カテゴリー別アーカイブ: 平野富二と活字

【会員投稿】 掃苔会新会員/時盛 淳さん、平野家塋域 単独代参参上の記録

DSC_1010東京谷中霊園中央園路に面して建立されているおおきな石碑が、平野富二の十三回忌に際して、株式会社東京築地活版製造所有志、株式会社東京石川島造船所有志の拠金による「平野富二君之碑」(甲01号01側)である。
篆額の揮毫は榎本武揚、碑文の撰幷書は福地源一郎(福地櫻痴)による。
この項の詳細は古谷昌二『平野富二伝』(p.810 – 18)を参照願いたい。

DSC_1012 DSC_1013 DSC_1014平野家塋域は東京都谷中霊園の東北部、乙11号14側にある。
中央の平野富二の墓石の表面には、吉田晩稼の筆になる「平野富二之墓」が陰刻され、向かって右側面には、法名の「修善院廣徳雪江居士」が刻まれている。
吉田晩稼(1830-1907)は長崎興善町うまれ。陸軍・海軍に奉職したのち辞して書芸をもっぱらとした。大楷書を得意とし、筆力雄勁にして並ぶものなしと評された。また本木昌造とは歌友であり、東京九段の靖国神社の標柱、大阪四天王寺の本木昌造像の台座の書も晩稼による。
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{新塾餘談}
「平野富二墓」は太平洋戦争の際、上野駅周辺に無数に投下された焼夷弾をあびており、焼損が見られるのは残念である。平野家一門には再建の議論もあったが、この墓石は本来浅草雷門再建のために切りだされた房州の小松石をもちいた由緒あるものであり、また吉田晩稼の書の典型例としてやつがれは再建には反対してきた。
それでも近年碑面にも剥落がみられるようになり危惧をいだいている。なにかよい保存法があればご提案いただけたら幸甚である。
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DSC_1036 DSC_1024 DSC_1025平野家塋域はいってすぐ左脇に法名「妙清古登童尼」と陰刻されたちいさな墓標がある。
裏面には「平野富二長女 古登子 享年三歳 明治八年七月七日歿 大正二年三月再建」とある。
明治05-08年という、もっとも平野富二が多忙をきわめた時期にうまれ、そして夭逝した「長女 古登子 琴 コト」の墓である。戸籍が未整備な時代だったため、明治五年の何月のうまれかは記録にない。

塋域右奥には「平野鶴類墓」がある。のちに平野家を継承した平野津類は長女古登の逝去から三ヶ月後の1875年(明治08)09月30日に誕生した。明治12年ころに編成された京橋区戸籍記録には長女:古登の記録はなく、二女津類が「長女」として記録されている。
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平野津類は青森県出身の勇造(旧姓境、のち離別)と結婚して、嫡孫:平野義太郎が1897年(明治30)03月05日に誕生して、平野家第三代を継承した。
平野義太郎は高名な法学者であったが、その妻:嘉智子とともに、塋域右奥にねむる。

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【 参考資料 : 花筏  平野富二と活字*13 掃苔会の記録 『苔の雫』Ⅰ 平野家関連 】

平野富二と活字*16 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅲ 明治初期の偉人たち-2

『VIVA!! カッパン』活字ホルダー紹介 活字ホルダーをもって立つ冨澤ミドリさん 江川次之進活字行商の図 部分拡大s 江川次之進活字行商の図 全体図s 江川次之進活字行商図 江川次之進肖像写真

《すべてのきっかけは活字ホルダーと、一本のお電話からはじまった》
朗文堂 アダナ・プレス倶楽部のWebsiteでは、数度にわたって〈活字ホルダー〉を取りあげてきた。当初のころは、この簡便な器具の正式名称すらわからなかった。
その後、アメリカ活字鋳造所(ATF)や、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所の、20世紀初頭のふるい活字見本帳に紹介されている〈活字ホルダー〉の図版を紹介し、いまではふたたびその名称と使用法は広く知られるようになった。

『VIVA!! カッパン♥ 』 (アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月21日 p.64)
〈活字ホルダーの紹介。下部は〈活字狂を自他共にゆるした故志茂太郎の愛蔵品〉

《ご先祖様、江川活版製造所の江川次之進の遺影と肖像画があるのですが……》
ある日、アダナ・プレス倶楽部のWebsiteをご覧になった、江川活版製造所の創業者・江川次之進の直系のご子孫だという女性から、お電話をいただいた。
「曾祖父の江川次之進の遺影と、掛け軸になった肖像画があるんですが、右手に持っているものがなんなのかわからなくて。この絵がどういう情景を描いたものかが分からなかったのですが、これが〈活字ホルダー〉なんですね。おかげで、曾祖父が若い頃に活字の行商をしていたというわが家の伝承がはっきりしました」

この女性は、現在は長野県北安曇郡白馬村でペンションを経営されている。最初にお電話をいただいてから少し時間が経ち、お身内のカメラマンの手による、江川次之進の遺影と肖像画の鮮明なデジタルデータをご送付いただいた。
また掛け軸は江川家側で修復されたものをお預かりした。この貴重な資料は研究レポートの刊行後に、しかるべき施設に寄託の予定となっている。

【タイポグラフィ・ブログロール 花筏 ──── 関連情報】
◎ タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料
◎ タイポグラフィあのねのね*010 江川次之進とアルビオン型印刷機
◎ タイポグラフィ あのねのね*018 活字列見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート02
◎ タイポグラフィ あのねのね*020 活字列見 or 並び線見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート09

《江川活版製造所と江川次之進の研究は一瀉千里で進行した》
その後、江川活版製造所とその創業者:江川次之進の研究は、やはりWebSiteをご覧になったハワイの造形家から、江川活版製造所が製造したアルビオン型手引き印刷機の画像が紹介されるなどして、一瀉千里の勢いで進行した。
その研究成果は、まもなく公表されると仄聞している。楽しみにまちたいものである。
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この間も苔掃会は、地道に基礎資料の発掘にあたっていた。とりわけ苔掃会肝煎り/松尾篤史氏は、既存の資料にたよらず、谷中霊園周辺の墓地を丁寧な観察をつづけていた。
今回はこうしてあらたに発掘された資料を中心に紹介したい。

谷中霊園とその周辺の寺からは、江川次之進があたらしい活字書体の開発のために、最初に着目した、書家にして教育者:中村正直マサナオが撰ならびに書をのこした碑文が発見された。
また江川活版製造所の特徴ある「隷書活字」の版下をのこした久永其頴ヒサナガキエイと、印刷史研究家:川田久長の墓所もみつかった。

今回は平野富二そのものというより、その周辺にいた人物を中心に紹介したい。

B江川次之進肖像 B人物 B全体原寸サイズ B広告-第九号 B器具-扉 B扉-ホルダー 印刷大観広告  Egawa egawa    Egawa sun Egawa side egawa base VIVA62 B江川広告

《久永其頴 ヒサナガ-キエイ の墓所の発見》
知るところがまことに少ないのが久永其頴 ヒサナガ-キエイ である。
久永其頴は書芸家というより、むしろ実用の書、版下の書を多くのこした。また本名は久永多三郎であり、雅号として久永其頴をもちいていたことが墓地の発見からも明確になったが、墓誌は損耗がはげしく、また剥落が多くて、生没年などの読み取りは困難を極める。

久永其頴には、文字標本というか、著作というのか、『楷書千字文』、『行書千字文』、『帝国作文大全』などの書物がのこされている。そのうち発行部数が多かったとみられる『楷書千字文』はやつがれも所有しているが、本来入手を望んだのは久永其頴『行書千字文』であったこともあり、現在は探し出せないでいる。

幸い現在では〈国立国会図書館デジタルコレクション 久永其頴『行書千字文』〉は、デジタルデータで公開されているので、その特異な書風の一部を知ることができる。
また朗文堂タイプコスミイクでは、久永其頴の個性ある仮名書風をデジタルタイプとして再現した、欣喜堂:今田欣一氏の設計による、『和字 Ambition 9  ひさなが』 の販売もおこなっている。


ひさなが
久永其頴の墓所は、東京都台東区谷中6-2-8 自性院墓地にあることが今回松尾篤史氏によって報告された。自性院は川口松太郎『愛染かつら』ゆかりの寺であり、参拝客も多い。
また久永家の墓地は独特の書風の墓標で、現在も香煙がたえない。墓誌は損耗が著しくてよみとれないでいるが、いずれご家族から取材ができたら、さまざまな資料が発掘される可能性もありそうである。

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《初期印刷人が多く眠る谷中霊園  印刷史研究に独自の視点で臨んだ川田久長の墓》
川田久永『活版印刷史』初版20140523121747341_0001川田久長『活版印刷史』初版本  組版データー
大日本印刷、印刷学会出版部発行 昭和24年03月20日
B6版 並製本

本文 : 9pt 明朝体活字 一行45字、16行、行間7.5pt
DSCN3964DSCN3967DSCN3970川田久永『活版印刷史』増刷20140523121747341_0002川田久長『活版印刷史』再版本  組版データー
杜陵印刷、印刷学会出版部発行 昭和56年10月05日
B6版 上製本 スリップケース付き

本文: 9pt 明朝体活字 一行45字、21行、行間4.5pt
参考: 杜陵印刷と小社とはながい取引関係にある。この時代の杜陵印刷にはA全判、A半裁版活版印刷機が数台あり、本文活字は自家鋳造であり、ムラ取り時間短縮のために、紙型鉛版方式(ステロ版)での活版印刷が多かった。
DSCN4054DSCN4045 DSCN4051  20140508172450578_0001 20140508172450578_0002 集合写真「印刷産業綜合統制組合屋上にて:矢野道也氏を送る会」(1946年03月25日)
写真) 印刷学会会長職の辞任を申し出た日に。印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也。
前列左より : 佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より : 馬渡努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

著作や著述が多い割に、川田久長の人物像は知るところがすくなかった。痩身で大柄なひとであったようである。集合写真:「この一冊の書物から 05 ──── 印刷所は金属鉱山-変体活字廃棄運動の禁句」『印刷情報』(片塩二朗 2007年07月号)より部分拡大。
以下に略歴をしるす。

川田久長 かわだ-ひさなが
1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日

明治23年05月25日  東京牛込区にて、父:麹町区長・川田久喜、母・むめ子の長男として誕生。
大正02年09月      東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。浅沼商会入社。製版材料調査に従事。
大正12年          秀英舎入社。製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月      印刷図書館初代館長に就任。のち「文部省認可 財団法人 印刷図書館」(昭和24年設立)となる。
昭和24年03月20日   著作『活版印刷史』(初版・並製本 印刷学会出版部)刊行。
昭和37年07月05日  逝去。享年72。墓は谷中霊園 甲3号4側に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作『活版印刷史』(再版・上製本 印刷学会出版部)刊行。

《啓蒙思想家、教育者/中村正直の撰並びに書の碑文》
江川活版製造所、江川次之進が、東京築地活版製造所を追随するために新書体開発をめざし、そのはじめに、原字版下を中村正直(なかむら-まさなお  中邨ともする 1832-91)に依頼したことは既述した。【ウィキペディア:中村正直
中村正直は、江戸で幕府同心の家に生まれた。徳川幕府の昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となった。幕府のイギリス留学生の監督として渡英して帰国後は静岡学問所の教授となる。

江戸徳川家が転封を命じられた静岡藩時代、静岡学問所教授時代の1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を翻訳刊行した。すなわち『西国立志篇』(別訳名『自助論』)で、最初は木版刊本11巻として、のち佐久間貞一の懇請をいれて近代活字本一巻として出版した。同書は100万部以上を売り上げ、秀英舎(現大日本印刷)の基盤確立に寄与するとともに、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。
またジョン・スチュアート・ミルの『On Liberty』を訳した『自由之理』(現在では同書を『自由論』と称するのが一般的)は、「最大多数の最大幸福」という功利主義思想を主張し、一躍「自由」は明治のはやりことばとなった。同書では個人の人格の尊厳や、個性と自由の重要性を強調した。

1872年(明治5年)、大蔵省に出仕。女子教育・盲唖教育にも尽力。1873年(明治6年)、同人社を開設。また、福澤諭吉、森有礼、西周、加藤弘之らとともに設立した明六社の主要メンバーとして啓蒙思想の普及に努め、明治六年創立の「明六社」の機関誌、「明六雑誌」の主要な執筆者でもあった。
自助論の序文にある ‘Heaven helps those who help themselves’ を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも中村正直である。

中村正直は能筆であったことは下掲の碑文からもあきらかだが、活字の原字を書すという作業は、能筆家であることがかえって妨げになることがある。
そうした背景があって、江川次之進は中村正直の原字を中途で断念して、「版下の書」を書いていた久永其頴ヒサナガ-キエイに依頼して、江川活版製造所の代表的な活字書体「江川行書体」を製造した。

この石碑は谷中霊園にあるが、まだ研究の手はおよんでいない。参考までにご紹介する。
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平野富二と活字*15 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅱ 明治初期の偉人たち-1

         

《『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会併催 掃苔会の報告 Ⅱ》
2013年11月30日[土]-12月01日[日]の両日、東京都台東区上野桜木2-4-1 日展会館において【『平野富二伝』(古谷昌二編著)刊行記念 展示・講演会】が開催された。
その際、併催されたのが「谷中霊園 掃苔会」(12月01日 10:00-12:00)である。
「掃苔 そうたい」とは、本来、苔を掃ききよめるの意であるが、転じて墓参の意もある。

もともと「掃苔会」は、13年ほど前から、ときおり有志が集まり、谷中霊園を中心に、「書かれた字、彫られた字」の字学研究と、平野富二の遺徳を偲ぶちいさな会であった。
次第に平野富二とおなじく、谷中霊園にねむる、造形者・出版人・新聞人・印刷者・活字製造者・活版印刷者などに範囲がひろがり、さらに古谷昌二氏の参画を得てからは、文字どおり「明治産業近代化のパイオニア諸賢」の記録もくわわり、その範疇はおおきくひろがった。

今回の「掃苔会」は、「平野富二命日 12月03日」を直近にひかえた平野家ご親族の参加があって、きわめて有意義な会となった。その「谷中霊園 掃苔会(2013年12月01日)の記録Ⅱ」を紹介したい。
紹介順は、基本的に「掃苔会」での墓参の順番になるが、平野富二ときわめて関係のふかかった渋沢栄一(社会実業家 1840-1931)の墓所が、現在大規模な修理中であり、ご紹介できないことをあらかじめお断りしたい。
なお掃苔会資料『苔の雫』はコピー版であるが、ご希望の向きには実費程度でおわけしたい。この連続紹介で、碑碣にみられる、刻字のおもしろさと、そのおもさを知っていただけたら幸いである。

[小冊子『苔の雫』(編集・製作:松尾篤史氏、協力:八木孝枝氏)、撮影:岡田邦明氏]

『平野展』ポスターs平野富二伝記念苔掃会 0104

◎ 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち 社会実業家 号:青淵 1840-1931) 
乙11号1側  塋域全体が工事中。

◎ 茂木 春太碑(もてぎ はるた 教育者・化学者 1849-81)
乙11号3側  中村正直撰 廣 群鶴刻。
能書家としてもしられた中村正直の楷書がみごとである。

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◎ 岸田 吟香(きしだ ぎんこう 新聞人・実業家・慈善事業家 1833-1905)
乙12号7側 本名:辰太郎 別名・号:銀次、まゝよ、東洋、桜草
1864年(元治元)ジョセフ・ヒコらと日本初の新聞『新聞紙』を創刊。『東京日日新聞』初代主筆。
ヘボンと上海にわたり『和英語林集成』の刊行に助力。水性点眼薬「精錡水セイキスイ」を製造販売。
_MG_0625uu _MG_0628uu _MG_0630uu _MG_0631uu◎ 西園寺 公成(さいおんんじ きみなり 旧名:松田雪江 事業家 1835-1904)
乙12号7側 第一銀行取締 石川島造船所の資金難にあたり、渋沢栄一の指示でそれを援助。
平野富二没後は石川島造船所の株式組織化に尽力し、取締役に就任。
_MG_0637uu _MG_0643uu _MG_0644uu _MG_0646uu◎ 内田 嘉一(うちだ よしかず 文部省役人、書家、かなの くわい幹事 1848-99)
乙13号1側 秀英体の原字の一部を担ったとみられる。福澤諭吉の初期の塾生で、福澤諭吉編『啓蒙手習之文』(木版刊本、内田嘉一版下)にみる「わかりやすい文字」は、その後の活字書体形成におおきな影響をあたえた。
_MG_0691uu _MG_0693uu _MG_0699uu◎ 井関 盛艮(いせき もりとめ 裁判官、官僚、実業家 1833-90)
乙8号11側 あざな:公敦 通称:斎右衛門 神奈川県令のとき、長崎の本木昌造一門の助力で、わが国初の日刊新聞『横浜毎日新聞』(明治5年)を創刊。その後名古屋県令、島根県令をつとめ、印刷術の普及に貢献した。
_MG_0701uu _MG_0704uu _MG_0708uu _MG_0712uu◎ 田口 卯吉(たぐち うきち 経済学者、文明史家、衆議院議員 1855-1905)
乙7号6側 本名:鉉 号:鼎軒 元幕臣。紙幣寮に出仕。沼間守一による櫻鳴社の設立会員。秀英舎役員。『日本開化小史』『大日本人名辞典』などの編纂。『東京経済新聞』の創刊など。_MG_0719uu _MG_0720uu◎ 條野 傳平(じょうの でんぺい 戯作者、新聞人、実業家 1835-1906)
乙7号甲2側 明治元年(1868)福地源一郎、西田傳助らと『江湖新聞』創刊。ついで毎日新聞の前身『東京日日新聞』を自宅を事務所として創刊し、ついで『警察新報』『やまと新聞』などを創刊。
◎ 鏑木 清方(かぶらぎ きよかた 日本画家、随筆家 1848-99)
乙13号左3側 幕末から明治初期きっての粋人・條野傳平の子ながら、長子ではなかったため、墓所は別にある。自著の装幀にみるべきものが多い(ここには鏑木清方関係の写真は省略した)。_MG_0723uu _MG_0725uu _MG_0730uu◎ 楠本 正隆(くすもと まさたか 裁判官、政治家、実業家、新聞人 1838-1902)
乙7号甲1側 備前大村藩士、維新後井上馨、野村宗七とともに長崎判事。新潟県令、東京府知事となって、平野富二の活字製造、造船事業、土木工事に多くの接点をもつ。のち『都新聞』を買収して社長となった。
_MG_0733uu _MG_0734uu _MG_0741uu◎ 藤野 景響碑(電信士、西南戦争で陣没 1857 ?-1877)
甲1号4側  通称「碑文通り」とされる中央通路に、杉の木がもたれかかるという、奇観を呈するこの碑の主人公は、父が紙幣寮に出仕しているとする以外詳細は詳らかにしない。
碑文の撰・書ならびに篆額は池原日南(長崎人、宮内省文学御用掛として明治帝に近侍。香穉とも号す。1830-84)である。池原の和様の書は著名だが、ここでは隷書味のある楷書でしるしている。当時評判の石工・廣 群鶴の石彫もみごとである。
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◎ 渡部 欽一郎君之碑(大蔵省書記官、号:柳圃 1845-86)
甲1号9側 松方正義:篆額、浦春暉:撰、並木時習:書、井亀 泉:刻
明治4-6年(1871-73)ころ、大蔵省権大書記官として井上馨に随伴して大阪造幣寮におもむき、合理的で整然とした西洋式簿記を目にして啓発され、帰京後大蔵省の簿記法を従来の和算から、アラビア数字による横書き・左起こしに改めることを進言し採用された。この碑はその事実を刻し、「このことを知るひとはすくないが、いずれあきらかにされるであろう」としている。
英和辞書などでの左起こし横組みの創始が話題になったことがあるが、簿記での左起こし・横組みは、1871-73年ころの渡部欽一郎が最初である。
篆額を書した松方正義は、ときの大蔵大臣である。なお渡部欽一郎の墓所は浅草・本願寺にあるという。
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_MG_0828uu _MG_0832uu _MG_0838uu_MG_0840uu  《これぞまさに歴史の皮肉か? 谷中霊園甲1号12側にならんで建つライバルの墓標》
谷中霊園甲1号12側の通路にそってあるくと、ちょっと奇妙な景色に遭遇する。中央通路からはいると、手前に福地源一郎の墓標があり、東京都指定史跡に登録されている。その奥、隣りに伊集院兼常の墓域がある。どちらも相当おおきな墓域だが、ふつう通路に向かってたつ墓標が、伊集院家のものだけが、いくぶん変わった向きに建立されていることに気づく。これはぜひとも現地に出むいて確認していただきたい。
1886年(明治19)この両者は熾烈な争いをしたライバルであった。それでもいまや黄泉のひととなった両者は、谷中霊園にならんでねむっている。
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1886年(明治19)海軍省から軍艦建造の依頼をうけた平野富二は、管轄官庁の変転で浮きあがっていた兵庫造船局を借用するために願書を提出した。ところが同時に、京橋区築地造船所の川崎正蔵(鹿児島うまれ、1837-1912)からも同様な願書が提出された。
そのため両者はそれぞれ同郷の代理人をたてて借用権を争った。そのときの代理人とは、平野側は福地源一郎、川崎側は伊集院兼常であったのである。ときはまだ旧薩摩藩・旧長州藩の勢力がつよく、伊集院はその旧薩摩閥を背景として貸し下げ競争を展開した。
結局薩摩閥勢力のちからに屈し、貸し下げ競争に敗れた平野富二は、憤激のあまり脳溢血の発作をおこしたと伝えられている。_MG_0847uu◎ 福地 源一郎
(号:櫻痴、吾曹、夢の家主人、星泓。通訳、新聞人、実業家、政治家、劇作家 1841-1906)
甲1号12側 長崎人。語学の才にめぐまれ、幕府直臣となって外遊をかさねる。このときの経験が新聞の必要性と、小屋がけではない、常設劇場「歌舞伎座」の創建につらなった。多芸多才なひとで、毀誉褒貶も多いが、條野傳平らと『江湖新聞』を発行して新政府批判を展開し、投獄され、新聞は版木もろとも焼却されて発行禁止となった。
維新のち大蔵省に出仕するも、まもなく下野して『東京日日新聞』に迎えられて、主筆兼社長となった。常設劇場「歌舞伎座」を開設し、九代目市川團十郎、河竹黙阿弥らと演劇改良運動に尽力し、歌舞伎の新作脚本もたくさんのこした。政財界でも華やかな活動を展開し、伊藤博文・井上馨らの「悪友」と、色里での艶聞も多い。号としてもちい、法名の一部にもなった「櫻痴オウチ」は、遊里吉原の芸子・櫻路サクラジに痴シれたおのれを自嘲したものとされる。
第一次『印刷雑誌』に「本木昌造君の肖像并履歴」、「平野富二君の履歴」などの貴重な記録をのこし、谷中の『平野富二顕彰碑』の揮毫にあたるなど、平野富二とはきわめて昵懇であった。
_MG_0848uu_MG_0862uu ◎ 伊集院 兼常(いじゅういん かねつね 鹿児島人。軍人、実業家、造園家。1836-1909)
甲1号12側 幕末は国事に奔走し、維新後海軍に出仕、海軍省主船局営繕課長をへて実業界に転進した。また伊集院は建築や造園、茶の湯に造詣がふかく、鹿鳴館の庭園造営が知られる。また京都の数寄屋づくりの別荘は、現在臨済宗の寺院「廣誠院」として観光名所になっている。

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◎ 宮城 玄魚(名:喜三郎 号:梅素玄魚、旧キサ、呂成、蝌蚪カト、オタマジャクシ子 1841-1906)
甲4号3側 経師士、庸書家、浮世絵士、戯作者。20歳のころ家業の経師職を継いだ。庸書(実用書芸)のほか、画にも長じ、合巻の袋絵、千社札、火消しの袢纏、商品の紙器などの意匠に独創性を発揮した。
また條野傳平、仮名垣魯文、落合芳幾らの粋人仲間との交流も篤かった。
清水卯三郎(1827-1910)がパリ万博に随行した際、玄魚の版下によってパリで仮名書体活字を鋳造し、その活字母型を持ち帰ったとされる。江戸刊本の字様を継承した玄魚の仮名書風は、東京築地活版製造所の仮名活字の一部に継承されたとみられている。
宮城家塋域はそんな玄魚の心意気を反映して、どことなく小粋で風情のある場所である。
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平野富二と活字*14 【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】の記録

平野表紙uu

《【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)》
『平野富二伝』(古谷昌二編著 2013年11月22日 朗文堂)が刊行された。
引きつづき、平野富二の命日を直近にひかえた2013年11月30日-12月01日、【『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会】が、上野・日展会館で開催された。

『平野展』ポスターs

そんな平野家の皆さまに、【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)を開催していただいた。
著者の古谷昌二様はともかく、版元としてはこんな晴れがましいことは遠慮させていただきたいとお願いしたが、結局平野家のご要請をうけいれて、いささか晴れがましい機会をつくっていただいた。
壁に貼られたイベントポスターは、平野家がご用意されたものであるが、いささか面はゆい。
あくまでも、著者:古谷昌二様にたいする 【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】 としてご覧いただきたい。

DSCN3223 前列右から) 平野信子様(曾孫長男・故平野義政氏夫人)、やつがれ、著者:古谷昌二様、平野早苗枝様(曾孫四男・平野義和氏夫人)、大石 薫(朗文堂)、平野義和様(曾孫四男)。
後列右から) 松尾篤史様(掃苔会)、鈴木 孝(朗文堂)、平野 徹テツ様(玄孫、曾孫次男・平野克明氏長男)、平野正一様(玄孫、曾孫四男・平野義和氏長男)、平野健二様(玄孫、曾孫四男・平野義和氏次男)────────
平野家は、長崎の矢次ヤツグ家の次男、平野富二(幼名:矢次゙富次郎)が、とおい祖先の大村藩士:平野勘大夫の姓をもって平野家を再興したもので、平野富二(1846-1892)をもって初代とする。
ついで第二代:平野津類(1876-1941)、第三代:平野義太郎(1897-1980)と継承された。

第三代:平野義太郎には、富二の曾孫(ひまご)にあたる一女四男があった。
長女:平野(常磐)絢子(慶應義塾大学名誉教授)、長男:平野義政(平野文庫主宰者 1932-93)、次男:平野克明(静岡大学名誉教授)、三男:平野俊治(出版編集者 1936-93)、四男:平野義和(七福会社社長)の各氏である。

平野家第五代にあたる玄孫(やしゃご)は、各家にあって10名を数え、平野家のいやさかを飾るが、【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】に参加されたのは、平野 徹テツ(平野克明氏長男)、平野正一(平野義和氏長男)、平野健二(平野義和氏次男)の各氏であった。
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【平野富二伝』刊行 おつかれさま会】では、今後とも、平野富二と、平野富二が開発した「日本近代産業」を研究することを確認し、平野家からの新提案をうかがった。そして平野家第五代の30-40代の若手メンバーを中心として、「平野富二会」(平野会はかつて IHI に存在した)を結成することとした。
また、平野信子様(曾孫長男・故平野義政氏夫人)からは、長男家につたわる位牌を中心に、興味ぶかいおはなしを伺うことができた。
著者:古谷昌二氏のご健勝を祈念するとともに、平野家ご一同のご厚意に篤く感謝し、平野家ご一門のいやさかをお祝い申しあげる次第である。

平野富二と活字*13 掃苔会の記録 『苔の雫』Ⅰ 平野家関連

《『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会併催 掃苔会の報告》
2013年11月30日[土]-12月01日[日]の両日、東京都台東区上野桜木2-4-1 日展会館において【『平野富二伝』(古谷昌二編著)刊行記念 展示・講演会】が開催された。
その際、併催されたのが「谷中霊園 掃苔会」(12月01日 10:00-12:00)である。
「掃苔 そうたい」とは、本来、苔を掃ききよめるの意であるが、転じて墓参の意もある。

もともと「掃苔会」は、13年ほど前からときおり有志が集まり、谷中霊園を中心に、「書かれた字、彫られた字」の字学研究と、平野富二の遺徳を偲ぶちいさな会であった。
次第に平野富二とおなじく、谷中霊園にねむる、造形者・出版人・印刷者・活字製造者・活版印刷者などに範囲がひろがり、さらに古谷昌二氏の参画を得てからは、文字どおり「明治産業近代化のパイオニア諸賢」の記録もくわわり、その範疇はおおきくひろがった。

今回の「掃苔会」は、「平野富二命日 12月03日」を直近にひかえた平野家ご親族の参加があって、きわめて有意義な会となった。「谷中霊園 掃苔会」(2013年12月01日)の記録を紹介したい。
[小冊子『苔の雫』(編集・製作:松尾篤史氏、協力:八木孝枝氏)、撮影:岡田邦明氏]
平野富二伝記念苔掃会 01
030204『平野展』ポスターs《平野富二顕彰碑 并 嫡孫・平野義太郎顕彰碑》
所在地:谷中霊園 甲一号一側
・平野富二(ひらの とみじ 1846-92)顕彰碑
   篆額:榎本武揚 撰并書:福地源一郎 刻:井亀 泉(酒井八右衛門)
   1904年(明治37)平野富二十三回忌にあたり建碑披露
・平野義太郎(法学者・平和運動家・平野富二嫡孫 1897-1980)顕彰碑
   「題字:平和に生きる権利 書:平野義太郎」
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《『平野富二伝』(古谷昌二)における、二〇-四 平野富二 十三回忌記念碑建立(明治37年)の紹介》
古谷昌二『平野富二伝』には、「二〇-四 十三回忌記念碑建設(明治37年)」(p.810-818)があり、その記録が詳細にしるされている。

明治三七年(一九〇四)一一月二七日、平野富二の十三回忌に当り、谷中墓地記念碑前に於いて故平野富二氏記念碑建立式が挙行された。 
この石碑の建立は、平野富二の死去の翌年である明治二六年(一八九三)に、石川島造船所の職員・職工の有志がひそかに計画したものであった。 
その後、東京築地活版製造所の職員・職工も加わり、友人・知人等二百六十一名の醵金により、平野富二の墓所のある谷中霊園の桜並木となっている中央園路に面して、霊園事務所の隣り(甲1号1側)に建立された。[『平野富二伝』古谷昌二]

そのなかから、「補遺2 榎本武揚による篆額」の全文と、「補遺3 福地源一郎の撰文と揮毫」の一部を紹介したい。
この「補遺2 榎本武揚による篆額」に関するテーマは、やつがれも『富二奔る』(片塩二朗、p.102)で触れたが、出典が『淮南子エナンジ
』にあることを理解しないままに記述した。ここに読者にお詫びして訂正するとともに、この誤謬をご指摘いただいた古谷昌二氏の文章を紹介したい。
詳しくは、やはり『平野富二伝』(古谷昌二)をお読みいただきたい。
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補遺2 榎本武揚による篆額 
碑の表面上部には榎本武揚による篆額が陽刻されている。これは、一般には馴染みのない篆書体で、しかも、漢字の羅列であるので、その判読と意味するところを理解することが難しい。今までに解読を試みた例もある[やつがれのこと]が、必ずしも納得できるものではなかった。そこで、敢えて筆者なりに納得できる解読を試みた。 

篆額は漢文であるので、横書きの場合、右から左に読むことになる。右から順に第一字、第二字、‥‥‥とする。 
第一字は、「斬」の字の下に「水」を配していることから、「水」を「サンズイ」と見て、「漸」と読む。
第二字は、篆書で類似の字として「平」、「乎」、「印」があるが、上部横棒が右上がりのギリシャ文字「π」に近く、下半分は第六字の左下と同じで、篆書では「十」となることから「乎」と読む。
第三字は、「矩」の下に「木」であるから、「榘」と読む。
第四字は、そのまま「鑿」と読む。
第五字は、「実」の旧字体である「實」と読む。
第六字は、そのまま「幹」と読む。
第七字は、そのままでは類推しにくいが、「心」と読む。
第八字は、「旅」の下に「月」を配した「膂」と読む。

以上を纏めると、次のような句になる。 
「漸 乎 榘 鑿 實 幹 心 膂」
第一字から第四字までの句は、『淮南子エナンジ』の「繆稱訓 ビョウショウクン」にある 「良工漸乎榘鑿之中」と云う句から採ったと見られる。
その意味するところは、「優れた工人は、モノサシ(基準とするもの)と、ノミ(仕事を効率良く行う道具)とを用いる中で習熟するものである」と読み取れる。

参考に記すと、この句に続いて「榘鑿之中、固無物而不周、聖王以治民、造父以治馬、醫駱以治病、同材而各自取焉」とあり、「榘鑿の意味するところは、全てに共通しないものはない。これによって聖王は人民を治め、馬の名人は馬を自由に操り、優れた医者は病気を治す。これは基本とするものは同じで、それぞれに対応させているからである。」と、輸子陽が自分の子に諭したとしている。
なお、「鑿」に代えて左扁を「尋」、右扁を「蒦」とする漢字を充てて「ものさし」を意味するとする注釈本もある。〈『淮南子(中)』〉
第五字から第八字については、その出典は明らかでないが、「幹を實するに心膂たり」と読んで、「基幹となる事業を充実させることに、心も体も全身ありたけの力を注いだ。」と解釈できる。

これを全文纏めて表現すると、次のようになる。 
「優れた工業人であった平野富二君は、その正しい実践の中から習熟し、わが国の基幹となる工業を充実させることに全身・全霊を捧げ尽くした。」
これは、平野富二の生涯を的確に言い現わした漢文句で、平野富二に贈る言葉としてこれ以上のものはないと言える。

 補遺3 福地源一郎の撰文と揮毫
[前略]
この碑文について福地源一郎[櫻痴]は、建碑式に出席し、来賓として自ら述べた祝辞の中で、その動機に触れている。やや長文であるが、次にその文[『平野富二伝』では全文紹介]を紹介する。なお、特別な場合を除き常用漢字に直した。
「 参列諸君閣下
平野富二君ノ碑ハ 今ヤ斯ノ如クニ建設セラレテ 乃スナワチ 本日ヲ以テ諸君閣下ノ参列ヲ忝カタジケナ ウシ 其除幕式ヲ挙行セラレタリ 源一郎 君ガ旧交ノ一友タルヲ以テ 茲ココ ニ発起人総代 及 委員諸君ニ対シテ 斡旋尽力ノ労ヲ敬謝シ 併セテ此建碑ニ関シテ一言セント欲ス[中略]
  明治三十七年十一月二十七日
                                                      福地源一郎敬白 」  

このように、福地源一郎が、平素は碑文の[撰ならびに書の]依頼を断っているが、敢えて平野富二のために応じた理由を述べている。つまり、
「自分は平素から常人のために碑文を作るのを好まない。それは、誰を記念する碑か漠然として知る人もなく、野草の荒れるままにその中に埋もれ、むなしく夕陽と秋風に曝されて立っている碑が多いからだ。
ところが、平野富二君は、このような人ではなく、その功業勤労が偉大であったことの事実を歴史に永く伝えるべき人で、明治工業史中に残る人です。このような歴史的人物のために碑文を記すことは、文士として光栄とするところです。」
としている。

この碑の前に立って、陰刻された碑文を読もうと思っても、変体かなに素養のない者は、最初の行から素直に読めなくなってしまう。読める句だけでも拾い読みをすれば、全体の大意は理解できるが、恐らく全文を読み通す人は殆ど居ないのではないかと思う。

通常、碑文は漢文とするのが正式であるが、敢えてこれを和文とし、当時流布していた「かわら版」に見られるような変体かなを交えた書き方としたのは、福地源一郎の願った趣旨からすると、当時一般に馴染み深く、読み易いことを意識し、広く読んで貰いたいという事では無かったかと推測される。
書に於いても、文に於いても、また、字ひとつ一つに於いても、五歳年少の「旧知の一友」[平野富二]への福地源一郎の想いがこめられている。その意味で、実際に碑を前にして鑑賞するのが一番である。 

《平野富二夫妻墓標 并 平野家塋域エイイキ》
所在地:谷中霊園 甲一一号一四側
・平野富二(ひらの とみじ 1846-92)、平野こま(古ま・コマ・駒子とも 1851-1911)夫妻墓標
   書:吉田晩稼 
   太平洋戦争で焼夷弾が至近に投下されたために焼損があるが貴重な墓標である。
・平野富二碑
   題字并撰:西 道仙 碑文の書:平野富二 三女・幾み
   「平野富二碑」は富二の生母・矢次み袮の発願で、長崎禅林寺の矢次家墓地に建立されたが、
   矢次家・平野家とも上京し、ながらく所在不明となっていた。それを平野義和・正一父子が発見
   して、平野富二没後110年にあたる2002年に、谷中霊園平野家塋域に移築披露された。
・平野津類墓
   平野富二の次女にして、平野家を継承した。
・平野義太郎・嘉智子夫妻の墓
   平野富二嫡孫夫妻
・平野古登墓
   平野富二長女(1873-75)。夭逝したため詳細不詳。
・山下壽衛子刀自墓 (刀自トジは高齢女性に対する尊称)
   法名:貞倫軒本譽壽照信女(大正元年10月16日没  86歳) 詳細不詳
   最下部に古谷昌二氏からの@メール解説を紹介した[2014年03月12日補記]。

・平野富二位階碑
   従五位を1918年(大正7)に追贈叙位されている。平野義太郎建立。

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前列右から) 平野克明氏(平野富二曾孫)、中尾 勲氏(IHI OB、平野会)、小宮山 清氏、やつがれ
後列右から) 平野健二氏(平野富二玄孫)、平野智子氏(克明氏夫人)、平野義和氏(平野富二曾孫)、松尾篤史氏(掃苔会肝煎り)、小酒井英一郎氏(タイポグラフィ学会)

《『平野富二伝』(古谷昌二)における平野家塋域の紹介》
このときの「谷中霊園 掃苔会」は、日展会館における講演会・展示と併催だったために、何人かのかたには、展示解説と接客担当をお願いして、「掃苔会」への参加をあきらめていただいた。
本来なら、ここには古谷昌二さん、平野正一さんらのお姿があるはずであるが、無理をお願いして展示解説の担当をお願いした。

古谷昌二『平野富二伝』には、「一九-七 平野富二の死去」(p.793-800)があり、その逝去あたっての記録が詳細にしるされている。
そのなかから、「補遺6 勲章受章に関する裏話」、「補遺8 平野富二の墓所」を紹介したい。
これらの記録をあらためて読むと、平野富二は叙勲や位階にはきわめて無頓着であったことがよくわかるし、さらに興味深いのは、現在の平野家一門にも同様のかたむきがみられることである。
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補遺6 勲章受章に関する裏話
平野富二の死去に関連して、次のような裏話が伝えられている。
「平野富二追憶懇談会記録」によると、平野津類の談話として、
「亡くなった時に、三日は喪を秘して置いてくれと、大隈(重信)さんが川村純義さんに奔走してやると云うことでありましたが、位などもともと嫌いな人でありますから、速く葬儀をした方が宜いと云うことで、二日後に執り行いました。」

この談話に関連して、今木七十郎の談話も記録されている。
「(生前にも、ドコビールを紹介してくれた)児玉(少介)さんが、平野さんに、勲章を貰ってやる、それには少し如才なくしろ、と云われたが、平野先生は、(部下の今木八十郎に対して、)『別段、あれは持ち前でございます、と云って置いてくれ。なかなか忙しくもあるし、下さるものなら(頂いても)宜しいが、如才なく振舞うのは嫌だ。』と云って辞めてしまった。」

これと同じ時と見られる今木七十郎の談話が『詳伝』の「述懐片々」の中の第一八「先生の日常の風貌」に次のように記載されている。
「平野先生と、福澤諭吉先生とは、初めから民間で仕事をし、みづから平民を以て、貴ぶべき天爵とされて居ったから、勲章の下附の内意があった際にも、辞された。福澤先生は勲等を辞して五万円貰われたから、其の方が宜しかったかも知れないが、平野先生は、勲等も辞し、金も貰はれなかった。」(今木七十郎氏談) 

これは、平野富二の生前と死亡直後にも周囲の人たちから叙勲の働きかけがあったことを示すものだが、本人は堅苦しいことを嫌って辞退し、家族もそれを配慮して辞退したことが分かる。 
平野富二が追贈叙位されたのは、大正七年(一九一八)になってからの事で、このことは第二〇章の二〇-五で述べる。

補遺8 平野富二の墓所
平野富二の墓は、現在、東京都が管理する谷中霊園の乙一一号一四側にある。墓石の表面には、吉田晩稼の書になる「平野富二之墓」が陰刻されており、向かって右側面に戒名の「修善院廣徳雪江居士」と刻まれている。
背の高い石柱の門を入った参道の右側に石の水盤が置かれており、その先の参道に左右一対の石灯籠がある。
水盤は東京石川島造船所の関係者により捧げられたもので、その左側面に重村直一・島谷道弘・片山新三郎・桑村硯三郎の名前が刻んである。これらの名前は一九─六の補遺1に示した東京石川島造船所の株主名簿に示されており、平野富二から重用された部下であった。

一対の石灯籠は東京築地活版製造所の関係者により捧げられたもので、向って左側の石灯籠の台座裏面に東京築地活版製造所と刻し、続いて曲田成・松田源五郎・谷口黙次・西川忠亮・野村宗十郎など総勢十四名の氏名が列記してある。向って右側の台石裏面には左側に続くかのように十六名の氏名が列記してある。

なお、吉田晩稼(一八三〇-一九〇七)は長崎興善町の生れで、陸軍、海軍に奉職したが、辞して書家となった。大字を得意とし、筆力雄勁にして当時及ぶ者なしと評された。東京九段の靖国神社にある巨大な標柱に刻まれた題字は晩稼の代表作として有名である。本木昌造の歌友とされている。
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上掲写真のうち、平野家塋域に入って左側にある、比較的おおきな墓標、
・山下壽衛子刀自墓 (刀自トジは高齢女性に対する尊称)
   法名:貞倫軒本譽壽照信女(大正元年10月16日没  86歳)
は、ながらく「掃苔会」関係者のあいだでは詳細不詳とされてきた。

それが【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)に参集された平野信子氏(平野富二曾孫長男、平野文庫主宰者、故・平野義政氏夫人)からご説明をいただいた。それを記録されていた古谷昌二氏から@メールで情報をお知らせいただいたのでご紹介したい。

「掃苔会」は、多分に「書かれた字、彫られた字」の字学研究からはじまった。そして次第に明治期からの歴史研究にあゆみを進めてきたものである。したがっていまや「掃苔会」会員にとっては、墓地と墓標は、雄弁でありながら、さらにあらたな謎もうむことがしばしばある。
ここに古谷昌二氏からの@メール解説を紹介したい[2014年03月12日補記]。

山下寿衛子刀自の墓標について「詳細不詳」とありますが、先に平野家で開催していただいた「おつかれさま会」で、平野信子様から、この人は平野こまの母親[平野富二の義母]で、[故平野義政家の]仏壇に、[山下家]ご両親の位牌が祀ってある、とのことでした。
没年と年齢から計算すると、山下寿衛子さんは文政10年[1827]の生まれで、25歳のときに、こまさんが生まれたことになります。通説では平野こまは、安田清次・むら夫妻の長女とされていますが、[山下姓の]父母が別にいたことになります。
家紋の調査といい、今回の山下寿衛子刀自の問題にしろ、研究に終わりは無いようです。機会があればお位牌を拝見し、裏面にも表記がないかどうかを含めて調査したいものです。