある)から本木家に養子にはいったという、似た経歴がある。また本木良永は本木昌造に先立つこと89年前に誕生したが、文章は近代的で、曾孫・本木昌造よりはよほど平易である。ただ、図版で紹介したように、同書は虫食いがきわめてひどく、一部は判読によった。

プラネーテンということばはラテンの天文学用語なり。この語はオランダ語ドワールステルと通ず。ここに惑星 マドヒホシ と訳す。いまここにあるかと見れば、あそこにありて、天文学者が測量をなすに迷い惑へるによる。

また下巻の冒頭、「凡例風」の文中にこんな驚くこともしるしている。なお「算数文字別形」として例示された算用数字/アラビア数字は、金属活字をもちいており、印刷方式ではなく金属活字をもちいて捺印方式によってしるしたものとおもわれる。

算数文字別形
1 一  2 二  3 三  4 四  5 五  6 六  7 七  8 八  9 九  0 十
一 オランダ語の音声をあらわすとき、日本のカタ仮名文字を用いる。濁音[ガギグゲゴなど]には、カタ仮名の傍らに〝 のようなふたつの点を加える。その余の異なる音声[半濁音、パピプペポ]には、やはりカタ仮名の傍らにこのように ° 小圏[小丸]をしるす。また促呼する音声[促音]には、ツノ字[角書きツノ-ガキのこと・菓子や書物の題名などの上に複数行にわけて副次的に書く文字]を接し、長く引く音には、引の字のツクリを取りて『ー』のごとくしるす。かつカタ仮名の□以下数文字判読不能□新字を為し、このように記し、かつカタ仮名の傍らにこのような字をつけてしるしても、まだオランダ語の語音をあらわしがたい。そこで唐通事[中国語の通訳]石崎次郎左衛門に唐音をまなんで、オランダ文字と漢字をあわせてしるすなり。

としている。すなわちカタ仮名に濁音記号と半濁音記号を設け、カタ仮名に促音を設け、カタ仮名の音引き・長音符としての記号「ー」をつくったのは、1793年ころ、長崎の本木仁太夫良永であったのである。また算用数字を明瞭な形象、おそらく印章と同様に捺印方式によったとみられるが、金属活字の影印をもちいて、1-0までを紹介している。

東京天文台蔵の写本で、山下満津丈はその跋バツ/アトガキに「此の書中のアルファベットは皆木版を用ゆ」と紹介しているが、現・長崎歴史文化博物館蔵書を都合4度実見した稿者は、算用数字を含むアルファベットのほとんどは、水性の墨のはじき具合、その影印からいって、木版(木活字)によるものではなく、金属活字による捺印であるとみなしたい。
また虫食いがひどい部分で判読は困難だが、「新字を為し」の部分からは、いわゆる「カタ仮名合字」も本木良永が制定した可能性も否定はできない。さらに「促呼する音声」とされた部分には、正確にいうなら、促音・拗音・撥音もみられるが、ここでは音声学・音韻学的な分析までは及ばないことをお断りしたい。

◎ 本木良永とは、どんな人物だったのか?

おもえば本木家歴代において、もっとも傑出した人物は本木仁太夫良永(モトギ-ジンダユウ-リョウエイ、ヨシナガトモ 1735-94 享保20-寛政7)かもしれない。本木系譜所引本木家系図には「本木仁太夫良永、永之進、幼名茂三郎、字士清、号 蘭皐ランコウ」[『日本の近代活字』では蘭皐-ランサイとルビをふったが、お詫びして訂正したい]とある。

西家の出で、西松仙の三男。14歳にして本木仁太夫良固の女婿となり、稽古通詞からはじめで大通詞になった。阿蘭陀通詞本木家のひとではあったが、このひとは通詞の実務家というよりは、学者であり研究者であった。
おもな訳書に『平天儀用法』1774年、『天地二球用法』1774年、『渾天地球総説』1781年、『阿蘭陀全世界地図書訳』1790年、『太陽窮理了解説』1792年などがある。大光寺の本木家墓地で、もっとも立派な墓標は、中央を占める本木仁太夫良永蘭皐のものである。その墓誌には次のようにある。

寛延元年君年一四、充訳員、転副訳末席、天明七年累進為副訳、八年擢家訳、茲歳、蘭入貢永続暦、官命訳之、寛政元年、頁万国地図書、又命訳之、作解書二冊献之、三年、見異船於豊前藍島、君寵命抵彼地竣事而還、同年、訳和蘭天地二球及用法之書、作太陽窮理了解説献之、訳前書全部献之、此際賞賜数次、声誉亦大顕六年秋病辞職、君在職四十七年、以享保二十年乙卯六月十一日生、寛政六年甲寅七月十七日病卒、享年六十、葬于大光寺焉

『太陽究理了解説 和解草稿』 本文ページの一例。『日本の近代活字』p254に紹介。(長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 筆者立ち会い)

このひとはたしかに偉大な業績をのこしたが、曾孫・本木昌造と同様に牢獄にもはいった。この時代、長崎阿蘭陀通詞が刑を得て入牢するのはとりたてて特殊なことではなかったのである。
1790年11月『犯科張』(長崎県立図書館旧蔵)によると、大通詞本木良永、大通詞楢林重兵衛のふたりは30日の押込(入牢)、通詞目付吉雄幸作は30日の戸締(蟄居)を命じられた。その罪状はたかだかとしたものである。句点のみ加えで原文のまま紹介する。

右之者共先輩仕癖之事与者申なから、御改正被仰出候上者心付候儀は追々ニも可申出処、無其儀年来樟脳銀銭之儀ニ付、不束之取計候段不埒之至ニ付、厳科可申付処、令宥免、幸作儀は戸〆、重兵衛、仁太夫は押込申付候

これらの3名は、オランダに売り渡す樟脳や銀銭などの書類に、ふつつかな和解 ワゲ、ホンヤク をして幕府に損害を与えたとして罰を与えられたのである。こうした処罰は長崎奉行所が下したが、ふつうはしかるべき肝いりからの嘆願書が出され、押込は蟄居に、戸締は謹慎に減刑されるものであった。この3名も結局そうなった。

ちなみに長崎の医師の家系であった西家と、阿蘭陀通詞・本木家とのあいだでは、しばしば婚姻・養子縁組がなされている。『Vignette 00号 櫻痴、メディア勃興の記録者』(片塩二朗、朗文堂、2001年12月10日、p128)から、「本木家関係系図」をふたつ紹介するので参考にしてほしい。

上図 : 『Vignette 00号 櫻痴、メディア勃興の記録者』
(片塩二朗、朗文堂、2001年12月10日、p128)から、
本木昌造関連家系図(旧長崎県立図書館の資料から補整、1992年)

下図 : 『Vignette 00号 櫻痴、メディア勃興の記録者』
(片塩二朗、朗文堂、2001年12月10日、p129)から、島屋政一資料「本木家関係系図」

◎ データ公開が待たれる『太陽窮理了解説』和解草稿

『太陽窮理了解説』上下二冊の木製ケース
(長崎歴史博物館蔵、2010年7月、原純子氏撮影)

『太陽窮理了解説』上巻の本文ページ
(長崎歴史文化博物館蔵、2010年7月、原純子氏撮影)

『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊を、8年ぶりに長崎歴史文化博物館において閲覧することができた。しかしながら、先の調査時における長崎市立博物館とは異なり、同書は基本的には閲覧不可書目になっており、方々に手を尽くしての閲覧であった。したがって同館の担当者が立ち会い、紹介した見開きページだけを開いて撮影することができた。肝心の下巻はより損傷が激しくて、開くことは許可にならなかった。

国立天文台の資料が、一部の伝承とは異なって、長崎資料の大正期における写本であることは紹介した。したがって天文学関係者の皆さんはもちろん、タイポグラファも『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開を待つことになる。
先の調査では挿入図版が手書きではなく、銅版印刷である可能性を発見していたが、今回の短い調査時間ではその追跡もままならなかった。しかしながら、長崎歴史文化博物館では、ともかく幕末期の長崎の資料は膨大であり、いまのところは各施設から継承したこれらの資料の整理に追われており、いつデジタル・データーとして公開できるかは不明だとの説明をうけた。

いずれにしても、本木良永訳『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊には、今回できるだけ図版紹介をともなって紹介したような、おどろくべき事実が記されている。もちろんこうしたあたらしい表記方法は、個人の創意工夫だけによるものではなく、同時発生的に、各地、各個人も実施していた可能性は否定できない。だからこそ、『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開が待たれるいまなのである。

タイポグラフィあのねのね*003|東京築地活版製造所|『活字と機械』大正三年版「年賀状用活字」

(^O^)  いささか時季はずれの企画ですが  (^O^)
年賀用活字とその名称

『活字と機械』
(株式会社東京築地活版製造所 編集兼発行人・野村宗十郎 大正3年6月)

小冊子『活字と機械』はこれまであまり紹介されなかった資料である。同書はタイポグラフィを、本来の「情報伝達術のための総合システム」としてとらえ、その活字と機械の両側面から、大正初期(大正3年、1914)におけるタイポグラフィを立体的に紹介したものである。
造本データは以下のとおりである。

装  本  大和綴じを模した、いわゆる和装本仕立て
表  紙  濃茶の厚手紙 金色インキ、銀色インキほか特色使用。
      シーリング・ワックスを模した登録商標「丸もにH」
寸  法  天地226 × 左右154mm
本  文  頁  ペラ丁合 67丁134頁(裏白ページ多し)
      活字版印刷、写真網目凸版印刷、石版印刷、木口木版印刷などを併用。

『活字と機械』の魅力は様々にあり、多方面からの研究に資すところがあるが、ここでは2丁4頁にわたって紹介された「年賀用活字」を紹介しよう。外周部にはいかにも大正初期らしく、アール・ヌーヴォー調の装飾枠が本書図版ページに共通してもちいられている、この装飾枠は石版印刷(とみられる)特色によって印刷されている。

現在でもその傾きがみられるが、端物印刷業者にとって「年賀用印刷」は、歳末最大の「稼ぎどころ」であった。町角には《年賀状印刷賜ります》のノボリがはためき、歳末風景を華やかにいろどったものである。
そのため活字鋳造所はデザインに意を凝らし、さまざまな、おおきなサイズの「年賀用活字」を製造・発売して、その需要に応えた。もちろん「年賀用活字」は、活字鋳造所にとっても重要な歳末商品であった。

⁂年賀用壹號活字⁂

●左頁上段右より左へ順に
ゴチック形(シャデッド色版)

ゴチックシャデッド形
壹號楷書
フワンテール形
ビジヨー形
三分二フワンテール形
●左頁下段右より左へ順に
貳號装飾書體
ゴチツク形
フワンテール形
参號装飾書體
ゴチツク形
フワンテール形

●見開頁右、上段右より左へ順に
フワンテール形
ゴチックシャデッド形
ゴチック形(シャデッド色版)
蔓形
●見開頁右、下段右より左へ順に
矢ノ根形
ゴチツク霞形
唐草形
鶴形
●見開頁左、上段右より左へ順に
松葉形
笹の葉形
梅が枝形
龜形
●見開頁左、下段右より左へ順に
篆書形
やまと形
初號楷書
若葉形

⁂年賀用三十六ポイント活字⁂

●左頁上段右より左へ順に
ゴチック形
フワンテール形
矢の根形
梅が枝形

松葉形・笹の葉形・梅が枝形・龜形などと、和のふんいきをつたえたい ── むきへの開発も目立つ。またいかにも大正期らしく、ハイカラな名称とエスプリの効いた形象もみられる。
「フアンテール形」は「FANTAIL  キンギョなどの扇型の尾、孔雀鳩」としてよいとみなす。「ビジヨー形」は「BIJOU  宝石:装飾物」であろうか。
これらは名称からして、洋のふんいきをつたえたい ── むきなども開発されている。

また、「年賀用活字」は書体デザイナーの技倆の見せどころでもあったので、時代の風潮や、歴史的視点から材をとったとみられる活字が多いのも特徴である。

ことしもたくさん年賀状をいただいた。ありがたいことだが、いまだに整理がつかず、年賀状に添えられた「移転通知」「電子アドレス」情報変更を転記できないままにいる。
そんないま、大正初期、号数制からポイント制への転換と、機械製造をより幅広く展開しようとしていた東京築地活版製造所の記録をみている。稿者はそろそろわが国のタイポグラフィ研究も、活字唯美論中心主義から脱却する時期かともおもっているが、「松葉形・笹の葉形・梅が枝形・龜形」などの活字をみて、ニヤリとするのもわるくは無いようだ。

タイポグラフィ あのねのね 002|タイポグラフィ あのねのね 002|【角字 かく-じ】 10×10の格子で構成された工芸のもんじ

【角 字 かく-じ】

10×10の格子-グリッドで構成された工芸の文字

「 伊呂波寄名頭字儘 ―― 此の字尽くしの中に出がたき時は、ヘンあるいはツクリに依って作るべし 」
[ 釈読 : この字種見本に無い字のときは、偏と旁によって作字すべし ]
いわゆる文様帳 『伊呂波引定紋大全』 ( 盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地] 明治30年頃  雅春文庫蔵)

「かくじのわり」 ── おもに染色士がもちいた工芸の文字として、角字の割り出し技法のほか、各種の 「地紋 モヨウ 割り」 として、萬字繋  マンジツナギ、毘沙門 ビシャモン 地紋、亀甲 キッコウ 地紋などが、その製作技法とともに簡潔に紹介されている。
いわゆる文様帳『伊呂波引定紋大全』(盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地]明治30年頃 雅春文庫蔵)

ブログ版朗文堂ニュース、2010年10 月05日号に、《 紙漉ツアー好評裡に終了しました 》  と題する報告記事がある。
その最後の部分で、五日市にある 「黒茶屋」 の暖簾を紹介した。 ここに改めて該当部分を紹介する。hakomoji1-300x193

サービスカットはランチョン会場 「黒茶屋」 の暖簾です。 レタリング関係の書物ではこうした文字を 「籠字」 としたものもありますが、チト疑問。   「籠字」 は双鉤字であり、籠写しにした文字です。  関心のあるかたは 『広辞苑』 でご確認ください。
それではこうした文字はなんというのか、「箱字?」……。  かつてはイナセな職人のハッピや、祭りの印し袢纏などでよくみた形象です。  この字の由来についてご存知のかたはご教授ください。


黒茶屋と書いてありました。
*        *        *

しばらくして、《紙漉ツアー》 にも同行された、友人の春田さんから、写真画像が添付された以下のような @メールをいただいた。

昨夜、御社ブログの 「黒茶屋の暖簾」 の項を拝見いたしました。
先日はうかつにも、わたしはこの文字を 「箱文字」と呼んでいましたが、その後、手元にあった明治30年代発行の『伊呂波引定紋大全』 という、いわゆる文様帳(呉服の文様を確認するために使用していたものらしい)を調べてみました。 そこには 「かくじ」(目次には角字)という言葉が用いられていました。「かくじのわり」 とされた文字作成用のマス目も送信致します。

この 『伊呂波引定紋大全  いろは-びき-じょうもん-たいぜん』 のような書物は、かつて「紺屋 コウヤ、染め屋」 などと呼ばれていた 「染色士」にむけて、おもに家紋のほとんどを詳細に紹介していたために、俗に 「定紋帳・紋帳・家紋帳」などとされていた実用書であった。

その一部には 「技芸家 ・ 工芸家」 に向けた 「文字の構成と書法」が説かれたいた。類書としては印判士に向けたより豊富な字種と書体による実用書もあるが、こうした書物は文字の紹介書として、魅力と示唆に富む好著が多い。

ところが現代では『伊呂波引定紋大全』 のような実用書が刊行されることがすくなく、むしろ「芸術書」 や 「作品集」 が氾濫しているために、いつのまにか、こうした工芸 ・ 技芸の文字があったことが忘れられている。
ときおり筆者は 「 現代の文字と活字の風景はさびしいものがある 」 としるすのには、こうした背景もある。
──────────
春田さんのご指摘のとおり、「黒茶屋」の暖簾にしるされていた文字は、レタリング書の解説などにみる「籠字・駕籠字」ではなく、あきらかに「角字 かくじ」であった。
おそらく「黒茶屋」の暖簾は、現代のレタリングデザイナーや、タイプ・デザイナーなどと称するひとの手によるものではないだろう。
なぜなら、こうした人たちは「角字」 を知らないから書けないのである。 それだけのことである。

ただし、プロであるから、その構成と技法を知れば、書けるようになることはもちろんである。 しかしながら、悲しいことに、ほかの多くの技芸家と同様に、わが国の「デザイン」とされる分野は、長い欧化思想崇拝の歴史をもち、「技芸家」にかえて「芸術家・美術家」であろうとした。そして、いまだにその埒外にたつことができないでいる。

もちろんかつての染色士たちも、「角字」を「紋帖」などの資料が無くてはこうした文字を書くことはできなかったはずである。  ただ、かつての染め物士は 「角字」の存在を知っていたし、簡略な実用書をもっていた。  したがって目的と用途にあわせて、自在に文字や文様を書き分けることができた。

「かくじのわり」 の写真をみると、この実用書に紹介された 「伊呂波寄名頭字儘」 は、10 × 10のグリッド ( 格子 ) によって分割され、構成された文字であることがわかる。 つまり書芸の文字ではなく、工芸の文字である。
換言すると、現代のデジタル ・ タイプの業界用語では、「ビット・マップ」 が10 × 10 の100 の格子によって構成された文字である。 したがって、ドット・フォントやビットマップ・フォントと「基本理念」においてはなんら異なるところがない。
これだけをみても、明治までの町の無名な技芸家たちは、現代のレタラーやタイプデザイナーに負けない、あるいは凌駕するだけの、豊富な知識教養と、すぐれた技倆をゆうしていたことがわかる。

與談ながら…… 、若くて意欲的なデザイナーが、しばしば 『グリッド・システムズ』を教えて欲しいと、勢い込んでやってくることがある。
以前はその原本と関連図書を紹介し、拙訳のコピーを渡したりもしていた。  ところが説明すればするほど、かれらは次第にガッカリした表情になり、拙訳を渡すと明らかに期待はずれといった表情にかわり、ついには当初の勢いはどこに消えたのか、肩を丸めてお帰りになることが多かった。

どうやらこうした人たちは、『グリッド・システムズ』が、欧州の一部の地域における、神話に満ちた秘伝か、なにやら玄妙な秘術であるかのような幻想をいだいてやってくるらしい。  もちろん一部ではそのように紹介する指導者も存在するのだろう。  どうやらそれに応えてあげなかったのがお気に召さなかったらしい。

閑話休題   角字は工芸者が伝えてきた文字であるから、『書道基本用語詞典』(春名好重ほか、中教出版、平成03年10月01日) には紹介されていない。
国語辞典としての 『 広辞苑 』 には ── かく-じ 【 角字 】 ③  模様 ・ 紋所などに用いる四角な字体。──  として紹介されている。

タイポグラフィ あのねのね 001 *淳化閣帖

じゅん-か-かく-じょう 【 淳 化 閣 帖 】

『淳化閣帖』 諸家古法帖巻五 中書令褚遂良書
(宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)

『淳化閣帖』 款記 (宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)

じゅん-か-かく-じょう 【 淳化閣帖 】
中国宋王朝第2代皇帝 ・ 太宗(976-997)が淳化3年(992)に 宮廷の宝物藏(内府)所蔵の、歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書であった王著(オウチョ ?―990)に命じて、編輯、摹勒(モロク 摸倣によって木石に彫刻)させた拓本による集法帖。10巻。

内容は、拓本集のような趣だが、全10巻中、3巻が王羲之 オウギシ、2巻が王献之 オウケンシで、二王父子が別格の扱いになっている。その題を紹介する。

法帖第一  歴代帝王
法帖第二  歴代名臣
法帖第三  歴代名臣
法帖第四  歴代名臣
法帖第五  諸家古法帖
法帖第六  王羲之書一
法帖第七  王羲之書二
法帖第八  王羲之書三
法帖第九  王献之書一
法帖第十  王献之書二

法帖 ホウジョウ とは、先人の筆跡を紙に写し、石に刻み、これを石摺り拓本にした折り本のこと。 ここから派生した製本業界用語が 【法帖仕立て】 である。 法帖としては、この宋の『淳化閣帖』、明の『停斎館帖』、清の『余清斎帖』などが著名である。

『淳化閣帖』の用紙は 澄心堂紙 ヨウシンドウシ、墨は李廷珪墨 リテイケイボク をもちいて拓本とし、左近衛府、右近衛府の二府に登進する大臣たちに賜った「勅賜の賜本」である。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻 ・ 原拓本による全巻揃いの完本はみられない。 わずかに東京台東区立書道博物館に、虫食いの跡が特徴的な2冊の原拓本『夾雪本 キョウセツボン』がのこされているのにすぎない。

同館所蔵書はきわめて貴重なもので、王羲之の書を収録した第七、第八の2冊である。これは完成直後の初版本(原拓本)とされている。命名の由来は、虫食いの跡が白紙の裏打ちによって、あたかも雪を夾んだようにみえることから「夾雪本」の名がうまれた。所蔵印から、顧従義、呉栄光、李鴻章(1823-1901) らの手をへて、1930年代に初代館長・中村不折の手にわたった。

『淳化閣帖』 法帖第七 王羲之書二 夾雪本 (台東区立書道博物館蔵)

『淳化閣帖』法帖第八 王羲之書三 夾雪本(台東区立書道博物館蔵)

「勅賜の賜本」 としての『淳化閣帖』は数量がきわめてすくなく、すでに宋代において、原刻本からふたたび石に刻して帖がつくられた。そのままの形で刻したものを翻刻本 ホンコクボン といい、その内容や順序に編輯を加えたものを類刻本という。

宋代の翻刻本では賈似道(カジドウ 1213-75) による『賈刻本 カコクボン』、寥瑩中 リョウエイチュウ による『世綵堂本 セサイドウボン』が著名である。
重刻本としては『大観帖 タイカンジョウ』、『汝帖 ジョジョウ』、『絳帖 コウジョウ』、『鼎帖 テイジョウ』(書道博物館蔵)などがあるが、これらはいわゆるかぶせ彫りの「覆刻本」がおおく、真の姿を伝えているとはいいがたい。

明代になっても多くの翻刻本『淳化閣帖』がつくられた。顧従義 (コジュウギ 1523-88)による『顧氏本、玉泓館本 ギョクオウカンボン』、潘雲龍 ハンウンリュウ による『潘氏本、五石山房本 ゴセキサンボウボン』 などが著名である。

清代における翻刻本に『西安本』がある。これは現在陝西省西安の碑林博物館に展示されている。 重刻本としては清朝第6代皇帝 ・ 乾隆帝(在位1735-95)の勅命による『欽定重刻淳化閣帖』 があるが、これはあらたな編輯をくわえてつくられた、重刻による法帖である。

一般に『淳化閣帖』 と称されるが、これは最後の款記に「淳化三年壬辰歳十一月六日奉旨摹勒上石」 とあることによる。 また完成後にこれを所蔵した場所にちなんで『秘閣帖』、『閣帖』とも称した。

編輯摹勒したのが王著であるとされるのも確証はない。 王著は淳化元年 (990) に歿している。 むしろ王著が中心となって編輯し、その没後に完成したものとみられている。

参考資料 / 『宋拓淳化閣帖 』  影印本 中国書店 1988年3月
         『書道基本用語詞典』 春名好重 中教書店 平成3年10月1日
           『台東区立書道博物館図録』 書道博物館編 台東区芸術文化財団 平成12年4月1日