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ダイカストと、先駆けとなった活字鋳造の産業革命-ブルース活字鋳造機の誕生

 

DSCN9133 20141010221615805_0001DSCN9117 DSCN9114 DSCN9154 DSCN9133 DSCN9151 DSCN9145 DSCN9135 DSCN9136 DSCN9140<2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会 >
◯ 日 時 : 2014年11月13日[木]-15日[土]

◯ 場 所 : パシフィコ横浜
◯ 主 催 : 一般財団法人 日本ダイカスト協会

【 詳細 : 日本ダイカスト協会 2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会

ブルース ブルース活字鋳造機の心臓部 鋳型David Bruce, Junior     1802 - 92
手回し式活字鋳造機 ( Pivotal type caster, Bruce Casting Machine ) の考案者。
米国フィラデルフィアの活字商、デヴィッド ・ ブルースⅠ世の子。

写真上) 手回し式活字鋳造機 ( Pivotal type caster, Bruce Casting Machine )。
写真中) ブルース型活字鋳造機の心臓部ともいえる鋳型。
ボディサイズ( ≒天地)により鋳型は交換可。Setwidth ( ≒ 字幅)により左右にスライド。

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隔年で開催される <2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会 会議> が開催された。 ダイカスト( Die Casting   ダイキャスト )とは耳なれないことばかも知れない。
ダイカストとは ―― Die  金型、Casting  鋳造 ・ 鋳物 ―― のことである。
換言すると、金型 カナガタ をもちいる鋳造法のひとつで、その製品をもダイカストという。
複製原型として堅牢な金型をもちい、その金型に、溶融した金属を、圧力を加えて注入する(圧入)ことによって、高い寸法精度の鋳物を、短時間に大量に生産する鋳造方式であり、その製品のことである。 ダイキャストともいわれる。

ダイカストは、現代工業製品の基礎技術のひとつともいえ、自動車のエンジン、ボディの一部、タイヤホイール、携帯電話のフレーム、カメラのボディをはじめ、高精度な工業製品に盛んにもちいられている鋳造(イモノ)の技術のひとつである。

朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の小型活版印刷機 Adana-21J ,  Salama-21A の設計 ・ 製造に際しても、多くの金型(鋳型)がつくられ、そこにアルミ合金などを <圧力を加えて金属を注入する鋳造法> ダイカスト製品がたくさんもちいられている。

そもそも、鋳造、鋳物をつくる技術は、ふるく奈良時代から、祭具、仏像、釣り鐘、武具などの製造でもおこなわれていたが、そこでもちいられていた型(鋳型)は、現代では砂型とされるものがほとんどで、精度 ・ 強度がともにもひくく、高速かつ大量生産には適していなかった。

意外なことに、そのダイカストというあたらしい鋳造法のはじまりは、産業革命をへて、アメリカのブルース活字鋳造機 Bruce Casting Machine ( アメリカ特許 No.3324,1843年 )が、ダイカストの製品化 ・ 実用化のはじめとされている。

ヴィッド ・ ブルースⅡ世 ( David Bruce, Junior   1802 - 92 ) は長い春秋のときを終え、1834年ニュージャージーに移り、それ以降はハンド ・ モールドという、ちいさな器具、ないしは道具でしかなかった活字鋳造法に、機械としての活字鋳造機の製作をおもいたち、1828年、フィラデルフィアのウィリアム ・ ジョンソン ( William M.  Johnson )が考案製作した機械に最初の暗示を得て、機械システムとしての活字鋳造機の製造に没頭した。

数次の改良をへて、ブルース活字鋳造機 Bruce Casting Machine ( アメリカ特許 No.3324,1843年 )が完成し、実用機として販売された。 これがダイカストの製品化 ・ 実用化のはじめとされている。
すなわち、
タイポグラフィとは切っても切れない技術がダイカストである。
【 詳細情報 : David Bruce, Jr. 】    【 画 像  集 : bruce junior david type caster

ブルース活字鋳造機のわが国への導入はふるく、アメリカでの実用化から30年ほどのち、はやくも1876年(明治09)に、元薩摩藩士 ・ 神崎正誼 カンザキ-マサヨシ による、東京銀座 (東京市京橋区南鍋町貳丁目壹番地) の活字商/弘道軒、 活版製造所弘道軒に導入されていた。

同社ではこの活字鋳造機を 「カスチング」 ( casting を訛ったもの) と呼び、自社開発書体  「 弘道軒清朝体活字 」 の鋳造を中心として繁忙をみたこともあった。 またいっときではあったが、ほぼ隣接して開設されていた 『 東京日日新聞 』 ( 現 『毎日新聞』 の前身のひとつ ) の本文用活字の一部にも、この 「カスチング ブルース活字鋳造機 Bruce Casting Machine 」 をもちいた活字を供給していた。
[ 片塩二朗 「弘道軒清朝体活字の製造法とその盛衰」 『タイポグラフィ学会誌 04』  2010年12月01日 ] p62アルビオン P70ブルース p71トムソン 「 カスチング ブルース活字鋳造機  Bruce Casting Machine 」は、当時の世相にあっては機器のメンテナンスや損傷部品の交換が海外企業では追いつかず、なかんずくブルース社製造の活字鋳型のサイズが、わが国の 「 号数制活字サイズ 」 とは異なっていたため、ほとんどが国産の模倣機がもちいられた。

その後自動化の進んだトムソン型の自動活字鋳造機の導入によって、 「 カスチング ブルース活字鋳造機  Bruce Casting Machine 」 は、「 手回し式活字鋳造機、手回し、ブルース 」 などと呼ばれるようになったが、張り出し文字などの特殊活字製造のために、現在も現役で稼動している。

【 参考資料 : 『VIVA 活版 !! 』 大石 薫、朗文堂

そんなダイカストの歴史 ・ 技術 ・ 可能性 ・ 魅力を知ることができる展示会が開催された。 ハンドモールド1ハンドモールド2ハンドモールド3★        ★        ★
活字ハンドモロールド操作 初紹介の貴重な動画!

【 Hand Moulding in the 1920s  https://www.youtube.com/watch?v=-hUGBD5h-po 】
1920年代の活字ハンドモールド操作の実態が動画で掲載されている貴重な動画(00:59)。
第一部は「活字父型  Punch」 と「活字母型  Matrix, 複数は Matrices 」 との関係をあらわす。
第二部は、ハンドモールドの湯口に、ヒシャクによる活字合金の流し込みののち、はげしく振り上げ、上下動させている。これは、ダイカストにおける「圧入」にかえて、活字のツラの細部まで地金を滲透させるためであり、また活字のボディに 「 鬆 ス ― 溶融状態の地金が冷却して収縮するとき、金属部分に生ずることがある空洞部分 」 が発生しないようにするためである。

Oxford Academic ( Oxford University Press )の提供によるものであるが、 共有リンクが設定できないので、
上掲 URL からぜひご覧いただきたい。

★        ★        ★

<2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会 >には、主催団体の日本ダイカスト協会の依頼によって、伊藤伸一氏が所有している 「 活字ハンドモールド 」 が正面入り口に展示され、おおきな話題を呼んでいた。
これから日本ダイカスト協会でも、活字鋳造とダイカストとの関連がおおいに話題となり、行動が開始されることが予想された。
このハンドモールドの1920年代英国における使用の実際の貴重な映像が、上掲 YouTube にアップされているのでぜひともご覧いただきたい。

またダイカストに関する貴重な資料として、日本ダイカスト協会技術部の西  直美氏による論文の一部を以下に紹介した。 ウィキペディアの 「 ダイカスト 」 も、ほぼ同氏の論文を引いて構成されているようである。
◯ 西  直美 「 ダイカストの歩み 活字鋳造から自動車足回り部品まで 」 『 軽金属 』 ( 第57巻 第04号、社団法人軽金属学会、2007年 )

【関連資料 : ウィキペディア ダイカスト

あわせて、アダナ ・ プレス倶楽部 <活版凸凹フェスタ2009 型形 カタカタ まつり> の資料も、ここに紹介しておきたい。

< ダイカストとは …… >

ダイカスト (die casting ) とは、金型鋳造法のひとつで、金型に溶融した金属を圧入することにより、高い寸法精度の鋳物を短時間に大量に生産する鋳造方式のことである。ダイキャストともいわれる。
またこの鋳造法だけでなくダイカスト鋳造法による製品をもダイカストという。

日本におけるダイカストの研究は1910年(明治43年)ころから大学の金属研究室を中心におこなわれ、1917年(大正06年)には最初のダイカスト会社が大崎(東京都)に設立された。
当時は鉛 ・ 錫 ・ 亜鉛を中心とした低融点合金を使用していたが、昭和に入りアルミニウム ・ 銅合金の素材も使用可能となって生産の拡大が進展し、第二次大戦中は軍需品を中心に年間 2,500 トン程度の生産まで達した。

戦後 1950 年頃までは低迷期が続いた。 1952年以降、JIS に関連規格が制定された。 その後、経済の高度成長や、自動車産業の発展、それにともなうダイカストマシンの改良 ・ 合金素材の開発が急速に進展し、2000年代にはマシンのコンピューターコントロール化 ・ 大型化もあいまって、生産性の向上と製品の多様化が顕著になっている。

ダイカスト関連年表

  • 1838年(天保09年) – 米デヴィッド ・ ブルースがダイカスト活字を製品化
  • 1905年(明治38年) – 米国のハーマン ・ H ・ ドーラーがダイカストの商業生産開始
  • 1910年(明治43年) – 日本でダイカストの研究開始
  • 1917年(大正06年) – 日本初のダイカスト製造(ダイカスト合資会社)
  • 1922年(大正11年) – 国産ダイカストマシン製造
  • 1935年(昭和10年) – 軍需産業でダイカスト製品の研究進展
  • 1940年(昭和15年) – ダイカスト製造各社に対し統制令発令、効率化のため100余社から25社に統合
  • 1947年(昭和22年) – 戦後民生品製造のためにいち早く復興。日本橋白木屋にてダイカスト展示会開催
  • 1949年(昭和24年) – 2 眼レフカメラボディのダイカスト化
  • 1952年(昭和27年) – 油圧電気制御ダイカストマシン初導入
  • 1952年(昭和27年) – JIS に関連規格が制定
  • 1953年(昭和28年) – 日本において高純度亜鉛開発成功
  • 1984年(昭和59年) – 日本のダイカスト生産量 50 万トン突破
  • 1988年(昭和63年) – コンピュ-タ制御マシンの導入本格化
  • 2002年(平成14年) – 日本のダイカスト生産量 80 万トン突破
  • 2006年(平成18年) – 日本のダイカスト生産量100 万トン突破

アダナ ・ プレス倶楽部 活版凸凹フェスタ
特別企画展示
< 型形 まつり ― カタカタ マツリ― >

「 type 」 とは、「 活字 」  であり 「 型 」 そのものをあらわすことばでもあります。
「 型 」 という視点でとらえると 「 活字  Type 」 そのものが、文字情報を、広く早くたくさん伝播するための 「 印刷版 ・ 活字版 ・ カッパン 」 を構成するひとつひとつの 「 型 」 といえます。

その活字も、ふるくは簡便に砂でつくった 「 砂型 」 を使って複製したり、「 鋳型 」 や「 母型 」 という 「 型 」、その母型をつくるための 「 型 」 となる 「 パターン 」 や 「 父型 」・「 種字と蝋型 」、父型をつくるための 「 型 」 である 「 カウンター ・ パンチ 」 などの、さまざまな 「 型 」 を幾重にも利用して成り立っていることがわかります。

アダナ ・ プレス倶楽部の活字版 印刷機 Adana-21J のボディも、ロストワックスをはじめ多種の型を使って製造されています。
今回の特別企画展示では、「 活字 」 や 「 活版印刷 」  とは切っても切り離せない関係にある  「 型 」 という概念に注目し、「 型 」 にまつわるさまざまを展示いたします。

わたしたちの生活は、実にさまざまな 「 型 」 の活用とその応用技術によって支えられています。 そしてわたしたち生き物も、遺伝子の中にある 「 型 」 の組み合わせによって形づくられているのです。
「 型 」 を用いた自然の摂理や先人の叡智と技術におどろき、その多様さや合理性などに感心しながらも、「 型 」 そのものの形の面白さや美しさに触れて、わたしたちと 「 type 」 との深い結びつきを再認識していただければ幸いです。

【 基本情報 : 一般社団法人 日本ダイカスト協会 HOME
【 イベント詳細 : 2014年 日本ダイカスト会議・展示会のご案内
【 関連情報 : 朗文堂 アダナ  ・ プレス倶楽部ニュース No.49 活版凸凹フェスタ 2009 型形まつり

新聞発行150周年 ジョセフ 彦と<日本国新聞発祥之地>碑を訪ねて

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DSCN9168 DSCN9173DSCN9184 DSCN9187[ 台座碑銘 ]

日本国新聞発祥之地

[ 碑    文 ]

日本における新聞誕生の地

ここ、横浜の元居留地一四一番は、一八六四
( 元治元 ) 年六月二十八日、 ジョセフ 彦が、
「 海外新聞 」 を発刊した居館の跡である。

彦は、 リンカーン大統領と握手した 唯一の
日本人であった。 リンカーンの民主政治が 勃
興期の米国の新聞の力に負うところ大なるを
体得し、開国したばかりの祖国のため、日本最初
の新聞を創刊し、「 童子にも読める 」 新聞精神
を提唱した。読みやすく、判りやすい新聞を、
創世記の日本の新聞界に植えつけた 新聞の
父 彦 の功は大きい。

さらに木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬など
多くの人々に民主政治を伝えた彦は、民主主
義の先駆者として、およそ新聞を読むほどの
人々の心の奥に残る 文化の恩人であった。

一九九四 ( 平成六 ) 年六月二十八日
「 海外新聞 」  発刊一三〇年記念日に
                ジョセフ 彦記念会
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日本で最初に発行された新聞は、1864年(元治元)に ジョセフ 彦 が横浜で発刊した 『 海外新聞 』 とされている。
すなわち本年は < 新聞発行150周年 > にあたり、ジョセフ 彦の郷里 : 兵庫県播磨町では各種の行事が予定されている。
【 関連情報 : 播磨町役場 新聞の父 ジョセフ ・ ヒコ ≪2014(平成26)年は、ジョセフ ・ ヒコ新聞発行150周年≫

ジョセフ 彦 (1837-97) は 播磨国加古郡古宮村 (現 : 兵庫県播磨町古宮) のひと/彦太郎で、1850年江戸から 船で故郷に帰る途中 暴風雨に遭遇し、50日余り太平洋を漂流したのち アメリカの商船に救われアメリカに渡った。
税関長サンダースに可愛がられた彦太郎は、アメリカで教育を受け、カトリックの洗礼を受けた。 この時 「 ジョセフ 」 のクリスチャンネームを受け、のちにアメリカ国籍をえるとともに、「 ジョセフ   彦 」 と名乗った。

1859年 (安政06) アメリカ領事館の通訳として、 初代日本総領事ハリスとともに 開国直後の日本に着任した。  一旦アメリカに帰国後、1864年(元治元)年 再来日し、06月から横浜の (外国人) 居留地一四一番において、 < わが国最初期の新聞 『新聞誌』、『海外新聞』> を発刊した。
『 海外新聞 』 は当初は 『 新聞誌 』 と称していた。 これはジョセフ  彦が外国の新聞を翻訳し、岸田吟香と本間潜蔵が、ひらがな交じりのやさしい日本文に直したもので、半紙 4-5 枚に筆写したものを こよりで綴り、横浜市内に 100 部程度配っていた。 翌年には 『 海外新聞 』 と改題し、木版刷りで 26 号まで発行している。
『 海外新聞 』 は、外国人が治外法権のもとで生活していた、居留地一四一番 ( 現 : 横浜市中区山下町 中華街 関帝廟直近の場所 ) で発行された。 月刊新聞で、半紙 4-5 枚を仮綴したもので、 最初は 手書きだったが、のちに木版印刷をもちいて、 02年間で 26号まで発行したとされる。
青山外人墓地に、ジョセフの名を漢字にあてた 「浄世夫  彦」 の名前で墓地がある (青山霊園  南01種イ04 1837-97年)。
【 関連情報 : ウィキペディア 浜田彦蔵

ここで、ジョセフ  彦とともに『 海外新聞 』 に携わった 岸田吟香 にも簡単に触れておこう。
岸田吟香 (1833-1905) は 岡山のひとで、江戸で漢学を学び、1864年(元治元)横浜で  J ・ C ・ ヘボン (James Curtis Hepburn 1815-1911) の和英辞書 『 和英語林集成 』 の編集に協力した。

1865年(慶応元)から新聞に関わるようになり、ジョセフ  彦の 『 海外新聞 』 創刊に参加。1868年(明治元)には、バン ・ リードと 『 横浜新報 もしほ草 』 を創刊した。
1873年(明治06)『 東京日日新聞 』 に入社、翌1874年台湾出兵に従軍し、日本最初の従軍記者となった。
1877年(明治10) 『 東京日日新聞 』 を退社し、その後は事業家として、中国との貿易、文化交流にも活躍した。  ヘボンから学んだ水性点眼薬 「 精錡水 セイキスイ 」 の製造販売でも名をあげ、視覚障害者の施設を設けるなどした。
また画家 岸田劉生の父であり、そのモデルとなった麗子の祖父でもあった。
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< 日本新聞発祥之地 > 碑は 横浜市山下町の、いわゆる中華街の一隅、すこしわかりにくい場所にある。
横浜の港は、和暦では安政06年06月02日(太陽暦では 1859年07月01日)に開港された。
その直後から治外法権のもとでの外国人居留地が開設され、アメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、インド人などが居留して、活発かつ精力的な商業活動を展開し、コロニアル ( 植民地 ) スタイルの洋風商館が立ちならんでいた地である。
すなわちジョセフ  彦は、外国人としてこの地に居住していたことになる。

この居留地百三十五番には 「 清国 ( 現 : 中華人民共和国 ) 領事館 」 があり、中国人も多かった。 その後1899年(明治32)、いわゆる不平等条約の解消によって多くの外国人が去り、また関東大震災、第二次世界大戦の戦災などがかさなって、往事のおもかげをほとんどとどめないが、ここに精力的に中国人が進出して、いわゆる「中華街」を形成した。

< 日本新聞発祥之地 > 碑は、横浜 中華街  関帝廟カンテイビョウ、向かって左、およそ15 m ほど、横浜中華学院の塀にそった 歩道の植え込みに、歩道側を向いてたたずむ。
左斜め前には 「 横濱バザール 」 があって、このあたりが、かつては治外法権の外国人居留地であったことのおもかげをわずかにとどめている。

DSCN9219 DSCN9217 DSCN9225 DSCN9222 DSCN9207 DSCN9208 DSCN9203 DSCN9181 DSCN9194 DSCN9200 DSCN9201中華街のはずれ、地久門をでて、JR 石川町駅をめざす。
はやくからの開港地であった横濱には、興味深い施設がたくさんあった。
DSCN9232 DSCN9234 DSCN9237ここには短期間ではあったが、東京築地活版製造所の開設者、平野富二が、機械製造と造船業への進出初期に
かかわった <横浜製鉄所跡> 碑が設けられている。
すなわち明治初期のこのあたりは海辺であり、水運をおおいにもちいた <横浜製鉄所 > があった場所である。
『 平野富二伝 考察と補遺 』  第六章 「築地活版所の拡張と造船業への進出」 (古谷昌二、朗文堂)から、この場所をみてみよう。
平野表紙uu
横浜製鉄所の概要

幕府がフランスの協力のもとで横須賀製鉄所 (のちに横須賀造船所、横須賀海軍工廠となり、現在はアメリカ海軍横須賀基地となっている) を建設する一環として、横須賀製鉄所の建設に先立ち、以前に幕府がアメリカから買い付けてあった工作機械を用いて、当面の艦船修理と洋式機械製造技術の習熟のため、早急に横浜に製鉄所を開設することにしたものである。
当時は銅鉄を溶解して鋳造 ・ 機械加工する工場を 「 製鉄所 」 と称していた。

六 ― 二     横浜製鉄所での共同経営
明治九年(一八七六)五月、[平野富二は] 長崎製鉄所時代の同僚であった杉山徳三郎が実質的に経営していた 横浜製鉄所 の経営に参加し、ここで艦船修理や印刷関係を含めた各種機械器具類の製造を開始した。
同年八月、工部卿 山尾庸三ヨウゾウから紹介されて、イギリス人アーチボルド ・ キングを横浜製鉄所の職長頭として雇い入れた。
しかし平野富二は、海軍省から石川島造船所のドック借用で業務多忙となったため、同年一〇月、横浜製鉄所の共同経営から脱退した。