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烏兎匆匆 ウト-ソウソウ ②
うかうか三十、キョロキョロ四十、烏兎匆匆
先達の資料に惹かれ、おちこちの旅を重ねた。 吾ながらあきれるほど喰い
囓っただけのテーマが多い。 いまさらながら馬齢を重ねたものだとおもう。
文字どおり 「うかうか三十、キョロキョロ四十」 であった。 中華の国では、
歳月とは烏カラスが棲む太陽と、 兎ウサギがいる月とが、 あわただしくすぎさる
ことから 「烏兎匆匆 ウト-ソウソウ」 という。 そろそろ残余のテーマを絞るときが
きた。 つまり中締めのときである。 後事を俊秀に託すべきときでもある。 お
あとはよろしいようで……なのか、 おあとはよろしく……、 なのかは知らぬ。
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本項の初掲載は2011年08月22日であった。
テーマと問題点に進行がみられないこともあり、ここに再掲載した。
活字版印刷術と情報は、水の流れにも似て……
五体と五感をもちいたアルチザンの拠点
◎ おあとは、よろしいようですね!
デザイン界に、いまだ充実した 「 教科書 」 が不在だったころのはなしである。そうふるい話しではない。1997年のこと。
京都のさる美術大学が、四年制の通信教育学部をつくろうとなったとき、あたりまえといえばあたりまえだが、所轄官庁から 「 教科書 」 の製作を強くもとめられた。
そのタイポグラフィ篇の教科書の執筆を依頼されたが、単独執筆では偏りを生ずるおそれがあったので、K氏、S氏に依頼して、03名で共同執筆にあたった。
執筆に取り組んで、あらためておどろいた。当時の美術大学や芸術大学 ( くどいようだが1997年のこと )にはどこにも、デザインの教科書はもとより、先行資料といえるようなまとまった資料はなかったのだ。 先行資料が無いということは、ある意味では提灯も無く暗い夜道を歩むようなものであった。
そのため、まったく手探りで、「 デザイン教育用の教科書 」 をまとめなくてはならなかった。 そのツメの段階にきたとき、資料不足が明確になったので、筆者を含む03名で、ヨーロッパ駆け足取材 ( 費用は各自負担だったケト ゙ ) を計画した。
執筆と旅行の準備に追われていたある日、S氏が血相を変えて駆け込んできた。
ゲーテ 『 イタリア紀行 』 に,アルダス ・ マヌティウスの工房が、「 ベネツィアのサンセコンド2311番地 」 にあることが紹介されている、と興奮した面持ちでかたった。
18-19世紀の文豪 ゲーテ ( Johann Wolfgang von Goethe 1749―1832 ) が記録したその記録が、現在もまだ有効な資料かと半信半疑ながら、「 ヴェネツィア、サンセコンド2311番地 」 の名前だけは咒文のように記憶して出かけることになった。
ともかく慌ただしい旅 ( 珍道中ともいえる ) であった。 ドイツに入り、パリを経由して 列車でスイスに、そしてまた列車でイタリアに入った。
イタリアでは拠点を パドヴァ のちいさなホテルにおいた。 すなわち長靴形のイタリア半島を上下に移動するのではなく、半島の付け根を左右に行ったり来たりした。 ミラノから取材をはじめ、翌日にはヴェローナのタイポグラファの友人、マルチーノ ・ マーダシュタイク氏からさなざまな支援を受けた。
当然、ヴェネツィアのアルダス工房の所在地も聞いたが、
「 ヴェネツィアのどこかに、いまもアルド ・ マヌッツィオ ( マルチーノの発音 ) の工房があることは聞いた気がするなぁ」
程度の曖昧な回答だった。
そこで、やはり ヴェネツィアに行くしかない……、 となった。
いまならグーグルマップで即刻詮索だろうが、この取材は1997年のこと。
ヴェネツィア駅に降り立って、すぐに詳細な街路図を購入して、駅前広場で地図をひろげて03人による鳩首検索。
おなじ列車で着いた旅行者は四散して、駅頭からすっかりひとがいなくなったのに、まだ駅前でただただ地図とにらめっこをしている奇妙な日本人が03人。
「あった~! ココにある」。
やはり最初に豆粒のような街路図から 「 サンセコンド 」 の名を見つけたのはS氏だった。
さっそく いくつかの橋を ( 駆け抜けるように ) わたって 「 サンセコンド通り 」 に駆けつけた。
それからの興奮、舞いあがりのさまをしるすのは ( あまりに恥ずかしいから ) 控えよう。 ともかく03人は、いまはヴェネツィアン ・ グラスの工房 ( 写真向かって左 ) と、ブティック ( 写真向かって右 ) になっているこの建物に、( 買い物のふりをして ) 押し入り、仔細に ( 柱の1本1本に頬ずりをし、壁もナデナデして ) 内部構造もミタ。
まことに奇跡ではないかとおもった。 520年ほど以前 ―― わが国では足利幕府の時代、すなわち1495年ころから この工房は活動を開始し、20年余にわたって133冊 ( 種類 ) の評価のたかい書物をのこしている。 その工房がそっくりそのまま地上にのこっているのだから、高松塚古墳 モトイ ポンペイの遺跡が発掘されたときよりおどろいた !?
それから筆者はここを都合04回訪れ、いつもお義理でヴェネツィアン ・ グラスの安いものを購入していた。 そのため工房のあるじとも親しくなった。 店主はいかにも技芸の街、ヴェネツィアのアルチザンといった朴訥 ボクトツ なひとで、
「 最近、日本人のデザイナーが良く来る。 かれらは丁重で、必ず名刺を出して、死ぬほど写真を撮りまくる 」
と ( いうようなことを ) ボソボソとかたっていた。 それでも気のせいか、この建物に入ると、いつも活版インキ独特の甘い残り香をかんじていた。 なによりも、この 「 サンセコンド2311番地 」 の 建物正面の壁面には、重々しく銘板が埋め込まれており、以下のような文言がしるされている。
その名があまねく知れわたりし マヌティウス家の啓蒙者
アルダス ・ マヌティウス
このヴェネツィアの地にて 優れし印刷術に 身も心も捧げたひと
大学側の最初の説明では、通信教育学部の発足までに、各教科 都合10冊の教科書をつくることが必要だとされた。 吾吾03人組はなにはともあれ締め切りは守った。
それにしても……、常勤の大学教員はただただ傍観するだけ、その間なにもしなかったなぁ。 それがして、それまで美術大学に教科書が無かった理由かもしれない。
ともあれ、発足までに間にあったのは、吾吾が担当したタイポグラフィ篇と、別の著者によるイラスト篇だけだったようだ。 のこりの教科は、大学当局が監督官庁となんとかうまく話しあったのだろう。
したがってこのふたつが取りあえず合冊されて、『 情報デザイン演習Ⅰ 情報デザインシリーズ Vol.1 イラストレーションの展開とタイポグラフィの領域 』 と、えらく長い ( 大仰な ) タイトルがつけられて、1998年(平成10)04月01日に発行され、四年制の通信教育学部の発足をみた。
そして、それから数年もたたずに、あちこちの美術大学や芸術大学に 「 教科書 」 がもうけられるようになった。 わが国には <ちいさく右へ倣え> のふうがある。
◎ イタリア アルダス工房
ヴェネツィア、サンセコンド2311番地 15世紀後半- ( 白井敬尚氏撮影 )
アルダス工房は、水の都とされるヴェネツィアの運河沿い ( 工房の真裏が運河になっている ) に、出版総合プロデューサーともいうべき アルダス ・ マヌティウス ( Aldus Manutius 1450―1515 ) によって1490年ころに創設された。 工房には、編集者、校閲者、組版工、印刷工らの職人が常時30名ほど働いていたとされる。
もともと東方貿易によって繁栄をきわめたヴェネツィア共和国だったが、15世紀中ごろに トルコがギリシャを占領したために、その難民が大挙してヴェネツィアに避難し、古代ギリシャの写本などの文献も豊富に持ちこまれていた。 そして、そのギリシャからの文献をもとめて、人文主義者らがヴェネツィアにたくさん集まっていた。
こんな歴史を背景として、アルダス工房の書物の大半は ギリシャ語活字によって組版 ・ 印刷されている。
しかしながらこんにち評価が高いのは、数は少なかったが ラテン語 ・ イタリア語による書物で、そこにもちいられたアップライト ・ ローマン体活字が、ボローニャ出身の有能な活字父型彫刻士、フランチェスコ ・ グリフォ ( Francesco Griffo ?―c.1518 ) の設計 ・ 彫刻によって、1495―99年にかけてつぎつぎと誕生した。
上) 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 2006年ニューイヤー ・ カード 使用活字書体 「 ベンボ 」
下) 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 2007年ニューイヤー ・ カード 使用活字書体 「 ポリフィラス 」
この時代のアルダス工房のローマン体は、まず1495年 「 アルダス/第 1 ローマン体 」 と呼ばれ、ピエトロ ・ ベンボ著 『 De Aetna 』 にもちいられた。
この 「 アルダス/第1ローマン体 」 は1929年にスタンリー ・ モリスンの監修によって復刻され、最初の 『 De Aetna 』 の著者の名をとって 「 ベンボ 」 と名づけられた。 この 「 ベンボ 」 は、いまなお金属活字でも電子活字でも入手が可能である。
「 アルダス第 2 ローマン体 」 は、1496年にグリフォによって彫刻され、レオニセヌス著 『 Epidemia 』 にもちいられた。
「 アルダス第 3 ローマン体 」 は、1499年に おそらくこれもグリフォによって彫刻され、美しい木版画をともなって著名な 『 Hypnerotomachia Poliphil 』 ( 邦名 : ポリフィラスの夢 or ポリフィロの狂恋夢 ) にもちいられた。
この 「 アルダス第 3 ローマン体 」 も、1923年にスタンリー ・ モリスンの監修によって復刻され、モノタイプ社から最初の書物の名をとって 「 ポリフィラス or ポリフィリ 」 として発売をみた。 この 「 ポリフィラス 」 も、いまなお金属活字でも電子活字でも入手が可能である。
さらにアルダス工房の名をたかめたのは、「 手早く書かれた、やや傾斜のある非公式の書 体 ≒ チャンセリー ・ カーシブ 」 に着目し、それを活字書体としてグリフォによって彫刻させ、 詩集など小型判の書物にもちいたことである。
このように出版プロデューサーとしてのアルダス ・ マヌティウスの企画力と、アルチザンとしてのフランチェスコ ・ グリフォの手腕によって製作された活字書体は、こんにち 「 オールド ・ ローマン体 」 として、いまなお活字界においては屹立した存在である。
そしてこのアルダス工房など、15世紀後半に各地のアルチザン工房がのこしたさまざまな書物は、のちにドイツの書誌学者によって、まだ活字と書物がゆりかごのなかにあった時代の書物、すなわちラテン語のゆりかごからの意から 「 インキュナブラ Incunabula 揺籃期本 」 と命名され、きわめて評価がたかい図書となっている。
そしてアルダス工房の活字は、やがてルネサンスの精神とともに、フランスに影響を与え、クロード ・ ギャラモンらによって一層の発展をみた。
そしてグリフォの、「手早く書かれた、やや傾斜のある非公式の書体 ≒ チャンセリー ・ カーシブ 」 活字は、フランスではイタリックと呼ばれ、これまた一層の充実をみた。
そしてわが朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部では、毎年のニューイヤー ・ カードにおける活字紹介シリーズとして、2006年 「 ベンボ 」、2007年 「 ポリフィラス 」 の両活字書体を紹介した。
そしていまなお手を尽くして、モノタイプ母型による金属活字の輸入販売にもあたっているのである。
すなわちヴェネツィアの運河を背にした、このちいさな工房の歴史のおもさをおもわずにはいられないのである。
◎ と、ここまで書き進めて、吾輩ハタと気づいた。 吾輩は 「 烏兎匆匆 ウト-ソウソウ ② 」 としてこのページをしるしていることをである。 すなわちこのテーマは今後どなたかにお任せするとしているのである。
いまや復習したり、再考 ・ 再検証するときではない。 まして、アルダス工房とその書物と活字にたいする関心は世界規模でおおいにたかまっている。 もはや吾輩の出る幕ではない。
以下にもうふたつのテーマを紹介するが、もうしつこくは書かないゾ。
ところがじつは、そのどちらかは、これから一層集中 ・ 注力するテーマとしている。 どちらかは秘密だけどネ。 いずれにしても、あとはお任せなのである。
◎ しかしである。 しかしながら、オールド ・ ローマン体の研究を深めるためには、先行したヴェネツィア ・ ローマン体の研究をもっとふかめる必要がある。 すなわち、アルダス ・ マヌティウスより30歳ほど年長で、これも同じくヴェネツィアを本拠地とした、ニコラ ・ ジェンソン ( Nicolas Jenson 1420―80 ) の工房調査がまったく進行していない事実にいまさらながら気づいた。
アルダス工房の調査も ( 大袈裟にいえば、世界のタイポグラファがみな )、ここにしるしたような些細なことから大きく進捗したのである。
そ こで最後に、真摯なタイポグラファの皆さんに声を大にして のお願い。
ニコラ ・ ジェンソン工房の調査を、ぜひ !
◎ フランス ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所
パリ、セーヌ河畔、ビスコンティ通り17番地 c.1825/27-1923年
パリのセーヌ川沿いのカチェラタン地区に、『 人間喜劇 』 『 谷間の百合 』 『 ゴリオ爺さん 』 などで知られる、文豪 ・ オノレ ・ バルザックが、ド ・ ベルニ家の支援を受けて設立した名門活字鋳造所の誕生の地がある。
若いころ、いっときバルザックの作品が好きで読みふけったことがある。 だからパリのペール ・ ラシェーズ墓地をたづねた。 その記録は 『 文字百景 』 のどこかにしるしたはずだ。
またフランスではいまだにバルザックの評価がたかく、
【 URL : Chateâu de Saché サシェ城 とバルザック記念館 】
があり、バルザックが使用した印刷機器なども展示されており、日本語紹介も充実しているが、日本語でのそこへの訪問記をみたことはない。 どなたかがここを訪問していただけるとうれしい。
同社創業者のバルザックは経営から早早に去ったが、同社はド ・ ベルニ家とペイニョ家の両家による後継者に恵まれ、1923年からはペイニョ家が実質的な経営にあたった。
ペイニョ家の歴代経営者では、Gustave Peignot 1839-99, Georges Peignot 1872-1914, Charles Peignot 1897-1983 らが著名である。
20世紀にはいってからも、同社はフランス国立印刷所の活字父型 ・ 活字母型の修復 ・ 鋳造にあたるとともに、「 カッサンドル 」 「 ペイニョ 」 などの意欲的な活字を開発した。
またパリ16区に移転後の1952年、シャルル ・ ペイニョがスイスからアドリアン ・ フルティガーを迎え、「メリディエン 子午線」、「ユニバース 宇宙」 などの書体を産んだ。
しかしながら、急速な活版印刷の衰退という時代の推移もだしがたく、ついに1972年(昭和47)、同社の活字資産はフランス国立印刷所に収蔵され、製造権はスイスの Haas 社が継承し、その長い歴史に幕をおろしたのである。
ビスコンティ通りはセーヌ川から近く、写真のように、小型車がようやく通り抜けられるような狭い路地にある。 創業当時からの建物は、写真左手に顕彰レリーフとともにいまもあり、現在は出版社が使用している。
オノレ ・ バルザック ( Honoré de Balzac 1799-1850 ) に関する邦訳書は多いが、そこでは、かれが艶福家であったことや、放縦な生活ぶりは描かれても、かれが 「 印刷狂 ・ 活字狂 」 であったことをしるした書物は少ないようだ。
◯ 1826年(27歳)
バルビエなる印刷所の監督と既設の印刷所を買い取り、06月印刷業者の免許をとる。
『 Oeuvres de Colardeau 』 Paris, 1826 Imprimerie de H. BALZAC
バルザックの印刷による上記の豆本を吾輩所有。 天地110mm×左右67mm 180p
極小サイズの活字を使用。巻頭に印刷者としてバルザックの名がある。
他文献に紹介を見ず。 調査不十分。
◯ 1827年(28歳)
07月印刷所が頓挫する。そこでド ・ ベルニ夫人の出資を受けて、ローランとバルビエと共同で、印刷所にかえて、活字鋳造所を設立した ( 写真の場所 )。
『 La Fouderie Typographique De Laurent, Balzac et Barbier 』 Paris, 1827
すばらしい活字見本帳である。 同書は1992年に正確な複製版が発行された。
オーナメント、活字、ヴィネットの紹介が豊富。 吾輩も1992年版を所有。
◯ 1828年(29歳)
活字鋳造所の事業が不振で、バルザックとバルビエは印刷 ・ 活字鋳造から手を引く。
04月活字鋳造業を ド ・ ベルニ夫人の息子に譲渡。 夫人が1万5千フランの負債を肩代わりした。 バルザックの負債は結局 6 万フランの巨大なものにのぼった。
◯ 1952年―― Charles Peignot 1897-1983
Charles Peignot らが、同社の事実上最後の総合活字見本帳 『 DEBERNY ET PEIGNOT 』 を発行。
創業者 ・ バルザックからはじまり、 ド ・ ベルニ家 と ペイニョ家歴代経営陣の紹介がある。
「 カッサンドル 」 「 ペイニョ 」 活字書体の紹介が豊富。 吾輩も所有。
◎ イギリス アーツ&クラフツ運動
ロンドン、アッパーマル12-26番地 19世紀末-20世紀初頭
テムズ河畔、馬車はもちろん、車も入れない、せまいせまい路地がアッパーマル通り。
19世紀中葉からこの路地に造形者が集まり、産業革命の負の側面を解消し、労働の喜びを賛歌するひとつの運動体を形成した。 それが 「 アーツ & クラフツ運動 」 であった。
著名なケルムスコット ・ プレスは この路地の入口、馬車のUターンのスペース ( 現在は駐車場 ) の前に、テムズ河畔に面してあり、路地にはダヴス ・ プレスなどの著名な印刷所と、製本 ・ 皮革工芸 ・ ステンドグラス ・ 刺繍の工房などが軒をつらねていた。
アーツ & クラフツ運動と、ウィリアム ・ モリスに関する紹介は、わが国でも多すぎるほど多い。 吾輩も英国 ・ 米国 ・ わが国の先行資料をそれなりにもっている。
さりながら、多くの執筆者たちは、このせまい路地に立ったことがあるのだろうか……とおもわせる記述が多い。 なによりも、この路地のテムズ川にせりだした 《 パブ ・ ダヴ 》 の珈琲はかなりうまいのだが、たれもそれにはふれないなぁ。