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平野富二と活字*05 ついに驟雨のなかに迎えた『活字発祥の碑』除幕式

『活字発祥の碑』 除幕式挙行
なぜか剣呑なふんいきにおおわれた除幕式の会場
そしてついに、周旋役の座を追われた牧治三郎

平野富二と娘たちuu

『活字発祥の碑』20131014180912139_0002

パンフレット『活字発祥の碑』 編纂・発行/活字の碑建設委員会
昭和46年06月29日 B5判 28ページ 針金中綴じ
表紙1-4をのぞき 活字版原版印刷
『活字発祥の碑』落成披露時に関係者に配布された。 

『活字界』合本。

『活 字 界』
発行/全日本活字工業会 旧在:千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル
創刊01号 昭和39年06月01-終刊80号 昭和59年05月25日
ほぼ隔月刊誌  B5判8ページ  無綴じ  活字版原版印刷

01号―40号/編集長・中村光男
41号―56号/編集長・谷塚  実
57号―75号/編集長・草間光司
76号―80号/編集長・勝村  章
編集長を交代後した昭和49年以後、中村光男氏は記録がのこる
昭和59年までは、全日本活字工業会の専務理事を務めていた。
このころ筆者は吉田市郎氏の紹介を得て、事務局を数度訪問した。
────
『活字界』はパンフレット状の業界内に配布された機関誌で、残存冊子、なかんずく
全冊揃いはほとんど存在しないが、中村光男氏が2分冊に合本して保存されており、
それを個人所有しているものを拝借した。

★     ★     ★

活字発祥の碑建設のいきさつ

パンフレット『活字発祥の碑』(『活字発祥の碑』建設委員会 p.14-15 昭和46年8月)

この中綴じの小冊子は、1,500部ほどが用意され『活字発祥の碑』除幕式に際して

来場者と全国活字工業会会員に配布された。
執筆者は専務理事にして『活字界』編集長、中村光男氏とされる。 

長崎[諏訪公園]には本木昌造翁の銅像があり、また、大阪には記念碑[四天王寺境内・本木氏昌造翁紀年碑]が建立され、毎年碑前祭などの行事が盛大に行なわれておりますが、印刷文化の中心地といえる東京にはこれを現わす何もなく、早くから記念碑の建設、あるいは催しが計画されていましたが、なかなか実現するまでに至りませんでした。
本木昌造銅像 長崎諏訪公園
大阪四天王寺内 本木昌造銅像「日本鋳造活字始祖」

谷中霊園 平野富二墓標前。掃苔会。 大阪四天王寺本木昌造銅像
上) 長崎市諏訪公園の広場にある『本木昌造翁像』
下) 大阪市四天王寺境内にある『本木氏昌造翁紀年碑』。台座には何礼之(ガ-レイシ 1840-1923)による撰文、吉田晩稼(1830-1907)の筆になる勇壮な大楷書による碑文が刻されている。台座の篆書は『日本鋳造活字始祖』とある。東京谷中霊園にある『平野富二墓』も、吉田晩稼の筆による。

長崎の『本木昌造翁像』は、戦前に座像の銅像として建立されたが、時局下の金属供出令で失ったものを、戦後に再建した。幸い戦前の座像の成形鋳型が保存されていたので、「本木昌造活字復元プロジェクト」に際し、印刷博物館によって再鋳造されて披露された。

大阪四天王寺の『本木氏昌造翁紀年碑』も、明治後期に建造されたが、やはり時局下の金属供出例で、台座をのこして1943年(昭和18)に失われた。1952年(昭和27)「本木先生頌徳記念碑」が再建され、さらに1985年(昭和60)に「大阪府印刷工業組合」と、築地の『活字発祥の碑』とおなじ「全日本活字工業会」が中心となって奔走して、現在の士装の旅姿の立像に戻った。(『本木昌造先生銅像復元記念誌』大阪府印刷工業組合 昭和60年9月30日)。

本木昌造先生銅像復元記念誌

こうした中にあった、活字発祥の源である東京築地活版製作所の建物が、昭和44年[1969]3月取壊わされることになり、[同社の]偉大なる功績を[が]、この建物と共に失われていく[ことを危惧する]気持ちをいだいた人が少なくなかったようであります。

たまたま牧治三郎氏が、全日本活字工業会の機関誌である『活字界 第21号(昭和44年5月発行)と、第22号(昭和44年7月発行)に、「[東京築地活版製造所  旧]社屋取壊しの記事」を連載され、これが端緒となって、何らかの形で[活字発祥の地を記念する構造物を]残したいという声が大きくなってきたのです。

ちょうどこの年[昭和44年、1969]は、本木昌造先生が長崎において、上海の美華書館、活版技師・米国人ウイリアム・ガンブル氏の指導を受けて、電胎母型により近代活字製造法を発明[活字母型電鋳法、電胎法活字母型は、すでにアメリカで開発されものを移入したもので、わが国の、あるいは本木昌造の発明とはいいがたい]してから100年目にあたる年でもありました[ガンブルの滞在期間には諸説ある。長崎/本木昌造顕彰会では、興善町唐通事会所跡(現・長崎市市立図書館脇)の記念碑で、明治2年(1869)11月-翌3年5月の半年あまりの間に、ここで伝習がおこなわれたとする。したがってこの年はたしかに伝習後100年にあたった]。

この年[昭和44年、1969]の5月、箱根で行なわれた全日本活字工業会総会の席上、当時の理事・津田太郎氏[1908-不詳]から、[『活字界 第21号(昭和44年5月発行)、第22号(昭和44年7月発行)[5月の時点では予定稿か]、「[東京築地活版製造所  旧]社屋取壊しの記事」と予定稿をうけて]東京築地活版製造所跡の記念碑建設についての緊急提案があり、全員の賛同を得るところとなりました。

その後、東京活字協同組合理事長(当時)渡辺初男氏は、古賀[和佐雄]会長、吉田[市郎、全国活字工業会東京]支部長、津田[太郎]理事らと数回にわたって検討を重ね、記念碑建設については、ひとり活字業界だけで推進すべきではないとの結論に達し、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会(現印刷工業会)、東京都印刷工業組合の印刷団体に協賛を要請、[それら諸団体の]快諾を得て、[活字鋳造販売業者と印刷業者の]両業界が手をとりあって建設へ動き出すことになったのです。

そして[昭和44年、1969]8月13日、土地の所有者である株式会社懇話会館へ、古賀[和佐雄]会長、津田[太郎]副会長、渡辺[初男]理事長と、印刷3団体を代表して、東印工組[東京都印刷工業組合]井上[計ケイ のち参議院議員 民社党 → 新進党 1919-2007]副理事長が、八十島[耕作]社長に、記念碑建設についての協力をお願いする懇願書をもって会談、同社長も由緒ある東京築地活版製造所に大変好意を寄せられ、全面的なご了承をいただき、建設への灯がついたわけです。

翌昭和45年[1970]6月、北海道での全日本活字工業会総会で、記念碑建設案が正式に賛同を得、7月20日の理事会において、発起人および建設委員を選出、8月21日第1回の建設委員会を開いて、建設へ本格的なスタートを切りました。

同委員会では、建設趣旨の大綱と、建設・募金・渉外などの委員の分担を決めるとともに、募金目標額を250万円として、まず、岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになりました。

翌昭和45年[1970]9月、津田[太郎]建設委員長、松田[友良]、中村[光男 中村活字店]、後藤[孝]の各委員が岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行ない、ついで、9月18日、第2回の委員会を開いて建設大綱などを決め、業界報道紙への発表と同時に募金運動を開始、全国の印刷関連団体および会社、新聞社などに趣意書を発送して募金への協力を懇請しました。

同年末、懇話会館に記念碑の構想図を提出しましたが、その後建設地の変更がなされたため、同原案図についても再検討があり、[新]懇話会館のビルの設計者である日総建の国方[秀男]氏によって、ビルとの調和を考慮した設計がなされ、1月にこの設計図も完成、建設委員会もこれを了承して、正式に設計図の決定をみました。新しい設計は、当初2枚板重ね合わせたものであったのを1枚板とし、その中央に銅鋳物製の銘板を埋め込むことになりました。

また、表題は2月4日の理事会で「活字発祥の碑」とすることに決まり、碑文については毎日新聞の古川[恒ヒサシ、技術部 1910-86]氏の協力を得、同社[毎日新聞社]田中会長に2案を作成して、その選定を依頼、建立された記念碑に掲げた文が決定したわけです。

なお、表題である「活字発祥の碑」の文字については、書体は記念すべき築地活版の明朝体を旧書体[旧字体]のまま採用することとしましたが、これは35ポイントの[活字]見本帳(昭和11年改訂版)[東京築地活版製造所が35ポイントの活字を製造した記録はみない。36ポイントの誤りか?]で、岩田母型[元・岩田活字母型製造所の残存会社のことか。岩田母型製造所は業績不振のために、すでに1968年(昭和43)に倒産していた]のご好意によりお借りすることができたものです。

また、記念碑は高さ80センチ、幅90センチの花崗岩で、表題の「活字発祥の碑」の文字は左から右へ横書きとし、碑文は右から左へ縦書きとし、そのレイアウトについては、大谷デザイン研究所・大谷[四郎・故人。日本レタリング協会 → 現:日本タイポグラフィ協会の創立者。羽衣(リョービ → タイプバンク)、曲水、千草などの書体をのこした]先生の絶大なご協力をいただきました。

ありし日の志茂太郎『活字発祥の碑』の建立に際し、西部地区(岡山)から個人の資格で、ただひとり拠金した志茂太郎を紹介したい。
活字と書物を愛しぬいた「漢」おとこ、志茂太郎(1900-80)。戦前は中野区で伊勢元酒店を経営するかたわら、個人出版社「アオイ書房」をもうけて、愛書誌『書窓』シリーズをはじめ、フォトティポ手法による『サボテン島』、民間出版物では最初期での使用例、写真植字法 → オフセット平版印刷による『夏の手紙』、本格銅版印刷の
『地上の祭』などの記録にのこる書物をのこした。
時局下の「変体活字廃棄運動」に猛然と抵抗し、東京をおわれて郷里の岡山県久米南町山城 クメナンチョウ-ヤマノジョウ にもどった。

戦後は志茂の造語「書票」をもって「書票協会」を設立して活動をつづけた。友人には「岡山の田舎で肥桶を担いでいる」としたためていたが、実際には東京田園調布にも当時から屋敷を構えるほどの資産家でもあった。この書票協会はのちの雑誌『銀花』につらなった。
宏大な山城ヤマノジョウにはいまも番地は無く、あたり一帯が志茂家の所有であった。その一画、志茂家墓地に、晩夏に大輪の花を一斉につけるトロロアオイの花【リンク:朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち】につつまれてねむる(『活字に憑かれた男たち』片塩二朗、朗文堂)。

かつて山城の旧志茂邸(現在は住居部分は取り壊されている)をたずねたおり、再訪を10月初旬の早朝にもう一度……と、同家をあずかる志茂公子氏に慫慂された。その再訪時には、墓地一面にトロロアオイの花が絢爛と咲きほこっていた。それ以来やつがれはベランダ野艸園でトロロアオイを育てつづけている。
ことしは気候が不順だったためか、下掲の写真の花は2013年10月6日に開花したが、もう一鉢は間もなく開花しそうな勢いである。活字と書物に真摯にとり組み、この花を愛でた志茂太郎のこころがおもいおこされる季節である。
晩夏に大輪の花をつけるアオイ
岡山県久米南町山の城、志茂家専有墓地にある志茂太郎の墓地。
一方、建設基金についても、全国の幅広い印刷関連業界の団体および会社と、個人[p20-21 「建設基金協力者御芳名」によると、個人で基金協力したのは東部地区/中村信夫・古川恒・手島真・牧治三郎・津田藤吉・西村芳雄・上原健次郎、西部地区/志茂太郎 計8名]からもご協力をいただき、目標額の達成をみることができました。誌上を借りて厚くお礼を申しあげます。なお、協力者のご芳名は、銅板に銘記して、碑とともに永遠に残すことになっております。

こうして建設準備は全て整い、銘板も銅センターの紹介によって菊川工業に依頼、この5月末に完成、いよいよ記念碑の建設にとりかかり、ここに完成をみたわけであります。

名古屋・津田三省堂 右)初代津田伊三郎(在米中のもの)、左)二代津田太郎名古屋の活字商:津田三省堂 右)創業者:津田伊三郎(在米中に撮影 1869-1942)、左)第2代:津田太郎(1908-不詳)。津田太郎の従兄弟イトコにして養女:津田幸子氏提供。

なお、建設委員会発足以来委員長として建設へ大きな尽力をされました津田太郎氏が、この4月に全日本活字工業会長の辞任と同時に[高齢のため、『活字発祥の碑』建設委員会委員長の職も]退任されましたが、後任として5月21日の全国総会で選任されました、渡辺宗助会長[民友社活字製造所代表]が[『活字発祥の碑』建設]委員長を継承され、つつがなく除幕式を迎えることができました。

私ども[活字発祥の碑建設]委員会としては、この記念碑を誇りとし、精神的な支えとして、みなさんの心の中にいつまでも刻みこまれていくことを祈念しております。また、こんご毎年なんらかの形で、碑前祭を行ないたいと思っております。
最後に重ねて「活字発祥の碑」建立へご協力いただきましたみなさま方に、衷心より感謝の意を表する次第であります。

★     ★     ★

パンフレット『活字発祥の碑』から、簡潔にして要を得た「活字発祥の碑建設のいきさつ」を紹介した。
また、この『活字発祥の碑』序幕の時点では、長らく活字工業会の重鎮として要職にあった、株式会社千代田活字製造・古賀和佐雄(1898-1979)は、渉外委員としてだけ名をのこしている。
戦後まもなく、欧文活字の開発から急成長し、東京活字協同組合をリードしてきた、株式会社晃文堂・吉田市郎(1921-)は、すでにオフセット平版印刷機製造と、当時はコールド・タイプと称していた、写植活字への本格移行期にはいっていた。

そのために吉田市郎は活字発祥の碑建設委員会では建設委員主任として名をのこしていた。吉田氏は戦後に欧文活字の鋳造からスタートしたために、造形界にも知人が多かった。したがって『活字発祥の碑』碑文を、東京築地活版製造所の活字見本帳を参考に書した大谷四郎を起用したのは吉田市郎であり、ここまでの筆者の記述をよく助けてもいただいた。
また、全日本印刷工業組合連合会専務理事、全国中小企業団体中央会理事などを歴任して、のちに参議院議員となった井上  計(1919-2007)、印刷業界誌出身の編集者:三浦  康氏(生没年不詳)なども、みな吉田市郎氏からの紹介であった。
これらのひとの口の端から漏れでたことばを、ひとつひとつ牧治三郎と筆者はかたりあってきた。

若き日の吉田市郎氏

活版印刷にツキせぬ愛着をお持ちの吉田市郎氏吉田市郎氏(1921-2014)。上) リョービ印刷機販売社長時代の吉田市郎氏。
下) アダナプレス倶楽部《活版ルネサンス》にご来場時のもの。
新潟県出身。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。卒業後三井物産に就職したが、まもなく召集されて軍役につく。
召集解除後まもなく、神田鍛冶町に「晃文堂」を設立し、1970年代に広島の菱備製作所と合弁で「リョービ印刷機販売 → リョービイマジクス」を設立してその社長、会長としてながらく経営にあたった。タイポグラフィ学会「平野富二賞」を受賞している。

現在は悠悠自適の日日を過ごされているが、やつがれが頭の上がらないおひとりが吉田市郎氏である。

つまり、古賀和佐雄・吉田市郎らの、高学歴であり、事業所規模も比較的大きな企業の経営者は、活字鋳造界の衰退を読み切って、すでに隣接関連業界への転進をはかる時代にさしかかっていたのである。これを単なる世代交代とみると、これからの展開が理解できなくなる。

また11ヶ月にわたったこの「活字発祥の碑」建立のプロジェクトには、活字鋳造販売業界、印刷業界の総力を結集したとされるが、奇妙なことに、ここには活字鋳造所とは唇歯輔車 シンシホシャ の関係にある、活字母型製造業者の姿はほとんどみられない。
その主要な原因は既述したが、いわゆる日本語モノタイプ(自動活字鋳植機)などの急速な普及にともない、活字母型製造業者が過剰設備投資にはしったツケが生じ、業績が急速に悪化し、すでに昭和43年(1968)、活字母型製造業界の雄とされた株式会社岩田活字母型製造所が倒産し、同社社長・岩田百蔵が創設以来会長職を占めていた「東京活字母型工業会」も、事実上の破綻をきたしていたためである。

連載1回目で、吉田市郎のことばとして紹介した、
「われわれは、活字母型製造業者の冒した誤りを繰りかえしてはならない」
としたのがこれにあたる。
ただし岩田活字母型製造所は倒産したものの、各支店がそれぞれ、ほそぼそながらも営業を続けていた。したがって活字母型製造業者は、かつての「東京活字母型工業会」ではなく、「東京母型工業会」の名称で、わずかな資金を提供した。
また、旧森川龍文堂・森川健一が支店長をつとめた「岩田母型製造所大阪支店」は、本社の倒産を機に分離独立して、大阪を拠点として営業をつづけた。同社は「株式会社大阪岩田母型」として、単独で資金提供にあたっていた。

『活字発祥の碑』
「活字発祥の碑」完成 盛大に除幕式を挙行

『活字界 30号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年8月15日)

ここからはふたたび、全日本活字工業会機関誌『活字界』の記録にもどる。
建碑とその序幕がなったあとの『活字界 30号』(昭和46年8月15日)には、本来ならば華やかに「活字発祥の碑」序幕披露の報告記事が踊るはずであった。

しかし同号はどこか、とまどいがみえる内容に終始している。
肝心の「活字発祥の碑」関連の記事は「活字発祥の碑完成、盛大に除幕式を挙行」とあるものの、除幕式の折の驟雨のせいだけではなく、どことなく盛り上がりにかけ、わずかに見開き2ページだけの簡単な報告に終わっている。

それだけではなく、次の見開きページには、前会長・古賀和佐雄の「南太平洋の旅――赤道をこえて、南十字星きらめくシドニーへ、時はちょうど秋」という、なんら緊急性を感じさせない旅行記を、2ページにわたってのんびりと紹介している。

そして最終ページには《「碑」建設委員会の解散》が、わずか15行にわたって記述されている。
この文章はどことなく投げやりで、いわばこの事業に一刻も早くケリをつけたいといわんばかりの内容である。

《「活字発祥の碑」完成 盛大に除幕式を挙行》

《リード》
「活字発祥の碑」除幕式が、[昭和46年 1971]6月29日午前11時20分から、東京・築地の建立地[東京都中央区築地2丁目13番22号、旧東京築地活版製造所跡地]において行なわれた。この碑の完成によって、印刷文化を支えてきた活字を讃える記念碑は、長崎の本木昌造翁銅像、大阪の記念碑を含めて三体となったわけである。中心となって建立運動を進めてきた全日本活字工業会、東京活字協同組合では、今後毎年記念日を設定して碑前祭を行なうなどの計画を検討している。

 《本文》
小雨の降る中、「活字発祥の碑」除幕式は、関係者、来賓の見守るうちに、厳粛にとり行なわれた。
神官の祝詞奏上により式は始まり、続いて築地活版製造所第4代社長、野村宗十郎氏の令息雅夫氏のお孫さん・野村泰之君(10歳)が、碑の前面におおわれた幕を落とした。

 拍手がひとしきり高くなり、続いて建設委員長を兼ねる渡辺[宗助]会長、松田[友良]東活協組理事長、印刷工業会・佐田専務理事(室谷会長代理)、株式会社懇話会館・山崎[善雄]社長がそれぞれ玉串をささげた。こうして活字および印刷業界の代表者多数が見守る中で、印刷文化を支えてきた活字を讃える発祥の記念碑がその姿をあらわした。
参列者全員が御神酒で乾杯、除幕式は約20分でとどこおりなく終了した。

 《「碑」建設委員会の解散》 最終ページp.8に全15行で、ちいさく紹介されている。
発祥の碑建設委員会は[昭和]45年8月に第1回目の会合を開き、それから約11ヶ月にわたって、発祥の碑建設にかかるすべての事業を司ってきたが、7月13日コンワビルのスエヒロで最後の会合を持ち解散した。

最後の委員会では、まず渡辺[宗助]委員長が委員の労をねぎらい、「とどこおりなく完成にこぎつけることができたのは、ひとえに業界一丸となった努力の賜である」と挨拶。
引き続き建設に要した収支決算が報告され、また今後の記念碑の管理維持についての討議、細部は理事会において審議されることになった。

もともと華やかであるべき「活字発祥の碑」の除幕式が、こうなってしまった原因は、驟雨の中で執り行われた除幕式の人選であった。
神主に先導され、東京築地活版製造所第四代社長の子息、野村雅夫氏夫妻と、同氏の弟の服部茂氏がまず登場した。この光景を多くの参列者は小首をかしげながらみまもった。
そしてあどけない挙措で序幕にあたったのは、野村宗十郎の曾孫ヒマゴ、泰之(当時10歳)であった。
その介添えには、終始牧治三郎がかいがいしくあたっていた。

おりからの驟雨のなか、会場に張られたテントのなかで、東京築地活版製造所第四代代表、野村宗十郎の曾孫・野村泰之少年がまだ幼さののこる表情で幕を切って落とした。その碑面には以下のようにあった。ふたたび、みたび紹介する。

特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に

『活字界 第28号』 全日本活字工業会 昭和46年3月15日)


昨年[1970年 昭和45]7月以来、着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

碑文については毎日新聞社の古川[恒]氏の協力により、同社田中社長に選択を依頼して決定をみるに至った。
───────
除幕式の会場となったテントのあちこちで漏れた囁きは、しだいに波紋となって狭い会場を駆け巡った。
参列者の一部、とりわけ東京築地活版製造所の元従業員からは憤激ももれていた。
その憤激の理由は簡単であり単純である。除幕された碑面には野村宗十郎の「の」の字もなかったからである。前述のとおり、この碑文は毎日新聞・古川恒の起草により、同社田中社長が決定したものであった。
当然重みのある意味と文言が記載されていたのである。

式典を終え、懇親会場に場を移してからも、あちこちで、
「野村さんの曾孫ヒマゴさんが序幕されるとは、チョット驚きましたな」
という声がひめやかに囁かれ、やがて蔽いようもなく、
「なんで東京築地活版製造所の記念碑の除幕が野村家なんだ。創業者で、碑文にも記載されている平野家を呼べ!」
という声がさざ波のように拡がっていった。
そんななか、牧治三郎だけは活字鋳造業界には知己が少なかったため、むしろ懇話会の重鎮 ―― 銅線会社の重役たちと盃を交わすのに忙しかったのである。
そんな光景を横目にした活字界と印刷界の怒りは激しいものがあった。除幕式と祝賀会には、初代文化庁長官・今 日出海(1903-84)も出席していたが、  どこか険悪な雰囲気のまま、はやばやと終了した。

     

左) 平野    富二  1846-92   (弘化3年8月14日-明治25年12月3日)
右) 野村宗十郎  1857-1925 (安政4年5月4日-大正14年4月23日)

 《『活字界』編集長、中村光男の再挑戦》
なにごとによらず、うたげのあとには、虚しさと虚脱感がおそうものである。
ところが意欲家の中村光男氏は、建碑がなったのち、ふたたび全日本活字工業会広報委員長の立場にもどって、同会機関誌『活字界』を舞台に、「活字発祥の碑」を巡って、それまであまり意識してこなかった、活字鋳造の歴史と背景を、調査、記録することにつとめることになった。
すなわち、歴史をひもとき、それに学び、ゆくかたをかんがえるゆとりができたともいえる。

また東京築地活版製造所設立者の平野富二にとっては、『活字発祥の碑』の序幕が、かつての部下だった野村宗十郎一家によってなされても、さしてこだわりは無かったのではないかともおもうことがある。
平野富二とは、維新以降は士籍を捨てて、平然と「長崎縣平民」と名乗っていたし、歿後に従五位を追贈されているが、一門にも、当時の従業員も、さしてそれを喜んだふうはない。どうやら平野富二とは、そういう毀誉褒貶や些事に拘泥することがすくなかったひとではなかったかとかんがえている。

これ以後は、牧治三郎にかわって、毎日新聞技術部の古川恒が、なにかと中村光男氏を支援することになった。そして古川恒の紹介を得た中村光男氏が、芝白金の平野家をたづねることになった。
ここで、ながらく封印されていた「平野富二首証文」の伝承が、嫡孫の平野義太郎から直接あかされることになった。

これに驚愕した中村光男氏は、序幕からちょうど一年後、1972年(昭和47)6月29日再度神官をまねき、「活字発祥の碑 碑前祭」を挙行することとした。その列席者は、関連諸団体の幹部はもとより、一般人まで参列し、除幕式当日より列席者が多いという盛況を呈することとなった。もちろん、今回は東京築地活版製造所設立者、平野富二の嫡孫が主賓ということと、「平野富二首證文」のうわさは、活字鋳造界だけでなく、印刷界にもひろまっていたためである。

「活字発祥の碑 碑前祭」には、平野家一門のうち、嫡孫・平野義太郎と、その実子[曾孫にあたる。義太郎は一女五男をなしているが、現在ではそのうちのたれが列席したかは不明]を主賓として招いて、平野義太郎に「挨拶」を懇請した。
この「活字発祥の碑 碑前祭 挨拶」をもとに、中村光男は原稿をおこし、平野義太郎もそこに手を入れたとみられるが、『活字界 第34号』(昭和47年8月20日)に「平野義太郎 挨拶 ―― 生命賭した青雲の志」と題して、「平野富二首証文」の談話記事を掲載することとなる。
相当おもい気分でいるが、その紹介と考察は次回にゆずりたい。

そして「活字発祥の碑」の序幕にあたった、野村宗十郎の子息、野村雅夫氏とその一家は、まったく邪心の無い人物であり、なにも知らず、ただ牧治三郎に利用されただけだったことが、除幕式から五ヶ月後、『活字界 第31号』(昭和46年11月5日)に以下の記事が掲載され、いつのまにか活字業界人の記憶から消えていった。
平野家の記録
上左)  平野富二  中)  平野義太郎、一高時代、母:平野鶴類 ツル とともに(1916年)
下)  平野義太郎、東大法学部助教授就任のとき
『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)より

平野富二とふたりの娘。向かって左・長女津類 ツル、右・次女幾み キミ (平野ホール藏)

活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫

『活字界 第31号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年11月5日)

《活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫》
このたび[の]活字発祥の碑が建設されつつあることを、私は全然知りませんでした。ところが突然、西村芳雄氏、牧治三郎氏の御紹介により、全日本活字工業会の矢部事務局長から御電話がありまして、文昌堂の渡辺[初男]会長と、事務局長の御来訪を受け、初めて[活字発祥の碑の]記念碑が建設されることを知りました。
そして6月29日午前11時より除幕式が行われるため是非出席してほしいとのお言葉で、私としても昔なつかしい築地活版製造所の跡に建設されるので、僭越でしたが喜んでお受けした次第です。何にも御協力出来ず誠に申し訳なく存じております。

なお、除幕式当日の数日前には御多忙中にも拘わらず、渡辺[宗助]建設委員長まで御来訪いただき感謝致しております。当日は相憎[生憎]の雨天にも拘わらず、委員長の御厚意により車まで差し回していただき恐縮に存じました。除幕式には私共夫妻と、孫の泰之それに弟の服部茂が参列させていただき、一同光栄に浴しました。

式は間もなく始まり30分程度にてとどこおりなく終了しましたが、恐らく築地活版製造所に勤務された方で現在[も健在で]おられる方々はもちろんのこと、地下に眠れる役職員の方々も、立派な記念碑が出来てさぞかし喜んでおられることと存じます。
正午からの祝賀パーティでは、殊に文化庁長官[今日出海]の祝詞の中に、父の名[野村宗十郎]が特に折り込まれて、その功績をたたえられたことに関しては、唯々感謝感謝した次第です。

雨もあがりましたので、帰途再び記念碑のところに参りましたら、前方に植木が植えられ、なおいっそう美観を呈しておりました。
最後に全日本活字工業会の益々御発展を祈ると共に、今後皆様の御協力により永久に記念碑が保存されることを希望してやみません。

平野富二と活字*04 多くのドラマを秘めて建立が決定した「活字発祥の碑」

「活字発祥の碑」建立に向け
長年の黒子の役割をかなぐり捨てた牧治三郎
懇話会館、銅配給統制協議会、日本故銅統制会社
そして変体活字廃棄運動と印刷企業合同の鍵を握るひと

『活字発祥の碑』平野富二肖像写真(平野ホール藏) 東京築地活版製造所跡に現存する「活字発祥の碑」、その竣工披露にあたって配布されたパンフレット『活字発祥の碑』、その建碑にいたるまでの背景を詳細に記録していた、全国活字工業会の機関誌『活字会』の記録を追う旅も4回目を迎えた。

この「活字発祥の碑」の建立がひどく急がれた背景には、活字発祥の地をながく記念するための、たんなる記念碑としての役割だけではなく、その背後には「鋳物師  イモジ」のエトス、情念や伝統そして系譜を背負う活字鋳造業者らの特殊な心性にもとづき、抜けがたく「禊ぎと祓い」にあたろうとの意識があり、牧治三郎の(過誤による)指摘をうけた「厄除け・厄払い・鎮魂」の意識もあったことは既述した。
それは当時、あきらかな衰退をみせつつあった活字業界人だけではなく、ひろく印刷界のひとびとの間にも存在していたこともあわせて既述した。

その端緒となったのは、全国活字工業組合の機関誌『活字界』に連載された、牧治三郎による記録で、活字版原版印刷、B5判、1回2ぺージ、都合4ページのしごく短い連載記録であった。
◎ 「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第21号、昭和44年5月20日)
◎ 「続 旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)
これらの記録は、このタイポグラフィ・ブログロール《花筏》の「平野富二と活字*01-03」で既述してきた。

『活字界 21号』「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(昭和44年5月20日)
『活字界 22号』「続 東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(昭和44年7月20日)この牧治三郎の連載を受けて、全日本活字工業会はただちに水面下で慌ただしい動きをみせることになった。
昭和44年5月22日、全日本活字工業会は第12回総会を元箱根の「山のホテル」で開催し、その記録は『印刷界』第22号にみることができる。

そもそもこの時代の同業者組合の総会とは、多分に懇親会的な面があり、全国活字工業組合においても、各支部の持ち回りで、景勝地や温泉旅館で開催されていた。そこでは参加者全員が、浴衣姿や、どてら姿でくつろいだ集合写真を撮影・記録するのが慣例であった。

たとえばこの「活字発祥の碑」建立問題が提起される前年の『活字界』(第17号、昭和43年8月20日)には、「第11回全日本活字工業会総会、有馬温泉で開催!」と表紙にまで大きく紹介され、一同が揃いのどてら姿の集合写真とともに、各種の議題や話題がにぎやかに収録されている。
ところが、牧治三郎の連載がはじまった昭和44年の12回総会記録『活字界』(第22号、昭和44年7月20日)では、「構造改善をテーマに講演会、永年勤続優良従業員を表彰、次期総会は北海道で」との簡潔な報告があるだけで、いつものくつろいだ集合写真はみられず、背広姿のままの写真が掲載されて、地味なページ構成になっている。

この12回総会の実態は、まだ機関誌『活字界』は発行されてはいないものの、「続 旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)の活字組版のゲラが配布され、全国活字工業会副会長にして、中部地区支部長・津田太郎(津田三省堂代表)によって、「『活字発祥の碑』建立問題」の緊急動議が提出され、かつてないほど熱い議論が交わされていたのである。
すなわち、歴史研究にあたっては、記録された結果の検証も大切ではあるが、むしろ記録されなかった事実のほうが、重い意味と、重要性をもつことはしばしばみられる。

『活字界 18号』全員が揃いのどてら姿での集合写真。
有馬温泉「月光園」で開催された「第11回全日本活字工業会総会」の記録。

(『活字界』第18号、昭和43年8月20日)

『活字界 22号』「44年度定期相談」例年になく地味な総会の模様が記録されている。

元箱根「山のホテル」で開催された「第12回・33年度全日本活字工業会総会」の記録。
                              (『活字界』第22号、昭和44年7月20日)
ここでの主要なテーマは、牧治三郎の連載を受けた、津田太郎による緊急動議「活字発祥の碑」建立であったが、ここには一切紹介されていない。ようやく翌23号の『活字発祥記念碑建設趣意書』を報告したリード文によって、この総会での慌ただしい議論の模様がはじめてわかる。
『古賀和佐雄』76歳(昭和49年秋)

 

 

 

 
古賀和佐雄(1898-1979)
『古賀和佐雄-その人と千代田印刷機製造の六十年』
(千代田印刷機製造株式会社、昭和58年2月28日)より

この「第12回全日本活字工業会総会」においては、長年同会の会長職をつとめていた古賀和佐雄(1898-1979)が、在任期間が長すぎることと、高齢を理由に辞意を表明したが、会議は「活字発祥の碑」建立の議論に集中して、会長職の後任人事を討議することはないまま時間切れとなった。

千代田活字の工場。昭和16年ドイツ表現派の影響がみられる建設とされる。古賀和佐雄と、瓢箪のマークで知られた千代田活字製造に関しては、『古賀和佐雄-その人と千代田印刷機製造の六十年』(千代田印刷機製造株式会社(三浦 康 筆)、昭和58年2月28日 非売品)に詳しい。

上掲写真は千代田印刷機製造株式会社(千代田区猿楽町1-6。同書p.215にちいさく掲載)と看板にあるが、1941年(昭和16)武田組が建造した建物で、建築史研究者はドイツ表現派の影響がみられる興味深い建築とする【リンク:ぼくの近代建築コレクション】。
1990年代には千代田印刷機製造株式会社(千代田マシナリー)本社ビルは、この道の正面反対側(千代田区猿楽町1-5)にあり、このふるい建物は活字販売部と称していた。三浦康氏と同道して、しばしばこちらの建物で同社二代代表・古賀健一郎氏とお会いしたことが懐かしい。

古賀和佐雄が戦前に、凸版印刷とともに中国東北部(旧満州)ハルビンに設けた活字鋳造所は「三三書局」として2000年ころまで営業を継続していた。
筆者も友人のコンピュータ・ソフト開発会社/イーストの丸山勇三社長(1945-2000)ら数名と黒竜江工業大学にいった際に、ハルビンの「三三書局」を訪問したことがある。そこで工場内を拝見したが、近近この付近では区画整理が予定されていて、そうなると事業継続は難しいときいた。それでも同社の活字見本帳を購入して、いまも所持している。

その後、「ハルビンの活字鋳造所は2008年ころに閉鎖された」(北京在住 2011年金田理恵氏談)ときいた。このハルビンの「三三書局」が、中国では最後の活字鋳造所として記録されている。したがって現在の中国には活字鋳造所はまったく存在しない。
[後日談:なにぶん広い中国のことゆえ、2015-6年にかけて多方面からの情報がはいり、上海に一社、山東省某所に一社の活字鋳造所があることが判明した。この両社は事実上創業を停止しているそうであるが、中国東北部瀋陽(旧満州奉天)にも活字鋳造所があり、2016年、北京清華大学原博(Gen bo)助教授によって発注された活字を鋳造した。2016年08月記]

また活版造形者には、いまなお人気の「鉄製レール引き戸式活字ケース」は、古賀和佐雄と千代田活字の実用新案による製品である。
同社とそのグループは2002年(平成14)に倒産し、その後 小森コーポレーション がその事業の一部を継承している。上掲写真の「活字販売部」の建物は、2004年(平成16)解体された。
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「活字発祥の碑」建立の議論のため、全日本活字工業会は、第12回総会の終了後に臨時理事会を開催して、千代田印刷機製造株式会社・千代田活字有限会社・千代田母型製造所の社主/古賀和佐雄の会長辞任が承認され、後任の全国活字工業会会長には、株式会社津田三省堂社長/津田太郎が就任した。

津田太郎(1908-不詳)も、長年にわたり全国活字工業会副会長兼中部地区支部長の任にあった。したがって津田太郎も高齢を理由として新会長への就任を固辞し、人選は難航をきわめたそうである。
しかし、たれもが自社の業績衰退と、しのびよる写真植字法の勃興への対応に追われ、多忙を理由として激務となる会長職への就任を辞退した。

そのため、よんどころなく津田太郎が、すでに自分も高齢であること、名古屋という遠隔地にあることを理事全員に了承してもらうという条件付で、新会長への就任を引き受けたのが実態であった。
こうした内憂と外患をかかえながら、全国活字工業会による隔月刊の機関誌『印刷界』には、しばらく「活字発祥の碑」建立に向けた記録がほぼ毎号記録されている。そこから主要な記録を追ってみたい。

*      *      *

特集/東京築地活版製造所記念碑設立顛末記

『活字界』(第23号、昭和44年11月15日)
『活字界 23号』「東京築地活版製造所記念碑設立顛末記」(昭和44年11月15日)

[編集部によるリード文】 ── 専務理事兼編集長:中村光男の手によるものと想像される。

本誌第21,22号の牧治三郎氏の記事が端緒となって、本年の総会[昭和44年5月22日、元箱根・山のホテルで開催]において津田[太郎]理事から東京築地活版製造所の記念碑設立の緊急動議があり、[会員の皆さまから]ご賛同をえました。

その後東京活字工業組合の渡辺[初男]理事長は数次にわたり、古賀[和佐雄全国活字工業会]会長、吉田[市郎全国活字工業会東京地区]支部長、津田[太郎]理事と会談の結果、[東京築地活版製造所跡地の記念碑設立のことは]単に活字業者団体のみで推進すべきことではない[とされた]ので、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会、東京都印刷工業組合に協力を要請して快諾を得たので、[快諾を得ました。]

[そこで]去る8月13日、古賀和佐雄会長、津田[太郎]副会長、渡辺[宗助]理事長、ならびに印刷3団体を代表して、井上[井上 計、のちに参議院議員]副理事長が、牧氏の案内で懇話会館・八十島[耕作]社長に面接し、別項の懇願書[本文での『活字発祥記念碑建設趣意書』前半部分に相当するものと推測される]を持参の上、お願いした。八十島社長も由緒ある東京築地活版製造所に大変好意を寄せられ、全面的に記念碑設立を諒承され、すべてをお引き受けくださった。新懇話会館が建設される明春には記念碑が建つと存じます。

活字発祥記念碑建設趣意書

謹啓 愈々ご清栄の段お慶び申し上げます。
さて、電胎母型を用いての鉛活字鋳造法の発明は、明治3年長崎の人、贈従五位本木昌造先生の苦心によりなされ、本年で満100年、我国文化の興隆に尽した功績は絶大なるものがあります。

先生は鉛活字鋳造法の完成と共に、長崎新塾活版製造所を興し、明治5年7月、東京神田佐久間町に出張所を設け、活字製造販売を開始し、翌6年8月、京橋築地2丁目に工場を新設、これが後の株式会社東京築地活版製造所であります。

爾来歴代社長の撓まぬ努力により、[活字]書風の研究改良、ポイント活字の創製[導入]実現、企画の統一達成を以て業界発展に貢献してまいりました。

また一方、活版印刷機械の製造にも力を注ぎ、明治、大正時代の有名印刷機械製造業者は、殆ど同社の出身で占められ、その遺業を後進に伝えて今日に至っていることも見のがせない事実であります。

更に同社は時流に先んじて、明治の初期、銅[版印刷]、石版印刷にも従事し、多くの徒弟を養成して、[凸版印刷・凹版印刷ならびに]平版印刷業界にも寄与し、印刷業界全般に亘り、指導的立場にありましたことは、ともに銘記すべきであります。

このように着々社業は進展し、大正11年鉄筋新社屋の建築に着工、翌年7月竣工しましたが、間もなく9月11日の大震火災の悲運に遭遇して一切を烏有に帰し、その後鋭意再建の努力の甲斐もなく、業績は年々衰微し、昭和13年3月、遂に廃業の余儀なきに至り、およそ70年の歴史の幕を閉じることとなったのであります。

このように同社は鉛活字の鋳造販売と、印刷機械の製造の外に、活版[印刷]、平版印刷に於いても、最古の歴史と最高の功績を有するのであります。

ここに活字製造業界は、先賢の偉業を回想し、これを顕彰するため、同社ゆかりの地に「東京における活字文化発祥」の記念碑建設を念願し、同社跡地の継承者、株式会社懇話会館に申し入れましたところ、常ならざるご理解とご好意により、その敷地の一部を提供されることとなりましたので、昭和46年3月竣工を目途に、建設委員会を発足することといたしました。

何卒私共の趣意を諒とせられ、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げる次第であります。
敬 具

昭和45年9月

発起人代表    全日本活字工業会々長   津田太郎
東京活字協同組合理事長             渡辺初男
協     賛    全日本印刷工業組合連合会
            東京印刷工業会
            東京都印刷工業組合
────
記念碑建設委員会委員
委員長                        津田太郎(全日本活字工業会々長)
委員長補佐                     中村光男(広報委員長)
建設委員                           主任 吉田市郎(副会長)
                                                                      宮原義雄、古門正夫(両副会長)
募金委員                                                    主任 野見山芳久(東都支部長)
                                                                       深宮規代、宮原義雄、岩橋岩次郎、島田栄八(各支部長)
渉外委員                                                     主任 渡辺初男(東京活字協同組合理事長)
                                                                       渡辺宗助、古賀和佐雄(両工業会顧問)
                                                                       後藤 孝(東京活字協同組合専務理事)、牧治三郎

特集/活字発祥記念碑来春着工へ、建設委員会で大綱決まる

『活字界』(第27号、昭和45年11月15日)

紹介された「記念碑完成予想図」。
実際には『活字界 28号』にみる設計変更が求められて、それがほぼ現在の姿になった。

旧東京築地活版跡に建立する「活字発祥記念碑」の大綱が、このほど発足した建設委員会で決まり、いよいよ来春着工を目指して建設へのスタートを切った。建設に要する資金250万円は、広く印刷関連業界の協力を求めるが、すでに各方面から基金が寄せられている。
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全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となり、印刷関係団体の協賛を得て進めてきた、東京における活字発祥記念碑の建設が軌道に乗り出した。同建設については、本年6月北海道で開かれた全国総会で正式に賛同を得て準備に着手、7月20日の理事会において発起人および建設委員を選出、8月21日、東京・芝の機械振興会館で第1回の建設委員会を開催した。

同会では、建設趣意書の大綱と建設・募金・渉外など委員の分担を決め、募金目標額は250万円として、まず岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになった。

9月8日、津田[太郎]委員長をはじめ、松田[友良]、中村[光男]、後藤[孝]の各委員が、岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行なった。

ついで、第2回の建設委員会を9月19日、東京の赤坂プリンスホテルで開催、岡崎石工団地における調査の報告および作成した記念碑の予想図などについて説明があり、一応これらの線に沿って建設へ推進することになり、さらに、募金総額250万円についても再確認された。

このあと業界報道紙11社を招いて記者会見を行ない、建設大綱を発表するとともに、募金の推進について紙面を通じてPRを求めたが、各紙とも積極的な協力の態度をしめし、業界あげての募金運動が開始された。

活字発祥記念碑は、旧東京築地活版製造所跡(中央区築地1丁目12-22)に建設されるが、同地には株式会社懇話会館が明年4月にビルを竣工のため工事を進めており、記念碑はビルの完成後、同会館の花壇の一隅に建設される。なお、現在記念碑の原案を懇話会館に提出して検討されており、近日中に最終的な設計ができあがることになっている。

特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に

『活字界』(第28号、昭和46年3月15日)


「活字発祥の碑」完成予想図と、碑文の文面並びにレイアウト。

昨年7月以来着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

また、表題は2月4日の理事会で「活字発祥の碑」とすることに決まり、碑文については毎日新聞の古川[毎日新聞技術部・古川恒(フルカワ-ヒサシ 1910-86)]氏の協力を得、同社田中会長に[宛てて]2案を作成して、その選定を依頼、建立された記念碑に掲げた文が決定したわけです。

 《特集/東京築地活版製造所記念碑設立顛末記 『活字界 第23号』の起稿者はたれか?》
『活字界』(第23号、昭和44年11月15日)の「東京築地活版製造所記念碑設立顛末記」はふしぎな文章である。すなわち編集長:中村光男はリード文の中で、これを「懇願書」としている。ところが本文では「活字発祥の碑建設趣意書」となっているし、見出しは「設立顛末記」とされている。

これをみると、明治3年の長崎のひと本木昌造先生から説きおこし、東京築地活版製造所の歴史を縷縷といている。ここには「歴代社長の撓まぬ努力」はしるされているが、平野富二に関してはまったく触れられておらず、後段には「ポイント活字の創製[導入]実現、企画の統一達成を以て業界発展に貢献してまいりました」とある。これは野村宗十郎の功績とされていることがらである。

いたずらに推測をかさねることは慎みたいが、全体の構文といい、あまりに本木昌造と野村宗十郎の称揚に熱心であることから、筆者はこの一文の起稿者は牧治三郎だったとみている。
それを全日本活字工業会で一定の手入れをして、書式を整え、牧治三郎に託し、その案内をもって「懇話会」にこの「活字発祥の碑建設趣意書」を提出したものと考えている。

また、プロジェクトの進行にともない、次第に全日本活字工業会会員との距離がひらき、それにかわって登場した古川恒ヒサシ(毎日新聞技術部、1910-86)によって撰文され、毎日新聞田中社長が校閲したとされる碑文は以下のようなものとなり、そこには本木昌造、野村宗十郎の名前はしるされなかったという事実がある。
ささいなことのようではあるが、こうした牧治三郎の姿勢が、のちにこの碑が除幕式を迎えたとき、おおかたの活字鋳造業者は「なぜだ? どうして?」となって、牧治三郎は活字業界からの信頼を失墜した。

活字発祥記念碑建設趣意書
謹啓 愈々ご清栄の段お慶び申し上げます。
さて、電胎母型を用いての鉛活字鋳造法の発明は、明治3年長崎の人、贈従五位本木昌造先生の苦心によりなされ本年で満100年、我国文化の興隆に尽した功績は絶大なるものがあります。
先生は鉛活字鋳造法の完成と共に、長崎新塾活版製造所を興し、明治5年7月、東京神田佐久間町に出張所を設け、活字製造販売を開始し、翌6年8月、京橋築地2丁目に工場を新設、これが後の株式会社東京築地活版製造所であります。

爾来歴代社長の撓まぬ努力により、[活字]書風の研究改良、ポイント活字の創製[導入]実現、企画の統一達成を以て業界発展に貢献してまいりました。
また一方、活版印刷機械の製造にも力を注ぎ、明治、大正時代の有名印刷機械製造業者は、殆ど同社の出身で占められ、その遺業を後進に伝えて今日に至っていることも見のがせない事実であります。

《昭和13年以来、昵懇の仲だった懇話会と牧治三郎》

「活字発祥記念碑建設趣意書」の提出先、あるいはその「懇願先」となった懇話会館への「案内役」は、当時67歳を迎え、小規模な活版印刷材料商を営んでいた牧治三郎があたっていた。
ときの印刷界・活字界の重鎮が連れだって「懇願書――活字発祥記念碑建設趣意書」を携え、懇話会館を訪問するために、印刷同業組合のかつての一介の書記であり、小規模な材料商であった牧が、どうして、どのように、その案内役となったのか、そして牧の隠された時局下の行蔵の実態も、間もなく読者も知ることになるはずである。
そもそも株式会社懇話会館という、いっぷう変わった名称をもつ企業組織のことは、ほとんど知られていないのが実情であろう。「株式会社 懇話会館」のWebsiteと、筆者の手許資料から紹介する。

会社名 株式会社 懇和会館
設 立 1938年(昭和13)11月28日
代表者 取締役社長 松本 龍輔
事業内容 不動産の取得
不動産の賃貸
前各項に付帯する一切の業務
所在地 〒104-0045 東京都中央区築地1丁目12-22 コンワビル13階
   
資本金 3億円
株 主 古河電気工業株式会社
住友電気工業株式会社
株式会社 フジクラ
三菱電線工業株式会社
日立金属株式会社
昭和電線ケーブルシステム株式会社
役 員 代表取締役社長 松本 龍輔
取締役       佐藤 哲哉
取締役       本郷 祥介
取締役       佐藤 貴志
取締役       大塚 眞弘
取締役       山室 真
取締役       萩本 昌史
監査役       檀野 和之
関連会社 築栄実業株式会社

《株式会社懇話会館の歴史 ── この項文責筆者》
1938年(昭和13)春、次第に戦時色が濃くなって行く中で、政府は戦時物価統制運用のために、軍需資材として重要な銅資材の配給統制に着手した。そのために「銅配給統制協議会」を最高機関として、複数の関連各機関が設立された。

一方その効率的な運用のために、都内各所に散在していたこれら各機関の事務所を一ヶ所に集中させることが求められ、同年11月、電線会社の出資により「株式会社懇和会館」が設立され、同時に現在の地に旧東京築地活版製造所が所有していた建物を取得し、ここに「銅配給統制協議会」「日本銅統制組合」「電線原料銅配給統制協会」「日本故銅統制株式会社」「全国電線工業組合連合会」などの関連諸団体が入居してその利便に供した。

その後1971年(昭和46)、オフィスビルとして建物を一新し、「コンワビル」という名称で広く一般の企業団体にもその一部を事務所として賃貸するほか、都内に賃貸用寮も所有し、テナントへのビジネスサポートを提供する企業として歩んでいる。
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ここで筆者はあまり多くをかたりたくはない。ただ『広辞苑』によれば、【統制】とは、「統制のとれたグループ」の用例のように、ひとつにまとめておさめることであり、「言論統制」の用例のように、一定の計画に従って、制限・指導をおこなうこと、とされる。
また【統制経済】とは、国家が資本主義的自由経済に干渉したり、計画化すること。雇用統制、賃金統制、軍事的強制労働組織などを含む労働統制、価格統制、配給統制、資材・資金の統制、生産統制などをおこなうとされる。

そしてあまりにも唐突に、1938年(昭和13)3月、清算解散が決定されたのが東京築地活版製造所であった。その旧社屋には、まるで東京築地活版製造所の解散を待っていたかのように、おなじく1938年(昭和13)11月、「銅を中心とする金属関係の統制機関」、「懇話会館」が購入して、一部を改装して使用した。

『電線会社の出資により「株式会社懇和会館」が設立され、同時に現在の地に旧東京築地活版製造所が所有していた建物を取得し、ここに「銅配給統制協議会」「日本銅統制組合」「電線原料銅配給統制協会」「日本故銅統制株式会社」「全国電線工業組合連合会」などの関連諸団体が入居してその利便に供した』

以上を踏まえて、株式会社懇話会館の株主構成をみると、いずれの株主も電線製造という、銅を大量に使用する大手企業ばかりであり、その生産・受注・販売にあたっては、熾烈な企業間競争をしている企業がずらりとならんでいる。
それらの企業が、戦時統制経済体制下にあったときならともかく、1938年(昭和13)から75年余のながきにわたって、呉越同舟、仲良く、ひとつのビルを共有していることには素朴な疑問を持たざるをえない。

また、その発足時の母体となった「銅配給統制協議会」、なかんずく「日本故銅統制株式会社」とは、時局下で陰湿に展開された「変体活字廃棄運動」を牽引した、官民一体の統制組織であり、活字界における故銅――すなわち貴重な活字母型や鋳造活字を廃棄、没収に追い込んだ組織であったことは、まぎれもない事実としてのこっている(片塩二朗「志茂太郎と変体活字廃棄運動」『活字に憑かれた男たち』)。

この、わが国活字界における最大の蛮行、「変体活字廃棄運動」に関しては、さらに詳細に「弘道軒清朝活字の製造法並びにその盛衰」『タイポグラフィ学会論文集 04』に記述したので、ぜひご覧いただきたい。

ここで読者は牧治三郎の主著のひとつ、『創業二五周年記念 日本印刷大観』(東京印刷同業組合、昭和13年8月20日)を想起して欲しい。同書はB5判850ページの大冊であるが、その主たる著者であり、同会の書記という肩書きで、もっぱら編輯にあたったのは牧そのものであった。そして牧が東京印刷同業組合の書記を辞し、懇話会館が設立されたのもおなじく「昭和13年」である。

さらに、牧の地元、東京印刷同業組合京橋地区支部長・高橋與作(与作)らが「変体活字廃棄運動」を提唱したのも昭和13年の夏からであった。
また本論からはずれるので詳述は避けるが、時局下の企業の赤紙とされた「企業合同」の実務、すなわち官からの数値命令を、具体的に個個の企業名に置きかえる実務を取りしきったのは、まぎれもなく牧治三郎であったことを辛くおもう。

さらにパンフレット『活字発祥の碑』に牧がつづった、昭和10-13年にかけての東京築地活版製造所の記録には以下のようにある。
これをみても、1938年(昭和13)とは、東京都中央区(旧京橋区)における牧の周辺のうごきは慌ただしく、いまだに解明されていない部分があまりにも多いのである。

◎ 昭和10年(1935)6月
  松田精一社長の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任のあと、吉雄永寿専務取締役を選任。
◎ 昭和10年(1935)7月
  築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。
◎ 昭和10年(1935)10月
  資本金60万円。
◎ 昭和11年(1936年)7月
  『新刻改正五号明朝体』 (五号格) 字母完成活字発売。
◎ 昭和12年(1937年)10月
  吉雄[永寿]専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。
◎ 昭和13年(1938年)3月
  臨時株主総会において会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。
       牧治三郎「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』
(編輯発行・同碑建設委員会、昭和46年6月29日)
【補  遺 ── 筆者】
◎ 1938年(昭和13)春
次第に戦時色が濃くなって行く中で、政府は戦時物価統制運用のために、軍需資材として重要な銅資材の配給統制に着手した。そのために「銅配給統制協議会」を最高機関として、複数の関連各機関が設立された。
◎ 1938年(昭和13)11月
電線会社の出資により「株式会社懇和会館」が設立され、同時に東京築地活版製造所の旧本社ビルを取得し、ここに「銅配給統制協議会」「日本銅統制組合」「電線原料銅配給統制協会」「日本故銅統制株式会社」「全国電線工業組合連合会」などの関連諸団体が入居してその利便に供した。
◎ 1971年(昭和46)、東京築地活版製造所から購入した旧ビルを、オフィスビルとして建物を一新し「コンワビル」という名称で広く一般の企業団体にも事務所として賃貸。

《牧治三郎の辛い時代の想起と、記念碑の提唱》
すなわち、牧は印刷同業組合の目立たない存在の書記ではあったが、1920年(大正9)から1938年(昭和13)のあいだの東京築地活版製造所の動向を、じっと注目していたのである。
そして長年の経験から、だれをどう突けば、どういう動きがはじまるか、どこをどう突けば、どういうお金が出てくるか、ともかく人とお金を動かすすべを熟知していた。
もうおわかりとおもうが、牧は戦前から懇話会館とはきわめて昵懇の仲であり、その意を受けて動くことも多かった人物だったのである。

筆者は「変体活字廃棄運動」という、隠蔽され、歴史に埋もれていた事実を30余年にわたって追ってきた。そしてその背後には、官民合同による統制会社/日本故銅統制株式会社の意をうけ、敏腕ながらそのツメを隠していた牧治三郎の姿が随所にみられた。

それだけでなく、戦時下の印刷・活字業界の「企業整備・企業統合 ―― 国家の統制下に、諸企業を整理・統合し、再編成すること――『広辞苑』」にも牧治三郎がふかく関与していたことに、驚愕をこえた怖さをおぼえたこともあった。
そのわずかばかりの資料を手に、旧印刷図書館のはす向かいにあった喫茶店で、珈琲好きの牧治三郎とはなしたこともあった。ともかく記憶が鋭敏で、年代までキッチリ覚えていた牧だったが、このときばかりは、
「戦争中のことだからな。いろいろあったさ。たいてえは忘れちゃったけどな」
とのみかたっていた。いつもは炯炯たる眼光で相手を見据えながらはなす牧だったが、そのときの眼光は鈍くなり、またそのときにかぎって視線はうつむきがちであった……。

つまり牧治三郎には懇話会館とのそうした長い交流があったために、懇話会館に印刷・活字界の重鎮を引き連れて案内し、この記念碑建立企画の渉外委員として、ただひとり、なんの肩書き無しで渉外委員として名をのこしたのである。
もしかすると、この活字発祥の地を、銅配給統制協議会とその傘下の日本故銅統制株式会社が使用してきたこと、そしてそこにも出入りを続けてきたことへの贖罪のこころが、牧にはあったのかもしれないと(希望としては)おもうことがある。

それがして 牧の記録、
「以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭で[も] よいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動[への] 参加を願うのもよいと思う 」
という発言につらなったとすれば、筆者もわずかながらに救われるおもいがする。
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次回は、いよいよ「活字発祥の碑」の建立がなり、その除幕式における混乱と、狼狽ぶりをみることになる。すなわち、事実上除幕式を2回にわたっておこなうことになった活字界の悩みは大きかった。
そしてついに、牧治三郎は活字界からの信用をすっかり失墜して、孤立を深めることになる。

平野富二と活字*03|『活字界』牧治三郎二回の連載記事に 戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

『活字界』での牧治三郎 二回の連載記事に
戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

牧治三郎の問題提起「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」をうけて
当時の執行部は、驚愕、戦慄、恐懼、狼狽して「禊ぎと祓い」にはしった。
牧は不気味な口吻をもって、活字鋳造業者に警告を発するとともに
即座に知己の多い「懇話会」への建碑の根回しをはじめていた。
したがって「活字発祥の碑」建立企画から、落成披露までの間の主役は牧であった。
ところがこの2回・8ページにわたった連載記事の掲載から11ヶ月後
すなわち「活字発祥の碑」の除幕式の直後から、牧は急速に業界の信頼をうしなう。
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掲載号2回目と同じ『印刷界 22号』(全日本活字工業会、昭和46年7月20日)には
早速東京活字協同組合理事会での協議をへた「記念碑建設の方向の決定」を
急遽広告欄を割いて、広報部・中村光男氏が囲み記事として以下のように報告している。
その周章狼狽ぶりがよくわかる内容になっている。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会広報部:中村光男

東京活字協同組合では[昭和46年〕6月27日開催の理事会で、「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議した。旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌『活字界』に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と、同建物跡に〔新ビルを〕建設される懇話会館の八十島〔耕作〕ヤソジマ-コウサク社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。
『活字界  22号』 (全日本活字工業会  昭和46年7月20日)
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【お断り】 東京築地活版製造所の呼称は時代によって様様であり、しばしば略称や旧社名とも混用されている。本稿ではその混乱を避け、特殊な引用の場合をのぞき、1873(明治6)創立-1938年(昭和13)清算解散までのあいだのすべての期間の社名を「東京築地活版製造所」とし、また法人社格も表記しないことにした。

東京築地活版製造所明治10年版1
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写真上) 『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO  通称:明治10年版東京築地活版製造所活字見本帳』(活版製造所 平野富二、平野ホール所蔵)。

この口絵は東京築地活版製造所の最初期の建築物。木口木版画を清刷りとして、電気版で印刷したとみられる。右側の袖看板には「長崎新塾出張東京活版所」とある。手前に人力車が描かれているが、これはもっぱら平野富二が愛用したもので、現代の運転手つき自家用車にあたるとみてよい。これに関して次女・幾みがのこした記録を紹介するのには、もうすこし時間をいただきたい。

写真中) 『活版見本』(東京築地活版製造所、明治36年)
この口絵は銅版画を清刷りとして電気版で印刷としたものとみられる。画面中央部のちいさな建物は上掲写真の明治7年完成の創業当初からのもので、このころは事務棟とされていた。その手前、築地川に浮かぶ舟艇とその周辺設備は、平野富二との関連で重要な設備と乗り物であるが、『平野富二伝』(古谷昌二、2013、朗文堂 pp 440)を参照願いたい。

写真下) 記録をのこすことが少なかった東京築地活版製造所最後の本社工場ビル。1923年3-9月にかけて順次設備が完成し、1971年に新築のために取り壊された。
東京築地活版製造所第四代専務、野村宗十郎の発意によって、創業期からの建物を全面撤去して、同地に1923年(大正12)3-9月に竣工。完成直後、本格移転日の前日に関東大地震に見舞われたがビル本体の損傷は少なかったとされる。

1938年(昭和13)東京築地活版製造所清算解散にあたり、債権者から精銅業者の団体「懇話会」に売却され、「懇話会館」の名称のもとに継続して使用された。
1971年(昭和46)3月、懇話会が関東大地震、戦災の猛火を良くしのいできたこのビルを、老朽化を名目に取り壊し、あたらしいビルの建築を決定した。現在は新ビルが建ち「コンワビル」として使用されている。
全日本活字界は「活字発祥の碑」の建造地として、この写真の左角・旧正門(西南)付近に建設を希望したが、所有者の「懇話会」から容れられず、右奥のあたり(東南角)に設けることを許された。

※ このビルの正門が晴海通り万年橋方向にむかい、それは西南方向で裏鬼門にあたる ── とされているが、近年資料の発掘と調査が進み、正門は祝橋にむかい、西北方向にあったという指摘・見解が多くなっている。
稿者はこのふるいビルが取りこわされると聞き、一度だけ夜に前を通ってみたことがあるが、正門の位置などは意識もなく、記憶していない。幸い建設会社が判明し資料紹介中というところ。
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東京築地活版製造所の創立者に本木昌造におき、本木昌造への過剰な称揚と讃仰が目立つようになるのは、ずっと時代がさがって、第五代・野村宗十郎(1857-1925)が専務社長時代になってからになる。なお東京築地活版製造所では歴代専務が社長として会社を総覧し、支配人がそれをたすけていた。
また長崎系の人脈と、長崎系の資金が枯渇した昭和最初期、この時代に刊行された『株式会社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所、昭和4年10月) にも、そうした本木昌造を過剰に称揚する風潮をあおりたてるような文章が冒頭からつづいている。これもちかぢか紹介し たい資料である。

野村宗十郎の本姓は服部であった。のちに野村姓を名乗り、元薩摩藩士と称した。古谷昌二氏が東京築地活版製造所歴代社長略歴を調査されており、その真相があきらかになることが期待される。
父親が長崎在勤であったために、本木昌造の新街私塾にまなび、のちに大蔵省の主計官僚となった。その野村宗十郎を東京築地活版製造所に迎えたとき、どういうわけか平野富二は、倉庫掛の役職を野村に命じた。

本木昌造伝 野村宗十郎寛永寺墓地。野村宗十郎の墓地。東京都目黒区、目黒不動尊の仁王門を入ってすぐ右手に、野村宗十郎の胸像がある。
野村宗十郎とその一家の墓所は、東京谷中霊園内上野寛永寺墓地にある。

この大蔵官僚・野村宗十郎を迎えたとき、おそらく平野富二は、活字製造や機械製造にくらかった野村に、製造業者・現業者としてのはじめを、在庫の管理からまなばせようとしたものとおもわれるが、自負心と上昇意欲がつよく、能力もあった野村は、この待遇にいたく自尊心を傷つけられ、おおきな不満があったとものとみられる。
あるいは、なにかと官僚をきらうふうがあった平野富二とは、単に相性が悪かっただけなのかもしれないとおもうこともある。
牧治三郎はかつてこう述べていた。
「野村先生は平野さんが嫌いでさぁ、平野さんのことになるとムキになっていたなぁ。よっぽど嫌いだったんだろう。平野さんが大蔵省からきた野村先生を、いきなり倉庫係になんかにしたから、恨んでたんだろうな」
それでも野村は東京築地活版製造所でもその才能を発揮して、支配人、専務社長と昇進をかさねた。

平野富二が1892年(明治25)若くして歿し、後継となった第三代専務社長・曲田 茂(マガタ-シゲリ 1846-94)をたすけて支配人となったが、まもなく曲田が旅先に客死するにおよび、1894年、当時貴族院議員をつとめていた顕官の名村泰蔵(長崎出身。新街私塾で英語と数学を教授。大審院長。1840-1907)を第四代専務社長として迎えた。
その名村も歿するにおよび、1907年(明治40)ついにみずからが東京築地活版製造所第四代専務に就任した。
その後野村宗十郎は、東京築地活版製造所の諸記録から、平野富二の存在と、その功績を抹消することに 蒼いほむら を燃やし続けた。
[参考:花筏 【資料紹介】 株式会社東京築地活版製造所第三代社長『曲田成君略傳』(松尾篤三編集兼発行 東京築地活版製造所印刷)

《平野富二の移転当時は、大火災の跡地であった築地界隈》
平野富二が買い求め、1873年(明治6)年に移転した、あたらしい東京築地活版製造所の敷地に関して、牧治三郎は次のようにしるしている。

平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)中奥御小姓の住宅跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]を中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人[ひとり]歩きが出来なかった。
(『活字界 21号』(牧治三郎、全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

現在の築地西本願寺。江戸期の寺領の数分の一の規模になっている。築地万年橋からの風景:右・松竹ビル、中・コンワビル(東京築地活版製造所跡)、左・電通関連企業ところが、牧治三郎が 江戸切絵図 で調べたような情景は、1872年(明治5)2月25日までのことである。
いかに該博とはいえ、どうやら牧はこの記録を見落としていたようである。
1872年2月25日、銀座から築地一帯に強風下での大火があって、築地では本願寺の大伽藍はもちろん、あたり一面が焼け野原と化した。
そして新政府は、同年7月13日に、築地本願寺の寺域をおおきく削るとともに、築地本願寺はもとより、東京中心部の墓地を集合移転させる構想のもとに、青山墓地をつくり、あいついで、雑司ヶ谷、染谷、谷中などに巨大な墓地をつくって、市中から墓地の移転をすすめていた。

したがって築地本願寺とその周辺の末寺の墓地は、ねんごろに除霊をすませて、すでに新設墓地へ移転していたのである(『日本全史』 講談社  918ページ  1991年3月20日)。
現代でも旧京橋区、銀座から築地一帯が繁華な商住地となり、そこに墓地をみることがすくないのは、こうした背景による。

すなわち活字と印刷機器製造のために、また長崎製鉄所出身で「鋳物士 イモジ」の心性を知る平野富二が、牧治三郎が指摘したような場所を選択することは考えられない。
平野富二が選んだ新天地は、火焔によって、また築地本願寺とその末寺の寺僧によって、すっかり除霊が済んでおり、当然移転に際しては神官による「禊ぎと祓い」がなされた土地であったことは注目されて良い。
1873年(明治6)7月、平野富二が本格スタートの地として選び、現在は「活字発祥の碑」が建立されている「築地二丁目万年橋東角二十番地」(現住所:東京都中央区築地1-12-22)とは、こうした場所であった。

《築地川から石川島へ、そして大海原へ。水利にめぐまれた創業の地-古今東西を問わず、活字版印刷は水運の良い場所で創始した》
筆者はかつて、東京築地活版製造所、石川島造船を創業した平野富二が、どのように水利・水運を意識してこの地を選んだのかに興味をもったことがある。
それは陸上輸送が不便で、自動車などの登場するはるか以前、560年ほど前から活版印刷ははじまっていた。
河川・運河沿いに発展した印刷工房マインンツ グーテンベルク工房それらの工房の発祥地をみると、ライン川沿い、マインツで創業したヨハン・グーテンベルク、ヴェネツィアの運河群に面して創業したアルダス・マヌティウス、パリのセーヌ川のほとり、ヴィスコンティ通りに開設されたオノレ・バルザックのちいさな印刷所は、のちにドベルニ&ペイニョ活字鋳造所として盛名を馳せた。
また19世紀世紀末にテムズ河畔に結集した、ダヴス・プレス、ケルムスコット・プレスなどのプライベート・プレスの工房など、歴史に名をのこした活版印刷工房のおおかたが、川や運河に面した地で創業している。
つまり20世紀までの活版印刷士(タイポグラファ)は、重量のある活版印刷機、金属活字、印刷用紙、図書の運搬のために、水運をもちいていたからである。
まして平野富二は、いずれは造船業への進出の夢を抱いての創業であった。

そうした関心から、1872年(明治5)7月、平野富二が最初に「神田佐久間町三丁目門長屋」に設けた「長崎新塾出張東京活版所」の仮工場(現在も佐久間町の町名と家並みがそのままのこる。秋葉原駅から徒歩五分ほど。正しくは通りひとつを隔てた津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋とその抱えこみ地。現千代田区神田和泉町一。千代田区立和泉公園のあたり)の場所から、移転先の「築地二丁目万年橋東角二十番地」(現住所:東京都中央区築地1-12-22)までのあいだを、「江戸切絵図」を手にしながら実際に歩いたことがある。
驚いたことに、和泉公園前、神田佐久間町三丁目のスタート地点から、終始神田川のゆたかな水量にめぐまれ、暗渠になっている部分もあったが、ほぼ「江戸切絵図」に描かれた河川や堀割跡にそって、築地万年橋跡、中央区築地1-12-22まであるくことができた。

築地川は現在は埋め立てられ、首都高速道路の一部で上部は公園になっているが、すくなくとも昭和初期までは、喫水の浅い船でなら、神田川、堀割、築地川の水利をもちいて、相当の物資の輸送も可能ではないかとおもわれた。
同様の試みは日吉洋人氏(武蔵野美術大学基礎デザイン学科助手。活版カレッジ修了)もおこなった。

もちろん、天然の良港長崎にうまれ、すでに幕末から艦船に搭乗・操艦していて、船にはおおいに親しんでいた平野富二である。
しだがって本章冒頭で紹介した『東京築地活版製造所 活版見本』(東京築地活版製造所、明治36)の口絵に、ゆたかな水量の築地川が描かれ、そこに小型の舟艇が繋留されているのは決して偶然ではないのである。

平野富二にあっては、河川は道と同様の存在であり、この水利にめぐまれた築地の地をえらんだ背景には、いずれは大道たる大海への足と道、すなわち造船業の創始と、航路開発・港湾開発へ進出の夢を、あつく抱いてこの地を選んだものとおもわれた。

1853年(嘉永6)水戸藩が開設した石川島造船所跡に、1876年(明治9)みずからの造船所(石川島平野造船所)を開設して造船事業をはじめた平野富二は、水運の有効性を十分に知っていた。また終生、船での旅をいとうことなく繰りかえしたひとでもあった。このことは『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二、朗文堂)に詳述されている。

したがって築地の本格創業にむけた新天地の選択には、ゆたかな水量の築地川と、そこから石川島をへて、渺渺とひろがる東京湾から太平洋につらなる「水運の利便性」という視点から、この地が選択された可能性がおおきいとみられた。
與談ながら……、石川島造船所(現 I H I )が本2013年をもって「創業160年」としているのは、1853年(嘉永6)水戸藩が開設した石川島造船所の開設をもってその起点としている。

江戸切り絵図から

江戸切絵図
数寄屋橋から晴海通りにそって、改修工事がなった歌舞伎座のあたり、采女ヶ原 ウネメガハラ の馬場を過ぎ、万年橋を渡ると永井飛騨守屋敷(現松竹ビル)、隣接して秋田筑後守屋敷跡が東京築地活版製造所(現コンワビル)となった。
いまは電通テックビルとなっているあたり、青山主水邸の一部が平野家、松平根津守邸の一部が薩摩藩出身・英国公使/上野景範カゲノリ家で、義弟とみられる弘道軒・神﨑正誼マサヨシが、この上野の長屋に寄留して楷書体活字のひとつ「弘道軒清朝活字」を創製した。
神崎正誼の弘道軒活版製造所は、本格創業の地としてここから徒歩五分ほど、銀座御幸通り(現ユニクロ銀座旗艦店の裏手)に開設したが、活字製造者やタイポグラファにとっては まさにゆかりの地である。

《大火のあと、煉瓦建築が推奨された ── 火災を怖れた東京築地活版製造所の社風の一端》
東京築地活版製造所の建物が、創業直後から煉瓦づくりであった……、とする記録に関心をむけた論者は少ないようである。
もともとわが国の煉瓦建築の歴史は幕末からはじまり、地震にたいする意外なほどの脆弱さをみせて、普及が頓挫した関東大地震のあいだまで、ほんの65年ほどという短い期間でしかなかった。

わが国で最初の建築用煉瓦がつくられたのは1857年(安政4)、長崎の溶鉄所事務所棟のためだったとされる。その後幕末から明治初期にかけて、イギリスやフランスのお雇い外国人の技術指導を受けて、溶鉱炉などにもちいた白い耐火煉瓦と、近代ビルにもちいた赤い建築用の国産煉瓦がつくられた。
それが一気に普及したのは、前述した1872年(明治5)2月25日におきた、銀座から築地一帯をおそった大火のためである。

築地は築地本願寺の大伽藍をはじめとして、あたり一面が全焼し、茫茫たる焼け野原となった。 その復興に際し、明治新政府は、新築の大型建築物は煉瓦建築によることを決定した。 また、この時代のひとびとにとっては、重い赤色の煉瓦建築は、まさしく文明開化を象徴する近代建築のようにもみえた。

そのために東京築地活版製造所は、その社屋をさまざまな資料などに わざわざ「煉瓦建築で建造」したと、しばしば、そしてあちこちにしるしていたのである。
さらに平野富二にとっては、水運に恵まれ、工場敷地として適当な広大な敷地を、しかも焼亡して、除霊までなされた適度な広さの武家屋敷跡を、わずかに1,000円(米価1俵60kg基準で、現代との価格差を2,000倍とすると、2千万円見当)という、おそらく当時の物価からみても低額で取得することができたのである。

その事実を、平野富二は複数の出資者にたいして、購入価格を開示して、けっして無駄な投資をしたのではないことを表明したために記録にのこったものとみたい。
平野富二は官業をきらい民間企業、民業にこだわったために、のちに渋澤榮一の助言をえて、株式会社に改組するまでは「複数の個人出資者」の存在はおもかった。このことは、嫡孫・平野義太郎があかした「平野富二首證文」をつうじてまもなく紹介したい。
すなわち、牧治三郎が述べた「幕末切腹事件」などは、青雲の志を抱いて郷関をでた平野富二にとって、笑止千万、聞く耳もなかったこととおもわれる。

《野村宗十郎専務時代の東京築地活版製造所新ビルディングの西南角の正門は、裏鬼門に設けられていた》
「寝た子をおこすな」という俚諺がある。
牧治三郎が活字鋳造業者の機関誌『活字界 22号』の連載記事で述べた、
「大正12年に新築された東京築地活版製造所のあたらしいビルの正門は、裏鬼門とされる場所に設けられた」
とする記述は、もしかすると、あまりにも甚大な被害をもたらした関東大地震と、戦災の記憶とともに、歴史の風化に任せてもよいのかもしれないとおもったことがある。
このおもいを牧に直接ぶつけたことがあった。

東洋インキ製造会社の故小林鎌太郎社長が、野村宗十郎社長には遠慮して〔直接には〕話さなかったが、当時の築地活版〔東京築地活版製造所〕の重役で、〔印刷機器・資材輸入代理店〕西川求林堂の故西川忠亮氏に『新ビルの正門は裏鬼門だ』と話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。
『活字界  22号』 (牧治三郎、全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

「西川求林堂の西川忠亮さんから指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、自社の新ビルの正門が裏鬼門、それももっとも忌まれる死門の方角にあたることを知らなかったのですか」

「もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ[活字鋳造工]の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出入しなかった。
オレや組合〔印刷同業会〕の連中だって建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんな裏鬼門で、しかも死門とされるとこには正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな」

「それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか」

「野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった」


家相八方位吉凶一覧(平成26年神宮寳暦』)東京築地活版製造所の新ビルの正門は、家相盤あるいは風水羅針盤とされる
「家相八方吉凶一覧」でいう、裏鬼門に設けられたと牧治三郎は記録した。

『平成二十六年神宮寳暦』(高島易断所本部、東京神宮館蔵版、208p. 2013)

《家相八方位吉凶一覧からみた裏鬼門、そして死門とは》
宅地や敷地の相の吉凶を気にするひとがいる。 ふるくは易学として ひとつの学問体系をなしていた。
またこの時期(10月-翌年1月中)なら、書店のレジの近くに各種の『和暦』が山のようにつまれ、そこにはほとんど上掲のような「吉凶図」をみることができる。

ここで東京築地活版製造所の本社工場のことをあらためてしるすと、1873年(明治6)7月、平野富二らがこの地に煉瓦建てのちいさな建物をもうけた。そして斯業の発展とともに増改築をくりかえした。そして1923(大正12)全面改築がなされて、上掲写真のような姿になっていた。
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このビルは堅牢なつくりであった。不幸なことに完成直後に関東大地震に見舞われ、太平洋戦争でも空襲の猛火に包まれた歴史をもっていた。
東京築地活版製造所の本社工場の新ビルディングは、1923年(大正12)3-9月に竣工した。
地下1階地上4階の堂堂たるコンクリート造りで、活字や印刷機器の重量に耐える堅牢な建物であった。ところが竣工から間もなく、同年9月1日午前11時58分に襲来した関東大地震によって、東京築地活版製造所の新ビルは、焼失は免れたものの、設備の一切は火災によって焼失した。
またこのとき隣接して存在していた、同社設立者の平野家も、土蔵を除いてすべてを焼失し、印刷関連機器の製造工場「東京築地活版製造所月島分工場」も火焔に没した。

関東大地震でも焼失を免れたこのビルは、東京築地活版製造所が清算解散した1938年(昭和13)に債権者をへて、精銅・銅線業者による「懇話会」に売却され、一部を改装して継続使用された。そののち戦災の猛火にもあったが、それにもよく耐えて、1971年(昭和46)まで「懇話会館」の名称で使用されていた。
さすがに老朽化が目立って、1971年(昭和46)3月「懇話会」によって、全面取り壊し、新築ビルが建設されることになったことをきっかけとして、牧治三郎による『活字界』での二回の連載記事が掲載された。
この場所にはあたらしい「コンワビル」が新築されてこんにちにいたっている。

取り壊し前の東京築地活版製造所の新ビルの正門は、西南の角、すなわち易学の「家相八方位」ではもっとも忌まれる死門、坤(コン、ひつじさる)の方角に設けられていた(牧治三郎)。
現代ではこうした事柄は、おおかたからは迷信とされて一笑に付されるが、それでもひとからそれをいわれれば気分の良いものではない。
また戯れにひいた神社のお神籤で「凶」などをひくと、なにか不快になるものだ。迷信とはそんなものかもしれない。つまりソッとしておくことである。
ところが牧治三郎は、取り壊しが決定した元東京築地活版製造所ビルの、こうした「幕末の忌まわしい事件による不浄の地 ── これは事実と反することは既述した」と、「正門が忌むべき裏鬼門にあった ──一部の識者から異論が呈されている」ことの歴史を暴きたてたのである。 まさしく 「寝た子をおこした」 のである。

     

牧  治 三 郎  まき-じさぶう
67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)―2003年(平成15)歿。

これからその牧の当時の写真を再度紹介するとともに、B5判2ページ、2回、都合4ページにわたった活字鋳造業界の機関誌『活字界』の連載を紹介したい。
ここには東京築地活版製造所が、必ずしも平坦な道を歩んだ企業ではなく、むしろ官営企業からの圧迫に苦闘し、景気の浮沈のはざまでもだき、あえぎ、そして長崎人脈が絶えたとき、官僚出身の代表を迎えて、解散にいたるまでの貴重な歴史が丹念につづられている。

この『活字界』の連載での牧治三郎指摘を受けて、当時の印刷人や活字人が、どれほど驚愕し、戦慄し、周章狼狽して、急遽「禊ぎと祓い」のために対処したのかを紹介することになる。
その心性の背後には、不浄を忌み、火を怖れうやまうという、「鋳物師 イモジ」の風習と伝統があったことは、ここまで読みすすまれた読者なら、もうおわかりであろう。
なお、牧治三郎の文章はときおり粗放になることがある。また『活字界』という、いわば身内の業界機関誌でのみじかい連載でもあったので、校正なども粗略に終えたかも知れない。そのため[ ]をもちいて筆者が補筆した部分がある。

牧治三郎の連載は、以下の二冊の小冊子に発表された。そしてその提唱をうけた業界の対応は、なんとも素早く連載二回目と同様の『活字界 22号』に掲載されている。
◎ 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
                  『活字界 21号』(全日本活字工業会、昭和46年5月)
◎ 続・旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
                  『活字界 22号』(全日本活字工業会、昭和46年7月)

この『活字界 21号』と『活字界 22号』の発行のあいだ、わずか2ヶ月のあいだに、全日本活字工業会の下部組織、東京活字協同組合は、はやばやと、6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議をしている。
そして同理事会の協議の結果、連載二回目掲載誌の『活字界 22号』(全日本活字工業会、昭和46年7月)に、同時に、
「東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった」
として、本来は広告のスペースを無理やり潰して、以下の方向性を打ちだすことになった。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会広報部:中村光男
(牧治三郎の問題提起2回目と同じ『印刷界22号』に 、囲み記事として広告欄に掲載された)

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議した。旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌『活字界』に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と同建物跡に建設される懇話会館の八十島[耕作]ヤソジマ-コウサク社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。

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旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎 『活字界 21号』(全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

『活字界 21号』「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(昭和44年5月20日)

《活字発祥の〔舞台、〕歴史〔の幕を〕閉じる》
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビルに改築のため、去る[昭和46年]3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。
この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円(現在の金で4億円)を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕がここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

《大正12年に竣成》
[東京築地活版製造所の最後の]この社屋は、大正11年野村宗十郎社長[専務]の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所当時の古建材で建てた月島分工場も灰燼に帰した。罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、大阪出張所[大阪活版製造所]の字母[活字母型]が健在だった[大阪活版製造所の閉鎖時期については資料が少ない。大正12年に存在していたとは考えにくいが、同社系の企業が谷口印刷所などとして存在していた時代であり、そこからの提供を指すものか?]ので、1週間後には活字販売を開始[した]。 いまの東京活字[協同]組合の前身、東京活字製造組合の罹災[した]組合員も、種字[活字複製原型。 ここでは電鋳法による活字母型か、種字代用の活字そのものか?]の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。

大阪活版製造所跡の碑文と景観「大阪活版所跡」碑(所在地:大阪市東区大手通二丁目。写真:雅春文庫提供)

大阪活版所、大阪活版製造所に関しては、その設立の経緯、消長とあわせ、まだ十分には印刷史研究の手がおよんでいない。この「大阪活版所跡」碑の側面の碑文にはこのようにある。
「明治三年三月 五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された 大阪の近代印刷は ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした」

この「五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された」の部分がわかりづらい。すなわち平野富二は、五代友厚(1836-85)に、のちに巨額の「返済」をしているからである。これは近近「平野富二首證文」のなかで考察したい。

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DSCN1520uuDSCN1414uuDSCN1413uuなお大阪商工会議所ビル,、鹿児島商工会議所ビルの前には、いずれも五代友厚の立像が建つ。また鹿児島中央駅前には「若き薩摩の群像」のおおきな彫刻があり、その中央には英国留学中の五代友厚が前方を指さす勇壮な姿で刻されている。

ところで、『五代友厚伝』をはじめ、ほとんどの大阪・鹿児島発の情報には「五代友厚が大阪活版所を開設した」と記録されている。
ウキペディアの五代友厚にも「明治2年(1869年)の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行」とある。
これは通称『薩摩辞書』のことを指すとおもわれるが、『薩摩辞書』は本木昌造一門の当時の力量では組版・印刷がおもうにまかせず、ついに断念して、上海で印刷されたと一部に記録されるものである。
本木昌造、平野富二の両氏に資金を提供したとみられる五代友厚であるが、印刷史研究の手はまだおよんでいないようにみえる。有志の皆さんの奮起を期待するゆえんである。

平野富二が最初に東京の拠点を設けた場所として 「外神田佐久間町三丁目旧藤堂邸内[門前とも]の長屋」としばしばしるされるが、正確な場所の特定はあまり試みられていない。
『東都下谷絵圖』(1862)を手にしてJR秋葉原駅から5分ほどの現地を歩いてみると、神田佐久間町三丁目は地図左端、神田川に沿って現存しており、現状の町並みも小規模な印刷所が多く、街並みにもさほど大きな変化はない。
その後の調査によって、津藩藤堂和泉野守上屋敷の門長屋(千代田区神田和泉町一)とその抱えこみ地に、平野富二一行は一年ほど滞在したことが諸資料から判明した。
(尾張屋静七判『江戸切絵図』人文社、1995年4月20日)

 《明治5年外神田で営業開始》
東京築地活版製造所の前身は周知の通り、本木昌造先生の門弟、平野富二氏が、長崎新塾出張活版製造所の看板を、外神田佐久間町三丁目旧藤堂邸内の長屋に出して、ポンプ式手廻鋳造機〔このアメリカ製のポンプ式ハンドモールド活字鋳造機は、平野活版所と紙幣寮が導入していたとされる。わが国には実機はもとより、写真も存在しない〕2台、上海渡りの8頁ロール(人力車廻し)〔B4判ほどの、インキ着肉部がローラー式であり、大型ハンドルを手で回転させた活版印刷機〕 1台、ハンドプレス〔平圧式手引き活版印刷機〕1台で、東京に根を下ろしたのが、太陰暦より太陽暦に改暦の明治5年だった。
[東京築地活版製造所は、資料『東京築地活版製造所紀要』などでも、創業を築地移転後の明治6年としている。またこの項目の機械設備紹介はあまり先行事例をみず、牧治三郎独自の貴重な調査・紹介記録とおもわれる]。

新塾活版開業の噂は、忽ち全市の印刷業者に伝わり、更らにその評判は近県へもひろがって、明治初期の印刷業者を大いに啓蒙した。

《明治6年現在地に工場に建築》
翌6年8月、多くの印刷業者が軒を並べていた銀座八丁〔越後人ながら銀座・京橋自慢の牧は、この呼び名を好んで口にした〕をはさんで、釆女が原ウネメガハラから、木挽町コビキチョウを過ぎ、万年橋を渡った京橋築地2丁目20番地の角地、120余坪を千円で買入れ、ここに仮工場を設けて、移転と同時に、東京日日新聞の〔明治6年〕8月15日号から6回に亘って、次の移転広告を出した。

是迄外神田佐久間町3丁目において活版並エレキトルタイプ銅版鎔製摺機附属器共製造致し来り候処、今般築地2丁目20番地に引移猶盛大に製造廉価に差上可申候間不相変御用向之諸君賑々舗御来臨のほど奉希望候也 明治6年酉8月 東京築地2丁目万年橋東角20番地
長崎新塾出張活版製造所 平野富二

《移転当時の築地界隈》
平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]の中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった。

《煉瓦造工場完成》
新塾活版〔長崎新塾出張活版製造所〕の築地移転によって、喜んだのは銀座界隈の印刷業者で、神田佐久間町まで半日がかりで活字買い〔に出かけるための〕の時間が大いに省けた。商売熱心な平野氏の努力で、翌7年には〔煉瓦づくりの〕本建築が完成して、鉄工部を設け、印刷機械の製造も始めた。

《勧工寮と販売合戦》
新塾活版〔長崎新塾出張活版製造所〕の活字販売は、もとより独占というわけにはいかなかった。銀座の真ん中南鍋町には、平野氏出店の前から流込活字〔活字ハンドモールドを用いて製造した活字〕で売出していた志貴和助や大関某〔ともに詳細不詳〕などの業者にまじって、赤坂溜池葵町の工部省所属、勧工寮活版所も活字販売を行っていた。同9年には、更らに資金を投じて、工場設備の拡張を図り、煉瓦造り工場が完成した。

勧工寮は、本木系〔の平野富二らと〕と同一系統の長崎製鉄所活版伝習所の分派で、主として太政官日誌印刷〔を担当していた〕の正院印書局のほか、各省庁及府県営印刷工場へ活字を供給していたが、平野氏の進出によって、脅威を受けた勧工寮は、商魂たくましくも、民間印刷工場にまで活字販売網を拡げ、事毎に新塾活版〔長崎新塾出張活版製造所〕を目の敵にして、永い間、原価無視の安売広告で対抗し、勧工寮から印書局に移っても、新塾活版〔長崎新塾出張活版製造所〕の手強い競争相手だった。

《活字割引販売制度》
この競争で、平野氏が考え出した活字定価とは別に、割引制度を設けたのが慣習となって、こんどの戦争〔太平洋戦争〕の前まで、どこの活字製造所でも行っていた割引販売の方法は、もとを質だせば、平野活版所と勧工寮との競争で生れた制度を踏襲した〔もの〕に外ならない。勧工寮との激烈な競争の結果、一時は、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕の身売り説が出たくらいで、まもなく官営の活字販売が廃止され、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕も漸やく、いきを吹き返す事が出来た。

《西南戦争以後の発展と母型改刻》
西南戦争〔1877年/明治10〕を最後に、自由民権運動の活発化とともに、出版物の増加で、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕は順調な経営をつづけ、そのころ第1回の明朝体〔活字〕母型の改刻を行い、その見本帳が明治12年6月発行された。
〔牧治三郎はこの明治12年版東京築地活版製造所の見本帳を所有しており、しばしば有料貸し出しに応じていた。東京築地活版製造所では明治9年にすでに冊子型見本帳を発行しており、一冊は英国セント&ブライド博物館が所蔵しており、稿者は一部コピーを保存している。ここには発行所として「東京築地活版製造所」の使用をみることができる。10年ほど前から同博物館では所在不明としている。
もう一冊は印刷図書館蔵であるが、表紙など一部ページを欠き、仮表紙に「活版様式」とある。
ついで明治10年版があり、これは平野富二の旧蔵書で関東大地震の際、火炎が迫ってきたので家人が家の前の溝に投げ込んで非難したと伝わる。水をかぶっているが原姿をたもって平野ホール藏。その俗称明治10年版の「改訂版」としるされたのが明治12年版、牧治三郎ご自慢の品であった〕 。

次いで、同12年には、活版所の地続き13番地に煉瓦造り棟を新築し、この費用3千円を要した。残念なことに、その写真をどこへしまい忘れたか見当らないが、同18年頃の、銅版摺り築地活版所の煉瓦建の隣りに建てられていた木造工場が、下の挿図である。この木造工場は、明治23年には、2階建煉瓦造りに改築され、最近まで、その煉瓦建が平家で残されていたからご承知の方もおられると思う。

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続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎 『活字界 22号』 (全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

『活字界 22号』「続 東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(昭和44年7月20日)

《8万円の株式会社に改組》
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長、曲田成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

《築地活版所再度の苦難》
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治25-6年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。

社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

《戦争のたびに発展》
明治27-8年戦役〔日清戦争〕の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、東京築地活版製造所の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、東京築地活版製造所は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く東京築地活版製造所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の〔活字〕鋳造機は、手廻機〔手廻し式活字鋳造機・ブルース型活字鋳造機〕120台、米国製トムソン自動〔活字〕鋳造機5台、仏国製フユーサー自動鋳造機〔詳細不明。調査中〕1台で、フユーサー機は日本母型〔?〕が、そのまま使用出来て重宝していた。

《借入金の重荷と業績の衰退》
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿〔した。その〕後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に〔関東大地震の〕復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

《正面入口に裏鬼門》
〔はなしが〕前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で〔はあるが〕、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易でいう裏鬼門にあたるのだそうである。

東洋インキ製造会社の故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、東京築地活版製造所の重役で、〔印刷機器・資材輸入代理店〕西川求林堂の故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

次の松田精一社長〔第六代専務社長、長崎十八銀行頭取を兼任〕のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、誰れが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈った。

ところが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部〔で〕の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙〔に〕解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧銀から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭でよいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか。これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動参加を願うのもよいと思う。

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旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会広報部:中村光男
(牧治三郎の問題提起と同じ『印刷界 22号』に、囲み記事として急遽広告欄に掲載された)

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議した。旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌『活字界』に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と同建物跡に建設される懇話会館の八十島〔耕作〕社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。

平野富二と活字*02|東京築地活版製造所の本社工場と、鋳物士の習俗

紅蓮の火焔を怖れ、敬い、火焔から再生する鋳物
-活字鋳造-に執着した特殊技能者の心性

《ふしぎなビルディングがあった …… 》
このビルの敷地は、旧住所:京橋区築地二丁目万年橋東角二十番地、現住所:東京都中央区築地1-12-22 コンワビルが建つあたりにあって、長崎から上京してきた平野富二らによって、1873年(明治6)から建築がはじまり、数次にわたる増改築をかさねながら、東京築地活版製造所の本社工場として使用されてきたものである。

明治6年-大正末期までもちいられた東京築地活版製造所の本社工場

築地川を埋め立てたポケットパークからみた東京築地活版製造所の跡地に建つコンワビル

築地川にあった万年橋の名は交差点名にのころ。

宇都宮 & 活字発祥の碑 136uu
晴海通りにある案内板

それが1921年(大正10)、当時の専務(東京築地活版製造所では社長職に相当)野村宗十郎(1857-1925)の発意によって、旧本社工場を取り壊しながら、その跡地に1923年(大正12)3月-9月にかけて、あたらしい本社工場として、順次竣工をみたものであった(現住所・東京都中央区築地1-12-22 コンワビル)。

1923年(大正12)関東大震災の寸前に竣工なった東京築地活版製造所の写真。
正門(左手前角)がある角度からの写真は珍しい。

このあたらしいビルは、地上4階、地下1階、鉄筋コンクリート造りの堅牢なビルで、いかにも大正モダン、アール・ヌーヴォー調の、優雅な曲線が特徴の瀟洒な建物であった。
ところがこのあたらしく建造されたビルは、竣工直後からまことに不幸な歴史を刻むことになった。
下世話なことばでいうと、ケチがついた建物となってしまったのである。
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《活字鋳造士/鋳物士の伝統と、独自の心性と風習》
もともと「活字  Type」とは、鋳型をもちいた鋳物の一種である。
明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鍛冶や鋳物業者などと同様に、熔解釜や蒸気ボイラーなどの加熱に、木材・炭・石炭・骸炭(ガイタン  コークス)などの裸火をもちいていた。

そこでは風琴に似た構造の「鞴 フイゴ」をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解し、地金を鋳型に流し入れて「イモノ」をつくっていた。
フイゴはふつうの家庭では「火吹き竹」にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。

その裸火のために、鋳物工場や、活字鋳造所では、しばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな成形品をつくるための火を、玄妙な存在としてあがめつつ、火・火焔・火災を怖れること はなはだしかった。
ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは「踏鞴 タタラ」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足カラアシを踏むことを「蹈鞴 タタラ を踏む」としてのこっている。

このタタラという名詞語は、ふるく、用明天皇(記紀にしるされた6世紀末の天皇。聖徳太子の父とされる。在位推定585-87)の『職人鑑』に「蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆」 としるされるほどで、とてもながい歴史がある。
つまりフイゴやタタラとは、高温の火勢をもとめて鋳物士(俗にイモジ)や鍛冶士が、とてもふるくからもちいてきた用具である。
そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、あさな、ゆうなに灯明を欠かさなかった。

また太陽の高度がさがることを、火の神の衰退とみて、昼がもっとも短くなる冬至の日には、ほかの鍛冶士や鋳物士などと同様に、東京築地活版製造所では「鞴 フイゴ 祭り」が、ほかの活字鋳造所でも「鞴 フイゴ 祭り、蹈鞴 タタラ 祭り」 を催し、一陽来復を祈念することが常だった。
すなわち東京築地活版製造所とは、総体としてみると、近代産業指向のつよい企業ではあったが、こと鋳造現場にあっては、「鋳物士」のふるい伝統とならわしを色濃くのこしていた。

現代では加熱に際して電熱ヒーターのスイッチをいれるだけになって、鋳造「工場」所などでも神棚をみることはほとんど無くなったが、刀鍛冶士の鍛造現場などでは、作業のはじまりには神事をもって作業にはいる習俗としてのこっている。
こうした習俗は、明治-大正期の東京築地活版製造所だけではなく、わずか30-40年ほど前までの活字鋳造業者、すなわちここで取りあげている全日本活字界の業界誌『活字界』が発行されていたときでも、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火焔を神としてあがめ、火伏せの神を信仰する、異能な心性をもった職能者であった。
かつて牧治三郎は、以下のようにしるし、以下のように筆者にかたっていた([  ]内は筆者による)。

東洋インキ製造会社の故小林鎌太郎社長が、野村宗十郎社長[専務]には遠慮して話さなかったが、当時の築地活版 [東京築地活版製造所]の重役で、 [印刷機器輸入代理店]西川求林堂の故西川忠亮氏に『新ビルの正門は裏鬼門だ』と話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。
「続・旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(牧治三郎『活字界  22』昭和46年7月20日)

「西川求林堂の西川忠亮さんが指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、自社の新ビルの正門が,、裏鬼門、それももっとも忌まれる死門にあることを意識してなかったのですか」

「もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ[活字鋳造工]の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出入りしなかった。
オレや[印刷同業]組合の連中だって、建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんなとこに正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな」

「それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか」

「野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった」

こうしたイモノを扱う業者が、火を怖れあがめる風習は、わが国だけに留まる習俗では無い。中国の歴史上にはもちろん、現代のフランス国立印刷局にもそうした風習のなごりをみることができる。
フランス国立印刷所uu
欧州における中世の錬金術と、鋳造活字の創始には深い関連があるとされている。そのためか、フランスに本格的なルネサンスをもたらし、またギャラモン活字の製作を命じた フランス国王、フランソワⅠ世(François Ier de France, 1494-1547)の紋章と、パリの「フランス国立印刷局 Imprimerie Nationale」の紋章は、ともに「火の精霊」とされたサラマンダーである。

「火の精霊・サラマンダー」は、古代ローマ時代では、「冷たい躰をもち、たちまち炎を消してしまうトカゲ」、「炎をまとう幻のケモノ」とされ畏怖されていた。
やがてそれが錬金術師・パラケルスス(Paracelsus  1493? -1541)『妖精の書』によって、四大精霊(地の精霊・ノーム/水の精霊・ウンディーネ/火の精霊・サラマンダー/風の精霊・シルフ)のうち、火に属する精霊として定義された。

わが国では神秘性を帯びて「火喰い蜥蜴 ヒクイトカゲ」とあらわされることもあるが、即物的に「サンショウウオの一種」とされることもある。
さらにこの生物のアルビノ個体が、カップ麺のCMによって、ひろく「ウーパールーパー」として親しまれたために、サラマンダーの「火の精霊」「火喰い蜥蜴」としての奇っ怪な側面は知られることがすくない。
────────────────
《フランス国立印刷局における、火の精霊・サラマンダー》

朗文堂 アダナプレス倶楽部は2008年の年賀状において、ギャラモン活字をもちいて、
「我ハ育クミ  我ハ滅ボス  Nutrisco et Extinguo」
と題して、サラマンダーを、鋳造活字の象徴的な存在として扱ったことがある。

ふり返ってみれば、わが国では鋳造活字と「火の精霊」サラマンダーに関する情報が不足気味のところに、いきなり年賀状として、
「汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す 金青石[鉱石]は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する  ── 火のなかの怪獣 サラマンダー ── アダナプレス倶楽部ではサラマンドラと表記している」の絵柄を送付したから、正月早早このはがきを受け取られたかたは、その奇っ怪さに驚かれたかたもいらしたようである。ちなみにここでいう「金青石 キンショウセキ」とは鉱石ないしは鉱物の意である。

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我ハ育クミ  我ハ滅ボス  Nutrisco et Extinguo

―― サラマンドラのごとく金青石は火によって生きる ――

灼熱の炎に育まれし サラマンドラよ
されど 鍛冶の神ヴルカヌスは 汝の威嚇を怖れず
業火の如き 火焔をものともせず
金青石もまた 常夜の闇の炎より生ずる
汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す
金青石は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する

朗文堂 サラマ・プレス倶楽部  2008年01月

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《わが国の鋳物士・活字鋳造者にみる火の神への信仰》
わが国でも、近年まではどこの鋳物士や活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。
同様に太陽すなわち火の神がもっとも衰える冬至の日には、どこと活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」を催し、「一陽来復 ── 陰がきわまって陽がかえってくること」を祈念することが常だった。

すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性と、特殊な職能をもった職人集団の末裔であったことは忘れられがちである。
【詳細情報:花筏 朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダー ウーパールーパーとわが家のいきものたち

それだけでなく、明治初期に勃興した近代活字鋳造業者は、どこも重量のある製品の運搬の便に配慮して、市街地中央部に工場を設置したために、類焼にあうこともおおく、火災にたいしては異常なまでの恐れをいだくふうがみられた。

ところで……、東京築地活版製造所の新社屋が巻き込まれたおおきな厄災とは、関東大地震にともなうものではあったが、おもには鋳物士らがもっとも忌み怖れる、紅蓮の火焔をもっておそった「火災」であった。

1923年(大正12)9月1日、午前11時53分に発生した関東大地震による被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人を数えた。 被害世帯も69万戸におよび、京浜地帯は壊滅的な打撃をうけた。
2011年(平成23)の東日本大震災が、地震にともなう津波による死傷者が多かったのにたいして、関東大地震では、ちょうど裸火をもちいていた昼時でもあり、火災による死傷者が目立ったことが特徴である。
このときに際して、東京築地活版製造所では、なんと、新社屋への本格移転を翌日に控えて テンヤワンヤの騒ぎの最中であった …… 。

津田太郎写真
津田 太郎(1908-不詳)
名古屋:津田三省堂第二代社長 全日本活字会会長などを歴任。
[写真:『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社、昭和30年11月5日)より。当時59歳]

140年余の歴史を有する わが国の活字鋳造所が、火災・震災・戦災で、どれほどの被害を被ってきたのか、津田三省堂・第二代社長、津田太郎(名古屋在住。全日本活字会会長などを歴任。 1908-不詳)が「活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として」と題して『活字界4号』(昭和40年2月20日) に報告しているので、該当個所を抜粋してみてみたい。最終部に「物資統制令・故鉛」ということばが出ている。これを記憶しておいてほしい。

  • 「活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として」── 津田三省堂 津田太郎
                  『活字界4号』(昭和40年2月20日。 [ ]内は筆者による)

     明治42年12月、津田伊三郎が名古屋で活字[取次販売]業を開始する。
    最初は[それまでの名古屋の活字は大阪から導入していたが、津田伊三郎は東京の]江川活版製造所の活字を取次いだ[。ところ]が、たまたま同製造所がその前年に火災を罹り、水火を浴びた[ために熱変形を生じた、不良の]活字母型を使用したため 、活字[の仕上がりが] 不良で、評判[が]悪く、翌43年2月から、津田三省堂は東京築地活版製作所の代理店として再出発した。
  • 明治42年、現在の鶴舞公園[愛知県名古屋市昭和区鶴舞一丁目。名古屋で最初に整備された公園]で共進会が開催せられ、印刷業は多忙を極めた。
    この頃の印刷界は[動力が]手廻しか、足踏式の機械が多く、動力(石油発動機、瓦斯機関)が稀にあった程度で[あった。]
    [四六判]8頁 [B4 サイズほど]の機械になると、紙差し、紙取り、人間動力=予備員という構成で(現代の人にこの意味が判るでしょうか)あったが、この頃から漸次電力時代に移ってきた。
  • 活字界も太田誠貫堂が堂々手廻し鋳造機[ブルース型活字手回し鋳造機]5台を擁し、燃料は石炭を使用していた。その他には前述の盛功社が盛業中で、そこへ津田三省堂が開業した。
    もっとも当時は市内だけでなく中部、北陸地区[を含めた商圏]が市場であり、後年に至り、津田三省堂は、津田伊三郎がアメリカ仕込み?の経営(コンナ言葉はなかったと思う)で、通信販売を始め、特殊なものを全国的に拡販した。五号活字が1個1厘8毛、初号[活字]が4銭の記憶である。
    [現在では初号明朝体は1本800見当で販売されているので、明治末期にくらべると、およそ2千倍の価格となる。これは米価とほぼ等しい]
  • 取引きも掛売りが多く、「活字御通帳 カツジ-オカヨイチョウ」をブラ下げて、インキに汚れた小僧さんが活字を買いに来た。営業は夜10時迄が通常で、年末の多忙時は12時になることは常時で、現在から考えると文字通り想い出ばかりである。
    活字屋風景として夜[になって]文撰をする時、太田誠貫堂は蔓のついたランプ(説明しても現代っ子には通じないことです)をヒョイと片手に、さらにその手で文撰箱を持って文字を拾う。
  • 盛功社は進歩的で、瓦斯の裸火(これは夜店のアセチレン瓦斯の燃えるのを想像して下さい)をボウボウ燃やして、その下で[作業をし]、また津田三省堂は 蝋燭を使用(燭台は回転式で蠟が散らない工夫をしたもの)、間もなく今度は吊り下げ式の瓦斯ランプに代えたが、コレはマントル(説明を省く) [Gas Mantle  ガス-マントルのこと。ガス灯の点火口にかぶせて灼熱発光を生じさせる網状の筒。白熱套とも]をよく破り、のちに漸く電灯になった。
    当時は10燭光(タングステン球)であったが、暗いので16燭光に取り代えて贅沢だ!と叱られた記憶すらある。
  • 当時の一店の売上げは最高で20円位、あとは10円未満が多かった。もっとも日刊新聞社で月額100円位であったと思う(当時の『新愛知』、『名古屋新聞社』共に[社内にブルース型]手廻し鋳造機が2―3台あり五号[本文用活字]位を[社内で]鋳造していた)。
  • 大正元年[1912]大阪の啓文社が支店を設け[たために、地元名古屋勢は]大恐慌を来したが、2―3年で[大阪に]引き揚げられた。またこのあと活字社が創業したが、暫く経て機械専門に移られた。
    当時は着物前垂れ掛で「小僧」と呼ばれ、畳敷きに駒寄せと称する仕切りの中で、旦那様や番頭さんといっても1人か2人で店を切り廻し、ご用聞きも配達もなく至ってのんびりとしたものである。
  • 大正3年(1914)、津田三省堂が9ポイント[活字]を売り出した。
    名古屋印刷組合が設立せられ、組合員が68軒、従業員が551人、組合費収入1ヶ月37円26銭とある。
    [大正]7年は全国的に米騒動が勃発した。この頃岐阜に博進社、三重県津市に波田活字店が開業した。
  • 大正11年(1922)、盛功社[が取次だけでなく、名古屋でも]活字鋳造を開始。国語審議会では当用漢字2,113字に制限[することを]発表したが、当時の東京築地活版製造所社長野村宗十郎が大反対運動を起している。
  • 大正12年(1923)9月、東京大震災があり、新社屋を新築してその移転前日の東京築地活版製造所は、一物[も]残さず灰燼に帰す。
  • 大正14年(1925)秋、津田三省堂は鋳造機(手廻し[ブルース型手回し]活字鋳造機 6台)を設置[して関東大地震によって供給が途絶した活字販売を、みずからが鋳造業者となって]再起した。活字界の元老 野村宗十郎の長逝も本年である。
  • 大正15年(1925)、硝子活字(初号のみ)、硬質活字等が発表されたが、普及しなかった。
  • 昭和3年(1928)、津田三省堂西魚町[名古屋市西区]より、鶴重町[名古屋市東区]に移転。鉛版活字(仮活字[初号角よりおおきな文字を電気版で製造し、木台をつけて活字と同じ高さにして販売])を売り出す。
    また当時の欧文活字の系列が不統一[なの]を嘆じ、英、仏、独、露、米より原字を輸入して100余種を発表した。
  • 昭和5年(1930)1月、特急 “つばめ”が開通、東京―大阪所要時間8時間20分で、昭和39年(1964)10月の超特急[開通したばかりの新幹線のこと]は4時間、ここにも時代の変遷の激しさが覗われる。
  • 昭和5年(1930)、津田三省堂は林栄社の[トムソン型]自動[活字]鋳造機2台を新設、[ブルース型]手廻し[活字]鋳造機も動力機に改造して12台をフルに運転した。
  • 昭和6年(1931)、津田三省堂で宋朝活字[長体活字先行。もとは中国上海/中華書局聚珍倣宋版の活字書体を導入して、それを宋朝体と呼称したのは、津田伊三郎の命名による]を発売した。
  • 昭和8年(1933)、津田三省堂が本木翁の[陶製]胸像3,000余体を全国の祖先崇拝者[本木昌造讃仰者]に無償提供の壮挙をしたのはこの年のことである。
  • 昭和10年(1935)、満州国教科書に使用せられた正楷書[中国上海/漢文正楷書書局が元製造所とされるが、津田伊三郎はわが国の支配下にあった満州(中国東北部)から原字を入手した]を津田三省堂が発売した。当時の名古屋市の人口105万、全国で第3位となる[2012年226万人余]。
  • 昭和12(1937)年5月、汎太平洋博覧会開催を契機として、全国活字業者大会が津田伊三郎、渡辺宗七、三谷幸吉(いずれも故人)の努力で、名古屋市で2日間に亘り開催、活字の高さ 0.923 吋 と決定するという歴史的一頁を作った[これは1941年(昭和16)東京印刷同業組合活字規格統制委員会が追認したが、1958年(昭和33)全国活字工業会は23.45mmと決めた。活字の高さの統一は世界的にもいまもって容易ではない]。
  • 昭和12年(1937)7月7日、北支芦溝橋の一発の銃声は、遂に大東亜戦争に拡大し、10余年の永きに亘り国民は予想だにしなかった塗炭の苦しみを味わうに至った。
    物資統制令の発令 [によって]活字の原材料から故鉛に至るまで[が]その対象物となり、業界は一大混乱をきたした。受配給等のため活字組合を結成し、中部は長野、新潟の業者を結集して、中部活字製造組合を組織して終戦時まで努力を続けた。
  • 次第に空襲熾烈となり、昭和20年(1945)3月、名古屋市内の太田誠貫堂、盛功社、津田三省堂、平手活字、伊藤一心堂、井上盛文堂、小菅共進堂は全部被災して、名古屋の活字は烏有に帰した。

津田太郎の報告にみるように、関東大地震のため、東京築地活版製造所は不幸なことに、
「新社屋を新築して その[本格]移転前日の東京築地活版製造所は、一物も残さず灰燼に帰した」
のである。
活版印刷機と関連機器の製造工場は「月島分工場」にすでに移転していたが、その「月島分工場」も火焔に没した。また東京築地活版製造所本社工場の活字鋳造機はもちろん、関連機器、活字在庫も烏有に帰した。

不幸中の幸いで、重い活字などの在庫に備えて堅牢に建てられたビル本体は、軽微な損傷で済んだ。すなわち地震にともなう火災によって、東京築地活版製造所の設備のほとんどは灰燼に没した。すでに引退を決めていた野村宗十郎であったが、さっそく再建の陣頭指揮にあたり、兄弟企業であった大阪活版製造所系の企業からも支援をうけて再興にとりかかった。

津田三省堂は、関東大地震までは活字販売業者であったが、震災で主要仕入れ先の東京築地活版製造所からの活字の供給が途絶したため、このときをもって活字鋳造業者に転ずることになった。
津田太郎はまた、名古屋を中心とした中京地区の活字鋳造所は、第二次世界大戦の空襲によって、すべてが灰燼に没したとしている。

ところが……、本来なら、あるいは東京築地活版製造所設立者の平野富二なら、おそらく笑い飛ばしたであろう程度のささいなことながら、関東大震災を契機として、ひそかにではあったが、この場所のいまわしい過去(事実はことなっていたが)と、新築ビルの易学からみたわるい風評がじわじわとひろがり、それがついに専務・野村宗十郎の耳に入るにいたったのである。
こんな複雑な背景もあって、この瀟洒なビルはほとんど写真記録をのこすことなく消えた。 不鮮明ながら、ここにわずかにのこった写真図版をパンフレット『活字発祥の碑』から紹介しよう。

1921年(大正10)ころ、取り壊される前の東京築地活版製造所の本社工場の写真。

上掲の明治36年版『活字見本帳』口絵図版とおおきな違いはみられない。

1923年(大正12)野村宗十郎専務の発意によって竣工なった東京築地活版製造所の写真。
正門(左手前角)がある角度からの写真は珍しい。

平野富二と活字*01 『活字界』と「活字発祥の碑」

「活字発祥の碑」をめぐる諸資料から
機関誌『活字界』と、パンフレット『活字発祥の碑』

平野富二肖像写真(平野ホール藏)

平 野  富 二 (1846.8.14-92.12.3,  弘化3-明治25)
(平野ホール所蔵)

『活字発祥の碑』

《活字発祥の碑とは …… 》
この『活字発祥の碑』は、旧住所表記 : 築地二丁目万年橋東角二十番地、現住所 : 東京都中央区築地1-12-22、コンワビルの敷地内、東南の一隅にある。


1872年(明治5)7月、長崎から上京してきた平野富二(1846.8.14-92.12.3)らは、神田佐久間町三丁目門長屋に「長崎新塾出張東京活版所」の仮工場を設けて活字版製造事業をはじめたが、たちまち狭隘となった。

そのため平野富二は、活字製造とその組版にとどまらず、活版印刷機と関連機器の製造をめざして、本工場設立のための適地をもとめ、翌1873年(明治6)7月、前年の大火によって焼亡地となっていた「京橋区築地二丁目万年橋東角二十番地」に、土地取得代金1,000円とあわせ、都合金3,000円を投じて本格工場を設けることとなった。
すなわち、翌1873年(明治6)7月、旧住所表記 : 築地二丁目万年橋東角二十番地、現住所 : 東京都中央区築地1-12-22にもうけた本社工場が、のちの東京築地活版製造所となった。

このあたり一帯に、平野富二による東京築地活版製造所本社工場と、それに隣接して平野家住居の建築がはじまり、数次にわたる増改築をかさねながら、東京築地活版製造所の本社工場として、創業から66年の歴史を刻み、1938年(昭和13)に唐突に清算解散した。
したがってわが国の活字版印刷術(タイポグラフィ)と、活字版印刷士(タイポグラファ)にとっては、この地は記念すべき「印刷文化の源泉の地」とされる場所である。

この「印刷文化源泉の地」と、東京築地活版製造所設立者・平野富二を顕彰するために、1969年(昭和44)全日本活字工業会・東京活字工業組合が中心となって、牧治三郎(戦前の印刷業者の各種組合の書記を歴任。昭和13年はじめに同業組合を離れ、印刷材料商自営。印刷史研究家。1900-2003)による建碑の提唱から、わずかに11ヶ月という短期間をもって、当時の印刷界の総力をあげて記念碑「活字発祥の碑」が建立された。

「活字発祥の碑」には、毎日新聞技術部・古川恒(フルカワ-ヒサシ 1910-86)の撰文によって、以下の文言が刻まれた。
次第にあきらかになるとおもうが、ここには俗にいう「本木昌造活字・活版印刷創始」説につらなる文言はまったく無い。

活 字 發 祥 の 碑
明治六年(1873)

平野富二がここ
に長崎新塾出張
活版製造所を興
し後に株式會社
東京築地活版製
造所と改稱日本
の印刷文化の源
泉となった

本2013年(平成25)は、平野富二がこの地に東京築地活版製造所を創立してから140年、記念すべき年にあたる。

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『活字発祥の碑』 編纂・発行/活字の碑建設委員会
昭和46年06月29日 B5判 28ページ 針金中綴じ
表紙1-4をのぞき 活字版原版印刷
『活字発祥の碑』落成披露時に関係者に配布された。

『活字界』 1号-80号 合本。

『活 字 界』
発行/全日本活字工業会 旧在:千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル
創刊01号 昭和39年06月01-終刊80号 昭和59年05月25日
ほぼ隔月刊誌  B5判8ページ  無綴じ  活字版原版印刷

01号―40号/編集長・中村光男
41号―56号/編集長・谷塚  実
57号―75号/編集長・草間光司
76号―80号/編集長・勝村  章
編集長を交代した昭和49年以後、中村光男氏は記録がのこる
昭和59年までは、
全日本活字工業会の専務理事を務めていた。
このころ筆者は吉田市郎氏の紹介を得て事務局を数度訪問し、中村光夫氏とお会いした。
────
『活字界』はパンフレット状の業界内に配布された機関誌で、残存冊子、なかんずく
全冊揃いはほとんど存在しないが、中村光男氏が2分冊に合本して保存されており、
それを個人が所有しているものを拝借使用した(返却済み)。


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★       ★       ★

一部に既発表の記事もふくむが、ここに「タイポグラフィ・ブログロール花筏」において、意をあらたに、またタイトルもあらためて、「平野富二と活字」と題して本稿を書きすすめたい。
本編(本章)は、おもに全日本活字工業会の機関誌『活字界』(昭和39-59年、全80号) と、同会発行のパンフレット 『活字発祥の碑』(同碑完成時に関係者に配布された。昭和46年) のふたつのメディアを往復しながらの記述になる。

《全日本活字工業会と、その業界誌としての小冊子『活字界』》
「平野富二と活字」第1回目の主要な登場人物は「株式会社中村活字店・第4 代代表 中村光男氏」 と、戦前における印刷業界情報の中枢、印刷同業組合の書記を永らく勤めて、当時67歳ほどであったが、すでに印刷・活字界の生き字引的な存在とされていた 牧  治三郎 である。

『活字界』 は1964年(昭和39)の創刊である。 編集長、のちに専務理事は、ながらく中村活字店第4代代表・中村光男氏がつとめていた。
『活字界』はB4判二つ折り、無綴じ二丁、すなわちB5判8ページの活字版原版印刷によるが、パンフレット様の小冊子であって、発行部数も当初は500部、後半になると200部ほどと少なく、残存部数、なかんずく80号にわたる全冊揃いはほとんど存在しない。
ところが幸い、中村光男氏が2分冊に合本して保存され、それを別の個人が所有していたものを拝借した。

この年は池田勇人内閣のもとにあり、経済界は不況ムードが支配していたが、東京オリンピックの開催にむけて、新幹線が東京―大阪間に開業し、首都高速道路の一部が開通し、東京の外環をぐるりとほぼ半円形に囲んだ4車線幹線道路、環状七号線が部分開通した、あわただしい年でもあった。

こんな時代を背景として、大正時代からあった「活字鋳造協会」と、戦時体制下の統制時代にあった「活字製造組合」を基盤として、全国の活字鋳造業者が集会をかさね、あらたな組織として「全日本活字工業会」に結集し、その機関誌 『活字界』 を発行したことになる。
─────────────────────────────
《活字自家鋳造と、活字自動鋳植機の普及 ── 活字母型製造業者の浮沈》
世相はあわただしかったが、活字製造に関していえば、大手から中堅の印刷所、大手新聞社などのほとんどは、見出し語などのわずかな活字をのぞき、活字を活字鋳造所から購入するのではなく、すでに自社内における「活字自家鋳造体制」になっていた。
それがさらに機械化と省力化が進展して、活字自動鋳植機 (文選・活字鋳造・植字組版作業を一括処理した半自動の組版機、いわゆる「日本語モノタイプ」の導入が大手企業を中心に目立ったころでもあった。

小池製作所KMTカタログ 1983年10月

小池製作所KMTカタログ表紙4、インテル鋳造機、活版清刷り期機小池製作所KMTカタログ 活字母型庫小池製作所のいわゆる日本語モノタイプ、「K.M.T. 全自動組版機」(1983年10月)カタログ。下段が活字母型庫の紹介であるが、書体、サイズの相違だけではなく、交換可能とはいえ、現実的には縦組み用と横組み用のために、活字母型の向きが異なる、ふたつの活字母型庫を設備する必要があった。
この「K.M.T. 全自動組版機」が2011年暮れまで稼働していた記録を下掲の動画でみることができる。筆者のしる限りこの「K.M.T. 全自動組版機」は現在2社が所有しているが、稼働しているのは1社のみとなっている。

活字自動鋳植機とは、初期の手動式写真植字機と同様に、導入機の数量と同数の、あるいは活字サイズ、活字書体ごとに、きわめて大量の「活字母型」を必要とした。
したがって組版業務の敏速化と省力化をめざして、活字母型自動鋳植機数十台を導入した新聞社や大手印刷所からは、一挙に、大量の「活字母型」の需要が発生した。

そのため、活字母型製造業者の一部は、それまでの「単母型 Foundry Type」にかえて、日本語モノタイプ導入企業から、瞬間的に膨大な数量の活字母型「Machine Type, 活字母型庫、活字母型盤、いわゆるフライパン」の需要がみられた。
そのために活字母型製造業者は、1950年(昭和25)国産化に成功して主流の技法となった、パンタグラフ理論にもとづく「機械式活字父型・母型彫刻機、いわゆるベントン彫刻機」を一斉に大量増設して、この需要に対処した。
ところが、その導入が一巡したのちは、奈落に突き落とされる勢いで需要が激減して、まず活字母型製造業者が設備過剰となって苦境に陥り、業界としての体をなさなくなっていた。
http://youtu.be/0uZYZi5l0QQ(動画欠落)

「Machine Type, 活字母型庫、活字母型盤、いわゆるフライパン」が稼働している姿をのこした長瀬欄罫製作所の動画(朗文堂 アダナプレス倶楽部撮影)。
3分41秒とみじかいものであるが、前半部が小池製作所製の「KMT 日本語モノタイプ/活字自動鋳植機」である。後半部はおなじく小池製作所製「インテル鋳造機」。長瀬欄罫製作所は2011年年末をもって廃業した。

【 詳細 : 花筏 タイポグラファ群像*005  長瀬欄罫製作所/小池製作所を記録する 】

つまり活字鋳造所と、活字母型製造所とは、本来唇歯輔車の関係にあった。すなわち手彫り直刻による活字母型製造時代にはほとんどが同一事業所であった。それが職能の違いから、次第に活字母型製造が独自に開業したものであったが、それでも表裏の関係にあった。
やがて活字母型製造所が、大手印刷所や新聞社の自家鋳造に対応するための活字母型を、活字鋳造所を経由しないで、独自に提供するようになって、活字鋳造所からの距離をおくようになっていた。

また新設がめだった「自動活字鋳植機」のための「活字庫、活字盤・フライパン」を提供するために、活字母型製造業界をあげて活況を呈していたために、従来型の「活字単母型」と、ほぼその補充や修理を発注するだけになっていた活字鋳造所と、活字母型製造所との関係は、その原字権をめぐる紛争が頻発したことの影響もおおきくあって、きわめて微妙なものになっていたのである。

《まず活字母型製造所、続いて活字鋳造所の衰退を予見した吉田市郎氏の報告》
このようにおもに活字鋳造所が結集した「全日本活字工業会」をあげて、前途に漠然とした不安と、危機感をつのらせていた時代でもあった。 こんな業界の時代背景を「欧州を旅して」 と題して、株式会社晃文堂・吉田市郎氏が『活字界4号』 (昭和40年02月20日、5ページ)に寄稿しているので紹介しよう。
若き日の吉田市郎氏
「欧州を旅して」 ── 株式会社晃文堂 吉田市郎
活字地金を材料とした単活字[Foundry Type]や、モノタイプ、ルドロー、インタータイプ、ライノタイプなどの自動鋳植機による活字[Machine Type]を[鋳造による熱加工処理作業があるために] Hot Type と呼び、写植機など[光工学と化学技法が中心で 熱加工処理作業が無い方式]による文字活字を Cold Type といわれるようになったことはご存知のことと思います。

欧州においては、活版印刷の伝統がまだ主流を占めていますが、Cold Type に対する関心は急激に高まりつつあるようでした。[中略]

こうした状況は、私たち[日本の]活字業界の将来を暗示しているように思われます。私たちは[日本語モノタイプの導入が一巡したのちの]活字母型製造業界がなめたような苦杯をくりかえしてはなりません。このあたりで活字業界の現状を冷静に分析・判断して、将来に向けた正しい指針をはっきりと掲げていくべきではないでしょうか。

現在のわが国の活字製造業は幸いにもまだ盛業ですが、その間にこそ、次の手を打たねばなりません。したがって現在の顧客層の地盤に立って、文字活字を Hot Type 方式だけでなく、Cold Type 方式での供給を可能にすることが、わが活字業界が将来とも発展していく途のひとつではないかと考える次第です。

ここで吉田市郎氏が述べた、
「こうした状況は、私たち活字業界の将来を暗示しているように思われます。私たちは活字母型製造業界がなめたような苦杯をくりかえしてはなりません」
の一節が現代ではわかりにくいかもしれない。
前段でもすこしくその背景を記述したが、この状況を風景として捉えると、現代の急速に衰勢をみせ、苦境におちいったフォントベンダー(電子活字製造販売業者)と、ネットショップなどで独自販売ルートを開発し、ほとんどが小規模なタイプデザイナー(活字書体設計士)がおかれている状況にちかいものがあるようだ。

そこで、東京活字母型工業会の会長職を長年つとめ、活字母型製造界の雄とされた岩田母型製造所と、その代表・岩田百蔵のことをしるしてみたい。
岩田母型製造所は数百台におよんだ活字母型彫刻機の増設などが一気に過剰設備となり、この吉田氏の旅行記の掲載後、3年を待たずして倒産にいたった。

岩田百蔵氏写真54歳当時のもの

岩田百蔵
[『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社、昭和30年11月5日)]
写真は54歳当時のもの。

埼玉県川越市相生町うまれ。川越尋常小学校卒。
1914年(大正3)堀活版母型製造所に徒弟として入所して斯業の技術を習得。
1920年(大正9)4月京橋区木挽町一丁目11に、実兄・岩田茂助とともに岩田母型製造所を創業。大正12年関東大地震により罹災。滝野川区西ヶ原に移転。大正15年大森区新井宿六丁目に移転。
太平洋戦争中は軍事協力工場として繁忙をきわめた。

1947年(昭和22)11月大森区新井宿六丁目6-2に移転。のち[大阪の活字鋳造所で、時局下の「変体活字廃棄運動」によって大半の活字母型を没収された、旧森川龍文堂・森川健一を取締役支店長として]大阪市西区京町堀通り一丁目16に岩田母型製造所大阪支社を設けた。
岩田母型製造所は業績不振のために1968年(昭和43)に倒産した。
株式会社岩田母型製造所取締役社長。東京活字母型工業会会長。1901-78年。享年77

その後、各地の支店や残存会社がよく経営を持続したが、2007年(平成19)3月残存会社のイワタ活字販売株式会社(代表取締役・鈴木廣子)の廃業にともなって、わが国は金属活字母型製造の一大拠点を失った。

こうした活字母型製造業、ひいては活字鋳造業が不振に陥る事態を予測していた吉田市郎氏の転進が、こんにちのプリプレスからポストプレスまでの総合印刷システムメーカーとしてのリョービ・グループの基礎を築くにいたった。
すなわち吉田氏は、かたくなに「活字 Type」を鋳造活字としてだけとらえるのではなく、金属活字 Hot Type から写植活字 Cold Type へ移行する時代の趨勢をはやくから読みとっていた。
そして1980年代からは、写植活字から電子活字 Digital Type への転換にも大胆に挑む柔軟性をもっていた。それでも吉田氏は全日本活字工業会の会員として、事実上同会が閉鎖されるまで、永らく会員のひとりとしてとどまり、金属活字への愛着をのこしていた。
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《印刷・活字業界の生き字引とされた牧治三郎》
『活字界』 には、創刊以来しばしば 「業界の生き字引き的存在」として 牧治三郎 が寄稿を重ねていた。
牧と筆者は20-15年ほど以前に、旧印刷図書館で数度にわたって面談したことがあり、その蔵書拝見のために自宅(中央区湊三丁目3-8-7)まで同行したこともある。当時の牧治三郎はすでに高齢だったが、頭脳は明晰で、年代などの記憶もおどろくほどたしかだった。
下記で紹介する60代の写真の風貌とは異なり、鶴のような痩躯をソファに沈め、顎を杖にあずけ、度の強い眼鏡の奥から見据えるようにしてはなすひとだった。

そんな牧が印刷図書館にくると、
「あの若ケエノ?! は来てねぇのか……」
という具合で、当時の司書・佐伯某女史が
「古老が呼んでいるわよ……」
と笑いながら電話をしてくるので、取るものも取り敢えず駆けつけたものだった。

越後新潟出身の牧治三郎は、幼少のころから東京都中央区の活版工場で「小僧」修行をしていたが、
「ソロバンが達者で、漢字をよく知っていたので、いつのまにか印刷[同業]組合の書記になった」
と述べていた。また、
「昔は活版屋のオヤジは、ソロバンはできないし、簿記も知らないし……」
とも述べていた。すなわち牧治三郎は係数にきわめてあかるかった。

また牧は新潟県新発田市-しばたし-の出身で、郷里の尋常小学校を卒業して、12歳ほどから東京都中央区(東京府京橋区)の印刷所で徒弟としてはたらいた。のちに苦学生として日本大学専門部商科(夜間)を卒業したが、終生中央区周辺に居住してそのふるい街並みを好んでいた。
しかしその街並みを、ふるい呼称の「京橋区」と呼ぶことにこだわり、頑固なまでに「中央区」とはいわなかった。ただ牧の自宅があった湊三丁目周辺の、下町のおもかげをのこした景観は、バブル期からの「地上げ」などによって、現在はすっかりオフィスビルの立ちならぶ風景となり、おおきく変わっている。

寛永寺墓地。野村宗十郎の墓地。牧治三郎とは、東京築地活版製造所の第四代社長・野村宗十郎(1857-1925)の評価についてしばしば議論を交わした。
筆者が野村の功績は認めつつも、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所設立者、平野富二にこだわるのを、
「そんなことをしていると、ギタサンにぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにしておけ」
とたしなめられることが多かった(『富二奔る』片塩二朗)。
ギタサンとは俗称で、平野富二の嫡孫、平野義太郎(ヨシタロウ、法学者、1897-1980)のことで、いずれここでも紹介することになる人物である。

なにぶん牧治三郎は1916年(大正5)から印刷同業組合の書記を長年にわたってつとめ、業界の表裏につうじており、まさに業界の生き字引のような存在とされていた。牧はかつて自身がなんどか会ったことがあるという野村宗十郎を高く評価して「野村先生」と呼んでいた。
したがって筆者などは「若ケエノ」とされても仕方なかったが、野村の功罪をめぐって、ときに激しいやりとりがあったことを懐かしくおもいだす。

しかし 「牧老人が亡くなった……」
と 風の便りが届いたとき、その写真はおろか、略歴をうかがう機会もないままに終わったことが悔やまれた。
牧治三郎の蔵書とは、ほとんどが印刷・活字・製本関連の機器資料と、その歴史関連のもので、書籍だけでなく、カタログやパンフレットのたぐいもよく収蔵していた。書棚はもちろん、床からうずたかく積みあげられた膨大な蔵書は、まさに天井を突き破らんばかりの圧倒的な数量であった。

これだけの蔵書を個人が所有すると、どうしても整理が追いつかず、当時の筆者が閲覧を希望した「活版製造所弘道軒」関連の資料は、蔵書の山から見いだせなかった。
そんなとき、牧治三郎は、
「オレが死んだらな、そこの京橋図書館に『治三郎文庫』ができる約束だから、そこでみられるさ」
と述べていた。どうやらそれは実現しなかったようで、蔵書は古書市場などに流出しているようである。

幸い「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出」 『活字界15』(昭和42年11月15日)にインタビュー記事があった。当時67歳というすこしふるい資料ではあるが、牧治三郎の写真を紹介し、あわせて『京橋の印刷史』からその略歴を紹介したい。
     

牧  治 三 郎  まき-じさぶう
67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)―2003年(平成15)歿。

1900年(明治33)5月 新潟県新発田市にうまれる。
1916年(大正5)7月 東京印刷同業組合書記採用。
1923年(大正12)7月 日本大学専門部商科卒業。
以来、印刷倶楽部、印刷協和会、印刷同志会、東京印刷連盟会、大日本印刷業組合連合会、東京印刷協和会、東京洋紙帳簿協会、東京活字鋳造協会などの嘱託書記を経て、昭和13年7月退職。
京橋区(中央区湊三丁目3-8-7)で印刷材料商を自営。

〈印刷同業組合の事務局に1916年(大正5)7月以来長年にわたって勤務し、その間東京活字鋳造協会の事務職も兼務した。印刷同業組合書記職は時局が切迫しつつあった1938年(昭和13年)7月に退任した。筆者と面談していた1980年ころは、中央区湊三丁目で 活版木工品・罫線・輪郭など、活字版印刷資材の取次業をしていた〉
主著 /
「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」(前章―7章担当) 『日本印刷大観』(東京印刷同業組合 昭和13年)
連載「活版印刷伝来考」『印刷界』(東京都印刷工業組合)
『京橋の印刷史』(東京都印刷工業組合京橋支部  昭和47年11月12日)

牧の蔵書印は縦長の特徴のあるもので、「 禁 出門 治三郎文庫 」 とあり、現在も古書店などで、この蔵書印を目にすることがある。このように「禁 出門 治三郎文庫」の蔵書印を捺された資料が、滅却することなく、二次流通にまわっているのをみると、牧治三郎もって瞑すべしとおもわぬでもない。

朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち

ウパルンⅠ世

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《飼育に未熟だった。かわいそうに、短命に終わったウパルンⅠ世、そしてサラマンダーへ

【2013年07月27日、土曜日】
やつがれが歯医者(での治療 or 拷問?)にいっているあいだに、ちかくの「マルイ」の特設熱帯魚売り場から、家人が魚ともいえない妙なモノと、小ぶりな水槽、循環水ポンプ、水草などをかかえるようにして買いこんできた。

これには、TV-CM ですっかりお馴染みとなったウーパールーパーという愛称があるが、正式にはメキシコサラマンダー(Ambystoma mexicanum)とされ、もともとメキシコの湖沼に棲む両生綱有尾目トラフサンショウウオ科トラフサンショウウオ属に分類される有尾類だそうである。
その愛称ないしは流通名が「ウーパールーパー」らしい。

ところが灼熱の焔からうまれる鋳造活字をあつかうタイポグラファとしては、こと「火の精霊 ── サラマンダー or サラマンドラ or サラマンドル」と聞くと、こころおだやかではない。
サラマンダーとは、欧州で錬金術が盛んだったころに神聖化され、ルネサンス初期のスイス人にして、医師であり錬金術士でもあった パラケルスス によって、「四大精霊」とされたものである。
四大精霊とは、地の精霊・ノーム/水の精霊・ウンディーネ/火の精霊・サラマンダー/風の精霊・シルフである。
──────
活版印刷の祭典「Viva la 活版 Viva 美唄」のイベントタイトルを、北海道の大河・石狩川にちかく、その支流・美唄川のほとりの会場「アルテ ピアッツァ美唄」にちなんで、若きアドリアン・フルティガーの設計で、パリのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所から発売された、欧文金属活字「水の精霊 オンディーヌ」をもちいたことは、アダナプレス倶楽部のコラム欄に既述した。その一部を引こう。

「Viva la 活版 Viva 美唄」の新イベントサイン用書体として選択されたのは、日本語総合書体【銘石B くれたけ】と、欧文デジタルタイプの【オンディーヌ】であった。
【詳細情報:朗文堂タイプコスミイク 銘石B Combination 3  PDF データーつき

「オンディーヌ  Ondine」とは、フランス語で「水をつかさどる精霊」の意で、清浄な湖や泉に住んでいて、ほとんどのばあい、美しい女性のすがたとして描かれている。
語源はラテン語の unda(波の意)とされ、欧州各国語では、ウンディーネ(独:Undine)、アンダイン、あるいはアンディーン(英:Undine)、オンディーナ(伊:Ondina)などとされるようだが、ここではフランス発祥の活字(ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所、活字設計:アドリアン・フルティガー 1953-4年製作)でもあるので「オンディーヌ  Ondine 水をつかさどる精霊」としたい。

「Viva la 活版 Viva 美唄」のイベントタイトル書体として選択された「オンディーヌ」には、北海道美唄のゆたかな山河をめぐり、四大精霊のひとつ「水の精霊・オンディーヌ」にちなんで選択されたのには、こんな背景があった。
──────
もうひとつ「火の精霊・サラマンダー」は、古代ローマ時代では、「冷たい躰をもち、たちまち炎を消してしまうトカゲ」、「炎をまとう幻のケモノ」とされていた。
やがてそれが錬金術師・パラケルスス(Paracelsus  1493? -1541)『妖精の書』によって、四大精霊のうちの火に属する精霊として定義された。

わが国では神秘性を帯びて「火蜥蜴ヒトカゲ」とあらわされることもあるが、即物的に「サンショウウオの一種」とされることもある。
欧州では古来、炎をまとったトカゲ、または火の中でも生きていられるトカゲとして、怪異な姿で描かれることが多い。また、サラマンダーは、怪我をしても火を食して再生すると信じられていたことがあり、いまでもキリスト教の教会や、騎士のシンボルとしても使われており、かならずしもウーパールーパーのような可愛いしろものばかりとはいえない。
【リンク:サラマンダー画像集】。

フランス国立印刷所uu
中世の錬金術と、鋳造活字の創始には深い関連があるとされている。そのためか、フランスに本格的なルネサンスをもたらし、またギャラモン活字の製作を命じた フランス国王、フランソワⅠ世(François Ier de France, 1494-1547)の紋章と、パリの「フランス国立印刷局 Imprimerie Nationale」の紋章は、ともにサラマンダーであり、すこし愛嬌がありすぎるがウーパールーパーはその縁者なのである。
家人はやつがれのこうしたこだわりの痛いところをついて、ペットとしてのサラマンダー(ウーパールーパー)を、なんの断りもなく、勝手に買い求めてきたのである。

やつがれがフランス国立印刷局を訪問した当時の紋章は、恐竜にも似た怪奇的な図柄であったが、現代はモダナイズされて「火を吐くトカゲ」の、愛嬌のあるデザインにかわっている。
また最近、フランス国立印刷局から、その紋章、サラマンダーに関するいくばくかの資料をいただいたが、この一連の資料を紹介するのには、もう少しの時間をいただきたい。
───────
また朗文堂 アダナプレス倶楽部はすでに2008年の年賀状において、ギャラモン活字をもちいて、
「我ハ育クミ  我ハ滅ボス  Nutrisco et Extinguo」
と題して、サラマンダーを、鋳造活字の象徴的な存在として扱ったことがある。
ふり返ってみれば、わが国では鋳造活字とサラマンダーに関する情報が不足気味のところに、いきなり年賀状として「火のなかの怪獣 サラマンダー ── アダナプレス倶楽部ではサラマンドラと表記している」の絵柄を送付したから、正月早早このはがきを受け取られたかたは、その奇っ怪さに驚かれたかたもいらしたようである。ちなみにここでいう「金青石 キンショウセキ」とは鉱石ないしは鉱物の意である。

20130701201604192_0002uu

我ハ育クミ  我ハ滅ボス  Nutrisco et Extinguo

―― サラマンドラのごとく金青石は火によって生きる ――

灼熱の炎に育まれし サラマンドラよ
されど 鍛冶の神ヴルカヌスは 汝の威嚇を怖れず
業火の如き 火焔をものともせず
金青石もまた 常夜の闇の炎より生ずる
汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す
金青石は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する

朗文堂 アダナプレス倶楽部 2008年01月  

20130701201604192_0003《わが国の鋳物士・活字鋳造者にみる火の神への信仰》
わが国でも、近年まではどこの鋳物士や活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。
同様に太陽すなわち火の神がもっとも衰える冬至の日には、どこと活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」を催し、一陽来復を祈念することが常だった。

すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団の末裔であったことは忘れられがちである。その一部を下記にひいた。
【参照資料: A Kaleidoscope Report 002* 『活字発祥の碑』】

もともと明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鋳物業者や鍛冶士などと同様に、蒸気ボイラーなどに裸火をもちいていた。 そこでは風琴に似た構造の「鞴 フイゴ」をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解して「イモノ」をつくっていた。ふつうの家庭では「火吹き竹」にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。

そのために鋳造所ではしばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな成形品をつくるための火を、玄妙な存在としてあがめつつ、火を怖れること、はなはだしかった。
ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは「踏鞴 タタラ」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足カラアシを踏むことを「蹈鞴 タタラ を踏む」としてのこっている。

この蹈鞴 タタラ という名詞語は、ふるく用明天皇(記紀にしるされた6世紀末の天皇。聖徳太子の父とされる、在位585-87)の『職人鑑』に、「蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆」としるされるほどで、とてもながい歴史がある。
つまり高温の火勢をもとめて鋳物士(俗にイモジ)がもちいてきた用具である。 そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。

また太陽の高度がさがり、昼がもっとも短い冬至の日には、ほかの鍛冶屋や鋳物士などと同様に、活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」を催し、一陽来復を祈念することが常だった。
すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団の末裔であったことを理解しないと、「活字発祥の碑」 建立までの経緯がわかりにくい。

《おもいでをたくさんのこして逝った、ウパルンⅠ世》
焔のなかから再生する鋳造活字とサラマンダーの関係はいまはおくとして、やつがれは持病として喘息をかかえており、ハウスダストをもたらす犬猫の飼育は避けているが、小魚となればすでに「出目金3匹、泥鰌2匹」をベランダの水槽で飼育しており、問題はない。
しかもいきなり、この「妙なモノ ── ウーパールーパー」と目があってしまった。俗なことばだが「つぶらな瞳」であった。
飼うことにきめた。というより、もう飼うしかなかった。名前は「ウパルン」とした。

かつてこの「ウーパールーパー」のブームがあった。それは1985年に「日清焼そばU.F.O.」のCMに、ウーパールーパーの呼び名で登場して、その奇妙な愛らしさから、おおきなブームになったものである。どうやらCMに登場した個体も、家人がもとめてきたものも、アルビノ(白体個体)とされるものらしい。
表情はほとんど無いが、ともかく仕草が愛らしく、イトミミズが好物で、乾燥飼料には抵抗していた。帰宅すると「ウパルン」を観察するのが楽しみとなった。

ことしの夏はともかくひどく暑かった。ところが習慣として外出時にはエアコンは切る。そのために密閉された室温は40℃を超える日も多かった。当然水槽の水温もあがり「ウパルン」は次第に衰弱していった。
衰弱の原因が水温が高すぎることに気づき、あわてて外出時もエアコンを入れっぱなしにしたが、ついに「ウパルン」はみじかい一生をおえた。「ベランダ野艸園」の片隅に葬った。

《手づくり花壇の裏、せまい排水溝に野鳩が巣をかけた》
春先から、ベランダに野鳩のつがいがしばしばやってきていた。
やつがれは、暑かろうが寒かろうが、目覚めからのいっとき、ベランダの「ロダンの椅子」に腰をおろし、紫煙をくゆらすのを無上のよろこびとする。そこで陳腐なセリフだが、
「きょうも元気だ! タバコが旨い」 ── となって、やおら始動する。

そのとき、ときおりベランダの手すりに鳩をみかけた。小枝を咥えていることもあり、どこかに巣をかけるつもりだな、とはおもった。オドオドとしているが、こちらはロダンの彫刻さながら、不動のまま、ただ紫煙をくゆらせているので、飛びさることはなく、いつも植え込みの藪のしたからどこかに消えていった。

排水溝にもうけた鳩の巣

野鳩のことゆえ、 どうせエアコン室外機の下にでも巣をかけているのかとおもって、見て見ぬふりをしていた。

《颱風一過、2013年09月16日 ── 野鳩の巣を発見》
颱風18号が日本列島をまっぷたつにして駈けぬけていった。東京でも暴風雨がひどく、各地から河川の氾濫、洪水、土砂崩れ、竜巻、交通機関の混乱などの情報が報じられていた。
ベランダにブロックを積みかさねてつくった、わが「空中庭園・野艸園」でも、枝折れや、植木鉢の倒壊などの被害があった。この「空中庭園・野艸園」は、ノー学部が勝手に、ベランダの左右いっぱいにブロックを積みあげてつくったもので、いわばフラワー・ポットの大型版である。

被害状況を調べようと、ブロック積みと、ベランダの壁のわずかな隙間、20センチほどの排水溝をのぞいた。そこに野鳩の巣がふたつあり、卵が4個みられた。
ひとの気配に驚いたのか、狭い隙間から鳩は飛びさろうとしていた。よくもまぁ、こんなところに巣をかけたな、と呆れた。できるだけ鳩を驚かせないように撮影したので、不鮮明な写真となったがご容赦を。

《ことしも咲きましたよ! トロロアオイの花。2013年10月06日[日曜日]》
春先の02月17日に植えた「トロロアオイ」が、ようやく大輪の花をつけた。
晩夏に咲く花であることは知っていたが、まさかこんな異常気象の夏になるとはおもわず、ことしはすこし早めに播種して、ふた株を大振りな植木鉢に移植しておいた。
その記録は「花筏」にのこっていた。
【タイポグラフィ・ブログロール:花筏 朗文堂好日録-028 がんばれ! ひこにゃん !! 彦根城、徳本上人六字名号碑、トロロアオイ播種 2013年02月19日
その一部を引こう。

¶  2013年02月17日、トロロアオイの種子をテストで 播種
2011年、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部では、5月の連休恒例の〈活版凸凹フェスタ 2011〉の開催を、震災後の諸事情を考慮して中止した。
それにかえて、会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2011』に、被災地の復興・再建の夢と、活版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。

まもなく仙台市青葉区在住の女性会員のOさんから、
「トロロアオイの種子が元気よく発芽しました」
との写真添付@メールが送られてきた。
Oさんは毎年〈活版凸凹フェスタ〉にはるばる仙台から駆けつけてくださる、熱心な活版ファンである。またOさんご自身も「東日本大震災」ではなんらかの被害にあわれたかとおもえたが、それに関してはお触れにならなかった。

ことしもアダナ・プレス倶楽部会員のご希望のかたにはトロロアオイの種子をお配りしたいとおもっているが、昨年は開花期に中国にいったりして十分な水遣りができず、種子の大きさも小ぶりになったような気がしている。
そこですぐにも霙ミゾレになりそうな寒い雨の日だったが、発芽テストのために、ひとつまみの種子を黒ポットに植えた。元気に発芽してくれるように、しばらくは家の中で育ててみたい。

この種子のもとは、もう5年もまえに、都下あきる野市五日市町の軍道紙グンドウガミの工房からわけていただいたものである。そのときからアダナプレス倶楽部の会員の皆さんに種子を配布してきたが、何人ものかたが、単年に終わらせず、もう3回も同じ茎からトロロアオイの開花をみているそうである。
また花は、おひたしにして食すと、とても美味しいそうである。やつがれは毎年播種して、開花をまちわび、種子を採取している。
ことし2013年は、10月06日[日曜日]に、ご覧のようにみごとな開花をみた。この花は大輪だが、昼過ぎにはもうしばみはじめ、いちにちだけの開花で終わる。

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《そしてやってきた、ウパルンⅡ世。きわめて元気である》

DSCN1880uuDSCN2165uu「ウパルンⅠ世」が短い生涯をおえてから、水槽にはメダカのようなちいさな淡水魚と、アダナプレス倶楽部会員・田中智子さんにいただいた、これもちいさなエビ ── いずれも本来は「ウパルン」の餌として用意したものが泳ぎまわるだけになった。
08月の終わりとともに「マルイ」の熱帯魚特設売り場は撤去されたらしい。
そこで花園神社の鳥居のちかく、地下鉄E2口に通じる、半地下のビルの熱帯魚店に、家人に誘われるままに「ウーパールーパー」をみにいった。
ともかく水槽が空疎で、帰宅後のさびしさもあったので、抵抗なくついていった。

そこには白いアルビノのウーパールーパーはいなかったが、上掲写真の「サラマンダー」がいた。プラスチックのちいさなカップにはいっていたが、そのうちの一匹と、なんの因果か、また目があった。
ウパルンⅠ世とくらべると、いささか無骨ではあるが、愛嬌のある、いい顔だった。結局買って帰ることにした。

名前はまた「ウパルン」とした。正式には「ウパルンⅡ世」である。Ⅰ世とくらべると、まぁよく食べるウパルンⅡ世である。
過食をおそれて餌やりを遅らせると、はげしく水槽内を動きまわって催促する。エラのような、手足のような、触角のようなものも、ひんぱんに動かせて水槽を駆けまわる。
飼育法の学習をかねて、Website の「ウーパールーパー画像集」をみたが、うぬぼれながら、そこでも五指にはいるほどの美男 ? のような気がしているがいかがであろう。
ただ「ウパルン」は体長20センチほどにまで成長するらしい。そうなったら、いささか不気味かもしれない。

《秋の深まりを感ずるこのごろ。2013年10月09日[水曜日]》
野鳩の巣がけのことを書いたので、気になって今朝そっとのぞいてみた。一羽がしっかりと抱卵していた。もう10月の中旬で朝晩は肌寒くなってきている。したがって、はたして雛が無事かえるのかいささか不安ではある。
そして年初には、表紙込みで13枚あったカレンダーが、いつのまにかもうのこり2枚になっている。もろもろの打ち合わせも、年末・年初の企画や、来年の企画対応がふえてきた。

2013年、平成25年、いろいろあった年ではあるが、わが家のいきものたち ── メダカ、エビ、ウパルン、出目金3匹、泥鰌2匹、そして北海道・美唄の艸叢からもってきた、キャベツ大好きのカタツムリのでんでん、勝手に居着いた野鳩をふくめて、わが家のいきものは元気である。