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朗文堂-好日録 009 2011年3月11日、宮澤賢治と活字ピンセット

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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あの日のこと、そして
たかが……、されど、貴重なピンセッ

メディア・リテラシー   久しぶりに「朗文堂-好日録」をしるしている。期末・期首で忙しかったせいもあるが、やはり平成23年(2011)3月11日[金]14時46分、あの大地震と災害の凄まじさで、筆 モトイ キーボードが重かった。あの日、あの時、やつがれは遅い昼食を摂ろうと、まさにコンビニおにぎりを開封しようとしていた。この作業がいつもうまくいかず、包材が破れて海苔がのこるのが口惜しいので、きわめて慎重、かつ、きわめて丁寧に剥離の作業に一心不乱、熱中している最中、第一撃がドカンときた。続いてユッサユッサとおおきな揺れが続き、これはでかいぞとおもった。続いて第二撃がおそった。不安定だった書棚の書物が崩れるのを、おにぎりを持ったまま呆然とみた。どこのビルもエレベーターが自動停止して、非常階段が叫び声であふれた。みんなが口々に「逃げろ、逃げろ! 早く新宿御苑に避難しろ」と叫んでいた。第3撃がきたとき、吾輩は[取りあえず、主震よりでかい余震はないからな……]と開き直って、椅子にかけて大好物の「昆布おにぎり」を食べていた。しばらくして新宿御苑の避難から戻った社員にあきれられた。

¶ もともと小社にはテレビが無い。今回わかったことだが、社員私物のラジオが1台あるだけである。それでも今回の地震では、全員が帰宅困難者になったので、ラジオ、Websiteの動画、新聞社や私鉄のデジタル情報が役にたった。情報は東北で地震があったことを伝えるだけで、詳細はまったく不明。むしろヘリコプターが乱舞して、九段会館の天井が落下して死傷者がでていることと、千葉県の燃料タンクの炎上を伝えていただけだった。すでに携帯電話が通話できなくなって、かろうじて固定電話だけが時折通ずる状態になっていた。ネットの情報は、おびただしい流言飛語リュウゲン-ヒゴが飛びかい、片言隻語ヘンゲン-セキゴで埋めつくされていた。あの日の夜、新宿の通りは徒歩で帰宅するひとびとであふれかえった。ほとんどたれも東北の大惨事をまだ知らず、まして原子力発電所の非常事態も知らずに、ひたすら帰宅の道を急いだ。通信網が砕け散ったとき、高度情報化時代の「情報」とは、こんな脆弱ゼイジャクさを内包している。

¶ ところで、メディア・リテラシー(media literacy)である。昨春まで大学で情報学を教えていたので一応専門領域である。メディア・リテラシーを簡略に述べると、情報メディアを主体的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のことである。すなわち「情報を評価・識別する能力」ともいえる。あの日、携帯電話と固定電話が不通になり、パソコンの電源が落ちた被災地からの肝心な情報はまったく届かず、現代の電子メディアはほとんど無能となる醜態をさらけだした。あの日からしばらくして、吾輩はテレビをほとんど観ないことにした。断片的で、根拠不明の情報が多く、また疲れるし、重い気分になるだけだった。別に忌避したわけではなく、テレビというメディアは、この段階ではまだ真相を伝えるにはいたっていないと判断したからである。それに代えて、定期購読の新聞のほかに、数紙を交互に購入するようにした。タイポグラファとしては、日頃見慣れていない新聞の活字書体には相当抵抗があったが、「情報」、とりわけ原子力発電所の情報に、かなりのバイアスがみられるとかんじたので、普段手にすることのない新聞も購入した。それを持ってロダンの椅子に腰をおろすことが多かった。

《災害は忘れたころにやってくる》 ――いいふるされたことわざである。なんの新鮮さもないが、それだけに重い。《災害は忘れたころにやってくる》。それで十分だ。あの日のことを、想定外であり、未曾有ミゾウな事象などとメディアは盛んに記述する。[本当にそうだろうか……]と、あの日以来だいぶ滞在時間が長くなった「ロダンの椅子」に腰をおろしておもう。そもそも、なにゆえ想定外、未曾有な事象!? などという(まともに読めないひとがいることが自明な)、にわか漢語、はやりことばをもちいるのだとおもう。敗戦を終戦とし、占領軍を進駐軍、事故を事象とするなど、わが国では一朝ことあると、漢語の森(中国の傘のもと)に逃げ込む悪癖がみられる。「想像もできなかった」「かつて無いできごと」ではいけないのだろうか。

¶ すこし時計をもどそう。平成7年(1995)1月17日、あの日はひどく寒かった。中国から戻ったばかりで忙しく、徹夜明けで、近くにあった《夜明けから、日没まで営業》という、いっぷう変わった店で夜明けの珈琲を飲んでいた。午前5時46分、早暁のなかでガツンという衝撃があった。老店主はすぐさま古ぼけたテレビのスイッチを入れた。「関西地方で地震が発生」という速報に続き、「京都の三十三間堂で仏像が倒壊した」という、あとからおもえば、いささかピントのずれた第2報のテロップが流れた。震源地であり、最大の被害を受けた、神戸のコの字もなかった。おそらく大阪・神戸への通信回路は壊滅しており、京都までの情報しか「エヌ-エイチ-ケイ」でも入手できなかったのであろう。この地震はのちに「阪神・淡路大震災」と名づけられた。京都での被害は軽微だったので、「京阪神」とは名づけられなかった。

¶  ふたたびあの日。あの日以来、「テラ、シーベルト、ベクレル」などの、さまざまな単位語やテクニカル・タームを覚えさせられた。テラ(tera)はギリシア語で「怪物」の意の teras から派生したことばで、一兆の一万倍をあらわす単位の接頭語で、漢字であらわすと「京 ケイ」である。いったい幾つ 0ゼロ が並ぶとテラなる怪物を表示できるのだろうか。また、最初のうちはマイクロ・シーベルトなどといっていた。それが、いつのまにかミリの単位に変わって、ミリ・シーベルトといっていた……。小数点以下の0ゼロが随分とれてしまっていた。

¶ ところで、活字を扱っていると、すこし高額だが「マイクロ・ゲージ」が必要となる。マイクロは「微少」の意のギリシア語 mikros から派生したことばで、百万分の一(10―6)を表す単位の接頭語であり、ミクロとも呼ばれ、記号はμである。すなわち吾輩も正確を期して活字計測にマイクロ・ゲージを用いることがある。金属活字ではマイクロの単位は容易に可視化しないが、ミリの単位なら、100円ショップで売っている定規で事足りるし、視覚でも触覚でも判別できる。すなわち原子力発電所と放射能汚染に関して、桁違いの話しを平然とした表情ではなされても、門外漢にとっては困ってしまう。しかもその門外漢のど素人たる吾輩は、原子物理学になど興味もないし、知りたくもない。ただ安全であることだけを願って、ことの推移を「情報」から知ろうとしただけだ。

¶  あの日の地震は、最初のうちは気象庁の発表によって「東北地方太平洋沖地震」と呼んでいた。メディアもそれに倣っていたが、いつのまにか内閣府によって「東日本大震災」と名称がかわったようである。ことばにこだわっても収穫が少ないが、「地震と、それによる災害」を省略して、「震災」と生活語で呼ぶ分には問題はなかろう。しかしながら、歴史をかたるための正式呼称としては若干の疑問がある。あの日の地震はおおきな津波を伴い、万余の犠牲者をみた。これは先例もある地震と津波によるあきらかな天災。ただし一部から危険を指摘(想定されていた)原子力発電所の暴走は、情報のバリアーが徐々に外され、もうたれもが知ってしまったように、危険性を軽視し、警告を無視し、事故を事象などといいかえて判断ミスを重ねたことによる、あきらかなる人災であろう。

¶ すなわち地震と津波による天災と、トリガーをひいたのは津波とはいえ、原子力発電所がもたらす大災害は、チェルノブイリやスリーマイル島の先行事例もあって、想定外とは許されないできごとであろう。むしろ十分に想定可能で、かつ、事故への適切な対処が可能な事象!? であろう。すなわち原子力発電所がもたらした人災を、「震災」という合成語でなにもかもをひとくくりにすると、今後の復旧・再生・補償に齟齬ソゴをきたさないかと不安を覚える。ひとがつくった「原子力発電所、略して原発」という怪物が、ひとの手に負えない大暴走を繰りかえし、それこそ「未曾有――いまだ曾カツて起こったことがないこと」の悲劇をもたらした。また、いまはかたずをのんで静観するしかないが、これから数十年にわたって、放射能汚染という可視化できない化け物によって、不安と危惧をもたらし続けることが明らかにされたいまである。素朴におもう。地震と津波による天災と、原子力発電所の制御不能事態という人災は峻別すべきではなかろうか。

¶  あの日、幸い小社では被害というほどの損傷はなかった。しかし通信網・交通網が復旧するのにつれて、次第に身内にも犠牲者がでていたことを知った。やつがれの妹の亭主は仙台の出身である。その義弟の姉(血縁ではないが一応親戚だ)が激甚被災地で犠牲となった。ようやく遺躰は発見されたが、火葬ができなくて土葬にふされた。仮葬儀に駆けつけた妹は、「ともかく凄いことになっている。テレビじゃとても伝わらない、凄惨なことになっていた」と嗚咽をこらえて報告した。被災地の友人・知人に架電すると明るく笑うが、少なからず身内や友人に犠牲者をかかえている。あの日から四十九日忌をむかえるいま、あらためて「東日本全域を襲った、地震と津波の災害」によって犠牲となられたかたがたのご冥福を祈りたい。そして天災と人災によるすべての被災地の皆さまに、心からのエールを送りたい。

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苦労しています。活版用ピンセット 活版印刷材料商がほぼ転廃業をみた現在、「活版用ピンセット Tweezers  Pincet」は入手難な器具のひとつである。

『VIVA!! 活版♥』(アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月11日)

みた目は医療用やデザイン用に用いるピンセットと類似するが、これはバネの弾力が強く、先端内側の刻みが深くて、生まれも育ちも「活版用ピンセット」である。活字版印刷(活版)のよき再生をめざしたアダナ・プレス倶楽部の発足時には、さまざまな障壁があった。活版はここ40年ほど、ゆるやかな衰退を続け、なかんづく平成の時代になってからは業務としての活版印刷は急激な凋落をみていた。その技芸を壊滅させることなく、あたらしい時代のユーザーを得て、「再生・ルネサンス」をめざそうとした。いまとなれば笑って話せるが、「活版用ピンセット」には苦労が多かった。その在庫を探したが、どこにもなく、新規発注だと500―1,000本が最低製造ロットだとされて困惑した。ようやく探しあてた金属加工商に相当数の在庫があったが、宅配便の手配などをいやがる高齢の経営者だったので、現金を持って訪問しては購入していた。ところがある日、「活版用ピンセットが全部売れちゃってね、悪いけどもう在庫はないよ」との店主からの架電があった。あまりに唐突だったので唖然とした。

¶  しばらくして、最低でも50本はあった「活版用ピンセットを買い占めた」のは、大手の園芸業者であり、芝生などに生える野草(雑草)を引き抜くのにピッタリだとして、全量を購入したことがわかった。折りしもサッカー・ブームである。あの巨大なピッチの芝に紛れこむ野草とは、相当しっかりした根をはるらしい。それを始末するのに「活版ピンセット」は十分な強度を持っていた。朗報もあった。園芸業者の購入意欲は強く、相当数の「園芸用ピンセット」を新規製造することになったのだ。もちろん仕様は「活版用ピンセット」と同一のままである。ヤレヤレと胸をなでおろした。

¶  文豪・宮澤賢治に苦情をいうわけではないが……  活版印刷とピンセットというと、活版の非実践者は「活字を拾う――文選作業」に用いるものだと誤解していることが多い。ところが和文・欧文を問わず、意外に軟らかな活字を拾う(採字)ためにはピンセットは使わない。Websiteでも 《活版印刷今昔01》 の執筆者は、文選作業でのピンセットを使用している写真画像に相当お怒りのようである。すなわち活版印刷にはピンセットは必需品だが、その用途は、組版の結束時や、校正時の活字類の差し替え作業にもちいることにほぼ限定される。この活字文選とピンセットの相関関係の誤解は、意外に読者層にも多い。その原因はどうやら宮澤賢治の童話『銀河鉄道の夜』に発するようである。

¶ 宮澤賢治(1896-1933)は、岩手県花巻市生まれ、盛岡高等農業学校卒。早くから法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身した。詩『春と修羅シュラ』『雨ニモマケズ』、童話『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などがある。ここで『新編 銀河鉄道の夜』(宮澤賢治 新潮社 平成元年6月15日)を引きたい。ご存知のように宮澤賢治作品のほとんどは、生前には未発表の未定稿であり、数年あるいは数十年にわたって、しかも数次におよぶ宮澤賢治自身による推敲スイコウ・改稿・改作を経ており、没年の翌年からはじまった刊行作業のために、編集者はたいへんな苦労をしながら校訂をしてきた。本書は『新修 宮澤賢治全集』(筑摩書房 1972-77)を底本としており、多くの流布本や文庫本とくらべると、比較的未定稿の原姿を留めた(ただし、同文庫の編集方針により、仮名遣いは新仮名遣いになっている)書物といえる(天沢退二郎)。この「活版所」『銀河鉄道の夜』に問題の記述がある。(アンダーラインは筆者による

活 版 所

ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。

けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度をしているのでした。

家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中はまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。

ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込む小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。

ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。

六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。

ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。

¶ 『銀河鉄道の夜』は宮澤賢治の生前には刊行されず、事前の校閲や著者との合議がなかったから、没後に発表された刊行書の随所に、ことばの不統一がみられる。まず、章題の「活版所」は、本文中では「活版処」とされている。明治の大文豪が「吾輩・我輩」を混用して書物を刊行したが、その没後、大文豪の書物の刊行にあたった大手版元の校閲部では、有無をいわせず「吾輩」に統一して一部から顰蹙をかったことがあった。また、やつがれが敬愛する司馬遼太郎氏などは、送り仮名も、漢字のもちいかたも、あちこちにバラツキがみられるが、生前のご本人はほとんど気にしなかったようである。もちろん並の校閲者では手も足も出なかったとみえて、「不統一のママ」で刊行されている。なんでも揃えるという考えには賛成しかねるゆえんである。「ひとつの小さな平たい函」とあるのは、おそらく「文選箱」であろう。ガキのころから活版所を遊び場のひとつとしていたやつがれは、10歳のころには「文選箱」を宝物にしていた。また、いまもって文選箱を持つと、妙に気持ちが昂ぶる悪弊がある。「たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込むと」とある。これも、「活字ケース架 俗称ウマ」に向かって、文選のために立ったのであろう。ふつう文選作業にあたって、最下部に配される「外字」「ドロボー・無室」ケースの採字以外は、しゃがみこむことはあまりない。

¶ ついに問題の箇所である。ジョバンニは「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」とある。既述したが、わが国でも欧米でも、活字の文選作業は手で拾う。ピンセットをもちいると、軟らかな活字の面ツラを傷つけるおそれがあるためである。活版印刷全盛の時代には、床に落下した活字を拾うことさえ禁じられた。落下した活字は、汚れが付着するだけでなく、活字面 type face にキズやカケが発生している可能性があり、そのまま印刷して活字の面のキズやカケによるクレームがないように、灼熱地獄行きの「地獄箱 Hell Box」に活字を投げ入れた。この活字は捨てられるのではなく、溶解され、怪獣サラマンドラのごとく甦るのである。したがって、活版印刷の現場では、古今東西を問わず、ピンセットは、組版を結束したり、校正時の差し替え作業にもっぱら使われる器具である。したがって、宮澤賢治は活版印刷所の内部にはあまり立ち入ったことが無かったと推測される。また、もし作者の生前に『銀河鉄道の夜』の印刷・刊行をみていたら、編集者・校閲者・文選工・組版工・印刷工といった、たくさんのひとの手と作業工程を経るなかで、たれかがこの問題点を謙虚に、そしてひそかに指摘したとおもわれる。「あのですね、宮澤先生。ピンセットで活字を拾ったら、活字が泣きますよ」と……ネ。まぁ、『銀河鉄道の夜』は、幻想・夢想のなかにたゆたうような名作である。あまり目くじらをたてる必要も無いが……。

¶ 2011年4月28日 二黒 仏滅 癸 丑 あの日から四十九日忌にあたり、泪のような雨が降りそそぐ。肌寒し。

花こよみ 010

花こよみ 010

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

 菜 の 花 や 月 は 東 に 日 は 西 に

                                  与謝野蕪村(1716-1783)