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【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*03 〔川田久長〕 活字の大きさとシステム

 


《 印刷史研究に独自の視点で臨んだ川田久長の紹介 》
川田久永『活版印刷史』初版20140523121747341_0001川田久長 『 活版印刷史 』 初版本  組版データー
大日本印刷印刷、印刷学会出版部発行 昭和24年03月20日
B6版 並製本

本文 : 9pt  明朝体活字 一行45字、16行、行間 7.5pt
第二次世界大戦の敗戦からまもない
ころに発行されたこの図書は、印刷用紙が劣悪だったために、酸化が発生しており、またカーボン不足から印刷インキが灰色がかった発色を呈する。 製本もほぼ破損寸前の状態となっている。 そのため本論考にさいしてはもっぱら下掲の再版書をもちいた。
DSCN3964DSCN3967DSCN3970川田久永『活版印刷史』増刷20140523121747341_0002川田久長 『 活版印刷史 』 再版本  組版データー
杜陵印刷印刷、印刷学会出版部発行 昭和56年10月05日
B6版 上製本 スリップケース付き

本文 : 9pt 明朝体活字 一行45字、21行、行間 4.5pt
参考 : 印刷を担った杜陵印刷と小社とはながい取引関係にある。 この時代の杜陵印刷の工場は小石川にあり、そこには A全判、A半裁版の活版印刷機が数台あって、本文活字の一部は自家鋳造、ほとんどが外注による自動活字鋳植機 ( KMT ) であった。またムラ取り時間短縮のために、紙型鉛版方式 ( ステロ版 ) での活版印刷〔凸版印刷〕が多かった。  本再版書もステロ版印刷とみられる。
DSCN4054DSCN4045 DSCN4051川田家墓地。 川田久長もここにねむる。 所在地 : 東京谷中霊園 甲3号4側
写真) 掃苔会肝煎り : 松尾篤史氏提供。

20140508172450578_0001 20140508172450578_0002 集合写真「 印刷産業綜合統制組合屋上にて : 矢野道也氏を送る会 」 ( 1946年03月25日 )
写真) 敗戦からまもなく、子息が居住していた九州へ移転のため、矢野道也が印刷学会会長職の辞任を申し出た日に。 当時の印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也(前列中央)。 その背後、後列中央の、白髪で長身のひとが川田久長である。  
前列左より : 佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より : 馬渡 努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

著作や著述が多い割に、川田久長の人物像は知るところがすくなかった。 痩身で大柄なひとであったようである。 集合写真 : 「 この一冊の書物から 05 ──── 印刷所は金属鉱山-変体活字廃棄運動の禁句 」 『 印刷情報 』 ( 片塩二朗 2007年07月号 ) より部分拡大。
以下に略歴をしるす。

川田久長 かわだ-ひさなが
1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日
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明治23年05月25日  東京牛込区にて、父 : 麹町区長 ・ 川田久喜、母 ・ むめ子の長男として誕生。
大正02年09月     東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。 浅沼商会入社。 製版材料調査に従事。
大正12年        秀英舎 ( 現 大日本印刷 ) 入社。 同社関連企業の活字製造所 : 製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月     印刷図書館初代館長に就任。 のち 「 文部省認可 財団法人 印刷図書館 」 ( 昭和24年設立 ) となる。
昭和24年03月20日  著作 『 活版印刷史 』 ( 初版 ・ 並製本 印刷学会出版部 ) 刊行。
昭和37年07月05日  逝去。 享年72。 墓は谷中霊園 甲 3 号 4 側 に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作 『 活版印刷史 』 ( 再版 ・ 上製本 印刷学会出版部 ) 刊行。

◎ 関連既出情報
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*01 考察のはじめに 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*03   〔川田久長〕 活字の大きさとシステム
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川田久長 『 活版印刷史 』

ここから『活版印刷史』(川田久長、印刷学会出版部、初版 ・ 昭和24年03月20日、再版 ・ 昭和56年10月05日)を本格的に紹介したい。
同書の初版は紙やけがひどいので、再版書により、旧漢字を常用漢字とし、適宜改行と段落を加えた。 

松本八郎『エディトリアルデザイン事始』のなかでは、おもに三谷幸吉をひいて、わが国の活字が鯨尺や曲尺によるものとする説に疑念を呈していた。
ところが松本はいっとき大日本印刷に籍をおいたことがあり、先輩にあたる川田久長には遠慮があったようで、川田説への言及はすくない。

ここでは『活版印刷史』「本編の三」から、
三 昌造自筆の活字文献と活字の規格及び書体(全)   p. 94-99
四 長崎活字の東京進出 (後述)
五 「活字局」の活字と「印書局」の鉛版(部分)                   p. 100-102
を引用したい。三項では活字の規格を述べており、五項では活字鋳造のための機器の種類とその数量の概略がしるされている。

ここで図版をひきたいところだが、川田久長『活版印刷史』には初版・再版ともに図版は一切無く、丹念に文章をもって述べられている。したがって読者諸賢にとってはつらいかもしれないが、ここではまだ図版や画像は提示しない。もうしばらく我慢していただきたいとお願いしておく。
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三 昌造自筆の活字文献と活字の規格及び書体

本木昌造は邦文活字の完成に努力を傾け、現在なお少なからず使用されている号数活字の規格の土台を定めたのであるが、彼が自から活字のことについて書いたものとしては、その自筆稿本なるものが、東京築地活版所に所蔵されておったのである。

しかしそれは関東大震災の時、全部烏有に帰した 〔 花筏 : [字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム を参照。 この本木昌造自筆稿本は、現在<本木家文書>の一環として現存し、長崎歴史文化博物館が所蔵している 〕が、その一部分がかつて 『 大阪印刷界本木号 』 〔「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 ( 大阪印刷界 明治四五年六月一七日)、印刷図書館所蔵 〕に転載されたことがある。 今それを更に引抄する。

活字判の便利なるは、数種の版校を蓄積するに及ばず。 其彫刻に時日を費す事なく、且木版は一度彫刻する処の文字を以て他に用ふる事能はず。 活字は然らずして、彼是の別なく是を摺りたるの後は、其文字を取て又彼に用ふる事を得る益あり。 殊に一度字母を製し得る後は幾千万と雖イエとも同種の文字を得る事容易なり 〔 字母、活字母型のうち、本木昌造らがもちいた電鋳母型は、のちの彫刻母型にくらべると耐久性に劣り、実際には五千-一万字を鋳造すると熱変形が発生するために交換することがふつうだった〕。

其文字は木材ならずして鉱類を用ふ。 是を製するに、往時は欲する処の字画を鋼鉄に彫刻し 〔 活字父型の製造。 市販の針金程度の鉄をもちいたとみられる。 それを焼きなましによって軟鉄とし、そこに字画を裏文字として彫刻、それを焼締めて硬化させた。 punch 〕、是を銅板に打込み 〔 活字母型の製造。パンチのことばから連想されるような「打ちこむ」というより、簡便な器具で、できるだけ深度を一定になるように押し込んだ。  matrix 〕、以て字母を取り、此字母を鋳型の底に填め、鉱類を鋳込み、以て其文字を得るなり。

方今〔現在は〕此字母を製するに往時の如く鋼鉄を以てせずして、普通木版の如く木に彫刻し、是を蝋を以て押形を取り、此蝋形に彼のガルファニの機活を以て鍍銅し、是を以て字母を製するなり。 其製法其他活字判に関係する件々を以て爰ココに示す。 其事件は洋書中より訳するものにあらず。 実地即ち製する処のものにして、其便利を広く知らしめんが為なり〔「蝋型電胎法による母型製作 本木活字の復元へ向けて」『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(小塚昌彦、近代印刷活字文化保存会、p. 184-213)に詳しい〕。

      蝋形を取る文字の製法
黄楊ツゲを以て、其欲する処の文字の大小に随て正しく四角の駒を製す。 其長は好に応ずべし。
但し予の製する処のものは西洋の活字に倣い、其長七歩八厘あり。 此駒に文字を刻す。 其文字は成べく深く刻するを良とす。 凡二歩五厘角の文字は、其深五厘余、五歩角のものは其深一歩余にして、左右上下勾配〔ヴェベル〕を施し、以て蝋形を取るに及んで能く蝋より抜出る様に彫刻するなり

      駒を組込む法
前の駒を第一に鉄のワク中に組込むなり。 其ワクは長外法一尺五歩、幅八寸五歩、鉄の厚五歩幅一寸あり。 駒を組込むには、駒の左右上下に込物を以て駒に間隙を施す。 左右の込物は厚二歩、上下の込物は厚一歩あり。 其幅は駒と等しく、其高は駒の高より一歩を減じ、駒を突出せしむ。
且駒の上下には込物の外に将棋頭の如きものを組込むなり。 其厚は四歩ありて頭の所に勾配を施し、頂の幅二歩あり。 其高は駒と等し。

此の如く込物を以て駒の間隙を施すは 鍍銅の後、文字を切断つに遊隙を得んが為なり。 其将棋頭の如きものを用ふるは、字母を其處に慎むるに及んで、能く沈着せしめ、以て抜出る事なからしめんが為なり。 如此して駒を組込むの後、鉄ワクの四方にクサビ打込み、以て駒の拔出ざる様に能く締付るなり。                                         

なお昌造自筆の稿本には 「蝋形を取る盆の製法」、「蝋形を取る法」、「蝋形に鍍銅する法」、「ガルファニバッテレイの法」 の各項目について記述されているとのことであるが、これ等は〔「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 ( 大阪印刷界 明治四五年六月一七日)には〕全く転載されていないので、ここに引抄する便宜を得ない。

しかし明治五年(西暦一八七二年)の二月に新塾活版製造所から刊行された、昌造自著の『 崎陽新塾餘談初編 二 』 の中に 「 ガルファニ鍍金銀の法 」 と 「 銅を以て器物を摸する法 」 と題して ガルファニバッテレイによる電胎法について述べてある。
『 新塾餘談 』 は昌造みずから理化学に関する啓蒙的な記事を取集め、毎月一、二度活字を以て摺り、塾生の閑散に備えるための、各冊十枚の紙数を以て限度とした、四六判の薄っぺらな小冊子である。

「 ガルファニバッテレイの機活によって原型から銅製の模型を得る」 電胎法は、活字の鋳造に志した昌造が、その母型を作るための手段として第一に知ろうとした秘法であった。 そしていろいろ手段をめぐらした結果、ガンブル〔 William Gamble  1830-86/中国表記:姜別利 jiāng bié lì  以下ギャンブルとする〕 の指導を受けてようやくこれに成功をしたのは周知のとおりである。

この昌造の過去の苦心を思う時、彼が自から執筆した 「 ガルファニバッテレイ 」 による電胎法の説明を読むことはまことに興味深いものがあるが、その 〔「 ガルファニ鍍金銀の法 」 『 崎陽新塾餘談初編 二 』 の〕 原文を転載することはこれを省略する〔ヴィネット04『活字をつくる』片塩二朗、p. 156-159に全文紹介ならびに現代通行文による読みくだしがある。〕。

さて以上引抄した昌造執筆の活字関係の各種の文献を検討して見ると、まず 「 蝋形を取る文字の製法 」 と題する種字彫刻に関する記事の中に、「 予の製する處のものは西洋の活字に倣ひ、其長七歩八厘あり 」 と述べているが、この 「 七歩八厘 」 はすなわち曲尺の七分八厘であって、それは二三 ・ 三一七ミリに該当し、また〇 ・ 九一八インチにも当り、英米の活字の標準の高さに倣ったものであることがわかる。

その初めは専らオランダの活字によって活版術を知った昌造も、実際に電胎母型の作り方や活字鋳造の灸所を教えて貰ったのがアメリカ人のガンブルであったから、従って昌造が準據した活字の高さも、大陸型のオランダのそれによらず、ガンブルの指示に従って英米型の〇 ・ 九一八インチを採用したものと推定される。

また同じくその種字彫刻法の中に、「 凡二歩五厘角の文字は其深五厘余、五歩角のものは其深一歩余にして 」 とあるが、「 二分五厘角 」 とあるのは、曲尺の二分五厘を意味して 「 二号活字 」 に当たり、また 「 五分角 」 というのは、同じく曲尺の五分角であって 「 初号活字 」 にあたる。
すなわちこれによって見ても、昌造が最初に鋳造に着手したのは二号活字と初号活字であったと考えてよかろう。 ところがその後次第に大小各種の活字を揃えてゆくに従って、各号開の差を曲尺カネジャク五厘に取ることは大き過ぎるので、改めて鯨尺クジラジャクの二厘五毛を以てこれに換え、各号の活字のボディーの角を次に示すような寸法に定めたのである。

初号活字    鯨尺 四 分 角 ( 曲尺五分 )
一号活字    鯨尺 二分五厘角
二号活字    鯨尺 二 分 角   ( 曲尺二分五厘角 )
三号活字    鯨尺 一分五厘角
四号活字    鯨尺 一分二厘五毛角
五号活字    鯨尺 一 分 角
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( 六号活字   鯨尺 七厘五毛角 )
( 七号活字   鯨尺 五 厘 角 )

三号から七号まではいずれも鯨尺二厘五毛の差、一号から三号までは鯨尺二厘五毛の二倍、すなわち五厘の差、初号と一号の差は鯨尺二厘五毛の六倍(五厘の三倍)、すなわち一分五厘である。

号数活字中の基準活字ともいうべき五号活字は、ガンブルが上海の美華書館館長時代に苦心して創案した小型活字に凖據したものである。 元来ガンブルの工夫完成した小型漢字の活字は、欧文活字のスモール ・ パイカと組合せるのに都合がよいように作られたもので、ヘボンの 『 和英語林集成 』 〔 James Curtis Hepburn、1815-1911 は、米国長老派教会の医療伝道宣教師であり、 ヘボン式ローマ字の創始者。 医師。 わが国初の大型和英辞典 『 和英語林集成 』 は上海美華書館で活字組版 ・ 印刷され1867年 ( 慶応03 ) 完成 〕 に使われたことはすでに述べたとおりであるが、有名な支那学の大家 アレキサンダー ・ ワイリーの如きは、それまでに鋳造されたいずれの漢字活字にもまして、欧文の活字と併用するのに最も便利なものであることを、彼自身の著書の序文の中で推奨している。

ところがスモールー ・ パイカはアメリカン ・ ポイントの十一ポイントに相当し、その大きさは三 ・ 八六五四ミリであって、ほとんど鯨尺の一分に該当するところから、恐らく昌造はガンブルの小型漢字の活字に範を採った五号活字のボディーの寸法を鯨尺一分角と定めたものと推定される。
〔 このパラグラフはおおいに議論の余地がある。 当初の赴任地 寧波 ニンポウ から移動したのち、上海時代に William Gamble が Small pica  としたものは、のちにアメリカン ・ ポイントとして1886年(明治19)に制定された 10.5 ポイントと同様のサイズであり、11 ポイントではなかった。 ご希望の向きには実際のパイカ ・ ポイントスケール提供したいが、計測してみるとギャンブル時代の上海美華書館の  Small pica とは10.5 ポイントであり、これがわが国では五号活字とされたものである。 ここではしばらく宿題とさせていただきたい 〕。

また昌造が活字の書体に明朝を採用したことについては、種字の版下に 『 康煕字典 』 を用いたことによると伝えられているが、上海の美華書館、あるいは香港の英華書院の如き英米伝道団経営の印刷所では、つとに明朝体の漢字活字を鋳造しており、特にガンブルと昌造との関係を考える時、明朝体の採用はむしろ美華書館製の漢字活字に倣って、これを行ったものと見るのが至当であろう。

更にまた新塾活版製造所で鋳造した平仮名の活字は、昌造の友人で彼の和歌の師であった池原香穉カワカの筆に成る版下を以て種字を彫った由であるが、これは変体の平仮名で、現在使用されている活字とは全く別種の観を呈して、明朝体との調和を欠いている。

しかしとにかく、昌造が邦文活字に一つのシステムを作り、倍数関係を定めたことは、恐らくガンブルの示唆に負うところであり、欧文活字のそれをまねて試みたものには相違ないが、これによってわが邦の洋式の活版術が、実際に工業的に利用される第一歩を踏み出したことを思えば、彼を日本のグーテンベルグなりと称しても敢えて不当ではあるまい。

また本木時代の活字の鋳造は、最初の頃は小銃の散弾を鋳るのと同じ調子で、手持ちの鋳型に母型をはめこみ、鍋の中に熔かした活字地金を杓子で汲み出してその上から注ぎこんで鋳造していたが、そのうちに手押ポンプで地金を注ぎこむようになり、二号活字ならば一日に千本くらい鋳造できるようになった。
このポンプ〔式活字鋳造機の〕時代に、東京で和田國雄という人が手持鋳型にポンプ鋳込みで一日に五千本を鋳造して最高レコードを作ったが、今もなお使われている手廻しのカスチングは本木昌造が明治四年(西暦一八七一年)に英国から取寄せたのが最初であろうと 〔 東京築地活版製造所第四代社長の 〕 野村宗十郎は語っている〔ここで触れられているポンプ式活字鋳造機、手回し式活字鋳造機、カスチング、などは、近近動画をふくめて紹介したい〕。

四 長崎活字の東京進出

五 「活字局」の活字と「印書局」の鉛版

明治四年(西暦一八七一年)の十一月二十二日、赤坂溜池葵町の旧伊万里県出張邸趾に開かれた、工部省勧工寮の「活字局」は、前に述べて置いたとおり、長崎製鉄所附属の活版伝習所においてガンブルの指導を受けた人たちの一部がその中心を成していたのであるから、やはり本木系の一分派と見倣されるべきである。
そして平野富二が長崎製の活字を携えて東京に上り、活字の鋳造販売を企てるまで、この「活字局」は東京における唯一の活字の供給源であった。

工部省勧工寮の「活字局」の諸設備は、長崎製鉄所にあった「活字一課の諸器械」なるものをそのまま移管したものであるが、活字局備付けの諸設備として次のようなものが挙げられている。

一、 二号字母            凡五千個
一、 三号字母            凡六千個
一、 四号字母            凡三千個
一、 五号字母            凡五千個
一、 七号字母            凡三百個
一、 西洋字母            凡三百個
一、 ハンド・マシーネ・ポンプ     壱 丁
一、 メタル釜                壱 ツ
ー、 カスチング・マシーネ       壱 丁
一、 鋳  型               拾 丁
一、 銅判〔版?〕裹削鉋共       壱 組
一、  活字尻切道具           壱 揃
一、 紙 〆                壱 挺
一、 ハンド・マシーネ          壱 丁
一、 ガルハ用型蝋型〆        壱 ツ
一、 ロール・マシーネ          弐 丁
一、   スペーシ鋳型           弐 挺

勧工寮の活字局は太政官の印書局、あるいは大学南校の活字掛、各府県の布告、布達類の印刷工場などに活字を供給することをその主要の仕事としたのであったが、民間の印刷工場にもその製品の一部を払下げたことはさきに述べたとおりである。
「東京日日新聞」の如き〔は〕、明治五年(西暦一八七二年)の二月二十一日の創刊で、創刊後しばらくして鉛活字を使用し始めたのは勧工寮の製品を買入れてからのことであった。

当時その社は浅草の蔵前にあり、そこから赤坂溜池の勧工寮まで活字を買いに行くのは相当手数が掛ったようである。しかもその活字は組合せるとガタガタして使用に骨が折れたので、これを全部長野県の布告を印刷する御用達の商人に譲り渡し、その後は専ら築地の平野活版所から活字を購入して組版にあてたとのことであるから、その当時の勧工寮活字局製の活字は、鋳造の技術にどこか不完全なところがあり、長崎新塾活版製造所の直系である平野活版所の製品の方に、一日の長があったのであろう〔以下略〕。

朗文堂好日録-045 卯月 四月がおわり、新緑と薫風の 皐月 五月のはじまり。

《 卯月 四月のスタートは04月07日、新宿私塾から 》

私塾26期スタート

新宿私塾第26期入塾

新宿私塾鈴木1504uu

《 新宿私塾第26期、櫻花爛漫の春、意欲満満でスタートしました 》
隣接する新宿御苑の、櫻、ミモザ、山吹などがあでやかに花をつけた04月07日、新宿私塾 第26期が開塾いたしました。

これから半年間、ほぼ夏休みもなく新宿私塾は開講され、爽秋の09月15日に終了します。
講師、塾生の先輩ともども、全力であたらしいタイポグラフィの前衛を育成するために努力しますし、25回の講座は、いずれも内容の濃いものとなっています。
半年後、自信にあふれた塾生の皆さんの、お顔と、お姿を、再度紹介できたら幸せです。

DSCN8614DSCN8609DSCN8619新宿私塾では、タイポグラフィにおける 「 知 ・ 技 ・ 美 」 のみっつの領域で、バランスのよい学習をモットーとしています。 それはまた 「 知に溺れず、技を傲らず、美に耽らず 」 という、つよい自戒をともないます。
この半年のあいだ、塾生の皆さんがおおきな収穫が得られるように、講師陣はもとより、200名を優にをこえた 「新宿私塾修了生」 の皆さんも、精一杯の努力と応援をいたします。

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《お客さまご訪問 中華書局:李 晨光氏、商務印書館(香港):毛 永波氏 》

DSCN8622《 2015年04月03日〔金〕、おふたりの中国の印刷 ・ 出版人がご来社に 》
朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部のホームページをプリントされ、それを提示されながらの、ほとんどノーアポでのご訪問でした。
日本で<活版ルネサンス>の動向が顕著なことと、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部のうわさわ聞きつけてのご訪問でした。
◎ 写真左) 李 晨光 さん ( 中華書局  デジタル出版センター主任 )
◎ 写真右) 毛 永波 さん ( 商務印書館〔香港〕有限公司 取締役 ・ 副編集長 )
おふたりは <第18回 東アジア出版人会議 > のパネラーとして来日され、その寸暇をぬすんでのご訪問でした。


《 デジタルプリントの話題はほどほどに、中華書局 : 聚珍倣宋版、商務印書館 : 倣宋体活字で話題がおおいに盛りあがる 》
中華書局には 「 聚珍倣宋版 」 があり、商務印書局には 「 倣宋体活字 」 という、すぐれた本文用活字書体がある。
このふたつの活字書体はわが国にも昭和前期にもたらされ、中華書局系は名古屋 ・ 津田三省堂らによって 「 宋朝体 」 の商品名で発売された。 商務印書館系は大阪 ・ 森川龍文堂によってもたらされ、「 龍宋 」 の商品名で発売されていた。

この宋王朝刊本字様に淵源を発する活字書体を、故 ・ 毛沢東首席が好んだ ことは紹介した。 また現代中国では、宋体 ( わが国の明朝体 ) にかえて、倣宋体 ( わが国のいわゆる宋朝体 ) が再評価されている。 たまたま小社でも 「 宋朝体研究 」 が進行中で、その資料をみたおふたりとも、おおいに驚き、喜んでいただいた。
どうやら職掌上デジタルメディアにたずさわっていても、やはり印刷 ・ 出版人の < 活字好き > は日中ともに変わらないようであった。

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《[活版カレッジ] 2015年 春期昼間部講座 04月08日開講 》 

活版カレッジ<活版カレッジ 2015年春期講座>が04月08日[木]から開講しました。
今回は女性が三名、男性が一名での開講となりました。これから三ヶ月にわたり、集中して活版印刷の集中講座が続きます。
<活版カレッジ>は、科学と、学術的根拠にもとづいた実技と実践を基盤とし、小型活版印刷機 Adana-21J ,  Salama-21A によるケーススタディ ・ メソッドをふんだんに駆使し、あたらしい時代の活版印刷の現場での、現実的な課題の解決方法を学ぶことを目的とします。

<活版カレッジ>は、基本的に春夏秋冬と年に四回開催されますが、ここ数回にわたって事前のご予約者が多く、ほとんど一般公募ができない状態がつづいています。 すでに夏期講座、秋期講座にも相当数のご予約をいただいております。 ともかく受講のご意思のあるかたは、まずご一報をいただくことをお願いいたします。

DSCN8633uu3640uu< 活版カレッジ 2015年春期講座 >
01月01日播種した<野沢菜>が開塾を待ちかねたように、花をつけての祝福でした。

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《 四月◯日、◯日、◯◯日、◯◯日 Salama-21A 操作指導教室 が盛んに開催されています 》

Salama-21A 操作指導教室<Salama-21A 操作指導教室> は、Salama-21A を購入予定のお客様のための操作指導教室です。
ご購入いただいた( ご購入予定の ) Salama-21A を、お客様ご自身で快適にご使用していただくために必要な操作方法の基礎を、短時間で集中的に習得していただくことを目的としています。そのため、各回最大 4 名様に限定、完全予約制の教室です。

アダナ・プレス倶楽部では、活版印刷機器のご購入の前に十分おはなしをさせていただき、またできるだけお客さまのご都合にスケジュールをあわせての受講をおすすめしております。 もちろん受講に際して印刷機などの購入は義務づけられていません。
詳細は <アダナ ・ プレス倶楽部 教室のご案内 Salama-21A 操作指導教室 >をご覧ください。

新年度というせいもあったのでしょうか、弥生四月は  <活版カレッジ> と <Salama-21A 操作指導教室>  が週三回を上まわるペースで開催されていました。
アダナ ・ プレス倶楽部では遠近を問わず、これから活版印刷をはじめられる皆さまに、できるだけ <Salama-21A 操作指導教室> の受講をおすすめしています。
…… としるしましたが、皐月五月連休があけの週は、すでに月-金にわたって <Salama-21A 操作指導教室> のスケジュールがいっぱいにはいってうれしい悲鳴です。
上掲の写真は長野県からご参加されたお客さまです。
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《 04月14日[水] ちいさな勉強会-第二回開催 》
かつて朗文堂には<ちいさな勉強会>があり、そこから誕生した図書や研究がたくさんあった。  今回誕生した<ちいさな勉強会>も以前と同様に、規模の大小や、動員人数の多寡を問わずに、自然に、自発的に発生した勉強会である。 詳細報告はいずれ。

活版歳時記 ────
三椏 ミツマタ の花  四月初旬   撮影者 : 古谷昌二さんのコメント

三椏の撮影地は、秦野からバスで大山山麓の蓑毛に行き、そこからヤビツ峠に通じる山道の途中に群生していました。 富士山の写真は、ヤビツ峠から少し登った岳ノ台 ( 標高およそ900 m ) からのズームアップしたものです。 いずれも秦野市に属している地区です

三椏や  やまさと ふかく  かをりける

― よみし ひとを しらず ―

234uu 235uu 233uu 246uuみつまた ( 三椏 ・ 三叉 ) は中国原産のジンチョウゲ科の落葉低木で、わが国でも暖地に栽培されています。 その枝がかならず三つにわかれることからその名がうまれました。 樹皮の靱皮をとって手漉き紙の材料とします。
櫻にさきだって、黄色の筒型小花をつけ、つよいかおりを発するので 「 結香 ムスビキ」 の和名もあります。 中国ではその色合いとかおりをめでて 「 黄瑞香 」 とされます。
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《 きょう、五月三日はさつき晴れ。 皐月が紅白の花をいっぱいにつけて春本番を祝うとき 》
五月は 「 皐月 」 とされ、さつき、つづじが百花繚乱の花をつけるときである。
五月はまた、新緑の季節とも、薫風のときともされる。 なかでもからりと晴れた日を 「 さつき晴れ 」 と呼んで、すがすがしく、ここちよい日本の春の日日がつづく。

なでしこ01 なでしこ02空中庭園 ( ベランダ鉢植え ) なでしこの寄せ植え。  昨年の晩秋に近くの花屋で160円で購入。 黒ポットに入れたままにしていたが、花の少ない冬のあいだもつぎつぎと花をつけてたのしませてくれた。
櫻が散ったころにはさすがに花も枝もかれていたが、すべてをチョキチョキと散切り頭にして化成肥料をあたえたら、また新芽がでて花をたくさんつけた。  ノー学部はなでしこは好みではないようで、ほとんど面倒をみなかったが、さすがにその生命力にはおどろいたようだ。

とろろあおい播種 トロロアオイの花。四月下旬、とろろあおいの種を播く。 容器はとりあえず卵のパックトレイにした。 まだ双葉だが、五月下旬におおきめの鉢に定植すれば、晩夏に薄黄色の大輪の花をたくさんつけるはずだ。 花は2013年10月のもの。

五月二日[ 土 ] は <八十八夜> であった。  この日は立春 ( 二十四節気のひとつ。 太陽の黄経が 315 度のとき。 ことしは02月04日12時58分 ) から八十八日にあたる。
平均気温がたかめの昨今ではあまり実感がないが、古来 「 八十八夜の別れ霜 」 とされ、この日からのちは、霜害の心配がなくなり、「 茶摘みどき 」 とされている。 

<八十八夜>のころの新芽を摘んだお茶は 「 新茶 」 とされて珍重される。 商店街の茶店の店頭には、緑色の地に白抜きされた 「 新茶 」 の のぼり が薫風にゆれるときとなる。
四季の変化にめぐまれたわが国の、まさに春たけなわのときである。

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《 きょう、五月三日はさつき晴れ。 憲法記念日でもあるが 》

検索大手の某社は、このところさまざまな記念日に、特別製のデザインをこらしたタイトルをトップページにおき、それを祝ってきた。
ところで黄金週間 ( 和製語  Golden week ) とされるいま、昨日の <八十八夜> にも格別の設定はみられなかったし、本日五月三日の<憲法記念日>にも、また、きょうとあすには九州で<博多どんたく>が開催されているが、それでもトップページには通常のカログラムが措かれるだけだった。

あす五月四日は <みどりの日>( 1989年 平成元年に制定された。 自然に親しみ、その恩恵に感謝し、ゆたかなこころをはぐくむ日とされる ) であり、あさって五月五日は鯉のぼりが躍る端午の節句 <こどもの日> である。
すなわちこれから三日間にわたって、日本国民の祝日がつづくわけであるが、はてさて、検索大手の某社はどうするのであろう。 ちょっと楽しみではある。
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五月六日[ 水 ・ 憲法記念日の振り替え休日] 追 記 =========
黄金週間 ( 和製語  Golden week ) もきょうで終わる。
長期休暇のすくないわが国ゆえ、できたら昨秋にいって収穫の多かった、チェコのプラハにいきたかった。 ところが円安がすすんで、昨年とおなじコースでも十数万円余計にかかることがわかって断念した。

【 リンク : 花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ

プラハ

01 02 03 04プラハで市販の 長尺観光絵はがき より
DSCN5855 DSCN5851rotunda_01rotunda_02ロトンダ系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)
DSCN5489 DSCN5618 DSCN5503 DSCN5513liturgisch_01 liturgisch_02テクストゥール系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)

自国の通貨の価値をさげる、ないしはさがる ( 円安 ) とはそういいうことである。 ほんの一部の輸出指向型の企業が利潤をあげたとしても、ひろく国民の意欲は沈滞したままである。
その分海外居住のながい友人たちが、ドルやユーロをふところに、ひさしぶりに帰国してたずねてきたりしていた。 パリに居住してもう35年ほどにもなろうかという友人は、
「 久しぶりに紀伊国屋に寄ったけど、日本の図書はみんなえらく安っぽくなっているなぁ 」
と、なかばあきれたようにかたっていた。 悔しくもあり、なさけなくもあった。
また、町にはさまざまな国の観光客があふれている。 それだけでなく、一部の外国人の <爆買い> なども話題になる昨今である。
なにか複雑なおもいがしないでもない。

ところで先日しるした某検索大手のタイトルであるが、04月29日[水 ・ 昭和の日] からはじまった黄金週間 ( 和製語  Golden week ) に際して、なかなか含蓄のある対応をしていた。
  ◯ 04月29日[ 水 ・ 日本の祝日/昭和の日 ]    通常カログラム
  ◯ 05月03日[ 日 ・  日本の祝日/憲法記念日]    通常カログラム
  ◯ 05月04日[ 月 ・  日本の祝日/みどりの日 ]    バルトロメオ ・ クリストフォリ生誕360周年 特製カログラム
  ◯ 05月05日[ 火 ・  日本の祝日/こどもの日 ]     こどもの日 特製カログラム
◯ 05月06日[ 水 ・ 振替休日]                                通常カログラム

この間、某検索会社のトップページのカログラムをあらためてよくみたら、「 g 」 のディセンダーの右横に、ちいさく  日本  とあった。
いかに地球がちいさくなり、
国際化時代といえども、前述の円安問題とあわせて、考えさせられるできごとではあった。
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【友人 森郁男氏紹介】『瞽女 キクイとハル』(川野楠己著、鉱脈社刊) にあたっての礼状 》
長年の友人 : 森郁男さんは、詩人にして造形家であり、とてもこころのやさしいかたです。
このたび毎年恒例の、薩摩琵琶、正派 正紘会の『 琵琶演奏大会 』 のご案内とともに、
『 瞽女 キクイとハル 』 ( 川野楠己、鉱脈社 ) のご案内をいただきました。

ちなみに<瞽女 ごぜ>とは、「 盲御前 ( めくらごぜん )」 という敬称に由来する 女性の盲人芸能者のことです。( ウィキペディア : 瞽  女
近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に、北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人でした。

瞽女 キクイとハル

川 野  楠 己 著
四六判 並製 325ページ 定価 : 2,000円+税

<発行元 ・ 問い合わせ>
鉱  脈  社
880-8551  宮崎市田代町263番地
TEL. 0985-25-1758  FAX. 0985-25-7286
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こんな簡単な紹介を<朗文堂ニュース 4月28日>に掲載した。 すぐに森郁男氏からの達筆の礼状がはがきで届いた。 ここに紹介することには若干のためらいもあったが、はがきでもあるので紹介したい。
森郁男氏はがきこの紹介にあたって、当然たくさんの情報があるとおもって <詩人 ・ 造形家 森 郁男> でネット検索してみたが、やつがれのスキルでは情報に到達できなかった。  森さんはやつがれとはほぼ同世代だが、このような達筆なかたでもあり、また筆まめなかたでもあった。
お便りはいつも封書かはがきでいただき、@メールはなかったようにおもう。 おそらく森さんはデジタルメディアはあまり利用されず、それだけに検索などでは情報に到達しにくいのかもしれないとおもわれた。

やつがれは極めつきの悪筆で、その劣等感から、打圧式の英文タイプライター、打圧式和文タイプライターをはやくからもちいていた。 また専用ワープロが登場するとすぐに飛びついた。 したがって専用ワープロでは、「富士通 オアシス」、「シャープ 書院」、「NEC  文豪」などに次次とのりかえてきた。

その分パーソナル ・ コンピューターへの切り替えがおくれ、その後遺症 ( 俗称 IT 弱者 ) は無視できない状況にある。  つまりパソコンをもちいても、ほとんどが専用ワープロ時代のソフトウェアと大差の無いものをもちいている。
それよりなにより、最後の専用ワープロ ( 初期のものよりずいぶん小型になったとはいえ、その名もすごい ) 「 NEC 文豪 」 と、3.5 in ,  5 in ,  8 in などのフロッピーディスクが、机の引き出しを占拠したままである。
スタッフにはだいぶ以前に、もうディスク ・ ドライバーが無くなりましたから……、と宣告されているのだが、フロッピーディスクには貴重なテキストが保存されているわけだし、いまなおグズグズと廃棄に踏みきれずにいる。

それにしても、森郁男さんのことをどこかで皆さんにご紹介したいものである。

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《 04月06日 情報誌 MORGEN が 鈴木 篤著 『わたくしは日本国憲法です。』 書評を掲載 》
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株式会社遊行社 モルゲン編集部発行の <MORGAN  2015年04月06日号> ( 毎月一回発行。 「 モルゲン 」 はドイツ語で 〔 明日 〕 の意。 全国の中学校 ・ 高等学校の 「 朝の読書 」 実施校を中心に、全国中学校 ・ 高等学校などの教育施設に配布 ) において、明治学院学院長 木暮修也先生の筆によって、<あなた方の武器を失ってはいけない> と題して、鈴木 篤著 『わたくしは日本国憲法です。』 の書評を掲載していただいた。 木暮修也先生ならびに遊行社の皆さまに深甚なる感謝を申しあげたい。

皆さまのご支援をたまわり、『 わたくしは日本国憲法です。』 は順調な出荷がつづいている。 しかしながらわが国の憲法の周辺に暗雲が垂れこめているのもまた、昨今の憂うべき状況である。
ここに <殺さないで! 生かそう日本国憲法 『 わたくしは日本国憲法です。』 出版記念のつどい> の記録の一部を再掲載するとともに、同会の掉尾をかざって、声高らかに朗読された<日本国憲法 前文>を紹介したい。

◎ 主   催 : 殺さないで!生かそう 日本国憲法 『わたくしは日本国憲法です。』 出版記念のつどい 事務局
◎ 日   時 : 2014年09月06日[土] 午後01時-03時
◎ 場   所 : グリーンパレス 5 階 孔雀の間
〒132-0031  東京都江戸川区松島1丁目38-1
【 関連情報 : 『 わたくしは日本国憲法です。』  出版記念の集い 終了のご報告

9784947613905顔写真鈴木篤氏01 04

日 本 国 憲 法

施行、 昭和二二年五月三日

日 本 国 憲 法
前 文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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《 薩摩の国 鹿児島名物 かからん団子でごあんど! 》

< 花筏  朗文堂好日録-043 ふたつの桜餅 2015年03月23日 > で、ふつう 「 桜餅 」 と呼ばれている和菓子には、「 長命寺桜餅 」、「 道明寺桜餅 」 とされる二種類あり、その分布が東西に別れたりすることはなく、アメーバー状に双方の 「 桜餅 」 がひろがっていることを報告した。 これが意外に好評だったので( つい調子にのって )、今回も餅菓子を紹介したい。
桜餅

例年五月の初旬、端午の節句に際して、鹿児島の知人から送っていただくのが 「 かからん団子 」 である。 形状は 「 かしわ餅 」 と似ているが、ヨモギなどが刻みこまれており、甘さはほんのりとしたもので、むしろ風味と香りがたのしめて、「 かしわ餅 」 にまさる気がしている。
甘党のやつがれはこれが大好物で、一度に10個は食したいところだが、いつもノー学部にとりあげられ、わずかに三個ほどをちびちびと食す。 葉は食すにはチトかたい。

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かからん団子

若葉が芽ばえる皐月五月にあって、関東の 「 かしわ餅 」 と同様に、「 かからん団子 」 も、五月五日、端午の節句を中心に食される和菓子である。
カシワの葉は、新芽が育つまでふるい葉 ( 枯れ葉 ) が落ちず、新芽が成長して枯れ葉をふりおとすことから、「 子孫繁栄-家系が途切れない 」 という縁起をかついだものとされる。

端午の節句そのものは中国から渡来した風習であるが、中国ではその日にあたって 「 粽 ちまき 」 を食すことが多い。 したがって端午の節句に際して 「 かしわ餅 」 を食べるという風習は、18世紀ころの江戸で育まれたものとされている。 それが参勤交代で全国につたわり、地域ごとにすこしずつ変化して発展したものらしい。

そもそも樹木としての 「 かしわ」 は、中部地方以西にはあまり自生しないそうである。 したがって近畿圏以西ではもっぱらサルトリイバラの葉を代用して作られるようになったとされる。
薩摩の国、鹿児島の 「 かからん団子 」 も同様で、サルトリイバラもしくは同属のサツマ サンキライの葉をもちいている。

「 かからん団子 」 は、ヨモギなどを練りこんだ餅を、黒餡などで包んだもので、「 かしわ餅 」 というより、むしろ草餅にちかく、戦前の鹿児島の農村部では 「 ふっきぃい餅 」 と共に一部で手作りされていたという。
つまり鹿児島では 「 かから ( ん ) 」と呼ぶ葉 ( サルトリイバラもしくは同属のサツマ サンキライ。 かしわの葉ではない ) で草餅を包んだものである。 以前は庶民の菓子で、地元の和菓子店が地元客向けに作るケースが大半であったが、こんにちでは 「 かからん団子本舗 」 などが誕生して、薩摩土産としても販売展開しているという。
【 ウィキペディア : かからん団子  柏 餅  端 午

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《皐月五月で春本番。ベランダの艸花に蝶や蜂がやってくる朝が続く 》

< サイスケ > は、鹿児島市長田町の五代友厚生誕地をたずねたとき、石垣の割れ目にチンマリと張りついていた、まるで地苔類かとおもわれるほどのちいさな野艸を、三株、たばこの空き箱にいれて持ち帰ったものである。
かにかくに、五代友厚 ( 1836-85  幼名 : 徳助、通称 : 才助 ) は、そのうちに各方面であらたな震撼をあたえるとおもわれるが、いまのところはまだ静かにしておこう。
【 ウィキペディア : 五代友厚

サイスケの写真は、上から二葉が採種現場(2014年11月上旬)。
以下ベランダの鉢植えで、2015年03月末、04月末である。
冬を越した直後はデージーかとおもったが、どうやら世間一般では雑草の代表のように、忌み嫌われている、名を知らぬ野草のようである。 やつがれは雑草という名の艸はないと常常いっている。 むしろいかにも五代友厚の旧家に育つ艸らしくて面白いとおもう。 どんな花が咲くのか、しっかり見まもりたい。

DSCN8651 DSCN8664DSCN8561DSCN8652オレンジ ・ フユシラズ  ツルコザクラ
ツルコザクラは一年草のようで、春先には勢いをうしなっているが、オレンジ ・ フユシラズはツルコザクラを押しのけ、文字通り冬知らずで咲きつづけ、花柄つみを丹念にていたので、いまもって次次と花をつけている。 いつまで咲きつづけるかみていたい。冬知らずだけではないようだ。
   DSCN8558オレンジ・フユシラズ鹿児島うまれのいちご ( 品種忘却 )。鹿児島市内の種苗店で気まぐれに購入した。
寒風に耐えて冬を越したが、最近は植木鉢から大脱走をこころみていて困惑している。

DSCN8563DSCN8650 DSCN8644ムルチコーレ
DSCN8572本場由来の野沢菜-2015年01月01日播種。 花咲くはずが葉が茂るばかり…… 。 かく嘆いたのは弥生三月の終わりであった。
卯月四月の終わりには、これでは菜の花も顔色なかろうというまでのみごとな花を連日つけている。 小型のアゲハチョウと蜂がもっともお気に入りなのが、この野沢菜の花である。

蝶や蜂といっしょに花を楽しんだあと、種子を採種してご希望のかたにおわけするつもりである。 
DSCN8568DSCN8648野沢菜の花と種子──────────
《 五月五日、こどもの日。  おもいたって足利学校にいったはずが…… 》
ことしの五月の連休は、かくのごとく、どこに行くのではなく、なんとなく出社していた。
おもいたって、栃木県足利市のふるい教育施設<足利学校>にでかけた。 かつて足利のちかく、小山市に商用でしばしば出かけることがあり、その帰途に<足利学校>に寄ったが、なにかの都合で閉鎖されていた。
20150506173357288_0002 20150506173357288_0001 足利学校のちかくで DSCN8752浅草から東武線の特急でさほどの時間ではなく東武足利市駅につく。<足利学校>は徒歩圏内にあった。
旅の同行者、ノー学部の挙動が不審だった。 車中一枚のフライヤーをとりだし、せっかくだから、しかも近いから、<あしかがフラワーパーク>にいきたいという。
大混雑だった。ひとに中毒するやつがれ、疲労困憊。 されどおもしろくはあった。
報告はいずれまた …… 。
20150506173746921_0001あしかがフラワーパーク 栃木県足利市の大藤 夜八時春のおぼろ月が。足利市駅。