《そも 佛跳牆-ブッチョウショウ とはなんぞや ? 》
この中国料理は近年わが国でも次第に知られるようになったが、説明と発音が面倒なためか、最近の中国や台湾向け観光旅行のガイドブックなどでは「ぶっとびスープ」などと紹介している。
そこには以下のような説明が加えられることが多い。
◉ 特殊な料理なので、どこの店でも扱っているメニューではない。
◉ 10日から1週間前、最低でも 4 日程度前には予約をする必要がある。
◉ 予約をしても、食材が揃わないとして断られることがある。
◉ ホテルのレストランなどでも「佛跳牆」をみるが、期待はずれに終わることが多い。
なにやら面倒な料理のようだ。
検索してみたら、東京・丸の内には クリスマス・メニューで 1 杯 5 万円の「佛跳牆」もあるという。
もちろん『花筏』は観光ガイドではないし、ましてやグルメガイドでもない。公式にはタイポグラフィ・ブログロール『花筏』と称しているのである。
また本稿は二部構成となっており、その前半はグルメ記録というより、林昆範氏とやつがれとの、まことに真摯なタイポグラフィ研究の学徒たる!? 一面を記録したものである。
★朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で
したがって、すこし煩瑣ではあるが、まず上掲の第一部の記録をご覧いただき、そののちに「佛跳牆 ブッチョウショウ、fótiàoqiáng、別名;ぶっとびスープ」を、すこしくタイポグラフィカルに、個個の「字」から紹介しよう。
【 佛 跳 牆 】
◎ 佛
佛は「仏」の異体字であり、もちろん「仏跳牆」でもかまわない。しかし台湾では繁字体 ≒ 旧漢字の使用が中心なので、ここでは「佛跳牆」でとおしたい。なお、大陸中国では、簡体字の使用によって「佛跳墻」とあらわされるが、その理由は後述する。ここでの「佛」は戯画化してえがかれたもので、単独ではさしたる意味はない。
一部にこの「佛」にひかれたのか「佛跳牆」を精進料理とする解説をみる。精進料理とは、肉や魚介類をもちいないで、穀類・野菜類・海草類・豆類・果実類などの精進ものを食材とする料理である。したがってこの解説にはチト疑問がある。
「佛跳牆」は、もともと中国広東省から福建省あたりの祝膳料理として発祥し、山海の珍味をベースとして、肉や魚介類を豊富にもちいて、滋養に富んでおり、医食同源とする漢族のあいだでは、むしろ「薬膳料理、祝膳料理」とされる。
◎ 跳
「跳」は常読で「チョウ」であり、意読では「とぶ、はねる、おどる」などとされる。「ぱっととびはねて、足が地からはなれる → 跳躍」であり、「はねあがっておどる → 跳舞」となる。
すなわち「佛跳」となると「佛さまが はねあがって 舞い踊る」の意となる。
したがって、たれが名づけたのか知らぬが、台湾ガイドが常用する「ぶっとび」とは、字音と字義をうまくとらえた、できのよい愛称といってよい。
ただし類語の「ぶっとぶ」は「飛ぶ」の意をつよめていう語であり、漢の字と併用すると「打っ飛ぶ」とあらわされるので、注意が必要である。
それでは「佛が、どこで、なぜ、舞い踊ったのか」を調べてみよう。
◎ 牆
「佛」「跳」にくらべると、「牆」はチト厄介である。
すなわち「牆」の漢字音には「ショウ(シャウ)、ゾウ(ザウ)、qiáng 」などがあるが、和訓音はなく、習慣的に意読として「かき、へい」とよんでいる。
そもそも漢字部首「爿ショウ部・片ヘン部」の漢の字が意外と厄介なことは、すでにこの『花筏』にも何度かしるした。
★ 新・文字百景*001 爿・片 許愼『説文解字』
★ 新・文字百景*003 いろいろ困っています「片」の字
そもそも漢字部首「爿」と、その「爿」を意符や音符として字画の一部に含む漢の字は「將軍 → 将軍、莊園 → 荘園、裝束 → 装束」のように、常用漢字ではほとんど「丬」に置きかえられている。
しかも漢の字「牆 部首爿部 シフトJIS E0AD」には、異体字「墻 部首土部 シフトJIS 9AD4」がある。「墻」は「牆」の異体字とはいいながら、もちろん同音同義の字である。それでなお「牆・墻」は、漢字部首まで「爿ショウ部、土ツチ部」とおおきく異なるのである。
ついでながら、繁体字をもちいる台湾では「佛跳牆」であり、大陸中国では簡体字(わが国では異体字)とされる「墻」をもちいて「佛跳墙」とあらわされる。
もちろん大陸中国では、メニューにも「佛跳墙」とあらわされるので注意が必要である。
余談をかさねると、「ラチもない」をおもいだした。地方によっては「らっちもない」とする。
「ラチもない」とは、仕事の糸口がつかめない、乱雑である、つまらない、仕事がはかどらないの意となるが、漢の字をもちいると「埒が無い」となる。
類語に「埒を明ける(開ける)」がある。これはものごとのきまりをつけること、はかどらせることである。また立派に申し開きをするの意にももちいられる。
「埒」(JIS第2水準、シフトJIS 9ABD)とは、低い垣、かこいのことであり、わが国ではふるく、馬場の周囲のかこいのことをいった。
かこいの無い馬場では、馬丁などの仕事がはかどらないことは当然であろう。
「牆・墻」は、ともに「石や土で築いた細長い へい」の意であり、「牆垣 ショウエン」「囲牆 イショウ」のように、いずれも「周囲をとりまいた へい」のことである。もちろん「埒」よりも壮大なものをいう。また「無 喩 我 牆 → 我ガ牆ヲ 喩ユル無ケレ」(詩経)のような使用例もある。
中国では古来、堤防・城壁・土塁・家屋・寺院・墳墓・道路など、巨大構造物をの多くを、板を積みかさね、その間に粘土質の土を入れて、堅く突き固める工法 版築 法が用いられた。そしてそれらの構造物を「牆・墻」などと称したのである。
中国河南省省都・鄭州にみる「鄭州商代牆(墻)曝露地」。古来からの版築法によって修復・再現作業が展開していた。版築法における工具の木材に注目すると「牆」となり、素材の土に注目すると「墻」となる。漢の字における同音同義の異体字とは、このようにして誕生する。
この漢の字「牆・墻」は、わが国では「石や土で築いた(巨大で)細長い へい」より、生け垣や竹垣のように、より軽便なものをもちいるために ── つまり「牆・墻」に匹敵するような巨大な「石や土で築いた細長い へい」自体があまり無いために、ほとんど使われることがない。
むしろ童謡「たきび」(作詞 ; 巽 聖火、作曲 ; 渡辺 茂)の、
♫ かきねの かきねの まがりかど たき火だ たき火だ おちばたき ♫
のように、垣根とか、塀、屏、あるいはせいぜい石垣ないしは土塁などをもちいることが多い。
《中国 河南省省都 鄭州に「牆」をみる》
かつて中国 河南省省都 鄭州「テイシュウ Zheng Zhou」のことをこの『花筏』で紹介した。その際、「このまちは、わかりにくい」としるした。
★ 朗文堂好日録011 吃驚仰天 中国西游記Ⅰ 2011.10.04
すなわち、土中から発掘されるふるい商代(前商、前殷とも)の鄭州の文物には「文はあるが、字はない」からである。中国ではわが国でいう「文字」はあまり使われず、「文」と「字」は、それぞれの発祥と意味をもつ。
ここでは「牆・墻」の実物、遺構がたくさんみられる鄭州のことを、あたらしい写真とともに再録したい。
★ ★ ★
《文 ≒ 紋様学、字 ≒ 文字学、あわせて 文字 の研究の旅》
やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。われわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。したがって甲骨文・金文・石鼓文は、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としてのまっとうな扱いはうけずに「文」と表記される。
つまり鄭州の遺跡で発掘される、商(殷)・周時代初期の土器や銅器などにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などは、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。
まして中国では甲骨文 ── くどいようだが甲骨文字ではない ── を大量にのこしたことでしられる《殷》は、本来は《商》と自称した古代国家であった。司馬遷『史記』の殷本紀によれば、湯王が《夏カ》を滅ぼして、紀元前16世紀ころに商王朝を創始し、30代にわたる王をもった。
商は巨大かつ大量な武器や青銅器を製造し、本来錆びに弱いはずの青銅器が3000年余も腐食しないほどの、高度な防錆術(メッキ法。クローム・メッキの一種か?)をもっていた。
また安陽を都とした商代の後半(後商、後殷)となると、甲骨で占いをなし、その占いの結果を「甲骨文」としてのこした。また数頭の馬が牽引する大型戦車も所有していた。ところが紀元前11世紀ころ、殷王・紂(チュウ、辛シンとも)にいたって、周の武王に滅ぼされた。
《殷》とはこの国を滅ぼした《周》が、《商》にかえて意図的に名づけた悪相の字である。また甲骨(甲 ≒ 海亀の腹部、骨 ≒ おもに牛の大腿骨)にのこされた記録は「甲骨文」であって、甲骨文字とはいわない。
殳 ──── シュ、ほこづくり・ほこ・るまた
許慎『説文解字』によれば、「殷」は会意で、字の左の部分(扁とはいわない)は「身」の字の逆形(躰を反対にねじる)である。また「殷」の旁ツクリには「殳シュ」がみられる。
殳とはもともと武器を持つ形を象どったもので、『部首がわかる字源字典』(新井重良、2007、木耳社)をみても、この殳を旁にもつ字には、「殺・殴・殻」など、あまり良相とはいえない字がならぶ。殷もそのひとつの例としてあげられる。
やつがれ、2011年09月の中旬、ひさしぶりの中国旅行とは、結局のところ「文+字の旅」となったが、いままで報告されなかったり、ほとんど報告がなかった各地の碑林・碑坊、字発祥の地、墓所、博物館などを訪ねることができた。
河南省の省都「鄭州 Zheng Zhou」は、中原を東流する黄河の南岸に位置し、東は開封市、西は洛陽市、北は新郷市、南は許昌市と接する。人口はおよそ750万人。
この鄭州では、前期の商(前商、前殷)の遺跡を訪ねあるいた。やつがれはこの鄭州城市訪問は3度目だが、ともかくこのまちはわかりにくいとしかいえない。なによりもこのまちでは、つくづく「文」と「字」の違いをおもいしらされるのである。
すなわちこの城市は黄河の南岸にあり、あいついだ黄河の氾濫のために分厚い土中に埋もれているが、城市自体が紀元前3500年ころの遺蹟のうえにあり、前期の商(殷)もここを都とした。
すなわち鄭州城市の地上のあちこちに、いまでもかつての城壁の牆(現代中国では簡体字によって「墻」とする。高い土塁といったらおわかりいただけるだろうか……)がみられるが、それは全体の1/3-1/4ほどの高さでしかなく、ふつうのビルの6-8階分に相当する、峨峨として巨大な「牆」のほとんどは地中ふかくに埋もれている。
そしてこのまちのあちこちから、饕餮文トウテツ-モンを中心とする、「文」をともなった青銅器や陶器が発掘されている。しかしながら「字」は、この前商時代の鄭州の遺蹟からは発見されたという報告はない。
河南省北部の「安陽市 Anyang」は、前述の鄭州から近く、列車かタクシーで日帰りできる。その安陽市北西郊外(俗にいう小屯村)に、紀元前14-11世紀に商(後商・後殷)が鄭州から移動して都をおいた。ここでは甲骨文発見地たる王城域、歴代の王の墓域-王陵域、そして安陽駅に隣接して新設成った《文字博物館》を訪ねた。
繰りかえすが、ここは《文 ≒ 紋学、字 ≒ 字学、あわせて、文字の博物館》である。
活字キッズやモジモジ狂は、はじき飛ばされること必定の施設であった。
上掲の写真は、すべて鄭州市内のものである。このまちのあちこちで商代の「牆」や、あるいはのちに興亡をくりかえした各王朝も、ここを都としたり、主要都市として「將・墻」を築いたために、幾重にもかさなった「牆」がある。その一部は石積やコンクリートで補強されているが、ほとんどは地中に没し、わずかに地上にでている原型のままの「牆」がみられる。
「牆」の一部は公園化されている。昇ってみると遊歩道のように整備されていて、わが国の「スーパー堤防」ほどの広さがあるが、高さはかなり高い。
また一部の「牆」は、景観保存のために、古代からの版築法によって復元されていたりする。こういう情景を考古学者は「鄭州商代牆(墻)曝露地」とよんでいる。
後半に紹介した「河南省文物考古研究所」(所長・王 潤杰 オウ ジュンケツ)は、まさしくそうした「鄭州商代牆曝露地」の一画をおおい占めた建物のなかにある。
所内の展示場には王 潤杰氏が多年にわたって発掘してきた石器・土器・青銅器などがならぶが、そこにはさまざまな意味を内包した「文 ≒ 紋様」はみられるが、後代のものをのぞいて「字」をみることはない。
河南省文物考古研究所の扁額や図録の題字は 郭沫惹(カクマツジャク 1892-1978)氏の筆になるものである。郭沫惹氏は中国の文学者・政治家で、毛沢東の信任があつく、ながらく中日友好協会会長をつとめた人物である。
その業績と評価は、文化大革命時代の行蔵もあって多様にわたるが、「甲骨学」の研究者としての評価はゆるがないものがある。
甲骨文を研究する学問を、中国では「甲骨学」とし、その著名な開拓者の4名を「四堂一宣」シドウイッセン とよんで尊敬している。四堂とは、羅 振玉/雪堂、王 国維/観堂、董作賓/彦堂、郭沫惹/鼎堂であり、一宣とは、胡厚宣のことである。
わが国ではあまり知られていないが、「甲骨学 四堂一宣」の大家、郭沫惹が書した「殷虚」は、悪相とされる漢の字の形象・字画を巧妙にさけて、ご覧のような「好字、好相の字」におきかえている。ところがこれらの「好字、好相の字」は、残念ながらあたらしいメディア上では表示できない。
うんちくが長くなった。整理しよう。
あまりの香りのよさに誘われて、佛さまや修行僧が、寺院の石や土で築いた細長いへいの「牆」に跳びあがって、舞い踊りながらやってくるほどおいしい料理です。
《佛跳牆の味自慢が、ノー学部にはよほど羨ましかったらしい》
佛跳牆 ブッチョウショウ をはじめて食したのは、10年ほどまえに 林 昆範 リン クンファンさんの兄弟と、台北の湖南省料理のレストランで、忘れられない味の料理をご馳走になったのが最初である。
林さんの一家は優秀で、父親は「中醫學博士」で、弟さんはアメリカで近代医学の「医学博士」号を取得していて、当時はそのレストランからほど近い病院の勤務医だった。当時の林昆範さんは、まだ日本大学藝術学部大学院で、博士号取得のために研鑽中であった。
「佛跳牆」はスープの部の順番にでてきた。
「この料理は、もともとは福建省や広東省や湖南省あたりのお祝いの料理で、1月1日の中華民国開国記念日、2月10日頃の春節(旧正月)、清明節、端午節、中秋節などに、一族が寄り集まってたべるものでした。佛跳牆には、あわび、フカヒレ、乾燥ナマコ、マツタケなどの乾燥食材のほかに、高級漢方薬の 冬中夏草トウチュウカソウ などもはいっていて、喘息や気管支炎に有効です。またコラーゲンがたくさん含まれていますから、老化防止や、女性の美肌効果がおおいにあります」
漢族には古来医食同源とするならいがある。いわゆる漢方医薬師、中醫學博士の家にうまれた林さんの弟、近代医学博士のありがたい解説のあとで食した「佛跳牆」は、蓋つきのスープ皿で、上品に(少量が)供されたが、それはそれは、芳ばしく、美味しく、忘れがたいものだった。
それでもその湖南省料理店は相当の格式で、ご馳走になったとはいえ、メニューでチラッと「佛跳牆」などの価格を見てしまった。つまりかなり高額の支払いが予測された。
「このレストランの予約も支払いも弟がしましたから。弟は医者で、収入も多いから気にしないで」
林さんの兄は最初にそういった。林さんの弟はうなずいていた。そういうものらしい ? ……。
ついでながら、中国でも台湾でも、ほとんど「割り勘」という習慣はない。
そんな「佛跳牆」の忘れがたい味を、しばしばグルメ大好きのノー学部にはなしたおぼえがある。
いまにしておもえば迂闊であり、無警戒だったが、急遽今回の台湾再訪が決まったとき、いつのまにか呆れるほど、徹底的に調査してあった「佛跳牆関連資料」のコピーをもちだして、台北市中山北路二段137巷18號の「明福餐廳 メイフクサンチョウ」にどうしてもいきたいといいはった。
しかもあちこちに@メールを送りつけて、強引に予約を取りつけていた。だからこうして、林昆範さんともどもここにいる。
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「明福餐廳」の外観は、まったくどうということなない、ふつうの大衆中国料理店にみえた。
しかしここには、台北では著名で頑固な店主 兼 調理人、阿 明 師(阿は名の前につける尊敬と親愛をこめていう愛称、師はここではシェフ。阿 明 師は台湾では一流シェフとして著名だという)がいて、店舗の改装や拡張はほとんどしないが、政官財の著名人がひそかに通う店とされる。
なかでも 元 中華民国総統・陳水扁氏 のお気に入りの店としてしられ、昼間の時間帯は地元客が多いと聞いたし、店内にも陳水扁 チン スイヘン 氏の写真と書額が飾られていた。
また日本の美食家、とりわけ女性のあいだでは「明福餐廳」の名前はつとに知られていたらしい。もちろん狙いは「美肌効果 !!」。
ともかく女性の美にたいするあくなき執着には、男どもは畏れいるしかなし、触らぬ神にたたり無しとおもったほうがよい。
また口のおごった日本のタレントなども相当押しかけているようだった。だから 渡辺満里奈、志村けん、お笑いトリオ・ネプチューン、研ナオコ ら、日本の芸能人の写真がさりげなく置いてあったりする。
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まだ夕方もはやいというのに、「明福餐廳」の店内は、香港からの団体客30名余と、テーブル席に12名の団体、そしてわれらが一行、林昆範さん、ノー学部、やつがれの3名でいっぱい。
別にコース料理を取ったわけではないが、ノー学部情報で次次と(勝手に)料理を注文した。
前菜ででたのが、台湾の高山地帯 花蓮 で採れるという 山菜「山蘇 サンソ」をサッと油通ししたもの。「山蘇」の見ためはワラビのような山菜だが、ぬるぬるしていながら、シャキシャキした歯ごたえがたまらない。これもはもうひと皿追加注文した。
一の皿という感じて供されたのが「とこぶしとマヨネーズ あぶり焼き」。
台湾マヨネーズと、とこぶしの取り合わせの旨さがグッとくる。焼き加減も、店頭の水槽で活きているとこぶしの鮮度をいかしたもので、その癖のない味つけに、やつがれ、いつのまにか「これは、すこし違うぞ !!」と、椅子に深深と座りなおして身構えることになった。
悪い癖で、料理の合間にときおり店外にでてベンチで喫煙していたが、その折りにみかけた光景は、最低でも四組30名ほどの団体客が「明福餐廳」押しかけ、いずれも予約外ということで、すげなく門前払いを喰らっていた。これには呆れるというか、おそれいってしまった。
二の皿。「紅蟳 コウジン 炒飯」── コレハ コレハ。おもわずホッコリした。
あまりひとにかたりたくない味だ。つまりひとには秘密にしておきたい、癖になる味だ。
ひごろ衣食住に関心が無いとうそぶくやつがれは、海底を徘徊する、エビ、カニのたぐいは苦手とするが、これには一本とられた気分。もちろん美食できこえた清朝の西太后でさえ、おそらくびっくりの旨さ(チト大仰かな?)。
ともかく、これでもかというまでに、ご飯にたっぷりまぶされたカニのたまごと、ほんの少量の油で炒めたこの炒飯は、はるかに炒飯のカテゴリーを超越していた。
なにぶん店頭の水槽で活かされているカニをたっぷり使うので、荒天がつづいて出漁できなかったあとや、注文が集中したら、すぐにオーダーストップだそうである。だから値段は「時価」。
もっとも「明福餐廳」の「時価」はリーズナブルな価格で、さほど驚くようなものでは無い。むしろどこぞの国の鮨屋の「時価」のほうがよほどおそろしい。
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ここまでしるしてきたら、もはや「佛跳牆」のことをかたる勇気が失せてきた。ここまで繊細で芳香に満ちており、上等な料理をかたる資格はやつがれにはない。
やつがれは、料理とは、ただの料理であり、命をつなぐためにあるものだとおもっている。つまり敗戦の直後にうまれたやつがれは、飢餓のこわさをおぼろに記憶している。だから料理とは腹が減ったら食べるものだというくらいにおもっている。
いちおうそれが満たされたら、旨いにこしたことはない。つまり料理とは、ただの料理で、せいぜい愉しむくらいでよいとおもっている。それ以上料理に拘泥するのは卑しいことだとおもっていた。
ところがノー学部はもはや陶然としているし、日ごろ冷静沈着な林昆範さんまでが、
「これはおいしいですねぇ~」
と、何杯もおかわりしながら食していた。
こうなると、衣食住にさほどの関心はないなどと、日ごろからうそぶいているやつがれは顔色をうしなう。
しいていえば「明福餐廳」の「佛跳牆」は、ホテルのレストランで供される「佛跳牆」などのように、排骨(豚のリブ)やタロイモを入れて煮込んだ、とろ味のあるスープとは異なり、おもには乾物の、干しあわび、乾したフカヒレ、干しなまこ、ホタテの乾燥貝柱、干し貝各種、干しマツタケ、漢方薬の 冬中夏草トウチュウカソウ などの高級食材を10数種類ももちいて、これらの乾燥食材をまず水にもどしてから、トロ火でたっぷり時間をかけて煮込んで、旨み成分を十分にとりだしたものらしい。もちろん、価格はリーズナブルであった。
したがってコラーゲン独特の粘りはあるが、ゆたかな香りと、清よらかに澄んだスープは、あっさりとして、筆舌につくせぬうまみがあった。
提供された「佛跳牆」はもちろん事前にノー学部が予約しておいたものだったが、料理の最後のほうに、ド~ンと大きな壺に入ってでてきた。
最少のサイズで注文したというが、どうみても5-6人用で、それまでにさんざん料理を食べまくってきた3人で食すにはいかにも多かった。それでも何杯もおかわりして、あらかた壺の底がみえるまで食べまくった。
そうこうしているうちに、いつのまにか隣席の香港チャイニーズの皆さんともうち解けて「ドゥ ── 日本のVサインにかえて、親指を突きだして ドゥ という」のエール交換。
こうして台湾の夜を「明福餐廳」で、こころゆくまで満喫したのであった。
《ホテルは近代的だったが、窓があかないことと、禁煙強制で、すっかりまいった》
今回のホテルは「台北 美麗信花園酒店 Miramar Garden Taipei」。前回宿泊した「圓山大飯店」とちがって、市民大道三段83號と、まちなかの高層近代ホテルだった。ところが近代高層建築にありがちの、窓がすべてはめ殺しになっていて開けることができなかった。
当然ながら、ロビー、カフェはもとより、全館全室全面禁煙。たばこ税高額納税者の愛煙家を、かくまで虐めて、なにがおもしろいのかとおもうのだが……。
それでもホテルの外に、お情けのように灰皿をひとつだけポツンとおいてあって、そこで喫煙が可能だった。みんなが寝静まってからも、ここだけは深夜まで賑わっていた。もちろんやつがれもしばしばここを訪れた。というより、ここの常連だった。
ちょいとまいったのは窓がまったく開かないこと。別に閉所恐怖症ではないが、近ごろの高層オフィスビルでは会議中に酸欠状態を感ずることもある。こういう高層ビルの、空気が循環するだけのエアコンで馴致されていたら、おそらく長寿は望めないとおもうほどである。
だから部屋はそこそこ広かったが、ともかく息苦しくて寝付きが悪かった。やはり次回の台北行きは「圓山大飯店」がいいとおもう。窓とは、ひろびろと開けはなってこそ窓であるから。
★ 朗文堂好日録-025
台湾の活版印刷と活字鋳造 日星鋳字行 +台湾グルメ、圓山大飯店、台湾夜市、飲茶
台湾大学、台湾工業大学、日星鋳字行、それに前回は資金不足で買えなかった図書をもとめて「古今書廊二手書店」などにもいったが、ここでは仕事の報告を含めてすべて割愛。
食の繊細さに、この歳になってようやくめざめたやつがれである。ここはともかく意地でもグルメ紹介に徹したい。
ふつう、旅先での朝食は、ホテルで摂るほうがなにかと無難だが、なにせノー学部は、スケジュールのエクセル・プリントに空白部があると気に入らないらしい。そこですこしホテルの近くを散策してから、まちの中心部の「鼎泰豊本店 ディンタイフォン」の軽食をとることになっていた。
ホテルを出ると、すぐ隣がひろい空き地になっていたが、そこにパパイヤの木がたくさん実をつけていた。やはり台湾は南国だなぁ、と感心しながら歩いていたら(内心は、ここは空き地だし、採って喰いたいとおもういじましさ)、チョット面白い看板「日式鍋料理 涮涮鍋」を発見した。
台湾では「日式」というと日本風ということになるが、台北のまちに写真のような「日式鍋料理 涮涮鍋」のお店があった。 林 昆範 さんの解説によると、
「涮涮鍋はシュワンシュワン-グヮ といいます。みんなが涮涮鍋は日本の料理だと知っていますし、ここは人気のある、しゃぶしゃぶ料理のチェーン店です。意味からいうと 涮鍋 でもでいいのですが、涮涮 シュワン シュワン と繰りかえすことで、スープのなかで、サッサ、サッサと肉をゆする行為をうまくあらわしていますね。
台湾には似たような鍋料理に、涮羊肉 サンヨウニク, シュワン-ヤン-ロウ, shuàn yáng ròu という、蒙古族の民族料理、羊の肉の火鍋料理もありますから、蒙古族や女真(満州)族の料理が日本にわたって変化したものかもしれません」
どうやらあまりみかけない字「涮」がキーワードのようなので、帰国後に調べてみた。
涮 JIS 第4水準 画区点 2-78-66、U+6DAE
漢字音読み:サン、セン、セツ、セチ。 和訓読み:なし
[説文解字風にまとめてみた]
許慎六書の法でいう会意を3回繰りかえした字。
「氵」は水(ここではスープ、だし汁)をあらわす。
「刷」はサッとこすり取るが原義。はく、清める、サッとなでてゴミを取りさる。する「印刷」
左側は「尸シリ+布ヌノ」の会意の字で、人が布でお尻の汚れを拭きとる意をしめす。
刷はそれに刀をくわえた字で、刀のような細長いもので、サッと汚れをこすりとる意。
────
ところでわが国の肉の鍋料理「しゃぶしゃぶ」の起源は意外にあたらしく、1952年(昭和27年)に大阪のスエヒロが、自店の料理に「しゃぶしゃぶ」と命名したものがはじまりとされている。
同店では1955年(昭和30)に「しゃぶしゃぶ」ではなく「肉のしゃぶしゃぶ」の名で商標登録をしているが、ここでも「しゃぶしゃぶ」はひら仮名であらわされている。
もし「涮涮」の名前で商法登録したら、ここまでの定着をみなかったかもしれない。それよりなにより、役所が「涮涮」の漢字登録を受けつけてくれなかったかもしれない。
《ついでに……、スキヤキの漢字表記》
2012年12月22日[土]新宿私塾第21期生 懇親忘年会が開催された。
例年12月の声をきくと、あちこちで新宿私塾修了生が、同期ごとに懇親会を兼ねた忘年会を開催しているようだ。それぞれの期ごとに幹事が工夫して、安く、楽しく、お酒もたくさん呑める会場をさがしての開催である。
★ 新宿私塾忘年会 +涮涮ってなに? スキヤキの漢字は?
おおむね女性が幹事だと、しゃれた、グルメ調の洋風の店になり、男性が幹事だと、大衆居酒屋のようなところになるようである。
新宿私塾第21期生の「懇親忘年会」は、ビルのなかにある、清潔でおしゃれなお店であったが、やつがれも招かれて参加した。料理の中心は「スキヤキ風しゃぶしゃぶ」(写真:町田さん提供)。
宴たけなわ、お酒もだいぶまわってきたころに、チョイと意地悪な質問をした。
「このコースターの裏に、スキヤキ を漢字で書いてください!」
「え~ぇ、スキヤキに漢字なんてあるんですか~?」
とワイワイガヤガヤやって、できたのが下の図版である。残念ながら全員アウト!
牛・鶏肉などに、ネギ・焼き豆腐などを添えて、鉄鍋で煮焼きしたもの。
明治維新の前、まだ獣肉食が敬遠されていたころ、屋外で鋤スキの上に獣肉をのせ、焼いて食べたからとされる。また肉をすき身(薄切り)にしたからともいう。〔広辞苑〕
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《行列をし、開店をまって飛びこんだが、すぐに満員となるほどの人気店だった》
「鼎泰豊本店 ディンタイフォン」は飲茶ヤムチャが中心の店で、そんなに早くから開店するお店ではない。それでも遅い朝食を摂ろうと、大安区信義路二段194號の本店前についたとき、すでに客の行列がはじまっており、店舗の脇では多くの支店へ食材を配送するための軽トラックが次次と横着けされていた。ノー学部にいわせると、
「ここは支店がいくつかあるけど、やはり本店がいちばん美味しいらしい」
とのことである。ちなみに、このお店はなんと、新宿髙島屋にも支店があるそうだ。
ところでノー学部。写真の小籠包ショウロンポウのような「ゆるキャラ」が大好きときている。だから行列にならぶのをやつがれに押しつけて、こんな妙なゆるキャラの撮影に夢中なのだから、まったくもって嫌になる。
かつて滋賀県の彦根城にいったときも、やつがれはわけもわからず「ひこにゃん」なるものの、ながい列にならばされた。
ところが彦根市の「ひこにゃん」ですっかりゆるキャラに目覚めてしまったやつがれ、
「この小籠包の、ぽっちゃり旨そうなキャラクターもいいなぁ」
と、アホ面をさらして眺めていたのだから、なにもいえない。
だいぶ歩いてくたぶれていたし、おまけに行列にまでならばされて不機嫌になっていたが「鼎泰豊 ディンタイフォン」に入って、まず前菜ででてきた料理 ── クラゲとなにかの食材をいためたものか ── が出たとたん、すっかり機嫌がなおった。さっぱりしていて旨かったのだ。
やがて「鼎泰豊」自慢の小籠包がでてきた。アチチ、アチチといいながら、ジューシーな味わいの小籠包のとりこになる。ともかく皮が薄く、それでいて破れず、とろけるような味といったら「鼎泰豊」の人気のほどがおわかりいただけようか。
そしてエビ焼売シュウマイ。もともとやつがれは焼売が好きだが、ここの焼売は小籠包に似てジューシーな味わい。
ウ~ン、真っ昼間から飲茶でこんなに食べまくっていては確実に太るなぁ。でも旨いんだから、まぁしょうがないか……。
《林東芳牛肉麺を食し、遼寧夜市を散策》
あまり詮索することが得意でないやつがれも、この頃になると、ノー学部はどうして今回のホテルを、さしたる特徴もない「台北 美麗信花園酒店 Miramar Garden Taipei」に決めたのか察しがついてきた。すなわち、このホテルはどこのグルメ拠点からも近いのである。
このように呆れるしかないが、ノー学部は5,000年におよぶ中華文化の深淵をさぐるために、あえていえば食文化 !? からの視点でみることが中心となっているようである。
ホテルから徒歩圏内、500メートルほどのところに「林東芳牛肉麺 リンドウハン ニュウロウメン」がある。「牛肉麺」とは、わが国のラーメンにも似て、台湾のひとが好んで食する大衆食品である。
ラーメンに豚肉をトッピングに加えたチャ-シュウ麺があるが、あれをたっぷりの牛すじ肉の煮込みでつくったとおもえば近いかもしれない。
「林東芳牛肉麺」の店舗はとても狭く、しかも一軒だけほかの店を夾んで、ちいさな二店舗が並んでいる。だから客は店頭にたっている小娘シャオジェの指示で、左右どちらかの空いた店に入るが、タクシードライバーなども立ち寄る、安くて、早くて、おいしい人気店である。
つまり大衆食堂だが、最近は日本人観光客にも人気があって、なかなか店内には入れないほどの活況を呈していた。
ここはチト狭くて慌ただしかったが、ディッシュ ? の牛肉麺の前菜としてとった「小皿」が、どれも質・量・味の三拍子がそろっておいしかった。
おもうに、近ごろのわが国の奇妙な「ラーメン文化」をかたり、行列に連なるやからなぞは赤面してしまうかもしれない。つまりラーメン一杯だけで1,000円余も支払い、咥え楊枝でのれんからでてくる、オヤジやオヤジギャルの姿なぞはあまりみたくない。
ちょっとスパイシーな牛肉麺を楽しんだあとは、腹ごなしのために「遼寧リョウネイ夜市」をブラブラあるいてホテルまで戻った。
きょうもよく食べた。まぁ食欲は健康の印、食もまた文化なりということにして、タバコも我慢して寝てしまおう。
《とどめとして、帰国前の朝の朝食に、台湾おかゆの人気店にいった》
明日は帰国という前夜に、ノー学部がのたもうた。
「明日の朝は6時に起きてください。朝ご飯を忠孝東路一段108號の 阜杭豆漿 フーハン ドゥジャンのおかゆを食べにいきます。朝5時半からの開店だそうで、ものすごく混むようですから早くにいきます。ホテルから近いので、歩いていけます」
中国や台湾では、朝食に外食、それもおかゆ料理を摂ることが多い。「阜杭豆漿」は華山市場ビルの2階にある地元客相手の店だったが、最近では評判店として観光客も押しかけて、えらい人気になっている店だそうである。
地図でみるとさほどの距離にみえなかったが、「阜杭豆漿」までは徒歩だと30分以上かかり、店に着いたときは、それこそ階段から店外にまで行列が伸びていた。店内はひろくて清潔で、オープンキッチンでは観光客が撮影に夢中になっていた。
地元客は自宅に持ち帰って食べるひとのほうが多い。観光客は1-2割弱かとおもえたが、おおかた写真のような品をオーダーしていた(ここまで多くはないが……)。
やつがれは、これが最後とばかり、豆乳粥にパンとごま団子まで摂って朝から大満足。
このあと荷物をまとめて、あわただしく空港に駆けつけて帰国した次第である。
明日からはまた、東京でのあわただしい毎日がまっている。