月別アーカイブ: 2013年7月

タイポグラフィ あのねのね*020 活字列見 or 並び線見

【初掲載:2013年07月07日 改訂版:2013年07月20日掲載】

《きっかけは2011年12月をもって第一線を退いた 長瀬欄罫製作所 の提供の品であった》
2011年、あのおおきな地震と、原子力発電所の大事故が03月11日に発生した年であった。
東京都文京区関口にあった「長瀬欄罫ランケイ製作所」が、設備の老朽化と、経営者と従業員の高齢化、後継者不在のために、2011年の年末をもって閉鎖することが夏頃から書状をもって公表されていた。

長瀬欄罫製作所 第二代/長瀬 慶雄ナガセ-ヨシオ(昭和17年/1942年/8月8日 東京うまれ)とやつがれとは、ほぼ同世代であり、ながいつきあいになる。
長瀬欄罫は戦前は文字どおり活版印刷用の「欄罫製造業者」であった。戦後は大日本印刷の外注企業として、おもにページ物に使用する金属インテルや、日本語モノタイプ(自動活字鋳植機、通称:小池式 KMT 邦文活字自動鋳植機)をもちいて、各社に本文用活字を供給していた。

長瀬慶雄氏は、親子二代にわたって長年使用してきた「インテル鋳造機、欄罫鋳造機、KMT邦文活字自動鋳植機」などの廃棄をきめていたが、やはり長年にわたって愛用してきた機器に愛着があり、無償でよいからと、継続して使用する業者に譲渡される方途を探っていた。
やつがれも、友人・知人をあげて引き受け手を探したが、活版印刷関連業者はどこも現状維持が精一杯で、まして大地震と大事故のあとのことでもあり、無償でもこれらの大型機器の引き取り手は無かった。
────────
ところが暮れも押し詰まった2011年12月24日に、台湾の「日星鋳字行」という活字版製造所が、インテル鋳造機の引き取りに名乗りをあげて来日された。
12月24日とはクリスマス・イヴであった。
どうしても年内いっぱいには工場を閉めたいという、長瀬さんのつよいご希望があり、あわただしく「乙仲業者」を起用して、台湾にむけてインテル鋳造機を梱包発送できたのは、2011年12月29日というギリギリの日程であった。

台湾・日星鋳字行にもありました! このちいさな器具が。
「やつがれ-これをナント呼んで、ナニに使っていますか」
「張介冠チョウカイカン代表-名前は知らないけど、欧文活字を鋳込むとき、ベースラインを見本活字とあわせるのに必ずつかっています」
「やつがれ-なるほど、日本とほとんど同じですね」
「柯 志杰カシケツさん-そうか、知らなかったなぁ」
【参考資料:朗文堂-好日録019 活版カレッジ台湾旅行 新活字母型製造法を日星鋳字行でみる 2012年10月22日

大型機器が搬出された工場内は、ガランとした空間になったが、そこに前から気になっていた、ちいさな「器具や道具」が数個のこされていた。長瀬氏も「欧文活字の検査に使っていた」とされたが、名前は忘れたということであった。
「あした産業廃棄物業者がきて、全~部持っていくから、それはあげるよ」
ということで、その「器具」をいただいて、あわただしい師走の街並みをぬって帰ってきた。
【参考資料:タイポグラファ群像*005 長瀬欄罫製作所/小池製作所を記録する
───────
年が明けて、名前が分からないままというのも落ち着かない気分だったので、年始の挨拶などの会話で、この「道具」の名前の取材からはじめた。
その記録は、
タイポグラフィ あのねのね*016 これはナニ?  2012年02月23日
タイポグラフィ あのねのね*018 2012年03月13日
の2回にわたって『花筏』に発表した。掲載記事にリンクするとともに、要点だけを以下に挙げた。

タイポグラフィ あのねのね*016 要旨

これはナニ? なんと呼んでいますか? 
活版関連業者からお譲りいただきました。

◎  元・岩田母型製造所、高内  一ハジメ氏より電話録取。(2012年01月04日)
   《版見》と書いて《はんみ》と呼んでいました。
◎ 築地活字 平工希一氏談。(2012年01月10日)
   ふつうは「はんめ」と呼んでいます。漢字はわかりません。
   ひとに聞かれると「活字の高さを見る道具」だと説明しています。

◎  匿名希望 ある活字店談。(2012年02月02日)
   うちでは「はんめんみ」と呼んでいます。
   漢字は不確かながら「版面見」ではないかとおもいます。
◎ 精興社 小山成一氏より@メール(2012年02月15日)
   小社では《ハンミ》と呼んでいたようですが、元鋳造課長の75歳男に訊いたところ、
   判面(はんめん)と呼んでいたとのことでした。
────────

タイポグラフィ あのねのね*018 要旨

Type Inspection Tools   活字鋳造検査器具 

Type Lining Tester  活字列見

《これはナニ? なんと呼んでいますか?  タイポグラフィ あのねのね*016での問題提起》
2012年2月23日、タイポグラフィ あのねのね*016 において、下掲の写真を紹介するとともに、その呼称、役割、使途などを調査する一環として、金属活字鋳造、活字版印刷関連業者からのアンケートをしるした。 
その問題提起とアンケート結果は、上記アドレスにリンクしてあるので、まだ前回資料を未見のかたは、ご面倒でも事前にご覧いただきたい。

簡略なアンケートながら、このちいさな器具の呼称は、
「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」
などと、活字鋳造業者、活版印刷業者のあいだでは様様に呼ばれていたことがわかった。
140年余の歴史を有するわが国の近代活字版印刷術 タイポグラフィ と、活字鋳造業界には、じつに多様な業界用語があり、それがしばしば訛ってもちいられたり、省略されてもちいられることが多い。まして金属活字鋳造業界はながい衰退期にあるため、情報の断絶がしばしばみられるのがつねである。

『VIVA!! カッパン♥』(アダナプレス倶楽部・大石薫、朗文堂)は、「活版印刷の入門書」とされるが、大半を活版印刷に使用する(された)機器の紹介が占めている。あらたな事象を知るためには、迂遠なようでも、まず関連機器の正式な名称とその役割を知ることがたいせつと信じてのことであった。

またその使途・用途は、アンケート結果をみると大同小異で、ほとんどが、
「活字の高さを調べる器具」
「活字のライン、とりわけ欧文のベースラインの揃いを確認する器具」
との回答をえた。
現在の電子活字、とりわけその主流を占めるアドビ社の「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」においては、ベース・ラインの設定は、全角 em を1,000としたとき、120/1000の位置に設定されている。欧文活字設計、欧文組版設計において、もっとも重視される基準線がベース・ラインであることは、昔も今もなんら変化がない。
そしていまや、和文電子活字、和文電子組版でさえ「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」が主流となったため、ベース・ラインはより一層その重要性をたかめている。

わが国の金属活字の時代も、当然ベース・ラインの揃いは重視され、すくなくとも『活字と機械』に紹介された図版をみると、1914年(大正3)には使用されていたことがあきらかになった。
しかしながら、拡大鏡をもちいるとはいえ、この簡便な器具での視覚検査だけではおのずと限界がある。したがって相当以前から、このほかにも「顕微鏡型」とされる、より正確な、各種の活字鋳造検査器具が開発され、また鋳造現場での創意・工夫がなされ、随所にもちいられていた。
そのひとつは「ライン顕微鏡 Lining microscope」とされ、アダナプレス倶楽部が所有している。

  

《文献にみる、この器具の資料》
まだ精査を終えたとはいえないが、この器具はいまのところ外国文献には紹介を見ていない。しかし過去の例からいって、本格的に写真図版を紹介すると、やがて資料の提供があちこちからあるものと楽観している。
またのちほど紹介する、インチ目盛りのついた類似器具が、かつて学術書組版のために、欧文自動活字鋳植機(いわゆる欧文モノタイプ)を使用していた、新宿区内の企業から発見されている。いずれ外国文献の報告はあるものと期待をこめてみていたい。

わが国の資料では、『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)の各章の扉ページ(本書にページ番号は無い。電気銅版とみられる同一図版が6ヶ所にもちいられている)にもちいられたカット(イラスト)の左上部、上から二番目に類似の器具が図版紹介されている。
今回の調査をもって、この図版にみる12点の器具すべての呼称と役割が判明した。それだけでなく、ここにある12点の器具は、すべて朗文堂アダナ・プレス倶楽部が所有し、いまもってほとんどの道具や器具を使用している。すなわちわが国の活字印刷術とは、おおむね明治末期から大正初期に完成期を迎えていたとみなすことが可能である。
 
       

上左:『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)表紙には損傷が多く、若干補修した。本書にはページナンバーの記載は無い。
上右:『活字と機械』扉ページ。外周のイラストは電気銅版(電気版、電胎版とも)とみられ、外周部の同一の絵柄が、都合6ヶ所にもちいられている。

『活字と機械』扉ページより、左上部2番目の器具を拡大紹介した。この時点ではまだ正式呼称はわからなかった。主要素材は銅製で、下のネジを回すと、手前の鉄片が上下する仕組みになっている。取っ手にみえる円形の輪は、この鉄片の上下動を固定する役割を担っている。

右最下部:「活字ハンドモールド──同社では活字台・活字スタンプ」と呼び、1902年(明治35)12月27日に特許を取得している。

また江川活版製造所創業者、江川次之進が、この簡便な器具を「活字行商」に際してもちいたことが、直系子孫が保存していた掛け軸の絵柄から判明している。2012年05月《活版凸凹フェスタ》にて詳細な発表をした。また近近江川活版製造所に関する論文発表の機会も得たい。

《ついに発見! 晃文堂資料から──LININNG TESTER  列見》
これまでも筆者は、かつて吉田市郎がひきいていた「晃文堂」に関してしばしばふれてきた。
ここでふたたび『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』(株式会社晃文堂 千代田区神田鍛冶町2-18、p.67、1958)を紹介したい。

『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』は、たんなる活字見本帳ではない。活字版印刷術 タイポグラフィを見据えた、総合技芸をサポートする豊富な内容となっている。そのp.67に問題の器具の写真が紹介されている。
左半分は〈INSPECTION TOOLS〉すなわち〈活字鋳造検査器具〉の各種である。
その(A)に LININNG TESTER  列見 と紹介されている。 

左図の中央部に、(A)LINING TESTER  列見が紹介されている。(B)「ライン顕微鏡 Lining microscope」である。この類似機をアダナプレス倶楽部が所有している。

ここにみる機器は製造ラインが破綻したものもあるが、小社をふくめ、いまも活字版印刷所、活字鋳造所などでは現役でつかわれている。アダナ・プレス倶楽部では《活版ルネサンス》などのイベントに際し、陳列・展示、一部は水面下にあった製造ラインを「復活 ルネサンス」させて、製造・販売にあたっているものである。

ようやく晃文堂が提示したこの器具の呼称があきらかにされた。いまならば和製英語としても「ベースライン・テスター」でも良かろうとおもわれるが、前述のようにかつての活字版印刷術の職人は、欧文を横文と呼んで毛嫌いするかたむきがあり、あえて「欧文のベースラインの行の列をみる → 列見」としたようである。
そしてこれが訛って「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」などと呼ばれるようになったものとおもわれた。
────────

 《『印刷事典』第1版と、『印刷事典』第5版の記述の紹介》
「活字列見」は、ご覧のように愛嬌のある姿をしているので、『花筏』での紹介後に人気をあつめたとみられ、何人かのかたが「つぶやき プロフィール・アイコン」などに使用されているらしい。
そんなうわさを聞くと、責任も発生してくるので、晃文堂カタログに紹介された「LINING TESTER  列見」をもとに外国文献にもあたってみた。
図版紹介はないものの、「lining gauge, aligning gauge ; Linienmaß」の名称での説明が関連用語として外国文献にも紹介されていた。

ついで和洋折衷ともいえる『英和  印刷-書誌百科事典』(日本印刷学会、印刷雑誌社、昭和13年1月12日──印刷学会出版部では同書を『印刷事典 第一版』とする)と、『第五版 印刷事典』(日本印刷学会、印刷朝陽会、平成14年1月7日)にあたってみた。

あたりまえといえばそれまでだが、事典や辞書とは、名前から引いて表題語にたどりつくものである。したがって狭隘な自分の経験即だけでかたられたり、業界用語として訛ってもちいている用語では、目的語にたどり着けないことがある。いかに「ウンチク派」とそしられようとも、やはり正式な名前とその機能を知ることは肝要である。
結果は以下にご覧のとおりで、おもわず苦笑するしかなかった。

ついでながら『英和  印刷-書誌百科事典』の刊記(奥付)をご覧いただくとわかるが、同書は1938年(昭和13)という、活版印刷が奈落に突き落とされる寸前の、もっとも高揚期に刊行された書物で、秀英舎から大日本印刷に衣替えした直後、しかも矢野道也、郡山幸夫、川田久長ら、日本印刷学会の創立者たちの名前がしるされている。
とりわけ印刷者として、川田久長の個人名と自宅住所がしるされているのは興味ふかい。また1938年(昭和13)における、活版印刷の和欧混植組版の技倆はかるための、最適の資料ともいえる。



『英和  印刷-書誌百科事典』のp.330から Lining の解説がはじまり、p.332 にいたって図版入りで以下のように解説がなされている。

lining gauge (Linienmass
活字の Line を測定する器具。aligning gauge ともいふ。

図版は、これまで紹介したものより、「榎町のおじいちゃん、小宮山のおじいちゃん」の所蔵品の「モノタイプ・コーポレーションの純正測定器」として紹介したものに近似している。


ついで、『第五版 印刷事典』(日本印刷学会、印刷朝陽会、平成14年1月7日)にあたってみた。同書p.381には、【ならびせん 並び線 (同)ベースライン】の記述に続いて、以下のように図版入りで解説されている。

【ならびせんみ 並び線見  lining gauge, aligning ; Linienmaβ
欧文活字の並び線を測定する器具。(同)版面見、筋見
─────
さて、ここで整理してみよう。
『花筏』での紹介後、あちこちで図版や図像としてご利用いただいたのは嬉しいが、情報の提供はいただけなかった。
できたら過誤のご指摘をふくめて、情報のご提供をいただけたら嬉しい。

◎  『英和  印刷-書誌百科事典』(日本印刷学会、印刷雑誌社、昭和13年1月12日)
    lining gauge (Linienmass
    活字の Line を測定する器具。aligning gauge ともいふ。[図版あり]
◎  『第五版 印刷事典』(日本印刷学会、印刷朝陽会、平成14年1月7日)
    ならびせんみ 並び線見  lining gauge, aligning ; Linienmaβ
    欧文活字の並び線を測定する器具。(同)版面見、筋見[図版あり]
◎ 『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』
  (株式会社晃文堂 千代田区神田鍛冶町2-18、p.67、1958) 
    LINING TESTER  列見[写真図版あり]


◎ まとめ
この器具は、活字鋳造現場、とりわけ欧文活字のベース・ラインの測定・設定にもちいられる。英語では Lining gauge, Aligning, Lining tester などとされ、 ドイツ語では Linienmass とされる。わが国では「並び線見、版面見、筋見、列見」などと呼んだ。

朗文堂-好日録030 漱石公園-夏目漱石終焉の地 漱石山房と、イオキ洋紙店



大きな地図で見る

《夏目漱石 と 方丈記》
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例タメシなし。
世の中にある、人と栖スミカと、またかくのごとし。
                 『方丈記』(鴨  長明、1212年[建暦24]作、1155-1216)

昭和は、もう遠くなったのかも知れない……。
上掲写真はイオキ洋紙店(162-0805 東京都新宿区弁天町111に2011年まで旧在)の、ありし日の姿である。

初代・伊尾喜イオキ氏(名前を失念/のちほど調査記入予定)は、用紙販売業界の大手「大文字洋紙店」から、戦後すぐに暖簾わけのかたちで独立開業して、市谷・榎町・早稲田・江戸川橋など、近在一帯の印刷・出版業者からの信頼をあつめた。
小社は初代・伊尾喜さんの時代から「二十日会ハツカカイ――大正製薬・中外製薬などの紙器印刷会社・西武堂主催の無尽講だった」の会員として親しくおつき合いし、二代・伊尾喜章社長(70歳で退任したが、ふるい顧客は終始アキラさんと呼んだ)とも親しくおつき合いしてきた。小社の印刷用紙も、ながらくこのイオキ洋紙店から購入していた。

印刷とその関連業界とはふしぎな業界で、ふるい体制がそのままのこっている。
とりわけ印刷用紙の製造販売は、明治初期の「洋紙製造」が「国策(国営)」からはじまったという歴史があり、どことなく硬直した上意下達のおもむきがあり、つい最近まで「山陽国策パルプ」などの社名までがのこっていた。
イオキ洋紙店は、出身の「大文字洋紙店」にならって「洋紙」を社名にもちいていた。すなわち「イオキ洋紙店は、印刷・出版用紙を販売していた」ことになるが、ここでの「洋紙と用紙」のつかいわけは厄介であり、しばしば混同・誤用されている。

流通販売経路も古色蒼然としたもので、製造会社 → 代理店 → 府県商フケンショウ → 紙販売店の流通経路は、流通革命といわれた時代を経て、ネット通販全盛のいまなお盤石のようにみえる。
「府県商 フケンショウ」の名は、かつて印刷用紙販売が「統制下」にあり、(都道)府県知事の許認可を必要としたためで、その認可をうけている用紙販売業者を業界用語で「府県商」と呼んだ。
「イオキ洋紙店」も府県商であった。

画材店や文具店などの、少量の用紙を扱う業者は、ふつう「紙販売店」とされる。「紙販売店」は、容易には府県商を飛びこえて、代理店やメーカーから直接に仕入れることはできない仕組(商慣習?)になっている。
これは出版社や印刷会社のほとんども同様で、府県商を飛びこえて、代理店やメーカーとは容易に取引ができない仕組み(商慣習?)がある。
────────
インキにも似たような例がみられる。すなわち「印刷用インキ」は、いまもって、かたくなまでに「印刷用インク」とはいわない !? 
近代活版印刷 ≒ タイポグラフィは、鎖国下にあった江戸期に、オランダから開港地の長崎に、ほそぼそともたらされた。オランダ語では「Inkt  インキ」、英語では「Ink  インク」とされる。

近代医学もほぼ同様に、シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 鎖国下で出身を隠していたが正確にはドイツ人、1796-1866)や、ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)らによってもたらされ、蘭法医学と呼ばれてひろまった。

蘭法医は奇妙な金属製の器具をもちいて、それを消毒と称して熱湯のなかで煮沸シャフツした。それは V 字の形状で、バネ(発条)をそなえていて、「Pincet  ピンセット」というものだと教えられた。
活版印刷でも、活字版組版の結束や、活字の差しかえに際して、やはりピンセットをもちいた。
そのためにピンセットは、長崎の医術用や活版用からはじまり、やがて長崎をでて、各種の小細工にももちいられるようになったが、それでも「ピンセット」と呼ばれてきた。
のちに英語の「Tweezer トゥイーザー」も知ったが、すっかり人口に膾炙カイシャした「ピンセット」の名称は不動にみえる。

ところで「Inkt  インキ」である。「印刷用インキ」業界には「府県商」こそ存在しないが、こちらも印刷用紙と同様に、製造会社 → 代理店 → インキ販売店の流通販売経路が厳然として存在する。
1970年代からつづく活版印刷業務の衰退にともなって、活版印刷用インキの販売にあたっていた「活版印刷資材販売業」は、ほぼすべての企業が「オフセット平版印刷資材販売業」などに転廃業をしている。
それでもまだまだ印刷業界では「インクよりインキ」が優勢であるが、「インクジェット」などのあたらしい機器が登場するにおよび、次第に頑固頑迷な業界でも「インキ → インク」への転換もみられる昨今である。

「活版ルネサンス」を標榜し、あたらしい活版造形者とともに活版印刷を継承していこうとする朗文堂 アダナプレス倶楽部にとって、この「活版用インキ」の確保が困難な状況になりつつある。
すなわち大手のインキ製造会社は、統廃合を繰りかえし、採算性が悪化した「活版用インキ」の製造を廃色・中断・終了にすることが多い。
それも唐突に一枚のファクシミリ(@メールにあらず)が届いて、
「店頭在庫をもって、製造・販売を終了します」
という「通告」型が多いのが悩みの種である。この時点ではすでに製造は終了し、倉庫はおろか、流通在庫などもほとんど無い状態になっている。
そのために「活版用インキ製造の継続」をメーカーと粘りつよく交渉しているが、いくら親しくなっても、大手のメーカーからの直接仕入れはできない慣習があるらしい。

最近は、活版印刷関連機器はもとより、活版印刷用インキに関しても、外国からの問い合わせ、注文が多い。いずれの国でも、あたらしい活版造形者の増加とともに、中古機市場は部品供給などに難があるために縮小している。
また印刷インキにも、かつての活版印刷業者では考えられなかったような、特殊な色彩展開を計るかたも増えている。そのご熱意はわかるものの、その「高度なご要求」の問い合わせには、上述の理由もあって、なかなか対応が困難なばあいが多い。
────────
《45年ちかくにおよんだ牛込柳町公害問題の解消》
もうかれこれ45年になることにおどろく……。「牛込柳町鉛公害」と、「光化学スモッグ」がおおきな話題となった。
東京の自動車保有台数が200万台を突破したのが1969年(昭和44)であった。翌1970年4月、新宿区牛込柳町で、当時はハイオクタン・ガソリンなどに含有率の高かった、鉛を含んだ自動車の排気ガスによって鉛公害が問題となり、同7月には、環状七号線に沿った杉並区を中心に、広い地域で光化学スモッグが発生した。

ときの東京都知事は美濃部亮吉氏だったと記憶している。環境問題、とりわけ大気汚染がおおきな話題となりはじめたひとつのきっかけでもあった。
ところが「光化学スモッグ」はまだ記憶にあたらしいが、「牛込柳町鉛公害」は、対象地域が狭いせいもあって、おおかたからは忘れられているようだ。なにせ45年も前のことであるから、ネット上の若者などは、おおきな話題となったことも知らない時代となっている……。

しかし「牛込柳町鉛公害」をうけて、東京都からはさっそくさまざまな対策が打ちだされた。まずガソリンの品質が問題となり、無鉛ガソリンが普及した。
牛込柳町交差点は、外苑東通りと大久保通りが交差しているが、どちらも交通量が多く、しかも地形がすり鉢状になっていて、風の吹きぬけがわるいために、排気ガスが滞留しているとされて、大久保通りでの停止線が、坂の上の、交差点からは遠くに引かれて奇妙な景観を呈した

いっぽう外苑東通りは道路幅の拡張がはかられた。外苑東通りは、信濃町から四谷三丁目を経由して、靖国通りとの立体交差の曙橋をすぎ、市谷中之町までは片側二車線で、歩道もゆったりとられている。
すぐに市谷中之町の交差点に達する。ここを左折すると女子医大方面に、右折すると大日本印刷の本社や市谷工場がひろがる。
この市谷中之町交差点から牛込弁天町交差点までのあいだ、およそ1キロほどの外苑東通りが、突然片側一車線になり、歩道もせまく、しかも繁華な商店街がつづいているために、駐停車お車もあって渋滞が激しかった。

この箇所の拡幅工事は、個人経営の商店が多かったためもあって、立ち退きが難航し、1970年代の初頭から、断続的に40年ほどのちのいまもつづいている。それでも完成はいつになるのかわからない状態である。
イオキ洋紙店はこの外苑東通りに面しており、この拡幅工事の影響をもろにうけた。すなわち倉庫のほとんどと、本社ビルの大半が立ちのきを終始迫られることになり、ついに2011年をもって、暖簾と社員と顧客を親族企業に譲渡し、70年ちかくにわたった「イオキ洋紙店」の看板をおろした。
さきに紹介した『方丈記』は以下のようにつづく。

玉敷タマシキの都のうちに、棟を並べ、甍イラカを争へる、高き、賤しき、人の住まひは
世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
或いは去年コゾ焼けて、今年造れり。或いは大家オオイエ亡びて、小家コイエとなる。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は
二、三十人が中ウチに、わづかに一人二人なり。
朝アシタに死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。
                 『方丈記』(鴨  長明、1212年[建暦24]作、1155-1216)

《夏目漱石と愛猫家 漱石終焉の地》
世の中には、愛猫家 アイビョウカ と愛犬家がいる。やつがれはなまくらで、猫も犬も好きであるから、ながらく犬と猫をいっしょに飼っていた。
ところが風邪が引き金でひどい喘息になって、呼吸困難に。ついには入院騒ぎとなって、医者に犬猫などのペットの飼育を固く禁じられた。犬猫のフケ、抜け毛、寄生しているダニの死骸などが呼吸器官にはいって、喘息を引きおこすのだそうである。

そんなわけで、いまは犬猫の飼育をあきらめている。その分、愛猫家と愛犬家を冷静にながめることができるようになった。
愛猫家は、ともかく感情の起伏が激しく、猫と同様に、ときおり爪を立て、引っ掻いたり、噛みついたりするから厄介だ。愛猫家を、ゆめ、こころやさしきひとなぞとおもわぬほうがよい !?

やつがれの娘は極端な愛猫家である。それがどうしてか猫どもにはわかるらしい。娘時代には、ちかくの遊歩道で、
「おいで」
と、ひとこえかけると、どこにいたのか野良猫が四五匹でてきて、ゾロゾロと娘のあとをついて歩くのは不気味でさえあった。やつがれがいくら呼んでもノラどもはわいてもこないが……。
いまは結婚して杉並区のマンション11階が住まいであるが、ベランダ一面にネットを張って、猫(いずれも捨て猫・ノラ猫だった)を三匹ほど飼っている。当然猫と同様に感情の起伏が激しく、ときおり爪を立て、引っ掻いたり、噛みついたりするから極めつきに厄介だ。

いっぽう愛犬家は……。これはやめておこう。愛犬家が気がついていないことだから。

かつて、外苑東通りの弁天町にイオキ洋紙店があったころ、その倉庫裏からでると、すぐのところが「新宿区立 漱石公園――夏目漱石終焉の地、漱石山房」だった。漱石も愛猫家であったようである。

夏目漱石の小説が好きだったころがある。
最初のころは『吾輩は猫である』『倫敦塔』『坊つちやん』など、初期の時代の作品が好きだった。
次第に年を重ね、漱石が逝去した数えの50歳(漱石は満49歳10ヶ月で卒した)を越えるころになると、漱石後期三部作とされる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』などを好んで手にした。


 

 
 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5)12月9日は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助(きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。

なにしろここは、イオキ洋紙店のすぐ裏手で、倉庫の裏からでるとすぐそこだったので、商用がおわるとしばしばここをたずねた。あかるくて、なんにもなくて、よいところである。
漱石の生誕の地も、ここからあるいて10分とかからない。
漱石は英国に留学したり、松山の英語教師になったりしているので、英語通で旅好きなのかとおもっていたら、どこにいっても、すぐさまこの牛込界隈に、まるで家に駆けこむ猫のように立ち戻っていた。それはまるで「猫はひとではなく、家につく」といわれるようなもので、そしてここに歿した。

この近くには佐々木活字店もある。活字店訪問のおり、久しぶりにここをたずね、すっかり更地になって、はやくも夏の野艸が生い茂っているイオキ洋紙店の跡と、漱石公園・漱石山房をたずねた。そしてフト『方丈記』の一節がおもいうかんだ次第である。
─────
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例タメシなし。
世の中にある、人と栖スミカと、またかくのごとし。
玉敷タマシキの都のうちに、棟を並べ、甍イラカを争へる、高き、賤しき、人の住まひは
世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
或いは去年コゾ焼けて、今年造れり。或いは大家オオイエ亡びて、小家コイエとなる。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は
二、三十人が中ウチに、わづかに一人二人なり。
朝アシタに死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。
                 『方丈記』(鴨 長明、1212年[建暦24]作、1155-1216)