細 谷 敏 治(ホソヤ-トシハル 1913年[大正2年]11月5日-)
印刷人・活字人。1913年(大正2)11月5日、山形県西村山郡河北町谷地うまれ。
河北町谷地小学校より寒河江サガエ中学校(旧制)を経て、東京高等工芸学校印刷工芸科卒。
株式会社三省堂に技師として入社。活字版製版部門を担当し、研究室でおもに活字製版(組版)と、1939年(昭和14)から機械式活字父型・母型彫刻機(いわゆるベントン)をもちいた活字父型・活字母型製造の研究に励む。
第二次世界大戦の終結ののち、1947年(昭和22)から株式会社三省堂が所有していた米国製ベントンの国産化(津上製作所・のちに不二越製作所も参入)と、1948年(昭和23)に国産機が発売されると、その操作法の指導にあたり、杉本幸治らとともにひろく業界に貢献した。
1953年(昭和28)長年の研究が結実して、「活字パンチ母型製造法」を考案発明して、株式会社三省堂の関連会社として「日本マトリックス株式会社」を千代田区神田三崎町2-44に設立、代表取締役に就任。
その後「打ち込み式活字母型の製造法」「モノタイプ活字母型[和文]の製造法」「組み合わせ活字父型の製造法」ほか5件の特許権を取得。
のち株式会社三省堂の会社更生法適用を機に、「国際母型株式会社」を設立して代表取締役に就任。1972年(昭和47)「焼結法による活字父型」を考案開発し「新パンチ母型製造法」を確立。新聞社などの活字母型の損耗が激しい活字母型の供給に尽力した。
元印刷学会会員。著書『母型』。『アステ』(加藤美方編 リョービ印刷機販売 No.5 1987)に、細谷敏治による実用新案「パンチ母型」の紹介が詳しい。
細谷敏治氏 42歳の写真(『日本印刷人名鑑』日本印刷新聞社 昭和30年11月5日)
機械式活字母型彫刻機 国産1号機[第1ロット]の傍らに立つ細谷敏治氏
三省堂時代の後輩・杉本幸治氏(右)とともに
杉本幸治は完成した「杉明朝体」の資料をみせに細谷敏治氏のもとに出向いた。
杉本幸治はこの7日後、2011年03月13日逝去。これがふたりの永遠の別れとなった。
(杉本幸弘氏撮影 2011年2月6日)
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《現役のタイポグラファと細谷敏治翁を訪問――前回の訪問記より》
敗戦後の金属活字復興と、細谷敏治氏のことは、この『花筏』でも何度かふれてきた。
◉ 朗文堂-好日録 010 ひこにゃん、彦根城、羽原肅郎氏、細谷敏治翁 2011年08月27日
◉ タイポグラファ群像*002 杉本幸治氏 三回忌にあたって再掲載 2013年03月13日
わが「空中庭園」にも、蝶や蜂がしばしば訪れるようになったのは、2011年08月の中旬、甲子園野球が決勝戦を迎えようかというころだっった。お盆の4日だけの休暇で、ノー学部が帰郷したのをさいわい、高校野球の観戦もせず、08月14日[日]だけ、爆睡、また爆睡を決め込んだ。時折目覚めてカフェに行き、珈琲一杯とサンドイッチを食してまた爆睡。
そうしたら疲労がいっきに回復して、かねて気にしていた、大先輩の訪問をおもいたって、相手の迷惑もかんがえず、勝手に08月15日[月]に押しかけた。
『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社 昭和30年11月5日)
九段下で乗り換えて、多摩プラーザに「活字界の最長老・細谷敏治翁」を訪ねる。
細谷翁は90を過ぎてなお、車の運転をして周囲をハラハラさせたが、現在御歳98歳、やつがれとの年齢差33歳。
さすがに車の運転こそやめたが、耳は特発性難聴を患ったやつがれよりは、はるかに確かだし、視力も相当なもの。しかもシャカシャカと歩いて元気そのものなのである。くどいようだが98歳!
また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社が保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。それに際しては、同社の独自技術の「新パンチ母型製造法」がひとりあるきして、「パンチ母型」なる細谷造語が誕生した。
今回は、その細谷翁直直の「特別個人講義」を受講した。資料もきっちり整理が行き届いており、「やはり本物はちがうな」という印象をいだいて渋谷に直行。
車中あらためておもう。
「戦前の工芸教育と、戦後教育下における、工業(工業大学・工学部)と、藝術・美術(藝術大学・美術大学・造形大学)に分離してしまった造形界の現状」を……。
すなわちほぼ唯美主義と耽美主義が支配している、現状の「藝術・美術・造形」教育体制のままで、わが国の造形人、なかんずくこれから羽ばたき、造形界に参入しようとする若いひとたちを、これからもまだ市民社会や企業が受け容れるほど寛容なのか、という素朴な疑問である。
『アステ No.5 特集 活字』(1987年、リョービ印刷機販売株式会社)
《現役のタイポグラファと、細谷敏治翁を再訪》
2013年04月13日[土]、タイポグラフィ学会会員の、松尾篤史氏と大石薫をさそって細谷敏治翁を訪問した。また今回もやつがれだけでおはなしを伺うのでは、あまりにもったいないし、難聴気味のやつがれでは、聞き漏らす事柄も多くなったためである。
細谷敏治翁99歳。土曜の昼下がり、孫ほどの年齢差のあるふたりの若者と、翁のはなしがはずんでいた。やつがれは時折タバコ休憩に施設外でながら、次世代のタイポグラファへの知見の継承が順調にすすんでいることを嬉しくおもった。
見本の「焼結法による活字父型」と、細谷翁の造語による「パンチ母型」(写真上左)をみせていただき、厚かましくもそのひとつをいただいて、若者はさらに細部の話題に踏みこんでいく。
はなしはどうしても、三省堂/今井直一氏と、後輩だった 杉本幸治氏 のはなしが中心となる。ここにはまだ記録できない事柄も多いのが残念ではあるが、敗戦後の活字の復興とは、なにわともあれ急がれ、それだけにさまざまな企業や個人の思惑が渦巻いていたようである。
細谷翁は健脚で、いまも聖路加病院まで通院し、またときおり近在のコンビニにひとりで出かけるそうである。
「コンビニにいかれて、なにをお買いになるんでしょうか?」
「いやぁ、ときどきちょっと、コレを買いにネ」
翁はオチョコを口に運ぶ手つきをした。一同仰天した。
「辛いのものだけでなく、甘いものも好きでね。ともかくコンビニは便利ですよ」
細谷敏治翁、99歳。まだまだ追加項目が発生しそうな勢いである。