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【資料発掘】 活字のうた―或る植字工これをつくる 『活字界』 Vol12-3 / No.47 p.5 昭和51年4月5日

ここに紹介する詩は、ある大手の印刷会社の植字工を永年やっていた故松崎映太郎が、昭和23年,復興経済労働問題講座の席上発表したものといわれる。
印刷同友会の市村道徳会
長がこの詩を高く評価し、印刷同友会20年史に所載したものを、同氏のご好意により本誌に転載させていただいた。{活字界 編集部}

『活字界』合本。

活   字   の   う   た

(或る植字工これをつくる)

ケースにいっぱい詰っている活字は
満開の桜のように美しい
その一本一本が生きもののように
生命をもっている
活字とはいみじくも名づけられたもの
その一本一本の活字の望みは
花のように美しく植えられることにある
幼い苗を植えて
豊かな果樹園を実らせるように
立派に組み上げられた活版
そしていっぱいに盛り上る文化
しかもむだ花として散ってしまうのではなく
再び解きほぐされて息吹きかえす
小さな不死鳥よ フェニックス ────────── 活字。

太初に道あり ―― はじめに ことば あり
ことばは神と共にあり
と、ヨハネ伝はかく誌シルす
マインツのダーテソベルクが
最初の活版印刷を発明した時に
先づ刷ったものは聖書だったという。
ああ 近代印刷の技術の泉は
まぶしいような神の言葉と共に湧いたのだ。
活字を植える人よ

印刷するひとよ
此の古い事実に深い意味をさぐれ。
 『ルラ』(ローラー)が一回転して紙がその上を通れば
そこには取り返しのつかぬ歴史が生れることを
汚ないインキのしみを
人類の文化になすりつけることに心せよ
ケ-スにいっぱい詰まっている活字は
輝やく眼マナコで原稿をきびしく査シラべ
ステッキの中に組まれた活字は
やがて世の中へ出てゆくものの倫理を叫ぶ
活字が紙幣サツを刷るに役立たぬことは
いかにうれしい宿命であろう。

ああ活字
可憐な、きよらかな文化の釘
賤イヤしいただの金儲けや
恥知らずの本造りブックメーカーの手から
お前を護ろう
巨人ゴリアテを仆タオした
ダビデの掌の中の小さい石のような
正義の武器 活字を
人々よ いつくしみ育てて
新しい日本の大きい組版の中に
星のように輝やかしくちりばめようではないか

【花筏】 きょうは中秋の名月 されど 迫りくる颱風が心配 トロロアオイが大輪の花をたくさんつけました 月餅と最中がおいしい季節

DSCN7554DSCN7557DSCN7558DSCN7564停滞する秋雨前線、連続して襲来する颱風。どこか妙な昨今の天候。
だからすっかり中秋をわすれていた。それをグーグルに教えられるとはなさけない次第。
吾が空中花壇は、陽ざしが傾くとともに秋桜(コスモス)が咲き、秋の気配が濃くなった。
「トロロアオイ」は、二年年越しの株と、ことし五月初旬に播種した二鉢ともに、あわい黄色の大輪の花をつけはじめた。

ノー学部は昨今はミニトマトをはじめ、実のなる艸木からの収穫が減り、ほとんど「空中庭園」を荒らしまわることが無いが、たまになにかゴソゴソやっていて、早くも「かぼちゃ祭り ハロウィン」の気分らしい。
やつがれは衣食住にほとんど容喙することはないが、南瓜(カボチャ Pumpkin)、甘藷(薩摩芋)、煮た栗だけは苦手とする。だから阿呆な「かぼちゃ祭り」はやめてもらいたいのだが。

目下の関東の空模様では、昨夜も今夜も名月は望むべくもないが、せめて今夜は「月餅」か「最中 もなか」でも愉しみたい気分。

《 菓子の 月餅と 最中モナカ の季節感とは 》
わが国の暦コヨミから季節感が乏しくなって久しいものがある。
そもそもほとんどのひとが、祝日(特に国でさだめた、いわいの日)と、祭日(皇室の祭典をおこなう日。神道シントウで死者の霊をまつる日)の違いがわからなくなっている。ましてかつて存在した「旗日」などということばは、ほぼ死語となっている。
また、暦ならぬカレンダーのおおくは、日曜と祝日が平日とは色違いで表示されるくらいで、その日がいったいなんの祝いの日で、どうして休日になっているのかわからないままのことが多い。

DSCN7232[1] DSCN7282[1] DSCN7264[1]ところで「月餅」と「最中」である。
わが国ではいまや、ほぼ四季を問わずみかけるお菓子であるが、中国の習慣では月餅も最中モナカも、もともとは秋の、それも秋のさなか、仲秋(中国では中秋)のお菓子である。

気候の苛烈な中国にあっては、餡アンを主体として水分の多いこれらのお菓子は、夏ならすぐに腐敗するし、冬ならまもなく凍結してしまう。
これがおだやかな気候のわが国にもたらされ、さまざまに工夫され、また保冷 ・ 保温設備(かてて加えて防腐剤)の普及などもあって、四季を問わずに食せる、わが国にすっかり同化したお菓子となった。

「最中」とはおもしろいことばである。
すなわち漢の字の最中は、「最中 さなか ・ さいちゅう ・ もなか」とさまざまによまれる(和訓)。
お菓子の「最中モナカ」は、餅米の粉を蒸し、それをうすくのばして、餡をつつみこんで、月餅と同様に、陰暦の初秋、仲秋、晩秋の 「秋の最中サナカ、仲秋 ・ 中秋」 につくられ、食されていたものである。

この最中の由来には若干異論もあろうが、本来は望月 ≒ 満月を模して丸い形をしていた。それがいまや各地の名産品となって、形もさまざまに変化し、パンダ最中、くまモン最中までが登場するようになって、日持ちのよい、わが国のお菓子となった。
したがっていまや、秋よりは食感がおとるものの、真夏や真冬に「月餅 ・ 最中」を食そうと、それはそれで良いのではないかとおもっている。

《 中国の中秋節は09月中・下旬に設定され、三連休となって秋の行楽のときとなる 》
古来の暦法にならい、中国では翌年の祝日を、12月中旬になってから法定祝日として政府が発表するそうである。これではカレンダー製作業者などはおおごとかとおもえるが、
「秦の始皇帝のころから、暦はそうなっています」
と、平然としているのが中国人の奇妙さでもある。したがって09月中旬の現在、来2017年の法定祝日はまだ発表されず、あくまで予想である。
【 リンク : 中国の祝日 2016年カレンダー/2017年 予想

いまの中国の法定の祝日には、元旦 ・ 春節 ・ 清明節 ・ 労働節 ・ 端午節 ・ 中秋節 ・ 国慶節などがあり、元旦(新暦の正月)は01日、春節(旧暦の正月)と、国慶節(1949年中華人民共和国建国記念日。10月01日)は07日、それ以外の祝日は03連休となる。
ちなみにことしの中国の中秋節は09月15日で、休日は15日[木]-17日[土]の三連休、実際には日曜日を加えて四連休となっている。

ノー学部がはじめて中国を訪れた2011年は、たまたまこの「中秋節」の休日にぶつかって、各地で観光バスでやってくる観光客の大混雑に巻きこまれておおいに閉口した。
中国南宋のみやこ、杭州(臨安)を訪れた日がまさにその中秋節で、日中は残暑と人混みですっかり疲労した。

 
夕暮れの西湖1 西湖の中秋の月【 参照 : 十五夜のお月さま―― 月に叢雲ムラクモ、花に風といいますね。月餅と最中

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 16】 長崎のアルビオン型手引き印刷機が復旧 長崎活版さるく 思案橋横丁ぢどりや三昧

長崎バーナー

1030963 1030946 10309502-1-49043[1]{Viva la 活版 ばってん 長崎}は、近代機械産業発祥の地、それも140年余の歴史を刻んだ活版印刷にはじまる印刷産業の中核地・長崎県印刷会館を主会場として開催された。
そのため、地元長崎の印刷人だけでなく、ひろく全国から長崎に結集した活版印刷実践者・研究者とのよき交流の場となった。
ばってん長崎_表 プリント全国各地から長崎を訪問されたかたは50余名。それに地元長崎の印刷人と、テレビや新聞報道によって長崎県印刷会館に来場された一般のお客さまはおおきをかぞえた。
このイベントに際し、会場設営・会期三日間・会場撤収と、十数名のアダナ・プレス倶楽部会員と、新宿私塾修了生の皆さんにご協力いただいた。
また創立十周年を期して特別参加された「タイポグラフィ学会」の皆さんにも全面的なご協力をいただいた。

あれから四ヶ月あまりの時間が経過したが、訪崎された皆さんは、長崎で収集したあまりに膨大な資料や写真の整理が追いつかないとされるかたもおられ、いまだにうれしい悲鳴も聞こえるいまである。
それは主催者 : 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部もまったく同様で、あまりにも多くの知見と資料にかこまれ、またあらたに誕生した長崎の活版印刷術を守もろうとされるおおきな人の輪、皆さんとの交換に追われる日々をすごしている。
──────────
《 Viva la 活版 ばってん 長崎 主会場 : 出島町 と 宿泊所 : 新地周辺 》
主会場は長崎市出島町の「長崎県印刷工業組合 長崎県印刷会館」であったので、県外から参加されたみなさんは、そこから徒歩でもせいぜい5-6分、会場至近の「新地地区」のホテル五ヵ所にそれぞれ滞在されていた。
この出島と新地は、現在では埋め立てがすすんで境界が明確ではないが、下掲図でみると、右側の扇形の築島が「出島」であり、左方の矩形の築島が「新地」であった。
4-1-49076 長崎諸役所絵図8 上図) 江戸時代に描かれた長崎港出島周辺の絵図。半円形の樹木が茂った場所は、長崎奉行所西役所(現長崎県庁)。
その前に半円状にひろがる民家は、出島御用をつとめた町人らが居住した江戸町。幕末の「海軍伝習所」は長崎奉行所西役所に置かれた施設であった。

長崎県印刷工業組合・印刷会館は、出島左先端部に設けられた「牛小屋・豚小屋」の位置と、「新地」の中間部のあたりにあたる。いまはすっかり埋め立てられているが、市電は印刷会館の直前を出島海側跡(出島通り)に添うように、湾曲しながら走行している。
長崎諸役所絵図 出島拡大左側 長崎諸役所絵図 出島拡大右側中図) 『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184-0288)より「出嶋 総坪数三千九百六十九坪」。
出島右先端部は「通詞部屋  七間五間」である。出島内の建物は多くが二階建てであったが、オランダ通詞の詰め所であった「通詞部屋」も二階建てであった可能性がたかい。
そのほかにも町役人 乙名 オトナ 詰め所が二箇所あり、また番人・料理人や身のまわりの世話をする日本人が出島の内部にも相当数、日中のみ滞在し、一部は居住もしていた。
料理人のなかには退役ののち、長崎町内で「南蛮料理」をひろめたものもいたとされる(長崎史談会顧問:宮川雅一氏談)。

長崎諸役所絵図 出島拡大左側 長崎諸役所絵図 出島拡大右側長崎諸役所絵図9上図) 『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184-0288)より「新地荷蔵 幷 御米蔵 総坪数三千八百六十坪」。出島左方海中の矩形の敷地。
中国からの船舶(唐船)が入港すると、小型舟艇で海岸の倉庫に積荷を搬入していたが、元禄11年(1698)の大火で焼失した。
そのため「俵物」などの貿易用荷物の搬入と運び出しの便を図り、荷物を火災や盗難から守り、また密貿易を防ぐために、元禄15年(1702)に海岸を埋め立てて築島をつくり、そこにたくさんの蔵所(倉庫)を建て、「新地荷蔵」と称した。

幕末から明治初期になると唐人屋敷(最盛時九千三百六十三坪)が廃止されたので、唐人屋敷に在住していた中国人の一部がこの新地に移り住み、今では中国料理店や中国産の土産物店が軒を並べ、長崎独特の中国人街を形成している。

《 5月5日[木]設営日 数名が前夜最終便で長崎入り。早朝から展示設営開始 》
イベント前日、「先乗り班」として長崎新地地区のホテルに分宿していた会員数名が、続続と長崎県印刷工業組合・印刷会館の三階主会場に集結した。
ほとんどのかたはサラマ・プレス倶楽部・活版カレッジ修了生であったが、創立10周年で特別参加されたタイポグラフィ学会の皆さんの姿も多かった。また心づよい援軍として長崎県印刷工業組合の会員も参加されていた。

<Viva la 活版 ばってん 長崎>で使用した小型活版印刷機は、もっぱら整備と注油・清拭をかねて、長崎県印刷工業組合所蔵の機械をもちいた。
その設置、試運転、展示物の配置などは、三階:横島さん・石田さん・小酒井さん・古谷さん・平野さん・真田さん・須田さん・加久本さんらのベテラン会員の手で順調に展開された。

1-7-50052-06.jpg一階特設会場には、タイポグラフィ学会の展示と、懇話室 兼 休憩室がもうけられ、その設営は春田さん・小酒井さんを中心に、福岡から駆けつけられた大庭さんと、三階の展示設営が目処がついたかたから順次応援にまわっていた。

通常のサラマ・プレス倶楽部の活版礼讃イベント<Viva la 活版  シリーズ>では、いつも予算過少のせいもあって、懸垂幕などの「大型告知」は経験不足であった。ところが長崎ではおもいきって大型懸垂幕に挑戦した。
製作・設置担当はタイポグラフィ学会会員・活版カレッジ修了:日吉洋人さん。

初出・明治24年『印刷雑誌』掲載「東京築地活版製造所広告」、また大冊の活字見本帳『活版見本』(東京築地活版製造所 明治36年)に「電気版見本」として収録され、サラマ・プレス倶楽部のアイキャッチ、アイドルおじさんとして創部以来もちられてきた「活版おじさん」を主要モチーフに、防水対策も完ぺきに施されたおおきな懸垂幕が、展示会場に工場直送で既に到着していた。

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《 設営に難航した懸垂幕、実稼動に失敗したアルビオン型手引き印刷機 》
さて、会場設営もほぼ目処がついたころ、いよいよ懸垂幕の設置にとりかかった。
担当者は長崎ははじめてだったが、完ぺきな設置予定図まで準備していた、
ところが、長崎県印刷工業組合・印刷会館ではこれまでこうした懸垂幕を設置したことがないそうで、当然吊り下げ装置や金具が無い!
垂れ幕02DSCN7247 DSCN7253
あれこれ工夫し、また急遽スマホで吊り下げ方法を検索したところ、
「懸垂幕で検索すると、前半は製作業者の広告がつづき、後半は体験者のブログで、『甘く見るな! 懸垂幕の吊り下げ法』がどっさりです」
との報告でびっくり仰天。
ちょうど小雨も降ってきたし、ひと晩ゆっくり考えれば何とかなるさ・・・・・・(やつがれ)、というなんとも無責任な発言で、懸垂幕設置作業は翌朝に持ちこしとあいなった。

この懸垂幕と、後述する「チンパン Tympan」の張り替えは、ともに日吉さんの担当。バスターミナル・ホテルに宿泊していた日吉さんは、この夜は悶々として一睡もできなかったようである。
翌朝は会館(定時:09-17時)に無理をお願いして、早朝八時から作業にとりかかり、来場者をお迎えした定刻十時には、何ごともなかったように?! 設営が完了していた。
1030963
松尾愛撮01 resizeまた<Viva la 活版 ばってん 長崎>では、長崎県印刷工業組合所蔵のアルビオン型手引き印刷機二台を収蔵庫から取りだし、そのうち部品欠損の少ない「仮称 一号機」の麻布製の「チンパン Tympan」だけを張り替えて実稼動させる予定であった。
この仮称一号機は、大阪・片田鉄工所、明治30―40年ころの製造とみられ、百年余も以前の印刷機であったが、収蔵庫から引き出して注油・清拭してから点検したところ、上部のカムに破損があり、応急修理では稼動しないことが判明した。

《 熱意が通じました! イベントから四ヶ月後「本木昌造の墓参・法要」で復元修復報告 》
その後訪崎され、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場にみえられたタイポグラフィ学会会員:板倉雅宣氏が詳細に点検され、やはりカムの破損が原因とわかり、著作『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂)と、カムの復元のために木型を製作して組合に送り、復元稼動を支援することになった。

ここで長崎県印刷工業組合もついにアルビオン型手引き印刷機(一号機)の本格修復を決断されて、福岡市の(有)文林堂/山田善之氏の助力を得て再稼働に成功したのは<Viva la 活版 ばってん 長崎>から四ヶ月後の九月になってからだった。

アルビオン型手引き印刷機の構造アルビオン・プレスの構造 挿入図
『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 2011年09月15日 朗文堂 p.73)
20160914163336_00002 20160914163336_00001福岡で活版印刷業を営まれている有限会社文林堂/山田善之氏ご夫妻
『かたりべ文庫 職人の手仕事 Vol.17 〈活版印刷〉』
(ゼネラルアサヒかたりべ文庫 2015年4月1日)

手引き印刷機のチンパン「長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会」によって、本木昌造の墓参・法要がなされた九月二日、印刷会館で「一号機」が実際に稼動し、印刷がなされた。「チンパン Tympan」は会期前日、ホテルの一室で徹夜作業で張り替えにあたった日吉さんのものが、そのままもちいられていた。
(有)文林堂/山田善之氏は、レバーハンドルを引きながらながら曰く、
「あぁ、このチンパン、うまく張り替えてあったよ」

20160914163731_00001ついで本木昌造の菩提寺「大光寺」で、「アルビオン型手引き印刷機が復旧」したことの報告とその意義を片塩が解説にあたった。
{文字壹凜:印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機」を修復、本木昌造墓前祭・法要にあわせて稼動披露}

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《 『崎陽長崎 活版さるく』 と 印刷会館閉館五時以降 連夜の さるく と 根拠地 ぢどりや 》
15-4-49694 12-1-49586矢次家旧在地 半田カメラ
会期の中日、2016年05月07日[土]には、参加者40名ほどでマイクロバス二台をチャーターしての「崎陽長崎 活版さるく」が実施された。
その夜参加者は疲れもみせずに、長崎県印刷工業組合のお手をわずらわせた、これも新地角の中国料理の老舗「京華園大ホール」での懇親会に臨まれた。
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その報告は本欄でも、<長崎行き、参加されたかたも、断念されたかたも大集合 Viva la 活版 ばってん 長崎 スライド報告会>でも報告したが、主会場の長崎県印刷工業組合会館は、定時が午前九時から午後五時であった。

ところで、多くの若い造形者の皆さんは、朝に弱く夜にはめっぽうつよい。そのため開場は十時としたが、閉館は印刷会館の規定で夕刻五時厳守となった。

それでなくても西端のまち長崎の日没はおそい。当然会場を五時に出てもホテルにすぐ引きあげるわけはない。ましてサラマ・プレス倶楽部には真田幸文堂と横島大地さんという、グルメ情報ならなんでも任せておけというふたりがいる。
出島町印刷会館から徒歩10分ほどで、繁華街思案橋がある。橋といっても高知の「はりまや橋」と、長崎の「思案橋」は、いまではこれが橋かというほどあっけないものではある。

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長崎ことば「さるく」とは、もともと「うろつきまわる」の意であるとされる。
ところが2006年開催「長崎さるく博‘06」で、主催者の「長崎さるく博‘06推進委員会事務局」が間違えて説明したために、「『さるく』とは『ぶらぶら歩く』という意味である」と説明するメディアが後を絶たない――ウィキペディア とされている。

ここからは格別の説明を加えず、長崎を堪能し「さるく――うろつきまわった」参加者の皆さんをご紹介したい。ただしイベント本番の{崎陽長崎 活版さるく}とはちがい、「さるく」の本拠地となったのは主会場ちかくの思案橋横丁で、(B級)グルメ : 真田幸文堂、横島大地のコンビが、
「ひとの良さそうなお母さんがひとりでやっている店です。ここは良さそうです」
と初日の夜に推薦した、
思案橋横丁「ぢどりの三昧」であった。

10人も入ればいっぱいのこの店に、連日、それもイベント中日には25名ほどで押しかけ、客席はもとより調理場まで占拠し、ついには店外での立ち飲みまではじまる騒ぎとなった。
また最終日には引退しているご主人とともに、お母さんが<Viva la 活版 ばってん 長崎>に参加され、しまいにはサラマ・プレス倶楽部から同店に「感謝状」まで贈呈することになった。
ちどりや

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 《 長崎 さるく の 記録 》
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【ボヘミアン、プラハへゆく】 03 再開プロローグ:語りつくせない古都にして活気溢れるプラハの深層

プラハ[1]

5317183b8e979c2d28ba03fb44bf5b30[1] Kafkasd2[1] DSCN0428 DSCN0430 DSCN0436 DSCN0439チェコの首都プラハは「モザイクのまち」「文明の十字路」「塔と黄金と革命の都市」「建築様式の宝庫」とも評される。わが国の京都と姉妹都市でもあり、まちの規模や歴史の重厚な蓄積には共通点が多い。
このプラハに2014年09月、2016年08月と二度にわたる旅行をこころみた。いずれもモスクワ経由で三泊五日のあわただしい弾丸旅行であった。

《 プラハ城場内 : 黄金の小径 22番 フランツ・カフカ作品執筆地のひとつ 》
やつがれは、いなかの高校生のころ、ユダヤ系プラハのひと、フランツ・カフカの作品にはまったことがある。当時はまさかその生家をたずね、その執筆場所のひとつを訪問し、墓参ができるなどとは考えたこともなかった。

《 アールヌーヴォーの旗手の変貌 Alphonse Mucha アルフォンス・ムハ or ムシャ 》
旅の同行者 : 大石は、いなかの高校生のころにアルフォンス・ムハの絵画に衝撃をうけたという。1989年(平成元)北海道立近代美術館を中心に「没後50年 アール・ヌーヴォーの華 アルフォンス・ムシャ展」が開催され、髙島屋を中心に全国巡回展が催された。福岡の美術館でも開催され、その四半世紀余も前の展覧会図録はいまだに本人の宝物らしい。

20160830172215_00001 20160830172215_00002「Alphonse Mucha」はチェコでうまれ、パリでデビューし、米国で美術教育にたずさわった人物である。わが国ではフランス音で「ミュシャ」とされることが多いが、明2017年に『スラヴ叙事詩』を中心として東京でおおきな展覧会が予定されている。

『スラヴ叙事詩』は、人気画家、アール・ヌーヴォーの旗手として官能的な女性を描いていたムハを想像するとおどろくことになる。この大作はちいさなものでも4メートル四方、おおきなものでは8×6メートルもある巨大な作品である。
パリとアメリカを往復して活躍していたムハが、1908年(明治41)ボストン交響楽団によるスメタナの『わが祖国』をきいてひどく感動し、余生を祖国チェコ国民とプラハ市に捧げるべく無償で描いた20枚の連作である。
ムシャ大作製作中 DSCN0262 DSCN0100 DSCN0101《 兄・造形家:ヨゼフ・チャペック Josef Čapek 弟・作家:カレル・チャペックKarel Čapek 》
さきごろ報告したが、かねて『園芸家12カ月』(カレル・チャペック 小松太郎訳 中公文庫)を読んでいた。
2014年晩夏、三泊五日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいった。
そのとき、画家にして装本家:兄 ヨゼフ・チャペック と、作家・戯曲家:弟 カレル・チャペック の墓をチェコプラハの民族墓地にたずねた。
カレルの墓標は、まさに現代の多段式ロケットの形態そのものであり、ヨゼフの墓はその背後にひっそりと佇んでいた。
891ebad257c3d67fdff8b3805a300815[1]仔細に読むとわかるが、この日本語訳の『園芸家12カ月』の表紙の写真はカレルが本書を執筆した場所とはことなり、結婚して晩年に居住していた場所である。
ヨゼフとカレルの兄弟が居住していた住居は、それぞれ門を構えたおおきな二世帯住宅で、プラハ10区に現存している。
DSCN0027 DSCN0005 DSCN0017 DSCN0018 DSCN0025 上掲写真の向かって右側が弟・カレルの住居、養蜂箱がおかれている左側の玄関が兄・ヨゼフの住居であった。
ふたりはこの建物にともに住んでいた。そしてカレルは結婚後に郊外に住居を求めて移転し、兄・ヨゼフはゲシュタポにとらわれ収容所で歿したが、子孫が現在もここに居住しており、プラハ市10区は、とりあえずカレルの住居跡を購入・管理しているが、まだ一般公開はされていない。

ヨゼフとカレルの共作ともいうべき『山椒魚戦争』がのこされた。同書はどんな名訳を得てもその魅力の半分も伝わらないおもしろい書物である。
今回のプラハ行きは、たまたま国費留学でプラハのカレル大学に留学されていたサラマ・プレス倶楽部会員:博士山崎氏と、プラハ在住10年余という友人:平松さんの支援をいただくことができた。事前のメールの交換で『山椒魚戦争』のチェコ語版のいくつかを購入できた。
近近撮影データとともにご紹介したい。
DSCN9934(25%縮小) DSCN0702(25%縮小) DSCN6316(25%縮小) DSCN6327(25%縮小) DSCN6331『プラハ迷宮の散歩道 ―― 百塔の都をさまよう愉しみ』(沖島博美 ダイヤモンド社)の冒頭ではプラハの魅力をこのようにしるしている。

プラハは奇跡だ、と人は言う。
何百年もの間に多くの戦争が起こった
それでも町は破壊されなかった
中世の町並みがそのまま残った

神聖ローマ帝国の偉大な皇帝カール四世は
プラハが最大の帝都になることをめざした
14世紀、プラハは神聖ローマ帝国一の大都市となった
その栄華がこんにちのプラハの基礎になっている

重厚なゴシック建築の間に輝くアール・ヌーヴォーの館
時代を超えて美しく調和する様ざまな建築様式
この美しい町は奇跡ではない
プラハ市民が命をかけて守ってきたものなのだ

以下はやつがれの備忘録であり、ご紹介予定の項目である。
◎ ムハ関連:ムハ美術館、ホテルパリ、プラハ市民会館、民族墓地、スラヴ叙事詩
◎ チェコの魅力:キュービズム建築、石畳、市電、技術博物館、アドルフ・ロース、ビールと煙草