《 2011年09月 北京爽秋のもと、ノー学部がはじめての北京訪問 》
09月下旬-10月中旬ころの北京の気候を、「北京爽秋」という。
喉がひりつくような猛暑がさり、寒風が吹きすさぶながい冬までのあいだ、わずかに、みじかい、北京の爽やかな秋のことである。
杭州 ・ 紹興 ・ 寧波 (ねいは ・ ニンボウ) など、江南の浙江省と、黄河上流から中流域の、西安 ・ 洛陽 ・ 鄭州 ( ていしゅう ・ Zhengzhou、黄河中流南岸。古代王朝商〈殷〉の前半期のみやことされる) ・ 安陽 (甲骨文出土地、文字博物館がある。 古代王朝商〈殷〉後半期のみやこ) など、陝西省と河南省あたりを訪問していたノー学部が、ようやく2011年09月下旬に首都 : 北京を訪問した。
折りしも 「 北京爽秋 」 とされるとき。 大空がはろばろと澄みわたり、涼風がここちよい、もっとも麗しい北京がみれる佳いときであった。
北京印刷学院と併設の印刷博物館。 下部は紙型 ( ステレオタイプ ) 型どり製造装置
《 観光名所をひとめぐり。 そして北京印刷学院と併設の印刷博物館を訪問 》
北京がはじめてというノー学部のために、とりあえず、景山公園、故宮博物院(旧紫金城)、北海公園、明の十三陵、万里の長城などの観光名所をひととおりまわった。
やつがれは北京訪問は 7-8 度目になるが、以前のような観光ガイドつきの旅とちがって、それなりの新鮮さがあった。
それでもそんな観光写真をここにご紹介しても退屈であろう。
このとき、北京訪問を決意したきっかけのひとつは、「 北京印刷学院と、併設の中国印刷博物館 」 への訪問だった。
この施設は1970年代に、写真植字機の開発とその輸出 ・ 移入などで、わが国の関連業界とも接触がみられたが、その後、なぜか情報がほとんど途絶えていた。 その理由を知りたかったし、施設もみたかった。
結果だけをいえば、2011年09月に訪問した 「 北京印刷学院と、併設の中国印刷博物館 」 での収穫はすくなかった。
博物館の規模は宏大で、展示品もとてもすばらしかったが、地下の印刷機器の陳列場をのぞいて撮影禁止であり、図録などは 「 未製作 」 ということで入手できなかった。
また交換プレゼントに小社の図書を相当数用意して、現役の教育者との面会をもとめたが、それも2011年09月の最初の訪問のときは実現しなかった。
【 リンク : 花筏 新 ・ 文字百景*04 】
さらになさけなかったのは、上掲写真のうち、地下展示場の 「 紙型製作機 」 にもちいる巨大なブラシ ( 手づくり ) の未使用品を小社が保有しており、4-5年にわたって壁にぶら下げていた。
もちろん販売だけを目的としたものではなかったが、残念ながらタイポグラファを自称する皆さんでも、ほとんどこれに関心をしめさなかった。 それも当然で、名前を知らず、用途も知らないのだから、簡単な説明だけではただのおおきなブラシとおもわれても仕方なかった。
ところがこのブラシをみて、奪いさるように強奪 !? していったのは、パリにアトリエをもつ版画家の某氏であった。
このかたは版画家ではあるが、個人で 「 スタンホープ型手引き活版印刷機 」 を所有されている……、つまりタイポグラファである。 当然このブラシの用途もご存知だった。 その上で、現在の作業環境にあわせての利用を目的とされた。
誤解をおそれずにしるせば、わが国のタイポグラファの多くは、単なる 「 活字キッズ 」 がほとんどで、実技と実践がなく、またシステムとしての印刷と技芸という、本来のタイポグラフィへの関心が乏しいのは物足りないものがある。
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それでもあきらめずにいると運は拓けるもので、下掲写真は翌翌年の2013年11月、友人の紹介をえて、中国印刷博物館に、副館長/張 連章 ( Zhang Lian Zhang ) 老師を訪問したときのものである。
ノー学部にとっては二度目の北京訪問となった。 このとき北京ではすでに「北京爽秋」とはいえず、11月初旬でも朝夕などはコートが欲しくなるほど冷え込んでいた。
中国印刷博物館正面ロビー中央の銅像は、中国のタイポグラファが 「 活字版印刷術発明者 」 として、きわめておもくみる 「 畢昇 ヒッショウ 像 」 (990-1052) で、下掲写真はその銘板である。
〔 畢昇の発明による活字版 —— 意訳紹介 〕
畢昇像 —— 畢昇(ヒッショウ 990-1052)は 北宋 淮南ワイナン ( 現在の湖北省黄岡市英山県 ) のひと。
ながらく浙江省杭州にあって木版印刷に従事した。 宋王朝仁宗 (趙 禎) の 慶歴5年 (1044)、膠泥コウデイ製の活字による組版をなして、活字版印刷にあたらしい紀元をもたらした。 畢昇は印刷史上 偉大なる発明家である。
〔 筆者補遺 〕
中国印刷博物館では、畢昇の功績はきわめてたかく、500年ほど遅れて、活字版印刷術を大成したグーテンベルクよりも、畢昇のほうを < 発明者 > として数等たかく評価していた。
したがって畢昇に関する研究も相当すすんでいて、館内には大きなスペースをもちいて、畢昇の膠泥活字の製造作業を、ていねいなジオラマ ( 復元模型 ) によって展示 ・ 解説していた。
1990年 ( 平成 2 ) 畢昇の墓誌が発見され、没年が1052年であることがあきらかになったが、生年は970年説、990年説などと異同があ る。
わが国では活字創始者/畢昇のことは、ほとんどおなじ時代の北宋のひと、沈 括 (シン-カツ 1030-94) の 『 夢渓筆談 』 のわずかな記述を出典とするが、そろそろ新資料にまなぶときかもしれない。
ここでいう 「 泥 」 は、わが国の土の軟らかいものとはすこし異なる。 現代中国では 「 水泥 」 としるすとコンクリートになる。 したがって 膠泥 コウデイ とは 膠 ニカワ が溶解してドロドロしたものと理解したい。
この膠泥は、なににもちいるのかは知らないが、現代中国でも容易に入手できるので、一部の好事家は 「 膠泥活字 」 の再現をこころみることがある。
【 リンク : 中国版百度百科 畢昇膠泥活字 図版集 】
【 リンク : 中国版百度百科 畢昇(活字版印刷術発明者) 】
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《美華書館と、後継企業としての華美書館 ・ 商務印書館の消長》
このときは印刷博物館副館長 ( 張 連章 氏 Zhang Lian Zhang 。 印刷博物館館長は共産党幹部であり、張氏が実質的な責任者 ) との同道だったので、館内の撮影もゆるされた。
ところが300枚を優にこえる膨大な数量の写真となった。 しかも広い館内を駆けまわってのシロウト撮影だったから、整理にもう少し時間をいただきたい。
中国では1937-1945年までの日中間の微妙な紛争を 「 抗日戦争 」 と呼ぶ。
わが国ではその前半部分を 「 北支事変 」、「 上海事変 」 などとし、後半部分を 「 大東亜戦争 」 することが多い 【 ウィキペディア : 日中戦争 】。
併設の 「 北京印刷学院 」 は、こうした 「 抗日戦争 」 を主要研究テーマのひとつとした 「 愛国教育 」 の拠点校である。 つまり直近の戦争として 「 抗日戦争 」 を取りあげることが多く、どうしても 「 北京印刷学院 」 は、 「 反日的 」 なかたむきがみられることになりがちである。
それを受けて 「 中国印刷博物館 」 では、中国各地の印刷所と図書館を標的とした、旧日本軍による砲撃のなまなましい惨禍を、文書 ( 印刷物 ) や写真として記録 ・ 所有 ・ 展示していた。 これらの資料の閲覧は、かなりつらいものがあった。
その一例として —— 温厚な張 連章氏が、このときばかりは表情もけわしく、詳細に説き、みせてくれた資料がある。
それは 「 上海商務印書館と 付属図書館 」 にたいして、旧日本軍が至近距離から照準をあわせ、砲弾をあびせて、印刷機器、活字鋳造設備、活字在庫などを焼失させた数枚の写真であり、それを掲載した新聞であった。
また付属図書館では、稀覯書をふくむ、蔵書数十万冊が焼失したという詳細な記録資料だった。
わが国では、英米系の宗教印刷所 「 美華書館 The American Presbyterian Mission Press 」 が喧伝されるわりに、この 「 商務印書館と 付属図書館 」 と、これと双璧をなす 「 中華書局 」 に関しては知るところがすくない。
既述したように、上海の 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 の施設の大半は、わが国の砲撃によって焼失したが、北京の施設が健在で ( いずれ紹介したい )、それを基盤として発展し、両社ともに現在もなお、中国最大級の印刷会社であり、出版社でもある。
1915年(大正04年)美華書館は中国系資本の 「 華美書館 」 と合併した。 この 「 華美書館 」 は1928年(昭和03)に清算された。
それに際して、美華書館に発し、華美書館に継承された設備は、すべて商務印書館に譲り渡された。 また人員の多くもここに移動したという歴史を有する企業である。
すなわち……、まことにつらいことではあるが、わが国は、「 明朝体活字のふるさと 美華書館 」 の上海での後継企業を、砲撃目標を眼前に置き、至近弾をもって砲撃して、ほとんど壊滅に追いこんでいたのである。
それを言い逃れのゆるされない、大量の資料を眼前にして知ったとき、1990年ころ、上海での印刷人の取材に際して、かれらが一様に示した、つよい反発の因ってきたるところを熟慮しなかったおのれが恥ずかしかった。
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その際 「 宣戦布告無き、激しい戦闘 」 が上海で二度にわたって展開した。
そのためにこの戦闘は 「 上海事変 」 とされるが、実態は、砲爆撃をともなった、まぎれもない中華民国軍と日本軍との戦闘であった。
「 第一次上海事変 」 (1932年 昭和07年 1-3 月 )【 ウィキペディア : 第一次上海事変 】、「 第二次上海事変 」 (1937年 昭和12年8月13日-)【 ウィキペディア : 第二次上海事変 】、この二度にわたって、中華民国軍と日本軍は上海を舞台にはげしく衝突した。
そのときの 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 への砲撃による 痛痛しい焼損印刷機器が 「 北京印刷博物館 」 に展示されていた。
また砲撃で焼失した図書館の蔵書のなかには、宋版 ・ 元版などの稀覯書はもとより、孤本( 唯一図書 ) も多かったとする写真と文書記録がのこされていた。 言いのがれのできない蛮行であり、文化的損失であった。
かつて、「 失われし、ふるき、よき印刷所-明朝体活字のふるさと 」 として、「 美華書館 」 を称揚し、その現地探訪記として 『 逍遙 本明朝物語 』 ( 1994年03月16日 ) までしるした責任がやつがれにはある。
ふりかえれば取材をかさねていた1980-90年のころ、当時は 「 失われた歴史のロマン 」 として 「 美華書館 」 をとらえ、まことに呑気なことに、「 破壊してしまった 」 その跡地をたずね、さらにノー天気なことに、資料のすくないことを慨嘆していた自分が恥ずかしくもあり、その消長への問題意識にかけていたことをおおいに反省せざるを得ないいまなのである。
写真とはこわいもので、「 中国印刷博物館 」 二度目の訪問でのやつがれの表情は硬い。
【 ウィキペディア : 美華書館】。 【 ウィキペディア : 美華書館画像集 】。 【 中国版百度百科 : 美華書館 】。 【 中国版百度百科 : 美華書館図像集 】
しかしながら、上海事変による美華書館の後継企業たる、「 商務印書館 」 へのはげしい砲撃のことは、やつがれはこのときはじめて知った。 もちろん看過はできないが、いまのところやつがれの手にあまることがらである。
さりながら、小論での提示とはいいながら、その後 「 美華書館 」 をめぐって、広範な影響をあたえ、さまざまな歴史発掘にいたった小論 『 逍遙 本明朝物語 』 のときと同様に、これから 「 商務印書館 」、「 中華書局 」 などを紹介し、こころざしある有識者とともに、タイポグラフィの進化と深化にむけた努力をなすことが、「美華書館」へのあまりに過剰な称揚の先がけをなしたひとりとして、やつがれがわずかながらも責任をとることのひとつとしたいとおもうこの頃である。
写真右より 邢 立 氏 Xing Li 、 張 連章 氏 Zhang Lian Zhang 、やつがれ、ノー学部
《中国 印刷博物館に展示されている、中国における活字原型製造法の概略史》
< 展示パネル 「 銅模 (字模)」 釈 読 > 翻訳協力 : 郝 丽敏
「 銅模 (字模)」 ―― 活字母型
1895年 〔 清朝光緒20年、明治28年 〕、かつて美華書館のアメリカン人 ウィリアム ・ ガンブル〔ギャンブルトモ。 ガンブルの中国音表記 : 姜別利 *01 〕と会合をかさねていた、中国人の印刷技術者が、電鋳法による活字母型を製作し、活字版印刷術の応用をおおいに推進した。
1906年、上海出身の周 松猷は電鋳法による活字母型専門製作所である「菘蘊字所」を開設した。
その後、申報館、世界書局、呉順記、商務印書館、中華書局、芸文印刷局、漢文正楷印書局、北京文嵐籍などの印刷所 ・ 出版社 ・ 活字鋳造所では、書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、高 去塍、陳 履坦、英 子敬らによって設計された、楷書体や倣宋体〔わが国の宋朝体〕を開発し、その後の定型化された活字書体となった。
1940-50年代になると、活字母型製造業者が一定の規模になっていき、また一定量の機械式活字母型彫刻機を導入して活字母型の生産をおこなった。
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〔筆者補遺〕
◯ タイトルの「 銅模 」 ( 字模 ) は、いずれも活字母型をあらわす。 「 模 」 は、「 模型 真似 写した型 」 とされるように、わが国の 「 ≒ 型 」 をあらわす。
「 銅模 」は電鋳法の時代、その固定支持材に銅をもちいたことによる。
「 字模 」は機械式活字母型彫刻機 ( わが国の俗称ベントン彫刻機 ) の時代、その彫刻材料 ( マテリアル、通称 マテ ) が、おもに真鍮となり、電鋳法との差異化のためにもちいられた。
◯ *1 姜別利――ガンブルに漢音をあてたもの。 William Gamble, ( ? -1886 )
アメリカのプロテスタント宣教師兼活版印刷技術者。 はじめ寧波(ねいは、ニンボウ)のアメリカ租界にて印刷をおこない、のち上海租界に美華書館を設立、移転。
長崎に居住していた、ギド ・ フリドリン ・ フルベッキの仲介をえて、明治06年06月ころに来日して、長崎製鉄所活版伝習所に技術を伝えたとされる。
ギャンブルは幕末に、すでに俗称ヘボン辞書として知られる、ジェームス・カーティス・ヘボン編 『 和英語林集成 』 ( 1867年 ・ 慶応03年 ) を岸田吟香の援助も得ながら刊行していた。 またその明治05年の再版本も美華書館の印刷によっている。
このように、巷間知られる以上に、上海時代、それも来日以前から、わが国の薩摩藩士、岸田吟香らの知識層との交際はひろく、『 和訳英辞書 』 ( 明治02 )、『 官許大正増補和訳辞林 』 ( 明治04 ) ―― 前記二冊の大型辞書は いわゆる 「 薩摩辞書 」 として知られる。
『 仏和辞典 』 ( 明治04年01月 )、『 和英語彙 』 ( 明治05 )、『 官許独和字典 』 ( 明治06年05月 ) などを、上海美華書館で組版 ・ 印刷 ・ 製本作業を担っていたことはもっと注目されてよい。
◯ 書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、……らによって設計された、楷書体や倣宋体 〔 わが国の宋朝体 〕 を開発し、その後の定型化された活字書体となった。
もともと 「 書 」 をおもくみる中国では、活字版印刷が隆盛する前に、「 書 」 そのものを転写できる石版印刷がさかんだったという近世印刷史の特徴があった。
丁 補之、丁 善之の兄弟が開発した 「 聚珍倣宋版 」 はすでに一部紹介した。
鄭 午昌は 漢文正楷印書局に、「 正楷書活字 」 をのこし、この二種類の活字書体は、昭和初期に 名古屋 : 津田三省堂によってわが国にもたらされ、「 宋朝体活字 」 「 正楷書活字 」 として、いまなお盛んに使用され、さらにさまざまなバリアントもうんできた。
そのほかには、「 新魏 シンギ」 という名の、魏碑体から範をとったとみられる特徴のある活字書体と、「 小姚 ショウヨウ」 が 「 上海字模一廠 」 から発売されている。
北京文嵐籍の 「 倣宋体活字 」 は、発売直後から 丁 補之、丁 善之兄弟とのあいだで深刻な争いが発生したもので、北京文嵐籍の 「 倣宋体活字 」 は現代の視点でみると 相当問題がある。
最大手の商務印書館は、独自の倣宋体活字を開発しており、これは大阪 : 森川龍文堂から 「 龍宋 」 という商品名でわが国でも発売されたことがある。 おおらかな、やわらかみのある倣宋体 ( 宋朝体 ) といってよい。
「 龍宋 」 はそのご モリサワに譲渡され、写真植字の時代には好評だった書体であるが、いまのところデジタル化はされていないようである。
◯ 書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、……らによって設計された、楷書体や倣宋体 〔 わが国の宋朝体 〕 を開発し、その後の定型化された活字書体となった。
清朝末期から、民国初期の活字開発をしるしたこのパネルには、うっかりすると看過されがちだが 「 明朝体 宋体 」 の名前がみられない。
わが国の140年の歴史を刻んだ近代活字版印刷においては、終始明朝体がその中核をしめる書体であった。
どういうわけか中国における「明朝体 宋体」への関心は低く、ある種冷淡ともおもえることがある。 これは明朝体以外の書体を分析する作業から、おのずとあきらかになりそうなことがらである。
◯ 1940-50年代になると、活字母型製造業者が一定の規模になっていき、また一定量の機械式活字母型彫刻機を導入して活字母型の生産をおこなった。
このパネルを前にして、中国への機械式活字母型彫刻機-いわゆるベントン彫刻機の導入時期を張 連章 氏にうかがった。
「 清朝末期、それも上海租界地でのことは資料がすくないのですが、機械式活字母型彫刻機は、商務印書館、中華書局などの大手には、清国末期から民国最初期には導入されたとされています。 丁 補之、丁 善之の聚珍倣宋版は、中華書局での機械式活字母型彫刻機をもちいた活字とされています 」
わが国に機械式活字母型彫刻機-いわゆるベントン彫刻機が導入されたのは、1912年(明治45)印刷局への導入がはじめとされてあらそいがない。
清朝最末期をラストエンペラー、宣統帝 溥儀の時代とすると、1908(明治41)-12(明治45・大正元) となる。 地下倉庫でみた機械式活字彫刻機は、ATF 社のものでも、わが国の製造でもなかった。 どうやらほぼおなじころに、機械式活字母型彫刻機が 日中双方に導入されたとみてよいようである。る。
【 初出 活版 à la carte : はじめての京劇鑑賞*そのⅢ-A 老北京 中国印刷博物館と紫金城を展望する 2014年02月24日 】